明恵上人伝記(1) 栂尾明恵上人伝記巻上 (1) 明恵上人は名は高弁、紀伊の有田郡吉原村で生れられた。父は平重国、高倉上皇 の御所を守る武者所勤めていた。母は紀伊の豪族湯浅宗重の娘であった。治承4 年正月に母は病死し、9月に父は戦死したので、上人はわずか8歳にして両親を失 い、伯母の手に養育せられた。初め父は良い子を授かりたいと京都嵐山の法輪寺 に祈り、夢に一人の童子が現れて、「汝の願いをかなえてやろう」と言って、針で耳を 刺されたと見て目がさめた。また母は六角堂の観音に参り、普門品を唱えながら、お 堂の周囲をめぐること、一万遍であったが、やがて夢に金柑(きんかん)をいただいて、 ふところに入れたと見て妊娠し、そして承安3年(1173年)正月8日の午前8時ごろ、 ちょうど日の出の時刻に上人は誕生せられた。 明恵上人伝記(2) 栂尾明恵上人伝記巻上 (2) 上人ご自身が語られるには、「2歳の時、乳母に抱かれて清水寺へ参詣した。その 時に僧侶も俗人も堂内に集まって、ある人はお経を読み、ある人は礼拝していたが、 その声を聞くと、何という分別はなかったものの、心が晴れ晴れして貴く感ぜられた。 その後で地主神社の前で猿楽(さるがく)が行われている所へ、乳母が見物のために つれて行ってくれたが、猿楽は見たいとし思わず、先の堂に行きたいと泣いてせが んだものである。これが心にはっきりと仏法を貴いものと思った最初である。 4歳の時、父が冗談に烏帽子(えぼし)を冠らせて(かぶらせて)、この児は美しい、元服し て成年男子として、御所へ参っておつとめさせたいと言ったのを、自分は聞いて、心 密に(ひそかに) 思うには、法師にこそなりたいと思うのに、なまじっか姿形が美しいた めに、元服させようと言い出されるのだから、片輪者(かたわもの)になって、法師にして もらいたいと考え、ある時縁先から落ちた。他人がこれを見つけて私がしくじって落 ちたものと思って、抱きかかえてくれたので、目的を果さなかった。 そこで其の後、顔を焼いて疵(きず)をつけ醜くなろうと思って、焼け火箸を作ったもの の、その熱気におそろしくなり、まず試しに左の肘から下2寸(約6cm)ほどの所に押 し当てた。しかし、その熱さに泣いて顔には当てずじまいに終った。これが仏法のた めに姿を変えて出家しようと思った最初である。」 7歳の時、養母の夢に、この児(こ)が白い服を着て、西に向かって行ってしまおうとす るので、白い布でこの児を柱に縛りつけたものの、遂に引きちぎって去ったと見た。 この夢の話を養母が高雄の文覚上人(もんがく)にしたところ、上人は「昔、唐の玄奘三 蔵の母の夢に、玄奘が白い服を着て西を指して飛び去るのを見たと玄奘三蔵伝に あるのを見たが、世にも珍しいことである」と言われて、その子を自分の弟子にしたい と願い、かつ約束した。 9歳の時、8月に親類と別れて、早くも高雄に登せられ、文覚上人の弟子となった。 明恵上人伝記(2) 何というわけもないが故郷を離れがたく、泣く泣く馬にゆられて行く途中で、鳴滝川 を渡る時、馬が立ち停って(たちどまって)水を飲もうとするのに、手綱を少し引いて先を 急がせると、馬は歩みながら水を飲んでいるのを見て思うには、「畜生でも乗ってい る人の心を知って、立ち停らずに(たちどまらずに)行こうと決心するらしい。自分は両親 の遺言によって寺に入るのに、ひととき親類と別れるのが心残りであるとして泣くのは、 悪いことである。はるかに馬にも劣ったわい」と自覚したので、今までの故郷恋しとい う心を断ち切って、一途に(いちずに)立派な僧侶になって、親も衆生(すべての人類) も導こうと心の中に誓ったのであった。 其の夜、坊に到着して寝て見た夢に、亡くなった乳母がその身を数々に切られ、そ の苦痛甚だしいと見えた。この女の平素罪深かった生前も思い合わされて特に気の 毒で、ますます立派な僧侶になって、彼らの後生(来世)も助けようと決心された。 特に早く父母を亡くしたことを、明けても暮れても思い忘れることなく、犬や烏を見て さえも、もしかして私の父や母ではあるまいかと思って、親しみを感じ、また尊敬の念 も持ったものである。ある時、不用意に犬の仔を跨いだ(またいだ)ことがあったが、ある いは父や母ではあるまいかと思って、早速引き返してその犬の仔を拝んだものであ る。それ故に自然に遊び笑うようなことがあっても、「父母が亡者の行くべき三途(さん ず)で苦難にあっておられるのではあるまいか、これをお助けしないで、何が愉快だと て笑い戯れられよう。もしまた中有(ちゅうう、死後、次の生を受けるまでの期間)におら れて、自分を見る機会があったなら、さぞや死別を歎かずかって気ままに喜び楽し み、戯れていると見られるだろう」と思えば恥ずかしく、かりそめにも楽しみ笑うことは なかった。そして今はただ一筋に法師となって修業・勤行して立派な僧侶となりたい と決心した。そこで華厳宗の五教章や悉雲(しったん)等を勉強し、賢如房の律師尊印 は当代の大学者であったから、自分の理解できぬ疑問点をお尋ね申したが、結局 わからずじまいに終ったことも少なくなかった。この疑問をなんとかして明らかにしよう と思って寝たところが、その夜の夢に一人のインド憎が来て、私に対面してこの疑問 明恵上人伝記(2) を一つ一つ解明し、聞いていてもなるほどと合点しうれしくてしかたがなかった。しば らくしてこのインド僧が言うには「お前は前世で釈迦如来と因縁を結ぶこと500年で あった。将来もまた500年身近な者として親しみ近づき申し上げるがよい」と言われ たと見て、やがて夢がさめた。翌日この夢の話を尊印に申し上げたところ、そのような 深い意味は、自分には分らなかったと言われたので、不思議に思ったことである。 明恵上人伝記(3) 栂尾明恵上人伝記巻上 (3) 12歳の時に、「偽りのない正しい判別を求めて、人の践み(ふみ)行うべき正しいみち を聞かなければ、無駄に時間を費すだけで仏道の修得には役にも立たず大損であ ろう。ましてまた死期は速くやってきて、とても今後将来を期待すべきでない。急いで 正邪を判別する力をつけるべく、もっと山深い所に閉じ籠もって心静かに修行した いものだ」と思って、はやく高雄山を出る覚悟をした。そこで薬師堂に参詣してお暇 (いとま)申し上げ、また鎮守の八幡神社の神様にもご挨拶して朝早く出発しようと思っ て寝たが、その夜に見た夢で、早くも高雄山を出発して三日坂(みっかざか)まで下りて きたが、路(みち)に大蛇が横たわって鎌首を持ちあげて向かって来る。更にまた八幡 大菩薩の御使(おんつかい)であるとして、4寸か5寸もある大きな蜂が飛んで来て言う には、「お前はこの高雄山から出て行ってはならない、もし出発を強行すれば前途 に難儀が待ちうけていよう、未だ高雄を去るべき時機ではないから旅立ちしてはなら ぬ」と言われたと思って夢から覚めた。この夢の暗示には何か深い意味があるに違 いないと気づいたので、この度の下山は中止してしまった。 明恵上人伝記(4) 栂尾明恵上人伝記巻上 (4) 13歳の時決心したのは、今は最早13歳になった、人の命数は定まりのないもので、 死期は年齢とは無関係で全く予知できないのに、この年齢まで生きられたのが不思 議であり、さぞや私の死期は近づいたであろう。昔の人も道に志し学問するには火 を打ち出すように油断するなと教えているが、のんびりと時間を無駄に過ごしてはな らないと、自分自身に鞭打って、昼夜の区別なく修行が後戻りせぬように仏道の勉 強に努力した。すなわち、ある時は後ろの山の木の洞穴(ほらあな)に木の葉が落ち積 った上にいつも行っては坐禅し、ある時はこんな身体があるからこそ、逆にいくらか の労苦が生れるので、早く迷いの世界を脱出して死んでしまった方がよいと思って、 犬狼(いぬおおかみ)や狐にでも食われてしまえと思い、墓地へ行って寝ていたが、夜 更けて多数の犬が来て傍(そば)の死人を食い争う音はするが、自分に対しては臭い を何度も何度も嗅いではみたものの、食い付きもしないまま帰ってしまった。その恐 ろしかったことは言いようもないが、これで反省してみると、どんなに命を捨てようと体 をなげ出しても、前世から定まった業報でなければ死ねないのだと知り、この一件か ら後は、死のうという考えは思い止まった。成長してから後に、この事を思い出してみ ると、あの時あのまま死んでいたならば、まだまだ不十分で残念なことであったろう。 つまらないことを決心したものだと、ご自分で笑っておられた。 明恵上人伝記(5) 栂尾明恵上人伝記巻上 (5) 13歳から19歳まで、金剛界の初行の時期になるまでは、毎日3回も高雄の金堂に 入って7年間怠ることもなかった。そしてこの間、志し願うところは、世俗一般の富貴 を捨てて名誉と利欲の鎖にからみ縛られることなく、必ず文殊菩薩のお力で真実の 悟りを得て、仏陀のお考えの根本を究め、仏法の深いお諭を悟りたいと思った。しか し世間には正しい指導者は一向におられず、どなたにお尋ね申したらよかろうか。 諸仏菩薩方のお力添えを頂戴するのでなければ、とてもできないことであると思って、 ひたすら仏のお力をお頼み申しあげた。 このような次第であったから、いつもいろいろと不思議なききめを感得したことがあっ た。 ある夜の夢で、大きな立派な巌(いわ)の上に美しい灌頂堂(かんじょうどう)を立てて師匠 を灌頂の受け手として、灌頂をお授け申し上げたと夢見た。しかし当時は少しも真言 師(密教の加持祈祷僧)になろうとは思ってもおらず、祈願の本義でもないと思われ た。おおよそ真言師といっても、学生(がくしょう)といっても、本当にさとるということなし にただ博学というのでは、少しもうらやましくも思われず、ひたすら仏がこの世に生れ 給うた真意を悟り、仏法によって本当に仏となれる性質をもらい得て、教えどおりに 努力し修行したいとばかり念願していた。 ある時の夢の中で、弘法大師が納涼房の長押(なげし)を枕に臥せっておられたが、 その二つのお眼は水晶のように枕許に(まくらもとに)置かれてあった。その水晶玉のよ うなお眼を頂戴して衣の袖に包み入れて持ったと夢見たのである。 文治4年(戊申、1188)16歳で剃髪出家して、東大寺の戒壇院で具足戒(僧として 守るべき戒、この戒を持すれば徳はおのずから具足するという)を上人はお受けに なった。 明恵上人伝記(6) 栂尾明恵上人伝記巻上 (6) 19歳の時、夢の中にインド憎が現れて、「明日お前に『理趣経』を教授しよう」と言っ たと夢見て覚めた。さてその翌日、日中の修法の時に、壇の上に音がして『理趣経』 を遥かに遠方から、物を隔てて響くような調子で、読み授けられた。初めの段にある 「金剛手、若有聞此清浄出生句」から始まって、経文の終りまでその声は大空に響く ようで、遠近の分別は聞きわけられなかった。堂から出て後に、これを記述しようとし たが、経文の読み始めのところが不確実で、何とも書き得なかったから、筆を置いて 祈るには、もしこれが御仏のお指図であるならば、今一度お教示下さいと請い、さて 目をふさげば、また虚空に声がして、以前のようにはっきりと読んでくれられた。 またある時「不動の法」をおさめられたところが、道場は俄に(にわかに)華苑(はなぞの)と なって、いろいろの宝華(ほうけ)が咲き満ちて広がり、常とは違った好い(よい)香が堂 内に満か満ちたのである。またほんとうにいろいろな宝網・宝鈴・宝幢・幡蓋でもって 道場を飾った。上人はこのような道場の中におられて、この不動の法を執り行われた ところ、宝鈴は右旋り(みぎまわり)に上人の身辺を回り、また30人余のインド憎が行列 して、身には法服を着、手に香炉を持ち、讃歌で褒めたたえた。このような霊妙なめ でたいしるしは数え切れないほどであるが、上人はただ糞(くそ)や芥(あくた)を見るよう に、これを好ましいと思いもせず、心打たれることもなくただ鳶や烏が飛び舞う程度 にしか考えておられなかった。「お前たちもこのような様子には関係しないで、たとえ 見ても、私同様、気にも止めないように思え」とお教えになった。 ある時修法の最中に、側に (そばに) かしずいて雑用を務めていた者を召し出され、 「手洗いの桶に虫が落ちたと思われる、すぐ水から取り上げて逃がしてやれ」と仰せ られたので、行って見ると蜂が落ち込んで死にかかっていたから、急いで拾い上げ て逃がしてやった。 また坐禅の途中でお供の者を呼んで言いつけられるには、「後の竹薮の中で小鳥 明恵上人伝記(6) が何者にか蹴られている様子である、行って処置してこい」と仰せられたので、急い で行って見ると、小さな鷹が雀を蹴っていたので、追い払ってやった。このような実 例はいくらもいくらもあった。 ある時、夜も更けて、炉ばたで眠っておられるような姿で坐っておられたところ、急に、 「ああ、かわいそうに。発見が遅れたために早くも喰い付いてしまったか。燈をつけて 急いで行き追っ払え」と言われたので上人の前にいた僧が「どういたしましたか」とお 尋ね申し上げると「大湯屋の軒の雀の巣に蛇が入ったのだ」と仰せられた。まっ暗闇 の中でどうしてご覧になられたのかと疑問に思いながらも、大急ぎで蝋燭をつけて現 場に行って見ると、はやくも鎧毛(よろいげ)がはえ出して羽も形を付け始めた雀の子を、 大蛇(おおくちなわ)が呑みかけて体を鳥の巣に纏い(まとい)つけていたので、急いで引 き放してやった。「こんな暗闇の夜にそれもずっと遠方からご覧になるのだから、 我々が陰で悪い行為をしておれば、必ずや怪(け)しからぬことをと見ておられるであ ろう」と話し合って、お弟子や同じ屋根の下に泊った人々は、上人の後姿をも恐れ、 自分の行為を恥じて、暗い部屋の中でも自由奔放(ほんぽう)には振舞わなかった。 このようなことがあったので「上人のことを仏や菩薩が衆生を救うために仮りに現れた のだと、上人のおられぬ所で広く噂を申し上げていた」と、上人にかしずいていた者 たちが上人に申し上げたところが、上人は大変涙をこぼしておられたが、やがて「あ あ、つまらぬ者どもの言葉だなあ。それならば高弁のように禅定を愛好し、仏の御教 示どおりに我が身を修行してみなさい。今すぐにでもお前たちもこれくらいのことは できるようになるのだぞ。自分はこのようになりたいなどとは少しも思わなかったが、 仏法の掟(おきて)どおりに修行して年月がたったから、知らず知らずの間に自然に身 に具わった(そなわった)のである。このようなことは重大なことではない、お前たちが水 が欲しくなれば水を汲んで飲み、火にあたりたいと思えば火の傍らで暖をとるのと同 じ自然の行為であるぞ」と仰せられた。 明恵上人伝記(7) 栂尾明恵上人伝記巻上 (7) 建久4年(1193)華厳宗を興して盛んにするために、朝廷から経典の講義・論義の ために出講せよとのお召しのが沙汰があった。ところが学閥派閥の争いが表面化し、 朝廷の庇護応援を求めようとしたので、上人はこのようなことでは少しも釈尊の本旨 にも合わず、仏法弘流の役にも立つまいと思われて、このような俗欲の強い僧共か ら離れて、かねての希望どおりに、文殊菩薩を信頼申し上げて仏の道に入りたいと 決心され、高雄の山を出て、僧侶たちとも別れ、紀伊の国へ向かわれた。この時の 上人が詠まれた歌の意味は、 高雄の山寺は僧侶の臭みがぷんぷんするのでとてもいっしょに生活する気に はなれない、心清くおられるなら、便所掃除をしていてもかまわない。 というのであった。 紀伊の国湯浅の栖原村白上の峰に一軒の粗末な小屋を立てて、ここに入られた。 その峰には大磐石が左右並びそば立っていて、小さな小川の水が流れ落ちている。 その高くそば立つ大岩の上に二間の小屋を造られ、前方には西の海に面して遥か に淡路島が見え、天気もよく波浪も立たず、限りなく遠望がきくことである。北にはま た谷があって、鼓谷と呼ばれており、谷風が轟々(ごうごう)と響いて、その昔は小屋に まで聞こえてくる。また小屋の縁側をつき抜けて一本の老松(ろうしょう)がはえているが、 その老松の下に坐禅のための縄で造った椅子を立てておく。また西南の隅の2段ほ ど下がった所に一軒の粗末な小屋を建てた。これは志を同じくして入門した僧侶の ためのものである。上人は、ここで坐禅・行法に、食事も寝ることも忘れて怠ることなく 修業され、ある時は仏像に向かって、釈尊在世の往時を恋しぐ思い、ある時は経典 に接して釈尊直接の説法の昔をうらやましく思われた。 上人がある時仰せられるには、「あの優波毱多(うばきくた)の内心の悟りは、宇宙の真 理を見ることはできたけれども、100年も釈尊の時代から遅れての人であったから、 明恵上人伝記(7) やはり肉身としての釈尊にはお目にかかれなかった恨みがある。ましてわたくしは、 釈尊が没くなって(なくなって)から数百年も経過し、更に釈尊誕生の地から遠く離れて 末法の時代に生まれて、この世におわした釈尊のほんとうのお姿も拝し奉ったことも なく、その釈尊の法・義・辞・弁に障りのない立派な説法も聞いたこともなく、また悪を 離れて修業を積んで悟りへと向かう道に対しても聞く耳を持たず、インド各地の釈尊 の遺跡を参拝しに行こうという考えも中止してしまった。何という悲しいことか。我々 は春が来れば春で、ただ花にうつつをぬかし、秋になれば果実が実ったと喜んで集 め、朝から暮れまで心に思うのは、財・色・法に対する欲だけで、これらの欲にすっ かり埋もれて、どのように人として努力すべきかということをも知らず、ただ食べては 寝るだけで、他人の欠点や失敗を心にかけたり口にしたりして、笑い戯れ、他人に へつらって己の心を枉げる(まげる)ことには際限がない。年月は次から次と変化はし ても、この理屈条理を改めないで、どこまでも仏の正しい道を笑って、ほしいままに 俗な生活を満喫している。これから考えると、我々の第八識、すなわち個人存在の 主体に属する雑染種の中には、ただ生死煩悩の中の衣食等の増上業の種だけを 包み持っているのであって、だからその感じるところは世俗の五欲―眼・耳・鼻・舌・ 身の五官による感覚的欲望―だけを貪るばかりで、煩悩を離れた新薫(しんくん)の 種子は持ち合わさないのである、なさけなく恥ずかしいことである。前世は愚かであ ったために、釈尊の三十二相を具え(そなえ)られたご立派な姿を拝見する機会にもあ えず、完全な悟りという収穫を得る時にもあえず、これらの恨みを思えば胸も張り裂 けるようである。何の喜びがあって人間として世俗的な楽しみを自慢するのか。如来 が入寂最後のご訓誡の中で、『汝ら僧侶よ、自分らの頭をなでて、既に世俗的な装 飾や好みを捨てて不正色の衣を着用する事とせよ』と言われ、馬鳴論師が、このお 言葉を解釈されて、『一番上にある頭から真っ先に飾りを去り、悪をくじけとの説法で あるから、各自よくよくその理由を考えなさい』と教えられた。あるいはまた『自ら量り しれないたくさんな悟りを求める心が立派に実を結ぶことを現実に示して、これはす 明恵上人伝記(7) べて身心の修行をも軽んずるところより起り、貴高を求める煩悩心を遠ざけ離れたが ために得られたのだ』と説かれた。汝ら僧侶は、もしおごり高ぶった心が起ったなら ば、自らの頭をなでてその剃髪の理由、更には不正色の袈裟を着けている理由を 思えば、貴高をおごり高ぶろうという心も自然となくなるであろう、とお述べになった。 それを髪を剃り落してもますますその坊主頭をきらきらさせたがったり、法衣の袈裟 を身に着けてもますますそれをきらびやかにすることを自慢する。なんという愚かなこ とだ。仏道のために身を目だたぬように姿を変えるのであれば、眼も鼻も耳も壊して (つぶして)切り取り、手足も切り取ってしまうべきだが、それでは一般の者の辛抱できる ことではないから、まず一番目だつ頭や顔の髪や髭を剃り落して、その仏道への志 の確乎(かっこ)としていることをはっきりせよと示されたのである。それだのに既に薬を 服用しながら病気になっている始末で、聖人の立派な術もどうすることもできなくなっ ている。このような一切の人々が、仏法の教えに暗く、釈迦如来のほんとうのみ心に 違反していると考えてくる時は、たとえ髪を剃っていてもその効験(こうけん)なく、袈裟 法衣を着用していてもその効き目がない。わたくしは、このように思う気持ちに辛抱し きれなくなって、ますます姿を変えて俗世間から離れ、仏道への志を確立して釈迦 如来の足跡を踏みながらその後につづきたいと思った。しかし眼を壊しては (つぶし ては)お経を見ることができなくなるし、鼻を削いでは鼻水が落ちてお経を汚すし、手 が無くなれば印を結ぶに不自由であろう。耳は切り取っても音が聞こえなくなるもの ではない、いわゆる五根―眼・耳・鼻・舌・身の一つを欠いたようにはなるが、片輪 者にならなくては、やはり人から受ける尊敬のために胡麻化され(ごまかされ)妖されて (ばかされて)、心も弱い男であるから世間的な出世もしてしまうであろう。だからひととお りでない方便によるのでなければ、必ずや大きな損をするであろう。耳を切れば、片 倫者として人からも目を懸けて可愛がられることもなく、自らも片瑞の身を遠慮してし ゃしゃり出ることもなくなって、自然と本旨にかなって都合がよかろうと思い、堅く決心 し、仏眼如来の尊像の前で、心に念じながら経文を唱えるついでに、自分で剃刀を 明恵上人伝記(7) 持って右の耳を切った。ほとばしる血が本尊及び仏具や経典等にかかり、その血痕 は今もって本居(ほんきょ) に残っている」。上人は以上のように仰せられ、そしてその 夜の夢に、一人のインド憎が来て上人に向かい、「わたくしは過去・現在・未来の仏 たちの未だ仏果を得ない菩薩の地位にあって修行し、頭も目も手足も仏法のために 惜しまない行為をした旨を記録する者である」と言って、筆を持って一冊の書物の奥 に注記したと夢みたのであった。 明恵上人伝記(8) 栂尾明恵上人伝記巻上 (8) またその翌日に『華厳経』第26(60経華厳)を開披すると、如来は他化自在天王宮・ 摩尼宝蔵殿の上におられて、無量不可思議の大菩薩方と一緒に十地品を説法し給 わったことの叙述が、何とも崇高で有難いことと思われ、あまりにうらやましいので、こ の経文を読み続けていると、私もまたその衆徒の一員として参加しているような気持 ちになって、悲しみの涙をふきふき、耳の痛いのもこらえて、泣き泣き大声をあげて、 「大方広仏華厳経十地品第22の1」『その時、世尊みずからは他化自在天王宮の摩 尼宝殿に居られて大菩薩衆の皆々とごいっしょであったが、最高真理を悟り給うた 境地に在して(おわして)、修行が後退しない(より始まって)その菩薩たちのお名前は、 金剛蔵菩薩・宝蔵菩薩・蓮華蔵菩薩(ないし)如来蔵菩薩.仏徳蔵菩薩・解脱月(が つ)菩薩で、菩提薩埵すなわち未来の仏陀の候補者たちが何とも有難い説法を、金 剛蔵菩薩を上座にすえて云々』とお経を読み続けると、釈尊が人々を導き給う集会 の荘厳な様子がしのばれ、釈尊御在世中の説法の慈悲あふれたご尊顔を直接拝 見したような気持ちがした。そこで喜びの涙を拭いながら、本尊を見守り奉って、元 気をだして読経を続けると、眼の前が急に光り輝いて、眼をあげて上を見れば、空に かかって文殊菩薩が全身金色に輝き、金色の獅子に乗ってお姿を示された。その ご身長は三尺余り、光り輝くことまぶしいばかりで、ややしばらくして見えなくなった。 そこでますます志を励まし一心不乱に釈尊の御心(みこころ)を悟りたいと祈った。上人 は大変にやさしくおとなしくかつ正直な方であったから、心やさしく正直な者は私釈 迦の姿を見ることであろうという文章も思い知らされたことであった。 またある夜の夢の中で、上人は大海原の中に52ほどの石が、一丈(約3m)余りの距 離をおいて沖の方へとつぎつぎに並んで置かれてあるを見て、この石は自分が踏み 渡るべき石だと思って、そこへ行くと、信位の石の所には多くの僧俗の人々がいるが、 信の石を踏み越えて初住の石に達してからは人影もない。そこで自分一人で初住 明恵上人伝記(8) の石の所に行き、更に飛び越して第二住の石に踏み渡り、このように飛び越え飛び 越え十住の石を踏み越えて、またも初行の石に達し、一つひとつ踏み越え続けて第 十地・等覚・妙覚の石という所まで到達して、その妙覚の石の上から見渡すと、大海 原は際限もなく、無量無辺の有情の世界は隠れる所なく見渡せて、今まで来た方も ずっと遠方になってしまったので、ここのあることを他人は知らない、今度は帰って報 告しようと思って、またも前回とは逆に踏み渡り踏み渡って、信位の石の所にまでた どりついて、皆の人々にこのことを話ししたと夢で見られた。 また西域の唐僧窺基慈恩大師らの伝記で、各地の仏教遺跡をしらべ、または天竺 求法に出た高僧の巡礼の跡をしらべて筆をとり、仮名で注記して集めたものを『金文 玉軸集』と名づけた。その端に誰であろうとも、将来志有る人にこれを贈与すると約 束して一首の歌を書付けられた。 他人が見て咲い (わらい) ものにするのも気にかけず誠意をもって記した機密の 参考資料であるぞ。 この粗末な庵(いおり)で数ヶ月を送られたが、温かな食事もなく、また塩や味噌の類も ずっと手に入らず、人としての生理的条件に制約せられている身体であるから、地 水火風の違和 (いわ) から急激な下痢となり、皆が治療を薬をとすすめても、上人は 「交通不便の所、無理をするな。生ある者は必ず死す、驚くことはない。もし仏道修 行のために病死しても、仏道を修めたいという志を来世に持ち継ぐのだ。それは今 日が終れば明日が続くように、何の無理もなく、修道の志を来世にうけ継ごう」と言わ れた。ここで上人はある夜に夢の中で一人のインド僧が、白い器に熱湯のような物を 一杯入れて、これを飲みなさいと言って与えてくれたので、心の中では薊菜(あざみ) の汁かなと思いながら服用したが、夢から覚めてもその昧がまだ口の中に残ってい た。たちまちにして気分がよくなってその病気も間もなく全快されたのであった。 明恵上人伝記(9) 栂尾明恵上人伝記巻上 (9) 白上の庵に多少めんどうな事などがあって、そこに栖みたくなくなったので、どこか 見晴しの心に叶った所があったら、しばらくの間住居としたいと思い、お互いによく 知りあった在俗の人を道案内にして、淡路の国に海を渡って出かけ、島の様子を見 回ったがここと心に叶った所もなかった。そこへ文覚上人の病気が重いという連絡が あったので、今一度お目にかかりたいと、またも高雄へ帰られた。ところが上人の病 気も多少軽くなった時に、文覚人が言われるには、「自分に深く考えるところがある から、まげて聞いてもらいたい。この寺の近辺には空き地も多いから、草庵を建てて お住みなさい。この山の奥の岩屋の向うに大きな巌(いわ)がある、その巌の様子が面 白いから、その上に庵を作って差し上げよう。それでもご不満ならば、梅尾に庵を造 って差し上げよう。あそこ程よい静かな住居はありますまい。場所も面白く、仏の教え が永く留まる所柄(ところがら)と思われるから、運慶法師が造った釈迦の尊像も付けて 差し上げましょう」などと、いろいろに親切に引きとめられた。またその場で唐で描か れた十六羅漢の画像を取り寄せて明恵人に贈りなどして、丁寧に言われるには、 「自分の病気は多少よくなったようではあるが、気分はいまひとつはっきりしない。老 人であるから何時(いつ)果てるかもしれないのに、どうして私を見捨てられるのか」な どと諭されたので、しばらくの間と思って住み留まられたところが、皆の僧侶がすべて 希望したので辞退するわけにもゆかず、『探玄記(たんげんき)』を講説するようになった。 その夜の夢で、春日大明神がこの華厳経が弘まることをお喜びになって、坊の縁側 に立たれて舞われるのを見られたという。 またそのころに春日の御社(みやしろ)で御神楽(おかぐら)があった際に、年少の巫女(み こ)に神が憑かれて(つかれて)、「この華厳宗が高雄で講ぜられているが、その奥深い お教えを講述される点では、昔に少しも劣らない。嬉しい限りだ、誰それも行って聞 くがよい。また明恵上人は自分の長男、解脱上人は自分の次男と思う」とお告げが 明恵上人伝記(9) あったと、奈良から来た学僧が話したと皆に発表された。その外上人の御事(おんこ と)については、多くのお告げがあったが、あまりに内容が多いので省略する。 この明恵上人は、外は儒教の根本を把握し、内においては悟りの正智を把握されて、 邪宗・正宗(せいしゅう)の区別、迷いと悟りの区別についても、少しの疑いもなく理解し ておられ、日常いつも語って言われるには、「一本の筆、一つの墨、または栗や柿の 一つひとつについて、その理(ことわり)、その義を説明すれば、まず最初に普通一般 の人は、我と法によって栗だ柿だと承知した理由から、孔子・老子の教えでは万物 生成(せいせい)の根本となる精気(せいき)は道理の上から生れ、万物すべて天地から 生れるとし、混沌(こんとん)の気が五行の運行によって転変して大象(だいしょう、大きな 姿)をその中に含むといい、インド六派哲学の一つ勝論では、万物を実・徳・業・有・ 同異・和合の六種の多元論を展開しており、これらはほんとうに上手な解説ではある が、諸法の中に出離解脱の性ある大有性(だいうしょう)をたてて能有(のうう、はたらき)と し、数論外道の二十五諦(宇宙万有の開展する状況順序を説明する根本原理)も、 神我(しんが、精神的本体)・自性(じしょう、物質的本体)永遠不変の能生(のうしょう)を計 度(けいど)して、すでに悟った我が二十五諦の第一である冥性(みょうしょう)と会する(か いする)位を真解脱処(しょ)とした理由にしても、また釈尊の教えの中でまず自分の華 厳宗の五教(五教十宗の教判)によると、小乗教の人空法有、大乗始教の縁生即空、 大乗終教の二空中道、大乗頓教の黙理(もくり)・円教の事事相即の五にしても、また 般若の真空(すべての法は空である)、法相の説く唯識無境(識のみが真実に存在 する)、法華の説く平等一乗(一切衆生に仏性があると説く)、涅槃の常住仏性(仏の 真実の身体は常に存在する)にしても、その一つひとつの宗派における一々の迷い と悟りの違いや、それぞれの教宗における栗・柿一つ一つの実体をいかように述べ ているかという問題を示そうなら、わたくしの一生をかけても述べきれず、日本中の 紙を全部使用しても書き尽くせまい」と言われた。 明恵上人伝記(10) 栂尾明恵上人伝記巻上 (10) ある時、使者にたのんでしばらくの間住んで居心地もよかった紀州の苅磨 (かるま)と いう島へ手紙を出された。概略の内容は、次のようなものであった。 その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便も得られないままに、 ご挨拶もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲 界に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕し形を持つという二色(にしき)を具え(そな え)、六根の一つである眼根、六識の一つである眼識のゆかりがあり、八事倶生 の姿であります。五感によって認識されるとは智の働きでありますから悟らない 事柄はなく、智が働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはあ りません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理 そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生の世界というのと何らの相 違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切 の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は『華厳経』に説く 仏の十身中の最も大切な国土身に当っており、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)のお 体の一部であります。六相まったく一つとなって、障りなき法門を語りますならば、 島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生心・業報身・声聞身・菩薩身・ 如来身・法身・智身・虚空身であります。島そのものが仏の十身の体(てい)であり ますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍で帝釈天にある宝網一杯となり、 はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に 『華厳経』の十仏の悟りによって島の理ということを考えますならば、毘盧遮那 如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求めら れましょう。このように申しますだけでも涙が出て、昔お目にかかりました折から はずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い 出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕っておりながらも、お目にかかる 明恵上人伝記(10) 時がないままに過ぎて残念でございます。またそこにありました桜の大木が思 い出されてなつかしく慕わしく、お手紙など差し上げてごご機嫌如何(いかが)で しょうかと、申したく思うときもありますが、口をきかない桜の大木にあてて手紙を 差し出せば、狂気かなどといわれることを気にして、道理に合わぬ俗世間の習 慣に同調しますばかりに、心には思いながら表面には出さずにおりましたが、し かしながら結局は気違い沙汰と思うような人は友達にしないことにいたしましょう。 自在海師(じざいかいし)の伴をして烏に渡って大海原に住みたい、海雲比丘を友 人として心からのびのびと遊べますならば、何の不足がありましょうか。島へ参 って思い通りに仏道を修行いたしましてより、立派な人以上に、ほんとうにおも しろい心の通いあう遊びの友とは、貴方であると心に深くきめ申しております。 ずっと永い間、世の中を見つめてこられましたから、昔の真似(まね)で土を掘っ て、その穴に話をして満足した者があったなあと思われるでありましょう。それら は古いことでありまして、近ごろではそのようなことは世の中で普通には行われ ておりませんので、もしそのような振舞をすれば、心の奥に何か大きな望み事 があるように思われましょう。しかし出家僧数名が仲良く戒律を守って、同一の 華厳の法界の中で生活しております。隣にいる友人の心を大切にしないようで は、一切の有性を仏の光の中に収めとって守ろうとする心が無いようなものであ りますので、このように心の中を書状に記して差し上げることは罪とはいわれま すまい。取り急ぎしたためました。またお手紙を差し上げたいと心に決めており ます。 以上謹しんで申し上げます 某月日 高弁しるす 島殿へ と書かれていた。使いの者が「このお手紙をいったいどなたに差し上げたらよろしい 明恵上人伝記(10) でしょうか」と申上げたところ、「ただその苅磨(かるま)島に着いたらば、梅尾(とがのお) の明恵房の所からの手紙でございますと、大声で叫んでそこにうっちゃって置いて 帰ればよい」と申された。 明恵上人伝記(11) 栂尾明恵上人伝記巻上 (11) 建久9年(1198)秋の終りに、高尾にちょっとした騒動があって、不愉快であるという ので、以前に住み捨てられた紀伊白上の峰に帰られたが、ここもまだ人里が近く、木 伐る(きこる)斧の音もやかましく、その上に3∼4町(約327∼436m)下は大きな道で うるさいことがあるからと、石垣山の奥、人里からは30町(約3.3km)余りも距たった (へだたった)所に、筏立(いかだち)という場所がある。ここは趣きのある神聖な地で、上人 の舅(おじ)の湯浅兵衛尉(ひょうえのじょう)宗光の領地でもあったので、そこに簡単な小 屋を建てて、上人を迎えられた。上人はここにお移りになられて坐禅の修行に専念 し、すべてのことをなげ棄てて努力された。そしてその間に『唯心観行式』一巻を著 作された。また『随意別願の釈』も同様に集められ、更に『解脱門義』『信種義』を著 作された。 建仁元年(1201)2月のころ、『如心偈の釈』及び『唯心義』二巻を作られた。 紀伊国保田(やすだ)の庄にある、須佐の明神の使いの者だという人が、夢の中に来 て、自分の住所が穢れていることを歎き、またい一尊の法を何としても授けていただ きたいと、その志の深いことを述べた。しかしながら、何の返答もせずただ心の中に だけ気にかけておられたところが、ある夜(よ)、人に乗りうつってこの趣旨を伝えられ た。その内容は前に見た夢と同一であったので、不思議なことよと両者を合わせ考 え、自分はとうていそれだけの人物ではないからと、授法の件は辞退されたが、相手 は泣き泣き強く依頼したので、阿弥陀の印と真言だけをお授けになったところ、大変 喜び楽しんで帰った。このように不可思議なものが上人を信仰し、その徳を慕い、是 非お会いしたい旨を申し出る者が余りに多く、その数もわからない程であり、その上、 石垣山はこの地の地頭職に違法な事件が起こったので、安田の星尾という所に移り 住まれる事になった。 建仁年中に春日大明神のお告げがしばしばあった。余りに多いので、これは別に註 明恵上人伝記(11) 記する。 ある時仰せられるには、「末世の者たちは仏教の数えの本当の意味を忘れて、ただ 単に法師が貴い(たっとい)のは衣が美しく光るから、飛行ができるから、穀類をたべな いから、衣裳(いしょう)をつけないからであるとか、異様のふるまいに感心したり、また は学者とか、密教の加持祈祷者とかを好んで、本当に心の底から貴ぶべき仏の心 の本質を悟ろうとはしないのである。上代においてインドにあっても左様であったの だから、まして末世、殊に僻地日本であってみれば、当然でもあり驚くにはあたらな い」。 上人がいつも仰せせられるには、「光る物が貴いというのであれば、螢や玉虫が貴 いではないか。飛ぶ物が貴いというのであれば、鳶や烏が貴いではないか。食事も せず着物も着ないのが貴いのであれば、穴で冬眠している蛇や、おなが虫が裸で 腹ばっているのも貴いであろう。学者が貴いとならば、上手に詩を作り、文章をたくさ ん暗誦(あんしょう)した白楽天や小野篁(おののたかむら)などこそ貴ぶべきであろう。しか し詩賦(しふ)を上手に作っても、冥界の王である閻魔の痛棒(つうぼう)から免れる(まぬ がれる)わけにはゆかない。だから能い(よい)僧といわれても無駄なことであって、特別 に尊敬するには当らない。ただ仏のこの世に生れられた目的を知るように努力すべ きである。字も読めず学問は無くとも、仏が生れられた目的を知れば、その人を、梵 天や帝釈天もかならず拝まれるであろう」と仰せられた。 いったいこの上人は、蟻(あり)や螻(けら)のような小虫から、犬、鳥(からす)、百姓に至る まで、皆それぞれ仏となり得る性質を持って、極めて奥深い仏法を修行している者 であるから、軽んじてはならないといって、犬の寝そべっている横でも、馬や牛の前 を通られる時でも、それ相当の人に向かい合われたように、挨拶され、腰をまげなど して通られた。物を肩にかつぐ朸(おうご)などでも、これは人の肩にかつぐものである、 笠は首にのせる道具であるといわれて、またいで越えられることはなかった。囲いの 土塀で仕切られていても、人の寝ている方向へは足を伸ばされることはなく、貴いと 明恵上人伝記(11) 賎しいと、逆境と順境との区別もなく、悪人にすらも人に知られない徳がある、まして 一つの善を行った人であれば、なおさらである。善い事を聞けば喜ばれ、他人が皆 これを聞かなかったのを残念に思われた。そして集会や仏法を講ぜられた折には、 善い事を皆に話して語り弘められた。また三宝(仏・法・僧)や堂塔伽藍に対しての 礼儀・身・口・意の三業が清く穢れのないことはもちろんでありました。諸堂の前で馬 や輿(こし)に乗られることがなく、粗末な路傍の堂に入られる時でも、ちょうど生きた如 来の肉身のお前に出られる時もこのようであろうかと思われるうやうやしい態度であ った。道を通行される時でも、堂塔の旧い(ふるい)跡、または正しく仏像が安置されて いた跡と知られる所は、足で踏まれたことはなかった。また袈裟を体に懸けないでは、 一時といえどもお経を手に持たれることはなかった。経・律・論と、経典類も順序を正 して重ねられ、乱雑には置かれなかった。まして机など高い物の上でなければ、経 典はご覧にならなかった。 ある時上人が話されるには、「私にはっきり言っておきたいことが一つある。私は死 後極楽にありたいとは言わない、ただこの世で己の(おのれの)分に従ってそれを生か しきって、あるべき姿でありたいと願うのである。釈尊の教えの中にも修行すべきよう に修行し、挙動(きょどう)すべきように挙動せよと説いてある。この世はどうでもよい、死 後だけは極楽往生と説かれた経典はないのである。釈尊も、戒律を破って仏を見て も、何の効用もないと述べておられる。だからこそ『あるべきやうは(それぞれの分に 応じてのありようは)』という7字を守るべきである。これを守るのを善とする。人が悪い ことをするのは、わざわざ悪いことをするのである。間違って悪いことをするのではな い。悪いことをする者でも、善いことをするとは思わないが、分に応じてのありかたに 違反して無理に枉げて(まげて)これをするのである。この7字の教えを心懸けて守るな らば、世の中に悪いことといわれるものはあるはずがない」。 文覚上人はいつも人に会って仰せられるには、「釈尊の在世に会った舎利弗や目 蓮等は、修行のお蔭で幸運を得た聖者であるから、三昧解脱戒定慧の徳は、それ 明恵上人伝記(11) は当然すばらしいものがあったであろうが、心持が仏法の上にあってすがすがしく尊 く温順(おんじゅん)であるという点では、明恵房の気だて以上には、とうていおありであ ったとは思われない」。 明恵上人伝記(12) 栂尾明恵上人伝記巻上 (12) 明恵上人のお手紙に、「宛先は未だよくはわかっていないが、ある人は、湯浅権守 にあてた手紙であるという。」 釈迦如来がこの世におわしました時に生れ遇わなかったことほど残念なことは、外に ありませぬ。私も釈尊と同時代にあるか、または釈尊のお弟子迦葉・舎利弟・目連ら のおいでになった世に生れていたならば、さぞかし生死の苦の種を滅ぼし、代りに 仏道の立派な種を植えて、人として生れた思い出としましたろうに、釈迦如来が亡く なった後、多くの立派なお弟子たちも皆亡くなられた世の中に生れて、仏法の中に おいて一(いつ)の位を得もせずに、空しく死ぬほど残念なことはありませぬ。昔、仏教 の数えが盛んに弘まっていた時代には、出家しない在家の人でも皆、ある者は四菩 提の位をとって、近く悟りに達する見込みの者もあり、ある者は見道(けんどう)といって、 見所断の(けんしょだんの)煩悩を断ち切り、悟りへの智慧を起こして、生死輪廻する三 界(欲界・色界・無色界)の四諦の道理に迷って起こす煩悩をことごとく断って、預流 果(よるか)すなわち聖者としての流れに踏み入った者としての果報といった位を授か る者もあり、あるいは欲界の六つの煩悩を滅ぼし終って、一来果 (いちらいか)という位 をとる者もある。以上は在家の人でも得られる位である。この位になったならば、欲界 の九種の煩悩を皆断ち切って、不還果(ふげんか)という位をとって、その次に色界・無 色界の煩悩をすべて断ち切って阿羅漢果(あらかんか)に達し、あるいは更に修行して 菩薩のそれぞれの位に進む者もある。ひとたび人として人間界に生れたならば、こ のような振舞をしてこそ立派であろう。煩悩や悪業に纏い(まとい)つかれて、無駄に年 老いて死ぬのは、これという事件事故にも合わないで、のんびりと年老いて死んでも、 これという思い出があるわけでもありません。皆前世の業因の力で、この世を平安無 事に死ねても、それだからといってやがて進んで仏になれるわけでもありませぬ。た だ穏やかに食事をして、着物をいろいろ着て、年をとって死ぬだけであれば、犬や 明恵上人伝記(12) 烏(からす)の中でもそのようなものは多いであろう。今の世で平穏無事といっても、そ れが真実ではない。ただ悟りもせずに、浅はかなきたない前世の行いのむくい、骨と 肉からなる肉体の、流れる水の止まることのないように、刹那々々(せつなせつな)に移 動して、生れてきた以上は死が近いのでありますから、年月が重なって一から二へ、 二から三へと歳を重ねさえすれば成長したといって、大変に喜ぶけれども、悟りの深 い聖者は、さまざまの因縁によって生じた現象は絶えず消滅して無常であるといっ て、これを大きな苦しみとした。されば年若く盛んであっても自慢すべきことではあり ませぬ。例えば遠い道を行く時、日も正午になれば日中一番日射しの盛んな時なの に、もう日も盛りを過ぎたというのと同じである。正午の時刻は間もなく過ぎ、日暮の 時刻が近くなってきますからで、日盛りであるからといって頼りきるわけにはゆきませ ぬ。若い年齢がいつまでも続くわけではなく、刻々と衰えてゆき、最後には死んでゆ くのである。刹那々々(せつなせつな)に生れては死んでゆく苦しみは、天上界の果報も、 下界の果報も皆同一である。すべて因縁によって生じた現象の諸法の中には、濃い 味はないのに一般の人は愚かにも好んで味を求める。三界すなわち欲界・色界・無 色界の中に真実の楽しみはない。それを一般の人は迷って苦しみの中でかってに 楽しみを探している。喩えれば火の中に入って涼しさを求めたり、苦い (にがい)食物 の中から甘味を探すようなもので、どれも不可能で求められないのと同じであろう。 一般の人々は遠い昔の無始(むし)からこの方(かた)、生れ落ちた所ごとに夢の中の真 正ならぬかりそめの身を大切にして、幻のような楽しみを求めるけれども、生死流転 の海の中には本来楽しみはないのだから、くたびれもうけに終って遂に苦しみ通し、 憂いの中にだけ沈んで安らかなことがありませぬ。だから前世のむくいをいやがらず に受けるというのでなければ、ほんとうの心の平安を得られないのである。釈尊はこ のことを悲しんで、諸行無常である、すべてを穢れたものとして厭い (いとい)離れよと お勧めになりました。『法華経』にいっているではないか。「世間の物は皆確実堅固 なものではない、水の泡や火の粉のようなものであるから、お前たち皆は早くこだわ 明恵上人伝記(12) らずに棄て(すて)去る心を持て」と。この文の大意は、この水の泡のように不確実な世 間で楽しみを求めてはならない、すべてを穢れとして棄て(すて)去れというのでありま す。世の中が無常ということは単にこの人間が受ける応報だけではない。四静慮(しじ ょうりょ)・四無色界(しむしきかい)に生れた諸天もすべて皆諸行無常の苦しみ悲しみをの がれることはできず、有頂天なる世界の最上位の八万劫なる無限の時間の果報でも、 念々消滅の苦しみからのがれることはない。一人で部屋の床の上に眠って千万のた くさんの苦楽を夢には見るが、夢の中のことは皆現実の前には無いのと同じで、一 切諸法の真理に暗い無明の中に深く眠って、変り移る万物の変化の四相を夢に見 ても、夢の中の苦楽の境界はどれもすべて真実ではない。このような因果応報を受 けたのであるから、すべて愛着を持つことはないはずだが、一般の人は永遠の昔の 生死からずっと、実体もない煩悩業苦の中で、自我に執着して、無駄に一時の仮り の身なる自分を大切にし、露の命を守ることにつとめている。地獄や餓鬼・畜生はあ きれた果報ではあるが、自分の果報を惜しむという点では同じことである。釈迦如来 がわざわざこの世に出現せられて、あるがままに道理を教えられて、生死の迷いから 抜け出せと勧告して下さった。跡形もない縁という相続の仮りの法に執着してはなら ぬ。ここはただ苦しみの多い所、ここにおる限りは苦しみ患い(わずらい)は無くならな い、この苦の世界を捨て離れるがよいと教えて下さった。このような前世の報いを受 けたのは悲しいことではあるが、幸いにして我々は無明という煩悩の殻から抜け出し てはいないとはいえ、釈尊の御教えが弘まっている時代に生れ合わせて、最後には 生死の苦しみから抜け出し、この上ない楽しみが得られる期待があることを知った。 これを大きな悦びとして喜ぶべきである。また生死の苦しみは、自分が受ける前世か らの報いではあるが、無明の闇に酔いしれて、この因果の報いがつまらぬ苦しみで あることを悟らなかったので、父のごとくやさしく菩提を得たまえる釈尊がお生れにな って親切に教えて下さった。その教えのとおりに自分の果報は執着せず厭う (いとう) べきである。愚かな者は悟るがよい。諸行は無常でうつろいやすく、有為は皆苦しみ 明恵上人伝記(12) であるという理屈は、釈尊の御教えでなくとも、どうして悟らないでおられようか。花開 けば後には必ず散り、果実がなればやがて落下する。盛んな者もやがて衰え、生命 あるものはいつかは死ぬということなどは無常の実例である。また打ったり縛ったり殺 害したりする不愉快なことは、すべて苦しみであるとどうして気付かずにおられようか と思われるが、事実は、一般の人は一分程の覚りもできないのである。すなわち単に 種子薫習(くんじゅう)して、かってに誤れる境界を妄りに(みだりに)思いはかって、その心 の境界境地で、誤れる虚妄(こもう)としての識(しき)が動き移るのを一般の人の分別と かわきまえとか名付けたのである。これはちょうど酒に酔った時の酔っ払いの心のよ うなもので、ほんとうの悟りではない。だから諸法の実理は思いはかることがないので ある。無余の位に入れば、声聞乗と縁覚乗が聖者でも、変易(へんやく)生死の微細な 苦しみを知らないで、増上慢という罪におちる。まして一般の人は、釈迦如来の教え の真実を知ることはむつかしいであろう。また多くの外道の論師の中にも教えや法 (のり)はあり、それぞれの分に応じて常・無常などの道理は説いているものの、それも 仏法の教える実理を極限までおしつめておらずに、無想天(むそうてん)をもって本当 の解脱処(しょ)としたり、あるいは教える真理を立てて永久不変の体としている。我ら の本当の師匠である釈尊が説かれる諸行無常の教えの正しい理論は、三界におけ る法はすべて無常で、一法(いっぽう)として常住なものはない。またすべてが真実でな いから、一法(いっぽう)として苦しみでないものはない。涅槃は悟りの世界である。もし 人がこれを覚ることができれば、すなわち永遠不変の真実の姿そのものとなり得て、 もはや後退はしない。あの外道論宗の中で、冥性になっても、後にまた一般人となっ てしまうと説くのとは違うのである。このような正しい見解は、仏法以外からはどうして 生れてこようか。だからこの諸行無常の道理だけを聞いても、無量劫といわれる、無 限に長い時間の間の思い出とするがよい。昔大王があって自分の体に千の穴を掘 って、その穴に油をいっぱい入れて火をつけ、婆羅門を祭って、この諸行無常の道 理を聞かれたという。仏教でも次のように説いている。人が100歳まで生きても消滅 明恵上人伝記(12) の法を悟り得ないのであれば、一日生きてこの法を悟り得た方が、はるかにまさって いると。朽木(くちき)のようにぼんやりして生きるよりも、悟るところ深く一日を生きる方 が比較にならぬほどよいのである。既に釈尊の御教えによって、さまざまの因縁によ って生じた現象は皆苦しみであると知ったならば、早くこれを捨て去る決心をすべき である。我々は無始からずっと生死の輪廻を繰り返してきた間、自分の身を大切にし、 惜しんで離れず、無駄に苦しみや患い(わずらい)の中に沈み、かってに楽しみを求め る。例えば敵を我が家で養っていながら、いつも敵に悩まされているような矛盾した ことだ。早く生死の果報をきっぱりと思いあきらめて、仏の位を求め頼るべきである。 生死の果報を捨てなければ、生れ変り死に変りして幾千万年の間苦しみが続いて 多かろう。仏の本当の恩恵とは、ただこの果報を捨てさせて、完全な悟りの境地の楽 しみを与えて下さる点にある。三界流転の中にあって、もろびとの願いのままに、そ れ相応に長生きさせ官位をお与えになっても、それはただ人がお願いすることだか ら、仮りに慰め与えて、満足させ、最後には悟りをひらいて仏、つまり悟りを得た者に するために、しばらくの間は与えて下さるが、それを最後のご利益として、そのままで 中止されることはないのである。最後には必ず有為生死の境から離れさせ、自分と 同じ悟りの無上の楽しみを与えようとされるのである。だから現世の事柄では前世で した善意の業の報いが決定しているので、仏菩薩のお力でもどうしようもないこともあ るが、一度でも仏をご縁として信心を起して、御仏の名号でも心中に祈れば、そのご 利益として、必ず有為生死の無常な世の中で滅び朽ちはてることはないのである。 例えば食物を口に入れるならば、それが米一粒・栗柿の一個でも、腹の中を通って 糞(くそ)となって出てくるようなものである。仏のところで作る功徳ご利益は、小さなも のでも大きなものでも必ず有為煩悩の腹を通過して、最後には生死を離れて悟りに 達するのである。名声や利欲をむさぼって自分の身のためを計る行為でも、最後に は悟りの原因となるのである。だから仏菩薩のご利益でこの世での願い事を満足さ せても、それでそのまま終るのではない。例えば幼い赤坊が(あかんぼうが)智慧もなく 明恵上人伝記(12) 土の塊で(かたまりで)遊びたがれば、その両親は慈悲の心が強いから、土の塊が(かた まりが)宝物でないことは知りながら、赤坊の(あかんぼうの)心を満足させるために、しばら く土の塊を(かたまりを)与えて子供の心を満足させ、後に大人びてきてはじめて本当の 金銀などの宝物を与えるようなもので、終りまで土団子で遊ばせてそれで止めてしま うことはないのである。ただひたむきに、諸法の本当の因果は仏だけがご承知で、 我々があれこれ思いを廻らすべきことではないと信じて、自分の心に道理を失うこと なく、幾千万世を経ても必ず無理な利益は得られるものではないことを承知すべき である。また頻婆娑羅王は(びんばしゃらおうは)、仏を深く祈られたので、七重(ななえ)の 獄室(ごくしつ)から逃れられなかったが、しかし如来の光明に照らされて不還果(ふげん か)という悟りに達する位を得たのである。普通に人が考えるのは、如来の神力ならば、 どうして七重の獄舎を破って、あの王を救い出して下さらないのかと、不思議に思う であろうが、しかし諸仏の慈悲は消えることはないけれども、地獄・餓鬼・畜生という 悪業によって生れる三つの世界の報いが充ち満ちており、諸法の因果の道理という ものは、釈迦の初めて作り出されたものでもなく、仏がどんなに慈悲深くおいでであ っても、諸法の真実なる本性を変化するわけにはゆかないのである。仏ご自身の位 でさえも、すべて量りしれぬ多くの功徳の賜物による報いである。因果応報の道理を 破って無理にそのようになさるのでもない。ただすべての人々のすがり奉るところとし て、一般大衆のために助力する増上縁となって、皆に苦しみを無くさせ楽をお与え になるのである。頻婆娑羅王が七重の獄室から出られなかったのは、因縁よって出 られなかったのである。そこで獄室からは出なかったものの、仏のお力で断ちり難い 欲界の煩悩を完全に断って、脱出することのむつかしい欲界を脱出して、登ることの むつかしい聖の位に登ることができたのである。そうだからといって仏の位に思いの ままにならないことがあるのではない。一般の人々が現象世界の分別の前の苦楽の 境地は、皆善悪の煩悩を伴った識の種子(しゅうじ)が現に働いているから、事と理の 二つは対立し隔って、仮りの存在と実体あるものとの違いもなくならず、それは病気 明恵上人伝記(12) の際に橘の皮を煎じて飲めば病気によっては全快することもあるが、経を読誦し仏 を礼拝しても病気がなおらないようなものである。皆、無始からずっとうそいつわりの 妄執が深くて、真理と疎通せず正智を遠ざかったために、すぐれた志向を起さなけ れば、とても真理は身に合わないのである。たとえば夢の中で悪鬼の姿を見て恐ろ しいと思うのに、傍らの人がこれは夢であると承知していて、本人に悪鬼ではないか ら恐れる必要はないと言ってくれても、この眠っている人の恐怖心は少しもなおらな い。ただ自分の夢の中で、悪鬼が退散したと見れば、その恐怖心はおさまるのであ る。傍らの人が真実をいくら教えても睡れる(ねむれる)と覚めているとの二人の状態が 違うから、忠告にも耳をかさないのである。真実と虚妄とではその本質が違っている から、悪鬼に対する恐怖心はなおらずに、夢の中のことではあっても、悪鬼は実体 でないのに依然として恐怖心は深い。悪鬼が逃げ去ったのも実体ではないが、一難 が去ったという喜びがある。二つ種類の恐怖心という心だけが連続して起って、他の 心が入る余裕がないので、このようなことになるのである。習慣的に善根を修めた人 がすぐれた意欲を起して、お経を誦え(となえ)仏を祈ると、目の前の災いや障害が取 り除かれて、怨みを持った仇敵(きゅうてき)でさえも降伏させることがあるのは、この人 の心の力が道理と融け合い、自ずから生む善因の作用で、仏のすぐれた緑の力を 感じ、速やかな利益があるのである。このこともこのようになるべき道理が正しく現れ た結果である。すべてありとあらゆる事物には道理というものがある。それは大変微 細なもので、簡単に知るというわけにはゆかない。この道理というものは、仏が作られ たものでもなく、天・人・修羅などが作ったものでもない。仏は、この道理が善悪の因 果となることを悟られて、その事実を一般の人々に教示される賢い方である。多くの 仏如来は一般の人々の苦しめる姿をご覧になって、衆生に利益を与えるてだてをな さるのに暇がない。人は大変愚かで、急に病気などが発った時に、病を苦しみと思 って、自分が苦集(くじゅう)の中に埋まっていることを知らない。例えば犬が立派な食 物を取ろうとせずに屎(くそ)を食べようとする時、別の犬が来てその屎(くそ)を取って 明恵上人伝記(12) 食べさせないのを苦と思い、屎(くそ)を食べられれば楽と思い、自分の因果応報、前 世の報いのなさけなく、心の人に劣っていることは苦しみと思わないのと同類である。 これはその心が劣っていて、自分が苦集(くじゅう)の中に埋まっていることを知らない のである。諸々の(もろもろの)仏如来が一般の人々を一つの機縁(たより)として、大いな る慈悲を示されるのは、必ずしも病気などをして苦しむのを哀れに思われるのでは ない。絶えず消滅して無常な迷いの世界にある業因によって受ける報いから脱出せ ず、不安定で、愚昧(ぐまいな)なのを哀れに思われるのである。だから煩悩を断つ定 性(じょうしょう)声聞(じょうしょうしょうもん)と定性縁覚(じょうしょうえんがく)の聖者では、無余涅槃 (むよねはん)という完全な境地に入って、永く凡夫としての幸せ者とはなれるが、大衆 の深い教えからいえば、変易生死(へんやくしょうじ)の輪廻を超えた世界には及ばない。 だから釈迦如来の慈悲でも救うことはできないで、必ず永劫ともいえる無限の時間を かけて修行完了の時に、仏の教えを授かって無上至極の位に導かれるのである。ま して生死流転の深い苦しみの中に留まることなく流されて、そこから脱出できない一 般の人々においてはなおさらである。仮りに病気もしないでこの上なく尊い国王の位 に登って最高の果報者となっても、仏はあの人はもう充分だと楽な気特でくつろがれ ることはない。結局は因果応報の一齣(ひとこま)にすぎず、最後は因縁の報いを待つ のである。だから仏が、自分の名を呼んで祈念すれば救いに行こうとおっしゃるのは、 河の岸辺の渡し守が、船賃を取って人を渡すようなのとは違う。ただ釈尊は不思議 な特質を持っておられるので、そのお名前を祈念しただけで力を得て、増上縁とな って来迎し、衆生をお助けになるのである。例えば飯 (めし) が、人に向かってさあご 飯をおたべ、貴方の命を延ばしてあげようというようなもので、飯が自分が食べられる のを承知で、人が食べてくれればそれが能作因となって人の寿命を延ばせる、だか ら私をたべなさいというようなものだ。多くの仏たちの大変に奥深い真理は、ただ仏 だけがご承知である。仏を仰いで信仰すべきである。中途半端に小才(こさい)を働か せて、あれこれ自分かってに判断してはならない。如来は父母で一般衆生は子であ 明恵上人伝記(12) る。六道四生に輪廻して苦しんでも、如来と衆生とは親と子との関係にあるということ には変りはない。世間一般の親子は、生れ変るにつれて変化してゆく。六つの迷界 にある一般のものは、どれも三種の性徳としての仏性を持っているから、皆仏の子で ある。だから如来ご自身で自分は父であり、お前は子であると約束された。我々はこ の聖人であり慈悲ある父のお顔も拝見せずに、末世悪世に生れてしまったのは、前 世で充分な信心を持たなかったためである。ただ一途に仏を信仰したならば、必ず 諸仏に近づきになれ、再び退くことのない悟りの境という益を得ることができる。生れ 変り死に変って絶えることのない迷いの世界で苦しむのも、生死の対象に深く執着 するから、その世界で輪廻するのだ。仏の世界を強く願えば必ず仏の智慧を持てる ようになる。ただ生死の迷界は悪い願いで造られ、涅槃という絶対界は善い願いで 造られるのである。だから華厳経に「清らかで正しい欲を起こして、最高の教えを目 標とし求めるがよい」とある。清らかで正しい欲とは、仏の道を目標とする願いであり、 仏の道を得んとの欲が深ければ、その人は必ず仏道を得て悟りの世界に入るので ある。だから充分にこの大きな欲心を起し、これに頼って生き変り死に変り、この大願 を持ち続け、仏の本心を悟り極めて、今度は一切の人々を導くがよい。この道理を 知ることができれば、何か心淋しいものがあるか、何もないはずで、清浄の欲と欲の 字を付けても、その欲は世間一般の名誉欲などではない。仏の悟りの世界をうらや む欲であるから、仏の教えに遇わねば生死流転の迷界からの脱出はできないゆえ、 しばらくの間大欲に頼って、仏の教えを聞いて悟るならば、今までそれに頼った大 切な大欲も、皆跡形もなく消え去るのである。この跡形もなくなるのを清浄という。だ から清浄の欲と名を付けたのである。今自分は忙しいので筆にまかせて思うままをあ らあら記述したのである。 恐惶(きょうこう)謹言 建仁2年10月18日 高弁 紀州在田郡糸野の山中において 明恵上人伝記(13) 栂尾明恵上人伝記巻上 (13) 元久2年(1205)の春ごろに、前々からの希望であったインドへの旅行を決心された。 一緒に行く従者は5∼6人で、皆志を一つにして早速その準備にかかる。また一方 では唐の都の長安城(今の西安)から中インドの王舎城に行き着くまでの道程(みちの り)の里数も、先人たちの古記録を探して記入された。その地図は今も上人のお経袋 の中にある。そうしている間に評議決定して、旅仕度の衣裳までも用意にかかったの に、にわかに上人が重病に罹られた(かかられた)。その病気の様子が徒事(ただごと)で はなく、食事は普通で日常の生活も別に支障はない。ただインド旅行の話をすると その時だけ身体に苦痛をおぼえる。ある時は左の脇腹が切り裂かれるように、ある時 は、今度は右脇腹が痛い。心に深く旅行を決意すれば、両側の腹から背に刺し通っ た痛みが走って気絶してしまう。これは只事(ただごと)ではない。以前にインド旅行を 決心した時には、春日大明神の数多くのお告げがあったので中止した。いったんは 中止したといっても、渡天竺の志はやめるわけにゆかず、今また決意したのであるが、 数日間病み苦しんで身も心も疲れきったので、遠方への旅行はとても無理である。 だから試しに本尊の釈迦如来、春日大明神の御前、及び善財童子らの善知識、こ の3ヶ所の前に籤(くじ)を書いてそれを引いて取ることにしよう。一つの籤(くじ)はインド に行くべし、今一つは行かない方がよいとして、もし3ヶ所の中一つでも渡るるべしと あれば、その志を変えずに決行しようといって、心に深く穢れをのぞいて、真心こめ て祈ってから籤(くじ)を引いた。善知識と大明神の御前のは他人に引かせて、釈迦 本尊の前の御籤(くじ)は上人自身でお取りになった。仏前の壇上に2つの籤(くじ)を 移動した。 ところが一つの籤(くじ)はたちまちに壇からころがり落ち、探したがついに紛失してし まった。不思議に思いながら残った籤(くじ)を開いて見ると、渡ってはならないとあっ た。善財童子らの前のも、明神の前の御籤(くじ)も皆渡ってはならないという籤(くじ)で 明恵上人伝記(13) あった。上人は翌朝仰せられるには、「今朝の夢、空中に二羽の白鷺が飛び、その ほかに白い服を着た俗人が一人立っていた。その人は春日大明神のお使いかと思 われ、弓矢を取って一羽の鷺を射落すのを見たが、今になって思い合わせると、こ の籤(くじ)の一つが紛失したのに合っており、不思議に思われた。」と。 またそのころ、奈良に住んでいた焚賢僧都(ふんけんそうず)の所からわざわざ人を派遣 して連絡があった。その手紙には、「去る24日、春日大明神の社壇にお参りしました が、お祈りをしている時に、ちょうど御神楽があって、その舞巫 (まいみこ)の中の一人 に神が乗りうつって託宣がありました。私は自分自身ずっと永劫の昔からすべての 仏法を守って、すべての人々を済度しようという誓いを立てました。ところが明恵房ほ どの僧侶は、近ごろでは外国にもほとんどなく、まして我が日本では他にありませぬ。 この日本で一般の人々を済度する因縁があって、それ故に日本に生まれたのであ る。しかるに前世で中天竺にいたこだわりがあって、釈尊のご遺跡を参拝したいとの 志が強く、インドに渡ろうと考えている。インドには明恵ほどの比丘もままあるが、日 本にはないのだから、是非日本の人々を済度するために、インドへ渡ることを中止 するようにしているが、今もってその志を捨てず、その準備をしている。インドまでの 旅程は遠く、インドへ渡れば多分帰国はむつかしかろう。もし私の気持を破って出発 したら、希望達成ということはあるまい。この事情を知らないのか云々と。託宣はもっ と言葉が多かったが、要点を取りました」とあった。この焚賢僧都 (ふんけんそうず)はご 縁があって、上人とは前々から連絡のあった人で、そのご縁でこのように伝言された のであろうか。このようなことなどもあって、インド旅行は日延べになりました。 同2年の秋、紀州の庵の在る所で、その地の地頭職を奪う者があって、地頭が代っ たために、その庵も存続がむつかしくなり、また梅尾(とがのお)に還られた。 その年の冬、最も寒い時期、夜にかけて坐禅をされていると、暁近くに体中が冷え 切ってしまわれた。すると持仏堂の方から人の足音がして、心をじっと静めてお聞き になると、そばの障子を開けるので、誰だろうかと見れば、大変に気高く貴い、その 明恵上人伝記(13) 装束からいえば吉祥天(きちじょうてん)や弁才天(べんざいてん)のような天童が入って来て、 「あまりに冷え切っておられるから、暖めて差し上げよう」といって、頭の頂(いただき)を なで、霊薬などをくれられた。そうすると全身たちまちに暖まられた。それから後もこ の天童はいつも来て上人に仕えられた。 また大威徳明王の従者と思われる4∼5歳ぐらいの小童が、頭は髪を短く切りそろえ て垂らし、手に弓矢を持ってやって来て、「臨機応変にいろいろ巧みな方法で人を 導く手段を与えて下さったので、遠い昔からの煩悩が立ちどころに消え去り、かぎり ない善い業因を生れながらに得て、心は清浄に身体は軽くなりました」と告げてから 立ち去った。このようなことは、弟子が直接拝見する時もあった。 明恵上人伝記(14) 栂尾明恵上人伝記巻上 (14) 建永9年(1206)11月、後鳥羽院から院宣をお下しになって、高雄の一院を梅尾別 所(とがのおべっしょ)として上人に賜った。そこでこの場所を華厳宗興隆のための霊地と 指定し、高山寺と名づけた。 同じ年の12月のころ、月輪の(つきのわの)禅定殿下(ぜんじょうでんか)藤原兼実(ふじはらか ねざね) から「世間普通の願いごとでの祈願ではなく、少し願を懸けたいことがあるの で、星供養を7日間修めていただきたい」と丁寧に申し出てこられたので、おことわり になることもむつかしく修法をなさった。始め両3座の間は上人ご自身で修法を執り 行われた。その時霊典が(れいてんが)承仕の(しょうじの)役を勤めるため、1∼2間(けん) 外側で侍っていると、夜明け近く蝋燭(ろうそく)を取り換える時刻になったので、道場 の中へ入ろうとしたところが、北側の空から貴俗合わせて10余人が宝冠を頭にのせ 白服(びゃくふく)を着用して入って来られ、しばらくしてまた空中にお還りになった。後 に北斗曼荼羅(ほくとまんだら)を見ると、その姿はかの貴俗10余人と少し心も違いがな かった。それでは北斗七星等が目の前に降臨されたのだ、珍しいことだと思いまし た。 明恵上人伝記(15) 栂尾明恵上人伝記巻上 (15) 承元元年(1207)秋ごろに、院宣を下されて、「東大寺尊勝院の学頭(がくとう)となっ て、華厳宗を興隆せよ」とおっしゃった。そこで道性法印(どうしょうほういん)が東大寺の 院主(いんじゅ)であった時、あまりに憎徒がお願いするので、春秋二季の法を授け伝 える時だけ、1∼2年の間奈良へ下向された。 また同4年7月に『金獅子章の光顕鈔』1部2巻を述作された。 ある時餓鬼・夜叉(やしゃ)など鬼の仲間が上人の御前(ごぜん)に仕える小童にとり付い て言うには「自分は食肉鬼の仲間である。世の中には名僧方も多いけれども、世俗 的名誉を捨て利欲をむさぼって自己を肥やすことをせず、仏の教法に従い理にか なって仏道を修行する人は少ない。上人のような高僧は、インドはまだよくはわから ないが、中国では今は一人もなく、日本ではなおさらである。去る2月13日の夜、月 が明るく澄んで洞中に(どうちゅうに)さし込み、石の上に風がそよそよと吹く時、夜通し 坐禅を結びながら定に(じょうに)入られるお姿を拝見し、貴く(たっとく)尊敬の思いでい っぱいとなり、感激の涙をこらえることができなかった。また、お経を読まれる御声が (みこえ)身にしみ通り、心打たれた次第であります。そこで私は願を立てて、生れ変り 死に変りして、幾千万世を経てお仕え(つかえ)申し上げ、仏法に服従し、永く肉食を 断ちましょう。なにとぞ私に戒をお授け下さい」と申し上げた。そこで上人はこの小童 に対して戒をお与えになった。その時、鬼の申すには「私が肉食をやめれば食べる 食物がなくなってしまいましょう。お食事のついでは少し分与していただきたい」と。 それ故に上人はその時から施餓鬼法をば毎夕修された。 上人が紀州に移り住まれた夏に、80日以上に及んで大日照があった。国々村々の 田畠がすべて干し枯れて、人々の歎きは大変なものであった。そこで上人もこれを たいそう気の毒に思われ哀れんで、大仏頂の(だいぶつちょうの)修法を行われた。すな わちご自身で2つの龍を画いて(えがいて)、1つの龍は仏の加護保持を祈祷した上で 明恵上人伝記(15) 海中に入れ、1つの龍は壇上に安置して祈られた。二龍の銘として毘慮舎那(びるしゃ な) の大龍王と書き付けられた。これは毘盧遮那 (びるしゃな) の解脱主 (げだつしゅ) の一 人である大龍王をお招きするからである。この大仏頂法を3日を限って行われ、その 間にいっしょに修法している者2∼3人に、別訳になる『華厳世主妙権品(みょうごんぼ ん)』を転読させ、また大仏頂の法により水に仏の加護を祈念して高山の峰に登って この水をふりかけられた。すると第3日目の未の刻(ひつじのこく、午後2時ごろ)になっ て、一片の雲が神谷(かみだに)の山寺の上にたなびいたと見るうちに、間もなく大空い っぱいに拡がり(ひろがり)、急な雷鳴ひびきわたって、大雨の降ること3日に及んだ。 人々もこの上なく喜び合ったが、その近くの村人の多くが夢に見たのは、上人の草 葺き(くさぶき)の庵の(いおりの)上から、2つの龍が大空に昇って1つは水を天に降りか け1つは洪水をせき止めて田地に災害のないようにと努力しておられると見たそうで、 このことを皆で話し合った。この2籠の画図に加持を与えられたことは、お弟子の一 人、二人以外は全く知らず、皆に披露もなかったのに、このような夢を多くの村人が 見たのは、珍しく不思議なことである。 明恵上人伝記(16) 栂尾明恵上人伝記巻上 (16) 建暦2年(1212)11月『摧邪輪』3巻を作られ、同3年6月には『荘厳記』1巻を、建保 3年(1215)には、『三宝礼釈』1巻を作られ、また『同功徳義』を抜書き(ぬきがき)され た。 また同年、『華厳経』十回向の中(うち)、菩薩の五蔵の中の中心である心蔵ともいうべ きものを剖いて(さいて)一般の人々に施し与えようと言われて、20種の菩提心を列ね (つらね) 、その中の4種の菩提心を左右に書いて、能求 (のうぐ) の心として、上には横 書きで三宝の梵号(ぼんごう)を書いて本尊とされた。必ず今後末永く生れ変り生れ変 っても、清らかな心の修行者としで、三宝と出会いたいためである。詳しいことは『三 宝礼釈』及び『功徳義』等に載せられているから、これらの書物について見られるが よい。 ある時上人が仰せられるには、「今夜の夢に、私はある別世界に生れ変っていた。 その世界にいる人々は皆七宝で装飾した瓔珞(ようらく)という装身具の美しくすばらし いもので体を飾っていた。しかしその瓔珞(ようらく)を見ると、前世に私が書いて多くの 人々に施し与えた三宝である。この国の人々は、前世で皆それぞれに三宝を大切 にしたお蔭で、今は三宝の瓔珞(ようらく)で自分を飾っているが、その形はまことに美 しいものだと思って、不思議な思いに駆られて(かられて)目が覚めた」と言われた。 同3年2月15日には、特に熱心に涅槃会を梅尾で(とがのおで)挙行された。その昔、 山の奥へ入って行先をわからぬようにされた時も、山の中の樹木を飾って菩提樹と 名づけ、瓦や石をつみ重ねて金剛座となされ、至る所を道場として、西の方インドで の涅槃会の作法をまね、夜通し仏号を唱えて、釈尊が亡くなったバタイ河畔(かはん) 沙羅双樹(さらそうじゅ)の様子をしのばれた。菩提樹に見たてられた木の下に石を積 み重ねて、その上に一丈程の卒都婆(そとば)を立てて、上人ご自身で「南無摩竭陀 国(まかだこく)・伽耶城辺(がやじょうへん)・菩提樹下(ぼだいじゅか)・成仏宝塔(じょうぶつほうと 明恵上人伝記(16) う)」と書かれ、更にその前に木の葉を重ねて、講経(こうきょう)説法の場所とされた。あ のインド菩提樹のもとでの今夜の涅槃会の儀式の様子は、聞くところによれば、国 王・王子・群臣・庶民それぞれに菩提樹が枯れてゆく姿を見て、夜通し悲しみに堪え られないで、各自が香膏や油香や香乳を菩提樹に振り掛けた姿、その姿の哀れで 悲しい儀式を想像して、泣き泣き水を樹の下に掛けて供養をされた。何とも哀れであ るが、その儀式は奥深くないように思われもしょうが、しかしそれは釈尊を恋い慕い、 涅槃を悲しみ歎く真心(まごころ)から起ったもので、上人自身4巻からなる『四座講式』 を作られた。今日世の中に広く弘まって多くの人がそれを用いているのが、それであ る。 同年4月に、梅尾の(とがのおの)西峰の上に一軒の庵室を造られて練若台(れんにゃだ い) と名づけられた。その後ろに北方に3段ほど下におりた谷に、一軒の庵(いおり) を 造って、一人二人お付きの者がここに住み、坐禅修行以外のことはしない。その侍 者は、ある時には上人の額から光が出、ある時に脇や膝から光を出されるのを見た。 この外の不思議はとうていかぞえあげられるものではないが、上人がたいへん迷惑 がられたので、公に発表はなかった。それでもお付きの僧たちが禁止するわけにも ゆかなかったので、少しは世間に語り伝わることもあった。ある時には語法天ら(ごほう てんら)が来て上人と話をし、ある時は弁才天(べんざいてん)が出席して上人に会われた ということである。 明恵上人伝記(17) 栂尾明恵上人伝記巻上 (17) この庵(いおり)に住むようになられたころ、学生7∼8人が参列して、『円覚経』につい ての圭峰師(けいほうし)の『略疏』4巻について、上人と話をしたが、そのついでに上人 は自筆で、圭峰師の『疏』に読点を付けられ、殊に『円覚経』の普賢章にある、尋思 (じんし)如実の観、あるいは三重法界観等に依って結業禅誦(けつごうぜんじゅ)された。 上人が此の練若台(れんにゃだい)に住まれたのは3年間程であった。しかし山が高く吹 く嵐や風も烈しく(はげしく)、涯(がけ)は嶮しく(けわしく)雲や霧もかかり、そのため室内は 湿って垣や壁も破損したので、上人もそのため頭痛になやまれた。そこでここの生活 をやめて石水院に移られた。この院でもまた『円覚経』の『略疏』及び『修証義』につ いてお話があった。また香象(こうぞう)大師の『梵網菩薩戒本疏』及び南山の『浄心戒 観』等について講話をされた。 同6年の秋、少しうるさい事件があったので、梅尾(とがのお)から賀茂の神山へお移り になった。すなわち塔の尾の麓に4∼5間四方の庵室を造り、経蔵一棟を立てて、神 主の能久(よしひさ)がこれを上人に寄進したので、ここにしばらくお住みになった。あ る人の所から上人にあてて、梅尾 (とがのお) を捨てられたことなどを、歎いて来たの で、 「浮雲はどこに定住すると決めていないので、荒い嵐が吹いても少しも問題で ない」 という意味の歌をよまれた。この所を仏光山とお名づけになった。ここに1年程お住 みになった後、お弟子たちを留守番として留め置いて、また梅尾(とがのお)へお帰り になった。 明恵上人伝記(18) 栂尾明恵上人伝記巻上 (18) 承久2年(1220)のころ、石水院で再び『菩薩戒』を講じ、香象(こうぞう)の『梵網経』の 『疏』を話された。毎日多くの人々が集まり会するたびに、その都度『梵網』の戒本や 十重の文及び四十八軽戒(きょうかい)の中の四ないし五の戒を付けて講義されること が数遍に及んだ。その講義の間に、ある時はめでたいことのきざしを表す光が現れ、 ある時にはインド僧が来、ある時は夢の中で数十人のインド憎が、上人の戒を説か れる時刻を待って天井の上に集まって会場へと向かわれるのが見えた。また文殊菩 薩が現れて持戒清浄の印相と明呪(みょうじゅ)を上人に授けられたが、その印明(いん みょう)は梅尾(とがのお)に今でも伝承している。 (後補)文殊菩薩の現れられたのは、紀伊国白上の峰のことで、今日でもあそこ の遺跡に「文殊影向(ようごう)の松」と呼ばれる松があるということである。 また上人がいつも仰せられたには、慧学すなわち智慧の学匠は日本の国中にたくさ んいて、後から後からと輩出するが、定学(じょうがく)すなわち心静かに精神統一をす るのが好きな人はいなくなった。修行がないために悟りの道への入門はどうしたらよ いか、一向分らないのだと歎かれた。 また『五門禅要』『達磨多羅禅経』などをご覧になり、『禅法要解』1部を自筆で書き 写され、これをご覧になって心を養われた。笠置山の解脱上人は、このことをお聞き になって、 「私は仏法の中でのこの上もなく大切なことは何かといろいろ探っていたが、自 分がこれだと思っていたところと、上人の言われるところとはぴったり合一した」 と言って涙を流して喜ばれた。 また『円覚経』の三観二十五輪の規則に従って、円覚性を観ぜられた時、その仏、 菩薩の出現を見たことがある。ある時は華厳の六地・十二因縁・唯識唯心、及び三 無差別の名利、法界縁起の円頓の観法で修行された。また『入解脱門義』1部2巻 明恵上人伝記(18) を著作された。 同3年秋のころ、後高倉の法皇の院宣で、また賀茂の仏光山に移り住まれ、『華厳 信種義』1巻を撰ばれ、信満成仏の印を明確にして、一乗甚深の法を疑わない行を 確立きれた。 明恵上人伝記(19) 栂尾明恵上人伝記巻上 (19) 貞応元年(1222)夏のころ、善知識供(ぜんちしきく)を初めて行われた。これは一つに は幾千万世にわたって人を正しく仏道に人らせ、解脱を得させた人のすぐれた正し い活動のために、いま一つには一般の人々に立派な仲間の修行者との緑を結ばせ るために、上人ご自身で祭文(さいもん)を作られ、その作法を定められ挙行され、遂に それが高山寺のいつもきまって行われる勤行となった。 上人がいつも仰せられたのは、「病人は医者の近くにおれば利益があろう。出家して 仏道を学ぶ人は、解脱を得させる人の近くにいなければ目的を完成することはむつ かしかろう。ほんとうに深くひたすらな志を立てて仏道の修行に励むのならば、真に いつわりのない指導者のために、頭も目も脳髄(のうずい)でさえも惜しまず、食事が粗 末で衣類が貧弱でも辛抱し、人々がひややかで思いやりがなくても辛抱し、人々と の交際もうるさがらず、恥をかいても悩みがあっても問題とせず、ただ永い志を持ち つづけて、今日目的に達しなければ明日、今月悟れなければ来月、今年到達がで きねば来年、今の世で証悟(しょうご)できねば来世でと、あまり退屈しないで、火を鑚 って(きって)起す時のように、一向に煙も出ないでも退屈がらず、煙が出ても油断して 手を緩めては(ゆるめては)ならぬ。すべて火を揉み(もみ)出そうと作業にかかった始め から、火がついてそれぞれの用途に使うまで、無駄に時間を空費する余裕はない。 もししばらくでも油断があれば、いくら苦労しても火は得られない。だからほんとうの 師匠にたよってゆくのでなければ、西へ行きたいと思いながら実は東へと歩み、北を 目指すと思いながら実は南に向かうような誤りがあろう。大空には方角の目印はない。 だから一人で山の中で口ずさんでも、老狐(ろうこ)が塚で眠っているのと同じであろう。 今は末世末代の時代ではあるが、やはり正しい高徳の賢者の門には尋ねて来る人 も多く、お互いに肩を並べ膝をつめて騒々しいものである。だからめんどうなことも多 く、わずらわしい点なども少なくなく、あるいは恥ずかしいこともあり、あるいは腹の立 明恵上人伝記(19) つような機会もあり、あるいは規則規律の厳しいところもあり、あるいは不埒な (ふらち な)者と交際するようなやっかいも起りはするが、大事の前には小事をかえりみること はできない。ほんとうにこの生き死にのことは一大事の故に、あるいは無限のみ仏の ご恩に報いるために、志を立て、事の成就を祈願して、既に仏門に入ったのである から、今更何も気遣いをしてはいけない。金を取る者は他人が目につかないという 諺(ことわざ)もある。ほんとうに悟りへの志が深ければ、このような小さな支障は問題に することもあるまい。ただ判ば信じ、半ば疑って、道心が無いのがいけない。だから、 このような些細な(ささいな)ことをいやがって、立派な師匠の傍(そば)を離れて、すみの 方でのんびり眠っていたいという心が起ったならば、自分には大魔王が入って来た のだと気づいて、桑原々々(くわばらくわばら)と敵を追い払うごとくに払い去ってしまえ。 愚かなことだなあ、生れることのむつかしい人間として生れてきて、なかなか聞くこと のできない仏教の数えを聞き、お会いできない立沢な師匠にめぐり会っていながら、 しかもただ自分の身体の安楽だけを求めて、偶然出家をしていても、仏道を専一に 心掛けることがないとは。一度としての身体を失ってしまうと、永久に人にもどることは ないというのが如来のほんとうの言葉である。どうして疑うことがあろうか。毎日々々志 を強くし、時には鞭打って心を励まし進めて、大きな悟りへの願を立てて、立派な善 知識の足許(あしもと)にひれ伏して、身も命もなげうって仏道修行を励めよ」。 また上人の仰せには、「私は亡くなった師匠上覚の言いつけで、18歳まで中国の詩 と賦(ふ)とを稽古勉強して風流三昧に詩歌を作っていたが、そのおもしろさに他のこ とは忘れてしまう程であった。そうしている間に、自然と自分で間違いに気づいて、こ の詩賦(しふ)風流の道をきっぱりと捨ててしまった。それでも雪や月と四季おりおりの 好い(よい)ながめに引かれて、時々は詩歌が胸に浮ぶものの、わざわざ取り上げて 一首を作ることはほとんどなかった」。 その年の秋、一人の尼僧が願を起して、この山寺で20人の僧侶を従わせて、『四十 華厳経』1部を法式に従って書写する行を始め、その写経が無事に完了したので、 明恵上人伝記(19) 上人が仏に言上(ごんじょう)する文を記された。その文は、「『法華如法経』は古くから 今までずっと流行しているが、『華厳経』の如法書写ということは日本では前代未聞 である。中国の伝記には数多く見られ、修徳禅師が努力して書写されたので、その 講義をはじめて開かれた日には、そのお経は光を放って70里を照らした」とある。 明恵上人伝記(20) 栂尾明恵上人伝記巻上 (20) 元仁2年(1225)、『仏性会式(ぶっしょうえしき)』を作られた。 この山寺の後ろに3町(約327m)程へだたった所に、一つの峰をうらない定めて楞 伽山(りょうがせん)と名づけられた。楞伽山という所は羅婆那夜叉王(らばなやしゃおう)の 住所で、南海の島である。神通力の持主でなければ登ることができない。如来はこ の島で五法・三性・八識・二無我の法門をお説きになった。私は生れつき、山水自 然に馴れて世俗の事柄に暗い。このために、この峰がもの静かな土地であるから、 いつもここに住む。如来が説法された所はその数も多い中に、特にこの名を選んだ 理由は、諸経の序品はどれもこれもすべて如来説法の儀式であるから、その内容を 聞けば釈尊亡くなられた後といった悲しみが消えないものはない。然るに諸経の中 でも『楞伽経(りょうがきょう)』の序品を開いて見ると、釈迦如来がこの世におられた当時 の様子が特にまざまざと拝見できるような気がする。大海龍王宮(だいかいりゅうおうきゅう) での7日間の説法が終られた時に、数えられぬ程多数の大菩薩、大比丘、及び釈 尊の弟子らの釈・梵・諸天・龍神すべてがいっしょに龍宮を出て、南海の楞伽山の麓 に行かれ、羅婆那夜叉(らばなやしゃ)は数えきれぬ程大勢の従者といっしょに華宮殿 (けくうでん)に乗って、無量の伎楽歌詠(ぎがくかえい)をかなでて、山頂から下りて釈迦如 来を招待申し上げる。如来大衆も華宮殿に乗って、無量の伎楽をかなでて、山頂に お登りになった。夜叉も従者もまた華宮殿(けくうでん)に華殿(けでん)の数をふやしなが ら、大空に充ち満ちた。これを瞑想することによって釈尊亡き後に生れたという恨み を癒すことができよう。そこでこの山に二軒の草葺き(くさぶき)の庵(いおり)を建てて、上 にあるのを華宮殿と名づけ、下にあるのを羅婆坊(らばぼう) と名づけた。華宮殿では 一途に坐禅をし、羅婆坊では三時の行法をはげむ。華宮殿の形を見ては、八万億 の荘厳の功徳を祈り、羅婆坊の名を聞いては、仏にまみえて教えを聞く有縁を羨ま しく思った。またそこで経文を開くと、しみじみとなつかしく思われることがあった。す 明恵上人伝記(20) なわち、その時、釈尊は遥かに楞伽山の上を見上げられて、金山(こんせん)の面(おも て)をにっこりとされたと記されていた。この経典は釈迦如来内心の悟りの智慧の教説 であり、あらわすところは究極すべて大乗の至って深い真理であるから、釈尊のこの 世におわした昔が恋しくて、歌をよんで、 浪の上に咲(えみ)を浮べられた釈尊のお顔を想像するだけでも、涙が出てくる という意味を現された。 12月10日過ぎの夜、空は曇り、月も見えないで暗い時刻に、上の坊に入った。やが て夜中過ぎまで、禅定から出て下の坊へ帰る時、空は晴れ月あきらかに、松風とい っしょにあるのは殊勝なことと思われて、 心が澄んで月が雲から出たように、迷いの世界から解き放たれて帰る時に、清 き月に松風の音を耳にする という意味の歌を読まれた。 同じころ、峰の禅室に入って坐禅をする。暁になって禅定から出て、禅室の縁のそ ばに佇んで(たたずんで)立つと、松風と澄みわたった月は、この峰だけに限ったもので はないが、貴く覚えて、人知れず、 月の光はどの山と差別はしないだろうが、坐禅に心を澄ます楞伽山の峰にこそ 一段と澄みきることであろう という意味の歌を詠まれた。 同じころ、月末に禅室から出て欄干に立ちどまると、曇天の空は真っ暗で、星も全く 見えず、風の音もしない。清風明月の心は和歌の友ともなり、仏教で戒める遊戯放 逸のとりもちともなる。しかし物静かなことこの上もない山中に栖(す)んでいる以上は、 澄んだ心以外は松風明月といえども友でなく、また縄を張って作った粗末な椅子に 坐禅を組めば、眼に色を見ることなく、心に何のわだかまりもなく、環境も静かである から、風月のおもむきも、ただその時その時の仮りの方便である。それ故に真っ暗な 夜は、歌の枕詞(まくらことば)でもなく、遊戯(あそび)の対象にもならない。深い谷をのぞ 明恵上人伝記(20) けば、底も見えず、見上ぐれば、梢も見えない真っ暗な闇こそ、かえって心が澄んで 煩悩のなくなったことを感じて、 遊戯(あそび)の窓、すなわち一般の人々の世界では、月は歌の対象としてよか ろうが、心を澄ます友としては暗い闇夜の方がまさっている という意味を歌に詠まれた。 ある日、華宮殿(けくうでん)の縁のそばに坐禅から立って歩いていると、三密の行法、 一理の坐禅、そのどちらも皆仏法の深い数えである。他の人とちがっても、我が志す ところを進もう、釈尊が染汚(ぜんう)無知と不染汚無知を断じて、一般の人々のために 理にかなった正法を授けられ、人々を生死輪廻という泥沼から抜け出せるようにして 下さった。恩徳・断徳・智徳の三つの仏の徳がよく揃った功徳がどのようなものかを 著しく(いちじるしく)身にしみて感じた折に、昔幼少の時に暗誦(あんしょう)した『倶舎頌(く しゃしょう)』の初めで、釈迦如来が智・断・恩の三徳を説教されているのを、昼夜となく その文を暗誦しその道理を学んで以来、今に至ってこの大乗の一番深くすぐれた法 門に入るまで、ずいぶんと年月を積んだことに哀れを覚えて、次に「諸一切種諸冥 滅(みょうめつ)」と読み上げたところが、華宮殿を懸け造った高い山の谷底の方から、 夕碁に寺でつく鐘がたちまちに聞こえてきたので、 峰の嵐に合わせて諸一切種と『倶舎頌(くしゃしょう)』を読み上げると、たちまち谷 から入相(いりあい)の鐘がなりわたった という意味を歌に詠まれた。 後になってある人か物語って、京極為兼卿(きょうごくためかねきょう)がこの歌を讃美して いうには、「この歌こそ完全にととのった秀れた (すぐれた)歌であって、歌の手本にす べきである、昔の賢人もこのように歌は詠むが良いと教えられたので、今のひねくり 回した歌は歌の本質を失っている」と歎かれたといったことである。 華宮殿の東の高い欄干の上に一つの石を置かれた。これは先年紀州に出向いた 時に、海の沖の島に4∼5日滞在せられた。その時に西の沖の方に島がかすんで見 明恵上人伝記(20) えたのを、インドと仮定して、「南無五天諸国処々遺跡」と唱え、泣き泣き礼拝された。 多くの同信者や親族の男たちがいたが、これらの人々にも同様の礼拝をするように 勧めて、告げられるには、「インドには釈迦如来の具えて(そなえて)おられる三十二相 の特徴の一つである足の裏の紋(もん)の跡(あと)の着いている石がある。特に北インド では蘇婆河(そばかわ)という河のほとりには釈迦如来の旧跡が数多く残っている。そ の河の水も、いったんこの大海に入れば同じ海水となる、その塩水に染まった石で ある」と。そこでこの磯の石に蘇婆石(そばいし)と名をつけ、釈尊の御遺跡の形見であ ると思って、7日間にわたり、夜も昼も、松風の音に眠りをさまし、浪うつ音に声調(せ いちょう) を正して、礼拝をしたところが、名もない従者たちまでが涙をながして、浄土 に往生したような思いをしない者はなかった。まことに一般の人々も仏としての本質 を持っており、釈迦如来の慈悲を受けるものであるから、因縁感動のあるのも当然の ことと思われる。この磯辺(いそべ)の石を持ち帰って肌身はなさず大切にされた。そこ で一首の和歌を詠み、 釈尊の遺跡に近い蘇婆河(そばかわ)の水が大海にそそぎ、そのつづきの海にひ たる石を見れば、御遺跡をしのぶ縁ともなると、しみじみとして、なつかしく思わ れる という意味を表された。 上人が入滅近くになって、この鷹島(たかしま)の石に、ご自身で書き付けられた歌に は、 私の死んだ後にこの石を愛する人がなかったならば、飛んで島に帰っておしま いなさい、鷹島の石よ という意味を表された。 また華宮殿(けくうでん)の西の谷に一つの大きな岩があって、定心石(じょうしんせき)と名 をつけられ、一株の松には、縄床樹(じょうしょうじゅ)と名をつけられた。その松のもとの 所が二つに別れていて坐るのに便利であったので、上人はその上で坐禅された。 明恵上人伝記(20) 同年正月12日の夜が明けようとする時、この樹のもとで坐禅をしておられたが、風は 烈しく雪や霰(あられ)が多く降って、袖に霰がたまったので、禅定より出られた時に、 坐禅をしている松の下、定心石(じょうしんせき)の岩の上に、墨染(すみぞめ)の袖に たまった霰(あられ)が、白玉(しらたま)となってぱらぱらとかかった という意味の歌を詠まれた。 この歌はどんな経緯(いきさつ)があったのか、天子のお耳に達して名歌として『続後撰 集(しょくごせんしゅう)』に入れられた。 明恵上人伝記(21) 栂尾明恵上人伝記巻上 (21) またインドの魯崎那国(ろきなこく)に大きな山があり、山の頂上から50∼60里(200∼ 240km)下った外側にぐるりと巡って山がある。形もけわしく垣をめぐらしたようであ る。ここには祖師たちが修道された神聖な遺跡がたくさんあって、香んばしい(かんばし い)花や立派な草が満ち満ち、西北は師子国(ししこく)につながり、外はすべて大海で ある。国の人は羅婆那城(らばなじょう)に似せてこの山を楞伽山(りょうがせん)と名づけた。 その山の頂上に3つの円い石がある。高さ4∼5尺(約1.2∼1.5m)、広さは2丈 (約6m)ばかりである。釈迦如来の御足(みあし)の跡はその上にある。金剛智三蔵が この遺跡を尋ねて拝見したところ、仏足の模様が破損していたので、仏足跡でない のではあるまいかと疑ったところが、五色の雲が空にたなびいて、その中に円い光が あって仏足跡を照らし、同時にいわゆる九輪(くりん)の輪蓋(りんがい)がはっきりと現れ た。そして空中に声があって告げるには、「これは真実の仏足跡である。釈迦如来が 将来の一般の人々のためにこの足跡を残し置かれたのである」と。三蔵はその声を 聞くと歓喜の涙をこらえることができなかったという故事が思い出されてうらやましか ったので、この定心石(じょうしんせき)の奥に大きな岩があるが、その大石の上に仏の 御足(みあし)の足形を刻んで供養をされた。そこでここを遺跡窟(いせきくつ)と名づけら れた。お歌に、 釈尊の満月のようなお顔を直接に拝見し得なかった悲しみに、巌(いわお) の上 の仏足跡の上に足をすりつけつつ残念に思うことよ。 という意を詠まれた。 上人がまたある時お読みになったお歌は、 釈迦如来の大慈大悲の救いの釣舟が、生死海なる迷いの世界へと漕ぎ出てゆ く。その櫓(ろ)の音は弱吽鑁斛(じゃくうんばんこく)(四摂菩薩の種子)である。 という意味のお歌であった。 明恵上人伝記(21) またある時、仏性聖人(しょうにん)が楞伽山の上人の草庵に来られての歌の意味は、 諸行を無常であると悟って、世捨て人(びと)となった人の心になりたいものだ。 上人のご返歌の意味は、 無常な世を捨てたのだと貴方は(あなたは)正しく(まさしく)私を見てくれている、世 間では私を狂気じみていると言っているのに。 又一首は、 足跡をくらませて身を隠した梅尾の(とがのおの)山の奥ではあるが、貴方(あなた) には私の所在をおしえるがよい峰の白雲よ の意味であった。 この仏性聖人(しょうにん)は自分で前庭にいろいろの花を植えておられておられたが、 その花の咲きほこった時に、花といっしょに和歌を読んで上人にさし上げられた。 花のよい香も仏法と思いますので、前庭に花を植えておいて三世の仏に捧げ ました。 上人のご返歌の意味は、 仏法のために前庭に植えおく花の種からこそ、妙法蓮華という法の華は咲き つづくであろう。 松葉の禅門と呼ばれた行円が関東から上洛して、京都に滞在の間は、いつも栂尾 (とがのお)に詣でて上人と仏法について話をされた。ある時行円が詠んで上人に差し 上げられた歌の意味は、 尋ね尋ねて来ましてほんとうの悟りの道に入れたのも、迷う心に導かれてのこと でありました。 上人の御返歌は、 尋ねて来てほんとうの仏道に入った人は、いよいよ精進してこれ以上の深い奥 を尋ねてゆくがよい。 という意味であった。 明恵上人伝記(21) 上人がある時にお詠みになられた歌の意味、 この夢の世が現実であったらどうしよう、しばらくすればさめてゆくからよいもの の。 上人のお詠みになった歌を聞いて、同じ禅門がまたある時和歌を詠んで上人に差し 上げられた。歌の意味、 この世の中はうとうとと眠ることもなくして見る夢であろうか。どうしてさめて真実を 見られましょう。 これらの歌はどれも皆世間で評判になって、『続後撰集』や『続拾遺集』に収められ た。上人はまた亡くなった人の筆跡の裏に光明真言をお書きになって、その奥に書 き記された。 書き記す光明真言が光り輝くから、暗い闇の中も亡くなった人は迷うことなく菩 提廻向されよう。 またある時、何かの端に書き記された。 いつまでうかうかと明かし暮らすのか、自分の一生には限りがあるが、なすべき ことは無尽蔵であるのに。 西行法師がいつも来て話をしていわれるには、 私が歌を詠むのは、一般普通の人が詠むのとは違っている。花・郭公 (ほととぎ す)・月・雪・すべて風情あって心ひかれるものに相対しても(あいたいしても)、すべ ての姿は真実でないということをいやというほど見たり聞いたりしている。また詠 む和歌はすべて真言であり、真実でないものはない。花を詠んでもほんとうに 花とは思わず、月を詠んでもほんとうに月だとも思わず、ただその折にふれ、心 が動くままに和歌を詠んでいるのである。これは、赤色に見える虹がかかれば 大空は色どられたように赤くなり、太陽が輝けば大空は明々白々(めいめいはくは く)になるようなもので、本来大空は決して白いものでも、また色の付いたもので もない。自分もまたこの大空のような心の上に、いろいろと情趣を詠んでゆくも 明恵上人伝記(21) のの少しも跡を残さない。この和歌は、そのままこれが釈迦如来のほんとうの姿 である。だから和歌一首をつくるたびに、仏像御一体を造る気持ちでする。一 句の和歌を口ずさみ心にあれこれ思う間は、秘密の尊い真言を唱えるのと同じ 気特ちである。私はこの和歌のお蔭で、仏法を会得するところがあった。もしこ こまでの境地に入ることなしに、かってにこの和歌の道を学べば、間違った道に 入り込んでしまうだろう。 そういって詠んだ歌は、 奥山の生活の哀れさは、どんなに同感はしても、住んで体験しない者にはただ 想像するだけで、実体はわかるものではない。 であった。 喜海はその場の末席におったので、聞いたままを書きつけるのである。 同じ年の6月15日から梅尾(とがのお)の本堂で、『梵網菩薩戒本』による2度の戒の説 示が始まった。その戒の儀式については『別記』に譲るが、当時多くの僧侶も列席し ていっしょに戒文(かいもん)を口ずさんだ。その説戒の中途に霊妙なが効験(こうげん) が多かった。見たり聞いたりすることのできた内容を、委しく(くわしく)記述するのには 時間的な余裕がない。ある時は特別の芳しい香りが大空に満ち満ちてたきこもり、あ る時は神秘的な働きのあるものが形には現れないで、変った声でいっしょに戒文を 口ずさみ、ある時には人間でないものが6歳の子供にたのんで心身を清めて帰依し たいとの志をのべ、ある時は長い間重病であった者が、この説戒を聴いた折に、ある 者は汗を流し、ある者は嘔吐(はい)て全快するといった具合の者もあった。もしくは瘧 (おこり)にかかっていた者が、この説戒の席に出席して聞いている間にたちまちに発 作が癒って(なおって)しまった。この説戒の戒儀(かいぎ)は今でも高山寺のしきたりの行 事となっている。 明恵上人伝記(22) 栂尾明恵上人伝記巻上 (22) 安貞元年(1227)『勧進記』上下2巻と『別記』1巻を作られた。また光明真言によっ て土砂を加持されたところが、全く光明真言となって土砂が光明を発して光り輝い た。 またある時上人が、光明真言土砂加持を行うために、土砂を持って来させて加持さ れたところが、その作法の途中でにわかに穢れの悪相が2∼3回も現れたので、上 人が不思議なことだと思われて、 「この土砂はどこから採取したのか」 と尋ねられ、その場所を見にやらされたところが、そばに野良犬が不浄なことをした 所があって汚物があたりに散らばっていた。そこでこの旨を申し上げたので、それか ら後は従者の僧に仰せられて、極めて清らかで汚れのない所を選んで持って来いと 命ぜられた。 同2年戊子(つちのえね)7月のころに、石水院の後方の谷から水が出て湿気が強くなり、 気分がすぐれないからとて、禅堂院を造って住まわれたが、今度は僧坊の近くでや かましいといわれて、また三加禅および禅河院などという庵を造って、とじこもって坐 禅修観をなさった。諸法童子がいつもおそばに侍っているのが見えた。 明恵上人伝記(23) 栂尾明恵上人伝記巻下 (23) 秋田城介入道覚知が仏門に入って梅尾(とがのお)に住んでいたころ、自分で庭の薺 (なずな)を摘み採って味噌水(みそうず、ぞうすい)を調味して、上人に差し上げたところ、 一口飲まれたが、しばらく左右をご覧になって、傍らの引き戸の縁(ふち)に積った埃 を取り入れて召し上がった。大蓮房がその座に侍って(はべって)いたが、不思議そう にじっと見つめ申していたので、「あまりに香と味わいが良すぎたもので」と仰せられ た。上人は平常すべておいしい食物(たべもの)を好まれなかった。炭をおこし焼火(た きび)などしてしとやかに火に当られることはなく、亡くなる年にこそご病気のためにと 他人が勧め申したので、初めて炭櫃(すびつ、いろり)や塗たれ(ぬりたれ、塗屋(ぬりや)) という物を作られた。 上人が松茸を召し上がると伝え聞いて、ある人が上人を招待申して、松茸をいろい ろと料理して差し上げられた。上人が帰られて後、ある人が「上人は松茸がご好物と 伝え聞きましたものですから、ずいぶん松茸を手に入れるために奔走(ほんそう)努力 しました」と申し上げたので、「仏道に志す者は、仏法でさえも『仏法好き』と言われる のは恥であるのに、まして『松茸好き』などと言われるとは情けないことである。こんな ものを食べるからこそ、めんどうなことにもなるのだ」として、これ以後はプッツリと松茸 を召し上がらなくなった。 美味なものを腹いっぱい飲み食いすることは罪深いことである。いったい財産に欲 が出て、知行や庄園をほしがり、酷い利欲をむさぼって身を養うことに夢中となり、他 人を傷つけたり殺すまでになり、あるいは険しい山道を越す時は、牛馬も背の荷物 のために背中を怪我し、あるいは荒波に船を乗り出す時は船頭は風の強いのに驚 き惧れ(おそれ)、農夫は耕作に刑を流し、機織(はたおり)の女工の手を煩わし、農耕に 鋤(すき)を振れば自然と虫を殺し、鳴子(なるこ)に鳥獣を驚かし、すべて春に耕作を始 めて秋に収穫するまで、農民の苦労はとても数え切れるものではない。ただし殺生・ 明恵上人伝記(23) 偸盗・邪婬・飲酒などの類なら、やめさせるに充分なが理由もあるが、生きている以 上は一日も食べねは生きてゆけない。だから釈尊も一日ただ一回の食事をすること は許されたが、2回食事をとることは禁止された。しかし一回の食事を許されたといっ ても、それは注意深く仏法を守り行うためである。それなのに罪を犯しても恥じる心 なく、勝手きままな心に引かれて、頻り(しきり)と濃厚な味を好んだり、何が何でも腹い っぱい食べたいと願う。この飲食に対する欲心を悔い改めるのでなければ、どうして 犬畜生と変るところがありましょうか。それですから上人は一向に飲酒をなさらす、ま た正午を過ぎてからは食事をとられることはなかった。けれども、老年になられて、食 事が進まないという病気が治りにくいために、時々少しの山薬(さんやく)などを正午を 過ぎてからも召し上がられることがあった。 明恵上人伝記(24) 栂尾明恵上人伝記巻下 (24) 上人がいつもおっしゃったのは、「自分は幼い時から貴い僧になりたいと願っていた ので、生涯邪淫戒を犯さず、清くて穢れなくありたいと希望していた。それだのにど んな悪魔が入ったものか、たびたび今少しのところでみだりがわしいことをしてしまう 機会があったのに、不思議な妨害が入って、そのたびごとに迷いが解けて、結局は 邪婬戒を破ってしまおうとの志は果さなかった」と。 上人は宗教的な瞑想だけを好まれて、1∼2年の間は小さな桶一つを用意されて、 2∼3日ないしは4∼5日の食事を貰い受けて、それをこの桶に入れ、肱(ひじ)にかけ て後の山に入られ、木の下や石の上、木の洞穴(ほらあな)や岩穴などに、一日中一晩 中坐っておられた。自らも「この山の中で、一尺へ(約30cm)くらいの面積のある石 で、私が坐ったことのないものはまさかあるまい」と仰せられたほどである。 建仁寺の長老(栄西)から茶をちょうだいされたが、医者に茶の効用を問われたとこ ろが、「茶は疲労を回復し、食べたい欲も消して気分を爽やかにする長所があるもの の、日本では普及しておりません」と答えられたので、上人は茶の実を探されて、2 ∼3本植えにかかられた。ほんとうに睡気をさまし気分を爽快にする効用があるので、 多くの僧侶にも茶を飲むようにされたのである。ある人の言い伝えでは、建仁寺の長 老が中国から持ち帰られたお茶の種子を、上人に差し上げられたのをお植えになっ たのだといっている。 ある時は、石を拾ってお一人で石打ち遊びをしておられた。そこで「なぜそのような お遊びをされるのか」と他人がお尋ね申したところが、上人は「あまりに仏法を説いた 文章等にとらわれて心が晴れ晴れとしないものでね」と答えられた。 ある時また、ある人から糖(あめ)を一桶差し上げられたが、しばらく経った後のある日、 「その飴桶を持って来い」と命ぜられたところが、体裁 (ていさい)をよくしようとして、桶 の上に巻いてあった藤の皮をむいて提出したのをご覧になり、「これは藤で巻いて 明恵上人伝記(24) 置くべきものであるのに、あるべき姿をそむいて、はがしてしまった」と言って、泣か れたのであった。かようのことは、常にありました。 ある時、木工(もく)権頭(ごんのかみ)孝道が来られたことがあった。説法されたあとで、 「ここに亡くなった人の琵琶(びわ)ですと申して私にくれられた琵琶(びわ)がありますの で、ちょっとご覧になって下さい」といってその琵琶(びわ)をお見せになった。その琵 琶(びわ)の胴は花梨(かりん)の一枚板であった。孝道はこの琵琶(びわ)をよくよく拝見し た後に言われるには、「これは立派な琵琶(びわ)でございます、きっと立派な音色を 奏でることと思われます」と云々。「嗚呼(ああ)、緒(お)でも懸けて(かけて)弾いていただ いてお聞きしたいものだなあ」と上人が仰せられたので、孝道は「ちょうど緒を持って おります」と申して、懐から折紙を出し緒を付けて、しばらく調子を合わせ終えて、か らみごとに弾いてのけられた。ちょうどそれは静かな夕暮れどきで、特にすぐれてた とえるものもない程すばらしく聞かれた。つまらぬ雑役に使われている下働きの法師 までも、深く感じて涙を流した。上人も感じ入られて、前の緑に架けられた簾台(れん だい) の竿の所に静かに上られ、腰掛けて足をのばして簾 (すだれ) で拍子を取ってお られた。上人のお前にいた人々は不思議な感じで見ていたが、またしばらくして上 人は再び静かに簾台の竿から下りて、「空で聞けば一段とすばらしいことです」と言 われたが、このような人智ではかり知ることのできない不思議な行為は他人にお見 せにならぬ上人も、あまりこのすばらしい琵琶(びわ)の音色に感心されたために、この ように振舞われたのであろう。 また僧侶でも俗人でも、上人にお目にかかりたいと望んで訪ね来る人に対しては、 お付きの者を出して、「どんなご用件でしょうか。もしみ仏の教法についてご理解でき ぬ点でのお尋ねですか、または生きる死ぬの大問題についてのお話のために来ら れたのですか。もしそうでなく単なる雑談の相手にと来られたのなら、無駄な雑談は 若い時からしないことに秘かに決心しておりますので、今になって何も破る必要はご ざいますまい」と言わせて客人を帰されたのである。 明恵上人伝記(24) また他人がご祈祷をして下さいと希望して来れば、上人の答えられるには、「私は朝 夕に生きとし生ける人々のために祈願をしておりますので、必ずあなたもその中に入 っておられましょうから、わざわざ特別にお祈り申す必要はありません。あなたの願 いは、できることなら、望みどおりになりましょうし、できないことなら仏のお力にすが ってもどうしようもないことでしょう。その上に、万事平等であれと思う心に反してあな たの願い事だけを祈り申すというのでは、一方ばかりを贔屓(ひいき)したようになりま すから、依怙贔屓(えこひいき)があるような者がお願いすることを、仏様や神様もまさか お聞きとどけにはなられますまい。仏や神の内心のお悟りを思えば恥ずかしいことで す。また仏はすべての人々をご自分の子のように思って下さるのに、あなたの願い 事を叶えていただけないのは、どうしても子細があるからでしょう。誓えてみれば、子 供が有毒な物を毒とも知らないで食べたがっているのを、親が奪い取れば、大変に 恨んで泣くようなものであります。ひとときは心に不満を覚えましょうが、終には(ついに は)よかれと思っての措置(そち)であります。だから仏も神もお恨みなさらぬように。ま た仏や神を信ぜずかって気ままでしまりのない心の持主を千仏は救済されないので あります。故に自分自身のいたらぬことを反省されて、恨むなら自分を恨まれよ。自 分の祈りが果されない時でも、仏様のお処置には子細があるのであろうと思いなさる がよい。こういえば昔の聖人の定めに反して特定の人のために祈祷をしないという気 狂いがいると評判になるでありましょうが、昔の聖人はそれぞれ皆、衆生を教え導か んがための巧みな手段としてお示しになったいわれがあるのに、私どものような無智 な者が、うかうかと昔の聖人の方便だけを学んだならば、大きな間違いとなりましょう」 といって、聞き入れられませんでした。 ある時、高野山からなかなかに学問の博く(ひろく)深い人々2∼3人揃って、「仏の教 門についての疑問をお尋ね申したい」として来られました。この旨をお伝えすると「留 守だと申せ」と言われたので、そのようにご挨拶している後ろから、障子をさっと開か れて、上人がおいでになって、「私高弁はここにおります。あまりに増長して、時々は 明恵上人伝記(24) このようなうそを申します。なにとぞこちらへお入り下さい」と申されてお会いになった。 高野山からの客人たち、悦んで疑問をお尋ね申したのに対し、一々お答えになるう ちに、早朝から早くも食事の時間となったので、「食事時であります」とお知らせした が、「もうちょっとだ、ちょっとだ」と言われるうちに、その日一日は立て続けに仏教の 法文を講釈し続けられた。その夜も夜通し話し続けられたので、この客人3人は疲れ 切って、一人ずつ便所に立った風を装って(よそおって)部屋を出て、交替で座に坐っ たのに、上人は少しも食事をおとりにもならず、次の日の食事時にまたご連絡したら、 やはり「ちょっと待て待て」と言われて座を立たずにおられるので、待ちくたびれて重 ねてご連緒申し上げたところ、「仏典の質疑応答に時間がかかり、遅くなったわい」と 座を立たれた様子を見ていると、ただ客人と会われた初日の食事時の遅れくらいに しかお考えになっていないようで、一夜二日にわたったとはご承知のない様子であ った。仏教経典について話し出されると、いつも時間の経過をお忘れになるのはこ のようであった。 明恵上人伝記(25) 栂尾明恵上人伝記巻下 (25) 笠置の解脱上人が仏法の要義についての話のためにおいでになった時、明恵上人 は美しく立派な織物の小袖を着てお会いになったので、解脱上人は案外なことと感 ぜられたか、目を見張って注目されたので、上人は指で小袖のくびを指し示して、 「この美しい織物がお目障りでございますか」と言われたので、解脱上人は、てっきり 気を回しすぎてしくじった、と思われた様子であったが、これはそのころ、上人を信仰 しておられた宮廷の方々から、仏道修行の緑を結びたいとして、立派な衣裳をしば らく着させ申したまでで、ちょうどその時に解脱上人がおいでになったために、上人 はただその立派な衣裳を着られたままでお会いになっただけであった。 建仁寺の開山千光法師(栄西)が中国から帰国され、達磨宗を悟り得て、それをば この日本に弘められるのだと評判であったが、ある時この千光法師に会われるため に上人が彼の法師の寺へ行かれた時に、ちょうどこの僧正は参内(さんだい)をすまさ れて帰られる途中で行き合われた。 彼の千光僧正は新しい車の想像も及ばぬほどに立派なのに乗って、まことにはなや いだお姿であった。これに比して上人はみすぼらしい墨染めの衣に草履を引っかけ られた姿であったから、「このようなみすぼらしい姿ではとうてい目も掛けられまい、会 いに行っても無駄だ」と思って途中から帰ってしまわれたのを、僧正は気づかれて、 車から下りて供の者を走らせて上人を呼び帰させられ、お会いになった。数時間も かれこれ話し合って帰られた。それから後はいつも会われて仏法を談ぜられた。そこ で僧正はこの明恵上人を悟道(ごどう)に熟達(じゅくたつ)されたとして免許をお出しにな って言われるには、「この達磨宗の後を受け継いでますます盛んにすることのできる 人が是非あってほしいものだ。思うに明恵上人がそれだけの器量を備えていらっし ゃる。無理にも私の門下におなりいただき、いっしょに達磨宗の発展に協力して下さ い」と申されたが、「少しわけがありますので」と深くご辞退になられた。それでも千光 明恵上人伝記(25) 僧正は亡くなる間際に、大切な法衣を上人に差上げられた。これは僧正の先生に当 られる東林の懐敞(えしょう)和尚の着用していられたものだということである。 後鳥羽上皇は明恵上人の徳を尊敬なされて、いつもお召しになり、仏門に入るため の戒律もお受けになり、また仏法に関しての説教もお聞きになられた。そのころの公 卿殿上人はほとんど皆、またそれぞれの縁故によって明恵上人におすがりし尊敬申 し上げた。 建仁寺の開山千光僧正の弟子に円空上座といふ僧が、大変に仏教への志が深く、 仏の道を修行していると評判であった。上座が「禅定(仏教的な瞑想)はどのように 修行したらよいでしょうか」と長老にお尋ねしたところ、「梅尾(とがのお)の明恵上人は 禅定の修行を積まれて実績をあげておられ、既に完成されたと承知している。上人 の許へ(もとへ)行ってお尋ねし、ご指示どおりに修行したらよかろう」と仰せられた。そ こで円空上座が上人にお目にかかって、禅定修行の方法をお尋ね申したところ、上 人の御答えに、「禅定修行の上で3つの大毒(邪魔、妨げ)がある。これを取り去るの でなければ、ただ身心をつかい果すのみで、幾年やっても、くたびれもうけに終って しまう」と仰せられた。そこで「その大毒とは何でございましょうか」と質問しますと、「1 つは睡眠、2つは雑念(種々の思いに気を散らすこと)、3つは坐禅の姿勢が正しく ないこと、この3つの大毒を取り除いて、いっさい求める心を捨てて、ただ無所得(執 着、分別するところのない)の心だけをもって、自分かってに取り計らうことなく、役に も立たぬ人になりきって、現世も後世も永劫になし遂げようとの永い志で修行をなさ い。自分かってな希望などは決して決して持たれてはなりません、今私の申しました ことには、何か子細があるのかとお思いでしょうが、以上申したことは、私高弁が自分 かってで申したのではなく、先年紀州の苅磨(かるま)の島(現在和歌山県渇浅町に属 す)にいました時に、空中に文殊菩薩が姿を現されて私にご指示になったままを申 すのです。今日の世間では、このように取り計らう人はないのでありましょう。末世末 法の今日、加えて釈尊誕生の地から遠く距たった(へだたった)土地に生れた残念は、 明恵上人伝記(25) このことです」と申された。 上人は、『首楞厳経』(禅法の要義を説いたもの)を開いてご覧になって、これは釈 尊ご一生の間の教法の要点であるとして、いつも講義して皆にお聞かせになった。 明恵上人伝記(26) 栂尾明恵上人伝記巻下 (26) ある時、建礼門院が仏門に入るための戒をお受けになりたいからとて、上人をお招 きになったが、院ご自身は寝殿(しんでん)の中央の間の御簾(みす)の内においでにな って、御手(おんて)だけを御簾(みす)から指し出し、両手を合わせて拝され、上人は一 長押(ひとなげし)だけ下がった所に置き申されたので、上人が言われるには、「私高弁 は、湯浅権守(ごんのかみ)の子で、まことに地位の低い者であります。しかし釈迦の弟 子として長年にわたって修行いたしました。仏門に入り戒を守る僧となりましては、神 祇(じんぎ)も拝みませんし、国王・大臣にも臣下としての礼をせず、また説法のための 高く設けられた席に登ることなくして戒を他人に授け、仏法を説教すれば、受けた者 も授けた者も師弟共に罪におちると経典に明記して誡めてあります。これは仏法を 重んじて粗末にしないためであって、自分自身をえらそうにするためではありません。 このような世を捨てた坊さんをすらご尊敬になりますならば、仏の教えに従うことによ って得られる幸福はますます多く、逆に見下されるならば、その大罪はいよいよ深ま るばかりであります。私はお召しいただいても、釈尊のご教示に背いて院の気に入る ように振舞うわけにはまいりません。今日のこのようなご態度では、利益よりは罪とな りましょう。誰でもけっこうですから、私以外に尊敬される人をお召しになって受戒な されるがよろしうござりましょう」と申上げて、そのまま帰ろうとされたので、女院はお驚 きになって、急いで御簾の内から外へ出られ、「申し訳のないことをいたしました」と 詫びを入れて、上人を高座へおすわりいただき信仰申してから、御戒(ごかい)を受け られた。それから後は殊に上人を尊敬されて、最後まで師憎と檀那 (だんな)という深 い関係となられました。 ある時、上人が長い間冷病に罹られて食事もおとりにならなくなったころ、医博士の 和気(わけ)某(それがし)がお見舞に来て「このご病気は身体を冷されたのが原因です。 この山中の霧が深く寒気が烈しい期間は、よい酒を毎朝暖めて少しずつお飲みに 明恵上人伝記(26) なったら宜しいでしょう」と申したところ、上人のご返事に、「法師というものは、自分の 身体も自分の物ではなく、生きとし生ける者のための入れ物である。仏が特に厳しい 困難に遭遇して誡められたのもこのためであり、わがままかってに身を任せるべきで はない。その上、死すべき前世からの定めであるならば、仏陀も救済にはなりません。 だから耆婆(ぎば、釈尊時代の名医)でも老化を食い止める手段はなく、扁鵲(へんじゃ く、中国戦国時代の名医)の薬でも死を助ける効果はありません。もし私がしばらくの 間でも世に永らえてお役に立てますなら、三宝の御守護を得て病気も癒り(なおり)、 寿命も延びましょう。さようでないのならば、釈尊の厳しい戒律である『飲酒戒』を破 って酒を飲むべきではありません。殊に酒を飲んではならぬとの戒は、二百五十戒 の中から特に十戒としてより抜き、十戒の中から五戒としてより抜いたその第一番で あります。虫や薬の毒はただ一生を滅ぼすだけですが、酒の毒は、仏の戒律を破る が故に来世にかけて永久に罪せられます。かりに一時は生きのび得ても、つまらぬ 利益で、結果は大損となりましょう。釈尊は死を選んでも戒律は破るべからずとお誡 めになりました。私がもし薬のためにと一滴でも酒を飲めば、何かかこつけたいと思 っている法師どもだから、明恵上人でも時々は酒を飲まれたという例を引き合いに出 して、この梅尾(とがのお)の山中はまるで酒飲み場となってしまうでしょう。これらのこと を考え合せて取捨選択しなければなりません」と仰せられた。 明恵上人伝記(27) 栂尾明恵上人伝記巻下 (27) 承久2年(1221)の大乱の時に、梅尾(とがのお) の山中に官軍の人々が多く匿われ (かくまわれ)保護されているとの噂が耳に入ったので、秋田城介がこの梅尾(とがのお)の 寺領内に乱入して探し回った。乱暴のあまり、明恵上人を捕縛(ほばく)して、先に追 いやりつつ六波羅まで来たところが、ちょうど北条泰時が訴訟を聴断(ちょうだん) して 座におり、北条方の軍兵が堂の上にも下にも満ち満ちていた。泰時は、先年六波羅 にいた時に、この明恵上人の徳の高いことを聞き知っていたので、まず何はさてびっ くりぎょうてん、恐れ入って自席を去り、上人を上座におすわりいただいた。この様子 を見て秋田城介は、たいへんな失策をしでかしたと気付いて、気が抜けた様子であ った。そこで上人が申されたのは、「高山寺に逃げ込んだ人々を多数隠し置いたと いう報告があったといわれるが、それはさぞかし左様(さよう)でありましょう。なぜかと言 えば、高弁(私)の様子を時々は聞き知る人もありましょう、若い時代から本寺を出て あちらこちらと修行し回ってから後は、平常習いおいた仏法を説いた文章にさえ拘 泥(こうでい)していませぬ。ましてや一般社会の事柄については一度も考えたこともな く永い年月を経てまいりました。それ故に身分を問わず、ある特定の人の味方をしよ うという心が生じても、これは僧侶としての規律からは、あってはならぬことですし、そ の上、このような心がふと浮かんでも、二度と思い続けることはありません。 また人が縁故をたよって自分のために祈祷してほしいと依頼を受けることが多くあり ましたが、生きとし生けるものが三途で苦しみ悶えているのを、何はともあれ最初に 祈祷して助けられるなら祈り申しましょう。これら三途の苦しみに悶え沈む者を救って から後にこそ、現世の夢のような願い事を祈祷しても差し上げましょう。大事をなす時 は小事は無視しても止むを得ませぬと返事して、少しも取り上げないままに何年も経 過してきました。それ故に高弁に依頼して祈ってもらったという人は、この世にはいな いと思っております。さてこの梅尾(とがのお)の山は御仏に差し上げた寺領であるから、 明恵上人伝記(27) 仏教の慈悲の精神から一切の鳥獣などの狩猟を禁ぜられた土地であります。それ 故に鷹に追いかけられる鳥、猟師の手を逃れにげる獣、皆この地に隠れて余命を保 つのである。それ故、敵の手を遁れる兵士が、やっとの思いで命ばかり助かって、木 の根本や岩と岩の間に隠れているのを、私が咎め(とがめ)を受けるからというので、無 情にも追い出して、そのため敵の手に捕えられ生命も奪われることを、無視できまし ょうか。私の根本の師匠釈迦如来は、前世では鳩の代わりに餌になられ、また飢え た虎のために我が身を給わったのである。それ程までの大慈悲には遠く及ばぬなが らも、これくらいの落人(おちうど)を見逃す慈悲が無くてすみましょうか。隠すなら袖の 中にも、袈裟の下にも隠してやりたいと思ったことでした。この後も援助いたしましょう。 この私の行為が幕府の施政(しせい)の方針に不都合でしたならば、直ちに私の首を 斬られるがよい」と言われた。泰時、このお言葉を聞かれて、しきりに深く感じて涙を 流して申されるに、「委しい(くわしい)事情も知らない田舎侍どもが命令もなく入り込ん で、乱暴をいたしましたのは、何とも申し訳のないことでございます。その上、上人を ここまで引き立て申した事、恐縮至極でござります。今度もし無事に上京致しました 折には、最初に梅尾(とがのお)に参上致しまして、生死の一大事についてご指導を賜 りたく嘆願申し上げましょうと以前から期待しておりながら、ただいまの大事変に邪魔 されて、今日までそのご縁のなかったところに、思いもしないことでご面会致しました のも、それ相応の仏のお取り計らいかと思われます。それでお尋ね申しますが、どの ようにして生死の迷いから離脱できましょう。またこのような裁判に少しの私曲(しきょく) もなく道理のままに裁くのであれば罪にはならないかと思いますが、どうでありましょ うか」と。上人のお答えは、「少しでも道理からはずれて行動する人は、来世のことは いうまでもなく、現世で間もなく滅亡するものであります。そのことは申すまでもない が、たとい正しい道理に従ってなされても、それぞれの分に応じての罪は逃れられ ぬこともありましょう、生死の助けとなるなどとは、とんでもないことであります。山中の 僧侶でも、やはり仏の教えの奥深い道理に合わないなら三界六道に迷いの生死を 明恵上人伝記(27) 続けるという苦しみから遁れるわけにはゆきませぬ。まして俗界の欲心から出発して、 種々の雑念(ぞうねん)に縛り付けられて、仏の教えということすら知らないで毎日を送 っている人は、なおのことであります。世間に大地獄というものが現れるのは、以上 のような人が落ちて煮られるために外なりませぬ。いつ来るか予測もできぬ死という 恐ろしい鬼は、弓矢や刀剣や杖では防ぎようもなく、ただいまでもあなたを死の世界 に引きずり込むであろう時には、どのようにされますか。ほんとうに生死の苦しみから 遁れたいと思われるなら、しばらくの間はどんなことでもなげ捨てて、真っ先に仏の み教えを信じ、その仏法の真理を充分に理解して政治を執り行われるなら、自然と 宜い(よい)こともございましょう」といわれた。泰時は上人のお話を聞いてたいへん信 仰の様子で、心に深くとめられたらしかったが、やがて御輿(みこし)の用意をして上人 をお乗せし、門の近くまで泰時自身でお送り申し上げた。その後、世の中が少し平 和になってからは、いつも梅尾(とがのお)に参詣して上人と仏法について話をされた。 明恵上人伝記(28) 栂尾明恵上人伝記巻下 (28) 次の歳(元仁元年、1224)義時朝臣が亡くなって、泰時が執権となり、天下の政治 を一手に握った時に、最初に丹波の国で荘園一ヶ所を梅尾(とがのお)に寄進された が、上人の申されるには、「このような寺に領地でもございますと、僧侶どもがどんな にでたらめをしても、寺領のお蔭で生活も大丈夫だし、衣装も工面(くめん)ができると 思って、仏法への志のないならず者どもが入り住んで、ますます道理にはずれてゆ くようになりましょう。寺が経済的にめぐまれれば、それに甘えて稚児を置いて酒をく みかわして互いに楽しむとか、武器を持ってとんでもない行動に出るとか、何をする か分りません。いかにも寺らしい山寺と思われるものが、仏の戒律に違反してあきれ はてた姿となってゆくのは、寺領のお蔭で経済的に豊かとなることが原因です。ただ 僧侶は貧乏で他人から尊敬されることだけでやってゆけば、自然とでたらめな行為と いうものはありません。信じて正実な修業をするところには、やはり末法の時代だと申 しても、各方面から布施者の信仰も強く、仏の教えも食事も心配なく栄え、戒律も守 らず教法に従わない僧侶のいる寺は、単に一般の在俗の人々に僧侶を非難させる という罪を与えるだけでなく、誰からも信仰されず心服されずに、一日一日と寺も衰 え荒れはててしまうものであります。この二つを比較すれば、人が尊敬しなくなるのを 忘れて、戒律に違反した行為をしなくなるのは、わずかの間でも仏智の生きた働きを 継承するという点ですぐれておりましょう。また世の中には領地寺田(じでん)を寄附さ れて立派にやってゆける寺もありましょうから、そのような寺に寄附をご計画下さい。 ここ梅尾(とがのお)の寺に領地があることは、逆に仏法修業のためには宜しくあるまい と思われます。このように仏教を尊崇されることは有難いことと感謝しておりますが、 この梅尾(とがのお)だけは私に考えがありますので」といって返還されたのであった。 秋田城介義景はその後、出家して、上人のお弟子となり、大蓮房覚知といった。 明恵上人伝記(29) 栂尾明恵上人伝記巻下 (29) ある時上人が仰せられるには、以前に笠置の解脱上人が来られて、仏法について の話のついでに言われるには、「ある夜、夢で秋の夜の明るく晴れたように思われ、 多人数が来る音がして、自分の草葺(くさぶき)の家の窓を叩いてしきりに自分に面会 を希望している。そこで戸を開けて迎えて見ると、人間でない怪しい姿の者どもが数 名立っていて、その中にそれ相応の人物と思われる白髪に覆われ眉も真っ白にな った老僧が、丁子染(ちょうじぞめ)ような衣類を上にまとい、面相人品(めんそうじんぴん)と ても今の世の人とも思われない姿で、進み寄って言うには、『多分お聞きになったで しょうが、私は昔は何某(なにがし)といった憎で、仏教についてはかなり修行と学問を 永年積み重ね、奥義を究めたと思っていました。それ故に当時は私と並ぶ者はあり ませんでした。以上のことは世間一般が広く知っているところです。しかしわたくしは、 この大乗仏教の根本を究め尽くすことばかりを第一として、必ずしも戒律を専らに修 行することはありませんでした。そのため戒律を破り穢すことばかり多くて、大乗仏教 の深い真理は探求しましたものの、人としての一生の間には学問の知解と修行とが 一致せず、なによりも戒律を破った罪の方が重かったので、魔道に入ってしまいまし た。昔からインド・中国・日本とそれぞれの世の中で立派な僧侶として有名になった 人々も、この戒を守って得られる不思議な功徳がない人は、一劫二劫、更には三、 四劫と途方もなく長い期間、悪魔の世界に落ちた例は一々数え上げられないほど 多いことであります。この悪魔の世界の慣例として、ひとたびこの世界に落ちてしまう と、急には逃げ出せません。私は二劫かかってこの業をつとめ終える義務があります。 死後、人の世では500年以上となればずいぶんと長い時間といった感じでおられる でしょうが、その500∼600年を万倍、億倍されても、まだまだその一劫という長い時 間には相当しないのです。ですから二劫と申す長い期間の終りを思えばなさけない 法式であります。毘婆尸仏(びばしぶつ)といわれる過去の7仏の第一の時代、次の狗 明恵上人伝記(29) 留孫仏(くるそんぶつ)の時代などから、この悪魔の世界におちた僧などでさえ、まだま だこの末長くこの魔道におらねばなりません。だからその深い真理を悟って、そのま まその分相応に戒律を守っておれば、このような難儀にはならなかったのでしょうが、 そんな機縁は釈尊在世中でもまれであります。まして釈尊が亡くなって後に仏門に 帰依した者では、その機縁にあずかることはむつかしい。多くの人は深い教理や偉 大なる意義は悟っても、戒を守る修行はやり遂げることがむつかしく、生命(いのち)は 短くすぐ死がやってきます。だから人はその一生の間に解行(げぎょう)相応(学問の知 解と修行が一致)しなければ、なによりも戒を破り羞恥心(しゅうちしん)のない罪によっ て悪魔の世界に入ります。悪魔の世界に入れば、急にはその世界から逃げられな いのですから、幾劫もの長い間、人間界や天上界に出て一切の世の人々のために なるようにとする手段工夫もなくなって、自分の受けた苦しみや悩みを救済すること さえできません。これでは釈尊の法度(はっと)にもあわず、菩薩の人々を教化しようと いう願いとも相反しています。故に大乗の教えを修行する者は、決して戒律を守るこ とを二の次にすることのないように、何としても練習し努力すべきであります。だから 釈尊の遺されたお教えにも、この戒のお蔭で多くの禅定(宗教的瞑想による悟り)や 苦しみなくすほんとうの心の作用も生れるのである。だから仏道に入った者は仏の制 定された浄戒(清浄を守ってゆくこと)を続けなさいとか、もし浄戒を守らないならば、 もろもろの善や仏のめぐみは皆生れることはできないとか、この戒律を守ることがそ のままあなたの導師である。もし私が生きていても同じことであるといっておられます。 しかし、中古以降は心構えも劣れば努力も不充分で、戒律を守ることもでたらめであ って、そのために世間で尊敬され崇われた(うやまわれた)僧侶でも、多くは魔道に入る のであります。自分は大乗の数えの奥深い意義を明らかに知り得たので、ただいま のこの業の報いをうめあわせた後には、悟りの世界に入ることができますものの、そ れまでの永い長い期間を無駄に苦しみ抜いてだけいたのは、ただただ戒律を守ると いう点で欠けていたためです。今の世を見ると、末法の世ではあっても仏法を修行し 明恵上人伝記(29) ようとの強い志を持った人々がいます。そこでこの戒律を軽んずるという誤りを皆に 広く知ってもらいたくて、解脱上人の庵室に他の連中と列んで(ならんで)参ったのであ ります。後進の学生に伝えて訓戒してやって下さい』と言って、それぞれに名乗る。 これは某(なにがし)、彼は誰と紹介するのを聞くと、昔、皆それぞれ有名であった僧侶 の方々であった。今の時期にはとっくに悟りの道を得て覚者の境に入られたことよと 思っていた人々が、なぜこのような悪魔の世界に迷い込んでおられるのかと不思議 に思われて、「それではどのようなお苦悩がありますか」と尋ねたところ、「ある時は多 くの魔物が襲い来たって我らの肉を食い、命まで奪う。その苦悩に辛抱できず気絶 して、ややあって生き返ると、またもや異様な形をしたもの共が現れて、頭、目、更に は骨髄・脳・手足まで切り取る場合があり、ある時は猛烈な火が現れて全身を焼く。 これらの苦悩に全うのも殺生・盗淫(とういん)の結果である。またある時は黒鬼・白鬼が 現れて鉄箸をもって舌を引き抜き、あるいは熱い鉄の輪を飲ませ、全身焼け焦れて (ただれて)炭のようになる場合もある。これは虚言(うそ)をつき酒を飲み、食事してはな らぬ時に食事をとった結果である。このような苦悩が一日に三回五回と、人により場 合によっていろいろと変化する」と言って、スーツと消え去ってしまった。このことを思 うとすべては真実である。最も慎まなければならぬことである。日本には唐から鑑真 和尚が来られて専らこの戒律を弘められたお蔭で、その当時は僧侶はこの戒律を皆 守った上に、それぞれ宗学を学んだけれども、その後年月が経てば経つほど、戒律 は流行しなくなって、袈裟に関する戒律を始めとして皆影も形もなくなってしまった。 稀に諸宗の学を学ぶ人はあっても、戒律について知識のある者はなく、ましてや正 式の作法によって袈裟や衣を受け保つ者はない。それでは何によって人としての人 格を保ってゆくのか。今日では婬・酒の戒を守る法師もまれで、五辛(臭いの強い韮 (にら)・葱(ねぎ)・蒜(にんにく)・薤(おおにら).薑(はじかみ))を断ち、食事時以外は食事をし ないという戒を守る僧侶もない。このように無作法で悪い生活をしながら、仏教の教 理だけを研究し尽くしたとしても、悪魔の道に入ったのでは衆生救済の役にも立た 明恵上人伝記(29) ず、自分の苦悩も免れず、このような状態で長い期間を無駄に送るとは、ほんとうに 損なことでしょう。何とかして昔のままに律宗を盛んにする手段を講じたい」と解脱上 人は申されたが、明恵上人もそのとおりだと仰せられた。 明恵上人伝記(30) 栂尾明恵上人伝記巻下 (30) 文覚上人の教えによって、明恵上人は紀州の庵を捨てて梅尾(とがのお)に住まれた 最初のころは、この山に松柏(しょうはく)が茂って人の往来もなく、松風の音や蔦(つた) の葉陰に見える月に接して感じの深いことであった。そこでごく粗末な草葺き (くさぶ き)の庵を造って、最初の間は上人とお伴の僧とただ2人だけで住まわれた。竹の懸 樋(かけい)や柴をあんだ垣などたよりない様子で、自然訪問して来た連中も気をひか れない者はない。翌年の春ごろから極めてねんごろで親切に希望する連中があった ので、4人になった。その一人は他でもない喜海であります。すべてのことを放棄し てただ仏教を実践する努力以外には何もせず、夜眠りにつくのも夜中の一時(ひとと き、2時間)だけで、髪を剃ったり爪を切ったりする暇も日中僅かに(わずかに)一時も(ひ とときも)及ばない。この夜昼それぞれ一時の外は、全く他事に触れなかった。その修 行の厳重なことはこの上もない。中途半端な志では辛抱できるはずもない。この者た ちは四皓(しこう)が世間を遁れて身を隠した商山(しょうざん)にくらべてよいと上人はい つも冗談を仰せられた。その後この仲間に入りたいと強く希望する者もあって、だん だん人数も増して7人になった。その時には、それでは世塵を避けて竹林に会した 七隠士(いんし)の清談の風でも手本にするかと仰せられたが、間もなくこの噂が世間 の耳に入って、仏道を求める連中が訪ねて来て、仲間入りを願い出たが、上人は少 しもお許しにならず、そのためにある者は門の外の石の上で坐り込んで6∼7日もの 間食事を取らず、ある者は庭先の泥の中に立ったまま3∼4日も動こうともしなかった。 このような行動によって自分の強くかつ深い入門の気特を示した人々は、どの人も 皆宮中の公卿方の親類で、俗世間の名誉や利益に執着しない人たちばかりであっ たから、さすがの上人もしかたなくお許しになったので、3年間で18人になった。そ こで上人は、「それでは廬山に精舎を建てた慧遠(晋代の人)の門下にまねるとしよ う。しかしこれ以外は決して許可してはならない」とご注意になった。ここに集まった 明恵上人伝記(30) 僧侶はそれぞれに確かに目標を立て、ただ仏道修行のためと心を一つにして集ま った仲間であるから、優劣もつけ難く、それぞれ努力している様子は、自分ながら立 派で、再び仏法正しく行われる御代に復帰したかと、歓喜のあまり嬉し涙に時々は 袖を湿した(ぬらした)のであった。このようにして年月が経過し、更にこの草庵を離れ 難い人々が増えて、10年以内に50人余りとなった。このように人数も増えて皆との 同座もうるさいと私(喜海)には思われたので、おもむきを変えて再び奥山静かな谷 に一人で求め入りたいという気特になった。そこで都合を見て明恵上人の前に進み 出て、この気持ちをこまかに申し述べたところ、上人はしばらく目をつぶって思い廻 らしてから仰せられるには、「修行がはかどる方を根本とすべきであるから、何にせよ やってみるがよいが、しかし経や論に依って釈尊のみ教えをよく考えてみると、修行 の方法に二つある。一つは高徳の賢者にお仕えして朝夕絶えず過失をとがめられ て、とてもこのような所では辛抱できぬというのを辛抱し、その規律のきびしいのに辛 抱し抜いて、ひもじさや寒さを問題ともせず、しばらくの時間も無駄にせずに仏法の 修業に専心するのが精進心(しょうじんしん)の人といえよう。このような人は、仏道を成し 遂げる日も近いことであろう。ところでこの山、今のやかましさは仏道修業の邪魔とな るようではあるが、実は知らず知らずに仏の道に進めるよさがある。二つには物静か な所に一人だけでいて、昼も夜もひっそりとして心の邪魔になることは一つもなく、安 らかで気楽でうるさいことは何一つとしてない。これなら修行をするのにおのずと便 利であるように思われて月日を送る。これは懈怠心(けたいしん)の人である。この何の 邪魔もないのを修業と思って知らず知らず時間にゆとりのあるのに誤魔化されて(ごま かされて) 、怠けおこたってしまうようになることを知らない。このやり方では仏道をやり 終えることはあるまい。だからこそ、教典の中で釈尊は、譬えを引いてご説明になっ たのだ。ここにその大意を申せば、譬えば一日の間に到着せねばならない目的地 があるとして、一人は体も苦しく足も痛いが、杖に頼って何としても少しも休まず、苦 労しながらもその目的地に日の明るい中に(うちに)到着した。他の一人はあまりの苦 明恵上人伝記(30) 労と足が痛いために、辛抱しきれなくなって、ある石の上で一休みした。心も落ち着 いて体も楽になり、何とも嬉しい極みで(きわみで)、この石の上に仰向けに寝ころがっ て空を見ると、空に浮かぶ雲が風のまにまに西へと流れて行く。その速いのを見つ めているうちに、自分が寝ころがっている石が東へ行くような錯覚に陥ちて(おちて)し まう。その時の自分がどのように考えるか、その考え方が重要なのだ。すなわち歩行 はたいへん苦労で足も痛いが、この石はまるで船のように走るのも速いとたいへん嬉 しく思い、風が吹き出して雲が早く流れる時はこの石もまた速く走るように錯覚し、石 に向かって独言(ひとりごと)して言うには、目が回るからあまり速く行くなよ、もっと静か に行ってくれ、このような調子では何にせよ早く目的地に到着しすぎるではないかと。 しかし日が暮れかかって、もう100里ほどは行きついただろうと思って、身を起こして 周囲を見渡せば旧の(もとの)石の上で、不思議に思って前を通る旅人に目的地まで の里数を尋ねると、まだまだ遠方である。その時になってのんびりと石の上に寝ころ がっていたことを後悔し悲しんでも効き目(ききめ)がない。以上のことをもって、この心 が伸び伸びしたのに騙されて怠けおこたるようになってゆくのを、自分では修行中で あると錯覚して一生を無駄に送った人に、釈尊は喩えられたのである。僧侶が山中 にある方がよいというのは、あまりにごみごみした連中と交際する者に向かってしば らく忠告として言う言葉だ。仏のお詞(ことば)や有徳の賢者の教えを抜き集め取り集 めて、そのお詞(ことば)や教えに拘泥(こうでい)して、自分の意見を固守してただそれ を山の奥まで熱心に持ち込み、一人であれこれ合点(がてん)して仏道を修行するの は、譬えば丸い穴に四角の鎚(つち)を入れようとするごとく無理な話である。賢い智 慧者なら決して間違いはあるまいが、そんな人は今の末法の時代にはいない。され ば根気のよい者も悪い者も、いずれも能く能く(よくよく)考えるべきことである」と仰せら れたので、なるほどと合点(がてん)のあまり感激して涙を流した。 明恵上人伝記(31) 栂尾明恵上人伝記巻下 (31) また以前に高尾山に入っていた人に、侍従の阿闍梨・公尊といって、藤原の流れで ある閑院家(かんいんけ)の末流につらなる人であるが、出家して後に山をおり、のちに またもとの高雄に帰り住んで、後悔していうには、「この高雄の神護寺の皆々との接 触もうるさく、修行だ学問だといって努力し励んではいるものの、どれもこれも世間に 聞える名誉や利益をむさぼって自分を養うためだ。このような人々と一緒にいては、 幸いにも人と生れ、また幸いにして仏法の教えに出会う幸運にあいながら、その幸 福を無駄にして、亡者の行くべき3つの途に(みちに)迷い沈んでしまうに違いない。む しろ高雄の山を出て、もっと静かな山中に引き籠り、心静かに死後に仏の位を得るよ うにと祈ろう」と思って、小原(おはら)の里の奥にちょっとおもしろい山の洞穴(ほらあな) があるのを探し出し、小さな仮小屋を建てて移り住んでみると、閑静で(かんせいで)心 が清められることはこの上もない。高雄に住んだ時間までもが今度は惜しく残念に思 われ、一日中無駄に送る時間もなく、全く浄土極楽に生れたような気持となり、雑念 を去って一心に仏道を修めて怠るまいという気持で一貫してゆこうと、半年程の年月 を送ったところが、ただ一人で努力してきたので、過去のことや将来の問題がいろい ろと気にかかり始めて、ある時思いもよらず淫りがわしいことが起った。公尊は小さな 時から俗世を触れて山に入り出家したので、それまでは仏戒(ぶつかい)を守って男女 の交わりをしなかったので、逆に女に接してみたいという欲が起ってたいへんな障害 となった。なにやかや心を他に移してこの欲望を押えようとするが、とても消えそうに もないので、「このような状態では仏道修行の邪魔になるだろう、どうせそれなら欲望 のままに目的を果して迷い心を一掃してやろう」と思って、急に変ったさまに姿を変 え、死んだ人の菩提のためにと他人が自分に施し与えてくれた物を、他に適当な物 もないために、それでは祝儀にでも与えようと思って懐(ふところ)に入れ、遊女のいる 所を尋ねてみようと京の町の方へ出掛けたが、ちょうど夏の時分で、たいへんに暑く、 明恵上人伝記(31) 京都の町近くなって胸や腹が痛くなって日射病に罹り(かかり)、苦しい姿で、道端の 小屋に入り、その夜はその小屋で泊った。翌日になっても少しも癒らず(なおらず)、力 も抜けてしまい、京都に行くことはできないで、這うようにして辛うじて小原の(こはらの) 住処(すみか)に帰り、いろいろと養生したお蔭で全快した。その後しばらくは病後で力 も抜け、欲望は隠れたままで月日を送った。ある時またしても欲望が起って目的を果 したいと思い、この前のように京へと出掛けたところが、どうしたことか、路で(みちで)先 のとがった杙(くい)を踏みつけ足に深くとげがささって、たいへんに血の流れ出る負 傷をし、痛いこと甚だしくて一歩も歩くことができず、近くの人がこの様子を見て気の 毒がって馬に乗せて小原の庵まで送ってくれた。その後この怪我もとにかく直ったが、 また性懲りもなく(しょうこりもなく)京都の町へと出掛けて行き、今回は間違いなく到着し、 色里(いろざと)を探しながらたどり行く途中で、心の中では本心を隠し隠し行くが、や はり様子がそれと知られる姿であったのであろう、多年知りあっていた世俗の人がそ こを通りあわせたのと目が合った。意外なことに驚き、恥ずかしいことこの上もなく、 露が消えるように自分も消えることができたならばと思うが、どうにも仕方がなく立ち すくんでいると、その男がいうには、「どうしてこのような所に立っておられるのかと、 なんとも不思議でわけがわからない」といった様子である。ますます不愉快で、なん で気違いじみてこのような所に来て、恥ずかしい目に遭うのだろうといやらしく思われ て、なにやかや時間をかけ、だまして逃げ帰った。そのようにしている間に終に(つい に)目的を果たさず、それ以後はプッツリといやになってやめてしまった。このようにし ている間に秋も深まり、食欲のなくなる病となり、どんな食物も欲しくなくなって日数 が重なるにつれ、身体も気力も弱まり、仏道の修業もできず、ただ苦しんでだけいる うちに一日も暮れてしまう始末、「このような姿では一人静かに日々を送っても無意 味である。身体が元気になってこその修業だ」と思い、平常置いていた雑役の者を 京都へ使いに出し、その留守の間に、この小原の山奥から樵人(きこり)が鳥を捕って 京都へ売りに行く時、彼の小屋の前の近い道を通ったので、人目につかないように 明恵上人伝記(31) とそっと買い求めて、この鳥の肉を料理して食事時にたべようと思って、台所に置い て小便をしに台所を離れた後に、捨て猫がやって来てみな食い荒らしてしまった。こ れを見つけて嫉い(にくい)というのでもなく、惜しいというのでもないが、近くにあった 木の節(ふし) をつかんで抛げ(なげ)つけたところが、間違いもなく猫の頭に当って両 眼を叩きつぶし、猫は鳴き苦しんで多量の血を流して縁の下に逃げこんだ。これ程 までの重傷を負わせるとは思わず、ただ猫をこらしめ恐れさせようとしただけなのに、 意外の結果に驚きあきれるだけであった。山に閉じ籠もって煩悩を断ち、悟りを開き たいと願ったのに、してはならぬ行いをしたことを残念に思い、悲しみの涙に袖をぬ らした。「このような挙動はただ一人、かって気ままに生活していたためである。朝は 日が高く昇るまで起床せず、夜は火を燃すこともしないので、暗さのために夕方から はまるで眠り通して時間を過ごし、姿勢を真っ直ぐにしていることは少なく、いつの間 にか物にもたれ足も伸ばし、寒い夜は小便などでさえめんどうで寝室の近くで用をた して、手など洗うのもそこそこにし、万事がかって気ままで年月を送ってしまった。あ きれ果てたことである」と自分の心を戒めながら、「もし他人の中におれば自然とこん なことにはならなかったろうに」と残念に思い、「一人のびのびした生活を送ることは 無駄であった」と気づいて、神護寺にもどってみると、公尊がこの高雄山から逃げ出 して小原の奥に移った時は、まだ稚児姿(ちごすがた)で華厳の教相判釈(きょうそうはんじ ゃく)である『五教章』などでも、読み方や意味を公尊に質問していた者が、今は少年 の僧になっていて、「いかがです」などと挨拶にきて、「あなたの小原の奥でのご様子 も拝見に参上したかったものの、学文に少しの暇でも惜しんで努力していたもので すから、失礼致しました。山中での心静かなご修行がうらやましうございます」と言っ て、仏法の文章や仏法の道理について質問をしてきた。あれこれ説明しようとするが、 言葉につまってどうしようもない。その時にこの幼年の憎が言うには、「山の中で足掛 け3年にわたって、仏法の奥深い道理を悟られたであろうと心ひかれておりましたの に、こんな簡単な質問にも、どうしてよくは分らないと、子供扱いのご返事をされるの 明恵上人伝記(31) ですか」という。「そういわれると、その通りだ」と恥ずかしくなって、「私も彼と離れて3 年にはなるが、彼は3年間、高徳の方についてその教授を耳でしっかり聞きとめたの に対し、私は一人で3年間静かに仏道を修行するものと思っていたのは、とんでもな い間違いであった。この両者を比較すれば、私もこの3年間、この神護寺に留まって 仏道の修行を努力していれば、どれ程よく、修業し得たろうに」と、今あらためて残念 に思われたとのことである。その少年僧は、はじめ明恵上人が神護寺にお住みにな ったころ、誰一人上人に及ぶ者はなかったが、その神護寺の上人の許に(もとに)通い つめて、華厳の学問をし仏教についての談話を聞いた人であった。この公尊の後悔 話をしたことも思い出して、喜海の静寂な所を求めて一人静かに修行しようとの考え も中止し、この山中で心も行いも清らかな一同が仲良く団結して、お互いに仏の教 えを勧めあい、正しい悟りへの一助とするのを第一とした。ところが近ごろでは人数も 多くなって、ある者は疑わしいものを逆に真実だと主張し、ある人は慈悲同情の心を 忘れて、他人の欠点を言いふらすようなことが時たまあった。明恵上人にお会いして、 「彼の房にはこのような善からぬ風評がありますので、この山中での仲間から追放し たがよろしいでしょう」と申し上げる者があると、上人はお答えになって、「心清らな皆 の衆といっしょにいて不善をなす者がおれば、天部の諸神が見ておられるのだから、 自然に明白となって、自分から身を退く(ひく)ものである。それに汝が私に彼の不善 を述べて彼を非難することは、たいへん無慈悲な処置である釈尊は現場を自分で 見聞きしても、僧侶の過失を他人に言い弘めてはならないと禁止された。これはたい へんに意味深い教導への巧みな手段である。あさはかな智慧ではその真意が理解 できないのである。仏の弟子となった者の過失をあれこれ指摘することは、百億の仏 たちの身体から血を出させる以上の罪だと説明されている。また、いま一つには仲 良く修行している僧侶の中を裂くということは、五逆罪の一つでもあり、四重禁(しじゅう きん)以上の罪でもある。 汝は既に以上の二つの罪を犯した。五逆の罪悪を犯した者としばらくの間でもいっ 明恵上人伝記(31) しょに生活することは堪えられない」と言われて、まず第一にこの訴え出た僧を山か ら追放された。その後にこの善からぬ噂のあった僧に事の次第を充分に問いただし、 この僧の罪もまた逃がれぬところとして同様追放にされた。もしもそれという程の証拠 のない者に対しては、一般の人でも証拠不充分は罪にしないのが仁 (じん)の道とし ているのだからとして無実にされた。以上のようであったから、仏のご加護も大きかっ たのでありましょう。ほんとうに善からぬ者は、自然と山から退いたので、山中の心清 い一同は、もはや穢されることはなかったということである。 明恵上人伝記(32) 栂尾明恵上人伝記巻下 (32) 秋田城介景盛から聞いたところであるが、北条泰時がいつも人にあって語られるに は、「自分は不出来な人間でありながら、辞退せずして執権となり、政務を執って(とっ て)天下を治めることのできたのは、もっぱら明恵上人のお蔭である。なぜかといえば 承久の大騒動の後、京都にいた時はいつも上人にお目にかかった。ある時、仏法の お話のついでに、「どのような手段で天下を治めたらよいか』とお尋ね申したところ、 上人が仰せられるには、『七転八倒して苦しみぬいている病人でも、名医はその患 者を見てこれは寒(かん)が原因である、この病人は熟が原因であると、それぞれその 病気のおこった根本を知って、薬を与え、灸を据えれば、たちまち冷熱(れいねつ)去 って病気が全快するように、国家が乱れて平穏でないのは、何が原因かと、まず根 本の原因をつきとめなくてはならぬ。そうでなくその場その場にぶつかって賞罰を与 えるのでは、ますます人の心ねじけて世の中騒がしくなるだけで、恥を知るということ もなく、前を治めれば後が乱れ、内を穏やかにしたかと思えば外から恨むといった工 合(ぐあい)、これはちょうど藪医者が寒熱の原因をつきとめもせずに、その場で病人の 痛がる所に灸を据え、患者の希望どおりにやたらに薬を与えるようなものである。真 心を尽くして患者を治療するとはいうものの、病気発生の原因を知らないために、根 本からの治療がなされず、かえっていよいよ病気は重くなって直らないようなもので ある。世の中の乱れの根本原因は、何から起るかといえば、ただ欲が原因である。こ の欲がすべて禍い(わざわい)となり、天下の大病となるので、これを治療したいという のであれば、まず第一にこの欲をなくするがよい。そうすれば、天下はおのずと泰平 (たいへい)となりましょう』と言われた。泰時が申すには、『このお教えは大切であります から、私自身は全力を尽くしてこのお教えを守りましょう。しかし他人がこのお教えを 守るとなるとなかなかむつかしいかと存じますが、どのようにしたらよろしいでしょう か』。上人が答えられるには、「それは容易でしょう。ただ為政者としての貴方お一人 明恵上人伝記(32) の心次第でしょう。昔の人も身体の姿勢がまっすぐなら影は曲らない、政治が正しけ れば国は決して乱れないという言葉があるが、この正しいとは無欲ということである。 また、為政者が自分の室で仕事に当っていても、立派な事をしている時には、1000 里よりも遠い地方のものまでも、皆その指示に従うものだという言葉があるが、このよ いとは、やはり無欲ということである。ただ為政者である貴方お一人が無欲になりきら れたなら、その徳に感化されて、国中の人々皆が自然に欲が薄くなるでしょう。欲が 小さくなって足りたという満足感を持つようになれば、天下は容易に治まるでしょう。 人々が欲の深い訴訟を持ち込んで来たら、まだまだ自分の欲は直っていないため だと承知して、自分に反省し自分自身が恥かしいと思われるがよい、決して彼の訴 訟人を罰しなさるな。これは譬えば自分の触った影が水に映ったのを見て、自分の 姿勢を正さずに、影が曲っていると怒って影を処罰しようとするようなものです、物の 道理のわかる人の傍らにおれば自分が馬鹿らしく思うことです。伝え聞いたところで は、周の文王の時代には、国中の人民が田畑の境界である畔(あぜ)を譲り合ったが、 それもただ文王一人の無欲の徳が国中にゆきわたったから、国民すべてが皆このよ うな優しく立派な心の持主となったのだということである。畔(あぜ)を譲るというのは、 自分の田の境界を他人の方が多くなるようにと避け譲って、自分の田畑を少なくする ことである。お互いにこのように譲り合って、自分の田地は他人に与えようとはしたが、 間違っても他人の土地を奪い取ることはなかった。訴訟のために都へ上る人が、こ の周の国を通って、譲りあう様子を路傍で見て、自分の欲の深いことを恥じ、訴えを 中止して途中から帰ってしまった。この文王が自分の領土を治めただけでなく、他国 までも徳をひろげられたのも、ただ自分一人の無欲のお蔭であった。かようにこの徳 が充ち満ちて、周は天下を統一して800年にわたって天子の位を保持したのである。 だから貴方一人欲が少なくなられれば、天下中の人皆このようになりましょう』と言わ れた。泰時はこの上人の教えを頂戴して、肝に銘じて大きな願を起し、心に誓ってこ の取意を守りました。だから父の義時朝臣が元仁元年(1224)に卒去(そつきょ)した 明恵上人伝記(32) 時、急死であったから、所領・財産などを譲り渡す旨の遺言も書いてなかったので、 尼将軍といわれた北条政子の命令で、泰時は「家督相続者であるからには、資産が 少なくては一国の政治のうしろだてになれないから、自身は充分の財産を継ぎ、弟 どもにはそれ相応に分に従って少しずつを分け与えるがよい」という指示もあったが、 よくよく父義時の心中を思えば、自分より以上にずっとこの弟どもをかわいがられた のであるからと推定して、弟の朝時・重時以下にたくさん与え、泰時自身の分として は三四番の末っ子の資産と同程度に少なく取った。「こんなに少しではどうしてうしろ だてとしてやってゆけよう」と、政子からも諌められたが、今日までのところは少しも不 足と思うこともない。このように万事小欲に行動したためか、天下は日一日と安定し、 諸国も一年二年と平穏に、親に孝をつくす子の例は次々とその数も多く、訴訟に対 して不正な判決があったと聞くことは少ない。これは一途に(いちずに)明恵上人のこの 有難いご教訓によるのだと言って、感涙にむせばれた。この泰時の前に訴えた者が 2人揃ってそれぞれその主張を申したのに対し、2人の顔をしばらくまじまじと見守ら れて言うには、『私は天下の政治を掌握するに当って、人々の心に悪だくみのない ようにと思っている。それだのにただいま訴訟を持ち込んで来た2人の中の一方は 必ずや悪だくみの者であろう。清廉(せいれん)で潔白な正直者の間には訴えが起るは ずもない。来るべき何月何日にそれぞれ証拠の文書を持って来い。その日に虚言を 述べた者は、その罪の軽重(けいちょう)によって、その場で死刑にも流罪にも処断する であろう。ずるがしこい者が一人でも国中におれば、すべての人に禍(わざわい)を及 ぼす。これこそ天下万民の大きな敵である。早速帰られるがよい』と追い払われた。 この泰時の態度を見て、これではどんな目に合わされるかわからない、訴訟しても少 しも利益にはならないと、2人はそれぞれ話し合って伸よく話がつき、あるいは自分 に欠点のある方は自分の方から負けとして相手に渡した。無欲に行動する人はこれ を褒め讃え、欲ふかく行動する者に対してはある時は怒り、ある時は恥辱 (ちじょく)を 与えられたので、人々は何とかして無欲になり、立沢な評判が泰時の耳に入ればよ 明恵上人伝記(32) いがと、遠近を問わず皆心を一つにして努力したので、訴訟は全く無くなった。そこ で国々すべて平和に治まり、政治において言い争うこともなかった。寛喜元年(122 9)に日本中が大飢饉になった時には、京都・鎌倉をはじめとして全国にわたって裕 福な者に対し、泰時が保証人となって、くわしく証文を書かせ判まで捺して(おして)、 利息も加えて米を借り、それぞれの郡・郷・村々で餓死しかかっている者の希望によ って、一様平等に貸し与えられた。『来年中に凶作がおさまって収穫も本来の姿にも どれば、元金だけを確実に返すがよい。利息分は私の方で加えて返納しよう』と規定 を作って各人の借用証を留め置かれた。もし自由に配分されたのでは、ここかしこの 奉行も混乱して、騒がしくなったであろうから、そんなことのないようにとの配慮からか も知れないが、賢明な処置であった。さて世の中も立ち直って各自が借米(しゃくまい) を返納するに当っては、以前から所領などもあって資力のある人には、借米の元米 (がんまい)だけを返納させて、貸し方の方には約束通り泰時の方から利息分を加えて 確実に返済された。また資力も無い旨がわかった者には全く返済を免じて、泰時が 自分の領地内の米で庄園の所有主に返済された。このような不作の年には、家中に いつも倹約を実行して、畳をはじめすべて古い物をそのまま使用し、衣裳などでも 新しい衣裳は着用せず、烏帽子(えぼし)の破損したのでさえ修繕させて着用になっ た。夜は灯火を節約し昼は一回の食事を中止して、酒宴遊覧の催しも中止して必要 の費用に当てられたのである。心ある者は、このことを見聞して感涙にむせんだとい うことである。しかし泰時が亡くなると、次第に父母に背き(そむき)、弟どもを無い者に してしまいたいといった訴訟が多くなって、人の道としての孝行は一日一日とすたれ、 一年一年と行われなくなった。ほんとうに上人のご教示どおり、『一人の為政者が正 しければ万民がそれに従って正しくなることが明白である』と噂しあったことです」。 明恵上人伝記(33) 栂尾明恵上人伝記巻下 (33) 泰時が梅尾(とがのお)に参り、仏法についていろいろ話をされた折に、上人は次のよ うな質問を出された。「昔の賢人の言葉に、人数多い時は天の理を無視して天に勝 つこともあるが、天運循環して常態に復すれば、天の正道は人の邪悪に勝つとある。 ただ武力だけで国を手に入れられても、それに伴う徳がなければ、禍(わざわい)がくる ことは遠くはありますまい。聖人賢者の言葉は疑うべきでありませぬ。昔から我が国 でも中国でも、権力で天下を統治した者は、長く政権の座にあった例がありませぬ。 申し上げるのも尊いことながら、我が日本は神代から今上(きんじょう)天皇まで90代に 及んでおり、代々皇位を受け継がれて万世一系、皇室守護の30番神、今日末世末 代ではありますが、日々に守り給うと聞いています。日本中のすべての物はことごとく 国王の所有に帰すべきものであるから、国王がこれを取られるのであれば、何の文 句もないはず、惜しむ理由はありませぬ。たとえ生命を奪われても、この国土に生れ た者として、道義の心得ある者はどうしてこれをことわる事ができましょう。もしこれを 断るなら、日本から離れて、中国やインドへでも行くべきであ。ます。伯夷(はくい)・叔 斉(しゅくせい)は周の国の穀物はたべまいと、首陽山(しゅようざん)に隠れて蕨(わらび)を 採って露命を継いだのに、国王の命令に反対した者が、どうして国王の領地の蕨(わ らび) を食べるのかと問い詰められて、なるほどその理屈はもっともであったから、蕨 (わらび)も食べずに餓死しました。理屈を知り心ばえのしっかりしている者は、皆この ような態度をとりました。だから朝廷から今までの賜り物を召し上げられ、また命を取 り上げられても、日本国におる以上は、惜しんだり背いたりすべきではありませぬ。そ れだのにかってに武力を振りかざして官軍を滅ぼし、皇居を破却し、その上に太上 (だじょう)天皇を遠い島にお遷し(うつし)申し上げ、王子や后方(きさきがた)をそれぞれの 国に流し、公卿・殿上人(でんじょうびと)を放逐(ほうちく)して、ある者はにわかに親類と引 き離され、ある者はたちまちに財物宝物を奪われて、繁華な(はんかな)通り路(とおりみ 明恵上人伝記(33) ち)で歎き悲しんでいる姿を人づてに聞くと、ちょっと見ただけでも、その行為は道理 に反しています。もし道理に違反したならば、目に見えない仏がこれをご覧になり、 天のお咎め(おとがめ)がないわけはありません。いい加減の徳では天の咎め(とがめ)を 弁償することはありますまい。災難を弁償しないならば、不幸がなくなり、罪を消すこ とはできません。罪を消すことがなければ、当然、たちまち地獄に入るでしょう。貴方 (あなた)のご様子を拝見しますと、こんなに道理に違反したことをなさる人ではないの に、どうしたことかと、お目にかかる度に(たびに)、不思議にも思い、気の毒にも思って おります」。泰時は流れ落ちる涙を知らぬ顔つきでぬぐい、鼻紙を取り出して鼻をか んだりして平静さをとりもどして、答え申し上げるには、「このことについての自分の考 えを、かねて委しく(くわしく)お話したいと思っていましたが、これという機会もありませ んで、そのままになって今日まで参りました。頼朝将軍が平清盛入道一族を滅ぼし て、天子様のご心配も国民すべての心配もなくし、忠義を尽くしたので、大納言で大 将に任命されただけでなく、日本国の惣追捕使(そうついぶし)を拝命したのであります。 このような時は、その都度固く辞退されていいますには、『頼朝は平氏一族の凶徒(き ょうと)を平定して陛下のご心配を一掃し、貧しい国計をはぐくんで、天子のご裁断を 乱さないようにと心掛けております。これは若い時から願ってきたところであります。 それだのに今官位の最上位につき、俸禄(ほうろく)も十二分に戴くのでは、自分の覚 悟を汚すようなものであります』と、詳しく事情を申し上げて堅くことわられたが、勅命 再三にわたったので、勅命に背くわけにはゆかず、泣く泣く官位俸禄を頂戴したの である。このため頼朝の親類、一族みな恩賞にあずかる中で、私の祖父時政、父の 義時は特別に陛下のご恩を頂戴致しました。これは皆今はなき後白河法皇のお恵 みの下で運が開けたことに始まります。これを思って、法皇のご子孫の御歴代の天 皇に対しては、ますますこの上なき忠誠を尽くし、純忠(じゅんちゅう)一本に努力しよう と、心中に深く覚悟をきめたのであります。それだのに法皇が建久3年(1192)に崩 御(ほうぎょ)になり、正治元年(1199)将軍頼朝が亡くなってからは、朝廷の御政治も 明恵上人伝記(33) おとろえ、忠節を尽くしても忠を認められず、罪も無いのに処罰を受けた者は数えき れない程であります。日本中の国々はたいへんな迷惑をうけ、国民はたいへんに憂 い悲しみました。これという誤りもない者が、父祖代々相続してきた荘園を奪われ、 朝に(あしたに) 頂戴した者も夕べには奪い取られ、昨日下された荘園は今日には別 の人へと改められ、一郡一庄に3人も4人も領主があって国々で合戦の絶えることが ない。各地にさまよい歩く人多く、山賊や海賊は満ちあふれて、人々は安心もしてお られず、旅に出る者も少ない。飢えや寒さに苦しめられる者多く、あやしい流浪者と なる者の数もわからない。このようなことが2∼3年の聞つづいたので、嘆かわしく思 っていたところ、結局は北条氏を滅ぼすご計画と聞き知りましたが、これという証拠も なかったので、朝廷へ哀訴(あいそ)嘆願もいたしませんで、恐れ謹んでおりましたとこ ろが、既に伊賀判官(ほうがん)光季(みつすえ)を滅ぼし、数万騎の官軍が関東さして出 発と、伝え聞きましたので、父の義時は内々で私を呼んで言いますには、『どのよう に取りはからうべきかを、内々評議した後で、二位の尼の竹の御所に行って相談せ よ』と申しましたので、わたくしが答えて申しますには、『平清盛が陛下をお苦しめ申 し、日本中に心配迷惑かをかけましたので、平家を滅ぼして、上は(かみは)天子のご 心痛を休め下は万民を治めてきましたのに、それを処罰されるとは、これは朝廷のご 失政ではありますまいか。しかし日本中すべて天子のご所有であり、ひとたび日本に 生れた以上は、すべて陛下のお考えにお任せ申すべきでありますから、頭を下げ両 手を束ねて(つかねて)降参人(こうさんにん)となって嘆願申すのがよろしいと存じます。そ の上で、それでも死刑斬罪(ざんざい)ということなら、止むをえぬことでありましょう』と申 したところ、義時朝臣はしばらくの間考えていたが、『その道理はよくわかるが、それ は陛下の御政治が正しく行われて、国家がよく治まっている時のことである。今は上 下すべて不安な思いをしない者はない。それに反して関東御分国としての幕府支 配地だけは、多少とも朝廷のこの失政から免れて、人民は安心しておれるのである。 もし日本中が君主の支配地となったなら、不幸は日本中に充ちあふれて、安心もで 明恵上人伝記(33) きず、国民はたいへん欺き悲しむことであろう。だから天下万民の歎き悲しみを代弁 して、そのためには自分自身の神仏の加護がなくなり命を落しても歎くべきではない。 このこと先例がないわけではない。殷の(いんの)紂王(ちゅうおう)を討った周の武王や秦 (しん)を討った漢の高祖は、既にこのことを実行したのではなかったか。彼らは自ら国 王の位についたが、我々関東勢は、もし勝利を収め得ても、天子のみ位を改め申し て別の方を天子のみ位におつけ申すだけであるから、皇室朝廷の守護神である天 照太神(あまてらすおおみかみ)や正八幡宮(しょうはちまんぐう)の神々からも何のお叱りがあ ろうか。君主を悪へと誤って導き申し上げてはならない。誤った道へと導き奉った側 近の臣どもの悪い行為を罰するだけのことだ、早速出発せよ。またこのことを二位家 (二位尼政子)にお伝えせよ』と言って座を立ったので、しかたなく父の言葉にも一 つの道理がある以上、その命令にそむくことができないので随いました。そこで京都 に入りましたが、最初に八幡大菩薩の前にある橋の所で馬から下り、頭を下げて信 心こめて祈って次のようにいいました。『此の度の京都入りが道理に背いたものなら ば、この場で泰時の命を奪い取って来世をお救いください。もし天下のためともなっ て人々の心を安んじ、仏神両道を興隆することができますなら、私にいつくしみと哀 れみを授けて下さい。凡夫にはわからぬが神仏の心はきっと見ていて下さるでありま しょう。少しも私心は持っておりません』と。また伊豆山(いずさん)権現と箱根権現、及 び三島明神の前でお誓い申したことも同様であります。それ以後は命を天に任せて ただ運命を待ちましたが、今日まで無事にまいりました。これはあるいは最初の祈願 の結果でありましょうか。それだのにもし私が怠けて仏神二道を興隆せず、国家の政 治を大いに補佐しなければ、その罪は私一人にかかるべきであります。そこで食事 中でも、誰か訪ねて来る人があれば、食事の終了を待たず急いで訪問者に会い、 頭髪を梳る(くしけずる)短い時間でも、訪問者が来れば終りまで待たせることなく直ぐ に逢うといった工合で(ぐあいで)、休んでいても寝ていても、やはり心安らかでなく、訪 問者が何か心配事で訪ねて来たのを待たせているのではないかと惧れ(おそれ)、更 明恵上人伝記(33) に国民すべてを愛撫(あいぶ)して成長させたいと計るとともに、退いては必ず反省し ているのでありますが、生れつき道理に暗いので、まだまだ不充分なところがあるで しょう。その罪は逃れることがむつかしい。今、上人の慈悲あるお言葉を頂戴して、 感涙にむせんで涙を止めることができませぬ」と言った。 明恵上人伝記(34) 栂尾明恵上人伝記巻下 (34) ある人がおいでになった時に、上人が言われるには、「寺院が知行していた領地が 取られたりした時、色々と秘密の計(はかりごと)をして領地を今まで通りにと画策するよ うなことはしてはならない。なぜなら、昔それ相当のご緑で寺領となったものが、今ま たそれなりの縁で寺から離れるのであって、この世は無常で、会う者は必ず離れる 道理であるから、にわかに驚いたり歎いたりすべきではない。田地を貯えることは仏 の禁止せられたところであるから、所領が無くなれば、自然に仏の本旨にかなう。有 る時は有ったで有益に利用し、無ければ無いで楽しめばよいので、何の煩いもない ではないか。それだのに寺領の裁判のために裁判所へ出かけ、多少とも謀計(ぼうけ い) ・奸曲(かんきょく) といった善からぬ (よからぬ) 策略をまずめぐらし、集まりむらがる訴 訟人どもの中にいっしょになって、こちらの縁側の隅、あちらの廊下のあたりと、坐る 者、立ちどまる者、うろうろする者、どれも醜い姿で、一目見た者は見なければよかっ たと目を洗いたく思うであろう。分別のある俗人がそばでこの様子を見て言うには、 『家を出て財産も棄て、親を捨て親から離れて、ただ一筋に無欲な清い悟りの道に 入るのが僧侶の正しい姿である。それなのに、逆に俗界にもどって騒々しい俗人ど もの仲間に入り、利を求め物欲のまにまに動いて媚び諂う(へつらう)姿は、まさしく仏 徒でありながら仏法に害をなしている者ではないか。とても見てはおられず、何とも 悲しい極みである」と、排斥しない者はない。人々が僧侶をおろそかにし、仏法を非 難するのに、これ以上のよい都合があろうか。ここにある人が弁じて言うには、『これ は自分一身のためにするのではなく、寺の建物を立派に造り、仏法を盛んにするた めです』と。もしそれならば、逆に考えており、これは本末転倒である。仏法が盛んに 行われるということは、皆が樹木の下や磐石(ばんじゃく)の上に坐っていても、それぞ れ仏の教法に従い法式に適って修行し、悟り、実現するのをいうのである。塔を建て たり堂を造ったり、仏像を安置申し上げても、戒律を破り、罪を犯しても心に恥じない 明恵上人伝記(34) 僧侶がいつづけて仏道を修行しても、自分自身の立身出世利欲のため、または美 しい立派な禅定を得たいとか、地獄には落ちまい、餓鬼にはなるまいなどと考えて、 自分の身を済度(さいど)したいという心に執着し、拘泥した、商売人じみた心で、欲深 な裁判沙汰に仲間入りし、その人の心に浮ぶことといえば、ただ自分一身の利益に なりますようにと運動し計画することであり、口に出して言うのは、貴賎をとわず他人 の悪口であって、そんな毎日で月日を送ってゆくのは、まさしく仏法が破滅する原因 である。だから賢明な人は自分の持ち物でも、わざとこれを捨てるような人もある。ま して他人が横から取ろうとするならば、捨てるべき時がきたわいと悟って、善行として その人に回し与えて、これも仏のご慈悲であると思って、どこかの山の隅にでも引き 籠つたり、あるいは立派な正法を説いて解脱を得させてくれる人のために、身命をな げすてて奉仕し、ただ一筋に物欲の心から離脱して、清らかな仏道への修行に努力 すべきである。ある書物に、『昔、摩竭陀国の城内に一人の僧がいて、毎朝東に向 かっては悦びを表に現して礼拝し、北に向かっては嘆きの声を出しながら涙を流し ていた。他人が不思議に思ってこの理由を尋ねると、答えて言うには、東の方角の 城外に山がある、そこに悟るための教えと悪を除くための戒を、共に急いでいる僧が 樹下に坐禅し、仏法を実現して既にかなりの年月を経過している。これは仏法の盛 んなためであるから、私は毎朝東に向いてこれを礼拝している。北に向いて城内に 寺があり、数十の塔がぎっしり並んで、金銀を鏤めた(ちりばめた)立派な仏像や経巻、 更には百千の多数の僧侶が住み、食事も衣服も寝具や医薬品に至るまでなに不自 由なく充分にそろってはいるが、しかしながら釈迦如来のほんとうのお教えの眼目を 残るところなく悟った僧侶は一人もない。ここでは既に仏法は死んでしまっている。 だから毎朝嘆き悲しんでいるのだ』と記されてあるが、これがその証拠でしょう。だい たい智慧のある人は、布施してくれる俗家(ぞくけ)の布施でも決して受けたくないと思 っている。どうして無理に裁判にまで訴えることがあろうか。なぜなら戒律も行われず、 内心の悟りも不明なままに受けた布施は、その一つひとつが罪の原因となるからで 明恵上人伝記(34) ある。死後は三途の川で苦しむこと間違いあるまい。このような振舞いをしては、お 経を読み陀羅尼を誦して(しょうして)罪を消そうとしても、その効用はないものである。 それは譬えば病人がいろいろな香や味の毒物を与えられて、一時は気分がよいま まに食べるが、その後で、毒物がそれぞれに作用して苦しみ七転八倒、内臓が破れ、 良薬を服用しても手遅れで効果もなく死ぬようなのと同じである。徳のある人は、金 銀や真珠や玉を受け取っても瓦小石や土くれ程度にしか思わず、すべての物を夢 か幻のように見て、布施を受けても受けたという実感もなく、役に立たせても役に立 たせたとは思っておらず、これは凡人並みの思慮でおしはかれるものではない。こ のような徳のある人は、それでも布施をしてくれた人の幸福を大きくするために、また は仏教が盛んに行われるようにと、布施された荘園や財宝に対して徳恵を与えるの である。だいたい国王となり大臣となり、あるいは高位高官に昇り、あるいは充分に 国土や城や田園を支配し、何ともいえぬほどすぼらしい珍宝が満ちあふれており、 百歳の寿命にめぐまれ、人以上の優れた芸の能力をそなえ、学問の力が優秀で、 顔かたちも美しく、どんなことでも希望どおりになるといったようなことは、すべて仏法 のご恩から出ないものはない。だから富んだ人は富んだで、貧しい人は貧しいで、 仏法を尊敬崇拝して財宝を布施として捧げ、真心(まごころ)こめて仏を供養して決して 軽蔑しあなどってはならない。この世でこのように豊かに栄えることができたのは、前 世で戒律を守り、寺院を造って僧侶に布施をし、貧しい人に宝を与え、仏像や経巻 を立派に装飾するなどの善行をした報いである。もしこのような諸法を生みだす種子 がなければ、まず第一に人として生れてくるはずがなく、まして右に述べたような楽し みを受けられようか。もしこのたびの世においても前と同じように善を行うことがなけ れば、何を来世の幸福を得る因果としようぞ。譬えば、去年よく耕作した田畑の収穫 が、今年豊作であっても、豊作によい気になって、来年のために耕作しなかったなら ば、次の年は不作で餓死すること間違いがないようなものである」と説かれた。 明恵上人伝記(35) 栂尾明恵上人伝記巻下 (35) ある人が言うには、「仏法が伝来しない前にも、中国や日本に命も長く、しあわせの よい人があったが、何の力のおかげでしょう」とお尋ねすると、上人が答えられるには、 「わざわざ答える必要もない質問である。日本に仏法伝来しない時には、中国に仏 法盛んであった。中国になかった時には、インドにあった。インドになかった時は西 方にも、東方にもあった。どこまでも遠い過去から仏は生れ出て、莫大な世界に仏・ 菩薩がいっぱいになって仏の数えを弘めないということはない。あちらの国の人はこ の国に生れ、この国の人はあちらの国に生れる。だから仏教の伝来しない所だから といって、仏法を修めた人の生れない理由があろうか。一時的なふとしたことでも、 仏法の恩でないということはない。このように厚く深く仏法の恩を受けて、人として生 れて封禄(ほうろく)を充分に受けた人が、その仏恩であることを知らないで、仏法に対 して愚かな仕草をし、荘園や田畑を惜しみ、珍財をなげ捨てもせず、寺院を建ても せず、仏法の妙理を明らかにもせずに、一生を無断に過ごすことは、大馬鹿であり、 あきれはてたことだと思われる。それ故に諌め(いさめ)を聞く人ならばすぐに教訓し、 諌めても(いさめても)聞かない人間ならば巧みな手段をつかって数えるがよかろう。俗 家の人に対しては幸福を増すために、好んで布施をするように努力させるべきであ り、僧侶は罪に堕ちることを特に怖れるものであるから、極力、他人から寄附・寄進を 受けないようにすべきである。僧侶でありながら寺領や仏法僧に関連する品物や金 銭のために、工面し、周旋 (しゅうせん)する必要があろうか。そんなことをするから、ま すます俗家の人から非難され、仏法僧の三宝の権威も落ちて、その地がうつり変っ てしまうだけでなく、二の場所、三の場所までも寺院は荒廃してゆくことであろう。こ のことが俗家の人から非難されるのは当然で、皆僧侶がけしからぬからである。 見たり聞いたりされたこともおありでしょう。私高弁は徳もない僧侶ではありますが、 物が欲しいという気持がないからでしょうか、物をあげようという人は多いが、私の物 明恵上人伝記(35) を掠め(かすめ)取る人は一人もありませぬ。もし人が寄附されるままに頂戴していたら、 この梅尾(とがのお)の山中に千人も僧侶は住めるようになり、この寺の中には倉が数 十も建つようになろう。しかし何やかやと考えるところがあって、自分の必要品以外は いただかない。今は末世末代ではあるが、それでもこのとおりである。裁判に訴える ような寺領のごたごたの起る所は、その寺の僧侶の過失であろう。自分を省みて恥じ るがよい。他人を恨んだり怒ったりすることがあってはならないのだ」とさとされた。 また上人の言われるには、「他人の道理にあわぬことを、聞いたり見たりしても、これ を非難してはならない。出家して仏道を学ぶ人に三機(機は心の働き)がある。上機 の人には我執がないから、少しも気にかからない。中機の人はふと心にかかることは あっても、我執のない道理を知っているから、また続けて気にかけることはない。下 機の人は我執のない道理までは理解しないけれども、人を傷つけまいとの慈悲心が あるから、他人の間違いを気にかけたり、口にすることもなく、更に他人が口にすれ ばしきりとおし止める。このような人は珍しい人である。ところでこの三機以外に必ず 地獄に落ちる心を持った恐ろしい罪人がいる。 他人の道理に合わぬことを心に思い口にして、他人の一生をだいなしにすることも 気に掛けず、人の恥となるようなことをあばき示す。いったいこれは何のためか。人 に道理に合わぬことがあっても、それはその人の不正であるはずで、それを脇にい て言えば、そのまま今度は自分の罪となるのである。無益なことである。人の恨みを 買えば、怨恨となってどんな災難にあわされるかわからない。よくよく思慮し判断す べきである。もし世間のため、仏法のためというのならば、多くの仏も神もこの世にお られるのだから、その仏や神の訓戒におまかせすべきで、自分自身で強いて(しいて) 積極的に非難してはならない。非難したくてムズムズしても、しっかりと口を閉じて、 少しも他人にしゃべってはならない。もし本人が忠告を聞いてくれるようなら、その本 人に向かっては教え訓す(さとす)のもよかろう」と仰せられた。 明恵上人伝記(36) 栂尾明恵上人伝記巻下 (36) 寛喜2年(1230)、和字で『八斎戒自誓式』を選定して、僧侶や俗人に示された。 同年7月に『盂蘭盆経の式』を作ってこれを修められた。 また善財童子、55人の解脱を得た人々の次位の建立、奥義を会得(えとく)するため の規則に従って、十門の科文(かもん)を示し、皆の者に言われるには「この法文は以 前からすっと研究してきたところである、皆この法文を聞くがよい」と言って、いつも講 義された。この十門で『華厳経』の大要をしめくくり、55の解脱を得た人々の法門を まとめて、堅固で崩れない見聞の種をつつんで、善財童子の跡を尋ね、学問の理 解と修行が円満に調和した結果として、十仏の到達した覚りに到達するためである。 上人は夢で、大海の海岸に大きな石が空中へ高く聳え(そびえ)立って、草も木も花も 果実も暗いほど茂って花やかに美しい景色のよい土地があり、それを大神通力で広 い大海原といっしょにひっくるめて、十町(約1km)ばかりを抜き取って、自分のいる 場所のそばに置いたと見られて、その夢がさめてお話しになられるには、「この夢は 死夢(しにゆめ)であると思う。死後の世界で受ける自分の報いをこの世で告げてくれた のだ」と仰せられた。 明恵上人伝記(37) 栂尾明恵上人伝記巻下 (37) 同3年10月1日から、疲れ気味で、食事を召し上がらなくなった。上人の仰せには、 「私は今や人の世に仕事は無くなった、長命であれば逆に皆の争いをふやす結果 になろう。私の語った仏の教えは、人ごとに受け取り方がちがっていた。仏の教えは 三科、すなわち一切諸法を三種に分けた蘊・処・界のそれぞれについても、万有の 根底は不生であるという理法を明示して、一般の人々が自己は実在すると思う執着 から反省し離れるようにとさとすためであるのに、それを学びながら、本人はますます 自分の偏頗(へんぱ)な見地を強めてゆき、そのために大乗の無相・無生の不思議な 道理、五蘊三性の教え、また越(おつ)百六十心生(しんしょう)広大功徳と説明し、本初 不生阿字の悉曇(しったん)に関しての密行、中心である瑜伽、これらのすべてが空し くなり、法の真実の姿に合わず、耳に聞き目に見る虚妄な塵の中に埋もれて、名聞・ 利欲の棘(いばら)の中にかくれてしまった。ちょっと聞けば仏法を唱えているようで、 真実は外辺に止まり邪悪に留まって、正しい智慧に発する声は聞かれない。これは 間違っていると中止させれば、名字の勉学法は絶え、たよって尋ねようとすれば、直 ちに涅槃に入る道は入口もわからなくなるであろう。仏の説かれた道は入ることがむ つかしく、正しく悟って我々を導を給う人は会うことがむつかしいといわれているのは ほんとうで、悲しいことである。もし無明・煩悩を離れて悟りの果を得た聖者であった ならば、今ではもう阿難尊者が『若人生百歳不見衰老鶴(にゃくにんしょうひゃくさいふけんす いろうかく)』の頌文(じゅもん)を聞いて亡くなったように、死ぬであろう。これを考えると、 あの『法炬陀羅尼経(ほうこだらにきょう)』の中に、「過去十四億の如来に親しみ近づい て仕え奉っても、仏法を会得することのできない菩薩がいる」と説かれているが、なる ほどもっともなことと思われる。いつの時代に、何に生れたならば、仏教の教えの大 要や、如来の本意を知ることができようか。重罪に処せられる十悪が国中に充ち、賢 い人がはかなんで世を捨てる時には、山も河もすべてその汚濁(おじょく)にそまって、 明恵上人伝記(37) 国も本来の国でなくなってしまう。それならば今は仏の数えも本来の仏の教えでなく、 俗世間の法も本来の法ではない。見るにつけ聞くにつけて、これは気にかかることで あるが、心を留めるべきことではないから、今は死ぬにはよい時期である。私が死の うとすることは、今日が終れば明日が継いで続くのと異なるところはなく、ひと続きの ものだ。いわば大きな所領や荘園を得て、その地に向い出発するような感じである。 死後にどこへ生れ出るかは、はっきりしている。仏の教えを記した経典に出会い、容 易に聞かれない仏法を開く機会を得た利益というものは、必ずあること、疑いがな い」と仰せられた。 明恵上人伝記(38) 栂尾明恵上人伝記巻下 (38) 同4年正月上旬から病気は次第に重くなって直られそうもない様子になってきた。病 気の間も結跏趺坐(けっかふざ)の修行の坐相で禅定に入り、その間、弥勒菩薩のたれ ぎぬの前に安置してある土砂加持(どしゃかじ)をした砂が、にわかに紺青色(こんじょうい ろ)の光や炎を発して、室内に散るのを見た。禅定に入るまでの時間には、仏教の教 えを説かれて皆を誡め(いましめ)、死後の行事を定められた。 ある時上人の仰せには、「文殊菩薩のすばらしい大智にたよって、仏教の奥深い趣 旨を心の奥に求めたが、要するにそれは物質と精神との二元的存在を否定する不 思議な道理である。これは過去・現在・去来の仏たちの示された大道であり、釈尊一 代の多くのお教えの本意であるから、手放ししで空・空とだけ空らしくしていれば、空 らしい死にかたで死ぬであろう。この空の故には無常を征伐して、その後でこそ自分 は死にたい、決して無常によって殺されてはならない」と、戯れに冗談を仰せられ た。 平生坐禅の時は、こんなにまで近く上人を見つめ申したことはない。この病中のご看 病の際に近づいて拝見すると、禅定瞑想に入られる時には、しばらくの間呼吸も止 まり、体は少しも動かず、もしや亡くなられたのかと驚いて手を上人の口に当ててみ ても呼吸はない。驚きはしたものの、以前からの約束で、上人は自分の呼吸が止ま って死んだと見えても、身休の冷え切ってしまうまでは自分に手をかけるなと言われ ていたことを思い出して、待っているうちに、数刻経って、少しずつ動かれて、自分 から横になって寝られる場合もあった。このようなことは毎日毎夜のことであったから、 後になるといつものことと合点して驚かなくなった。ある時またもいつものように禅定 に入られた。そばで拝見していると、弥勒の大座の左の隅の宝珠の上から香煙(こうえ ん)が急に立ち昇って、しばらく帳内(ちょうない)いっぱいに立ち込めた後で、後座の間 に薄く横に長く引いて雲のようになって空中へ上昇していった。その時、ちょうど上 明恵上人伝記(38) 人のお口の中から白い光が出て弥勒の宝前を照らされた。山中に上人がたった一 人で坐禅しておられた平素の様子もこのようであったろうと、今になって思い知らさ れたのである。ある時には皆を集めて、絶えることなく文殊の五字の真言(阿羅跛捨 那、あらばしゃな)を誦え(となえ)させて、それを聞きながら、ご自分は禅定にお入りにな った。またある時は、最初の夜の坐禅の途中で、たちまちに眼を開いて仰せられる には、「ちょうど今左の傍らに不動尊が出現なされた。慈救(じく)の呪文を唱えよ」と言 われて皆に唱えさせられる時もあった。また弥勒の宝号を唱えさせられる時もあった。 僧侶たちすべてがその場にあったが、その時に上人が訓誡されるには、「私はずっ と諸仏菩薩に加護をお願いして、経典で釈迦如来の真意を会得したいと求めてきた、 前世に積んだ善根はほんとうに頼りにできる。既に釈迦如来の真意を会得した。余 念なく勤行修行しようと思っても、思う間はその真意のご利益にはあずからなかった が、今や釈迦如来の真意、苦悩を克服して絶対自由の境地に達する解脱の入門の 戸も開いた。皆もそれぞれにまたこの如来の真意を得たいとの志を持ち続けてしっ かりと如来の戒律を守り続け、一心に仏道を修め勤行しなさい。末世末代には本物 の正法を説き、人を仏道に入らせ解脱を得させる人もいない。もし自宗(華厳宗)の 中で如来の真意を明らめることが困難な理由があれば、禅宗で問い禅僧に相談し てみれば得るところがあろう。仏法によるか、あるいは正しい指導者によって、決して 偏見を固執したり、自分をえらく思って他を軽んじることがあってはならない。今は必 ず仏たちの御前(ごぜん)に祇候し(しこうし)お目にかかりたいものである」。顕性房は仏 法への志深く山中で修行していたが、その彼が上人の許へ出て来たので、上人は たいへんにお喜びになり、「自分が話をした仏法を今後も皆に示し教えて下さい」と 頼まれた。「自分は釈尊が亡くなった時の儀式に従って右脇を下に臥せる姿で死に たい」と考えられて、右脇を下に臥せられ、その時、今まで正面に向かい合って安置 しておられた弥勒像を学文所へお入れして、そこに安置申し上げた。 明恵上人伝記(39) 栂尾明恵上人伝記巻下 (39) また秋田城介入道知覚は、高野山に住んでおったが、上人のご病気が重いと伝え 聞いて、大急ぎで高野山を出発して梅尾(とがのお)に到着した。それは正月18日の 夜で、上人は即座にお会いになって、夜通し仏法についての教説をなさった。 正月19日、上人は「今日が命の終る時である」として、別の衣袈裟に着替えをして、 また仏法についての教説を少々お話しになった。「自分はおさない時に初めて『諸 一切種諸冥滅(しょいっさいしゅしょみょうめつ)、抜衆生出生死泥(ばつしゅじょうしゅつしょうじでい)、 敬礼如是如理師(けいらいにょぜにょりし)』と読み始めてから、目標として志すところは一 途に仏教の奥深い内容を把握して、名誉利欲に束縛せられまいと思った。人はとか く名利という欲が知らぬ間に体にまといついて心から離れないものである。山中の僧 侶たちよ、充分に謹んで要心(ようじん)されよ」と言われて、臨終の時期が近づいたの で、声高らかに、「於第四都率天(おだいしとそつてん)、四十九重摩尼殿(しじゅうくじゅうまに でん)、昼夜恒説不退行(ちゅうたごうせつふたいぎょう)、無数方便度人天(むすうほうべんどにん てん)」「稽首大悲清浄智(けいしゅだいひしょうじょうち)、利益世間慈氏尊(りやくせけんじしそん)、 灌頂地中仏長子(かんじょうじちゅうぶつちょうし)、随順思惟入仏境(ずいじゅんしゆいにゅうぶつき ょう)」と唱えられ、その後で「この真言五字の陀羅尼の中に八万四千の経蔵を収めて いる。五字を唱えなさい」と言われ、皆に唱えさせて、ご自身は理供養(りくよう)の作法 で修法され、修法が終って後に合掌されて「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)、 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)、従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)、一切 我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」と唱えられて、定印(じょういん)の形で禅定に入ら れたが、ややしばらくして禅定から出て皆に、「臨終の時刻が近づいたから、右脇を 下に身を横たえよう」と告げられて、臥された。手は蓮華拳(れんげけん)の形に構えて 胸に置かれ、右足はまっすぐに伸ばし、左の足は少し膝をまげて右足の上に重ね、 顔には宗教的な喜びがにわかに顕れ、微かな(かすかな)笑みをうかべて、穏やかに 明恵上人伝記(39) 亡くなったのである。時に年齢は60歳であった。 同月21日の夜、禅堂院の後ろに葬った。その間もお姿は少しも変らず、眠れるがご とき顔かたちは特に立派であった。18日の夕方から特異な香がいつも匂い、多くの 人がこの香を嗅いだし、葬式の後2∼3日もこの特異な香は散逸せずに残った。いっ たいこの上人は、大小・権実・顕密二教、因明(いんみょう)・内明(ないみょう)、どれをとっ てもご承知でないことはなかった。また五蘊(ごうん)・十二処・十八界・四諦・十二因縁 などを説かれている仏説は、多くの聖人たちが選んでおられるところであって、無我 の法門のためであると深く悟られたので、その故に『唯識論述記』に「故大悲尊(こだ いひそん) 、初成仏已(しょじょうぶつい) 、仙人鹿苑(せんにんろくおん) 、転四諦輪(てんしたいり ん)、説阿笈摩(せつあきゅうま)、除我有執(じょがうしゅう)、令小根等(れいしょうこんとう)、漸登 聖位(ぜんとうしょうい)」とあるから、始めて我見によって執着するような人我(にんが)は存 在しないとの一理を開いて、小乗の機根の者も真理に達することができると説かれ、 般若(はんにゃ)の示すところは結局は平等真空である、五法、三自性、八識、二無我 の仏の教えや、華厳の説く六相円融・十玄縁起、真言の説く五相・三密・三平等・字 輪瑜伽(じりんゆが)の観行、これらすべてが、まるで神前に玉と鏡とを合せ祀るように一 身に合せかねられた。更に孔子・老子の儒道二教の説、すなわち、易や自然の道か ら、説一切有部(うぶ) の数論外道の立てる二十五諦、すなわち自性・大我慢・五唯 量・五大など、更に勝論外道の立てる六句義、すなわち実・徳・業・有・同異・和合に 至るまでも、知りつくしておられないことはなかった。 私が多くの年月、上人にお仕えした間の事がらを、ざっと、それも多数の中の 極めて小さい部分を記しましたが、きっと誤りがあることでありましょうから、他人 に見せてはなりません。 喜海
© Copyright 2024 Paperzz