曾祖父たちの死から学んだこと 福祉学科2年 山本 貴也 今日は、私が

曾祖父たちの死から学んだこと
福祉学科2年
山本 貴也
今日は、私が何故大谷に来たのか、それにまつわる出会いについて話したいと思います。
それは曾祖父達との出会いです。
私の曾祖父は生前とても元気で、毎日散歩に出ないと気が済まない人でした。朝昼夕1
時間以上散歩に出掛け、時には何キロも離れているわが家まで色々な品を峠を越えて持っ
てきてくれました。一度一緒に散歩に行った事があるのですが、私が先にダウンしたのを
覚えています。
曾祖父は、ちょっとした有名人で、皆から慕われていました。私にとっ
て自慢の存在でした。
90歳の時曾祖父が車にはねられて病院に運ばれたとの知らせがあり、親戚一同駆けつ
けると、皆の心配をよそに、本人は笑みを浮かべていました。幸い重傷もなくすぐに退院
しましたが、渋々自転車に乗るのを止めさせられました。
ある時、家の建て替えがあり、曾祖父母がわが家に一時期住んでいたことがあり、帰る
頃にはもう、「うちのひぃじいちゃん」「うちのひぃばあちゃん」となっていて、泊まり
に来ると「お帰り」、帰るときは「いってらっしゃい」と送り出すのが自然となっていき
ました。
それから曾祖父は、よく「ウサギとカメ」の歌を歌ってくれました。嫌がる私が面白い
らしく、わざと更に続けて歌ってくれました。けれど、もうその歌を聞くことはできませ
ん。
ある時、曾祖父は、入院しました。曾祖父はどんどん弱っていきます。入れ歯を外され、
ベッドに横たわる姿は、私には衝撃的でした。祖母と病院へ向かうたび弱っていく曾祖父。
私が、「百まで生きんといかんよ、約束ばい。また腕相撲しようばい。」というと、口を
フガフガと動かして何か伝えようとし、私に手を伸ばし、手を握りしめるんです。意識は
しっかりしており、全てを見通したような、緑がかった独特の瞳は、しっかりと私たちを
見つめていました。
ある朝、電話がきました。祖母達の様子からただならぬものを察しましたが、私はムリ
に小学校へ送り出されました。帰宅するとすぐに曾祖父母の家に連れて行かれました。幼
い私は曾祖父を探しました。私には、まだ皆が着ている服が喪服だとも、葬式だとも分か
らず、きっと曾祖父が帰って来たのを祝っているんだと思いました。そう思いたかったの
かもしれません。
しかし、部屋に入ると、皆泣いているんです。連れられて花がたくさん飾られた所に行
くと、曾祖父が眠っていました。呼びかけても起きません。何を言っても起きません。無
理に起こそうとして母にとめられました。母の目には、涙が滲んでいました。さすがにこ
れは何かが違う事に気づきました。それでもよく分からなかったのですが、次の日現実を
突きつけられました。出棺の後、火葬場に行きしばらくして部屋に呼ばれると、鉄板に白
いものが乗せられて運ばれてきました。それが曾祖父の骨だと知った時、曾祖父が二度と
帰ってこない事を理解しました。私は「ひぃじいちゃんの嘘つき」などと泣きわめいたら
しいです。
その後3年連続で同じ家の者が死んで、いやがおうにも現実を見せつけられました。
その中で私に曾祖父達が残してくれたものがあります。一つは簡単に「死ね」だの「殺
す」だの言ってはならないこと。もう一つは、今を大切に生きることです。そして、あの
時、弱っていく姿をただ見ていることしかできなかった悔しさは、やがて、恩返しをした
いという気持ちに変わっていきました。
そして、その答えとして私は福祉・介護にたどり着きました。本人達にはもう恩返しは
できませんが、誰かの役に立つことが、きっと必ずや恩返しになると思い、今、大谷で介
護福祉士を目指し頑張っています。しかし、何かあるとつい暴言を吐いてしまい、「死ね」
「殺す」などもつい口に出します。もちろんこれは人に言ってはならない言葉です。介護
を志す者ならばなおさらです。相手が本当にそうなった後では取り返しはつかないんです。
暴言を使わないようにするのも今、私の課題の一つです。
(2010年10月20日)