過去半世紀余の日本における洪水管理 高橋 裕 December. 2009

過去半世紀余の日本における洪水管理
高橋
裕
December. 2009
Working Paper Series
Serial No IWP/WP/No.7/2009
www.lkyspp.nus.edu.sg/iwp/
過去半世紀余の日本における洪水管理
東京大学名誉教授
国連大学上席学術顧問
要
約
高橋
裕
第二次大戦後の 60 年余、激動の洪水および水資源管理
1945 年 8 月 15 日、日本は敗戦に際して、国土は荒廃、経済は破綻し、国民は悲惨な状況
に喘いでいた。さらに悪いことに、この年から約 15 年間、毎年のように大型台風や梅雤時の
激しい豪雤によって、全国各地において、大洪水による水害が連続的に発生し、都市域浸水、
水田冠水、山地崩壊によって、ほぼ毎年 1000 人以上の死者を出し、食糧危機は多くの国民を
飢餓状態にさせていた。
漸くにして大水害時代が遠のくと、日本経済は奇跡的にも復興し、都市化の急激な進行に
伴い、水需要の爆発的急増によって水不足が人口急増都市および新興工業地帯を襲った。そ
の象徴的事件が、1964 年夏、アジア最初のオリンピックに沸いていた東京の深刻な水不足で
あった。政府は洪水調節と水資源開発を重点施策として、ダム建設を要とする公共事業を強
力に推進した。いわゆるダムブームが、1960 年代から 70 年代にかけて訪れた。
大水害を回避するための河川改修、砂防および海岸保全事業、水資源開発事業が全国主要
河川に一斉に進められた。これら事業によって、洪水コントロールにはある程度成功し、水
不足もおくればせながら、深刻な水不足の頻発を避けることにほぼ成功した。しかし、急速
な都市化は、新たな都市水害を人口急増都市を中心に発生させた。
しかし、活発な河川事業の連続によって、多くの日本の河川は極度に人工化してしまった。
激しい都市化が、大気汚染、水質汚濁、地盤沈下などのいわゆる公害を発生させたが、特に
都市河川、そしてダム湖の水質を悪化させた。
自然の重要な一要素である河川に、いかなる工事を実施しようとも、自然性を保全するこ
とこそ必須の条件であるにも拘らず、急激に進歩した施工技術と、高度経済成長によって巨
大化した経済を背景に、河川事業は活発に行われ、そのため日本のほとんどすべての河川の
急速な人工化によって河川生態系は破壊され、河川自身も、流送土砂の運動は不規則になり、
ダム湖の堆砂、ダム下流への流送土砂不足に加えて、建設ブームを支える河床骨材の乱掘な
どにより、河床は安定を失い、大水害頻発時代は海岸への流出土砂増大に苦しめられたが、
最近は逆に骨材採取の規制、大洪水の発生の減少などのため、河口からの土砂流出は減少し、
河口部周辺の海岸決壊を招いている。
各種の河川事業の効果によって、大水害、水不足を相当程度和らげたあと、1970 年代後半
から河川の人工化は河川環境の悪化を招き、さらに河川景観の务化をもたらした。
元来、自然としての河川へ、技術活動を加えるに際しては、河川との共生に努め、つねに
河川の全流域の視点に立つことこそ、河川計画者の基本理念であることを無視して、当面の
水害、水不足対策の単目的にのみ走ってしまったのである。このような状勢に対して、1980
年代からダムや大規模河川事業への住民の反対運動が活発化した。その典型例が 1990 年代の
1
長良川河口堰反対運動であった。
河川行政もまた 1990 年代から河川環境の重視、コンクリートへの過度の依存を脱し、自然
材料を多用する多自然型川づくりを全国的に展開するに至った。このような新たな情勢に鑑
みて、河川行政は 1997 年、河川法の大改正に踏み切った。すなわち、河川環境の保全と整備
が河川事業として義務づけられ、河川計画への住民参加の道を拓くなど、現代の社会情勢に
良く対応するものとして、多くの世論から評価された。
しかし、21 世紀に入り、具体的な河川構造物や河川施設の計画、洪水対策の具体的事項に
ついて、複雑な生態系などと調和し、意見を異にする関係住民の意向を河川プランにどのよ
うにまとめるかは容易でない。河川法改正の理念は大方の賛同を得たが、その実施へ向けて
の方策に、河川行政、流域住民は多くの悩みを抱えている。
大水害頻発時代(1945~59 年)
1945 年 9 月 17 日、敗戦から1月余を経たこの日、超大型の枕崎台風が、鹿児島県の西部
の枕崎に上陸した。この台風がそれから 15 年間続く大型台風の最初であった。ちょうどその
日時、日本占領の総司令部(General Headquarter)に MacArthur 元帥が入り、有史以来
日本にとって初めての外国の支配を受けることになった。
“日本の敗戦は大型台風とともにや
って来た”といわれるゆえんである。
この枕崎台風は、上陸時の気圧 916.1hp(ヘクトパスカル)、この値は 1934 年 9 月 21 日、
室戸台風上陸時の 911.61hp(当時陸上での世界最低気圧記録)に次ぐ日本では第 2 位の強烈
な台風であった。この台風は食糧危機をむかえていた敗戦直後の米作に大打撃を与え、犠牲
者は 4,229 人に達し、
内 2,012 人は広島県においてであった。
広島は原爆投下から約 40 日後、
さらに水害による悲劇が襲った。この枕崎台風を嗃矢として、1959 年の伊勢湾台風に至る
15 年間は、図1に示すように、梅雤時の豪雤災害も含めて日本の歴史上においても大洪水、
大水害が最も激しく連続発生した時期であった。顕著な例を列挙すれば、1947 年 9 月 16 日
カスリーン台風による大洪水は、日本最大の流域面積(1.68 万k㎡)の利根川の堤防を決壊
させ、その氾濫流は5日後、東京都東部を水没させるなど、関東、東北に大水害をもたらし
た。1953 年 6 月末には梅雤による記録的豪雤により、筑後川はじめ北九州のほとんどの河川
に史上最大規模の洪水が発生した。
1954 年 9 月 26 日、台風 15 号により青函連絡船洞爺丸沈没、1,155 人の犠牲者を出した。
1958 年 9 月 26 日伊豆半島の狩野川流域に大損害を与えた台風 22 号(狩野川台風)は、東
京、横浜の新興住宅地を中心に大被害を与え、その後全国諸都市を襲った新型都市水害の先
駆けとなった。
1959 年9月 26 日、
紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は、陸上での最低気圧 929hp、
名古屋港では過去最高の 3.5m の高潮となり、死者 5,177 人、全壊家屋3万 5,000 戸以上、
20 世紀後半の日本における最悪の高潮ならびに洪水災害であった。被害地域は、名古屋市南
部を中心に日本の中部地域のみならず、全国的広範囲に及んだ。この高潮災害は、大規模な
点で、1953 年オランダを襲った高潮災害としばしば対比される。
1気象庁調べ
2
この大被害の原因は、この台風が大型であり、大量の降雤量と高潮をもたらしたことに加
え、被害の大きかった名古屋市南部の開発の形態に在った。このころは日本の高度経済成長
が始まりかけた時期であり、この地域での工業開発を核とする都市化が始まり、さらに加え
て地盤沈下が激しく進行中であり、海面の中等潮位より低い、いわゆるゼロメートル地帯が
拡大しつつあった。さらに悪いことに、当時建築ラッシュのため木材需要が急激に増大し、
ラワン材を主材とする南洋材輸入が年ごとに増加していた。すなわち土地条件が災害に弱く
なっており、直径1m以上の大量の輸入材が水面に仮設された貯木場から約 28 万㎥、高潮に
乗って海岸堤防を乗り超え、市内へ突入し、工場や家屋を破壊し、数百人の市民を殺傷した。
伊勢湾周辺での浸水地域は 300k ㎡、その深さは最大 3mに達し、この排水完了まで 3 ヶ月以
上を要した。
翌 1960 年、政府は治山治水緊急措置法を制定し、大水害の連発への対策促進への法的整備
に踏み切った。しかし伊勢湾台風の教訓は、治水予算を増やすとか、治水設備を整えること
よりはむしろ、防災への配慮不足の開発の在り方を反省することである。土地開発は一般に
土地利用の変化を伴い、それが新しい水害を用意する。したがって、都市および地域開発計
画を新たに実行すれば、どういう新型水害が生ずるかを予測する、一種のアセスメントが必
要である。すなわち、計画に携わる立案者、行政側が開発と災害の関係を広域的かつ長期的
視点から洞察する能力を持ち、それに基づいて計画を実行できなければ、新型水害は永遠に
無くならない。
水害被害額と国民所得との比の 19 世紀末からの推移は図 2 に示す通りであり、この時期
は、日本財政もなお貧困であったので、19 世紀末と同じく、被害の大きさが、いかに当時の
日本にとって深刻であったことがわかる。
図 3 に、土砂災害(土石流、山崩れ、崖崩れなど)による死者、行方不明者が増加し、1970
年代以降すべての自然災害に対する比も大きくなったことが示されている。
3
人
千億円
6000
35
水害被害額
死者・行方不明者数
死者・行方不明者数
25
4000
20
3000
15
2000
10
1000
水害被害額(2000年価格)
30
5000
5
0
1875
90
1900
10
20
図 1
30
40
50
60
70
80
0
2007
90
明治以降の水害被害額等の推移2
%
12
水害被害額/国民所得
10
8
6
4
2
07
20
00
90
80
70
60
50
40
30
10
19
00
90
18
80
0
年
図 2
2
3
国民所得に対する水害被害額の割合3
『水害統計』2007 年版
『水害統計』2007 年版
4
700
100%
土砂災害以外の自然災害
90%
土砂災害計
600
自然災害にしめる土砂災害の割合
80%
死者・行方不明者数
500
70%
60%
400
50%
300
40%
30%
200
20%
100
図 3
20
19
18
17
16
15
14
13
12
11
9
10
8
7
6
5
4
3
2
63
H1
62
61
60
59
58
57
56
55
54
53
52
51
50
49
48
47
46
45
44
43
0
S42
10%
0%
自然災害による死者・行方不明者数のうち土砂災害によるもの4
出典:自然災害による死者・行方不明者数:
「平成 21 年度版防災白書」
(内閣府)、土砂災害に
よる死者・行方不明者数:
(国土交通省河川局砂防部調べ)
4
注 1) 平成 7 年の死者・行方不明者のうち,阪神・淡路大地震の死者については,いわゆる関連死
912 名を含む.
注 2)平成 20 年の死者・行方不明者数は速報値.
注 3) 平成 3 年及び平成 5 年における土砂災害による死者・行方不明者それぞれ 55 名,33 名に
は,雲仙・普賢岳の火砕流による死者数 43 名,行方不明者数 1 名が含まれている.
注 4) 平成 8 年における土砂災害による死者・行方不明者には,蒲原沢土石流災害による 14 名が
含まれている.
注 5) 平成 16 年における全自然災害の死者・行方不明者には,新潟中越地震による死者 51 名が
含まれている.
5
水不足時代(1960~73 年)
1950 年後半から 60 年代、70 年代にかけ、日本では一次産業から二次、三次産業へと産業
構造が急速に変化し、それが日本のこの時代の高度経済成長を達成させた。すなわち、第一
次産業に従事していた農林漁業の優秀な労働者が、都市と工業地帯へと大量に移動した。そ
の急激な都市化が、やがて工業地域や都市における大気汚染、水質汚濁などの公害を発生さ
せ、深刻な水不足をも、人口急増の大都市や新興工業地帯に発生させた。予測をはるかに上
回る水需要増大に、水資源開発が間に合わなかったのである。
この時期の水不足を象徴したのが、1964 年夏、アジアで最初のオリンピックを控えた東京
の厳しい水不足であった。当時、東京の人口は急速に増加し、1945 年敗戦の時点で 300 万人
以下となっていたが、1963 年には 1,000 万人を超えた。この予想をはるかに上回る人口増に
加えて、生活水準の向上は、水需要を飛躍的に増加させた。さらに、東京の上水の過半を提
供している多摩川の小河内ダムの奥多摩湖の貯水量は、1961 年以来の降雤減少によって減り
続け、この 1964 年 8 月にはついに底をついた。その年 10 月 10 日開会式予定のオリンピッ
クの水泳競技のプールの水をどこから運ぶかが真剣に検討された。さいわいにして 8 月 20
日以後、東京には平年並の降雤があり、東京水不足は一時的に解決した。
政府は 1962 年、水資源開発促進法を公布し、同時に水資源開発公団を設立し、水資源開発
を重点施策とした。水資源開発の主要な技術手段であるダム建設には、計画から完成まで相
当の年月を要するので、東京への水資源開発の主力である利根川上流部のダム群はいずれも
工事中であり、1964 年の東京水不足には間に合わなかった。これらのダムは、いずれも洪水
調節を含む多目的ダムである。
しかし、1960 年代から 70 年代にかけては、日本の多くの河川でダムブームともいえるダ
ム建設ラッシュが続き、日本各地の水不足は 70 年代後半にはおおむね解決した。また、19
世紀末、日本の近代化とともに 1897 年成立していた河川法は、主として洪水対策を目的とし、
そのための河川改修促進の国是への法的整備であった。1960 年代に発生した全国的水需要に
応えて、1964 年、治水に水資源開発を加えた新たな河川法が制定された。
1972 年 7 月、梅雤前線豪雤によって全国各河川に大水害が発生した。この水害を契機とし
て水害訴訟が各地で発生した。訴訟となった例の多くは、同じ区域が繰り返し水害を受けた
場合、あるいは被災地上流のダムの放流によって水害を大きくしたと疑われた場合が多かっ
た。いずれも河川管理者である国または都道府県の河川計画における、洪水対策が不適切も
しくは過失があったと、被災者が判断して起訴に踏み切った。72 年をはじめとするこの時期
の水害の規模と被害内容は、前述 1945~59 年に発生した大水害と比べれば、はるかに軽微
であった。しかし、50 年代までは被災者が河川管理者である大臣や知事を相手に裁判で争う
ことは無かった。当時水害の原因と考えられたのは、未曾有の豪雤であり、いわば異常な自
然現象であると考えられていた。しかし 1972 年以後、毎年のように発生した、各河川流域に
おける大水害後、しばしば訴訟となった例は、被害者である原告たちの水害に対する考え方、
もしくは意識が変わったからである。いわば、民主主義の進展による住民意識の昂揚である。
一方において、戦争直後の 1945~59 年の日本は、財政も貧弱であり、技術力も大水害に
対処するにはきわめて不十分であった。しかし、70 年代は高度経済成長が、世界を驚かし、
6
河川技術も飛躍的進歩を遂げつつあった。したがって、河川改修事業も比較的順調に進捗し、
治水安全度は向上し、多くの住民は河川事業への信頼を高めていた。そのため、破堤などに
よる水害は、河川事業への信頼を裏切る形にもなり、訴訟へと踏み切った原因ともなった。
しかし、ダムを含む河川事業の進展は、一方において、いくたの逆効果をも生じた。その
ひとつは、これら事業による河川生態系を含む自然環境への悪影響である。堤防などの強度
を求めた結果、コンクリート施工の進歩にも支えられて、護岸水制などの河川構造物へのコ
ンクリート施工が普及した。その結果、堤防などの強度は強くなったが、生態系を破壊し、
河川景観をも务化させることとなった。元来河川は自然の重要なる一要素であるから、治水・
利水の構造物も、可能な限り、木材、石材、植生などの自然材料を用いるのが望ましい。河
川事業を成功させるには、河川を自然の一要素として認識することが最も重要である。技術
の進歩を過信して、川を人工的に創るのを目標とすべきではない。1945 年以来、大水害を和
らげるための治水事業、水不足を克服するための水資源開発など河川事業は全国的に活発に
実施された。そのため水害を減じ、水不足も相当程度解消でき、河川技術者は自信を高めて
いた。しかし、河川の急激な人工化が進み、河川の自然性が損なわれ、前述のように環境へ
の悪化が全国河川に進行した。
一方、ダム建設による社会環境への悪影響も、各ダムごとに発生した。ダム建設に伴う、
水没者、および水没を抱える山村自治体への、政府の対応が遅れた。高度経済成長を支えた
都市化の進行は、水不足対策を含む都市への多額の投資を伴う都市政策が政治と行政にとっ
ての最大課題であった。反面、人口が減少する水源地への対策はきわめて不十分であった。
すなわち、ダムによって沈む人々やその自治体にとっては、ダムは何の利益も得られない。
ダムはもっぱらダム下流の人々を洪水から護り、水資源を提供することを目的としているか
らである。1950 年代までは、起業者は水没者に対しては主として金銭補償によっていたが、
それのみでは、不十分であることが、1960 年以降、水没者はもちろん起業者側にも認識され
るようになった。ダム建設によって、さらに人口が減少し、衰退傾向に陥っている水源地を
救うことの重要性が、遅ればせながら 60 年末から行政も深く理解するようになった。水源地
が荒廃することは、その河川の下流に対しても悪影響を及ぼすからでもある。こうして 1972
年、政府は水源地域対策特別措置法(水特法)を公布し、水没家屋がある程度以上の場合な
どの条件のもと、水源地での道路、上下水道、などの社会資本建設へ政府が経済援助できる
こととした。さらにダム建設の多い主要河川ごとに水源基金を設け、政府、受益県などが出
資し、水源地の森林対策などを支援することとした。これらの水源地対策は若干の効果をも
たらしたが、都市への人口集中、農山漁村の過疎化の全国的傾向のもと、この水特法および
水源基金による効果も限定されている。
一方、1973 年には OPEC による原油価格 70%値上げによる、いわゆる oil shock により
景気にかげりが見え、水需要の伸びは止まり、水需給関係に転期が訪れた。
環境重視時代(1974~97 年)
大水害頻発、および水不足対策のため、ダム、河川改修が活発に行われたため、河川環境
悪化が庶民の関心を集め、全国的に河川の水質、生態系を守る住民運動が盛んになった。大
7
河川の大水害は遠のいたが、都市化による都市の水循環の変化(都市域における浸透量の減
少、豪雤の河道への直進による洪水流量の増加など)のため、都市の中小河川の流出率は増
加し、いわゆる都市型水害が全国の多くの新興住宅地、丘陵地などの宅地に蔓延した。これ
は無秩序な宅地開発が重要な原因のひとつであるので、従来の河道改修のみでは完全に防ぐ
ことは到底できない。
元来、治水は全流域の観点、上下流一体になって実行すべきであるが、明治以来の治水方
針は河道に洪水流を集めることを目標とし、河道とその狭い周辺のみで洪水流に対処してき
た。激しい都市域の水循環の急変は、全流域で洪水を処理しなければならないことを、河川
技術者および河川行政に知らせることとなった。そこで、1977 年、政府の河川審議会は、さ
しあたり都市河川を対象とした“総合的治水対策”を発表した。具体的には流域から河川へ
の流出抑制策(雤水を積極的に流域に貯留し、地下へ浸透させる方策など)、被害軽減策(高
床式住宅の奨励、洪水氾濫を無理に抑制せず、それに順応する方策など)
、浸水時の警報、避
難体制の強化、が勧告されている。これは従来の、主として河道に治水施設を建設するのみ
の方式を転換する画期的な治水策である。理想をいえば、それを都市河川に限定せず、全河
川に適用するのが、治水の大原則である。しかし、それは 19 世紀末からの近代的治水制度を
根本的に改めることになり、河川行政以外の協力、理解を得なければならず、水に関する現
行の縦割り行政を打破しなければならず、省庁間の壁は高く、現実には極めて困難である。
1982 年 7 月 23 日、長崎を梅雤末期の豪雤が襲い、土石流、都市河川が、傾斜の多い斜面
都市を襲い、死者 299 人を出す悲劇となった。長崎とその周辺では1時間 150mm を越す例
が多かった。長与町(長崎市の北隣)では実に 187mm/時という日本最大の豪雤が記録され
た。この災害で自動車の被害が多かったのは、クルマ時代を象徴していた。水害の形態は社
会生活の変化を忠実に反映する。この水害復興案において、市内を流れる中島川の歴史的価
値のある眼鏡橋を、洪水流を阻止するとの理由で撤去する案と、文化財を保存する観点から、
洪水流を処理するため、河道の両側に地下バイパス案が対立した。結局バイパス案が採用さ
れ、橋は残された。治水対策に文化財の保存をどうするかが、以後これを契機に重要課題と
なった。
自然としての河川を環境破壊から守るために、建設省河川局では 1990 年多自然型河川工法
の採用を提案した。河川工事に可能な限り、自然材料を利用し、河川生態系を保全し、河川
景観をも重視する工法を、限られた区間とはいえ、可能な河川区間から施工することとした。
1990 年代には、名古屋の西に河口を持つ長良川河口堰の建設反対運動が盛り上がり、社会
問題となった。この堰は水資源開発と治水を目的とする多目的堰であったが、堰が生態系、
河川景観に悪影響を与えるとの河川環境保全運動であり、ほとんどのマスメディアおよび著
名な文化人が反対を支持した。この運動に対する一般人の価値判断に示されるように、環境
保存が大衆によって支持される社会の動きを示していた。堰の目的である水資源開発も、水
需要の増加傾向が鈍化してきたこと、また治水安全度を増すためには、浚渫により河道面積
を増して大きな洪水流量を流す。しかし、河口付近を浚渫すれば水深が深くなり海水が浸入
するので、それを防ぐための堰建設という手法が、一般人の人々には理解困難であったよう
である。
8
河川行政は、この紛争の折、関連資料をすべて公開することとしたのは、住民への姿勢と
して、従来にない積極策であった。結局、堰は 1995 年完成したが、この紛争を契機として、
以後ダム、堰、などのプロジェクトにおいて環境の重視がいよいよ重要な視点となった。
河川審議会河川環境小委員会が 1995 年発表した報告には、河川環境を守る方針として、河
川は生物の生息、生育の場であることを確認し、河川をめぐる水循環を健全化すること、生
活的に河川環境と付き合っている地元住民の意向を重んずることが提示された。
1997 年、河川環境重視、住民の意向を河川計画に取り入れることなどを柱として、河川法
が画期的に改正された。その第1条には、河川事業の目的として、従来の洪水・高潮による
災害防止、河川の適正利用に加えて、新たに“河川環境の整備と保全”が加えられた。これ
によって河川計画の目的が、治水、利水、環境の3本柱となったのである。さらにこの改正
においては、第3条において、河川管理施設に、ダム、水門、堤防などに加えて樹林帯(水
害防備の河畔林および湖畔林)が加えられた。従来管理施設は人工の河川構造物であったが、
樹林帯という半自然的施設が加わった。すなわち、河川事業は構造的な施設にのみ依存する
のではなく、自然との共生を考慮すべきであることを示したといえよう。
さらに第 16-2 条においては、
“河川管理者は、河川整備計画の案を形成しようとする場合
において、必要があると認めるときは、河川に関し学識経験を有する者の意見を聴かなけれ
ばならない”、
“住民の意見を反映させるための必要な措置を講じなければならない”、“関係
知事、市町村長の意見を聴かなければならない”
、などが盛り込まれた。これは河川計画への
住民参加の道を拓くものとして世論の強い支持を得た。
その他、いくつかの改正項目もあり、この河川法改正は河川行政および河川計画を革新す
るための方向性を定めたといえる。
注)筆者は、1992~2000 年、河川審議会委員、河川環境小委員会委員長、水循環小委員会委
員会委員長などをつとめた
河川法改正以後、新たな難問(1998 年~現在)
河川法改正によって、新たな河川計画立案に際しては、個々の河川ごとにまず河川整備基
本方針を定め、それに基づいて、その河川整備計画作成のため流域委員会を設立して、河川
管理者の提案による河川整備計画について審議している。その流域委員会には工学系および
環境系などの学識経験者、住民団体の代表など各分野から委員が任命されている。しかし、
ダム計画などの是非をめぐって、委員会において意見が対立する場合には、委員会運営が困
難になる。琵琶湖から流出し、京都、大阪を流れる淀川の流域委員会はその運営が困難とな
っている。河川管理者が河川法改正の趣旨に則り、流域委員会を設立したのであるから、そ
の意見を尊重しなければならない。マスメディアをはじめ一般世論は、淀川流域委員会の進
歩的方針を評価している。
淀川流域委員会では、委員長はある時期以後委員が互選し、事務局は河川管理者以外に置
くなど、時代を先取りしたかに見える方向をマスメディアは評価している。しかし当初、委
9
員が多すぎたこと、議事進行が必ずしも円滑でなく、その運営は難渋している。日本でも最
初の経験であり、これを教訓として、民意をどのように現実の河川整備計画に反映するかを
見出して欲しい。
現在、河川整備計画が直面している難問は、気候変動に対する、治水計画、それと深く関
係している海岸保全計画、森林および水源地計画である。2007 年の IPCC 報告によれば、将
来豪雤頻度が増し、大型台風の襲来が予測され、治水安全度は低下する。海面の上昇(21 世
紀末までに最大 59cm)も予測されている。アジアモンスーン地域は元来、大洪水による氾濫
がしばしば発生しているので、IPCC 報告による豪雤の増加予測によれば大洪水の発生頻度
が増すので、人口が増加するアジアモンスーン地域にとって、きわめて深刻である。日本列
島は4つの島から成る島国であり、主要都市、工業地帯はほとんど臨海部に在るので、津波・
高潮の危険度は確実に上昇する。海面上昇は海岸決壊の激化、砂浜の減少、臨海部の生態系
破壊、日本が誇ってきた海岸美の喪失、多くの良港の条件の悪化をもたらす。海洋国民と自
負してきた日本人の海への心情は破壊される恐れがある。多くの島を抱え、臨海開発を進め
つつあるアジアモンスーン各国にとっても、同様な危機に直面するであろう。
治水安全度の低下は、多くの日本の河川において確実に進行しつつある。日本では重要河
川の治水目標は過去 100 年の洪水資料に基づき、200 年に1回の確率の大洪水に堪えること
を目標としている。しかし、その確率洪水の計算を最近 20 年間の洪水流量記録について再計
算すれば、確率洪水流量は増加しており、治水安全度はおおむね従来計画の半分に落ちてい
る。
このような治水安全度低下に直面して、従来の河川改修やダム計画では、到底治水安全度
を維持することはできない。そのためには治水政策を思い切って転換する必要がある。従来
の河川計画を否定するのではなく、それは続行しつつも、新たに全流域を対象として、増大
する大洪水による水害の軽減を考えるべきである。そのためには、大洪水と津波・高潮の対
策には、氾濫危険区域の開発規制と大洪水時の浸水補償を考慮した一時的氾濫遊水地の設定、
水害に強い町づくりなどを、地域計画、都市計画との協調により新たな治水計画を展開する。
いままで河道内に押し込めることを目標としていた洪水流の一部を河道外へ溢れさせること
を含む治水策である。海面上昇による津波・高潮危険度増加に対しては、沿海部において重
点的に守るべき地域と放棄する地域とに分け、後者は徐々に安全な、より高い区域への移転
を考える。日本の多くの海岸堤防は、1959 年の伊勢湾台風以後に建設され強化されたので、
いまやその更新期に来ている。その補修時に堤防高を逐次嵩上げして、海面上昇に備える。
気候変動による海の反応は、陸地よりも遅れるので、海面上昇は 22 世紀も 23 世紀も続く。
したがって、海岸堤防の段階的嵩上げ、臨海部によっては堤防立地を海岸線より離し、海岸
保全のレベルを上げる。放棄する沿岸部も長期計画に基づいて、より安全な区域へと逐次移
転する。
これらの施策は、従来の治水対策とは異質であり、土地利用の改変を含むので、その実施
は、従来の行政の仕組み、および既存の慣習の手続きでは容易でない。したがって、新たな
法体系、行政手法により実現することを期待する。それが未完であれば、大水害の頻発を避
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けることはできない。
気候変動は、われわれに治水対策、沿海部対策の大きな転換を求めている。臨海部の防災
への考慮を欠いた開発は、思い切って規制しなければならない。アジアモンスーン地帯は、
気候変動によって最も治水、海岸の危険の増大が憂慮される地域である。その治水策、海岸
保全策の成否が、将来のそれぞれの国土の安全度を左右するであろう。
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表
1945 年以後 洪水・水管理年表
(年)
1945
枕崎台風(死者行方不明 4,229 人)
1947
カスリーン台風、利根川、北上川大破堤(死者行方不明 1,930 人)
内務省、治水調査会設立
1952
電源開発促進法公布(エネルギー増加のために水力発電を増強するため)
電源開発㈱設立
1953
北九州梅雤豪雤、筑後川、白川、矢部川など大水害(死者行方不明 1,028 人)
和歌山県、豪雤(死者行方不明 1,015 人
県民 4 分の 1 被災)
台風 13 号、近畿・東海を襲う
治山治水基本対策要綱決定
1954
洞爺丸台風、洞爺丸など沈没(死者行方不明 1155 人)
1956
佐久間ダム(天竜川)竣工(堤高 150m(日本最高)、出力 35 万 kw(日本最大)、わずか 2 年 4
か月で堤体完成
1958
狩野川台風、関東・伊豆地方に大被害(死者行方不明 1,269 人)
1959
伊勢湾台風、東海を中心に全国的に大被害(死者行方不明 5,177 人)
1960
治山治水緊急措置法公布
チリ地震津波、三陸海岸(岩手県)に大被害
1961
水資源開発促進法公布
災害対策基本法公布
1962
水資源開発公団設立
1963
黒部ダム竣工(堤高 186m、日本最高のアーチダム、出力 25.8 万 kw)
1964
東京の水不足、新河川法公布、電気事業法公布
1973
水源地域対策特別措置法公布
1977
河川審、総合的治水対策答申
1982
長崎豪雤(死者・行方不明者 299 人)
1990
多自然型河川工法始まる
1995
阪神淡路大震災(死者 6,308 人、家屋全壊約十万戸)
1997
河川法改正(河川環境の整備と保全など加わる)
2004
台風 10 個、日本に上陸(気候変動の前触れ?)
新潟、福井、兵庫など水害、新潟県中越
地震
注)1950 年代までの水害による死者数は、統計資料により若干異なる
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