世 界 純 潔 革 命

世 界 純 潔 革 命
―負け犬を正当化する
正当化する屁理屈
する屁理屈―
屁理屈―
序
世界純潔宣言
万國の純潔者たち
純潔者たち!!!
たち!!!団結
!!!団結せよ
団結せよ!!!
せよ!!!
我等純潔者たる
我等純潔者たる貧民達
たる貧民達は
貧民達は、長年にわたり
長年にわたり【愛】
の少なさにより人生
なさにより人生の
人生の敗者として
敗者として貶
として貶められ、
められ、
その人間的価値
その人間的価値を
人間的価値を否定され
否定され、
され、蔑みの対象
みの対象とさ
対象とさ
れ続けてきた。
今まさにその桎梏
けてきた。
まさにその桎梏を
桎梏を抜け出し、
いざ、
いざ、世界の
世界の堕落打倒
堕落打倒のために
打倒のために闘
のために闘わん!!!
わん!!!
【愛】への堕落誅滅
への堕落誅滅のため
堕落誅滅のため我
のため我らは克己鍛錬
らは克己鍛錬を
克己鍛錬を
通じて、
じて、非暴力不服従ジハード
非暴力不服従ジハードにより
ジハードにより命果
により命果て
命果て
るまで全面闘争を挙行することを誓う。
精神に
精神に熱あれ!!!
あれ!!!
純潔に
純潔に光あれ!!!
あれ!!!
1
はじめに
本論は、一言で言えば、人生の負け犬であるわし自身がこの世で生きてゆくことを正当化する
ための屁理屈である。だから、あちこちに小さな論理的ほころびもあるし、他の人には到底受け
入れがたい部分も多かろう。(特に結婚している人、したいと思っている人、金持ちの人、米國
の好きな人は。) しかし、それでもこの屁理屈は、いくつかの意味を持つのであろうとわし自身
は考えている。というのも、世の中の殆どの人は勝者にはなれず、中途半端なところでいつも
お尻をペンペンされているか、負け犬としてコンプレックスに凝り固まっているかのいずれかで
あろうからである。ま、お尻ペンペンされるのが快感なマゾヒストも世の中には多いので、それ
ならそれで良いのだが・・・。
ということで、書き始めたものであるが、書き始めてから、どうやらわしとは異なる精神がと
りついてしまった。そこで結局、個人から國家、そして共同体にまで話が及んでしまい、少し長
くなってしまった。これはまさに、わし自身を超えた、他の精神達の共同作業による作である。
まあ、気が向いたら誰か読んでくれ。
本稿で
本稿で頻出する
頻出する主
する主な語の定義は
定義は以下の
以下の通り
精神=あらゆる物・生命の構成要素とその集合体に宿る超実在的実体
心=脳を持つ生命体に宿る実在的な神経回路の統合体
シャイターン=鬼畜=見えない悪の力を発する超実在的実体 [米國(独占資本教団総裁)もほぼこ
れと同じ。但し、現在シャイターンに魅入られている米國は、実体を持つ國家でもある。]
目次
第1章
昨今の情勢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p3
第2章
堕落と克己鍛錬 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p6
第1節
勝者の登場 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p6
第2節
堕落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p7
第3節
克己鍛錬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p15
第4節
居直りの力・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p30
第3章
日本と世界の堕落と国家鍛錬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p43
第1節
大日本国の精神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p43
第2節
国家鍛錬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p45
第3節
超国家の共同体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p60
第4章
人間精神の進化―精神と社会の理想=純潔・・・・・・・・・・・・・・・p67
第1節
人間精神進化の方向性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p67
第2節
純潔革命・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p69
第3節
精神の行き着くところ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p76
2
第 1 章
昨今の
昨今の情勢
ま ほ ろ ば
れんだう
我が日本國、清く美しき魔滅場の國なり。然るに、昨今我が國堕落し、さに連動して世界も
また堕落しをるなり。日本國、政治、官僚、公務員の癒着、不正、頽廃、そを特に強く求むらる
べき者達による犯罪、青少年の頽廃、文化の零落、その様たとふるにじごくのさまなり。まず、
どこにても他人の足を引つ張るなる擂鉢地獄に、勝たんとする曲がれる精神の虜となりたるシャ
イターンの遣ひ、益々跳梁跋扈し、清き平等の精神失い果つる。また、情なるたわごとで存在せ
ざる「愛」なる虚言を弄し、我が國を、さうして世界を破滅に導かんとする、心臭き息を吐く悪
女の繁茂、まさに血の池地獄のさまなり。更に言へば、世間なる怪物、人の死と負け犬のレツテ
ル貼りを喜び、テレヴィジオンなる機械のバカ番組と結託し、他人に針の山を踏ませては大笑い
しおる。これまさに地獄の針の山なり。
かかる地獄、此の世にては幾重にも存し、しかもこれら間断なく続きぬれば、是れまさに無間
地獄のありさまなり。
メリケヌ
目を世界に転ずれば、鬼畜の國、米國は他の國々を無視し、まことに勝手なる行為を汚らわし
き國益のためにぞしをるなり。地球環境もほつたらかし、アラブ人民の独立精神をも無視し、全
ての戦争、虐殺を「テロルとの戦ひ」とうそぶきて正当化し、鬼畜皇帝ブツシユ 2 世「此は将に
ナツィ、フアシスト、共産主義に対するイデオロギー戦争なるぞ!!!」とのたまひて、侵略戦
争に全世界を加担させ、まさに全世界を血の海にせんとしておるではないか!!!清き美しき
ま ほ ろ ば
魔滅場、日本男児の住む地に原子爆弾なる最悪の凶器を落とし、苦痛に悶えつつ多くの人々を死
に追いやつたメリケヌ=鬼畜國は更に朝鮮・韓半島を焦土と化し、ヴェトナムに枯れ葉剤を巻き
散らし、更にはソヴィエトの自滅を悪用し、石油欲しさにムスリムの聖地マッカを冒瀆しつる。
鬼畜更なる國益に走りて、ムスリムの地全ての支配をたくらみ、ウサーマ・ビン・ラーディンな
る者のテロルを誘発し、其を好機として、アフガニスタン、イラークを侵略して属國としおる。
劣化ウラン弾、クラスター爆弾、バンカーバスター等、非人道兵器の実験及び宣伝の成果により、
鬼畜國のブルジョワ自由主義者は巨富を手にしおるなり。是れまさに自由の仕業なり。全てを自
由のための戦いとうそぶく鬼畜國、子供含むあらゆる人殺しも植民地支配も自由なり。「民主主
義是れまさに鬼畜國の思うが儘の属國日本のやうでなくてはならぬ。さにあらざるパレスチナ
(フィラスティン)若しくはレバノン(ルブナーン)の民主主義は滅ぼすべし!」かかる意図隠
すため、鬼畜國はまことに勝手なる基準作りおる。是れ、まさに「二重の基準」なり。我が日本國
憲法の理論にても採用さるかかる基準、「個人の尊厳」を最高価値とし、「民主主義、是れ個人尊
厳実現のための自由の手段なり」との前提によるなり。すなわち、個人の尊厳確保のためには治
者と被治者の自同性が最もふさわしくさのゆえに民の意見を体現したる民主選挙で選ばれたる
政府が統治するのだが、さの多数決原理によつては少数者の人権確保が困難になる。而して、少
か し
数者の人権確保のため、民主制の過程で瑕疵修復困難なる精神的自由権、わけても表現の自由の
優越の理論を作つたのである。さうして、此の権利は財産権よりも優越が認められ、驚くべきは
生存権よりも優越してしまうのである。生存権は國家ありて初めて保障される後國家的権利、表
3
現の自由は國家以前の前國家的権利であるゆえ、國家からの自由を最高の価値とする鬼畜國の理
論では後者の自由こそ最も大事とさるなり。すなわち鬼畜國の理論にては、人間の命より、自由
の方が、価値が上なのである。鬼畜國、今の鬼畜の糞より独立戦争しつる時、パトリツク・ヘン
リイなる者「我に自由か死を」と叫んだと言わるるが、200 年以上前の狂信的なるたわごとを全世
界に広め、鬼畜の自由を害する政府は、
「テロル支援國家」「圧制國家」として打倒し、鬼畜独占資
本の植民地とするを「自由」とぞおもふなり。まさに鬼畜は糞より出でて糞よりも臭し。
イラークにては戦争前よりものが自由に言えるようになつたなど良く伝へらるが、命なくして
ものは言えぬ。多くの人々死に追いやりて、内戦やテロルの「自由」をもたらしおる。これまさに
鬼畜の勝手なる理論押し付けの帰結なり。而して、鬼畜は更なる戦争を起こさんとしおる。其れ
まさに鬼畜に利益なき朝鮮・中國侵略戦争にあらず。イーラーン・シリア(スーリヤ)に対する侵
略戦争なり。既にリビアのカダフィ、イラークの様を見、鬼畜に恭順の意を示しおる。今、中東
にて、鬼畜の属國になるを拒むは 2 國のみなり。此の 2 國を打倒せば、レバノンのヒズブツラ
ーも滅び、ハマスも更なる資金難となり、イスラエルは永遠に安泰。それゆえユダヤ人資本家か
らの莫大なる援助を受け、テレヴイジオンに汚染されつる馬鹿國民を宣伝にて容易に洗脳し、選
挙に勝つこと可なり。また中東産油國を全て支配することでエネルギーを自由に操り國益を実現
し、政治、経済、軍事、あらゆる点にて全世界の覇者として君臨すべし。更にては中東全域の支
配は「テロルとの戦ひ」の勝利には不可欠なり。さて、鬼畜の自由是れまさに少数の勝てる者の
自由なり。鬼畜、世界を支配せば 26%の人間、92%の國富を保有する鬼畜國の状態全世界に広
めることになるななり。自由主義原理主義の嵐にて爆死し、また飢え死にし果つる者省みらるこ
とを得べけんや。
かかる事態如何せん?我ら日本男児、手をこまねいて見ているのが真に日本男児といへるの
か?かつて日本男児は鬼畜國に対し全世界を敵にまわしてまでも清き正義の戦いを挑み 4 年間
も持ちこたえ美しく散つていつた。これまさにその後起くべき鬼畜の暴虐を予感し、全世界をそ
の暴虐から救い、大東亞共栄圏の理想を広め協働社会を実現するための美しき自己犠牲に貫かれ
た行為であつた。(一部虐殺等したる者もいるが。) 原子爆弾投下による敗戦後、戦前の軍國主
義に一方で反発しつつもその精神を受け継ぎつる次の全共闘世代は、安保闘争等を通じて協働し
鬼畜と華々しく闘ひにける。しかしいつしかかかる協働精神は失はれ、自分さへ良からましかば
さりて良からましなる鬼畜國的偏狭個人主義が多くの若者を捉へおる。是れまさにシャイターン
=鬼畜の思ふつぼなり。鬼畜は個人の飽くなき競争なる地獄を作り、彼らの協働・団結を阻害す
る。鬼畜の最上にいる者は下の者達の間に貧富の格差を作りて内部分裂を起こさしめ、結束して
反抗することを阻害しおるなり。アラブ世界の分裂はかかる結果の1つにて、また 1 つ、誰の
助けもなくして毎年1つ自殺市ができるほど多く(3萬2千人以上)が我が國にて自殺死するも
そのゆえなり。
かかる世界と我が國の現状を見るに、日本男児、今手をこまねひて見るわけにはいかぬ。手を
ま ほ ろ ば
こまねく者はもはや日本男児にあらず!!日本男児、金と國益に走り我が清き魔滅場を鬼畜のは
びこる地獄へと変へし米國に対し、再び清き闘い(リヴエンジ)を挙行するななり。是を此れ第
4
二次大東亞戦争(真正なる世界維新またの名をアジア人民のための革命的ジハード)といふなり。
かかる第二次大東亞戦争に勝利するためにはまず鬼畜のもたらしおる頽廃文化を捨て、堕落より
立ち直り、自己を克服し、その鍛錬に耐えねばならぬ。而して、次章に於ひて米國の誤れる価値
を去った正しき克己鍛錬について見ていくこととすなり。
第 2 章
第1節
堕落と
堕落と克己鍛錬
勝者の
勝者の登場
今の世は勝たねばならぬ。人々は幼きときよりあらゆる点で競争を強いられる。受験競争は言
うに及ばず、かけっこ、水泳、武道、球技でもそう、お稽古事でもそう、一見集団でやっている
ように見えることでも、とにかく何でも目立って飛び出て、ずば抜けていること、卓越すること
を要求される。
「他人より自分は優れていなければならぬ。
」そういった考えを幼きときより持た
ねばならぬ。何であっても自分が他人より優れていること、より優れていて、しかも究極的には
「一番優れている」に近づくために其れを目指さねばならぬと尻を叩かれる。母親は生計手段を
持たない子供に対してその弱味につけこむ形でアメと鞭を用いて「世間」の競争の罠にはまって
いくことを求め続けるのだ。此の要求はうわべでは非常に巧妙な方法を採られる。すなわち「こ
れはあんたのために、将来のために私がしてあげている。言ってあげている。」と、恩義を貸し
与えていることをちらつかせるのだ。ただですら、食糧、愛情という恩義を受ける身に対して、
更に将来のために多くの恩義をいわば黙示の利息付消費貸借契約を強制するような形で締結さ
せる。もっとも、幼い子供にそんなことを考える力はないので、強力な母親の力に屈服し、子供
は母の言うとおりに、お稽古、スポーツ、お勉強等を強制される。そおして、その中で勝つこと
を求められる。すると、強力な支配権のもとで借金を負っている子供としては、生きるため、た
とえそれが嫌いでも勝とうと努力=借金を返そうと努力するしかなくなる。命を賭けて一所懸命
に借金を返すことで恩義に報いる。それはまさに武家政治における御恩・奉公の関係のようなの
だ。
さて、このよーな競争にはどこまでも勝つ者がおる。何をやっても一番になる奴(わしはむか
つく)がいる。何でもできるスーパーマン、いる。スーパーマンは全ての競争に勝ち進む。そし
ていずれエリートになる。一方全ての競争に勝てなくても、何か1つ特技があってそれが金と結
びつくなら清きエリートになる。このようにしてエリートになった人々は自分が「努力した」から
エリートになれたと思い込んでいて、負けた人々を自らの心の中で人間のクズと思い見下してい
る。もっとも、表面ではええの、ええの、と言ってることもある。それは負けた人でも、そのよ
うな人間を自分の「勝ち」の道具として利用する「価値」があると思っている限りにおいては自分
の手の届く範囲に置いておきたいからだ。かつて、母親が母親自身の社会的地位向上のために子
を引きとめようとしたのと同じように、清きエリートも、自らのエリートとしての地位を高める
その限りにおいて、アメと鞭を巧みに使い分けて、負け犬をアゴで使う。このようなエリートを
「世間」は褒め称え独占資本の道具として礼賛する。特にマス=コミニュケイシオンなる妖怪は
よく此れを行い、幼きときより子供を洗脳しているから、このことで子供は余計に「勝ち」とい
5
うことを第1の価値と思い込むのだ。その結果、大きくなった子供もみな、「勝つ」ことを自明の
人生の目標と考えるようになり、自分の利益に資することのない、社会的地位や名誉のない人間
を陰に日に「負け犬」と言ってはばからず、クズのように扱って危険な仕事にアゴで従事させ、
自分の機嫌が悪ければ、土下座して謝罪させ、気に入らなければ即刻クビにする。法律などあっ
てないようなもの。そーいう人間に「世間」は勝者として媚びへつらい続けるのだ。勝った人間に
は地位や金や名誉が寄ってくるのでかかる人間に近づくと自分の利益になる。鬼畜の國米國の落
とし子、独占資本教の教義に沿って、その教義に洗脳された勝者は、勝者のみ集まる清き人々の
狭き精神共同体を作って、清き魂の交流を行う。
なむだ?それは。タマタマだ。まさに彼らはタマタマの交流をしている。狭い金玉袋の中でタ
マとタマが擦れあうようなタマシイの交流をまさにダマシ愛ながら行っている。それが彼ら清き
エリート達の姿だ。彼らエリート達は自らが成し遂げた事柄をとても美しくすばらしいと思って
いる。だから彼らはそれをデリケートな金のタマのようにとても大切で潰してはならぬ宝物のよ
うに思っている。しかし一方でタマタマは精神を作る所であって、タマタマで作った精子を精神
として放出したいと願っている。ところが、いくらタマタマを触っても何もコーフンしない。そ
こでどうしてもサオが必要となるのだが、彼らエリート達は自らのタマタマ運よく成し遂げた業
績=タマタマにどこまでもこもっているので、コーフンを感じることができず、精子=精神は狭
い金玉袋かせいぜい精嚢に鬱屈して閉じこもっていることしかできない。
彼らエリート達の中のある者は此の考えを否定しよう。というのも彼らの一部はマスコミに引
っ張りだこになっていて、自分のなしたこと、考えたことはマスコミを通じて多く一般の人に知
れ渡って居る。だから私の精神は伝わっていると。しかしそれは間違っている。マスコミもまた
自分のなした業績をデリケートですばらしいと思っているタマ袋の中のタマの一部、同じ穴のむ
じな。だから、自らの利益になるように再構成した虚像を多く放映する。それでも放映されたエ
リートが満足なのは彼らエリート達とマスコミとは、いずれも米國の独占資本教団総裁たるシャ
イターンの金玉袋に同居していて利益を同じくするため、真実がわからないからなのだ。すなわ
ち、マス=コミュニケイシオンはマスターベーシオン(=オナニー)できないのである。
このようなエリート達の作り出した精神は、シャイターンが貧民をレイプするために恣意的に
性器を触ることでのみ放出されることができる。エリート達の作り出した精神=おもしろくない
低俗芸能・熱狂的なスポーツでの勝利・誇大宣伝を通じた資本主義礼賛・一部の金持ちの欺瞞に
満ちた人権・鯨権擁護論・・・それらの価値や勝利は全て独占資本の利益のために屈従する負けた
人々を更に貶める。そして敗者があまりの惨めさに自己を捨て勝者と一体化したかのような恍惚
の変性意識状態を作り出さしめるのである。すなわちかつてのヒトラーのように敗者の真の精神
に蓋をして、シャイターンの化身と同化させることで、シャイターンの決定に無力にしかも喜ん
でついていく人々を作り上げる。そのときシャイターンのふとした発悪を契機として自由と民主
主義の名の下に巨大な暴力が発生する。これこそまさに米國独占資本教団の軍隊の非人道兵器を
用いた軍事力の行使なのである。
以上述べてきたように米國一國独裁体制の下、米國的勝者は他者を利用し、犠牲とすることに
6
よって自らの地位を確立してきた。そしてその地位を更に強固とするため自らの利益となる者つ
まり米國的勝者との間の精神の交流を推し進めている。かかる偏狭な精神の交流の結果、社会の
二極化―勝者と敗者との格差―は単に経済的格差のみに留まらず、政治的格差、生命の価値の格
差までをも生み出している。例えば、米國人 1 人の命の価値は人権の本質的理念の下ではアフ
ガニスタン人やイラーク人 1 人の価値と同様であるはずだが、現実には何十倍、何百倍もの格
差となっている。(同時多発テロで死んだ人よりその後の戦争ではるかに多くの人々が殺されて
いる)このような世界の状況を見て多くの、世界の良識ある人々はおかしいと思っているはずだ
が、「米國的勝利」にがんじがらめになっていて、それに歯向かえば敗者になるしかない現在の社
会において、かかる人々の声は殆んど届くことがない。届いても小さな声にしかならないのだ。
そして結局強い者、勝った者の声が富や権力、軍事力、名誉、名声…を生み、それらが更に同じ
ものを増殖させ続けるのだ。経済における資本主義は独占資本主義を生み出し、その克服のため
に生み出された似非共産主義の自滅によって、矛盾を抱えたままの独占資本主義は果てしない"
勝利"への執着を目指して進んでいる。そしてこのような"勝利"をもたらすものを、米國独占資
本主義教団のプロパガンダ機関となったマスコミによって恒常的に崇拝・賞賛の対象として流す
ことによって、かかる誤った考えは"敗者"である一般人の間にまで深く浸透している。例えば、
宣伝によって美しくきらびやかに見える衣服や車、便利で快適そうな暮らし、マスコミが伝える
それらの情報は、独占資本が富を蓄えるために流されるものであるのだが、そればかりではない。
敗者の中でも更に優劣をつけて、敗者の中での敗者復活戦中での下層民の中でのランク付けまで
行わしめようとしているのだ。こうして、負けても負け続けることを許さず、更にその中でわず
かでも世間体や見栄を整えるためより世間体の良い職業や会社を求め、より世間体の良い身なり
や外形的生活を整えようとしなければならぬ。わしら敗者は、"敗者"のレッテルを貼られるだけ
ならまだしも、敗者の中でさらに競争すること=擂鉢地獄の中で擂鉢の底の底にまで落ちること
(=死)は許されず、悶え、苦しみつつ、他人の足を泣きながら引っ張らされて競い続けさせられ
ているのだ。そしてその中で少しでも勝った者は、より劣っている者と自分を比較し、かすかな
優越感に浸って喜ぶ。他より優れることを絶対的な価値として洗脳され続けている人々は、比較
によるかすかな勝利に浸り、他より少しでも優れていると思わねば自らの尊厳を満たすことすら
できなくなって自殺に追い込まれてしまう。このように、米國独占資本教は人々の骨の髄までそ
のウイルスを潜入させ、人々の DNA の正常な機能までも脅かし、死に追いやっているのである。
このようにして、わしらのうちの多くの人間は"擬似勝者"となる。少しでも他より勝ったと思
い込んで自分へのかすかな慰めとする。しかし、実はこの"勝つ"ことこそが見えない敵すなわち、
米國独占資本教団総裁シャイターンの思うつぼなのだ。つまり、①敗者の中で競わせることでそ
の結束を弱め、勝者の中の勝者へはその矛先が向かわないようにする。②競うためには金がいる
ため、敗者が殆んどない金を借金してまで使うことで資本主義が発展してゆく=独占資本教は正
しいという教えが広まっていくことになる。③人々の精神を堕落させることができる。①・②に
ついては既に見てきた。そこで次に「堕落」という大問題について見ていくことにする。
7
第2節
堕落
一 【愛】への堕落
への堕落
堕落とは本来高いところにあるものが落ちてゆくことを言う。それは擂鉢地獄の中で擂鉢を登
りきれずに落下することではない。外見ではなく、人間の精神が落ちてゆくことを言う。人間の
価値は生まれながらに平等であり、いかなる地位や名誉を持っていようといまいと、富があろう
となかろうと全く同じ。此のとき人間はみな最も低い位置にいる。精神は全ての中で最も堕落し
た点にある。人間はそこから精神の高み、他者(特に米國)の与えた他者との比較での高みではな
くて、自分自身の過去との比較において、自分自身の高みへと旅立つことになる。あくまで比較
の対象は自分自身であって、他者ではない。なぜなら他者と自己とは出生環境、生育環境、或い
は前世その他自分の力ではどうにもならない天の力によって、縛られていて、それを考えればど
うしようもないからだ。
(=宿命)更にそんなことによって、他人と自分とを比較して思い悩んで
精神を傷だらけにしていくのは、ま、それはそれでよいのだが、(後で述べる)とりあえずあほ
らしいのでできれば考えないようにすべきなのだ。
こーして個人はそれぞれ自分自身の精神の赴くままに自分の理想を目指して進むようになる。
しかしこのやうに自分の理想を目指して進んでいる個人に対して襲いかかる悪魔がいる。それが
シャイターン=米國(鬼畜)独占資本教団総裁だ。シャイターンは、個々の人間と人間を人間関係
という重い鎖でがんじがらめに縛ろうとする。そして鎖で縛られた人間達のうち、誰が一番早く
進むかという人間の順位をつけようとする。"勝て!勝て!!"とおどろおどろしく鞭を振る
われ重い鎖で縛られた人々はやがて擂鉢地獄の中で一生果てしない戦争に駆り立てられるよう
になる。このような擂鉢地獄へと人々を駆り立てるため、シャイターンはとても巧妙な罠を使う。
それがまさに【愛】という言葉によって象徴される諸々の人間関係の鎖なのだ。
人は生まれたばかりでは1人では生きてゆけない。必ず誰かの世話にならなければ生きてゆけ
ない。このとき親は子供の世話を無償で行う。これを親の子への【愛】という。しかし、実はそ
もそもこの【愛】の中にこそシャイターンの放つウイルスが隠されている。確かに一見親の子へ
の世話は無償であるとも思える。しかし実はそれは子の存在が親の利益になる反対給付が存在す
ることによって初めて実現されるものなのである。
例えば、親は子におっぱいを飲ませ、無償でおしめを替えて、泣いたらあやして、遊んでやっ
て、・・・いろいろ面倒を見る。しかし、一方親は子供の存在によって"世間"の人々との会話のネ
タ、夫婦の会話のネタができ、世間から子を産まない妻に対する「嫁して3年子なきは去れ」など
という悪口から免れるという利益を享受する。また、子供が成長し大きくなれば、ひょっとして
金持ちになって自分に対して何十倍もの返礼をしてくれるのではないかと、万馬券を買った気分
にもなる。そのような会話のネタ、世間体、夢という代償を親に対して与える存在であるがゆえ
に、子供は親から【愛】されるのだ。【愛】とは実は無償ではなく相当な反対給付があって初め
て成立する始めから有償契約であることが実態なのである。
最近親が子を虐待してよく殺しているが、それは、
【愛】が親の利益のために有償でもたらさ
れるものであって、子供が有益でなければ殺してもいいという身勝手な理屈に基づくものである。
8
しかし、そもそも"身勝手な"とは独占資本教に洗脳されたこの社会の他人の言うこと。資本主義
を発展させる消費者である子供を殺したという理由、そして"無償の愛"という虚構を信じ込ませ
るために言っていることにすぎない。
それではなぜ、独占資本教団は、"無償の愛"という虚構を信じ込ませようとしているのか。シ
ャイターンはなぜその発悪のため【愛】なるフィクションを遣いとしてこの世にもたらしたのだ
ろうか。
それは"無償の愛"の存在が資本主義にとって都合がよいからである。そもそも、生まれたての
赤ん坊は、専ら消費者であって、生産活動によって利益を上げることができない。かかる人間は、
金銭的には対価交換はできず、誰かが一方的給付をして生かさなければ、生きて行けない。しか
しそうした人間は、消費者として資本主義に有益なので、独占資本はこれを自らの金を使わずに
なんとかして生かす理屈を編み出した。人件費を払う必要がなく、理由なく無償で給付する親と
いう人間に、
【愛】という仮構を用いてその義務を負わせることで、独占資本はその金を専ら新
たなる金を生み出す投資に向けて使えるようになる。このような育児労働更に家事労働という、
独占資本の利潤追求にとって手かせ足かせになるものを、フィクションで丸め込み、独占資本が
専ら利潤追求のための金儲けマシーンになり続けられるよう、仕組まれた罠こそが【愛】なるフ
ィクションの実態なのである。
ところがこのような虚構である【愛】を押し付けられた親としてはたまったものではない。自
分は何も悪いこと等していないのに、なぜ子どもへの【愛】など強制されるいわれがあるのか。
子供という人間関係の鎖で縛られた親特に母親は、その奴隷的拘束の中で、かすかな反撃を始め
る。「そうだ。"無償の愛"を子供に押し付けて、子供に"恩"を貸そう。アメと鞭で無力な、全て
自分の支配下にある子供を、独占資本の利潤のために自分が縛られているのと同じように縛り、
その"恩"を何倍にも何十倍にもして返すように育てよう。」そう考えるようになる。そのときか
ら親は子供に対して、多額の金をつぎ込むようになる。なけなしの金をはたいて教育を受けさせ、
飯を食わし、習い事をさせ、そしてまさにシャイターンが意図した通りの資本主義的勝者を育て
上げようとする。「無償の愛」と何百回と耳にタコができるくらいに聞かされて育った子供は、
その恩義の重さに耐えかねて、押し潰されそうになりながらも、それでも恩義に答えねばならぬ
という教えに幼いときから洗脳されて続けているため、愛情の血の池地獄の中で身動きできず、
ただ親の望むように、親の願いをかなえるために生きてゆかねばならないようになる。こーして、
いわゆる「いい子」ができる。「いい子」は親の【愛】の重さを良く知っていてその意図に決して
逆らえない。いつしか自分自身の理想を忘れ、親の理想―それは独占資本教団により理想と思わ
しめられているシャイターンの教義の実現―のため、血の池を泳ぎながら、擂鉢地獄の中で戦い
続けることになる。
このように、仮構された【愛】に縛られ、限りない競争の中で生きていくように、シャイター
ン(米國)は【愛】というフィクションを作り上げたのである。
シャイターンが【愛】というフィクションを生み出したのには、もう1つの理由がある。それ
は男女の【愛】がなければ、結婚せず、子孫が生み出されず、資本主義の発展に寄与する消費者
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が減少し、ひいてはそれが利潤追求を阻害するという理由である。そのために、
【愛】がなけれ
ば人間社会が崩壊するというフィクションを仮構したのである。そもそも性交渉や結婚などを求
める男女の【愛】は人間以下の猛獣の生物的欲求により生じるものである。此れについては、約
1000年前の我が純潔の同胞も、
「食べることと飲むことと結婚することのみ知っている猛獣」
と言って、かかる欲望を非難している。にも拘わらず、人間はなかなかかかる欲求から逃れられ
ず、あちこちで、婦女暴行や女の連れまわしや殺人等の事件が起きている。
シャイターンの放つ、きらびやかな服装や化粧、露出狂のようなファッション、それがなくと
も女の匂いそのもの等、女という生き物はあらゆる手段で意図するとせざるとに拘わらず、男を
誘惑している。その誘惑は、女が経済力ある男をしとめ、かかる男に寄生して生きるために行う
のだが、得られる巨大な利益を目指すための女の投資は半端ではなく、此れが大いに資本主義を
発展させる。だから、独占資本マシーンは映画、ドラマ、広告等を通じて過大に【愛】を宣伝す
る。その【愛】の対象は専ら資本主義の勝者であって、敗者には全く関係がない。ここに富を持
たない男達は「もてない」
【愛】の敗者となる。
【愛】の敗者は力ずくでそれを奪おうとし、その
ため犯罪が生じる。
資本主義の勝者はかかる犯罪者を"敗者"というレッテルでまじめに生きる"敗者”と1くくり
にする。一方多くの宗教者や思想家は、これらを「にせものの愛」と呼ぶ。そしてそれとは別の
「真の愛」があると説く。
例えば、E.フロムはその著『愛するということ』で、「愛とは技術である。愛は信念の行為で
あり、それを磨くべし。」「自分の信念が弱い人は他人を愛することができない。」というよーな
ことを言っておる。そして【愛】とは「信念の行為で、こちらがその人を本気で愛すれば、きっ
とその人の中にも愛が生まれると言う希望に全面的に自分を委ねることだ」と言うのである。こ
のような話はまことに耳ざわりが良く、フロムはまた、資本主義的成功を否定しているから、資
本主義的成功と離れたところに真の【愛】があると信じたい人、【愛】に飢えている人たちには
この著書の結論はとても受け入れ易いものだろう。
しかし、わしは、この「愛の行為」に対してとても懐疑的な印象を持っている。というのも、そ
れはあまりに美しすぎて、この世界でそれを実践すれば、詐欺師に騙されて、無一文になり、野
垂れ死にするしかないからである。本当かどうかは知らんが、イエス・キリストは十字架で刑死
したというし、ガンジーも銃弾に倒れた。偉大な【愛】の実践者は、身を滅ぼす定めなのである。
それでもなお、愛の殉教者の高い精神的価値は永遠に不滅のものであるとも思える。しかし、残
念ながら、一般人にとってはそうした「価値」は容易に「勝ち」へと変化する。普通の人が普通に実
践できる地平で捕らえたとき、
【愛】の行為の実践は偉大な魂による高い精神の創造ではなくて、
単なる自己利益、つまり自分が「愛されたい=愛の勝者になりたい」との見返りを求めた【愛】の
強制的押し付け、言い換えれば【愛】の獲得競争のための投資手段に堕してしまうのである。こ
うして【愛】は堕落の方便となっていく。「私はあの人を愛しているのに、なぜあの人は私を愛
してくれないのか」などと思うようになるのである。フロムの考えに従えば「愛するという信念が
足りないからだ」ということになるが、最も偉大な人でも全ての人々の中に【愛】を生み出すこ
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とは不可能なのであるから、一般の人には、他人が【愛】を生み出すまで待つことはなおさら無
理である。そして結局自分の提供する【愛】に答えてくれる、狭い範囲だけでの【愛】に満足す
るようになる。それは、自分達さえ良ければ其れで良いという偏狭なエゴイズムに堕してしまう
ことになる。自分が【愛】して、
【愛】が生まれる人とのみ付き合い、
【愛】を生じない人を無視
するという姿勢では、結局自分の世界を小さく狭くしていって、自分の精神の可能性をどんどん
小さくしていくのである。そしてそーした小さな世界に閉じこもるようになると、「愛の共同体」
をどーしても守りたいとの強い願いからその【愛】でつながった人々の共同体の外にいる人々に
対して排他的となるのである。
こーして、排他的なカルト教団や極端な民族主義やテロ集団、それに自由原理主義が生まれる。
そしてその【愛】で結ばれた共同体を守るため、外の人々に対して血まみれの戦争を引き起こし
てしまうのだ。彼らはこのように、他者を抹殺してまでも【愛】にすがろうとする。身近な家族
や國家、教団、そーゆうものを守るため、共同体の外部の者を「悪」と決め付け、
「悪」に対して
いかなる手段で戦っても良いと考えるようになるのである。そして甚だしくは、戦争すら【愛】
の力によるものだと言うようになるのである。(例えば、統一教会の原理講論ではベトナム戦争
は共産主義を屈服させるための【愛】の戦争だと言っている。
)
【愛】はこのように戦争をもたら
し、多くの人々を殺すシャイターンの道具となってしまった。
【愛】という言葉が生まれた当時
の意味はともあれ、現在では【愛】は「狭い共同体=自分と気の合う人たちの間だけの【愛】」に
取って代わっている。このような理由から、わしは、
「真の愛」という言葉も信じないし、そー
ゆうものはないと考えている。
此れに対し、なおも「真の愛」の存在を主張する人々は「それじゃー寂しいよお。
」と言う。理
論ではなく「人間の情」或いは本性によって天から与えられたものであると言い出すのである。確
かに、かつての様々な経験からして、気持ちとしては、それはわからないではない。しかし、わ
しは、あるとき気付いた。「寂しさ」は幻であると。「寂しさ」は「寂しい」と思えば現れるが、何
かしらに没頭する時間があって、その時間が充実していれば、感じる暇などないということに気
付いたのだ。そのときから、わしは【愛】を信じなくなった。
「寂しさからの逃走=近代人にで
きた余暇であるところの自由から逃走」するために【愛】を求めたいという、その【愛】への固
執は実は近代という時代が生み出した幻であることに気付いたのである。「寂しい」のはヒマなの
だ。暇であって何もすることがないから「寂しい」と感じるのだ。あれやこれや、やりたいこと
や、仕事、用事・・・がたくさんあれば、そんな風に感じる暇など到底ない。いきおい【愛】なく
して生きることに全く抵抗を感じなくなる。”愛への欲求”を人間の本性に基づいた欲求等と言う
のは間違っている。自分自身の中に信念があれば、信念に基づき、自分の精神の理想を自分自身
の心の中で追いかけていくことに精一杯で、とても他人を愛する余裕などないのだ。
こうしてわしは、人間精神の理想が【愛】という語に全て結実されているかの如き多くの議論
が実は根拠のない空論だということを知ったのだった。それはニーチェのように殆ど全ての価値
を否定しつくす中から出てくるニヒリズムではない。そーではなくて、個人の、より高い理想を
目指すための軛となっている【愛】の存在を否定することで、個人の人間精神の可能性の更なる
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飛躍を志向するものなのである。わしは、このように【愛】を否定してきたが、
【愛】の否定は
決して人間の心の可能性を否定することではない。そーではなくて、他人から【愛】を受けたい
と思う他人への要求の否定がその本質である。かといって、幸福の科学のように「与える愛は天
國へ、奪う愛は地獄へ」などと言うのとも同じではない。わしは、「与える愛」という意味での【愛】
すら否定しているからである。もし、そのよーな意味で用いるものがあるとすれば、それはむし
ろ克己鍛錬の一部と言うべきである。決して【愛】などという恩着せがましいものではないので
ある。
二 家族について
家族について
以上のようにわしは、
「真の愛」すらその存在を否定してきた。このよーに考えると、
「家族」
という社会を構成する最も基本的な共同体はその存立基盤を失い崩壊してしまいそうである。で
は、「家族」とは、いったい何を求心力にして結びつけば良いのか。家族とは一般に夫婦と子供か
らなる。そして場合によっては祖父や祖母を含む。これらは、生計手段を共にしていることが多
いし、人類の殆どあらゆる社会において見られる。それらは、まず経済的理由で結びついている。
男女が仕事と家事・育児を分業することでより効率的な生活を営むことができるからである。次
に、それらは社会的な理由で結びついている。新たに社会の成員として、生計手段を持たない子
供を大きくするという社会的な負担を、その最も基本的な共同体に委ねることで、社会的コスト
を軽減しているのである。更に老人の介護もこれを家族に委ねれば、社会的コストの軽減に資す
る。
それにしても、このよーな家族はなぜ今目の前にいる人であるのか、なぜかかる人を育てたり
介護し続けねばならぬのかという問題は残る。そこでかかる個人の問いかけに対して、今まで最
も簡便な答えとして【愛】の存在ということが叫ばれて続けてきたのであった。つまり、
【愛】
し合う男女とその【愛】の行為によって生じた【愛】の結晶である子供とは皆【愛】によってつ
ながっているのだから、人間本性たる【愛】によって扶助しあわねばならぬのだと。
しかし、その欺瞞性は、もはや誰の目にも明らかである。女性の社会的地位が向上した結果、
今や男にとって結婚は金銭的余裕のある者しかできない。男女や家族の【愛】とは明らかに金銭
への【愛】以外の何物でもないのだ。そうした現代社会においてもなお、家族を結びつけるのは、
"恩義"である。育ててもらったことに対する感謝、【愛】ではなく感謝のために、子は親の介護
を行う。親が子供を育てるのは、先述したように見返りを求めてのものである。だが、親の動機
はともあれ、自分が、そんなに働きもせずに育ててもらったことは忘れるべきでない。それを忘
れてよく親を殺す子がいるが、それはまさに後述する克己鍛錬が足りないのである。一方、親が
子の面倒をみるのは、性交渉の"罪"に対する贖いとしての義務からである。克己鍛錬が不十分で
欲望に負け堕落し、性欲を貪ったことの重い代償である。
このように、家族が"恩義"や"罪"への贖いによって結びつくということは、それらが【愛】
により結びつくことと比べて、求心力を弱める。その結果、家族を構成する個人はより自立し、
より個性を強め、より自己の内面の進化に向かって進めるようになる。これは、
【愛】により、
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個人が果てしなく家族のドロドロの中で苦しんでいく「家制度」とは異なって、個人の可能性をよ
り広めてくれる。そうすれば、家族が全てを負って、介護疲れで無理心中することもなくなるで
あろう。反面、個人の理想や、人間精神の進化を求めない人々は「寂しさ」に打ちひしがれて、思
い悩んで生きることになる。現代はちょうどその転換点にある時代であるから、
【愛】の思想に
染まって寂しい思いをしている親の"恩義"のこともそれなりに考えることは必要であろう。しか
し、「家族」は、
【愛】ではなく社会経済的側面と"恩義"や"罪"によって成り立っているのだから、
「家族」だからといって甘えあったり、根無し草のように依存しあったりするのは、禁物である。
あくまで個人の精神が基本であって、1 人 1 人の人間が克己鍛錬を通じて強くなるべきなのであ
る。
三
【愛】以外の
以外の堕落
人間精神を堕落させる最大の元凶が【愛】であって、このような【愛】の否定が堕落の克服に
とってまず大切であることは、以上述べてきた通りである。しかし、人間精神を堕落させるのは
【愛】だけでない。その根底には【愛】への渇望があるのだが、直接的には【愛】とは異なるも
のを通じてなされる種類の堕落がある。以下、これらについて見ていくことにする。
まず挙げられるのは犯罪行為である。犯罪とは社会の法により罰せられる行為であるが、これ
は國会で國家の多数決により「悪い」と決め付けられたものなので、少数者の意見を代表していな
い。よって、少数派である自分はこれを自由に破っても良いと考える人がいる。一方、破ること
は良くないとわかっていつつ破る人もいる。前者は確信犯、後者は非確信犯であるのだが、これ
らはいずれも「堕落」の範疇に入ることが多い。なぜなら、犯罪とされているものの多くは、他
人に迷惑をかけるからであり、自立した個人は自らの理想に向かって進んでいるのに対して、犯
罪を行う者の多くは、他人に相手にしてほしいという、人間関係への【愛】を求める心の呪縛か
ら、こうした行為を行っているからである。そうでない場合でも、金への【愛】や権力への【愛】
等、まさに米國が好む諸々の価値のために行われるのが、多くの犯罪である。これらは、自らの
精神の進化に蓋をして、他者との関係で自分が「勝とう」としている点で、米國独占資本教団の思
想と共通しているのである。但し、世俗の法で犯罪とされても、堕落でない犯罪もある。例えば、
妊娠中絶せざるをえない事情のある胎児の命を救い、胎児を、子を欲する人に斡旋することなど
は、精神を進化させる行為であって、喩え世俗の悪法により罰せられても決して堕落などではな
い。また、ごみあさり等は、ブルジョワ自由主義者の画策によりたとえ将来犯罪となろうとも、
ごみを減らし地球環境悪化を防止する行為であるゆえに、決して堕落ではない。ごみの持ち主に
愛着を覚え、付き纏うなどの行為のみが堕落なのである。
次に挙げられる堕落の形態は他人への恨みである。恨みは、他人に対し【愛】を求めつつそれ
を得られない嫉妬から生じるものなのだが、直接には【愛】を求めるものではない。このよーな
恨みをあまりに強く持ちすぎ、五寸釘でわら人形に突き刺して呪うようなことをしてはいけない。
なぜなら、そのことで他人を傷つけることはなくとも、自分自身の心をいびつに変型させ、何が
自分の精神の本来向かうべき道かがわからなくなるからである。これをなくすのは、本当に難し
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いのだが、内面の奥底の良心の声を汲み取り、精神の進化を目指すためには、シャイターンの放
つ恨みをどうしても去らねばならない。とはいえ、一旦抱いた恨みは自分の記憶の中にインプッ
トされ、事ある毎に頭をもたげて、自分の精神をむしばむ。そして思い出す度に怒りに悶え、行
き場のない怒りの刃はやがて自分自身に向かうのである。そして思わず包丁で手首を切り、自分
の血を見て微笑んでしまう。そしてしばらくすると力が抜けて何も手のつかない放心状態となる。
このよーに、恨みが自分の頭を覆ってしまうと、内奥の声など全く聞こえなくなってしまう。そ
して気付かないままに堕落の道を走っていることになる。では、このような恨みを去らせるには
どうしたら良いのか。
それは、自分が卑屈になるのではなくて、卑屈ではない敗者になることで去らせることができ
る。つまり、コンプレックスの塊となった自分を逆手にとって、まだコンプレックスで一杯にな
っていなくて、恨みを抱かなくてすむ部分を思い出しながら、自分の精神進化を行うことができ
るのである。(後に述べるように、これを「居直りの力」と言う。)
更に挙げられる堕落の形態は差別の心である。人間は全て生まれながらにして本質的に平等で
ありながら、シャイターンにより他より優越したいという欲望を植え付けられてしまった。そこ
で何とかして自分を認めてやろうとして、自分に自信のない人は他人をレッテルで貼って差別し、
見下そうとする。その人は、本当は他人を傷つけている以上に、そのことで自分を見下し、貶め
ているのだが、それにも気付かず、他の多くの人々にいろんなレッテルを貼って貶めることで、
何とかして自分の優越感を保とうとする。それが世間体とか社会的地位等などなのだが、そんな
ものにこだわり続けるのは、まさにシャイターンに与えられた【愛】のなせる業なのである。
そして、もう1つ重要な堕落の形態として見過ごすことのできないものは、男女の性交渉(い
わゆる sex と呼ばれる一連の汚らわしき行為)なのである。以下、この問題について少し詳しく
見ていくことにする。
多くの良心的知識人は、男女の性交渉は、それが不純な動機に基づくものであれば堕落である
が、それが真の【愛】に基づくものであれば堕落ではないと考えている。それは、かかる行為が
真の【愛】に満ちた家庭を築くために不可欠と考えるからである。しかし、彼らはその、もっと
もらしい言説の欺瞞性には目を瞑っている。すなわち、【愛】により結びつきあう男女とは、性
欲と金及び名誉、まさにこの 2 つの価値を等価的交換給付し合える関係にある者同士の間での
み成り立つ、極めて乾燥した関係に過ぎないことに目を瞑っているのである。彼らは実は自分の
性欲が我慢できないだけなのである。そもそも人間が人間たる所以は、性交渉によって子孫を増
やすからではない。人間は知性ある頭を持つ。頭は考えるためにある。にも拘らず、自分の頭で
考えることを軽視し、難しい問題を子孫に先送りするという、そんな身勝手な論理が「勝ち」に根
ざした欲望の無制限な発露を認めている。しかも、性交渉をするために不可欠なのは金である。
合法的な継続的売春契約であるところの結婚契約を結ぶためには、通常の人間なら自分の稼いだ
金の 1/2~2/3 以上くらい、すなわち自分の人生の大半の時間を女のために投資しなければなら
ないのである。そうした投資をしてまで、継続的にいつでも性交渉ができるという相手を求める
のは、彼らが実は精神のレヴェルにおいて鼠や犬や猿の域を超えていないからである。人前では、
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「一緒にご飯を食べる相手が欲しい。」等と言いつつも、実は、自分の命に代えても性交渉をした
い、そういう動物的な肉欲に遮られて更なる精神の進化のあるべき方向性がわからなくなってい
るのである。彼らはまさに死をもって全てが滅ぶと考えていて、子孫を残すための行為が、この
世に残すべき自分の最も重要な行為だという独占資本の放つありふれたシャイターンの言説に
汚染されつくしている。そして、
「人間」
人間」まさに「
まさに「人間」
人間」のためにのみ与
のためにのみ与えられている理性
えられている理性の存在
理性
を軽視している。目に見えるものしか見ず、見えない精神を知覚しようと努力しないばかりか、
かかる精神の存在を虚誕毛説として一笑に付し、ただ、虚栄と性交渉を求めるのである。しかし
かかる性交渉により得られる喜びはほんの一瞬のものである。最初はしおらしくしていた女は、
男の稼ぎが自分の果てしない欲望を満たすに不十分だと知るや否や、男に対して、休日に家にい
ることもままならないほどにあからさまな侮蔑、軽蔑、罵倒を行うのである。そうして、女に縛
られた男達は、休日にもアルバイトをさせられ、過労死するまで嫌な仕事に従事させられる。過
労自殺した夫の自殺保険金を得た妻は、更にしおらしくうそ泣きをして、企業に対する損害賠償
請求で多額の賠償を得て、泣きながら「夫の無念を晴らした。」などとのたまい、裏でほくそ笑む
のである。まさに、シャイターン、シャイターンに汚染され、金と欲望の亡者となった女達に死
ぬまで操られ、精神の声を聞く暇もないままに死に追いやられる。結婚していない相手であれば、
相当な代価を払わなければ強姦罪で告訴され、刑務所にぶちこまれる。性交渉とはそんな恐ろし
い行為なのである。
もっとも、わしが性交渉を否定するのはかかるシャイターンに汚染された女の発悪の恐怖に耐
えられないからではない。そうではなくて、人間がこの世に残すべきは、精神の進化の帰結であ
るということによる。すなわち、人間は他の動物と違い知性を持つ。その知性によって成し遂げ
た精神の進化こそ、来世のための糧となると考えるからである。来世がないと言うのは、精神を
知ろうとしないからである。肉体と離れた精神実在を否定するのは、彼らがシャイターンに骨の
髄まで汚染され、米國独占資本教団の信者になりきっているからである。それは、人間の目指す
べき方向性ではない。人類の繁栄などは所詮一過性のもの、いずれ恐竜と同じように人間も滅ぶ。
そして、太陽系も宇宙も滅ぶ。そのとき残るのは、精神のみである。あらゆる微細な物質から物
体、共同体の精神とその精神の輪廻転生を通じた発展の帰結としての精神の共同体である。その
共同体で、永遠の克己鍛錬を幸福と感じられるようになることこそ精神の目指す道である。かか
る点からすると、【愛】を正当化し、性交渉により子孫を増やすことが人間の義務だというよう
なまやかしは、欲望に汚染され、現世的な「勝ち」に「価値」を見出すことしかできない人間のた
わごとである。
第3節
克己鍛錬
一 克己鍛錬とは
克己鍛錬とは
先に見てきたように、
【愛】は堕落に至る元凶であり、
【愛】以外の堕落の形態も、実はその背
後に【愛】への渇望があるのだということが示された。つまり【愛】とは本来存在しないし、存
在すべきでないにも拘らず、米國独占資本教団の利益のために存在すると仮構されているまやか
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しなのである。かかる仮構により、米國独占資本教団の悪しき尖兵になること、此れを是れ堕落
と言うのである。かかる堕落を克服し、真に自己のあるべき姿へと立ち返り、而して自己のみの
目標へと進んでいくこと、この精神進化の過程を克己鍛錬と言う。
では、このよーに克己鍛錬を行うにはどうすれば良いのか。まず第 1 に挙げられるのは、「内
省」である。自らを克服するには自分自身を知らねばならぬ。己の力量、己の天命、己の才能を
知らねばならぬ。それらを知るためには自己の内面に向かって自己をどんどん深く掘り下げてゆ
かねばならぬ。パンドラの箱を開け、自己の内に潜むあらゆる悪しき考えを白日の下に曝け出し、
その悪しき心(シャイターンのウイルス)と自己の精神との戦い(ジハード)を引き起こさねばなら
ぬ。イエスはなぜこの世に平和ではなく戦いをもたらすためにやって来たのか。それは、この世
の米國独占資本教団総裁シャイターンの吹きかけるウイルスによって感染させられた多くの
人々から、このウイルスを除去すべく、精神の戦いをもたらすためにやって来たのである。すな
わちそれは、資本主義的美徳とされる金や名誉や権力や、その他諸々の力と、かかる外見へと奉
仕する道具に変えられた堕天使たち=【愛】をこの世から追放し、再び個人が個人の理想を追っ
ていけるように、この世界を再生するジハードを挙行するためなのである。
このよーな戦いは、他人との戦いではない。しかし、注意深く自己の内面を掘り下げねば、そ
れはすぐに他人との戦いへと転化する虞を持っている。例えば、あるオッサンが自己の悪しき考
え=そのへんを歩いている女子高生を見て、「キミノセイフクヲセイフクシタイヨォ~」と思い
胸や性器に触りたいと思う。これは紛れもなく、他者との戦いで他者を征服し、若い女性へのい
やらしい行為を実現したいという動物的な心の現われであって、自己の精神の進化とは逆の方向
へと堕ちていく考えである。なのに、そのことがわからず、或いはわかっていてもわからないふ
りをして、かかる欲望を制御できず、「オンナ、オンナ、何でもいいからオンナが欲しいいいぃ
ぃぃ・・・」などと言う者が多い。これは、
「滅びに至る門」であり、まさに「その門から入る者が
多い」のである。そうして、かかる欲望が満たされなければ、ストーカーや犯罪、或いは女を引
きつける金や地位という現世の虚栄を志向してしまうのである。その結果、克己鍛錬は忘れ去ら
れ、「自由」という言葉は精神の自由ではなく、欲望、言い換えれば【愛】の奴隷となるためのシ
ャイターンすなわち米國の強制する自由に成り下がってしまうのである。そしてヘッジファンド
やインサイダー取引、高利貸しや振り込め詐欺等による無制限な金儲け第 1 主義や性犯罪等を
自由に行うようになる。これらは皆、シャイターンの放つウイルスによって独占資本主義実現の
ために、敗者の中で戦いを起こさせようと企む、歪んだ【愛】の虚構が生み出した幻に過ぎぬ。
存在しない筈の【愛】が必ず存在すると信じたいという、幻影に対する信仰は、それが自分勝手
な欲望の充足のためならどんな卑劣な行為も許されると考える人々の跳梁跋扈をもたらしてい
るのである。
このよーにして、自己の内面に対するジハードは、いつしかこの世の倫理に対するジハードへ
と取って代わる。社会の法や倫理規範が間違っていると思い込むことで、自分の理想と信じた歪
んだ【愛】に対する崇拝を正当化してしまうのである。もっとも、かかる歪んだ信仰は多かれ少
なかれ多くの一般人がやむをえず有しているものでもあり、それが自分や社会にそんなに迷惑を
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かけないうちは、まあ許容される。一番問題なのは、
【愛】が存在することを「微かにでも願う
こと」、その他力本願の正当化による克己鍛錬からの離脱、いわゆる「ひねくれ過程」の恒常的
実現ということなのである。
二 ひねくれ過程
ひねくれ過程
ひねくれ過程とはすなわち、シャイターンの息吹を吹きかけられた個人が、自分の理想をシャ
イターンウイルスによって見えないようにされ、堕落し、ぐるぐると同じところを回っているこ
とを言う。
(=輪廻)ま、いうなれば、堕落の恒常化ということである。
例えば、少年少女らを見よ!彼・彼女らの多くは不良達を尊敬のまなざしで見る。社会の掟に
逆らう不良達に憧れ、自分達もそうなろうとしそう振舞おうとする。しかし、不良達の行う万引
き、恐喝、傷害等は、他人に迷惑をかける犯罪行為であり、やがて補導されて怒られて、多くは
やめるようになる。そーなればよい。しかし、覚醒剤に手を出してしまう者もいる。すると、禁
断症状が出てなかなかやめられなくなってしまう。そして、何度やめようと思ってもやめられず、
幻聴を聞いて結局自殺するというケースも多い。できればそうならず、ただ生きているだけでも
生きていれば良い。そう思う。だが、それすらできなくなってしまう。「自分がだめな人間だ」
と思い込んでいるからである。
「自分は一旦道から外れ、堕落した。堕落した人間はもう 2 度と
全うな道に戻ることはできない。」と思っているからである。このよーな諦めが、堕落の繰り返
し=輪廻を招く。堕落とは、自分が自分の理想を忘れただけで、いつ何時でもどこからでも再び
元の理想を目指すことはできるのに、それに気付かずに、いつまでもシャイターン教の信者にな
り続けていることに気付かない。だから、堕落をどんどん繰り返していってひねくれていく。そ
して、ひねくれから救ってくれる物や人にすがりたいと思い、存在しない【愛】を強く求めるよ
うになる。
【愛】はないのだ。そのような依存を全て捨て去り、ただ自分自身の理想のみ信じる。
そうすることで、人間は、ひねくれ過程から精神の進化の過程にいつどこからでも戻れるのに、
それがわからない人が多い。それは、多くの人が皆どっぷりと米國独占資本教の病魔に骨の髄ま
で冒されていて、世間体や資本主義的成功、言い換えれば資本主義との霊的性交にどこまでも強
く依存しているからなのだ。実は、不良達や覚醒剤常習者は、現体制に対し反抗しているように
見えて、そーではなくより強く資本主義の幻影に浸っているのである。
それはこーゆうわけである。すなわち、不良達は、校則や法に歯向かいまずタバコを吸う。そ
してバイクを盗んで乗り回し、他人からお金を巻き上げる。覚醒剤に手を出す人は、多額の金を
出してこれを買う。つまりこれらはみな、お金がかかる物ばかりなのだ。内申書にビクビクする
周りの規範遵守的な優等生よりも、いち早くお金やお金によって得られる物に手を出すことによ
って、一歩先んじて資本主義的成功を収めた人達を、多くの中学生達は羨望のまなざしで見る。
しかも学校という社会が、閉ざされた狭い中での校則や杓子定規のランク付けのレッテル貼り社
会であることから、そこからはみ出ようとする人間は、体制への反抗者として内部から余計に褒
めそやされる。そのよーにして不良になった人達は、やがて資本主義社会の中で成功していく
人々が多い。見れば判るが、不良は殆どの場合、資本主義的成功を収めている。土建屋の経営を
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したり、ボーシンになったり、ヤクザになったりして、昔と変わらず偉そうにして、人を怒鳴り
つけてアゴで使い、女をとっかえひっかえ侍らせている。法の網の目をくぐるのもうまい。反対
に勉強ばかりしてきた者は、殴る蹴るの暴行や無視によってさんざんいじめられ、大きくなって
も親の束縛から逃れられず、結局昔と同じくがんじがらめの中で奴隷扱いされ、一生卑屈に生き
ていくことしか出来ない者が多い。このよーに見ればわかるように要領の良い不良達は、自己主
張をし、気に入らない人間を排除しつつ資本主義的成功にうつつをぬかして生きてゆけるのだ。
しかも法を破ることにかけては抜け目がないから、町金融等で高利貸しをし、ヤクザや詐欺弁護
士と結託し、平気で不正を続けて人生の「勝ち組」になっている。少年・少女は、無視されないた
めにその擬似友達の関係の中で、こーゆう人間を中学生の頃から尊敬し、崇拝するよう仕向けら
れている。そのよーな価値の支配する学校の中で屈折した若者は、自分を人間のクズと思い、そ
んな自分から逃れるために覚醒剤や麻薬に手を出すか、自宅に引きこもり続けるようになるので
ある。
何度も述べたように、資本主義的成功とは、シャイターンの放つ虚像、うわべの成功(=性交)
であって、個人の真の理想からはかけ離れたところにある。だからそのよーな間違った「成功」
を捨て、自分自身の理想を探すようにしてゆけば、人間はいつどこからでも人間精神の進化の過
程へといつどこからでも戻ることが出来る。この復帰の過程は、精神病理学でいうところの「喪
の過程からの復帰」ということに似ている。うつ病とかでどーにもならなくなった人が、どこま
でも鏡の中にある鏡の像を見続けている状態(鏡像段階)から鏡を割って再生していく状態に似
ている。人間がひねくれ過程から脱するには、このように鏡を割ること、決断すること、それが
どーしても必要。それは、自分自身を殺すことではなく生かすことである。そしてその決断は何
度失敗しても、失敗し続けても、それでも必ず実行できるということ、そーいう自分の可能性を
信じることが必要。そーしなければ、散り始めた靄が再び目の前を覆い、本当に自分の進むべき
理想の道、天上へと至る道が見えなくなってしまうから。だから、どこまでもどこまでも自分 1
人だけが自分自身を信じることが必要なのである。このとき、他人の【愛】という甘い言葉に頼
ってはならない。他人には、どんなにしても自分の苦しみは伝わらないのだから。個人は皆、個
人の出生環境、生育環境、運命、才能、・・・いろんな制約の中で生きていて、その各々の苦しみ
は、結局自分自身にしかわからない。「わかるよーな気がする。」といううわべの言葉は、決して
自分の苦しみが他人にはわからないことの象徴でもある。このよーに、人間はみんな自分のこと
しかわからない。他人の苦しみは決してわからないし、わかってはいけない。わかるはずないの
に自分を勝者の立場に置いてわかった振りをする、そんな不誠実な態度が本当に苦しんでいる
人々を更に貶めてどれだけ傷つけて苦しめるかを、よく考えるべきなのである。
こーして人間はみんな 1 人となる。苦しければ苦しいほど 1 人になる。苦しんでいる人間は
ぺらぺらしゃべって楽しい人間=人を引きつける人間=資本主義的成功者から最も遠い存在な
ので、誰も人が寄って来ない。本当に苦しんでいるときには、誰 1 人として助けてくれる人は
いない。一見助けてくれるような振りをしている人は、皆、自分の資本主義的成功のために本当
に苦しんでいる人を利用ようとしているだけの者であることが多い。例えば、心の安らぎを求め
18
る宗教のセミナーの勧誘とか、精神科の医者やカウンセラー、或いは友達、女等全て苦しんでい
る人間を自分の成功の踏み台にしようとしているシャイターンの遣いだと思った方が良い。頼れ
るのは自分だけ。前後左右、四方八方、どこを見ても頼れるのは自分 1 人しかいないのである。
このとき、人は、自分以外の全世界のあらゆる人間が実は自分の心の映し出す幻だということに
気付くのである。だから、自分
自分 1 人、自分
自分だけ
自分だけを信じるべし。たとえ、独占資本の刃によって
だけ
その肉体の生命すら奪われることがあっても、自己の精神の光だけは失ってはならない。自己の
精神の清らかな理想の花園は、かつてかなたの点へと求め永遠に汚れなき理想の女性の姿となっ
た自分自身の中にある。それは、決して心から去ることはなく、心の奥の深い所にいつもあるの
であるから。その心の楽園が見えるようになるまで、どこまでも、どこまでも自分自身が自分を
信じられるようになるまで努力(ジハード=克己鍛錬)することが大切なのである。こーして、シ
ャイターンによって吹きかけられた心の中の諸々の虚栄を去ったとき、心の中に楽園が現れる。
それは、自分の肉体が消え去っても決して消えない、地上と天上を結ぶ精神の命、その本当の命
の実に聞けば、本当に今自分がどうすべきで、どーしているべきかはわかるのである。ちなみに、
この楽園には、永遠に清らかで交わることのない初恋の人が住んでいて、本当に深く深く考えて
憔悴しきった日の夜にだけ現れて、手をつないでくれるのである。すると翌朝目覚めと共に勇気
が湧いて、再び生きようという気が起きてくる。このような心の楽園の精神の交流は、現世のド
ロドロした男女の交流等と違い、全く清らかで何のわだかまりもない美しいものである。これが
現世の穢れた【愛】への渇望とは似ても似つかないものであることは言を待たないであろう。
以上のように、ひねくれ過程からの復帰(=輪廻からの解脱=居直り)を行うには、ただ自分自
身を信じ、自分自身に心と精神を深く知り、その声に従うことだけしかない。その際にまちがっ
ても【愛】などという言葉に惑わされて、他力本願になってはならない。では、このような、克
己鍛錬を邪魔するシャイターンの声にはどのようなものがあり、それによってどのように堕落さ
せられるか、また、それにいかにして「対処」(シャイターンに「勝つ」ことではない)していくか
という克己鍛錬の具体的方法を次に見ていくことにする。
三 シャイターンの
シャイターンの発悪と
発悪と克己鍛錬
シャイターンは様々な形で発悪を行う。米國独占資本教団の放つ刃には、それとわからないも
の、或いは不作為による兵糧攻めという恐ろしい方法もある。以下、そのいくつかについて見て
いくことにする。
まず、食べ物について。独占資本はきらびやかな美しいレストランやファーストフード、コン
ビニ等でおいしい食事を売っている。それらを買って、或いはその場で食べてもそれ自身が悪い
訳ではない。良くないのは、それを格好良いとか、それが競争に勝った自分のステイタス・シン
ボルだとか考えることである。それは生活のため仕方なく食べているのであって、それでまあお
いしいから良いと思うべきであって、その商品の上に資本主義的成功の幻影を重ねて見ないこと
である。その段階をクリアーしたなら、今度は自分で食糧を調達して自炊することである。しか
も食材は出来るだけ安いものを選ぶべし。基本的に、野菜を中心にし、できれば、クズ野菜を買
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うこと。また、肉は原則的に 100 グラム 38 円程度の鶏の胸肉に限ること。米は 10 キロ 3000
円未満のものを探す。安ければ安いほど良い。こーして食費を削ったら、今度は、時々ゴミ捨て
場や畑の脇を見るようにする。腐りかけのトマトや玉ねぎ、大根の葉などが、時期によってはあ
る。また、ガスの来てない家に住んでいるときには、カセットコンロを使うと良い。3つ 198
円のときにまとめ買いをするとかなり経費節減になるからである。但し、これらは、心を美しく
し、シャイターンに心を奪われないよーにするためのものである。ケチることが目的ではない。
ケチは金に対する信仰すなわち、独占資本教の教えに浸っていることの表れだからである。そう
ではなくて、金を使わないことで無駄な消費を減らし、地球環境に与える賦課を減少させること、
また金の流れを停滞させることであくなき利潤追求型の経済システムに変革を迫ろうとする、敗
者による非暴力の革命的ジハードの挙行のためである。かかる行為により、自己の精神も洗われ、
その進化を遂げることが出来るのである。
次に衣服について見ていくことにする。衣服は買いたければその辺で買っても良い。そして自
分の好みと感性によって気に入ったものを着ていれば良い。しかし、間違っても、とてつもなく
高価な服を買い、それが自分には不似合いだとわかっていつつも、自己の資本主義的成功を見せ
びらかせるため、これ見よがしに着て歩くことのないように。衣服は、ステイタス・シンボルで
はなくて、暑さ・寒さを凌ぎ、また自分を見る他人が不快感を感じず、自分も良い気分でいられ
るために身につけるもの。衣服にそれ以上のものを求めるべきではない。そして、それができる
ようになったら、今度は出来る限り古着を着るようにする。米國独占資本教団はどこまでも使い
捨てを奨励しているが、物は出来るだけ大切にし、使えるものは再利用すべきである。なぜなら、
地球環境への配慮をすべきである上に、服にもそれを作った人や綿花など様々な精神が宿ってい
るからである。その辺のゴミ捨て場には、よく古着が落ちていて、それを拾って着れば良い。こ
れに対し、米國独占資本教団総裁シャイターンの教えに染まった者達は、捨てた物を拾う人間を
ドロボウと同視する。自分で働きもせず、物を拾うのは、努力をしないけしからん奴だとして軽
蔑する。しかし、彼らはゴミ拾いに労力がいることを考慮していない。そして現在の自分の生活
を豊かにすることのみに興味をもって、地球がゴミの星になり続けていることにも殆ど興味を持
っていない。新品同然の服が、他のゴミと一緒に灰にされ、最終処分場と銘打った場所で、害を
もたらすだけの物として放置される。その服のためにどれだけ多くの綿花が栽培され、土地の栄
養が消えているかを考えようともしない。米國独占資本教団の作り上げた消費最優先の社会、そ
の社会の変革を志向するゴミあさりという静かな抵抗闘争は、自らの精神の克己鍛錬にも大いに
資するのである。
さて、次に他人の不幸という問題を見ていくことにする。独占資本はこの問題を無視し、「自
分さえ良ければ良い」と考えて片付ける。或いは、欺瞞的に「不幸な人を救うのは経済の発展だか
ら、自分は金が良く回るように努力している。」等とのたまい、先物取引で大もうけして全部自
分の懐に入れるのである。確かに他人の不幸がどうであれ、自分には関係ない。
【愛】はこの世
に存在しないし、他人への【愛】を与える必要など全くない。しかし、他人に不幸が訪れること
はそっくりそのまま自分に当てはまるものである。
「もし、自分がそうなったら…」という想像
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力をどこまでも働かせて、他人の立場を自分に置き換えてみることは、自己の克己鍛錬に大きく
資するのである。というのも、米國独占資本教団は、一方で個人の自由を最高の価値とする人権
思想を標榜しつつも、その自由の中で資本主義的敗者と成った者に対しては、「勝手に死ね」と言
う教えであり、かかる教えに歯向かうことは、シャイターンに対するジハードを行うことにつな
がるからである。それはこーゆうことである。米國独占資本教は、金を最大の信仰の対象とする。
ゆえに金銭の戦いで負けた購買力がない者は、資本主義に貢献しないから出来れば死んで欲しい
という教えである。我が國でもその教えに従い、毎年 3 万 2 千人以上自ら命を絶っている者達
がいる。しかし、多くの人間は負けたからといっておとなしく死ねるほどできがよくない。すな
わち、米國独占資本教のいうところの「テロリスト」予備軍なのである。彼ら敗者達が一致団結
して共産主義革命を起こされて、政府を転覆させられると自らの金を没収されて困る。そこで、
シャイターンの手先となった怪獣ケインジアン達は、敗者を懐柔するために、恩恵的な福祉國家
の政策を導入した。米國は、第 2 次大戦に敗れ、シャイターンの植民地となった我が國にもか
かる制度を導入した。かかる教えのもとでは、福祉とは敗者へのお恵みであるとの外面を保つこ
とで、資本主義的勝者の社会的ステータスを高め、一方で敗者を、そのステータスに服従する奴
隷とすることで、毒染資本教をより確固としようと努めてきたのである。このよーなシャイター
ンの教えの下では、他人の不幸へ手を差し伸べることは、仮構された【愛】の行為なのである。
このよーな【愛】の行為に対して、真の克己鍛錬は、勝者の立場から与える恩恵ではなく、当然
のこととして、他人の不幸を自分のこととして受け入れることである。「もし、自分がそーいう
立場に立ったならどうであろう」という想像力を働かせ、他人の立場に立って物事を考えていく、
そのことが自分の精神の理想を目指す生き方なのである。たとえそのことで自分が損害を被った
としても、自分の精神は全く陰ることがない。陰るのは、お金を信仰の対象とする教えにあまり
に深く洗脳されていてどんな卑劣な手段によってもお金を得なければならぬと考えている、詐
欺・恐喝等の犯罪を行う者の精神の方である。そんな、陰の虜となっている人には、本当の精神
の理想は全く見えていないのだが、できればそーゆう犯罪者に対しても本当の精神の光を見せら
れるくらいに自分の精神を磨いてゆけたら素晴らしい。それはとても難しいが、真の克己鍛錬は、
このよーに、自己の精神の理想の追求を通じて、シャイターンの教えに洗脳された人々のマイン
ド・コントロールを解いてゆくことにつながっているのである。
では次に、シャイターンの不作為による兵糧攻めをどうするかという問題を見ていくことにす
る。すなわち、いくら人間精神の進化を目指していても、生きていくためにはまず最低限の生活
費は必要であり、それなくしては、人間は生きてゆけないという問題がある。いかにして、金を
稼いで飯を食っていくかという問題はとても難しい。特に昨近の情勢の下では、定職に就職でき
なかった敗者は一生敗者を続けるしかなく、かりそめの職場を見つけるしかない。そこで多くの
人々は、何でもいいからとりあえず仕事に就く。するとその職場では、厳しい経営環境の下で、
いかにして人件費をピンはねするかが経営者の最大の関心事となっていて、時間一杯どころか当
然のこととして、何時間もサービス残業を行わせる。そして、「気に入らなければやめろ。代わ
りはいくらでもいる。」と言って半ば脅迫のようにして労働者をサービス残業に縛り付けるので
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ある。このような厳しい奴隷的拘束をした上に、使用者は自らの権威を高めて自らを王のように
崇拝せしめるため、
「ヒュイ!」の一言のみで労働者をアゴで使い、ボロクソに罵り、その人格
をズタズタに切り裂いてゆくのである。こうして労働者は自分が能力のないくだらない人間とた
だ自認し、「自分はくだらないのに、くだらない自分を使ってくれる事業主様ありがとう。あり
がとう、御主人様。」と思うようになる。まさにそれこそシャイターン教に染まり、人間のため
ではなく自分の資本主義的成功の虜となった使用者らの思うつぼなのだが、自分で能力のない人
間だと思わしめられている人間は、こーして御主人様への感謝と自らの服従を美徳と思わねば、
その奴隷的拘束に耐えられないくらいに追い詰められている。そして、そのようなシャイターン
の教えを擁護するかのような、現世の世俗宗教の教えに救いを求めるようになる。「どうにかし
て自分の心の安らぎ、心の尊厳を取り戻したい。こんな風にご主人様に毎日罵倒され、土下座さ
せられて生きていくのは嫌だが仕方ない。だから、どのよーに自分の心の持ちようを変えれば、
その屈従を感謝の気持ちに変えて生きて行けるのか」と。そのよーな心の要求に対してかつての
世俗宗教も確かに一定の役割を果たしてはきた。しかし、昨今の宗教はそれ自身が米國独占資本
教団を本山とする末寺としてその支配体制に組み込まれており、十分にその役割を果たしていな
いのが実情である。すなわち、宗教が人間の心ではなく金儲けの道具に、或いは生計手段確保の
道具になっていて、教団が1つの就職先にもなっているのである。このような世俗宗教に批判的
な人々はより過激な宗教を求めるようになる。奴隷的拘束からの解放を目指し、自分自身の精神
の炎を目覚めさせようとして、反社会的な宗教へと引きずりこまれる。というのも、このような
宗教はうわべでは米國独占資本教団の教義を否認し、シャイターンを追い払い、自己の真の精神
を追求するかのごとき外観を呈しているからである。十数年前日本中を揺るがしたオウム教団の
場合、マハーヤーナ・スートラ等うわべの教典では読んでなるほどと言うことが書かれている。
で、これこそが、シャイターンの教えを打ち破り自己を解放してくれるものだと思ってしまう。
いわば、かつての共産主義が担った敗者の連帯による勝利という役割を、今まさに担ってくれる
のはこの教団しかいないと思うようになるのである。というのも、米國独占資本教団の圧力は、
冷戦の終結とバブルの崩壊の後、とてつもない強い圧力でもって我が日本國に攻撃を仕掛けて来
ており、かかる攻撃に対抗するための新たなイデオロギーの誕生が、シャイターン支配下の敗者
にとっては強く求められていたからである。ところが一見シャイターンに抗するが如き概観を呈
していた教団は、実は金儲けマシーンに成り下がっていた。殆ど無給で信者を働かせ、莫大な利
益を上げていたオウムショップの繁栄はこのことを強く象徴する。更には、米國の教えに対抗す
るため、この世の全てのものを悪と決めつけ、米國の教えではなく、ウル・ナンム法典第 1 条
以来、人類の歴史上世界中のどこでも悪いとされている殺人すら正当化してしまった。もっとも
彼ら信者達はオウムによる日本國支配を1つの宗教革命のように考えていたであろうから、武力
革命を正当化するなら、これは1つの合法的殺人ともなりうる。
しかし、人間精神は、克己鍛錬を通じて永遠に進歩するものである。20 世紀はじめにおいて
当たり前であった武力革命は、ガンジーの非暴力不服従闘争によって大きく変質し、1989 年の
東欧革命では、ルーマニアを除く殆どの國で無血革命が起きた。このよーに、いくら革命のため
22
でも、決して人間の生きる権利を否定してはならない。人間精神が死後存続することは事実だが、
その生み出した精神を他者に伝えてゆけるのは現世においてだけだからである。
以上やや長く述べてきたように、現実には米國独占資本教団の尖兵により屈従を強いられて経
済的奴隷として生きざるを得ない人々はそこから脱するために宗教を求め、その追求に挫折する。
行き着く先は「死」
、暗い自殺だけが自分自身を奴隷的拘束から解放してくれる。そう思い、多
くの人々は自殺に走る。死後も残る精神が次の誕生と共に人間と一体化するとき、真の幸福が来
ることを求めて・・・。だが、真の幸福は自殺の中にはない。死んでも結局来世ではその魂の苦痛
は今のままと同じく存続し、そこでやはり克己鍛錬を続けなければその苦痛を友として生きるこ
とは出来ない。だから天命により生かされている限りは、この現世において米國の放つシャイタ
ーンの遣いと精神のジハードを続けていくしかないのだ。
(ま、しんどいことだが。
)
このような精神のジハード、すなわち克己鍛錬には最終的勝利はない。最終的に勝利すれば、
自ら勝者の地位につくことになり、それこそが、米國シャイターン教の教えに染まってしまうこ
とになるからである。つまり、克己鍛錬
克己鍛錬は
ためにするのではなく、
けるために
克己鍛錬は勝つためにするのではなく
ではなく、負けるために
するのである。
するのである。敗者が敗者であることに誇りを持って生きてゆけるそーいうことのため、つま
り、敗者が更に負けてゆき、米國シャイターン教の虚飾に満ちた勝利の栄光をジハードによって
打ち砕くためにしているのである。それはつまりこーいうことである。
資本主義社会の発展は、全ての人が見えざる手に導かれてあるものを求め与えるという、対価
的交換の発展による値段の上昇・物の増加によってもたらされて来た。そのことで人々の生活に
はたくさんの物が供されるようになってきた。その一方で金を持たない人達は物を手に入れるこ
とが出来ず、満足な教育もないままに貧しい立場にいて底から脱することができなくなっていっ
た。物を持つ人々は、その物についての話で盛り上がり、持たない人はその物についての会話に
ついていくことができず、取り残され、持たざる者は人間関係の輪から取り残される。こーして
持たざる者は、人とうまく会話ができず、無口になり、1 人自分の世界に閉じこもり、物のみな
らず、物を媒介とした人間関係も結べなくなる。そして友達も恋人も持たざる者となる。会話が
下手であると、就職活動でも面接でうまくいかず、結局まともな企業に就職できないし、公務員
にもなれず、家族を養うどころか自分自身を養うにも事欠く有様となる。そのよーな経済的敗者
に対し、周りの人々は「それでも勝て」と、勝ちを求める。
「あきらめたら負けだ」「少しでも高い
社会的地位を目指せ」と、少しでも他者に対して勝利するように競争を求めるのだ。周りの人々
は殆ど全て米國独占資本教の教えに染まっているのだ。そのシャイターンの放つ毒ガスにより目
の前に霧がかかっているために、米國的勝利の信仰に強く浸り、その「価値」により作られたか
りそめの社会階級を 1 つでも上げることを望んで生きている。しかもその階級はとても巧妙に
作られていて、各々の職業ごとに違った名前の階級ができているから、そのよーな階級の持つ虚
飾に気付かず、階級を上げることが自己の専門分野での克己鍛錬だと思い込んでしまうのである。
こーして、彼らシャイターンに洗脳されていることに気付かない人々は、自己の階級に誇りを見
出し、階級の劣っている人間を軽蔑し、見下す。そして、
「くやしかったら、おまえもオレのよ
ーになれ!!」と言い、自分の階級の所にまで上がることを目指すようにと強制する。そーして、
23
階級を上げることを願って努力している人々を見て、上の階級の人間は、自分の階級が、努力を
重ねて得るに値する価値の高い座であると錯覚する。一方で自分も更に高い座を目指して努力す
る。こーして彼のコスモロジー(宇宙観)はシャイターンによって固定された、ある狭い 1 つの分
野での社会序列の中で完結し、その他の分野についても全てを同じコスモロジーの物差しで判断
するようになる。その結果全ての分野でより高い地位を持つ者が、より資本主義的成功を体現し
た者として賞賛され、逆に最下級の人間はこき使われ罵倒され、人間のクズ呼ばわりされ、「悔
しかったら出世しろ。」と言われるのだ。そーして「悔しい」と思うと、努力をし、せいぜい平社
員が係長補佐くらいになり、彼はそのことに誇りを持つ。そして今度は自分が見下されたのと同
じように、平社員や非正規雇用の職員を罵倒し、人間のクズ扱いする。こーした虐待の連鎖がこ
のシャイターンに汚染された独占資本主義の蔓延を招いているのである。ところが、この連鎖の
中で、常に虐待される側にいることしかできない者がいるのである。勝とうと努力してもどうし
ても勝てない者、どーしてもシャイターンの教えを信じられない不信仰者がいる。そーいう人は、
どーしよう。信じ続けて勝てなければ、この世では誰も助けてくれず、自殺するか餓死するしか
ない。自殺以外に生きる道を探そうとして、世俗宗教や新興宗教を求めても、その虚飾が全てシ
ャイターンの教えによるものだということはすぐにわかってしまう。かつてのように、労働者が
資本家に取って代わる共産主義革命を目指す敗者の連帯はソヴィエトの自滅によりはかない夢
となった。その精神は正しくとも、運用する権力者が富と権力を独占し、新たなる階級の中で米
國同様の独占資本教団を形成してしまったからである。
そこで結局敗者は個人として 1 人になる。誰とも結ばず、誰をも信じず、友達も恋人もいず、
ただ 1 人で生きていく。1 人を寂しいと思わずに生きていくしかない。1 人を寂しいと思うのは、
心に隙があるからである。心に隙があると、人を好きになってしまう。その結果存在しない【愛】
を仮構し、独占資本教の思う壺にはまってしまう。だから、心に隙を持ってはならない。隙を無
くすために敗者は自己の精神の克己鍛錬を行うのである。それはすなわち、自己の想像力を磨き、
お金を使わずに自分の時間を有効に使う精神の創造の営みなのである。ではそれはどういうもの
なのか?以下、克己鍛錬の具体的方法について見ていくことにする。
四 克己鍛錬の
克己鍛錬の 6 行
克己鍛錬には、6つの行がある。その前にまず、なぜ克己鍛錬を行とする必要があるかという
ことを述べておこう。いわゆる世界宗教と呼ばれるものの流れは、社会の複雑化に伴い自然宗教
→克己鍛錬→【愛】の教えへと変化してきたように思われる。ここで、【愛】は克己鍛錬におい
て一番欠如しがちな「他人を思いやりいつくしむ心」を植えつけるために植えつけられた。しかし、
一方で偏狭な【愛】は他者との果てしない戦争をもたらし、現在でも血みどろの報復の応酬をも
たらしている。だから、その元にある克己鍛錬に戻りつつも、他人を思いやることに不可欠な想
像力を磨くことに我が克己鍛錬の主軸が置かれているのである。
「オナニー」はその典型である。
だからエロ本やエロヴィデオはなるべく見てはならない。想像力を鍛えるのである。その際もっ
とも大切なのは、鏡を見る等の手段を通じて自分自身を想像することである。そうすれば他者へ
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の【愛】へと堕落しない。これをもって「自己愛だ!」と非難する者もいようがそうではない。あ
くまで自分自身の想像の営みである。というのも【愛】のように他人に対して何も求めないから
である。
「ゴミあさり」もまた、かかる役割を担う。ゴミとは人がいらなくなって捨てたもので
ある。つまりこれらの物は人間の愛欲の残骸である。これから埋められたり燃やされたりするこ
ーした物の精神は、徹底した敗者の地位にあり、もう日の目を見ることは殆んどない死の直前の
精神である。こーしたゴミの山を漁り、ゴミの精神と一体化することは、自分自身の精神を敗者
の立場へと導くことにとても大きな役割を果たす。敗者となった精神は、勝利をめぐって争う
【愛】を目指す精神とは正反対なのである。こーした精神を 1 つでもこの世でしばらく生き永
らえさせるため、ゴミ拾いをするのである。決して、ゴミ捨て場で他のゴミ漁り人と争ってはな
らない。ゴミ漁りは、勝つためではなく、負けるためにしているのである。また、このことで、
拾われたゴミの精神も進化する。というのも、1 度虚栄を味あわされた上で捨てられるという挫
折を経験しているので、単にそのまま輪廻転生するよりも、より広い次元に向かって進化してゆ
けるからである。(これについては別稿で述べる。) いずれにせよ、ゴミと一体になった自らの
精神は、敗者の立場を身をもって知るようになるのである。一方で我が宗教は、自然宗教の教え
も取り込んでいる。こーした行の典型が「お散歩」である。お散歩で自然の中にいると、人間世界
の邪気から逃れ、純粋精神の中に浸れるのである。木々や草々は「罪」は負っていても、その罪を
黙々と受け入れ、別にそれが苦しい訳でもなく、むしろ「罪」を負うことを喜んで生きていて、そ
ーした運命と共に死んでゆくのである。そーした、「罪」を負いつつも、「罪」を苦ではなく楽へと
変えてゆける精神の交流をし、精神の一体化の境地を味わうことが、克己鍛錬を、苦痛ではなく
楽しみへと変えてゆける大きな契機となるのである。もっとも、自然とは外界にあるもののみな
らず、自分の体の中にも自然はある。その典型が「眠い」という心である。これはよく「睡魔」と
かいって、昔から魔者の執り付きによって生じるように言われるが、そうではない。眠って夢を
見ることは想像力の源泉になるし、夢の中では、他の精神との交流をすることもできる。これは、
人間の体に仕組まれた内なる自然のとても大切な営みである。1000 年前にイラークのバスラの
辺に住んでいたともされる我が純潔の同胞も、「惰眠によって霊魂を知覚する」と言っており、現
世の人間を「眠っている」と言うておる。だからこーした内なる自然の声に従い眠いときには、自
然と一体化して眠るのが一番良いのである。これが「お昼寝」を克己鍛錬の 1 つとして述べる大
きな理由である。更に 1 つ、他の精神の声を聞くのに適するのは、読書をして他人の話を聞く
ことである。これは人間が入ってくるので、【愛】へと堕してしまうおそれがある。例えば、扇
情的な極右主義の本ばかり読んでいると、日本民族の自衛のためには、靖國に公式参拝を続け、
北朝鮮に先制攻撃をかけるしかない!というような誤った考えを抱くようになる。すなわち、あ
る意見に熱狂的に賛成したり、狂信的に反対して放火して、死ぬ気もないくせに割腹自殺のふり
をして言論を封殺しようとするのである。こうならないためには、様々な傾向の書物を読み、そ
れらを全て冷静に自分の精神との交流によって、そのときは他の精神と一体化したと錯覚して知
覚していくように努めなければならない。「心をむなしくして」という小林秀雄の言葉はこのこと
を意味するのであり、氏の「過去を上手に思い出す」との言葉が過去の侵略戦争に誇りを持つこ
25
とを意図したかのような産経新聞の 2006 年 8 月 16 日の社説等は、右翼扇情家にかかる姿勢が
欠如していることの現れである。氏は「思い出は美しい」とよく言うが、それは自分達の方で過去
を飾りたいと思っているからだとしており、過去を美化する考えを厳に戒めているのだが、産経
新聞などは、自分達に都合の悪い部分を削って曲解した引用で世論を惑わしているのである。こ
れらは、完全なる堕落である。さて、もう1つ、これらと反対に自分の意見を頭で考えて表現す
ること。これも人間が入ってくるが、自分 1 人でもできる。何よりも良いのは、こーすると自
分の考えを理屈によって冷静に検討できるよーになることである。すると、表現内容と自己の一
体化が解消し、両者が分離する。そのことで、熱狂的だった感情が、実は【愛】のもたらす何ら
かの差別の心や虚栄心に基づいていることがわかるのである。だから、こーした表現行為も克己
鍛錬に資するのである。恥ずかしいと思っていても、自分の精神を他者の精神と同じ「精神」と理
解するためには、これがとても役に立つのである。しかも、1 度書いて新たな精神を生み出すと、
それは既に自己の精神から分離し、独自の精神となることから、自分の書いたものを何度も読み
返してみることで、何度も精神の一体化を味わえるのである。
これらの克己鍛錬の 6 行は、どれをどういう順序で行っても良いし優劣がある訳でもない。
自己との関係
一体化の対象
①
自然
②
敗者
③人の精神の付着物
外界
お散歩
ゴミあさり
外聞
内界
お昼寝
オナニー
表現
ただ一応以下のように体系化できる。
堕落し続けて行き詰ったときには、まず、①→②→③の順で克己鍛錬を行うのが良いであろう。
というのも、堕落は「【愛】が欲しいぃぃぃ~」という【愛】への限りない希求から生じるもの
なので、まず 1 番人間から遠い所から始めて自分自身をリラックスさせるのが良いのである。
まず、①:自然との一体化によって、リラックスして自分自身を変性意識状態に置いたり、お昼
寝の夢を書き留めて、分析したりすることで、自分自身を無意識に縛るトラウマ(心の傷)を発見
することが出来る。そのトラウマがアンカー(起爆剤)となって、堕落にのめり込み続けていく自
分を、そうとわかっていつつ、食い止められなくなるのだから、それを取り除くためには、まず、
トラウマを取り除かねばならない。そのため、よく眠って夢を見るべきなのである。で、それを
書き留めて、+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
このような、3 層になった+と-のイメージをもつモチーフの連続を思い出して分析するのであ
る。それを続けると、しょっちゅう現れるモチーフとそのイメージが重なってくる。それで何が
自分の無意識の欲望(+のイメージ)で、何がトラウマ(-のイメージ)かが段々わかってくるの
である。こーしたことをわかるためには、やはり自然の中で森林浴をしたり、お散歩をしたりし
て「ぼおーぅっ」としている時間を作るのが良いのである。そーして考え事に耽っていると自分
26
がどうしたいのか、どうすべきなのかがわかってくるのである。
②:ここで普通は勝利を再び目指そうとするのだが、それでは元の木阿弥である。我が教えは
そんなに甘くない。「勝利はまず無理で、そうでないところにこそ本当の幸せがあること」に気付
き、敗者として生きることを目指すため、更なる克己鍛錬が必要なのである。その際に勝者に対
してコンプレックスを持たないようにするためには、人間に捨てられた外界のゴミや直接には何
も生み出すことなく放出された精液(女性の場合は潤滑液)という敗者の精神との一体化を楽し
むようにするのが良い。まず、ゴミについて言えば、それはとても臭く、腐った生ゴミはぬるぬ
ると汚い。そんなゴミ捨て場でまだ使える物を拾うことは独占資本の勝利の栄光に対する非暴
力・不服従のジハードとして、とても大きな意味を持つ。また、オナニーは、精液の自己犠牲に
よって自らの想像力を掻き立て、何かを「創造」したいという新たな意欲の発生源になる。この
ように、敗者の精神との一体化とは、古くからの「死と再生」という神話のモチーフとも合致する。
(ゴミ捨て場での死すなわち自己犠牲とは臭いことの我慢であり、再生とは使えるものの再利用
である。オナニーにおいては精液の放出が自己犠牲であり、想像から創造への飛躍が再生であ
る。) 神話の時代に存在した共通の儀礼がなくなり、「精神の一体化」を感じられる場面が少なく
なった現代の人々にとって、自発的な儀礼としての一体化の実感は、とても大きな意味を持つの
である。というのも、「実感」なくして本当に敗者になるということがわからず、敗者にとっても
住みよい社会を築いていくことは本音のところではできないからである。それなくしては、どー
しても屁理屈をつけて勝者は勝者に都合の良い社会システムを構築するのである。また、こーし
た克己鍛錬は少し社会常識と離れているので、
「こうあるべき」というスーパーエゴを取り去る
にはちょうど良いのである。それでいて、特に社会に迷惑をかけない点も推奨する理由である。
ちなみに、オナニーに対立する概念は性交渉である。これは、男女が一体化し、勝利の栄光を味
わうものである。「どーしても異性に相手にされない」ことにこそ誇りを持つ【愛】の敗者の精
神は敗者の住み良い社会のため、どこまでも敗者を目指して鍛錬すべきなのである。
③:人との交流を求める前に、敗者の精神との一体化を通じて「犠牲と再生」を経た人間は、勝
利ではなく、敗者を目指すことを精神において知るようになる。すると次に、沸々と「好奇心」
が湧いてくる。「再生」を目指し始めた精神は、自分 1 人ではなくて、他人の精神との交流を目
指そうとし始めるのである。だが、あまりに早く他人の精神との一体化を味わおうとすると、再
び堕落の風に吹きかけられることがある。人間の頭の中にはまだいっぱい誤ったスーパーエゴが
あり、①・②のみではそれを取り去ることができず、社会復帰しようとして再び失敗することも
あるのである。そうするとますます自身を失い 1 人で悩み、堕落していく。なので、その前に「外
聞」と「表現」をしておくのが良いのである。「外聞」とはいろんな本を読んだりして、他人のいろ
んな考えに触れ、自分の今までの固定観念を崩していくことである。そーすることで、今まで「こ
ーせねばならん」と考えていたことが、「そおではないのだ」と思え、楽になれる。一方、同時に
自分の考えは、文章にして表現することが大事である。音楽や詩でも良いのかもしれんが、文章
にすると後で読み返してみて論理的欠陥がよくわかる。そしてその欠陥が実は誤ったスーパーエ
ゴのせいで起きていたということにも気付くのである。そのよーにして自分を「表現」していく
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ことが、後になって他人と会話を交わす際の基礎となっていくのである。
①・②・③を終えて、それから他人との精神の交流を求めれば、まーなんとか会話のようなもの
は成立するであろう。それで、自分がどーも気が向かなければ、別の共同体や他の人に好奇心を
向ければ良いのである。もはや、1人の人や共同体にこだわらなくて良いのである。
以上のような克己鍛錬を通じてシャイターンによる発悪に対し、抵抗することが出来る。無論
仕事中は我慢することが多いが、その中でもわずかな休憩時間を利用してここに掲げたうちの 1
つか 2 つかは出来るのである。そのよーにして、自己の精神を、自分自身で奴隷的拘束から解
放することが出来るのである。間違っても、「自分はどうせだめだあー」と思い、他人の金を盗ん
だり、人を殺したり、少女に淫らな行為などしてはならない。それは、自分の精神の鍛錬をおろ
そかにして、精神の声が聞こえなくなり、独占資本の放つシャイターンの教えに染まることであ
る。その恩恵にあずかりたいと考えて金を奪ったり、他人に永久に勝とうとして、他者を殺すの
である。勝ってはいけない。負けるのだ。物もできれば買ってはいけない。拾うのだ。そして、
まさに「負け犬」であることにこそ、誇りを持って生きていくべきなのである。もっとも、世俗の
中でこのように考えるのは簡単ではない。そこで、次に、負け犬であることを誇りに思えるよう
になるための、2つの浄めについて述べよう。
五
克己鍛錬のための
克己鍛錬のための 2 浄
敗者となるのは簡単なようで、実はとても難しい。先述したような方法の他に自己の精神を不
動のものにするためには、簡単な食事制限(断食の簡略形)並びに簡単な感謝と謝罪(礼拝の簡略
形)が有益である。
まず食事制限についていえば、修行僧でないので、仕事をしながら何日も断食するのは無理で
ある。でなくて、ラマダーンのように、1 日 3 食を2食にするのだ。もっとも、日の出と日没に
はこだわらない。これなら、1 年中誰でも簡単にできる。朝食を抜くと力が入らないので、昼食
を抜くのである。すると食費が浮く。また、起きている時間を有効に使えるという利点もある。
あまりに時間に縛られるのはまずいが、すべき鍛錬が重複したとき、食事を抜くのは有益である。
もっともそれにも増して重要なのは、食事を食べられることに対する感謝の気持ちを抱くことに
つながるということである。地球上では、何億人もの人々が食糧なく飢えている。なのに、必要
以上に栄養を摂取して太っていく必要はない。むしろ「腹減ったー、飯欲しいー」と思えるように
食事を減らして自分で工夫して料理を作ることでおいしいと思えるようになり、それに対して感
謝の気持ちを抱けるようになる。たとえ食材が多少腐っていても「おいしい」と思えるようになる。
更に 2 食であると、栄養が不足する場合もあるので、そーならないよーに、ご飯と野菜はしっ
かりと摂取するように努めることで、綺麗な血が流れるようになる。肉はおいしいし、全く食わ
ないよーにしなくても良いが、食べ過ぎるべきではない。本当は肉食をなくす方が良いとも思え
るが、植物も生き物であり、人間は生き物を犠牲とせねば生きてゆけない生き物である。悲しく
も人間は、そのよーな罪を負いつつ生きてゆかねばならぬ。同じよーに、食卓のわずかの食事と
いえども、その食事の材料を育て或いは加工するのに多くの人々の汗が流れている。目の前の食
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事はそのよーな多くの人々の汗による犠牲、植物や動物の生命の犠牲、いわば血の犠牲の下に初
めて得られるものなのである。こーした犠牲に対して、単に罪の意識を抱いて土下座したのでは、
自分が卑屈になる。敗者である自分が敗者であることを恥じて生きてゆくことになる。そーでは
なくて、犠牲に感謝を捧げることが大切なのである。どーゆうわけか、運よく自分の口まで運ば
れてきた食事に対して、またその偶然の結果に対して「ありがとう」と感謝することが大切なので
ある。そう感謝することで、自分はこれらの犠牲に対して心からへりくだることが出来るのであ
る。これを”罪”と思って土下座したのでは、犠牲を拒絶し勝者となって食物を支配したいと思っ
ているのと同じことなのである。くれぐれも、土下座精神によって、拒食症等になってはならな
い。罪ではなく、感謝の気持ちを抱くことが大切なのであるから。ちなみに、食物の犠牲にへり
下るのと、世俗の支配者にへり下るのとは全く違うということに注意すべし。敗者である自分は
一生資本主義的勝者に対して心からへり下って生きていくべきだとの教えをする世俗宗教もあ
るヨーだが、それは違う。シャイターン教に染まった人に対してはジハードによって戦っていく
べきなのである。以上、食事に対する感謝のために、食事制限を行うことが有効であることを述
べてきたが、無理な断食は自然に逆らう物であり、やめた方が良い。また、断食をする自分に優
越感を抱いてもいけない。これは自分が敗者となるために行っているのであり、勝つためではな
いのだ。勝つことに誇りを持つことは、シャイターンの思うつぼである。
次に、簡単な感謝と謝罪について述べねばならない。通常宗教では礼拝という形でこの儀礼を
行うが、そんなに形式ばったものである必要はない。これらは、自己の精神、内面に対する祈り
である。これは毎日寝る前に行うべきである。毎日寝る前に自己を反省し、今日1日の行いを悔
い改め、その上で今日 1 日、自分を生かしてくれた数々の犠牲―生命の犠牲、人間の犠牲―に
対して感謝を行うべきである。これはいくら自己の機嫌が悪くても、腹が立っていても、酒に酔
いつぶれていても決して怠ってはならない。克己鍛錬は、まさに日々の積み重ねであって日々、
自己の内面の精神にとって恥とならない行為をするには、自己の内面を常に省みる姿勢が不可欠
である。なお、あまりに酔いつぶれてわからずに眠り込んだときは、起床して正気に戻ったとき、
すぐに「すみません」と反省の言葉を言って朝であっても昨日の分の反省と感謝をすべきである。
とにかく、これらは、克己鍛錬の継続のため、自らに与える1つの試練としてこれを行うべきな
のである。
(1 日 1 回なら難しくもない。
)その方法については、自分で考えた方法において行う。
これは、自分の精神への祈りである以上、自分が良いと思う方法を考慮して行うのが一番ふさわ
しく、それこそが自分の精神を蝕むシャイターンに対する強烈な反撃となるからである。(但し、
わし自身の方法は、1つの秘儀であるので、教えない。) こーして自分自身の方法を確立したな
ら、今度はそのよーな方法を確立している他人の礼拝を尊重しなければならない。自分の心への
祈りを、シャイターンの手先となって邪魔されるのが嫌なよーに、他人もその礼拝を邪魔された
くない。だから、他人の礼拝を尊重し、そのよーな礼拝を行う宗教施設を冒瀆してはならない。
むしろ宗教施設を見たら、それがいかなる宗教のものであるとに関わりなく、自分自身の心に対
して祈りを捧げることがよりふさわしい行いである。仮にその宗教施設が、独占資本の手先とな
ったシャイターンの遣いによって作られたものであっても、それを信じる人がいて、信じる者が
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自己の良心に基づいて礼拝を行っているなら、それはやはり尊重すべき礼拝の対象である。清ら
かな心を持つ人の礼拝対象は、自分自身の精神の浄化にも役立つのである。こーしてわしは 1
種の礼拝である感謝と謝罪について述べたが、食事制限と同じくこれについても自ら祈っている
ことを他人に明かして自慢したり、そのことで他人に対して優越感を抱いてはならない。感謝と
謝罪もまた敗者となるために行うのであり、勝利感を味わえば、そのときそれはシャイターンの
思う壺にはまってしまったも同然なのである。
以上のように、これらはシャイターンの侵攻に対して自ら常に敗者であることを認め、自らの
心の平安を保つため、役に立つことを述べてきた。が、このよーな心の状態でいられることばか
りではない。むしろ多くの人々は、独占資本の刃の前にズタズタに切り裂かれて他人への恨みと
復讐心に満ち満ちているであろう。こーした心の苦痛は自ら意識せざるうちに、独占資本教に洗
脳されていることから来るのであるが、次に、シャイターンの教えにどっぷりと長らく洗脳され
ていた人が、そこから離脱し、自己の真の精神の進化へと向かうための 1 点=堕落から克己鍛
錬への復帰点=居直りの心について見ていくことにする。
第4節
居直りの
居直りの力
りの力
一 「居直り
居直り」の個人的側面
米國独占資本教団の魔の手に長らくつかっていた人達が、堕落の恒常化過程(ひねくれ過程)
から再び克己鍛錬に戻る点を居直りの点と言い、このような自己精神の目覚めの力を居直りの力
と言う。これはいうなれば、インド哲学でいうところの、ブラフマンが起きている状態から再び
眠りにつくのと似ている。すなわち、この世界はブラフマンの夢であり、ブラフマンは目覚める
とこの世界はどんどんと収縮し 1 点になってしまうのだが、眠りにつくとどんどんと拡大して
いくのである。そーして今、ブラフマンは眠っているので、その夢の中でどんどん宇宙は広がっ
ているのである。こーした眠りの中でこそ自己の精神は目覚めるのであり、起きていていつも緊
張している状態では精神は眠っているのである。このよーに堕落の恒常化をしているときには、
自分では自分が目覚めていると思い、自分では自分はとてつもなく努力をしているし充実してい
ると思い込んでいる。或いは何かを変だとは感じながらも、ま、それで良いような気分になって
いつの間にかストレスで体が変調をきたしているということもままある。だから、自分で自分自
身が堕落の恒常化の常態にあることを見破るのは、とても難しいのである。しかもシャイターン
の放つスーパーエゴが頭の中に住んでいると更に厄介なこととなる。というのも、これは自分自
身の良心の声との区別を、全くわからなくする困った代物だからである。
こーしたシャイターンの囁きを見破るには、自分自身が常に良心と向き合うように克己鍛錬す
る必要があることは、先に述べたとおりであるのだが、あまりにスーパーエゴが強いと、いくら
鍛錬しようとしても、自分の良心の声とシャイターンの声が一体化してしまい、自分の頭の中に
両者が渾然一体となった複合体を作ってしまう。そして、全ての行為がこの複合体によって正当
化されてしまう。そのとき、自分の頭の中では自分のあらゆる行為が堕落ではないと感じるよう
になっている。こーした、シャイターンにとりつかれた自分がシャイターンを去らせるには、自
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分自身がある意味で追い詰められねばならない。何かしていてもう、どうしようもない程追い詰
められていて、衝動に駆られて自傷行為に及んだり、何らかの犯罪に手を出してみたり、他人を
暴言で罵り続けて傷つけたりというある種の爆発をした後、初めて過ちに気付くことが多いので
ある。もっとも、爆発をすることで自己嫌悪が益々増すと、今度は更に益々爆発を続けていくこ
とになる。そうして、とめどない堕落の連鎖がひねくれ過程を生み出していくのだ。しかもその
ひねくれは糸が単に 1 箇所もつれるのではなく、どーにもならないくらいにぐちゃぐちゃにも
つれてしまう形で起こることが多い。だからそれを解こうとしても、解こうとしてもどうしても
解けなくてますますひねくれてしまうのだ。
そーいうとき、頭にきて糸を切ってしまってはならない。更にもつれていない部分を先に延ば
すことはできるのである。ひねくれてもつれた部分はもうどうしようもないのだから、おいとい
て、先のもつれていない部分を延ばせば良いのである。確かに全体的に見ればもつれのない 1
本の糸ともつれている糸ではもとれていない糸の方が美しく見えるに違いない。しかし、もつれ
の全くない糸はぴーんと張ると切れ易い。それに対し、もつれた糸ではそのもつれの部分が力を
吸収してくれるので、その分ぴーんと張っても切れにくくなるのだ。だから、糸のもつれた部分
は、自分がシャイターンの攻撃の力により強くなるための名誉の負傷として自分の心の内にそっ
としまっておけば良い。そして先を伸ばせば良いのである。
このよーに、糸のもつれがどーにも解けそうもないとき、解くのを諦めて、もつれない部分を
伸ばすことに方向転換することを「居直り」という。それはすなわち、努力を通じて勝者になると
いうシャイターン教の拒否と共に、他人との比較ではなくて、自分自身の永遠の進歩を目指すこ
とを決断する自己の毅然とした諦めなのである。それは、コンプレックスの塊となって堕落し続
ける自分を自分自身の意志の力によって、自分の夢の方向へと導いていくことなのであるが、こ
こで重要なのは居直るまでひねくれていた自分自身の経験は、自分にとって全く負の遺産として
働くことはないということである。独占資本教の教えにどっぷりと浸かっている人は自分の資本
主義的成功を最大の目的と考えるから、このよーなひねくれ過程を送っていた堕落の時間は自分
にとって何の益ももたらさないと考えるであろう。そして堕落の時間そのものを自分の人生の中
で認めようとはせず、常に自分は克己鍛錬をして生きてきたと思い込んでしまう。ところが、そ
うではなくて自分の精神の理想を取り違え、シャイターンの教えである独占資本教団の息吹に自
分自身が間違って洗脳されたその経験そのものが実は新たな自己の進歩の原動力となるのであ
る。つまり、ただの一直線の糸ではなくてあちこちに結び目があった方がいろんな方向へと糸の
向きを変えやすくなり、より豊かな精神の進化を行うことができるようになるのである。但し、
そのことを自分の心の中で「良い」と思うのは良くても、決して他人に誇ってはいけない。他人
に対して誇って他人よりも自分が優れようとする心は独占資本教の植えつけたシャイターンの
教えによりもたらされるものだからである。
こうして人間は、自分自身の失敗、過ちを自分の精神の進歩の栄養として生きることが出来る。
シャイターンにやられたと気付いたときにはとてつもない絶望に襲われるのだが、その絶望も実
は存在しない幻なのだから、全てを自分の精神の進化の糧とするのが一番良いのである。
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だが、このような「居直り」により目指す自分自身の精神の理想と思ったものが実は精神の理
想ではなく、それもまたシャイターンによりもたらされた資本主義的成功の虚栄であったらどう
しよう。特に、自分自身の新たな夢を切り開いていくと言う場合、その夢は大方ある職業に就く
ことを目指して努力するという、資本主義的成功への道であることが多い。そーした努力は、徹
底した敗者になるという自己の精神の克己鍛錬とはおよそ相容れないものであって、放棄して自
ら社会に背を向けて生きていくことが自己の精神の理想を目指す唯一の道とも思えるからであ
る。そーゆう風に思う人は、そーゆう自分自身の精神の声に従い、そーゆう道を進めばよい。イ
ンドのある聖人のように水だけ飲んでやがて即身成仏する。それはそれとして、人間精神の理想
を目指す素晴らしい道であると思う。ただ、わしのような殆どのひねくれ者は、そーした素晴ら
しい道を進みたくてもそれを行う勇気が持てない。なぜなら、いくら自分自身の克己鍛錬をして
いても、一旦シャイターンによって何らかの形で堕落させられた後、再び克己鍛錬を再開しても、
もつれた糸の結び目は決して解けることなく、美しくなく汚れた見栄えのしない糸として残って
しまうからである。それはつまり、こーいうことである。
人間はものを忘れられない生き物である。一旦堕落してひねくれていたという経験の記憶や、
その嫌悪感の感覚というものを決して忘れることはできない。事あるたびごとにその記憶が頭に
浮かんできて、トラウマとなって自分の精神の進化を妨げる怒りや嫉妬の元凶となる。そーして、
ひねくれていたという過去の経験は、自分の心に決して消えることのできないくらいに大きな穴
をポッカリと作ってしまうのだ。その穴を風が冷たく吹き抜ける。だが、その世間の風は、シャ
イターンの教えに染まった幻の風、そう信じて世間を無視している間に傷の膿はやがて腐って風
が運んできた種が芽を生じるのである。その種はシャイターンの吹く風が運ぶ種である。しかし、
シャーターンにより傷ついた自分の心の膿は腐って善をもたらす養分となる。なぜなら、自分が
精神において進歩を目指し、克己鍛錬を続ける限りにおいて、その自己の体より分れ出た養分は、
善なる養分を持っているからである。こーして芽を出した種は種が悪い実を結ぶ実の種でなけれ
ば、その養分の善なる性質によって良い実を付けるに至るのである。だから、種を運ぶ風がシャ
イターンの風であることに捉われるべきではないのである。風ではなく、芽を出した種子が根を
張ったとき、養分を供給する自分の精神がたとえ穴ぼこだらけで見栄えがしなくても、その精神
の理想を目指す良き養分を与えていれば、芽はきっと良い精神の実を結ぶのである。
そのよーに考えてくると、自分の精神の理想を目指す方向がたまたま独占資本教の言うところ
の資本主義的成功と軌を一にしていたとしても、それは気にする必要はない。吹く風はシャイタ
ーンの風でも、一般に種そのものは何者にも染まっていない種なのであるから、良い養分さえ与
えていれば、その種から出た芽は良い実を結ぶのである。但し、中にはどんな良い養分を与えて
も一向に良い実を結ばない種がある。シャーターンの体から分かれて出来た種である。これらは
元々悪い実しか付けない種なのだが、例えばヤクザになる種とか人殺しをする種といったもので
あって、種の形を見てすぐに判明する種である。これに対して新約聖書では種を見分けることの
重要性を言っているがそれは違う。敗者が種の選り好みをしていたら殆どの仕事はできず、飢え
死にするしかない。イエスのように、若くして十字架で刑死することを理想とするならそれでも
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良いが、この世で生きるためにはシャイターンの送る種を育てて実を収穫するしかない場合もあ
るのである。それゆえわしはそーは考えない。たとえシャイターンの送る種でも、殆どの種は精
神の栄養の与え方次第で良い実も悪い実も結ぶのであるからそれ自体はあまり気にしなくて良
いのである。気にすべきは種の選択よりも、その育て方である。常に克己鍛錬を心がけることで、
初めて種は良い実を結ぶ。だからある目標を持ったとき、それを自己の名声や資本主義的成功の
道具としてはならないのである。あくまでも自分自身の精神の理想を目指す、敗者になるための
克己鍛錬が必要なのである。こーして、たまたま自分の精神の理想と資本主義的成功が共に訪れ
たなら、いつまでもその資本主義的成功の悪い実に浸ってはならない。金という万能薬は人間に
堕落をもたらす最大の元凶だから、その金は自分の精神の進化の更なる進化ため(欲望充足のた
めではない)にとっとと使うべきなのである。
以上述べてきたことは、あくまで個人の内面の問題であって広がりを持たない。「居直り」と
は、それのみではなく、実は自分個人の問題から社会の問題へと至る重要な契機でもある。そこ
で以下、
「居直り」の持つ社会的側面について見ていくことにする。
二 「居直り
居直り」の社会的側面
わしは、再三再四述べてきたように、
【愛】の存在を否定する。にも拘らず、
「居直り」は個人
と個人、更には個人と社会を結び付けると考えている。それはまさに【愛】ではなく「居直り」
を経由した個人と個人の交流のみが真に良心に基づいて結びついた共同体を作ると考えている
からである。こーいう風に書くとそのよーな共同体とは、とどのつまり【愛】の共同体と同じ意
味ではないかと考える人もいるであろう。しかし、堕落した人間が堕落中のひねくれ過程の中で
作る【愛】の共同体と、良心に基づく共同体とは似て非なるものである。すなわち、
【愛】の共
同体は、他人に対し、自分が【愛】を与えることできっと他人の中に【愛】が生まれるに違いな
いと信じる他力本願の共同体であるのに対して、精神の共同体は克己鍛錬に励む個人が自己の克
己鍛錬を目的として互いに結集してできる自力本願の共同体なのである。
このよーな共同体においては、個人は他人に対して何も求めない。ただ自分自身が自分の精神
に対して求めるもの、その進化のため、他人の精神を自ら知り、取り入れ、そーして自分の精神
を進化させる、そのことを目的としている。つまり、あくまで克己鍛錬の目的達成のための一手
段であって、
【愛】の共同体のよーに、
【愛】に満ち満ちた「地上天國」を作ることを目的とするも
のではないからである。
わかり易く言えばこーいうことである。
【愛】とは、堕落の中で生じるもの、堕落の中で堕落
した者同士が結びついてシャイターンの教えを実現するためのまやかしの理想を求めて繋がり
合う。その理想は人を殺して金を奪って金持ちになるというような明らかにおかしい理想ばかり
ではない。精緻な理論によって組上げられた一見すると無私無欲と思える理想をお題目としつつ、
実は資本主義的成功を追求する世俗宗教やカルト教団、【愛】を広める商品を売るための企業セ
ミナー、そういった、一見すると必ずしもおかしいとは思えず、「正しいのでは?」とも思える
理想を通じて繋がり合うのである。そのとき彼らの間には一体感が生じる。彼らはある 1 つの
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目的、まさに【愛】の実現を目指して互いに結びつく【愛】の戦士である。ところがこーした【愛】
は、とめどなく他人の心の中に【愛】が生じることを求めていく。
【愛】が限りない欲望、限り
ない資本主義的成功と結びつき、あふれるばかりの【愛】
、溢れて溢れてどうしようもない、い
くら与えても与えても生じる、汲めども尽きぬ泉のような【愛】、そんなバブリーな【愛】が、
全ての人につき生じることを究極の理想とするのである。
ところがこーした【愛】は、注意深く考えればわかるが容易に「富」と結びつく。汲めども尽
きぬ【愛】はそのまま汲めども尽きぬ「富」、限りない資本主義的成功が全世界を覆い、全世界
が自由経済の恩恵を受けるという資本主義の理想と全く軌を一にする思想なのである。こーして
【愛】の共同体は【愛】を投資することで投資された【愛】を何倍にもして返し、また他の人に
も【愛】を投資するという無限の【愛】の投資の連鎖を招く。このよーな、いわば【愛】のネズ
ミ講は「富」のネズミ講とは異なって、一見するとはじけてしまう危険、つまりバブル崩壊のよ
うな危険はないのでは?そーゆう風にも思える。「富」はお金という具体的な物、それに対し【愛】
とは実体のない心の営みなのだから、いくら与えてもなくなることはないし、はじけることもな
い。そーいう風にも思える。
けれどもそれは正しくない。なぜなら、
【愛】とは本質的に他力本願の営みであり、自分の働
きかけで自分の受け取った以上の【愛】を他人の中に生み出そうとする投資行為だからである。
すなわち、【愛】を受け取って、自分の心の隙を埋め合わせたと錯覚した人達は、他人の心に更
に多くの【愛】を与え、そーしてより多くの【愛】を生み出そうとする。より多くの【愛】を受
け取ったと思った人は、更に大きな【愛】を生み出そうと努力する。こーして【愛】の授受の末
端に立った人達は、そのあまりに大きくなった【愛】に応えるため、身を粉にして【愛】の活動
をする。他のまだ【愛】を知らない多くの人々にどーしても【愛】を呼び起こそうとして、体を
犠牲にして布教活動、営業活動に励む。ところがあるところでこのよーな共同体の末端の者は破
裂する。なぜなら、どのよーな【愛】も、全ての人の心の中に【愛】を生み出すことはできない
からだ。ある所で留まってしまい、与えられたと同じだけ以上の【愛】を他人の心の中に生み出
せないという苦痛にさいなまされた末端の者は、永久に自分の心の中に【愛】の借金を背負って
生きなければならなくなるのである。この【愛】の借金は「富」の借金と異なって破産して1から
出直すことの無理なものであるから、【愛】の借金のコンプレックスに浸った人々は、その十字
架を一生背に負って生きていかねばならなくなるのである。こーして【愛】の共同体は、
【愛】
を、自分が受け取った以上に多く与えた共同体の勝者(例えば教団上層部の者)と、末端の【愛】
の借金を負う共同体の敗者とに分離される。そして【愛】の理想は支配と被支配の、現世の独占
資本主義社会と同様の社会構造を生み出すのである。
以上のようなバブリーな【愛】の共同体ではなくて、もっとミクロのレベル、つまり個人と個
人の一対一の関係で繋がる共同体、そーした共同体は一見すると無限の【愛】の投資を要求する
ものではないとも思える。例えば男女 2 人で作られる共同体、一対一の友情により結びつく友
人の共同体、こーしたものは【愛】を求め続けるものとは違うのではないか?しかし、わしはこ
れを否定する。というのも、男女が他の人々とは違って、自分達だけの共同体を作るとき、或い
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は一対一或いはそれ以上で、友人と思った人同士が友達の共同体を作るとき、そこには隔絶され
た 1 つの共同体のレッテルが貼られ、その共同体を、他の人々と差別化するからである。すな
わち、それがいかなる共同体であろうと、他の人々と差別化された特殊性を持つ限りにおいては、
共同体は差別の元凶つまり克己鍛錬に反する堕落の泉となる。
【愛】により繋がった狭い共同体
を差別化し、他の人々よりもその共同体内部の人々を自分の利益のためにより尊重しようとする。
つまりは、共同体の外部の他者への勝利を目指して行動することで、結局のところは【愛】の勝
者と敗者を作ることになるからである。
これはつまりこーいうことである。友人や恋人が多くいる人はすなわちそれだけ多くの【愛】
により差別化された共同体に幾重にも属している。そして共同体に属するという優越感に浸って
その外部の人々をもかかる勝者のまなざしで眺める。一方、いつも 1 人で友人も恋人も何もな
い人は、共同体がないというコンプレックスに浸っていて、かかる勝者から嘲り、嘲笑されて生
きていくことになるのだ。これは、多くの共同体に属する人が多くのコネ・人脈を持ち、多くの
情報を手にして、資本主義的成功を体現できることから生じる1つのまやかしである。けれども
今、このまやかしが世界の殆どを覆っているので、共同体に属することの出来ない 1 人ぼっち
の人間は、おとしめられ、敗者として勝者から永久に軽蔑され続けるのである。こーした【愛】
の勝者と敗者を作り、社会に生きる人々を【愛】の多少で差別する、これが現代独占資本教団総
裁たるシャイターンの生み出した大きな罠なのである。だからこのよーな罠にはまってはいけな
い。人間は克己鍛錬によって敗者になることを目指して生きるべきである。このよーな意味で、
わしは男女の恋人と言う共同体や、友人という共同体をも否定する。
以上のように、マクロとミクロの両面からわしは【愛】によって結びつく共同体を否定してき
た。では、このような、
【愛】に基づかずに成立する精神の共同体とはいかなる共同体なのか。
端的に言えば、それは「知り合い」の共同体である。つまり、どんな人との間にでも等しくでき
る、話をしてお互いが接点を持った者同士の共同体なのである。いや、話をしなくてもお互いが
一瞬相手に関心を持つとき、その瞬間にも出来上がる共同体である。たとえそれはぼうっと道を
歩いていて、自転車にぶつかりそうになって、こっちが悪いなと思って頭を下げると相手の自転
車の人も頭を下げる、たったそれだけでも成立する。それが精神の共同体である。つまり、自分
が空気でも霊のみの存在でもなく、確かに今生きている、そう思える瞬間、そー言う瞬間をもた
らすのが精神の共同体なのである。
こーした精神の共同体は、たった一瞬出来上がるものであってあまり永続しない。人と人とが
出会った瞬間、ふとした瞬間に出来上がる。それは自分自身が克己鍛錬を目指す中で経験される
ものであるが、堕落からほんの一瞬克己鍛錬に立ち返った際にも経験されるものである。つまり
それは、日頃堕落の道に明け暮れることの多い人と人との精神が、そのひねくれ過程からたまた
ま脱していた時に一瞬だけ結びつくものである。その結びつきは弱くか細い。注意しなければそ
んな一瞬が存在したことすら記憶の片隅に散ってしまうほどに繊細なものなのである。だから、
多くの人々は、そんないわば「白骨達の一瞬の良心の輝き」をいとも簡単に忘れてしまい、自分
を永久に孤独な人間だと感じるか、虚飾に満ちた【愛】を求め続けていくのである。
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けれども注意していればそーいう瞬間は必ずやってくる。そしてそーいう瞬間こそが人間精神
の進化をもたらすのである。それはいわば宇宙探査船と惑星の関係に似ている。宇宙探査船は惑
星の軌道とは全く異なる方向に進んでいるのだが、惑星の近くに来るとその惑星の重力を利用し
てよりスピードアップして前進していく。こんなふうに、人間精神は他の全く異なる方向へ向か
う人の精神との、一瞬の出会いを大切にすることで、より自己の精神の理想へと近づいていくこ
とが出来るのである。こーした「一瞬」を、自分自身見過ごさないようにするにはどーしたら良
いのだろうか。そこで大切になってくるのが堕落の経験から居直ることなのである。
先述したように、
「居直りの力」は、シャイターン教からの離脱、つまり勝ちを目指す戦いに
おいて挫折する中から生まれる。こーした「居直り」は、いわば「死と再生」という古くからの神
話により述べられる大きなテーマと軌を一にする。それは、自分自身の 1 つの理想と思ったも
のの崩壊と、そこからの再生なのである。このよーな再生のためには、まず、自分のひねくれ過
程の失敗がなぜ生じたのかを良く考えてみる必要がある。そして実はその失敗は独占資本教の言
う失敗なのであって、精神の理想からすれば全く失敗などではなく、敗者となるための克己鍛錬
にとってとても役に立つ大切な宝物になるのだと気付くのである。こーして自分の心の中に出来
た名誉の負傷は敗者を目指す自分をより引き立ててくれる。そーして、痛みの経験は、自分とは
違った意味の傷に今苦しんでいる人々、つまりシャーターンの攻撃と血みどろになって戦ってい
る人々に、束縛からの解放を伝える 1 つの手段となる。こーしてシャイターンと戦っていた人
がシャイターンの軍門に下り、敗者となることで、却って逆に克己鍛錬の道を再び見出した時、
そこに 1 つの精神の交流が生まれる。それはたった一瞬の精神の交流だがこーした一瞬が個々
の人間の精神を進化させていく大きな糧となるのである。間違ってもこの精神の交流の中で【愛】
など見出してはならない。せっかく見出した克己鍛錬が再びシャイターンの力で台無しになって
しまうからである。あくまで精神の交流は’’一瞬’’なのであって、べたべたと永続する【愛】に堕
してはならないのである。
こーして人は人生のあちこちで精神の交流のある「知り合い」を作るようになる。しかしその
「知り合い」は全て等しいものであっって、特別にある人のみを差別化してはならない。こーし
たある人のみを差別化する【愛】は、精神の進化とは程遠いものだからである。また、「知り合
い」とそーでない人を差別化してはならない。知らない人もいずれ「知り合い」になりうるので
あって、ある人のみを差別化することは【愛】の階級社会を人間の心の中に作出しようとするシ
ャイターンの陰謀の思う壺だからである。以上のように、
「居直り」は人の精神の一瞬の交流を
もたらす 1 つの有力な手段となる。のみならず、
「居直り」を深く深く経験することは、一瞬の
精神の交流からより大きな意味を見出す手段ともなる。
世の中には面白おかしい人がいる。ぺらぺら喋る人、そして多くの人々が群がり多くの共同体
に帰属する資本主義的成功を体現する人がいる。彼らは【愛】に浸っていて、精神の意味を良く
知らない。だから多くの友達がいればいるほど自分のステータスが上がり、自慢できると考えて、
うわべの交流、或いは特定の者のみとの深い交流をする。こーした人達はいつもあまりに多くの
人達と出会っていて、実は精神の交流などあっても見えないくらいに目に靄がかかっている。
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一方で、資本主義的成功から取り残され、敗者となった話題のない面白くない人々は、殆ど人
と喋ることはない。ごみ捨て場のごみを漁って飢えをしのぎ、せーぜい一週間に 1 回か 2 回わ
ずかな買い物をして、「ありがとう」と言われるくらいの会話しかない。けれども、敗者を目指
す克己鍛錬の人にはこの「ありがとう」の言葉のありがたさがぺらぺら喋る人達の何百倍もよく
わかる。今、自分はたった百数十円の買い物をしただけなのに、こんな資本主義の敗者に対し「あ
りがとう」と言ってくれる人がいる。その言葉、ただそれだけのためでもこの世に生きる価値が
ある。そう思うくらいにほんのわずかな精神の交流が身にしみる。こーした心の琴線を磨いてゆ
くには単にひねくれていたのではどーしようもない。つまり、資本主義的成功から取り残され、
ひねくれ、そのひねくれ状態から敗者を目指す生き方も出来ず、勝利を羨みつつ、いつも「勝者
を殺したい。そして食ってやりたい。」と考えて、二重ひねくれの状態を作っていたのではどー
しようもない。それでは、全ての人の全ての言葉が、自己に対して真綿とオブラートで二重に包
んだ回りくどい死刑宣告の言葉としか受け取れなくなってしまい、あらゆる人間を恨みつくすよ
うになるからである。そーではなくて、自己の精神の進化だけを信じて、自己がそのために野た
れ死んでもそれが天命ならそれで良いと諦める、そーしたある種の諦めの中から、他人の言葉や
態度からの自己の精神の進化の寄与する深い精神の交流を感じることが出来るのである。
もっとも、自己がそれを感じても、その他人はその交流を感じているとは限らない。むしろそ
ーではないことも多いであろうが、これについてはわからない。自分が本当にわかるのは自分自
身のことだけであって、他人の精神が何を感じているかは、結局のところは、永久にわからない
のである。わかると思い、その理由を【愛】だというのは自分がわかった気になって、他者を支
配し、資本主義的成功を収めたいとするシャイターンの教えに染まった間違いである。
このよーに、他人が何を感じているのかわからないとしても、なお、「居直り」が人と人との精
神の交流を生むのはどーしてなのか。それはこーゆう訳である。人間は堕落しているとき、その
自らの堕落に気付かない。しかし、その堕落を知ると、そこから再び精神の進歩を目指すことが
出来る。そのきっかけとなる「居直り」とは、他人によりもたらされるものではなくて、自分自身
で気付いて、自分自身で自分を変えようとする、本質的に自力本願の営みなのである。こーした
自力本願の営みは、決して他人の心の中に【愛】が生じることを求めないから、他人に対する働
きかけは他人に対し、自分が【愛】を以って制しようという、勝つための手段ではないことにな
る。つまりそれは、負けるための手段、堕落に気付いて克己鍛錬へと戻った個人が、より敗者と
なって生きようとする中から生まれる働きかけなのである。だから、こーした働きかけは他人に
対し、何らの威圧感も与えない。堕落の中に他人がいるときも、その堕落している他人に対し、
何の要求もしない。堕落から立ち直るようにとの要求すらしないのである。
こーして、居直った者の、堕落中の者への働きかけは、専ら受身の働きかけとなる。堕落中の
者、ひねくれ過程の中で苦しんでいる他人の、その苦しい悲鳴をただ黙って、いやむしろ「おー
なるほど」と言って聞く。しかもそれは全て自己の克己鍛錬のためであって、苦しんでいる他人
のためではない。だから聞くことは、全く苦痛ではない。他人の苦しさ、悲しさ、資本主義社会
の中で、その勝利の栄光と対極に位置する、人間の心の負の部分、他人の心の中にあるそーした
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部分を聞く時、それは、自分が経験してきた心の深い傷にとても清涼な、心地良い風、敗者とし
て生きることの喜びの風をもたらすのである。
このように、他人の苦しみや悲しみを聞いたら、その他人の心の傷も少しは癒えるのか。それ
はわからない。あくまで他人の心はその他人にしかわからない。けれども、自分の経験からすれ
ば、その苦しみや悲しみはたとえ他人に聞いてもらっても癒えることはない。なぜなら、この世
に【愛】は存在せず、聞いている人の【愛】が自分自身に伝わると言うことはありえないからで
ある。あくまで、自分自身の心の傷は、自分自身で治すしかない。ゆっくりと時間をかけて・・・。
それでも他人に自分の話を聞いてもらうことは有益である。というのは、怒りや苦しみや悲しみ
で一杯になっている、主観的な自分をどんな形であれ、表現することで、自己の精神はその殻か
ら溶け出し、社会を志向するようになっていくからである。こーして社会を志向し始めた精神は、
自己の殻の中でひねくれを繰り返していた(輪廻)時と異なり、コンプレックスや恨みで一杯にな
った自己を超越しようとし始める。そのとき、夢の中で奈落の底へと落ちていく自分を見つめる
もう 1 人の自分が現れる。そして、落ちていく自分を見て「あーあ」と思うのだ。そうして、
目が覚めたとき、自分の精神はひねくれ過程から居直っている。自分を見つめる他者、自分を殻
に閉じこもらせずに、他者の目に曝したい、見られたい、そう思って、自分が他者に見られた時、
そのとき自分自身の心の底で精神の革命が起きるのである。この純粋なる精神の革命こそが「居
直り」をもたらす。それは純然たる自分自身の意志の決断によってもたらされるものであって、
他人の【愛】によりもたらされるものではない。けれども同時に、自己を他者の前で曝け出し、
表現することで客観化しなければ、同じところをいつまでもぐるぐると回っていて、そのひねく
れ過程から脱却することが出来ないのである。
このよーに述べていくと「居直り」を経験するために何か特別なことをしなければならないよ
うにも思えるが、実はそうではない。特別なことをしよー、しよーと思っていると気ばかり焦っ
てど壷にはまってどうしようもなくなるのである。そーであるから、難しく考えるべきでない。
ただ、克己鍛錬を通じて、自己を表現して他者のまなざしに曝すことで、今まで主観的に自己の
精神と肉体が一体だと思っていた自分が、実は別個の存在からなることを知るよーに努めるので
ある。
とはいえ、それはなかなか難しい。周りの多くの人々は、資本主義的成功を目指して生きてい
るから、その成功とは無縁の、心の負の思考には目もくれないのが通常である。そこで、まずお
勧めなのは、誰にも見られない所で、自分で自分の考えを文章にしたり絵を描いたり等すること
である。これは、バレルとまずいこともあるので、まずは誰にも見せずに自分 1 人の秘密の世
界の中で作ってみる。そして、それを何度も読み返したり見返したりしてみて、自分の考えが正
しいかどうかを何度も点検してみる。そーして、それが自分で正しい考えであると思え、自分で
作ったものに対し、うっとりとするか、勇気づけられるようになったら、それを他人に対しても
表現して伝えてみるのである。但し、自慢してはならない。自慢して、勝利の栄光に浸るのは、
米國独占資本教団の総裁、シャイターンの思う壷だからである。
こんな面倒なことをしなくて済むならしなくても良いのだが、どこまでも嫉妬や恨みにもだえ
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たり、悲しみがぐるぐるととめどなく続いていて、1 人で涙を流し続けたり、手首を切り続けた
りするよりは、この方が良いのである。ちなみに、涙を流したり、手首を切ったりしてそれを他
人に見せびらかせるのは、他人に対し【愛】を求めることである。他人の同情を買って、自分を
「よしよし」して欲しいという、どこまでも自己中心の【愛】への渇望であって、認め得ない。
そんな風にして【愛】の共同体を作りたいという信仰は捨てて、あくまで克己鍛錬こそを目指す
べきなのである。
三 精神の
精神の創造
以上のような我が考えに対して、
「それじゃー寂しいよおー。人間は本性として【愛】に基づ
く相互の魂の交流を望んでいる。」となおも食い下がる者もおろう。しかし、それはシャイター
ンによって「本性」と思わしめられているだけのものである。それが証拠に人間は生まれる時も
1 人、死ぬ時も 1 人である。人はたった 1 人でこの世と別の世を行き来するのであって、この世
に見える他人も本質的には自分の心の幻影でしかないのである。そのような中での精神の交流は
一方向でしか感ずることはできない。けれども、感ずるものは一方向でも、自分と他者がいて自
分が精神の交流を感じた時、相手がどう感じているかは永久にわからなくても、
「創造」が生ま
れることがある。存在の理由はよくわからないのだが生まれ出ていて目に見える「物」、人と人
との交流によって生まれ出る「言葉」、そしてそれはある事業やある國家、法律、そして世界政
治そのものを生み出していく。こーした人間精神の「創造」の営みは全て人が人から精神の交流
を感じたと思った時、生み出されていく。
もっとも、その感覚は思い込みかもしれない。自分という存在は、実は精神だけの存在であっ
て、ここにいるこの体も感覚も、全てはブラフマンの夢で創り出されているそーした実体のない
ものなのかもしれない。宇宙の全てが夢幻で、人間の存在はブラフマンの脳の神経回路の一部分
にすぎないのかもしれない。この世界、そして宇宙そのものが全て幻であるとすれば、人と人と
の一瞬の精神の交流もまた幻となる。1 人で克己鍛錬を目指していく個人の人間が、立った一瞬
だけ他人との精神の交流を感じた、そのかすかな点、そのかすかな希望すら実はこの大宇宙の中
の幻。そんな風に思っている自分は、そんな風におもわされているだけ。実はシャイターンも人
間もいないのだ。今までシャイターンについて随分述べてきたが、それは人間の想像力が生み出
した幻。そして、人間という存在すら、そのように思わしめている何らかの存在によって作り出
された 1 つの幻にすぎないのかもしれない。そうだとすれば、シャイターンにあらがい、独占
資本の教えを拒絶することも、自分が人間であるということも、実は自分自身の精神の作り出し
た絵空事に過ぎないとも思える。
しかし、これら大宇宙の全てが消えても、それでも決して消えない物が1つある。それが精神
なのである。精神は脳の中に宿ると言うがそうではない。体全体で知覚し、脳に伝わらせるもの
であると共に時に脳から分離して前世に飛んでいくこともある。こーした精神だけは現世のあや
ふやな物質と異なり、唯一、確かに自分で「ある」と感じられるものである。「ある」と感じな
いのは、克己鍛錬していなくて、あるいはそれが足りなくて堕落の恒常化が続いているからであ
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る。独占資本教の流す馬鹿なテレビ番組や人との交流を避け、心の琴線を鋭敏にしていれば、肉
体を持たない精神のみの存在との精神の交流を行うことも出来るし、前世を見ることも出来る。
これは、断じて精神病でもなければ、オカルト話でもない。わし自身の実際の経験に基づく話で
ある。今このように書いているのも、そうした自分以外の他者の精神の力によるのである。
もっとも、どーしても精神を見る(というよりも、感じるという方がより正しい)ことができな
ければ、なかなか自分の精神進化の意味を知ることは出来ないかもしれないが、人はいずれ死ぬ
ので、死ねばわかるのである。また、わからなくても、見えないものを否定してはならない。現
在では、國家権力や独占資本の流すテレヴィ放送の発達によって、与えられるものしか見えない
者達が増えてきているが、それはまさにシャイターン、言い換えれば悪しき精神の共同体によっ
て克己鍛錬をしていない人々に忍び寄り、その発する霧状の息吹によって精神を、米國独占資本
の映像しか見えない皮膜で包んでしまったまやかしである。これと戦わなければ、知らない内に
その悪い’’ビュー’’という息吹に汚染されてしまい、知らず知らずにひねくれ過程をさまよい続け
ることになってしまうのである。
だからこそ、精神を磨いてゆかねばならない。そーして、こーした精神の進化を妨げる元凶こ
そ、
【愛】を仮構し、人間世界の中に【愛】の勝者と敗者を作り続ける金の力=独占資本の力な
のである。それゆえ、わしは、このよーに、米國に代表される独占資本の教えをシャイターンの
教えとして徹底的に非難してきたのである。
こーして、いずれ精神のみの存在へと帰る人間は精神の進化のみ遂げれば良いのであって、社
会において何かを生み出す必要はなく、それは全て無駄なこととも思える。しかし、それは正し
くない。実は、精神を磨く克己鍛錬にとって最も大切な奥義は、他人との精神の交流を通じて何
かを生み出すこと、すなわち、やがて消え行くこの世に 1 つでも楽しい夢の道具を作り出すこ
となのである。なぜなら、ある精神
精神は
精神は他の精神との協働によって新たな共同体の精神を生み出す
ことで進化
進化すべき
進化のための夢の道具はたくさん思い浮かぶ自分自身の想
進化すべきものだからである。
すべき
像力と他人の想像力とが合わさって出来上がっていくものなのだが、それは気を付けなければ容
易に独占資本による人間支配のための道具へと変化する。そして、この世界を悪夢へと変える恐
ろしいものである。例えば、ドラマや映画や小説や諸々のフィクションは、独占資本による大衆
支配の強力な道具となっている。そしてそれを見た者の多くが暴力や安易な借金による快楽に走
り、この世界を汚れた精神のはびこる地獄へと導いていく。こーした独占資本の支配から免れた
真の人間精神の進化に寄与する楽しい夢の道具を作ることは容易ではない。だから、これには多
大な労力を要することになる。しかし、まさにそのような、苦労してやっと得られる快楽、すな
わち、シャイターンの放つ独占資本教団の尖兵の繰り広げるまやかしと戦い、かかる偏見を取り
去った真実の知識を求めることこそが、真の精神の成長に繋がるのである。わしは、そのために
碩学と袂を分かち、まともな就職もせずに、十数カ國語を勉強して、書物から他人の精神を知ろ
うと努めつつ自らの研究のために日々1 人よがりに見える鍛錬をしているのである。(他の人に
もそうせよと言っている訳ではない。)
そーだとしても、どーして他人との精神の交流を通じた「創造」が克己鍛錬の奥義であると言
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えるのか。克己鍛錬とは、
【愛】と違ってあくまでも自己内部の精神の進化を目指すものだから、
およそ他の精神との協働作業には何も有益なものなどは見出しえないのだはないか?そういー
風にも思える。確かに、他人との関わり合いは、容易に相手に対する【愛】の要求へと陥る危険
性を持つ。だから、
【愛】を求めている内はあくまで自分自身 1 人で克己鍛錬を行って、徹底し
て【愛】を求めないようになるように努めなければならない。そーして、1 人で存在していて孤
独だと全く感じなくて他人の【愛】など全くなくても自分は楽しく生きていけるとそーゆう風に
心から思えるようになったとき、今度はふと他人の精神を覗きたくなるのである。それは、ある
種の「好奇心」である。
【愛】は執着を志向するが、こーした「好奇心」は特定の人に執着しな
い。ただ、他の人は何を考えていて、どんな精神を目指しているのかふと知りたくなるのである。
こーした「好奇心」によって人が他人の精神を覗き見ようとするとき、そこに自分の精神と異な
る何かを見たような気がすることがある。そのとき、自己の精神に戦慄が走る。こーして自分は
何かを創造したいと思うようになっていく。そんな戦慄を相手も感じていたら、それは本当に感
じているのかいないのか真相は全くわからないが、相手も何かを創造したいと思っているはずだ
と思う。こーして、人が人に対してお互いに好奇心を持つとき、そこに 1 つの精神の相互交流
が生まれたような錯覚に陥る。それは【愛】ではなくて、より高い精神へと至る「創造」のため
の錯覚である。
だが、それは気をつけなければ容易に【愛】へと堕落する危険性を有する。【愛】の相互作用
によって精神ではなく、子供を創造してしまったなどということにも至りかねない。それは堕落
である。互いが互いを、子を作るために利用する邪な関係に過ぎない。
「創造」とは、堕落や【愛】とは似て非なるものなのである。
「創造」の対象とは、この世界や
宇宙をより楽しくしてくれるもの。それは、一部の金力に恵まれた人達やある一定の民族集団や
家族、そういったある一定の共同体に属する人々のみを楽しくするもの=いわば、他の共同体攻
撃の兵器となるものではなく、あらゆる人々、そして人々の背後にあるあらゆる精神=過去・現
在・未来のあらゆる精神を幸福にしてくれるものなのである。そーいう「創造」へ至ることこそ
が、実は克己鍛錬を通じた人間精神進化の現世での究極の目的なのである。
無論こんなことは一朝一夕にできるものではない。それは、人間の一生の仕事である。しかし、
人間の一生は限られていて、精神の進化の営みの過程で何も生み出さずに死んでしまうこともあ
るだろう。けれども、死は必ず再生へと結びつく。その死者の精神を生前知ったと思った他の人
がその精神を引き継いでこの世で発展させてくれることもある。一方、肉体は死んでも人間の精
神は時空を越えて存在するから、生まれ変わって再びどこかで人間精神の発展を継続してゆける
のである。
こーした精神の不滅論に対し、それは観念論だと非難する人もいるだろう。しかし、それは正
しくない。精神が存在しないとすれば、なぜ自分は存在していると思う自己が確かにあると思え
るのか説明できないからである。そう思えなくなったとき、人は自殺に走る。それは、苦痛の現
世を逃れ、肉体を越えた確かな自己を確かめたいからである。つまりは、こうした人間の行動は、
肉体を超えた精神の存在なくしては十分説明できないのである。逆に、そう思っている自分もそ
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う思わされているだけで、全てが幻ならば、それは全てが無だということになる。そして、無と
いうことすら偉大な無の中に包含されてしまう。すると、無の無から有が生じて来る。そうだと
すれば、それら全てが無を通じて存在するものとして繋がることになる。無は有の裏返しであっ
て、
「色即是空、空即是色」だからである。これを「虚しさの虚しさ」と言う。
少しわかりにくいのでこのことを説明しておく。まず、最初の「虚しさ」とは、堕落し続ける
ことの「虚しさ」である。
【愛】を信じたくて仕方ないという限りない愛欲が満たされないこと
によって、こーした「虚しさ」がもたらされる。この場合の【愛】とは、他人に対する友情、恋
愛感情、親子の情のみならず、お金や資本主義的成功、勝利への憧れ、地位・名誉・名声を得た
いと思う心・・・等、あらゆる人間関係の鎖の中から生じる欲望である。こーした欲望は、人間が
肉体を持つ存在である以上、決してなくすことは出来ないのだが、これらを追い続ける自分を主
観的な自分の目でも、欲望の対象の目でもなく、第 3 者の目から見たとき、そのことを「虚し
い」と感じるようになるのである。こーした「虚しい」との感情は、望んでもそれが得られないと
の理由によるものなのだが、実はそれは自分が本当に望んでいるものではなかったとの理由によ
るのである。つまり、精神は本質的に自由で、一元的価値に執着しないから、
【愛】という 1 つ
所にどこまでもこだわってへばりつくのを嫌うのである。そこで、そーした精神の望むものとシ
ャイターンの力で精神の本当の姿が見えなくなった見せかけのうわべの心との間に乖離が生じ
るのである。
ところで、心には 3 つの段階がある。第 1 心:知覚する心、第 2 心:うわべの心(表層意識)、
第 3 心:良心(深層意識)の 3 つの段階である。このうち第 1 心は最も表面の心で外界の物を見た
り触ったり感じたりする心である。これを awareness のレベルの心と言い、心理学によりこの
部分の心の構造は科学的に解明されつつある。第 2 心はうわべ(表層)で自分がそうしたいと思っ
ている心である。この心は極めてシャイターンの影響を受け易く、すぐそれに負けてしまう。こ
れはいわば人間の肉体の生きることへの執着から生じた欲望に基づく心である。第 3 心は良心
(深層意識)であり、これは自分でもなかなかわからない心の奥底にある心であり、この心が自己
の精神と連結しているのである。そしてこの精神は時に肉体を離れて自由に他次元を飛び回るこ
ともある。こーした精神の声を聞ける肉体の最奥にある心を良心と言う。
こーした1~3 心の内、第 2 心と第 3 心が確執を起こすのである。ところがあることにあまり
に熱中していると、第 3 心(良心)が全く見えなくなってしまう。
「営業成績 30%up だ!」とか「1
日 20 時間勉強だ!!」とか必死になってやれているうちは良いのだが、途中で肉体に変調をき
たしたり、どーにも嫌で何も手につかなくなってしまうこともある。ゆーなれば、こーゆうこと
は第 2 心と第 3 心の乖離によって生じるのであり、シャイターンに吹かれた勝利への飽くなき
執着の心が自由な精神の欲求とは合致しなくなることで「虚しい」と感じるようになるのである。
こーした時、場合によってはうわべの「勝利」への執着が実は「勝利」ではなく自由な精神の
欲求をも満たすことがあり、その判断は難しい。というのも、勝利を得るというそのことを通じ
てしか本当に敗者となるための克己鍛錬は出来ない場合もあるからである。だから、本当に行き
詰るまではしばらくはやってみるべきなのであろう。そして、本当に行き詰ると、それはもう完
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全に第 2 心と第 3 心が乖離しているので、やめた方が良い。
ところが、
「虚しい」と感じても、人間はそれに執着してなかなか止めることができない。「今
までの自分の努力や投資が無駄になる」と、まるで自分の努力を自分の分身であるかのように大
切にする。そしていつまでもこだわっていると堕落の恒常化に陥ってしまう。
しかし、実は努力も投資も全ては幻なのである。これらは自分が「~時間勉強した」とか「手
に豆が 1000 個できて潰れた」とか、
「100 万円も投資した」とかという数字でもって勝手に「し
た」と思い込んでいるだけで、実はそれは本当の努力でも投資でもなかったのである。すなわち
それは、シャイターンによってそーするように導かれていただけで、そんな風に苦しんでいる自
分は実は幻なのである。これが「虚しさ」の「虚しさ」ということである。このよーに書くと、
それまでの自分の努力は皆水の泡かという風に思うであろう。確かに、現世を「勝利」、「栄光」
という一方向への進化軸を持つものと考えれば、そーゆうことになろう。しかし、現世も来世も
全て次元は無限に広がっており、そうではない。全ては自己の個性的な精神の発展に資するので
ある。「無」を表す数字としての0が確かに存在するように、
「無」とは実は「無」であって「無」
ではない。むしろ無限の可能性を開いてくれる物、それが「虚しさの虚しさ」なのである。そし
てその意味は、一度「虚しさ」を経由して初めてわかるものである。全てが存在しない全否定の
危機的状況、その「無」の状態から逃避せずに克己鍛錬によってそこに留まる、まさにその中か
ら「無」の「無」が知覚され、無化された「虚しさ」を以って現世の事物を見る時、そこには新
鮮な精神の輝きが溢れていることがわかるのである。
このような、
「虚しさの虚しさ」を経由して「居直り」と経験した精神が互いに出会うとき、
そこには敗者を目指す人と人との精神の交流が生まれる。その時、このシャイターンにまみれた
世界を、少しはましな世界→まあ良い世界→良い世界へと変えていく新たな共同体の精神を生み
出すことができるのである。次章では、人々の精神の協働によって生じたり滅んだり輪廻転生し
たりする共同体の精神の堕落と克己鍛錬(國家の場合、それは特に國家鍛錬と言う。) について
見ていくことにする。
第3章
第1節
日本と
日本と世界の
世界の堕落と
堕落と國家鍛錬
大日本帝國
大日本帝國の精神
かつて大日本國は、美しき日本男児の精神の支配する精神の楽土であった。大東亞戦争におい
て、日本男児は五族協和を実現し、東亞の美しき思想を穢れた米國のシャイターン思想に代え、
世界標準とすべく、鬼畜の國と互角に正々堂々と戦い、そして美しく散っていった。ところが、
圧倒的な物量に勝る米國の軍事力、特に人類史上最悪の兵器たる核兵器の圧力の下、かかる良き
精神の全ては美しき日本人の何百万という命と共に、打ち壊されてしまったのだ。こーして日本
男児の支配する地は米國独占資本の穢れた足により、日本史上初めて全面的に蹂躙されるに至っ
たのである。その結果、日本は米國独占資本主義教団の支配する思想的植民地となってしまい、
あらゆる協和的精神は、
「共産主義者」という名の下に否定され、貶められ続けてきた。そうし
て、自由の名の下に、貧しき者と富める者との格差の差を「努力した者としなかった者との差」
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とうそぶきて正当化し、日本國民内部において対立させることで、帝國主義支配者たる米國への
再反撃をすべく日本男児達が再び団結して起ち上がることを阻止してきたのであった。このよー
な中で成立したいわゆる 55 年体制の下、多数派を占めるに至った米帝國主義の尖兵達は、新た
に新日本帝國主義の思想を築き上げ、米國の真似をして、海外の多くの國民から経済的搾取を行
うことになったのであった。こーした、日帝・米帝に対し、日本國内部においては 60 年・70 年
安保をはじめとした学生運動の盛り上がりが起こり、日本においてもソヴィエト革命を起こすべ
きかのような議論も生じてきた。しかし、これはまさに、日本國内部において、國民を、米帝の
思想に染まり、その尖兵となって恩恵を受ける者とそーではない者に二極分化させ、互いに争わ
せることで、シャイターンの國米國が日本を植民地支配し続けんとするための謀略であったので
ある。そのよーな謀略に気付かないまま日本國は高度経済成長の道を走り、その中で共産主義運
動もまた内ゲバ等によって衰退していった。
こーした中 1970 年、いわゆる三島由紀夫の切腹事件が起こる。彼は、日本男児の住む地にお
いて、その無私・無欲の八紘為宇の思想が金を巡って争う忌まわしきシャイターンの思想に取っ
て代わり、やがてはその穢れた思想が日本國中における精神の頽廃をもたらすことを早くも見破
っていた。そこで、本来の大日本國の美しき理想を取り戻さんと敢えて自衛隊に奮起を促したの
である。そして、それが聞き入れられぬと知るや、無私の自己犠牲の精神を最も強烈に示す「腹
切り」という手段に打って出て、そして美しく果てたのであった。確かに彼は果てた。世間の人々
は、それを嘲笑し、
「自殺は何も生み出さぬ」とわかったようなことを言う。しかし、その精神
は今なお必要とされ続けているのである。すなわち、米國独占資本主義教団に最も欠けている思
想こそが、この純粋無垢な形での人々の克己鍛錬を促す精神なのであって、かかる精神を欠く現
代の若者の多くが自己のみの利益のため、すぐに切れて、死刑にならないことを逆手にとって、
平気で人を殺しているからなのである。
以上のような日本男児の精神は、冷戦終結とバブル崩壊という 2 つの大きな出来事の後、再
び注目されてきている。まず、冷戦終結とソ連の崩壊は、政治における 55 年体制を崩壊させ、
日本國内におけるイデオロギー対立を終わらせるに至った。これを以って日本男児達が社会主
義・共産主義の中にわずかに留めていた伝統的な美しき協和的精神は後退し、保守という名の売
國奴が全ての政治を壟断し、牛耳る体制が整った。そして、全世界においてシャイターンの國米
國の覇権が達成された。他方で、バブルの崩壊は米國独占資本教の病魔に骨の髄まで汚濁されて
いた日本人がその病魔の根源を知るまたとない機会をも与えてくれた。そして、バブル崩壊後の
大不況時代の中で人々は独占資本の強力な力に抗するための新たな精神を求めんと考えるよう
になった。これはゆうなれば、独占資本の圧力の言うがままになっていた、國家的ひねくれ状態
が、バブル崩壊という不幸を契機として居直ってゆき、再び永遠の進歩を目指さんとして國家精
神の理想を追っていけるまたとない機会であったのだ。
こーした好機を利用して日本男児は、國土を覆う独占資本の悪しき思想を駆逐し、かつての日
本男児が夢見ていた、美しき精神に基づく理想の共同体を全世界に築くべく、個々の人間が克己
鍛錬に励むべきなのである。しかし、個々の人間が個人の内面に留まって鍛錬をしていたのでは
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真の精神の理想は実現できない。というのも、人間精神の理想の奥義は、自己と他者との精神の
共同作業によって新たな「創造」を行うことにあるからである。こーした新たな「創造」により、
日本國をそのひねくれ状態から脱却させ、再び精神の理想を目指す國にすること(それは戦前の
ように、軍國主義体制に戻すことではない)、これをこれ國家鍛錬と言う。
第2節
國家鍛錬
一 日本國
日本國家のひねくれ課程
のひねくれ課程
日本國は、戦後目覚しい経済発展をしてきた。その経済発展は米國が与えた独占資本主義によ
ってもたらされてきた。ところがその発展はあくまで経済的側面に留まり、実は精神の面ではひ
ねくれ過程を引き起こしていたのである。
そー言うとこれに対して、戦後米國が日本にもたらした自由や人権思想等は美しき精神であっ
て、こーしたものは日本國における精神の活動を進化させたと反論する者が殆どであろう。
確かに、自由や人権は、その成立当初においては美しく、全ての人々を人格的に平等な者とす
る、精神の進化によってもたらされた人間の叡智であった。だからそーした成立当初の自由や人
権の価値は今でも永久に失われない価値なのである。ところが大東亞戦争の敗戦後、日本に植え
つけられたこれらの価値は、米國が日本を支配するための手段として植えつけられたものである。
それはいわば、シャイターンの攻撃によってぼろぼろに傷つけられた日本國の精神の傷に対して、
冷たいシャイターンの風が吹きかけてきて傷の上に落ちた種子なのである。
こーした種子は、それ自体は悪い実を結ぶ種ではないのだが、國家が克己鍛錬によって常に精
神を鍛えなければ、シャイターンの風のせいで悪い実を結んでしまうのである。戦後の日本人は
米國に負けたことを認め、敗者として克己鍛錬に励んでいたから、こーした種子のいくつかは良
い実を結ぶに到ったものもある。たとえば、男女平等の実現や福祉國家の制度の確立等は、それ
自体は良い実を結んだものの例である。
ところが一方で米國は、日本國を遺伝子のレヴェルから組み替えて、征服せんとしてそれ自体
悪い実を結ぶ種子をも植え付けた。その最大の元凶が限りない拝金主義、金のなる木を生じる種
である。日本國民は毎日汗水たらして努力して、この金のなる木をせっせと育てていった。他の
どんな実を付ける種よりも、金のなる木こそが、東亞の理想に代わる、真の人間精神の理想を実
現する木だと思った人々は、一生懸命にこの木を大きくし、やがてこの木はたわわに実った金の
果実を生み落としたのだった。その果実はとても味が良くておいしい上に、薬物のよーに依存性
があるので、もっともっと食べたいと思った日本國民は、自分達の精神の傷口に、金のなる木の
種子を植えつけていったのであった。
ところが日本國民は余りに欲張って限られた傷口に余りに多くの金のなる木の種子を植えつ
けたから、種子と種子の間がなくて生育不良となった芽は、実を付けるどころか、木になる前に
枯れてしまった。こーしてバブルの崩壊がやってきたのである。
すると見よ、今までたわわに実った金の木で塞がれていた日本人の精神の傷口は遮る物なく吹
きすさぶシャイターンの風に抗しなければならなくなったのだ。「ゴローバル・スタンダード」
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そう叫ぶシャイターンの風が冷たくむき出しになった日本人の精神の傷口を襲う。痛い、とてつ
もなく痛い。日本人はその冷たい風に痛くて死にそうな思いをしている。この痛みを和らげるた
めに、シャイターンが運んでくるあの金のなる木を生み出す種をもう 1 度植えてみようか?そ
うしたら少しは風を防げるのでは?ところが、長らく金のなる木を植え続けていた日本人の精神
の傷口は、その膿が腐って出来た養分を全てその木につぎこんでいた。そうしてもはや、金のな
る木を育てるに足る地力すらなくなっていたのであった。こーして、日本人は、冷たい風に悶え
ながら、種子を育てる養分を作るべく、その傷の膿が腐るのを待っていたのである。(もっとも、
最近複数の蛭(ヒルズ)に蝕まれた一部の欲張り達は噛まれた傷口が痛くて膿が腐るまで待ちき
れずに、多量の金のなる木の種を違法に撒いて、逮捕などされているが。)
以上の話からわかるように、
日本人の精神は 1945 年からバブル崩壊までをぐるっと一周して、
1945 年に戻ったのである。つまり、敗戦により傷を負い、その傷を米國のシャイターン教のも
たらす冷たい風が吹きぬけるのと同じ状態をもたらしていたのであった。これはいわば日本人の
精神が拝金主義というひねくれ過程を経由して、
再び 1945 年の時点に回帰したことを意味する。
そこで、日本人は悪い実を結ぶ金のなる木の種をまた植えるべきなのか?答えは勿論否である。
ひねくれ過程を経由して元に戻った日本國は、再びその美しき精神の理想を目指す國家的克己鍛
錬、すなわち國家鍛錬の道を進むべきなのである。
さて、このよーに戦後の日本はひねくれ過程を経由していたのだが、その根は更に古くに遡る。
すなわちその根は明治の日本の國家の姿勢そのものに淵源するのである。それはこーいうことで
ある。日本は幕末から明治維新にかけて西洋文明の洗礼を受け、このまま日本が他國の植民地に
なるかもしれないという危機に曝されていた。そーした中で、
「追いつけ・追い越せ」の掛け声の
下、日本は西洋諸國を真似て、様々な制度・思想を輸入し、やがてその中で大日本帝國の利益を
守るため必要な最も大切な物は軍事力だと考えるようになった。こーした軍事力への信仰が他國
への侵略と多大な犠牲を生じたことは周知のとおりである。このような「拝軍主義」は、当時の
世界を動かしていた「軍事力の均衡」による平和という大國のエゴの思想に染まった大日本帝國
が、それがシャイターンのもたらす思想であると知りつつ國益のために仕方なく取り入れた悪い
実を結ぶ種により生じたものであった。たとえば、福澤諭吉は『文明論之概略』の中で、軍事力
による國力の均衡がヨーロッパ諸國の標榜するキリスト教精神と相容れないものであると指摘
しつつも、自國(日本國)の独立と國益を守るため、かかる軍事力の採用を強く解いている。
一方、戦後日本の拝金主義は、金と物量に勝る米國により敗退した日本國が、その米國にかた
んとする國益のために取り入れたこれまた悪い実を結ぶ種より生じた実であった。
すなわちこれらはいずれも自國の利益を目指し、自國が勝者となるために導入された同根のイ
デオロギーなのである。こーした思想はいずれも【愛】への堕落から生じている。つまり、國益
という日本國家への【愛】
、実はその【愛】國主義こそが、精神の理想とは異なる現世の諸々の
虚栄や戦いへと人間を向かわせる最大の凶器となっているのである。
最近とみに愛國心の強調が叫ばれている。公立小・中学校での國旗掲揚・國歌斉唱の義務化と
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従わない者に対する懲罰に始まり、教育基本法の改正(実態は改悪)、防衛省昇格、経団連会長に
よる企業内における國旗掲揚・國歌斉唱の勧奨など、國・財界挙げて、國家主義を助長するような
風潮が生じてきている。彼らの大方の議論はこうである。すなわち、戦後日本の教育においては、
米國により日本國民の精神の良き部分も悪き部分も根こそぎ取り除かれて全く新しい価値が導
入された。そーした教育の最大の目的は、國家主義を排し、人権尊重を基軸とする個人主義を徹
底して導入することであった。ところが、このよーな個人主義の行き過ぎが「自分のみ良からま
しかば、さりて良からまし。」なる利己主義の蔓延をもたらし、それが果てしなき富の追求をも
たらしたのだと。こーして日本史上かつてないほどに金を求めるバブルの時代がやって来て、そ
の一方で、個人の精神はどんどん貧困になっていった。例えば少年・少女を見よ。平気で人を殺
す、そーした若者の増加は個人主義の蔓延のせいなのだと。そこで、共同体への帰属とその奉仕
を目的としていた清き日本の戦前の國家精神の復活こそが、このよーな個人主義に基づく果てし
なき利己心の追求を阻止すると考え、そーした精神を幼いときから植えつけるため國を誇りに思
う教育、或いは國旗・國歌を歌う教育をするのである。
確かに、彼らの個人主義の行き過ぎを批判する主張は全く当を得ていないわけではない。しか
し、彼らは個人主義の行き過ぎによって一部の人間のみが巨万の富を独占し、その他の多数の
人々が貧しくなり、日本國内ですら餓死者が続出している事態を批判していない点で不合理であ
る。つまり彼らは鬼畜の國米國と同じく、ここで二重の基準を用いて、金儲けはどこまでも自由
でそれ以外の思想・信条を愛國心という名の美名によって束縛する。そしてそのことで、金持ち
=社会的に上位の者を非難することを日本古来の美徳に反することとして糾弾し、独占資本によ
る永続的支配を正当化する思想を幼いときから企業で働く時までずうっと刷り込んで教育する
ことで、奴隷労働と使い捨てにされることを美徳と思える多数の「できの良い」人間を創出しよ
うとしているのである。國家主義と愛國心で独占資本と國家権力が半永続的な資本家・政治屋の
世襲的な繁栄を維持するために結びつき、社会の流動化を労働者の使い捨てに限定し、さも社会
が実力主義であるかのような幻影をインチキなテレヴィ画面の中で、偶像化され現代の神像とな
ったスポーツ選手の虚像の中に映し出すのである。
このよーな意図を背後に秘めた彼らの主張の中で見過ごされているのは、戦前の、共同体への
奉仕を説く【愛】の思想、すなわち愛國心の強調をする思想が実は西洋文明のもたらした國益の
ための思想と軌を一にしているということなのである。それはつまりこーいうことである。先ほ
どより述べてきたように、現在の日本は二重のひねくれ過程を経由してきた國である。シャイタ
ーン第1の発悪により【愛】の風に蝕まれた明治の日本國はキリスト教的な仮面をかぶった【愛】
の思想を西洋より取り入れ、儒教的な上下関係を規律する【愛】の思想と結合せしめた。そして、
儒教倫理に根ざした封建的な主従関係のくびきから未だ脱しきれずにいる明治の日本國民に天
皇陛下という現人神によって象徴される國家を【愛】する思想を洗脳した。國民相互が互いを【愛】
し合い、純粋無垢な自己犠牲の精神を以って國を【愛】すること、そーした【愛】の思想が日本
國民と國民を結びつけ、我が國に、日本男児の支配する「精神の楽土」を生み出したのだった。
ところが、
【愛】は本質的に排他的である。ある人とある人との間でできた【愛】の共同体は、
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その共同体の外にいる人々と中にいる人々を差別化し、中にいる人々のみを極めて強い求心力で
結び付けようとする。というのも【愛】は克己鍛錬と異なって、他者を愛すればきっと他者の心
の中にも【愛】が生まれるはずだという他力本願の営みであり、その営みが日本男児の相互依存、
ひいては國家への依存をもたらしていたからなのである。こーして、日本男児は、國家を愛すれ
ばきっと國家の全てが凝縮された天皇陛下も【愛】を生じるに違いないと信頼した。そして、日
本國家の元首、まさに天皇陛下の【愛】が全世界の人々に行き届いた時、八紘為宇の理想が実現
し、世界は天皇陛下の【愛】の下、同じ屋根の下に暮らす一家になれると信じていたのである。
(ちなみに、こーした考えを取り入れ、天皇を文鮮明に代えたのが統一教会の統一原理である。)
こーした理想は、現在の我々の多くにもすがすがしい希望を与えるものである。特に、敗者とな
ったバブル後の日本人の心の傷にとって、かかる理想をもたらす木の実は、撒きたくて仕方ない
すがすがしいハシシの快感をもたらす種なのである。
こーして最近、右翼主義に走る若者が増えていて、日本男児の【愛】の精神を美化する不良達
も多い。だが、注意深く見ればわかるように、こーした不良達はいち早く資本主義的成功を体現
したいと思って独占資本教の罠にどっぷりと浸かっている。彼らは精神を知らず、親や友人その
他の【愛】に飢えていて、こーした【愛】を与えてくれる共同体にすがろうとしている。その結
果【愛】により結びついたヤクザの共同体に入って振り込め詐欺で大儲けしたり、日本男児の【愛】
の共同体の再現を目指す右翼民族主義団体に入る。そんな中から皇族に敬称をつけなかったとし
て襲撃されたり、靖國公式参拝を批判するだけで家に火をつけて燃やすなどの右翼過激派の凶行
と、テレヴィのバカ番組を使って毒染資本の細菌を振り撒いていた小泉衆愚政治に洗脳された冷
ややかな世論が生じてきているのである。こーした動きは、再び國家への【愛】の思想を生じさ
せることで日本國という共同体の求心力を強めようとする動きである。そーして、究極的には米
國をはじめとする独占資本教徒の國々に対して【愛】の力で以って戦いを挑み勝利せんとする動
きであるのだが、こーした戦い自体、実は独占資本教によって仕組まれた【愛】の罠であること
を我等は見破らねばならないのだ。さもなければ、
【愛】はいつしか独占資本の暴力の道具のみ
ならず、軍事的侵略の道具として正当化され、再び世界を血の海にすることになるのである。
以上述べてきたことは、
「先に述べてきたことと正反対の内容であってとてつもない論理矛盾
を引き起こしている。」と今まで読んできた者は不快に思っていることであろう。日本男児の清
き精神を肯定してみたり、
【愛】への堕落と言ってみたり、或いは八紘為宇の理想を國家鍛錬の
手段のように言ってみたり、お前は一体どっちの考えなのだ?そう思って怒っていることであろ
う。
けれども、わしが敢えてこーした正反対の議論をしているのは、これらの言葉がその使い方に
よって【愛】への堕落にも精神の理想にも至るいわば両刃の剣だからなのである。わかり易く言
えばこーいうことである。日本男児が自らの精神の理想を克己鍛錬によって目指して進んでいく
のは自らの精神の進化に寄与し、そーした自己の精神を磨くことは第2章で述べたように他人の
精神との交流を通じてより良いものを築いていゆく手段となる。しかも、そこで掲げられた五族
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協和や八紘為宇というスローガンは、それが純粋・無垢な個人の克己鍛錬とのみ結びつく時、真
に自由で平等な個人や國家の結びついた理想の世界を築く有力な精神的支柱となる。
ところが、ここに独占資本の金や権力或いは國益にまみれた【愛】の思想が介入することでこ
れらのスローガンはたちまちにして侵略戦争正当化のための手段へと変貌を遂げるのである。そ
して、かかるイデオロギーを正しいと信じた人達は何か変だと感じつつ、
【愛】により結びつい
た同じ言語を話す日本國という共同体、そして第1にはその共同体に帰属する家族への【愛】の
ため、他國の人々を殺戮していくのである。こーした剣の両刃の面を示すために、敢えてわしは
正反対の議論をしたのである。
では、こーした剣の両刃のうち、【愛】への堕落を生じる殺人剣ではなくて活人剣の部分のみ
を磨くのにはどうしたら良いのか。そこで必要となるのが、國家共同体自身の克己鍛錬すなわち、
「國家鍛錬」なのである。もっとも、國家は個人と異なりそれ自身精神を持つとすると、戦前の
國家精神礼賛=愛國心崇拝へと出してしまうのではないかと考える人もいるであろう。確かに國
家を個人と同じ枠組みで捉えることには無理があるとも思える。しかし、個人の精神を向上させ
る上で頭の中に様々な考えが浮かび、その中である考えを取捨選択して個人としての意思決定を
行わなければならないのと同じよーに、現代においては、國家もまた様々な人々の意思決定に基
づく表現活動の中からある考えを取捨選択しなければならない。(例えば、法律制定や外交など)
とするならば、そーした國家としての意思決定を行うに際して、いかなる観点から行うかという
問題は、個人の意思決定と非常に類似するところが多いのである。そこで以下、こーした國家の
意思決定のあり方を見ていくことにする。
二 國家の利益(
利益(國益)
國家の意思決定は國益によってなされるのが通常である。しかし、わしは今までくどくどと言
ってきたよーに、【愛】を否定する。そして、そーである以上、國への【愛】をもたらす國益最
優先主義をも否定する。なぜなら、國益という考え自体が米國独占資本教のシャイターンのもた
らした差別の教えだからである。すなわち、國益とは國民のみへの【愛】の教えでえあり、國家
という共同体の外にいる人々は國民の利益に奉仕する奴隷であって國民のために利用すべき
人々に他ならないとする考えだからである。これは、米國を見ることでもっと端的に見て取れる。
米國は、その独占資本の一角を占める製薬会社がエイズ薬の値段を不当に吊り上げ、南アフリカ
で毎年何万人という人々がエイズで死んでいても、企業利益のために値段を断固として下げない
ことを、特許を理由に容認していた。更に、アフガニスタン、イラークでテロとの戦いを名目に
数万人の人々を殺し、その実は、兵器の実験や石油企業の利権を図ることに大きな理由があっ他
と考えられるのである。これらは、独占資本が世界を支配し、巨万の富をもたらすことで、米國
民の國益を図るためになされたものである。つまり、米國民にとっては、何万、何十万、何百万
の他國民の人命は、自國民への【愛】の前にいとも簡単に奪える虫けら同然なのである。
こーした米國の独占資本擁護のための國益最優先の考えは、更に地球温暖化防止会議からの離
脱、核兵器削減の拒否、國連軽視或いは気に入らなければ、拒否権で事務総長をやめさせる、或
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いは危険と決め付けた國への先制攻撃等の傍若無人の振る舞い、更にはグローバル・スタンダー
ドとのたまいつつ、自國の産業保護のために他國に関税や経済制裁を課すこと等となって現れて
いる。これらの数え切れないほどの米國の悪虐の限りの振る舞いは、全て「國益」=國家への【愛】
の名の下に正当化されるのである。自國民さえ良ければそれで良いとする差別の心、シャイター
ンのもたらした穢れた思想が世界における限りない貧富の格差、ひいては生命の価値の格差をも
たらしているのである。
もっとも、【愛】を肯定する人々はこーした國益最優先の思想は【愛】ではなくそれと反対の
ものだと反論するであろう。けれどもやはり國益は【愛】より生ずるものである。米國は、自國
民への【愛】を通じて究極的には全世界が米國の支配下での【愛】を享受することを願っている
からである。すなわち、米國が他國に対し、借款等の【愛】を与えれば、その國の國民も必死に
働き、何倍にもして利息付の【愛】を返して米國に感謝する。そーした【愛】が【愛】を生み出
す、富に溢れた星を築き上げるという資本主義・自由主義の地上天國を築き上げんとするのが米
國のシャイターンの遣いの理想であるからである。こーして【愛】は、独占資本の理想、シャイ
ターンの教えを実現する、思想面での最大の武器となったのだった。
以上のよーに、わしは國益が【愛】の思想に基づいた忌まわしいシャイターンの教えにより生
ずるものと考えている。そこで、國益に代わる國家の意思決定の基準が必要となる。そしてそれ
は、國家精神の進化を目指す國家鍛錬に求めるべきなのである。
三 國家鍛錬の
家鍛錬の具体論
1.
國家鍛錬の方法
以上、長らく述べてきた「國家鍛錬」とは具体的にどうすることなのか?いくつかの手段を示
すことにするが、國家の鍛錬もまた、個人の克己鍛錬と同じく6つの行からなる。これを表にす
一体化の対象
①自然
②敗者
③精神の付着物
内界
休憩の重視(お昼寝)
想像力の重視
広い議論の喚起
外界
外交促進(お散歩)
リサイクル促進
広い知識の接取
ると下のようになる。
まず、第1に、個人のお昼寝に該当するのが、休憩の重視である。自由主義原理主義の蔓延す
る今日この頃、國家の内部では正社員の多くは休憩時間なく働きづめになり体に変調をきたして
いる。他方、わしらのような敗者は仕事をする能力はあるのに、仕事がない。これは、双方にと
って不幸な結果を招く。すなわち、仕事が忙しすぎる人は、金はあっても結婚する暇もなく、結
婚しても子供を産んで育てる暇もない。他方仕事のない人は、時間はあっても金がなく、結婚し
たり子育てする経済的余裕がない。これは人口減少を招き、将来の年金問題に深刻な影響を及ぼ
すこと間違いない。よって、政策上、國家精神そのものにもっと休憩を促し、際限ない競争の束
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縛から脱して人間の真の幸福を考えられる時間を作ることが必要なのである。但し、わし自身は
結婚や性交渉は【愛】への堕落に至る危険な罠として避けるべきと考えている。その限りでは人
口が減少することは、人々の精神が死後進化していて人間に生まれ変わらないことの現われとも
とれないことはない。だが、それは主に資本主義の虚栄の敗者の精神の方である。高度に資本主
義が発達した社会では、勝者の中で敗者が多く生まれ、そうした人々の純粋無垢な精神は進化を
目指しているから、来世においてはより高度な固体(星とか)の精神と結びつき、いずれは精神の
みの存在の高みへと至るのである。一方、残念ながら勝者になった側はひねくれ過程にあるので、
再び競争の地獄に生まれ変わってその擂鉢地獄の責め苦を受けることになるのである。まあそれ
はどうでも良いのだが、仕事のし過ぎは体に悪いので、お昼寝などもっと休憩をすべきなのであ
り、そのことを國家精神のレヴェルで議決すべきなのである。従って、米國独占資本教団総裁シ
ャイターンの操り人形になっている経団連の主張するホワイトカラー・エグゼンプシオン(実態
は人間をロボットとして扱い、残業代なしで死ぬまでこき使う政策)などとんでもない話である。
次に、個人のお散歩に該当するのが、外交の重視である。今までの日本外交は米國一辺倒であ
った。それは、米國が有事の際に日本を守ってくれるからだというが、それは嘘である。内実は、
鬼畜の國米國に逆らうと、経済制裁を受け、米國内での日本製品不買決議がなされ、経済立國で
ある日本國の存立が危うくなるからである。すなわち、日米安保条約とは日本が属國となって米
國に遜ることで、米國が豊かになった日本の富を略奪せんと再攻撃を仕掛けることを阻止するた
めやむなく結んでいる、鬼畜の國米國に対する日本國防衛のための条約である。日本民族の誇り
の点からはこれを破棄すべきとしても、それは多くの人々の命を奪うことになるので現時点では
存在するのはやむをえないのである。さりとて、このまま黙って鬼畜が全世界を血の海にするの
を見ているのは、日本男児にあるまじき態度である。そこで、日本は鬼畜國に悟られないように
秘密裏にお散歩をして、他の國々との外交上の根回しをできるだけ多くすべきなのである。裏で
の様々な経済交流を含め、鬼畜が刃を向けないように配慮しつつも、その不正義に対しては裏で
他の諸國と同調・協和し、反帝國主義の秘密同盟を結成し、ひとりよがりな米國の凋落を虎視眈々
と目論むべきなのである。これは、軍事力に頼らずに敗者の精神の力により一人勝ちの國米國を
自滅に追いやる第2次大東亞戦争のための強力な手段となるのである。
内界の敗者の精神との一体化、すなわち個人のオナニーに該当するのは、想像力の重視である。
よく子供が人を殺したりするのは、目で見えるアホなテレヴィやゲーム或いは熱狂的なスポーツ
等にはまり込んで、見えない物を見ようとしないからである。そーした努力をするのが克己鍛錬
であって、真に鍛錬が出来ている人は自分がそういう目に合ったらどうかを考えるので、かかる
無益な犯罪には走らない。また、他人のことや、他國のことを考えない自己中心主義はこうした
自己の想像力の欠如のなせる業である。それゆえ、國家は、すぐに役に立つ実用的な知識の習得
や目先の國際的な学力判定にばかり気を捉われるべきではなく、もっと想像力を磨く教育をしな
ければならないし、そーした態度を養う重要な手段となる、文科系のいわゆる「役に立たない学
問」の研究の推進を助長すべきなのである。すなわち、換言すれば、真の学問とはまさにオナニ
ーをすることと同義なのである。
51
外界の敗者の精神との一体化、すなわちごみ拾いは國家が率先してすべきであり、これが國家
的な再利用、或いはリサイクルの促進ということである。これは今企業も促進しており多言を待
たないであろうが、もっと個人も使えるものは再利用すべきである。
個人の表現に当たるのが、「広く会議を起こし万機公論に決すべし」との五箇条の御誓文の精
神に回帰し、社会の様々な場面で公論を形成する場を設けることである。これは、勿論政府主催
のやらせタウン・ミイチングのことではない。そうではなくて、社会の各所で、敗者たちが克己
鍛錬の中で好奇心から結びつき様々な議論を行うことである。その結果、そこに新たなる共同体
の精神が誕生し、かかる精神の集合体がやがては國家精神を形成していくのである。先述のよう
に、日本國は近代以降悪しき【愛】の風に蝕まれて 2 度のひねくれ状態を経由してきた。その
原点に立ち返り、
【愛】を去った精神の高みへと至る議論がなされることで、
【愛】と決別した克
己鍛錬を目指す、敗者となった個人の良き精神の風(ヒュー)の結合、すなわち敗者の負けること
を目指した連帯による清らかな世論が形成されてゆく。そしてそれは後述する純潔革命への流れ
を作り出すのである。
個人の外聞にあたるのが、國家による広い意見の摂取ということである。これは、現代の國家
に最も欠けている態度である。すなわち、國家は、一部の独占資本とそれに寄りかかる腐れマス
コミに洗脳され、催眠状態にされた國民、そして世襲的な利益を保とうとするブルジョワ自由主
義者の利益からの意見のみ聞き入れ、貧民を努力が足りないと決め付け切り捨てる。金持ち達は、
金の上にささやかな努力をしているだけで、巨大な利益を得て、それを全て自分の努力によるも
のとうそぶき、自分達の階級を保持する政策提言をする。そして、彼らと同じ穴のムジナである
2 世・3 世議員の支配する國会もまたこうした金持ちの利益のみしか聞かないのである。國家は
こうした態度を改め、貧民達や貧しい國々のことも含めて広く意見を聞く必要がある。それはま
さに國益という國家への【愛】ではなく、國家が自らの克己鍛錬の過程で他の國家の役に立つ「國
役」の実現を図るものなのである。
ではこれらの鍛錬はどうような相関関係を持っているのであろうか。端的に言えば次のように
なる。まず、内界においては、休憩があることで個人と同じくその共同体もものを考え想像をす
るようになる。その結果、様々な想像による創造活動がなされ、その中から敗者による様々な議
論が沸き起こってくる。そうした議論が國論を決めていく。外界においては外なる自然ともいう
べき外國と精神の一体化を味わえるような緊密な外交関係を、鬼畜(=米國)に気付かれないよう
に、裏で築き上げることで外患を排除した後、ゴミ・環境問題の対策を万全化する。その上で、
かかる技術を海外移転することを通じて、良き國家精神を伝達する「國役」を目指す國家を目指
すべきなのである。
2.
敗者と権力者の関係
以上のような國家鍛錬の概略は、それのみでは単なる抽象論の枠を出ない。そこで、次に、か
かる敗者の連帯による議論形成がいかにして良き國家精神の創造をもたらす政策決定に結びつ
き、
「國役」を目指す國家精神を創造できるかという点を見ていくことにする。
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まずその元になるのは、好奇心を志向する敗者の連帯により「広く会議を起こ」すことである
が、これは國家を超えた人間が集まり、しかもいろんな方法で行われる会議のことを言う。こー
した会議は市民ボランティアの会議であったり、インターネット上の会議も含む。そーした様々
な人々が様々な形で開く世界中のあらゆる会議を「広く会議」と言うのである。こーした広い会
議においては世界中の人間が様々な議論をしている。中には堕落万歳論もあるだろうが、善悪に
拘らずそーしたいろんな議論のできる場を國内に多く作るべきである。こーして【愛】への堕落
ではなくて、個人と個人が精神の交流を行える数多くの場から「公論」が生まれていく。
「公論」
とは國家の中央の國会における議論ではない。人と人とが精神の共同作業から生み出した新たな
「創造」
、その「創造」を「公論」というのである。こーした「公論」を國家の意思決定の基準に
すえるのである。
かつての國家は一部の官僚や政治家が「國民の代表」であることを傘に着て國家の意思決定の
基準者であることを自認していた。そして、専門家であることを自認する学者やインテリ等の特
権階級は、独占資本と結びつき、「政官業の、政官業による、政官業のための政治」を行ってき
たのである。そーした政治は一面で米國流の富に溢れた國を築き上げる一方で、貧困な人間精神
や他國への経済侵略をもたらした。こーした政治を変え、真に人間精神の理想へと至るための政
治は、一部の特権階級や専門家ではなくて様々な人々が自発的に参加する、市民により創造され
る「会議」により実現されるべきなのである。というのも、こーした「会議」においては、資本主
義の勝者のみならず、敗者も自由に発言できるからである。
これに対し、政党政治に基づく國会は、國会議員という、自由競争の勝者により構成される「勝
者の会議」である。いつも敗者の庇護を訴えている日本共産党も、國会議員は殆ど東京大学出身
のエリートばかりであり、プチブル化した不破議長などはものの本によれば丹沢に別荘まで持っ
ているという。彼らは似非共産主義者であって独占資本主義者と何ら変わりない。共産党すらこ
の体たらくなのであるから、況や他の政党をやである。つまり、今の國会政治は米國のシャイタ
ーンに牛耳られた政治なのである。しかも政党政治においては、國民は様々な政策が何十個もパ
ック詰めにされた「政党」を選ぶかその候補者を選ぶしかないから、殆ど発言権を与えられてい
ないも同然なのである。にも拘らず、「選挙が唯一の國民の意見を言える場だから、選挙に行く
のは國民の義務です。」などと言っている一部の知識人たちがいる。しかしそれは大きな誤りで
ある。今や与党も野党も殆ど政策が変わらず、また、政界再編などでまたいつ公約と反対の考え
を表明するに至るか全く信用できないものに成り下がっているのである。
だからこそ、今、國家の政策を決定する基準を、國会ではなく市民の会議により「創造」された
「公論」に求めるべきなのである。すなわちそれは全世界のあらゆる人々が國益を超え、
【愛】
への堕落を超えて、克己鍛錬を通じた精神の交流のために結びつき開催する、市民の國際会議に
よる、何ら金も名誉も権力もない、人間精神の「創造」の決議なのである。
こーした会議を開くことは、場合によっては自己自身の名声の高まりや経済的成功に結びつく
こともあるかもしれない。しかし、そーした成功は克己鍛錬とは反対の【愛】への堕落へと至る
危険性を生ずる。だから、あくまで自己利益ではなくて自己の精神の進歩を目指して互いが結び
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つく、そんな「会議」を開くべきなのだ。そして、そーした会議が日本國内の、いや地球上のあち
こちで開かれるようになっていく。そこでは地位も名誉も権力も、そして知識の多寡すら関係な
く、あらゆる人々がインターネットを通じて自由に議論できる。そーして、そんな精神の交流の
中から、次第に「公論」が形成されてゆく。
國家の役人や政治家はこーした「公論」を基準として國家の意思決定を行うべきなのである。
自己の特権を守るため、わけのわからん法律の屁理屈を持ち出すのはシャイターンの自己防衛で
ある。法とはその正当性の基盤を國民に持つもの、そして究極的にはそれは憲法の上位に位置す
る正しい法、つまり人間精神の理想に淵源するものなのである。だから、人間精神の理想を目指
して結びつきあった精神の共同体作業により作られた市民の「公論」は、法源として官僚のわけ
のわからぬ法律解釈よりも上位に来るべきなのである。
以上のように、
「公論」を基準にして國家の意思決定をするとしても、
「公論」のうちどの議論
を採用するかという選択権はやはり國会、そして細かい部分では官僚にある。しかし、國会議員
や官僚は権力を持っていて、金と結託しやすく、常に堕落の誘惑に曝されている。そして、その
うちの殆どは本当に堕落してしまっている。こーした選択権者が堕落していたのでは、いくら素
晴らしい「公論」でもそれが國家政策の基準にはなりえない。
そこで、これら選択権者達を、常に市民の監視の目の下に置くことが必要になるのである。こ
ーして、市民達は自発的に「会議」の場を設け、これら選択権者達の行動を見張ることになる。
そして、おかしなことをしていたら、
「こらー」と言って國民或いは國際世論に訴えるのである。
もっとも、そのためには、官僚や政治家が自分達の隠れ場所を作って隠れられないように、常
にあちこちからライトを浴びせなければならない。やっていることは、國民個人のプライバスィ
ーを著しく侵害するものを除いて殆ど全て白日の下に曝け出す情報公開の制度を、更により強化
していく必要がある。
以上のように、政治家や官僚の行為を、市民がいくら監視して「こらー」と言っても彼らが全
く言うことを聞かず、
「わしは偉い。
」と言ってふんぞり返っていたらどうしよう。そーいうとき
は今の制度下では、選挙で政治家を落とすしかないのだが、官僚の場合どーしよーもない。そー
いうときはただ手をこまねいているしかないのか?
答えは「否」である。すなわち人間精神は個々常にその克己鍛錬を通じた理想に向かって進ん
でいるものであり、その精神の理想の進む方向は他者との精神の交流を通じた「創造」である。と
すると、共同体の権力者が自己や周囲或いは他國を無視した國益という【愛】に堕落し、その意
思決定を行っているのを見過ごす訳にはいかない。シャイターンの発悪により歪められた國家の
意思決定を、精神の「創造」を通じた克己鍛錬の道へと戻すべく、再び「広く会議」を起こし、
「公論」により、その打開策を探るのである。
そのよーにして、全世界で議論が沸き起こり、ある「公論」が沸き起こり、ある「公論」が全世
界の市民の、精神の大きな潮流となったとき、そこに1つの良心によって結び付けられた、世界
市民の精神の革命が起こる。これをこれ、
「純潔革命」と言う。(詳しくは後に述べる。)
こーした「純潔革命」によりもたらされた「公論」は、間接民主制の中で【愛】へと堕した支
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配者達に静かな、しかし大きな敗者達の精神の炎を浴びせかける。丁度、ひねくれ状態にある個
人に対し、居直りを通じてひねくれ状態から克己鍛錬へと戻った個人が働きかけることで、堕落
したひねくれ状態の個人の夢の中に、堕ちていく自分自身を見る、もう 1 人の自分が現れるよ
うに、堕落した権力者の夢の中に、堕ちていく権力者を見るもう 1 人の権力者が現れる。その
とき権力者は悟る。
「わしは、何のために國の政治のことを考えてきたのか。何のために國益を
考えてきたのか?一生懸命に國益のことを考えてきたのに、こんなに悪く言われて、もうあほら
しいなあ・・・。
」すなわち、他國の人々を犠牲にして國益の飽くなき追求に走る。そーした行為が
実は自分とその周辺の人々だけの虚栄心や、資本主義的成功をもたらす虚しい行為だということ
に気付く。今まではそーした行為が虚しいと知りつつも、
「國家への【愛】」という理想の前に、
「虚しい」という感情をひた隠しにし、自分の心の隅に追いやっていた。ところが、世界中の多
くの人々の市民の「公論」が渦となって押し寄せてきたとき、そのシャイターンによってもたら
された「國家への【愛】
」の思想は音を立てて崩れてゆくのである。
こーして、自己の精神を覆っていたシャイターンの鎧、すなわち【愛】の鎧が取り去られた時、
自己の精神に大きな傷ができていることに気付くのである。そしてその傷をビュー、ビューと冷
たいシャイターンの風が吹き抜ける。
「なんだ全て幻か。わしの持っていた権力も何も幻か。」
「そ
して多分この世界もないのだろう。そーしたらこの痛い傷口もみんな幻に違いない。ああ、さす
れば、そんな風に虚しいと思っている自分もまた虚しい幻に違いない。」そー気付いた時、権力
者の精神の炎が目覚める。そして、
【愛】へと堕していた権力者が克己鍛錬を再開すると決断し
たとき、そのとき敗者達の「創造」していた「公論」は権力者の政治的決断を【愛】から克己鍛錬
へと変えさせる。すなわち、「純潔革命」の潮流が人間精神の理想を目指す束となって、権力者
の精神までをも引き込むのである。
これはちょうど針金を巻いてできたコイルに電流を流すのと似ている。多くの、束となった精
神の針金に精神の進化という電流を流すことで、コイルが磁界を生み出す。そしてその磁界が周
囲の束から逃れていた針金までもを引きつけてしまうのである。
もっとも、こーした「革命」が、権力者の精神を突き動かすことは稀である。少なくとも現時
点においては、コイルの周りの磁界は権力者の針金を引き寄せるほどは強くないのが普通である。
しかしながら、既にいくつかの成果は生じている。例えば、地雷全廃条約の締結などは、その最
も典型的な例である。すなわちこれは、純然たる市民組織の精神の力が、米國(=鬼畜)を除く多
くの國々(日本も含む)の権力者の精神をも動かした大きな例である。今後はこーした動きが益々
大きくなっていくべきなのである。
3.
公務員の権力行使について
以上見て来たように、
「國家鍛錬」とは國家の意思決定が國民の共同意思のみならず、全世界
の人々の精神の「創造」の影響をも受けてなされるとする考えである。すなわちそれは、
「國家」
が國土と國民からなり、
「國家」の意思決定は國土の中に住む國民のみによってなされるとする、
伝統的な市民革命期以来の國民主権の考えを根底から揺るがす精神の大転換なのである。そーし
55
た「國家」の概念そのものの揺らぎを通じて、より良い人間精神に基づく社会を築いていく考え
が「國家鍛錬」と言う語に表されているのである。
こーした「國家鍛錬」は文字通り國家そのものが、常に全世界の市民の批判に曝され、
「鍛錬」
によって、全ての人にとってより納得できる政治的意思決定をなされる物でなくてはならない。
そこで、この意思決定を担う権力者である公務員の権力行使のあり方について見ていくことにす
る。
「公務員」とは、國家或いは地方公共団体の公務を行う者であるが、彼らの多くは難関の公務員
試験を勝ち抜いてきたエリートである。すなわちこのよーな勝者が國家の意思決定に大きく関わ
るのである。そうだとすれば、勝者=独占資本の教えに染まったシャイターンの使いである彼ら
に、真の敗者となるための純粋な克己鍛錬のみを目指す意思決定を求めることは出来ない。しか
し一方で、こーした穢れた【愛】に染まった現在の公務員達を全て更迭し、純粋な敗者がそれに
取って代わる一種の共産主義革命を起こしても、結局それは敗者が敗者に徹する克己鍛錬と異な
り、勝者への道を目指す【愛】へと堕するのである。特権階級たるノーメンクラトゥーラの【愛】
へと堕した末期のソヴィエト連邦を見ればそれはわかろう。だからあくまで勝者である公務員が
最終的な國家の意思決定に大きく関与するのはやむをえない。つまり、國家の意思決定は悲しく
も、本質的に【愛】への堕落から逃れられないのである。わかり易く言えばこーいうことである。
「公務員」は勝者を目指し、競争で打ち勝ってきた。(試験や選挙等)者がなるのであって、その背
後には、独占資本が生み出した金の力がある。金がなければ試験勉強などできないし(自分で稼
いだ者も金からは逃れられない。) 、選挙にも勝てない。こーした独占資本という巨大なシャイ
ターンの援護により、金や権力を求める【愛】の思想を植えつけられた「公務員」たちは、國家へ
の【愛】である國益に忠誠を誓い、職務を行うことを強制される。
こーして公務員達は、好むと好まざるとに拘らず、國家への奉仕のための國家意思決定を行うこ
とを職務上の至上命題として課せられるのである。すなわち、公務員達は皆原罪(カルマ)を負
っている。自分個人がいくら精神の理想を目指そうとして克己鍛錬に励んでいても、しかし、
「公
務員」という地位にある以上、國家への【愛】という1つのフィクションからは逃れられず、精
神の理想とは異なった國家意思決定をせざるを得ない運命にあるのである。
こーした運命から逃れるため、「公務員」という制度を全てなくしてみてはどうだろう?敗者
である一般市民が、自らの手で互いに精神の理想を目指して結びつく精神と精神の邂逅による共
同体を作る。國家など全くなくても、高い理想を目指す克己鍛錬を行うための精神の交流のみに
よって得られた精神の「創造」が、直接あらゆる人々の精神に訴えかければ、精神の理想に満ち
た世界ができるのでは?確かに、そーなれば素晴らしい。しかし、世界にはシャイターンがいて、
シャイターンは人間が肉体を持つ限り永遠に滅びない。いくら人間が克己鍛錬に励んでいても、
そのシャイターンの働きかける風は、実は肉体を持つ人間には永久に冷酷なままなのであり、そ
ーした肉体を持つ物質世界は、精神の理想郷とはなりえないからなのである。
それはつまりこーいうことである。人間は肉体を持っており、他の生命の生贄を食べなければ
生きていけない。生贄を食べることで人間は他の生命に「勝利」するようシャイターンによって
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仕組まれた「原罪」
(カルマ)を負っているのである。こーした「原罪」を払拭し、個人が精神
の理想を目指すため、個人は、断食や礼拝を通じて生贄に対し感謝を捧げ、徹底して遜る敗者と
なる、精神の鍛錬(克己鍛錬)を行うのである。しかし、いくら精神の鍛錬をしていても、この
世に生きている限り肉体は滅びない。そして、人間の肉体はいわばシャイターンの体から分かれ
てできていて、生命の犠牲なくして存続しえないから、現世において人間は、どーしても徹底し
た敗者となることができない。そして、精神鍛錬の途上で死に至るしかないのである。こーした
鍛錬の途上にある全ての現世の人々の精神は、どれもこれも全て本質的なシャイターン性を有し
ており、存在しない筈の【愛】へと堕する傾向を有している。だからどーしても現世の人間は、
理想の精神の共同体を築き上げることは出来ないのである。
このよーに、人間が本質的に生命の犠牲を要求するように、シャイターンの体から分かれて出
来た國家もまた、生命の犠牲を要求する。すなわち、國家は、國民がシャイターンにもらった体
の中から生み出した血液であるところのお金(血税)なくしては機能することが出来ないからな
のである。こーして、國家に対し「血の犠牲を払う國民に対し、克己鍛錬によって徹底した敗者
とならん。」と遜った「公務員」達は、
【愛】の血税を払った國民に対し感謝する。そして、血税
を、まさにその、犠牲を払った國民のためのみに使わんとする、國民への【愛】を生ずるのであ
る。以上のようにして、公務員の権力行使は、
「原罪」として負っているそのシャイターン性に
よって、真の精神の理想からは歪められざるをえないのである。
こーした「原罪」をこの世で滅ぼすのは不可能である。せいぜい世界の終末がやって来るか自分
の肉体が滅びた時のみである。だから、権力の行使者は、こーした「原罪」を常に自覚し、
「原罪」
のもたらす【愛】への堕落に溺れないよーに、注意しなければならない。克己鍛錬をしているつ
もりが、共同体への【愛】という堕落のもたらすひねくれ過程の渦中に溺れ続けないよーに、自
ら常に精神を磨いてゆかねばならないのである。そーしなければ、國家の意思決定は米國の多く
の政治的意思決定のよーに、他國の人々を無視し、奴隷扱いする歪んだもの=人間精神の進化と
は反対の物となってしまうのである。
4. 「國役」の登場
今まで述べてきたことは、「國益」が精神の理想と方向性を逆にする場合の話であるのだが、一
方で、國益と精神の理想は方向性を一にする場合もある。それは、共同体である國家に対する【愛】
が、全世界のあらゆる人々に対する【愛】も生み出すと妄信することではない。堕落によるひね
くれ過程を経由した國家そのものが、國家の精神の進歩を目指し始めようとしたとき、【愛】の
代替語であった「國益」は、全人類的な人間精神の進化を目指す「國役」へと代わっていくので
ある。こーした「國役」は注意しなければすぐに「國益」へと堕してしまう。しかし、國家が自
國民を超えて全ての人々の精神の進化をもたらそうとし、その「國役」を目指す國家精神が他の
國家の精神との交流をもたらしたとき、本質的に「原罪」を抱えた他國の精神と自國の精神とが
互いに堕落からひねくれ過程を経由した人と人との精神の交流と同じよーな形で結合し、
「創造」
を行う。そーして、
「國役」と「國役」が真の精神の交流に基づいた國家と國家の新しい関係を
57
築いてゆくのである。
では、
「國役」とは一体何なのか?それは①自國の役に立つ、②他國の役に立つことである。
すなわちこれは、「國益」のよーに自國の利益のみを考えるものでもなければ、他國に【愛】を
与えれば、きっと他國の中にも【愛】が生じるに違いないという【愛】に基づく援助活動のこと
でもない。それは、國家と國家が自立した個人と個人の関係のように、お互い依存し合うことな
く互いに精神の理想を求めて結びつき合い、より良い「創造」を行ってゆく営みなのである。例
えばある A 國と B 國が互いに國家への【愛】を実現する國益のため、核兵器の開発競争を行っ
ていた。ところが両國とも競争に疲弊し、國内の経済を圧迫するよーになり、そのことが却って
「國益」を害するよーになった。のみならず、こーした兵器の増産は【愛】の力で他國の人々の
命までも脅かす、人間精神の進化とは正反対の行動である。そのことに気付いた A 國と B 國が
互いの國の役に立つ方策として、対等な立場で核兵器全廃条約を「創造」する。こーした「創造」
が「國役」のために生じるものなのである。これに対し、今の日米安全保障条約は、シャイター
ンの國米國と、その半植民地たる日本國との間の、互いの歪んだ【愛】に基づく相互依存の条約
である。すなわち、日本國は、米軍に対し、その一部の地域の人々の基本的人権すら否定した米
軍人への献身的な【愛】を与えれば、きっと米國も日本國への【愛】を生じ、日本國を核兵器の
力で守ってくれるに違いないとの希望に、國家を全面的に委ねるものである。これは、「國益」
に支配された堕落の成果であって、
「國役」を目指す國家鍛錬とは全く方向性を異にするもので
ある。(但し、現時点では、米國からの攻撃を避けるためやむをえないのだが。)
5.
敗者を目指す國家
以上述べてきたよーな、
「國役」を目指す國家がその國家鍛錬を目指す、國家精神の進化の方
向性とはどんな方向か?それは今まで長く述べてきたよーな、人間精神進化の方向性と軌を一に
する。つまり、人間精神の進化の方向が、敗者となる方向にあるよーに、國家精神の進化の方向
性も敗者となる方向にあるべきなのである。その理由を述べるため、以下、近現代の世界情勢に
ついて少し長く見ていくことにする。
世界の國々は、18~19 世紀以降、國民國家の樹立に向けて動き出す。その中で、國家は民族
の誇りを精神的支柱として求心力を発揮し、國民の愛國心の育成を通じた「國益」追求のための共
同体となっていく。こーした「國益」追求の共同体は、個人のその周囲の人々(家族や友人)への
【愛】を、國家への【愛】へと拡大して、その共同体と共同体外部の人との明確な差別化をもた
らした。その結果、國家は「國役」のため、つまりは自國民への【愛】をもたらすため、他國を
兵器で踏みにじり、軍事的・経済的に侵略するよーになる。(19 世紀末の帝國主義の到来)このよ
ーな共同体への【愛】を説く思想は、【愛】を自國民のみに与えること、言い換えれば自國民の
他國民との比較下での軍事的、経済的、更には精神的勝利を目指すものとなっていった。こーし
て、各國、特に欧米列強は、あらゆる分野での勝利を目指して互いに競い合い、その中でも特に
軍事力を中心にした勝利が他のあらゆる利益の根本になると考え、軍備増強に励んだのだった。
やがて、このよーな軍事的対立が全世界を巻き込んだ 2 度の世界大戦を引き起こし、何千万と
58
いう人命が奪われた。けれども、大戦の勝者たる米ソは、更なる勝利を目指して冷戦という軍事
競争を行う。他方、軍事力の戦いに負けた日本やドイツ(旧西ドイツ)などは、今度は経済におい
て勝利せんと、経済戦争に突入していった。そーして経済戦争に勝利していった日本やドイツな
どは、軍事力でなくても、独占資本の力で他國の富を奪うよーになっていった。これは一面で國
民の豊かさをもたらしたが、他面で精神の貧困と國家間の格差の不平等をもたらしたのであった。
そして、東欧革命と共に冷戦が終結すると、世界で唯一の軍事大國となった米國は、湾岸戦争を
契機に、軍産複合体の中で培われていた技術を米國民の間に移植し、IT 革命を引き起こすこと
で経済的に他國を圧倒し、揺るぐことなき世界最大の超大國となり、世界中の殆ど全ての富を独
占するに至ったのである。
こーして今、市民革命・産業革命以来続いてきた全世界の國家間の軍事・経済戦争の中で、かつ
ての英國以来の全世界を支配する、世界の覇者の國が生じたのである。その覇王が今、シャイタ
ーンのもたらす独占資本と軍の【愛】の力で以って、いわば魔王となって敗者となった他の人々
の富をむさぼろうとしているのである。(例えば 1999 年のアジア金融危機等はその一例である。)
こーした魔王の力に対し、敗者となった他の國々は手をこまねいているわけではない。ヨーロッ
パ諸國は覇権を再び自らの手に戻さんとして EU を結成し、米國と戦っているし、中南米の左
派政権は反米同盟を世界に広めんと中國・インド・イーラーン等との連携を深めている。
これに対し、日本國は米國に比し人口も面積も何もかも小さく、到底対抗するのは無理である。
相互不信の強い中國・韓國等と再び「五族協和」を目指すかのよーな経済共同体を結成するのは
無理である。また、他のアジア・アフリカ・オセアニア諸國も、いくら結合して戦っても、軍事・
経済更には科学の力も独占する米國に対して勝ち目はない。つまり、世界の多くの國々は、殆ど
の点で、最早米國とまともに戦っても勝つことは出来ないのである。それでもどーしても「勝ち
たい」という、勝ちに対する飽くなき欲望は、自己の属する國家や民族や宗教への歪んだ【愛】
を引き起こす。そーして、無関係な人々を殺すテロルを引き起こすのである。そして、米國によ
るその報復とそれに対する更なるテロの繰り返し…、その【愛】に基づく勝利への限りない執着
がある限り、國家も國民も永久に幸福にはなれないのである。だからこそ、國家は勝利を目指す
べきではない。國家が勝利を目指すことは、國民に対し【愛】を与えることを目指すことであり、
國家が國民のため他國から【愛】を奪うことに繋がるのである。
それゆえ國家は敗者となる道を選択する。けれども、それは自國民に対し貧困を強いる道では
ない。むしろ、他國との無益な競争(例えば軍拡競争や労働者の権利剥脱競争や法人税の減税競
争等)や搾取を廃し、他國と対等の立場での「國役」を図る道なのである。例えば、他國におい
て日本の企業と他國民が共同で事業を行う場合には、その事業がやがてはその國の人々だけでも
立ち行くよーになるよーな方法で行うべきである。そして、そーなったとき、利益の何%かを技
術権料のよーな形で技術を提供した企業に返すよーにすれば、相利共生が図れるのである。また、
全世界的な取り組みが必要な環境問題とかについては、それを放置することが目先の「國益」と
はなっても、結局後でゴミ置き場がなくて困ったり、多くの國民が病気になったり…という問題
をもたらすこともある。そーなると、却ってコストがかかることになる。直接自國民に利益をも
59
たらさないからといって放ったらかしにしていると、後になって自國に必要な何らかの協力を得
られなくなることもある。このよーに、どこまでも勝利を目指す國家ではなくて、ある意味「敗
者」となって他の國々と対等な立場で共存していく國家の姿こそ、
「國役」の実現に至る、國家
鍛錬の行き着く先なのである。
第3節
超國家の共同体
以上、第 1 節では主に日本を中心とする國家のあり方や國家精神のあるべき進化の方向性を
述べてきた。ここでは、國家を超えた共同体のあり方、そしてその進化の問題について見ていく
ことにする。
一
民族の
民族の共同体について
共同体について
民族とは「同一の人種的並びに地域的起源を有し、または有すると信じ、歴史的運命および文
化的伝統、特に言語を共通にする基礎的社会集団」(広辞苑)をいう。こーした民族は主に近代以
降の國民國家を目指す運動の中で中心的な役割を果たしてきた。つまりそれは自分たちが「同じ
もの」と感じられる【愛】を与え合う集団として國家形成の基軸となっていたのである。ところ
が、そのよーな民族は、必ずしもある特定の地域の中に限定されたものとは限らないことから、
國土と國民を持つ「國家」の中には様々な「民族」が共存するようになる。しかも、第 2 次世界大
戦後独立した多くの國家が、帝國主義時代に欧米列強が引いた分割統治のための國境線に縛られ
て独立したから、その問題は益々深刻化するよーになる。こーして「民族」は國家との深刻な不一
致を引き起こし、國家内での民族間の激しい内戦を引き起こす一方で、國家を超えた民族の団結
の動きが中東戦争等局地戦争の一因ともなった。すなわち「民族」は、
【愛】を与え合う集団とし
て成立したものだから、集団外の他の「民族」を【愛】の蚊帳の外に置く考えに繋がっていくの
である。そして、本来は存在しない筈の【愛】と結び合った1つの共同体は、自分たちの共同体
成員に対してだけ排他的な【愛】を与えようと、こーした【愛】の共同体の邪魔をする他の共同
体に対して【愛】のための聖戦を挙行するようになる。【愛】の聖戦を受けた他の共同体は、そ
のシャイターンに吹きかけられた【愛】の力を受け取って、自らの共同体成員の中に対しても同
じよーな【愛】を生ずる。こーして、「私が他人を【愛】すれば、きっと他人の中にも【愛】が
生じるに違いない」とする深い深い【愛】を植えつけることになるのである。つまりそれは、共
同体への【愛】のため、徹底した自己犠牲を行う一億玉砕や人間魚雷或いは自爆テロを引き起こ
す大きな契機となるのである。
以上のよーに書いてくると、
「そんなのは【愛】ではない。
【愛】は全ての人を兄弟と考えるの
だから人殺しなど容認しない。
」としてこの意見に反対する人もいるだろう。果たしてそれは正
しい反論か?思うに、元来【愛】はある共同体―最も基本的には、男女・家族・友人―に属する人
間で、共同体外部から差別化する教えである。そうだとすれば、こーした人への【愛】を守るた
めには、
【愛】を打ち砕く他の力と戦い、勝利しなければならない。いくら全ての人を【愛】し
ようと思っても、目前にいない他の國の人や目前にいても他の言葉をしゃべり、自分たちとうま
60
く意思疎通できない人に対し、自分と生活している人と同様の【愛】を生じることは無理なのだ。
しかも、その人々が自分の【愛】する身近な人々の命を危険に曝している人々ならなおさらであ
る。仮にそんな【愛】を生じたとしても、それは先に述べたよーに、自己が他の人に対して【愛】
の喚起を願う他力本願に基づく思想であって、克己鍛錬とは逆の方向性を持つ物である。だから
やはりそれはシャイターンに吹きかけられた【愛】なのである。一方、こーした【愛】に基づく
共同体間の民族の飽くなき暴力の応酬をやめさせよーとする人々がいる。彼らは【愛】のための
戦いが、自分の【愛】する家族や友人の命を奪い、却って自分たちの【愛】の共同体を破壊する
ことに気付いた。そこで、
【愛】のために【愛】のための戦いを停止するのである。ところが、
そのよーな【愛】に基づく停戦に対し、なおも【愛】のために戦おうとする人々がいる。こーし
て、同一の【愛】に基づいて成立していた共同体の中で、違った形での【愛】に基づく対立を引
き起こし、その結果、自己犠牲という形で【愛】が【愛】を打ち滅ぼすことになったのだ。こー
して、【愛】のための戦いは、イスラエルとパレスティナの果てしない軍事的侵攻とテロの応酬
を引き起こし、更にはこーした対立の 1 つの原因ともなっている、独占資本教団総裁米國への
攻撃、米國の反撃という、泥沼の戦争状態をもたらしている。
これらは全て【愛】に対する果てしない欲望がもたらしたものである。すなわち、自分を【愛】
してくれるよーな家族や友人に囲まれて生きていきたい、そーした【愛】に対する果てしない欲
望が、【愛】をもたらさない【愛】の蚊帳の外の人々=共同体の外部の人々への果てしない憎悪
を生み出す。こーした【愛】は、シャイターンの吹きかけた堕落の風によって、人間精神の進化
が恒常的な堕落の過程=ひねくれ過程に陥れられることにより生じた物である。しかもそれは、
二重・三重…、幾重かわからないくらいにぐじゃぐじゃにひねくれて絡まりあって、どーにもな
らなくなっているのである。
【愛】のため戦いあった「民族」は、互いに多くの死者をもたらす。そして互いに自分の【愛】
していた家族や友人を殺された恨みから逃れることはできない。互いの「民族」の成員はこうし
てその心の中に一生消すことはできない傷を抱えて生きていくことになるのである。しかも、そ
の傷は余りに深く大きいから、心の DNA まで変形されてしまい、自分の肉体が滅んでも消える
ことはない。自分の心の傷を知った、同じ共同体に属する他の成員、特に自分の子孫の心の中に
も、何世代にもわたって傷を再生し続けていくのである。こーした傷は、とてつもなく痛くて、
傷を抱えて生きていくことすら苦痛である、そんな無間地獄をもたらす。だから、傷の痛みから
逃れたいと思った人々は、再び傷を癒してくれる【愛】にすがろうとする。こーして一旦共同体
が、固執せまいとした【愛】の思想が再び復活し、「愛國心」の名の下に、再び民族紛争を引き起
こすのである。(例えば、バルカン戦争後数十年経って生じたユーゴスラヴィア紛争等)
以上のよーに考えてくると「民族」は【愛】への堕落をもたらす最大の元凶となっているとも
考えられる。そしてそーであるならば、この地球上から全ての民族を一掃してしまえば良いよー
にも思える。しかし、それは不可能である。というのも、「民族」を考える上で、決して見過ごす
ことの出来ない「言語」という問題があるからなのである。最初に示した定義にもあるよーに「民
族」を結びつける最大の特徴は、言語による結びつきである。それは、すなわち、何ヶ國語も出
61
来る人を除いて個人が自らの考えを伝達し、相手も自分に伝達することで、直接的な相互交流を
可能とする範囲でほぼ重なるからである。こーした問題は、個人が何ヶ國語も話すよーになるこ
と、或いは世界共通語を話すことになることで、解決されるよーにも思える。
けれども、現在世界共通語となりつつある英語は、独占資本と軍事力で世界の魔王となった英
國・米國の公用語であって、他國のこの言語に対する反感はまさに言語を絶するものがある。一
方、エスペラント語は、人工語であるので使いにくい上に、西洋語であるラテン語を基礎として
おり、やはり反感を禁じえない。また、仮に世界共通語が存在したとしても、人間はまず生まれ
てすぐに習得した母國語を用いて思考し、表現するのが通常であるから、こーした、言語を共に
する共同体は、個人の精神活動の素材を提供し、またその議論を伝達していく上でも第 1 義的
な重要性を有するのである。だから、言語を媒体とした「民族」をなくすることは無理であるし、
「民族」が國家の形成にとって重要であることも否めない。
ただ、そーだとしても、「民族」が【愛】へと堕してしまわないよーにするためには、どーすれ
ば良いだろう。以下、その方策についていくつか述べよう。
1.
他民族の精神活動に敏感となる。
自民族への【愛】のみを説く著作ばかり読んでいてはいけない、他民族の人のことも考えた著
作、或いは他民族の著者による本も多く読むことが大切である。もっとも、原典から読むのは大
変なので、多くは翻訳からということになるが、たとえ翻訳であっても他民族の人が書いた本に
は自民族の人が書いた本に欠けている穴―それは自民族の心の傷にポッカリと開いた穴と同じ
―を埋め合わせてくれる何がしかのヒントがあるのである。
2.
他國語を学ぶ
そーして、他民族の人が書いた著作を読むよーになったら、今度は他國の言葉を学ぶことであ
る。他國の言語には、自國の言語にはない文法や発想があり、そこから多くの思考のヒントを与
えられる。また、他民族の言語を学べば、その言語で著された著作を読み、そこからいろんな情
報や思考を引き出すことが出来るよーになる。もっとも、それは注意しなければ、一種の欧米礼
賛論に堕してしまう虞が生じる。一見して全てにおいて進んでいるかのような米國、或いはヨー
ロッパの著作や思考ばかりに目を奪われ、自民族の優れた文化的「創造」を軽視することにもなり
かねない。また、或いは欧米と自民族の比較ばかりして、他のアジア、ラテン・アメリカ、オセ
アニア…での諸民族の思考を軽視することにも繋がりかねない。だから、出来るだけ広い地域の
多くの言語を学ぶことが大切なのである。(とはいえ、それは難しいが)
3.
偏見をなくす
以上のような、他民族の人々の精神活動や言語にいくら敏感となっても、それらに対して偏見
を持って接していたのでは、そこからその人間精神の発展へと寄与する叡智を汲み取ることが出
来ない。例えば、近代欧米人の手になるアラビア語文献の翻訳・解釈等には、欧米人以外の人々
の思考を偏見により、劣ったものとみなしていくオリエンタリズムの痕跡が窺えるのである。こ
ーした偏見をなくし、全ての「民族」の人々の著作、或いは精神活動の成果を、等しく自己の精神
の発展に寄与するものとして受け入れようとすることこそが、
「民族」への【愛】からの解放に、
62
大きく役に立つのである。
もっとも、偏見をなくすためのこーした作業は、とても手間や時間を要するものであり、日頃
の仕事が忙しい多くの人々は、こーした克己鍛錬を行う暇を持たないのが通常であろう。そこで、
そーした人々は、断食や礼拝等を通じて自己を少しでも内省し、センセーショナルな言葉で共同
体への殉死を迫る政治的指導者の言辞に惑わされないよーにすべきである。そして、
【愛】への
執着を去った、真の人間精神の進化を目指す、個人の精神を絶えず確認し続けねばならないので
ある。
このよーに、「民族」を【愛】へと堕落させないために、いくら個人の克己鍛錬を求めても、限
りがある。というのも、人間は堕落しやすいものであり、全ての人に同時に克己鍛錬を迫るのは
至難の業だからである。そこで、「民族」が【愛】へと堕落しにくい制度を創設することが必要と
なる。すなわち、具体的には、國民と國家により形成される主権「國家」を國民と國土に分離し、
「國家」が國民のみを支配する制度を部分的に導入することである。具体的に言えば、イスラエ
ルとパレスティナは聖地エルサレム(アル・クドゥス)を巡って対立していて、いずれもエルサレ
ムを分割不可能な首都としている。そこで、エルサレムを分割せずに、両國家の共同首都とする
と共に、首都の支配権を國家ではなく國連に託すのである。こーしてエルサレムに住む人々は
各々イスラエルとパレスティナのどちらに帰属するか自ら選択すると共に、そこにある人々の土
地や財産などは、國連の支配に属し、それらに係る税金も國連の特別基金に納められる。そして、
一部を、國連によるエルサレム支配のために使うと共に、納税額と人口の比を勘案して、イスラ
エル、パレスティナ両國家に分配するのである。こーした制度は、ユダヤ人とパレスティナ人の
居住地が入り組んだ他の都市においても用いることができ、これによって土地を巡る「民族」と
「民族」の紛争の発生を緩和することができるものと考える。(但し、現在の状況ではそれは極め
て困難であるが。)
二
宗教の
宗教の共同体について
共同体について
以上、民族の共同体について見て来たが、民族の共同体は宗教と結びつくことで、よりその求
心力を強める。また、
「宗教」は「民族」を超えた広がりを持ち、大きな、世界的な共同体意識を
も生み出していく。ここではこーした「宗教」の共同体の問題について考えていくことにする。
「宗教」とは、神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗な物から分離され、禁忌された真
正なものに関する信仰・行事またはそれらの連関的体系を言う。(広辞苑)こーした「宗教」の起
源がどーいったものかは定かではない。ただ、それが先史時代からずーうっと人間精神の発展に
寄与し続けてきたことは確かであろう。
ところが、
「宗教」の一部はあるときから「民族」と結びつく。そして、「民族」の発展を期すイ
デオロギーとなって、その精神的支柱として語り継がれるよーになる。一方で、宗教の一部は【愛】
と結びつき、「汝の隣人を【愛】するよーに、全ての人を【愛】せよ。」と言うよーになる。こー
した宗教の二面性は、一見すると前者から後者への発展と言う風に単純に捉えられがちだが、そ
れは必ずしも正しくない。全ての人への【愛】は、本質的に全ての人が【愛】を生じて欲しいと
63
いう他力本願の思想を内在するのであって、他人への強い要求となって現れるからである。こー
して、全ての人の心の中に【愛】を生じさせよーとする救済宗教(キリスト教やイスラーム教)は、
他の宗教との多大な摩擦を引き起こしてきたのだった。そして、こーした【愛】を生じさせよー
とする宗教の中にあって、民族主教は多大な迫害を受けることになったのである。こーした迫害
の中で、民族宗教はその「民族」への求心力を益々強めていくよーになる。「我々はその「民族」
のゆえに迫害されている。しかいし、いずれ我々は民族への【愛】への信仰の力で勝利する。
」
まさに、
【愛】というキリスト教の思想がユダヤ人たちの中に自民族への強い【愛】を生み出し
たのだった。こーした【愛】はヒトラーによる数百万人にのぼるユダヤ人虐殺により徹底的にな
った。強制収用所から生還した人々は行く当てもなく、「カナン復帰」という自民族への【愛】
の理想の下、辛うじて生き永らえることが出来たのだった。そして、第 2 次世界大戦後、パレ
スティナのハイファの港に着いたユダヤ人達が、イスラーム教徒やキリスト教徒のアラブ人の住
む地に自民族のみへの【愛】に基づくイスラエル國家を建設した後、現在まで続く激烈な紛争に
ついては周知の通りである。
以上のよーに、宗教が【愛】を教えとし、
【愛】と結びついている以上、
【愛】の勝利を目指す
泥沼の戦いは終わらない。だからこそ、
【愛】はない、そう割り切るべきだとわしは考える。で
は、キリスト教やイスラーム教の教典に現れる【愛】とはどう考えるべきか。宗教の教えが間違
っているとでもいうのか?二十数億人の信者を前にまさかそんなことは言わない。すなわちそれ
は、わしが克己鍛錬を通じ、想像力によって、
「『自分がそー言う目にあったら・・・』ということ
を想像せよ。」という教えを短く言った言葉に過ぎない。だから、これらの宗教の説く元来の【愛】
は、我が克己鍛錬とさほど離れていないことになる。ところが、時を経て【愛】と言う言葉だけ
が 1 人歩きした結果、現在のよーに、米國独占資本の価値と結びつき、異なる共同体同士の「勝
利」への戦いの正当化理由へと変質してしまったのである。そこでわしは、かかる危険を有する
【愛】を徹底的に否定し、あくまでも克己鍛錬をすべきと考えるのである。
三 経済の
経済の共同体
以上のよーな、「民族」や「宗教」の共同体ではなく、國家と國家が互いに経済活動を共にする
ことで共に豊かになることを目指す新たな動きが今勢いを増している。(例えば EU とか)こーし
た動きは、シャイターンのもたらす「金」の力で自らの國或いは國家共同体の枠内だけでの豊かさ
を実現する方向にも進みうる。反面、その結合があらゆる國々に対して門戸を広げていれば、國
と國とが相互に役に立つことを目指す「國役」の実現を全世界に向けて広げることにもなりうる。
いわば、両刃の刃のよーなこの動きを今後いかなる方向でより良い方向へと導いてゆくべきなの
かを考えてゆくことにする。
まず、現代的意味での経済の共同体は、歴史的には植民地主義の時代に遡る。すなわち、帝國
主義諸國は、自らの「國益」のために、植民地と本國を経済共同体として一体化したシステムの中
に組み込むことで、植民地の安価な労働力で多くの物を大量生産し、本國を、物で溢れた國とし
たのだった。(ブロック経済体制)その一方で、搾取された植民地の人々は、そーしたシステムの
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シャイターン性を見破り、「民族」への【愛】を求心力として独立戦争を起こし、自國の独立を勝
ち得て来たのだった。
しかし、そーした國々は独立後も多く独占資本の圧力に苦しむことになる。すなわち、資本力
に勝る、いわゆる先進國の企業には独立したての未だ経済基盤の弱い國の企業は太刀打ちできず、
次々と「先進國」の企業の経済的支配力に屈していったのである。これに対して、企業進出を規制
し、民族資本の育成を重点化しようとした國々もあったのだが、そーすると「先進國」からの経済
援助(先進國の、自國の「國益」のための借款という形を採る)が途絶え、「先進國」と益々貧富の差
が広がり、多くの人々が飢えるのである。そこで、こーした貧しい國の立場に置かれた、南北問
題で言う「南」の國々は、結束して「北」の諸國に対抗しようとする。そーした動きがアジア・ア
フリカ会議や非同盟諸國会議を通じた貧しい國々の結束となって現れたのである。けれどもこー
した動きは、「南」の國々の内部の亀裂とも相俟って次第に低下していく。すなわち、同じく経済
力を持たない「南」の國々の中で、経済力はないが多くの資源を持つ國と、経済力も資源もない
國々との軋轢が生じてきたのである。こーして、資源を持つ國(例えば産油國等)は、その資源を
先進國に売り、対価としての金を受け取ることでどんどん経済発展していく。(その典型が、國
民全て免税のアラブ首長國連邦等)他方、資源も金も持たない國は、独占資本進出のための借款
を背負わされて、しかもそれを返すために新たな高利の借款を背負わされ、ますます疲弊してい
ったのだ。こーして、借款を返せなくなり、國家が破産宣告(デフォルト)しようものなら、(例え
ば 1981 年のメキシコ危機等)シャイターンの國米國が、軍事力をちらつかせてでもそれを阻止
するのである。しかも、更に悪いことに、こーした不良債権は、独占資本がその利息で十分腹い
っぱいになった後、割り引かれて、先物取引の商品である債権スワップとして、更に投機家に売
られるのだ。そして、マネー・ゲームの商品として、世界の資本家の間を今もぐるぐる回ってい
る訳なのである。
以上のよーな状況の下、
「先進國」は更なる富を求めて結びつくよーになる。こーして、EC(ヨ
ーロッパ共同体)→EU(ヨーロッパ連合)や NAFTA(北米自由貿易協定)などが成立し、また、
「南」
の中での勝者もまた共同体を結成する。例えば産油國は OPEC(石油輸出國機構)や GCC(湾岸諸
國会議)を結成し、1980~2000 年代にかけて、高度経済成長を達成した東南アジア諸國は
ASEAN(東南アジア諸國連合)の拡大により、その結びつきを強めたのだ。
このよーな國々の結びつきは、確かに経済的富を求めて結びついているという点で、シャイタ
ーンの風に吹かされた【愛】の結びつきであるとも言えよう。しかしそれは、第 2 次世界大戦
前の本國と植民地の結びつきであるブロック経済の結びつきと本質的に異なる点を有する。つま
り、これらの結びつきは、主従の関係ではなく、各國が対等なものとして結びついているもの、
言い換えれば、
【愛】への堕落を「原罪」として内包しつつも、國家鍛錬の理想を目指す、國家
と國家の「國役」のための結びつきへと至る可能性を有するのである。だからこそ、わしらはこ
のよーな「國役」を実現する共同体の結びつき方を模索していくべきなのである。それは、具体
的には以下のよーなものである。
1.まず、國家と國家が軍事力・経済力・人口の格差なく対等であること。
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つまり、國家が自國のみへの【愛】に堕し、強力な國家がリーダーとなり続け、他の國々を支配
するよーな構図へと至ってはならない。それは、シャイターンの思う壺である。だから、全ての
國が対等なものとして、出来る限り全会一致の決議により共同体の意思を決めるべきである。
2.共同体の外部を志向すること。
國家と國家が共同体を作るとき、その共同体に【愛】が芽生えたと錯覚する。特に、地域的、歴
史的或いは民族的共通性を有するこーした共同体は、その内部での【愛】を生じやすい。しかし、
【愛】へと堕落することは、共同体の外部の國々や人々を、自分たちへの【愛】の道具としてし
まう危険を有する。つまり、外部の國々を搾取の対象としてしまうことになるのである。こーし
た危険をなくすには、【愛】への信仰を捨て、あくまで國家鍛錬に徹した國家の意思と意思によ
り、共同体の意思が形成されることが大切なのである。國家鍛錬では、先述のよーに、國家外部
の人々の意思も「公論」として國家意思形成に反映される。超國家の共同体の場合にもこれと同
じことが言えるのである。
3.人間精神の進化を目指すこと。
人間は金なしては生きられず、國家も共同体もそうである。けれども、そーした中でも個人は常
に克己鍛錬を目指すべきだから、個人の意思の集合した國家や共同体の意思も、國家鍛錬を通じ
て個人の克己鍛錬に資さなければならない。すなわち、個人・國家・共同体はいずれもがその相
互の精神の進化に寄与することで、全体的な人間精神の進化(全体主義ではない)に寄与すべき
なのである。だから、経済共同体もいずれは精神の共同体へと進化して、金ではなく、精神によ
る物の売買へと至る進化の道筋をつけるべきであろう。その端緒となるのが、利子を生じない貨
幣であるところのエコ・マネーの導入である。これはその筋の専門家の著書で詳述されているの
で、わしはここでは改めて述べないが、エコ・マネーの広がりを通じていずれは貨幣のない精神
の互換による売買が成立するのが望ましいのである。(まあ、それには、まだあと 1000 年くら
いはかかりそーであるが。)
四 人々と共同体との
共同体との結
との結びつき
以上、様々な超國家の共同体について述べてきたが、人々はこーした共同体に幾重にも帰属し
ている。こーした共同体はいかなる形で結びついていくべきなのか?思うに、こーした共同体は、
定形を持たず、あちこちにモザイク状に存在してみたり、移動したり、ある地域に結集していた
り、いうなれば、アメーバのよーな形で世界中に展開し、動き回っている。つまり、共同体は、
静止した精神ではなく、動く精神として「よどみに浮かぶうたかた」のよーに、常に「とどまる
ことを知らない」のである。とすれば、
「うたかた」は、夢のよーにはかなく消える運命にあっ
て、虚しく結ぶものであり、そーした共同体が精神によって結びつき合うことも「うたかた」の
よーに儚い一瞬のものとも思える。
しかし、「うたかた」は、常に流れる川の水の中で生まれるものである。すなわち、常に川の
上流から流れてくる新たな精神の水から、常に精神の進化を目指して生まれ出る。そして、一旦
結んで消えた「うたかた」を構成していた水は、下流でまた新たな「うたかた」を作っては消え
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る。こーした「うたかた」の生成は、精神が結合して何か「創造」しよーとするときばかりでは
なく、堕落によっても生じる。特に、下流に行けば行くほど腐った工場排水やゴミで汚れた水は、
多くの堕落した「うたかた」を生ずるに至る。けれども、そーした、シャイターンに魅入られ、
【愛】の「原罪」を冠せられた水は大海へ出ると自然の浄化の力で綺麗な水になる。そして、大
海の水はある満月の夜、大きなうねりを生じ、怒涛となって川を遡っていくのである。
第4章
人間精神の
人間精神の進化・・・
進化・・・精神
・・・精神と
精神と社会の
社会の理想=
理想=純潔
本論を通じ、わしは、一貫して個人から國家、そしてそれを超えた共同体に至るまでのあらゆ
る【愛】を否定し、
【愛】を超えた精神の進化を求めるべきことを説いてきた。こーした精神の
進化の行き着く先はどこにあるのか?本章では、そーした、人間精神の進化の方向性と目的につ
いて見ていくことにする。
第1節
人間精神進化の
人間精神進化の方向性
前章までに述べてきたよーな個人の克己鍛錬、或いは國家の國家鍛錬、そして様々な超國家の
共同体、そーしたものを通じて、人間社会はいかなる方向へ進んでいくべきなのか?その1つの
方向性として、わしは「純潔」ということを考えている。ここで言う「純潔」とは、かつての性
教育の代替語であった純潔教育の純潔ではない。そーではなくて、
「心にけがれがなくきよらか
なこと。邪念や欲念がなく、潔白なこと。
」(広辞苑)を指す。
こーした「純潔」へと至るため、人間は、克己鍛錬を心がけ、國家もあらゆる共同体も日々鍛錬
を行うべきなのである。「純潔」は、勝つことではない。邪念を捨て、敗者となることを目標とす
るものである。個人も、國家も、共同体も、そーした徹底した敗者となり、他より優れないこと
を目的として、日々精神の進化に精を出すべきなのである。
このよーに書いてくると、それは一見向上心とは逆のものであるとも思える。しかし、それは
正しくない。「純潔」とは、日々堕落への誘惑と戦い克己鍛錬に努めなければ決して到達しえない
とてつもなく高邁な理想であるからである。すなわち、人間は、生きるために働かなくてはなら
ない。そして、そのためには、嫌でも様々な人と会ったり話さねばならない。そーいう束縛の中
で、人は金や名誉や権力ばかりを求めて、そーしたものを得た勝者を目指して生きている。「他
より優れる」ことを目指す飽くなき戦いが、全世界を自由競争の渦の中に巻き込んで進んでいる。
だから、そんな人々の作り出す社会の中に生き、そこで「純潔」を求めれば、必ずバカにされ、貶
められ、人間のクズ呼ばわりされて生きてゆかねばならない羽目になる。そして、心の中に限り
なく屈折した糸のもつれと誰にも相手にされない孤独とを抱え、1 人とぼとぼと、理想の道を歩
んでいくことになるのである。かかる状況に耐えうる精神を築き上げるのは生易しいことではな
いのである。
「こーした心の暗闇をジハードによって打ち砕き、再び勝利を目指さねばならない。
」―独占
資本の手にまみれた米國のある映画監督かジャーナリストかがこんなことを言っていた。すなわ
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ち、彼らのよーな自由主義の恩恵を受け、その勝利の栄誉に染まって生きる人々は、人間の心の
暗闇こそが克服すべき対象であって、飽くなき勝利を求める心はむしろ賞賛すべき明るい自由主
義への心、神の恩寵を得られる心なのだ。だから言う。「映画スターウォーズに現れる悪役ダー
スベーダーは、人間の心の暗い部分を意味し、それをやっつけて勝利する主役の何ちゃらは、人
間の心の明るい部分だ。」と。そして、これを古来の神話の「死と再生」のモチーフと同視するの
である。
しかし、少なくともこの映画を見た人の全てがそう思っているわけではなかろう。わしは、中
学生の頃、よくダースベーダーの役にならされてボコボコに殴る蹴るの暴行を受けたり、逆にダ
ースベーダーの役になった者にボコボコに殴られたりしていたが、その経験からは、こーした「勝
利」への追求こそが、人間の心に却って暗い影を落としているよーに思えるのである。すなわち、
成績・運動・芸術、あらゆる点での競争があって、そのうち1つでも良いから、何かずば抜けてい
ることを求める、そしてその才能が行き着く資本主義的成功への「神話」、こーした虚栄への誘い
が、これらのどの点でも「勝者」となれない者に、限りない心の暗闇をもたらしているのである。
こーした者に対し、
「勝者」は、それでも鞭をふるって勝ちを求めよーとする。自らの成功を
正当化するための虚栄に満ちた世界の映像を、フィクションの形で作り上げる。こーして現代の
「神話」である映画や数多くの娯楽が作り上げられたのである。そこで、そんな「神話」に染まった
敗者達は、勝ちを求めてどこまでも進むよーになる。どーしても勝てない者は、更に弱い者に対
し、集団で暴行を加えて勝利の虚栄を感じるのである。しかも、彼らは自分が敗者であるという
劣等感を人一倍強く感じているから、自らが悪役となって、「悪が善を滅ぼす」遊びを作り出す
のである。そして、そんな中で多くの人が傷つき、実際に殺されていった。それでも、飽くなき
勝利を目指す人々は死者を敗者と決め付ける。特に、自殺した人に対する人々の目はとてつもな
く冷酷であるので、死後も自分の心に傷を与え続けることが恐ろしく、敢えてわしは「堕落」して、
とりあえず勝ちを求めて生きてきたのだった。
しかし、そーして勝利を目指すことにふと疑問を感じた。
「いったい勝ってなんになるのか?
確かに負けるのはくやしい。くやしいので、自分の首を絞め、自分で自分を殴り、かつて暴行を
受けていた時の悔しさを思い出して、自らを発奮させて勝利を目指してきた。しかし、限りない
競争の果てに最終的勝利できる者など殆どいない。にも拘らず、勝ちたいと思う自分は、実はそ
ーいう風に思わされているだけで、そう思っている自分は幻ではないか。」と。そーなのである。
「勝ちたい。
」と思うのは、
「勝て。
」と言う人がいて、そう思うよーに強制されているからなの
である。そして、「勝て。」と言う人こそ独占資本の勝利の思想に染まった、周囲の友人、家族と
いった、
【愛】を与えよーとする主体なのである。とすれば、この世に【愛】がなければ勝たな
くて良い。もう、戦って人を殺したり、自分が傷を負うこともない。そこでわしは【愛】を否定
したのである。
しかし、こーした【愛】の否定の実践は、あらゆる人々から遠ざかり、ずうっと「引きこもり」
の状態に閉じこもることではない。ではなくて、人々の中で仕事をし、自分がしばらく生活でき
るだけの金を稼いで、そーしたら、自分の心と体がボロボロになる前に引きこもり、克己鍛錬に
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立ち返りつつ、金がなくなったらまた働く・・・。そういった仕事と引きこもりの相互関係の中に
あるべきなのである。こーすれば、仕事の中で「負け犬」呼ばわりされ続け、心や体を病むことに
もならないし、仕事と自分個人との距離が保てることから、仕事依存症にもならなくてすむのだ。
その上、「引きこもり」は、仕事以外の他の多くの物事―自然や芸術や文化や著述―といったもの
に目を向けさせてくれる。だから、自分が仕事や他のことで「勝者」となれなくても、むしろ「敗
者」として生きることに喜びを見出せる多くの機会を与えてくれるのである。
こーして、個人が「純潔」の理想を目指すよーになると、個人は「引きこもり」の期間を通じて、
他の「純潔」を目指す人々と、ネット等を通じて交流するようになる。そして、その交流の中で、
個人の精神と精神が結合して「創造」をもたらす。その「創造」の輪が大きくなった時、「純潔」
を目指す人々の精神は、國家の意思決定をも動かす力となる。(國家鍛錬)やがてその動きは、國
家を超えて広がっていき、うねりとなって、そしてある満月の夜、怒涛となって、全世界の「勝
者」を目指す川の流れに逆流するのである。こーした、敗者達の、敗者を目指す連帯に基づく革
命を「純潔革命」と言うのである。
第2節
純潔革命
一 政治革命と
政治革命と非暴力運動の
非暴力運動の歴史
ではなぜ今、こーした「純潔革命」が起こる可能性を指摘できるのか?それは単なる机上の空論、
観念論的理想論であって、何ら実際的な可能性を持たないのではないか?そー考える人もいるだ
ろう。しかし、それは正しくない。というのも、今、米國一國世界支配体制の下、自由主義原理
主義の嵐に疲弊しきった多くの敗者となった國々、そして敗者となった人々が全世界に存在し、
そーした人々が、敗者が幸せに暮らせる世界の誕生をたち望んでいるからである。
こーした動きについて見ていく前に、政治革命の歴史を少し振り返ることにする。世界におい
て、最初に被支配者が支配者に取って代わって政治を動かそうとしたのは近代市民革命であった。
市民革命は、封建領主やその上に君臨する絶対的権力を握る王からその政治的権力を剥脱し、「市
民階級」が権力を行使するための革命であった。「市民革命」においては、一般に主体はあくまで
経済的な力をつけた資本家(ブルジョワ)を中心とする「市民階級」であったから、経済的敗者であ
る労働者は、その経済的格差を是正する措置を殆ど講じられないまま、産業革命後の社会に放置
され、惨めな生活を強いられることとなった。
こーした中で、自ら貧困生活の中にあったカール・マルクスは、産業革命後のイギリスで、そ
の著『資本論』を著し、経済的弱者である労働者階級こそがやがては「市民階級」に取って代わる
という膨大な科学的共産主義の理論を築き上げたのである。このマルクスの理論はそのまま実現
はしなかったが、1917 年、レーニン主導のロシア革命の実現によって、ソヴィエト連邦という
共産主義國家の成立を現実のものとしたのであった。けれども、「労働者階級」による、分け隔
てのない理想の平等社会を作るという共産主義の理想は、やがて、スターリンという独裁者の登
場により、権力者の独裁による恐怖政治へと歪められていった。そして、恐怖政治による自由の
束縛は、やがて経済の深刻な停滞をもたらし、國民生活を圧迫するよーになる。(特にブレジネ
69
フ時代以降)そーした中で 1985 年ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは「ペレストロイ
カ」と呼ばれる一連の改革の実施を始めた。彼がその改革を始めるに当たってまず着手したのは、
今まで國民に閉ざされていた「情報」の公開(グラスノスチ)である。すなわち、経済の停滞克服の
ためには、國民の自由な活動が不可欠であり、そのためにはまず國民が自由な情報に接する機会
を設けることが必要と考えたのである。こーした、情報公開の流れはやがて國境を接する中國や
東欧諸國にも広がっていく。というのも、情報公開は、マスメディアによる自由な報道という形
になって現れるので、ラジオ、テレヴィなどの電波が國境を越えて流れることを阻止することは
できないからである。
こーして、あるとき突如として流れが起きたのである。それは、1989 年 4 月 15 日、中國か
ら始まった。この日、かつての中國共産党総書記であった胡耀邦が失意の内に亡くなった。この
情報を聞きつけた学生たちは、その追悼を行うため、三々五々北京の天安門広場に集まっていっ
た。最初はそう多くなかった学生達の数は 5 月 13 日、ゴルバチョフ書記長の訪中と共に北京市
民を巻き込んで急速に拡大し、やがては共産党一党独裁体制を敷く鄧小平に対する批判となって、
5 月 21 日、百万人規模のデモへと発展した。その後、しばらく沈黙していた中國政府は、市民
が職務に復帰し始めるとデモの解散と天安門広場からの退去を学生達に求めるよーになる。そー
して、それでも居座る学生達に、6 月 4 日、人民解放軍が水平射撃し、虐殺したのであった。([第
2 次]天安門事件)
こーして中國における民主化運動は頓挫した。しかし、その情報は、國境を越え、東ヨーロッ
パの共産主義諸國へ伝わっていった。「共産主義政権は、人々の民主化要求に対し、虐殺で以っ
て応える。」そーゆう恐怖をまざまざと知った東欧諸國、特に西欧諸國と國境を接する國々の人々
は 6 月以降大群となって國境を越え、西欧へと流出していった。(東独から西独、ハンガリーか
らオーストリア等)そのよーな動きの一方で、東欧諸國の内部では、各地で人々が民主化要求を
掲げ、中國の場合と同じく、手に何ら武器を持たず、素手で強大な共産党政権に立ち向かう十万
人規模の市民の大集会が開かれるに至った。こーして、11 月 9 日、東独のホーネッカー國家評
議会議長は、ベルリンの壁の間にあったブランデンブルグ門を開放し、東独國民の西独への出國
を容認せざるをえないよーになり、やがては退陣を迫られることになる。一方、他の東欧諸國で
も、チェコスロバキア、ブルガリア、ポーランド、ルーマニアと、市民の民主化運動がドミノ式
に東欧の共産主義政権を打倒していった。(もっとも、アルバニアは少し遅れる。また、ユーゴ
スラヴィアは内戦に突入していったのだが。) そして、ヨーロッパに残る殆ど唯一の共産主義の
大國となったソ連も、1991 年 8 月の保守派クーデターの、市民集会の抵抗による失敗を経由し
て解体してゆき、同年 12 月 21 日、ゴルバチョフ大統領の辞任と共に滅亡したのであった。
以上のよーな東欧革命を中心とする一連の動きは、ルーマニアの例を除いて市民の側が武力を
用いず、団結して立ち向かうという大きな共通点を有する。つまり、かつての「市民革命」(この
場合の「市民」は東欧革命の場合の「市民」であるところの一般市民とは異なる。) や「共産主義
革命」が武力でもって支配階級に「勝利」しよーとしたのに対して、何も持たないこと、つまり、
弱い「敗者」となる方向を目指すことによって手にした成果なのである。
70
このよーな、「敗者」となることで逆に「敗者」がその意図を実現するという価値の転倒をもた
らしたのは、実はこれが最初ではなかった。それは、インド独立の父、ガンジーによる非暴力・
不服従運動に端を発する。彼はもともと富裕な藩王國の首相の息子であって、現世での成功を目
指してイギリスに留学し、弁護士資格を得て、南アフリカに渡ったのだが、そこでイギリス人に
よる根深いインド人差別に遭遇する。そしてその差別がイギリス人の掲げる「正義の法」(自然
法思想)とは相容れないことを知った彼は、その欺瞞性を指摘し、法廷闘争や新聞発刊という言
論活動を通じて、インド人の南アフリカでの権利を勝ち取った。
それを聞いたインド本土の民族運動家達は、ガンジーをそのインド独立運動の指導者にと請う
て帰國を願った。こーして、ガンジーはインド國民会議派の指導者となり、独立運動を指導する
ことになる。このときガンジーがその独立運動の指針として示したのが、南アフリカで実践して
きた「非暴力・不服従」の方針である。すなわち彼は、新約聖書、クルアーン、バガヴァッド・
ギーター(インドの宗教詩)等、多くの聖典に通じて、幼いときから肉食等の殺生に対して強い宗
教的嫌悪感を持っていたから、たとえ独立闘争といえども、暴力を用いてはなしえないと信じて
いたのである。
こーして始まったインドの「非暴力・不服従」運動は、平和なはずの市民の集会の一部が暴徒
化し、イギリス軍がこれを虐殺する(1919 年アムリッツァール事件)等、最初からつまずきを経
験する。しかし、そーした運動の挫折が起こるたび、ガンジーは自らの克己鍛錬が足りなかった
からだとして自らを反省し、断食等を通じて真の非暴力・不服従の道(サティヤー・グラハ)を示
した。こーした運動に対し、イギリス政府は令状なしの逮捕・投獄を許可するローラット法や武
力を用いた運動弾圧で応えよーとしたが、逮捕・投獄される人があまりに多いと刑務所が満杯に
なって解放せざるをえなくなることを知り、次第に人々は武力に対し武力で対抗しない術を身に
つけるよーになっていった。
イギリス政府はそれでもどーにかしてインドを自國の植民地のままにしておいて、自國の利益
(國益)のために奉仕させよーと思っていたから、どーしても自治権を与えよーとしない。これに
対してガンジーは、
「私は死ぬことが出来る。」と言い、無期限の断食に入った。今、彼が死ねば
インド全土の人々は、大暴動を起こすことは必至と考えたイギリス政府は、この断食をやめさせ
るため、インドへの自治権賦与を約束したのであった。このよーに、ガンジーは、人々に「非暴
力」を勧め、圧倒的な武力を持つイギリス(現在の鬼畜(米國)を生み出した腐ったウンコ)に対して
「敗者」となること、そして、
「敗者」への志向によってインドの独立という成果を手にしたの
である。
二 良心の
良心の歴史の
歴史の創造
以上、非暴力の政治革命についてかなり長く見て来た。こーした「敗者」を志向する革命は、
実は個人の心の内面から出ているといことに注目する必要がある。すなわち、それはまずガンジ
ーの宗教的な個人の精神と、西洋の人権思想、そーしたものが個人の内面で結びつき、精神の進
化を生じ、他の人々の精神に対して働きかける。すると、堕落したり克己鍛錬をしていたりした
71
いろんな精神がふと立ち止まり、進化した精神と結びつく。そのとき、進化した精神に導かれた
精神達は、相互に高い精神へと誘う精神の共同体を作る。こーして、精神の共同体が一致した克
己鍛錬をすることを通じて、共同体そのものが「敗者」となることを志向するよーになるのであ
る。その結果、
「敗者」を志向する共同体は、堕落し、
【愛】を目指す勝者に対し、精神の風を吹
きかける。ちょうど、堕落から居直りを経由した個人が克己鍛錬の渦中にあって、堕落中の人間
の心の痛みを聞くことが自己の精神の進化に寄与するよーに、堕落した勝者を志向する共同体の
心の痛み・・・例えば、植民地がなくなると、
【愛】する自國民の利益を損ね、ひいては【愛】する
家族の生活を脅かす、等・・・を聞く。すると、進化した精神の共同体は、自分達の心の中にもあ
る傷・・・例えば、搾取されてきた痛み、搾取による生活苦で【愛】する家族を守れなかった痛み・・・
そーした傷を心地良く通り過ぎて、癒していくのである。
このとき、一瞬、
「良心の歴史」が生まれる。今まで対立していた勝者を目指す者同士の共同
体と異なり、一方が「敗者」を目指すよーなったとき、「勝者」の共同体の精神の夢の中に、堕
落していく自己を見つめるもう 1 人の他者が生じるのである。
「何だ、堕落していく、苦しんでいる自分は幻なんだ。そして、そー思っている自分自身も・・・。」
つまり、自分の【愛】する人を守れなくて「虚しい」と思い苦しんでいる、そーゆう自分自身の「虚
しさ」を通じて、苦しんでいる自分自身が「虚しく(あほらしく)」なってゆくのである。そのと
き、「國益」という【愛】にすがりついていたイギリス國民は、
【愛】にすがりつくことの「虚し
さ」を知る。こーして、
【愛】にすがりつくことで、いかに多くのインドの人々を犠牲にしてき
たか、そーゆう「虚しさ」が國内の多くの人々の「精神」を動かした時、そのとき、こーした【愛】
への堕落から居直った「精神」は、再び克己鍛錬を始めるのである。そーしてそれは、勝利を目指
していた共同体をも突き動かす。
こーして堕落し続けていた、勝利を目指す共同体(イギリス)は、一瞬「居直り」を経験し、克
己鍛錬を目指すよーになる。まさにその瞬間、
「自治権賦与」、
「インド独立」という「良心の歴
史」が創造されるのである。無論、その「居直り」による克己鍛錬は長くは継続せず、すぐにイ
ギリスは國益へと走り、何とかインドを半植民地状態に留め置く方策を考えよーとし始める。し
かし、一瞬生じた「良心の歴史」により生じた「歴史的事実」は、もはや後から変更することの
できない、その後の歴史を変えてゆく大きな力となるのである。
このよーな、
「良心の歴史」は、時を超え、1989 年~1991 年の東欧革命の参加者を中心とし
た人々にも進化した「精神」を伝えてゆく。すなわち、デモに参加する人々は、いろんな動機で
参加するのだが、そーした人々の中に、高い精神を目指す精神がある。「勝利」ではなく「敗者」
となることを目指す進化した精神の周りに多くの精神が集まると、それは一致した克己鍛錬をも
たらす。そして、決して【愛】へと堕さず、暴徒化しない。こーした精神に対し、勝利を目指し、
堕落していた権力者達は堕落の風を吹きかける。
「わしは、お前達労働者への【愛】のため、権力の座に座って一生懸命國家を運営してきたのだ。
こんちくしょう、わしの退陣など求めやがってー・・・。
」
けれども、【愛】へと堕さない敗者の精神の共同体は、こーした堕落の風を自分の心の傷に心地
72
良く吹き流す。
「わしらは、権力も金も名誉もない敗者、自由も奪われ、搾取されて苦しんできた・・・。
」
こーした過去の心の傷に心地良く浸み渡る。
そのとき、精神の共同体は、もはや権力者に何も求めない。ただ、じっと権力者を見守ってい
る。その一瞬、権力者は自己の精神の中で、堕ちて行くもう 1 人の自己を見出す。そして、権
力にしがみつき、素手の市民たちに囲まれたこの状態を「虚しい」と思っている自分も「虚しい」
と気付くのである。そして一瞬居直り、克己鍛錬へと戻る。こーして「静かな革命」が起こる。
権力者は静かにたたずんでいる群集の前で権力の座から降りるのである。
この一瞬、
「良心の歴史」が生まれる。まさに、共産主義の理想の前に却って人々を搾取し、
自由を奪っていた権力者が「権力を失う。
」こーいう「歴史的事実」が生じるのである。そして
その後、権力の座から降りて後悔して再び堕落しても、その「歴史的事実」はもはや変えること
ができず、その後の歴史を動かしてゆくのである。
三 純潔革命の
純潔革命の可能性
以上見て来たよーに、1989~1991 年の東欧・ソ連の革命の大部分は、市民の共同体の精神の
克己鍛錬の力が【愛】へと堕落した権力者の精神に、一瞬の「居直り」をもたらし、その結果、
克己鍛錬を目指す精神と精神の結合がもたらした「良心の歴史」である。ここで、「良心」とい
う語を用いるのは、
「精神」が無限の次元を飛び回るのに対して、
「良心」とは肉体と結びつく 1
つの点だからである。こーした、「良心の歴史」のもたらす革命こそ、
「敗者」を目指す精神の結
合によってもたらされる「純潔革命」と呼ぶべきものなのである。
では、今後の世界で、「純潔革命」はどのよーな形で、またどこで生じる可能性があるのだろう
か?これにはインターネットで地球上の各地が一瞬にして繋がるよーになったことが大きく関
わる可能性がある。人々は、國家・宗教・民族という共同体を超えて、自由に議論をし、精神の
交流を行えるよーになったのだ。一方で、世界を覆う問題もまた、こーした共同体を超え、様々
な個人の結びつきに関係するものとなっていく。(例えば、環境問題、病気の感染、貧困など・・・)
そこで、これらの問題に対処するために、様々な形で様々な人々がネットを通じて議論し、結合
し、やがては國家の意思決定や國際世論を動かす力になる。そういう場をあちこちに作るべきだ
が、無責任な罵詈雑言によってサイトが荒らされ、閉鎖に追い込まれる事態も続出している。か
かる事態を改善するには、生体照合等何らかの形で発言者が特定できる方法を導入し、個人の、
責任ある言論を通じた新たな「場」の精神を構築してゆくべきである。責任ある個人の精神の結合
によって生じた、精神の進化を目指す共同体の精神のこーしたうねりは、時に各國政府や國際政
治の中でも小さな革命を引き起こすことになりうる。
一方、世界には一國や数カ國の共同体では十分対処できない数多くの問題がある。そーした問
題に対処するために作られた國際連合も、拒否権を持つ大國のエゴ(特に米國)によって歪められ
ている。こーした中、國連を何らかの形で補う機関を作ることが求められている。そこで、こー
した機関を、市民の手で作ってゆく動きが生じるものと考えている。すなわち、これはこーゆう
73
ことである。先述したよーに、敗者を目指す市民達の動きが大きなうねりとなったときに、権力
者に一瞬の「居直り」をもたらすことで「純潔革命」を生じ、その事実が「良心の歴史」として刻ま
れる。それならば、一瞬の敗者達の結合もまた、権力者に一瞬の「居直り」をもたらし、「良心の
歴史」を刻む可能性を大いに有するものと言うべきである。それゆえ、そーした敗者達が一瞬結
びつく場を設けるべきなのである。つまり、國家という強大な権力が集まり、しかもその中の大
國が安全保障理事会を通じて世界的な事柄の意思決定を支配する、いわば「勝者」の共同体が現
在の國連なのであって、それと対峙しつつ、それを補完する敗者の側からの権力監視の仕組みを
作ることが切に求められているのである。
「勝者」の共同体に対して「敗者」がたった一瞬でも結
びつき合える「敗者」の共同体として、わしはインターネットを活用した「世界市民会議」を創
設し、そこで問題ごとの一般市民による議論の場を設けるべきだと考えるのである。
四 世界市民会議
世界市民会議の最初の活動は、「勝者」の結合した國連決議及び拒否権発動によるその不成立の
正当性の監視である。すなわち、「勝者」により歪められた決議やその不成立が不当なら、そー
いう議論がサイト上で多くなされる。議論が白熱する問題については、アクセス者が投票できる
場を設けて、その「場」が國連に対しても、十分にものを言って対抗できるよーな「場」に成長
していくべきである。もっとも、ネットでの投票は 1 人 1 回に限定するようーに、投票に生体
認証等の仕組みを取り入れるべきであろう。
とはいえ、あまりに多くの議論がある場合、統一した敗者の精神の力で以って「勝者」の決議
を変更させる力を持ち得ない。そこで、ある國連決議について、主に不利益となる「敗者」の側
からの議論を中心としたテーマを設定した議論の場を設け、その問題に関する投票結果をもって、
勝者主導の國連に対して共同体の精神の力で「居直り」を求めるべく、再考を促すのである。こ
の場合、あまりに過剰に國連批判ばかりしていたのでは、それは國連に対して勝利を目指す「批
判のための批判」ということに堕してしまう。そこで、必ず、対案という形で別の解決策を提示
する形で國連に対して物申すよーにすべきなのである。
では、こーした対案はどーやって形成していくのか?それは、①ネット上で出された意見を主
にいくつかに分けて纏めて、いくつかの対案を作る。②そのうち、どれを採用するかは、ネット
投票で決める。③ネット投票で採用が決まった対案を、その投票総数と共に國連に報告する。と
するものである。
このよーな動きに対して、大國主導の國連は、初め無視する態度を採るであろう。しかし、ネ
ット投票で投票される総数が増えるに従い、次第にその意見を無視できなくなるであろう。そし
て、やがては、世界市民会議による意見の提出を、國連安保理決議及びその拒否権行使の制約原
理として考慮せざるをえないよーになっていくのである。敗者達がこーした発言力を持つために
は、ネットで投票する人々の総数を増やす必要がある。そのためには、全世界の各地にネット投
票所を設け、携帯電話等も活用しながら、世界市民会議の対案の候補を何ヶ國語にも翻訳して示
すよーにすべきである。そして、特に重要な問題(例えば、軍事的な攻撃の決議)に対しては、文
74
字の読めない人のことも考えて、図や絵で示して、出来るだけ多くの人々が参加できるよーにす
べきである。
もっとも、1 番の問題は、こーした機関を運営する「金」の問題であろう。これには、1つの
方法がある。すなわち、「敗者」が、國家とは異なる「敗者」のための「エコ・マネー」を作るの
である。すなわち、世界市民会議の活動に参加してくれた人々には貨幣ではなく、「エコ・マネー」
を支払う。これは、活動に参加すればするほどたくさんもらえ、会議のメンバー(究極的には全
世界の人々)に、自分が何か欲しい時、「エコ・マネー」を払って物を得る。これは、利子を生じ
ない貨幣、つまり営利を目的としない貨幣であって、かかる共通の貨幣を全世界の人々が共有し
て、資本主義とは異なる独自の原理に基づく経済的基盤を築き上げるのである。しかも、こーし
た会議は、特定の國土や國民・民族或いは独占資本と結びつかず、人々を支配する権力となる可
能性は少ない。だから、こーした経済の仕組みは共産主義國家を必要とする共産主義経済によら
ずに、シャイターンもたらす資本主義経済の中で、独自の経済を目指すものとなる。資本主義経
済が【愛】の増幅を願う経済としてグローバルに拡大していくのに対して、
「エコ・マネー」を中
心とする純潔主義の経済システムは、【愛】なくして、克己鍛錬を目指す精神をグローバルに広
げてゆくのである。そして、このよーな両者の経済システムが地球上に共存していることで、個
人はその両方からの恩恵を受けられるよーになる。つまり、肉体のもたらす原罪にゆえに、一方
で功利主義による効率的な物の生産にいくらか頼りつつ、堕落し、疲れたら、克己鍛錬を目指し
て生きてゆくのである。
こーした、個人が自由に行き来できる経済社会、いわば地球規模の自由経済と共産主義経済を
その社会の中に並存させることで、精神的にも、経済的にもより豊かな生活を歩めるよーになる
のでは?と考えているのである。
五 純潔革命は
純潔革命は本当に
本当に敗者を
敗者を目指すのか
目指すのか?
すのか?
以上述べてきた純潔革命の流れは、「敗者」となることを目指す「敗者」により生ずるとしてき
た。しかし、そーした革命が政治権力を揺るがすことを目的としている場合、それは「勝利」を
目指す運動であり、
「純粋で汚れない」とは言えないのではないかと考えている人も多いであろ
う。そして、「純粋で汚れない」と言えるためには、
「敗者」が黙ってただ個人の心の中で「敗者」
を目指して生きる道しかないと考える人も多いであろう。
確かにそれも 1 つの考えではある。けれども、個人の精神の進化は、個人と個人の精神の交
流(それは、個人が「他人の精神を知ったと思う」という一方的な知覚と知覚の思い込みの結合よ
り生じる)がなければ加速しない。ましてや、個人の結合した共同体の精神は、個人の精神の相
互交流なくして、その精神の進化をなしえないのである。そうだとすれば、精神進化のため「敗
者」を目指す生き方は、個人と個人の結合を必然的に要求することになるのである。こーした結
合は、確かに気をつけなければ【愛】へと堕し、数の力を頼みとした共同体の精神が少数の数の
みからなる共同体の精神を抑圧する「勝利」の原理を生み出す。けれども、
「敗者」を目指す革
命は、決して市民が世俗の政治権力に取って代わって自ら支配者となる革命ではなく、市民によ
75
り作られた精神と権力者の精神の一瞬の交流を通じた「良心の歴史」を生み出すことにあるのだ。
そうであるから、それは、市民が権力という「勝利」を志向するものとは本質的に異なる。純潔革
命において、市民は、権力そのものの担い手ではなく、あくまで権力を動かす「敗者」の立場に
あるのである。これはいみじくも、純潔革命の先駆者であったガンジーが、インド独立の後も自
ら決して権力者の地位に立たなかったことからも示唆されるものである。
もっとも、「民族」の独立や基本的自由の享有という國民主権や基本的人権の実現が未だなされ
ていないよーな場所では、これら「敗者」の運動は、権力者を打倒し、それに取って代わるという
「勝利」への志向と切り離すことはできない。インドの独立や東欧革命はこのことを物語っている。
しかし、そーした國民主権や基本的人権が一定程度実現された國や地域においては、最早「敗
者」が「勝者」に取って代わる必要性はない。むしろ、「敗者」が「敗者」を目指しつつ、権力
者の精神との一瞬の結合により「良心の歴史」を作り上げるという営みが純潔革命の主な潮流と
なって行くべきなのである。こーした、
「敗者」が「敗者」を目指しつつ、権力者との精神の結
合を目指す動きは、既に世界規模の NGO の運動となって現れている。例えば、地球規模での地
雷全廃条約締結(米國は除く)は、こーした運動の大きな成果と言えるであろう。
かかる運動においては、あくまで「敗者」を目指すことを主眼としなければならない。という
のも、「勝者」を目指すことは、数の圧倒的な力で少数者の人権を抑圧するという、多数決主義民
主主義=デマゴギーに陥る危険性を有するからである。こーして、
“「敗者」を目指す“という高
邁な理念が一致して多くの人々の精神の共同作業によって生み出される、真の「創造」をもたら
すのである。
六 純潔革命のその
純潔革命のその他
のその他の影響
ここまでわしは、純潔革命が政治権力を揺るがすことについて述べてきたが、純潔革命は、政
治権力ばかりではなく、他の共同体をも動かすことになる。例えば、独占資本の圧力団体や知識
独占集団である大学アカデミズムや特定の職能集団等のあらゆる社会的権力を動かす力となる。
他方で、こーいった権力を動かすのではなく、
「敗者」を動かす力ともなる。すなわち、「敗者」
が「敗者」を目指すことを理想として掲げることは、とりもなおさず「敗者」がその尊厳を保ちな
がら生きてゆける可能性を大きく開くものなのである。その結果、地球上のあらゆる「敗者」
、
例えば、競争に敗れた者、友人や家族のいない者、病人、老人・・・等が、少なくとも精神におい
ては卑屈にならずに生きてゆけるよーな社会が生まれるよーに、わしらは、日々克己鍛錬に努め
るべきなのである。
第3節
精神の
精神の行き着くところ
一 死後の
死後の精神
以上、わしは、個人の精神の進化が共同体の精神の進化をもたらし、やがて純潔革命に至るこ
とを述べてきた。では、こーした精神は、以後いったいどこに行き着くのだろうか?
まず、個人の精神は、生きている限り現世において、ひねくれたり居直ったりしつつ進化して
76
ゆく。一方人間はいつか必ず死ぬ。このとき、現世の続きの部分に対しては、自分が生きていた
ときの活動によって、現世に生きる他の人の精神に影響を与えることでしか精神進化の影響を与
えることはできない。
(ただ、著作ならもっと長く影響を与えるであろうが。
)
ところが、人間精神とは、生きているときだけではなく、死後も存続するものなのである。つ
まり、それは、死後もこの世界、いや、全宇宙を自由に飛び回る存在なのだ。なぜ、そー言える
のか?
思うに、人間精神とは、人間が体内の物質を吸収し、その物質によって作られた神経回路の集
合体である大脳が中心となって肉体中での営みを行うものである。とこらが、そーした営みの中
で、大脳は脳波などの形で体外にもその精神の営みにより生じた物質を放出している。これはす
なわち、精神が肉体にのみ宿るのではなくて、分化して体外にも存在しうることを意味する。と
いうのも、精神を構成するのが各々の微粒子であるなら、その放出された精神の一部もまた精神
と言えるからである。また、人間は死によってその肉体と結びついた精神の営みを終える。けれ
ども、肉体中で精神と結合していた良心を構成していた粒子は、灰となった肉体から離脱し、自
然の中に戻って行き、そして新たな生命を育てる養分となる。こーして「死」という自己犠牲が他
の生命を再生させることで、精神は永遠となるのである。
もっとも、これのみでは、生きている間に進化した精神が死によってその進化を終えると共に、
積み木崩しのよーに崩れ去って各々の積み木に戻ってしまっただけのことになる。果たしてそー
なのか?否。精神は 3 次元では死によってその行き着いたところから解体するのだが、実はも
っと高い次元(今の科学では認識できない次元)において存続し、そこを生前・死後に拘らず自由
に行き来するのである。こーした、死後の統合した精神の存続は、自分で知覚したことのない人
には認識が難しいのだが、臨死体験の存在は、その存在の可能性を推測させる有力な手段である。
すなわち、臨死体験は、人間が死に瀕した危篤状態に陥った時に大脳旧皮質にある側頭葉のある
部分が突如として活動を始め、それまでの全ての記憶を走馬燈のよーに蘇らせたり、お花畑の中
を意思と関係なく進む姿等を「体験」としてもたらすものらしいのだ。そしてそれは、大脳の進
化の理論からは科学者にもわからないという。また、この体験中では意識が肉体から離脱し、思
ったところどこへでも行けるという。しかも、蘇生後には、実際にそのとき見ていなければわか
らないことまで見た記憶があるのだから、これは最早本当に精神が肉体を離脱しているとしか言
いようがない。
これはつまり、精神のみの存在が、死後の世界が存在することを人間に知らせ、そうであるか
らこそ、自己の精神の克己鍛錬が必要なことを人間に知らせるためにあるのではないかとわしは
考える。すなわち、人間精神は、死によって自己の意思と関係なく精神のみの世界へと入ってい
くのだから、かかる世界に死後スムーズに適合できるよーに、今生きているうちに精神を磨いて
おくべきということなのではないか?このよーに考えると、まさに今、現世で意志ある間に克己
鍛錬をすることが大切になってくるのである。
もっとも、死後、精神のみとなった存在も、輪廻転生により再び肉体を有する存在と結合し、
生まれれば、克己鍛錬へと至ることもできよう。ただ、問題は、地球のみならず、宇宙の全てが
77
滅んだ時である。地球が滅んでも宇宙の他の星へと移住することは可能かもしれないが、宇宙全
体が滅ぶと人類も滅びざるをえない。そーゆうときはどうするのか?そー考えた時、実は精神の
みの存在も克己鍛錬を行っているに違いないという帰結に至るのである。すなわち、宇宙の終末
が訪れたなら、輪廻転生できなくなった精神は、やがて物質を持たない精神のみの存在の世界の
中で、個々克己鍛錬を行う。そこでは肉体はないから、精神は「原罪」(カルマ)と離れて純粋な
克己鍛錬が行えるよーになる。こーした、純粋無垢な克己鍛錬のみに満ちた世界を少しでも早く
もたらすため、わしらは「原罪」を負わざるを得ない現世の中で、克己鍛錬に努めるべきなので
ある。
では、個人の精神が他の個人の精神と結びつき、共同体の精神の進化をもたらすことは、その
よーな中でいったいどんな意味があるのだろーか?思うに、個人の精神の進化が共同体の精神と
結びつくとき、共同体の精神が進化するのみではなく、その中の個人の精神も進化する。すなわ
ち、個人の精神もまた、共同体の精神の進化を通じてより進化するのである。こーして、進化し
た共同体の精神を通じて個人の精神が進化するのだから、そのことで、死後の個人もより進化し
た精神の持ち主となれる。のみならず、共同体自身の精神の進化が、地球という 1 つの星、或
いは宇宙人との交流や移住を通じて全宇宙に広がった時、その星や宇宙そのものの精神も進化し
たものとなるのである。少しわかりにくいかもしれないが、これはすなわちこーゆうことである。
宇宙はいずれ滅ぶかもしれないが、その後、精神だけの存在となった個人の住む精神世界は、い
わば1つの宇宙の進化によってもたらされる世界なのである。そうだとすれば、精神のみの世界
を、より克己鍛錬に満ちた世界にするためには、その前段階である宇宙共同体の精神そのものの
進化をもたらすことも必要なのである。こーした意味で、共同体自身の精神の進化についても優
れて重要な意味があるものとわしは考えるのである。
もっとも、以上のよーな精神世界の存在は、わし自身の思考と経験の中で推測されるものであ
って、「絶対こうだ。」との確信には至っていない。細かい部分については違いもあろう。また、
死後の精神のあり方については、個人の克己鍛錬のあり方や精神の形によっても見え方が異なっ
てくるので、違った見方をする人も多いであろう。(例えば、何も見えない人もいるかもしれな
い。) しかし、それはそれで良いのである。X 次元の存在を、この 2 次元の言葉の世界に翻訳す
るのは到底無理があり、うまく翻訳しきれないのであるから、それを翻訳不能と考えて放棄する
人や、違った翻訳をする人がいても良いわけである。
ただ、大切なのは、たとえ時に堕落に走っても、精神の進化を信じ、居直りに努め、日々、克
己鍛錬を目指して生きることにあるのである。そして、その際に、自己のみの克己鍛錬だけでな
く、他の精神との交流―それは、自分が知覚できるだけのものだが―を通じた「創造」によって、
共同体自身の精神の進化を図ろうとする、より高い精神に基づく克己鍛錬を目指すことなのであ
る。
二
神の存在・
存在・不存在の
不存在の不可知について
不可知について
以上のよーなわしの考えは、神の存在肯定論・否定論のいずれとも結びつきうる。すなわち、
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精神のみとなった存在は、それを多神教的な神と呼ぶことも可能であるし、また、進化した精神
世界そのものを1つの一神教的な神と同視することもできる反面、精神はあるが神はないとも言
えるからである。
わしは、こーした議論のうちいずれが正しいのかわからない。それは、わしが神を知覚したこ
とがないからである。わしとしては、神はおそらくいるともいないとも言える曖昧なものではな
いかと思っている。すなわちそれは、この世での克己鍛錬の中では、まさに自然と一体化し、自
分自身が全宇宙の一部となったと感じられたときに感じられるものであるが、それは「一体」とな
ることであり、「知覚」とは言えないのである。すなわち、人間にとって神とは、たとえ存在して
いても、「知覚」することはできない最高度の精神なのである。それゆえ、それは「ない」とも言
えるし、初めからそもそも存在しないのかもしれないのである。
こーしてわしは、神の存在不可知論に陥るわけであるが、それは極めて実践的な意味を有する
すなわち、神の「知覚」は人間を神の【愛】への堕落へと誘い、やがては愛欲にまみれた堕落世
界を作ることに繋がるからである。そーゆうわけで、神はいてもいなくてもどっちでも良いので
ある。そして、本来的意味での一神教の神の【愛】とは、実は最高度の精神存在の共同体精神の
ことと解するべきなのである。
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三 精神進化の
精神進化の概念図
最後に、精神の進化の概念図を書いておくので参考にされたい。
個人の
個人の精神進化
ひねくれ過程
個人
死
生
再生
省略
最終死
(宇宙の終末)
永遠の精神の克己鍛錬(肉体がなく原罪(カルマ)がないので堕落しない)
精神のみの存在としての再生
( 終末の後)
共同体の
共同体の精神進化
個人
個人
創造
創造(
「ピュー」と吹きかける)
個人
宇
共同体の精神
(誕生)
分裂
宙
「ヒュー」と進化
(人によってはこれを神と呼ぶ)
の
(瞬間移動)
他の共同体の精神
一体となった精神のみの共同体
合体 消滅
終
再生
(解読・発掘等)
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末
終わりに
本論を通じてわしが最も言いたかったことは、敗者が敗者として敗者を目指して生きていく生き
方の中から幸福を掴む方法である。その方法として、克己鍛錬は極めて有益である。
こう書くと、
「それでもやはりそんなのは面倒でやだ。
」と思う人はいるであろう。特に、いつ
も【愛】が欲しいと思っている多くの人は。
しかし、【愛】の中に幸福はない。すなわち幸福は、自らが自らの心の持ち方によって感じら
れるものであって、他人からの働きかけによって得られる幸福は、実は見せかけに過ぎないから
なのである。言い換えれば、自分の心の幸福とは、自分の心の持ち方によってしか生まれ得ない
ものなのである。
こーして、自分自身の心の声に耳を傾け、精神の理想を目指す人々が多くなったとき、歩く人
が多くなると茨の草むらも道になるよーに、國家や地球という共同体そのものの精神も、より高
い理想を目指すよーになるのである。そしてその結果、そこに生きる人々にも幸福が訪れるので
ある。そんな人生の負け犬のささやかな願いがこの著作に現れているのである。が、これをささ
やかな願いではなく、大きな力へと変えてゆくのは負け犬自身の克己鍛錬である。だからこそ、
わしはこれからも日々、永遠に克己鍛錬に努めるのである。
書名
世界純潔革命―負け犬を正当化する屁理屈―
著者
あるふろう者
発行年月日
2007 年 2 月 10 日
初版第 1 刷非公式発行(日当の日)
2007 年 12 月 10 日
修正版第 1 刷発行
発行所
世界純粋思想研究所
注:この著作の全部又は一部は自由にコピーして下さい。但し、無断引用はしないで下さい。
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