クオリア・マニフェスト Text Version 草稿 (c) 茂木健一郎 1998, 1999

 クオリア・マニフェスト
Text Version
草稿
(c) 茂木健一郎 1998, 1999
The Qualia Manifesto
Preliminary Draft
(c) Ken Mogi 1998, 1999 The Qualia Manifesto (English Version)
全文は徐々に掲載する予定です。時々訪れて下さい。
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重要な語句、フレーズは赤でハイライトされています。
0、イントロダクション
1、心脳問題の歴史
2、「クオリア」と「主観性」
3、関連する諸問題
4、方法論とコンジェクチャ
5、「二つの文化」の融合 6、来るべき新しい状況について
7、アジテーション
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0、イントロダクション
The Qualia Manifesto
クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、
「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことで
ある。「クオリア・マニフェスト」(The Qualia Manifesto)は、クオリアの本質、その
起源の解明が、今後の人類にとっての最大の知的チャレンジであることを宣言し、クオリ
アを中心とした文化運動の開始を呼びかけるミッション・ステイトメント(Mission
Statement)である。クオリアの起源の解明に成功すれば、、アンドロメダ星雲に人類を送
ることより大きなインパクトを人類に与えるだろう。
私たちの心(mind)の中の様々な「クオリア」(qualia)に対応する物質的過程の性質
を明らかにすること、あるいはこのような「対応関係」のメタファー自体を超えることが
本質的である。この作業は、自然科学を従来の客観的視点に立った自然の記述のみを目的
とする物理主義の科学から脱皮させ、主観的な視点の起源をも視野に入れることを伴うだ
ろう。すなわち、私たちは、私たちの心的現象をも、自然現象の一部とみなし、心的現象
をも自然科学の記述の対象とするのである。
私たちの心の中にある「クオリア」の性質がどのように物質的過程から生み出されるの
か、そして、そもそも様々な「クオリア」が結びついた表象が感じられる枠組みである
「私の心」という主観性(subjectivity)の構造がどのような物質系にどのような条件の
下で現われるのかを明らかにすることは、客観的世界と主観的世界の間で分裂した私たち
の世界像を整合的なものにする上で必要不可欠なステップである。
「クオリア」や「主観性」の起源の解明は、アインシュタインの相対性理論以来の最大の
科学革命となるだろう。
「クオリア」や「主観性」の起源の解明は、自然科学の問題として重要であるばかりで
なく、人文的文化の究極的基礎を提供する。「クオリア」は、今後の人類の知的挑戦にお
ける本質的課題を象徴する概念である。その影響は、自然科学はもちろんのこと、人文科
学、芸術、文学、宗教、さらには人間とは何かという概念自体まで、広い範囲に及ぶだろ
う。
C.P.Snowは、自然科学の営みと人文主義的な営みの「二つの文化」の間に対立があると
指摘した。この「二つの文化」の間の亀裂を埋めることは、「クオリア」や「主観性」の
問題を追求することによって初めて可能になる。例えば、音楽の美しさを、進化論的な観
点、あるいはシャノン的情報理論から説明しようとするのはナンセンスである。音楽の美
しさは、ピッチや音色といったクオリアを正面から対象にすることによって、初めて議論
が可能になる。言葉の意味論を含め、人文主義的な営みの多くが、クオリアや主観性の起
源を明らかにすることによって、初めてその究極の根拠を与えられるだろう。
クオリアに象徴される心脳問題の解決は、従来の意味での自然科学のみではなく、広く
人文科学、文化、芸術、社会学、哲学、宗教などの全ての人類の営みを総合した総合的文
化運動の結果としてのみ可能となる。ただ、このような認識の下でも、コアとなる領域を
想定し、その領域に適した方法論を構築する必要がある。クオリアに対応するニューロン
の活動状態(Neural Correlates of Qualia)の研究は、このようなコア・ドメインに属す
る。
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1、心脳問題の歴史
The Qualia Manifesto
私たちが心(mind)を持つという事実は、人類が自覚的な意識を持ってから長い間、当
然の前提とされてきた。心の存在を前提にして、人間中心的な世界観が形成された。人間
が心を持つことは当たり前のことであって、それがどのように成立するかということが深
刻な問題として自覚的に問われることはなかった。このような態度は、例えばキリスト教
における人間中心主義的な世界観に表れている。
ニュートン力学の成功を一つの金字塔とする機械論的な宇宙観が成立するにつれ、世界
全体を自然法則に従って機械的に発展する物質システムとしてとらえる見方が定着してき
た。このような物理主義的な世界観が支配的になり、このような世界観の中には、私たち
の「心」のある場所はなかった。
デカルトは、心的現象と客観的物理現象を分離し、客観的物理現象のみを自然科学の対
象とする方法論を打ち立てた。心的現象は明らかに存在するにも関わらず、それは自然科
学の対象からははずされた。私たちの感覚の持つクオリアは、あたかも存在しないかのよ
うな擬制の下で、物理学を典型とする自然法則の解明が進んだ。
今世紀の初頭、ホワイトヘッドは、私たちの自然観が、クオリアのような質感に満ちた
心的現象の世界と、波動や粒子といった数、量で記述される客観的物質世界に分裂してい
ることを指摘した。
私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持
ち、心の中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッ
サール、ハイデガーらの現象学者たちであった。サルトルは、ある時、パリのカフェの中
で現象論学者に「君の目の前のコップ一つからも哲学をはじめることができるのだよ」と
言い聞かされて、感動のあまり顔が青ざめたとボーボワールが証言している。
心理学における行動主義(behaviourism)の運動は、クオリアや表象といった心的現象
を本来特徴づける性質が存在しないかのような擬制の下で、個体における刺激ー反応の入
出力関係のみを問題にした。行動主義は、心的現象の起源の解明という意味においては、
不毛であった。行動主義は、やがて、機能主義(functionalism)につながっていった。
一方、チューリングによるチューリング・マシーンの概念化や、フォン・ノイマンによ
る現代的なデジタル・コンピュータのアーキテクチャの設計によって、機能主義のプログ
ラムは具体的なシミュレーションが可能になった。
ミンスキーらによるstrong AIの立場(機能主義的にシステムを構成していくことにより、
意識を人工的に再現することができるという主張)に基づく研究は、人間の知性を客観的
なシステム構成によって再現しようという試みであって、機能主義の立場からの中心的な
研究プログラムの一つであった。
機能主義者は、しばしば「情報」(information)という概念に言及する。ここで言う
「情報」とは、意味論を捨象した、シャノン的な意味での情報概念である。シャノンの情
報概念は、統計的描像に基づいており、情報の意味論には何ら関与しない。それにも関わ
らず、シャノン的な統計的猫像に基づく情報概念が、脳の情報処理を解析するために用い
られて来た。私たちのある事物の認識は、その事物にだけ選択的に反応する性質(反応選
択性、response selectivity)を持つニューロン群の活動(一般には、時空間的なパター
ン)によってもたらされるという考え方が典型である。反応選択性は、統計的にしか定義
され得ず、個々のニューロン群の活動の時空間的なパターンがいかにして私たちの心の中
にある一定のクオリアを生むのかという心脳問題の核心には答えることができない。
機能主義的な脳の情報処理へのアプローチは、行動主義と同様、「クオリア」や「主観
性」のような心の問題の本質の解明には寄与するところが少なかった。
機能主義に代表される客観主義的科学において「心」の問題が扱われていない間隙を縫
って、いわゆるニューサイエンスやスピリチュアルといったジャンルが隆盛した。しかし、
これらの文化的動きは、客観主義的科学との整合性について真摯ではなく、いわば人間の
主観的なファンタジーの世界(それはとりもなおさず心の中のクオリアや表象の世界に過
ぎないのだが)に閉じていた。したがって、ニュー・サイエンスやスピリチュアル・ムー
ブメントが心の科学の真のブレイクスルーに繋がることはなかった。むしろ、ニュー・サ
イエンスやスピリチュアル・ムーブメントは、心的現象への関心を持つことがいかがわし
いものであるという科学者の間の偏見を増長したという意味で、ネガティブな側面を持っ
ていた。
このような中で、心脳問題に関する真摯な思考を積み上げてきたのは、哲学者たちだっ
た。
ダヴィッドソン(Davidson)は、"Mental characteristics are in some sense
dependent, or supervenient, on physical characteristics. Such supervenience might
be taken to mean that there cannot be two events alike in all physical respects
but differing in some mental respect, or that an object cannot alter in some
mental respect without altering in some physical respect." と述べて、この後心脳問
題を考える際に重要になる「重生起」(supervenience)の概念を提唱した。
1980年代の末から、科学者の間でも、意識の科学的解明に対する関心が高まった。
クリック(Crick)は、意識の持つ様々な属性の中でも、視覚的アウェアネス(visual
awareness)を解明することを最初のターゲットとするべきだとして、意識の科学的解明に
関するキャンペーンを推進した。
ペンローズ(Penrose)は、1989年に出版された「皇帝の新しい心」(The Emperor's
New Mind)の中で、機能主義的な人工知能で意識が再現できるというstrong AIの主張を
「裸の王様」であるとして激しく批判した。デジタル・コンピュータ上で実現できる計算
は、「計算的」(computational)と呼ばれる範囲となる。ペンローズは、意識は、非計算
的なプロセスを含み、このような意識の属性は、未解決の量子重力理論と関係していると
いうコンジェクチャ(conjecture)を提出した。
デイヴィッド・チャーマーズは、1994年、The Conscious Mindの中で、「クオリア」
こそが心脳問題における「難しい問題」(The Hard Problem)だと主張した。チャーマー
ズは、心脳問題において「クオリア」を表舞台に立たせる上で、一定の政治的役割を果た
した。チャーマーズの主張の特徴は、機能主義と質的二元論(property dualism)を同時に
主張した点にあった。
アリゾナ大学のグループは、意識の研究センターを立ち上げるとともに、意識に関する
国際会議をアリゾナ州ツーソンで2年毎に開いている。アリゾナ大学の活動が一つのきっ
かけになって、意識の研究に関する国際会議が頻繁に開かれるようになった。しかし、ア
リゾナ大学の研究者たちが中心になって推進している意識への量子力学的アプローチは、
行き詰まりを見せている。その最大の理由は、意識への量子力学的アプローチが、私たち
人間が通常意味するところの「意識」を生み出している脳のシステム論的な性質に無関心
であり、脳の素子のミクロな性質を論じることに終始していることである。極端なことを
言えば、量子力学的アプローチにおいて問題にされている「意識」は、(そのようなもの
があるとしてだが)全ての物質系に共通の一種の「原意識」(proto-consciousness)のよ
うなものであって、脳科学者や認知科学者が問題にしているところの「意識」は全く別物
であるとも言えるのである。
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2、「クオリア」と「主観性」
The Qualia Manifesto
クオリア(qualia)とは、私たちの心の中の表象を構成する要素の持つ独特の質感のこ
とである。例えば、「赤の赤い感じ」がクオリアである。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」
(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、
「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性
である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがク
オリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。
クオリアの中には、階層構造がある。クオリアが階層的に集合して、より複雑な表象
(representation, Vorstellung)が生じる。例えば、ガラスの透明な質感や、ガラスの表
面の色はクオリアであり、このようなクオリアが集合して、「コップ」という表象が構成
される。
クオリア(qualia)は、現在までの様々な神経生理学的データを検討すれば、ニューロ
ンの活動、とりわけ活動電位(action potential)と呼ばれる膜電位の変化によって生み
出されることは明らかであるように思われる。
クオリアや主観性は、従来の客観的視点に立った物理主義の延長ではとらえきれない。
客観的な立場からは、ある物質系がどのように時間発展をするかを記述できればそれで必
要十分である。しかし、クオリアや主観性が、ある物質系の時間発展に伴ってどのように
現われるかを記述する法則は、時間発展の客観的記述を与える法則とは全く性質が異なる。
素粒子論的な意味での「究極の法則」(Theory Of Everything)が例え成立しても、そ
れは物質系の客観的な記述を与えるだけだから、クオリアや主観性の問題の解明にはつな
がらない。例え、物理主義的な意味での「究極の法則」が成立したとしても、クオリアや
主観性を記述する自然法則は、そこから始まる全く新しい領域に属する。ここで前提にな
っているのは、心的現象もまた自然現象の一部であるという描像である。
クオリアや主観性に対応する脳の中のニューロンの活動を明らかにし、そこにどのよう
な対応原理が働いているのかを理解し、脳を含むどのような物質系に、どのような条件が
満たされた時にクオリアや主観性が宿るのかを明らかにすることが、現在人類に与えられ
ている最大の知的挑戦である。
クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように生まれてくるかということは、デ
ジタル・コンピュータにおけるコーディングと同じ思想に基づいている「反応選択性」
(response selectivity)の概念では説明できない。私たちは、認識におけるマッハの原
理(Mach's Principle in Perception)から出発しなければならない。
クオリアは情報の意味論的側面と深く関連する。クオリアは、シャノン的な情報理論で
は全く解明することができない。
クオリアが埋め込まれる主観的な時空構造が、脳のニューロンの発火からどのように構
成されるかを考える際には、因果性(causality)が本質的な役割を果たす。特に、主観的
な時間の構成においては、相互作用同時性の原理(Principle of Interaction
Simultaneity)が出発点を提供する。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパ
ターン(The neural correlates of qualia)の解明のために必要な議論よりもさらにシス
テム論的な議論が要求される。
ここにおける「主観性」のアプローチは、量子力学の観測問題において示唆されて来た
「主観性」の役割と直接の関連性を持たない。私は、量子力学における「観測」の概念、
及びその背後にある「主観性」の概念は、いたずらに議論を混乱させてきただけだと考え
る。
クリックとコッホが提唱している、前頭前野に直接投射する脳の領野の活動のみが視覚
的アウェアネスにのぼるというようなモデルは、トリヴィアルな主観性のモデルである。
このように、主観性の座(ホムンクルスのいるところ)をどこかに置き、そこへの情報の
伝達としてアウェアネスを説明しようとする試みは、主観性の問題の本質的解決にはつな
がらない。私たちの最大の課題は、ノン・トリヴィアルな主観性のモデルを作ることであ
るが、このことは現時点ではとてつもなく難しい。
ノン・トリヴィアルな主観性のモデルを作る上で、志向性(intentionality)の概念が重
要になってくると思われる。ここで、志向性とは、ブレンターノが心的表象に特有の性質
とした性質で、私たちの心が「○○に向かいあっていること」(directedness)を指す。
両眼視野闘争や、ブラインド・サイトなどの現象を含めた視覚的アウェアネスの性質を説
明するためには、志向性を、クオリアとは別の心の表象の要素と考える必要がある。
志向性と視覚的アウェアネスに関するTokyo '99の発表のabstract
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3、関連する諸問題
The Qualia Manifesto
現代物理学では、時間の中で「今」には何の特別な意味もない。心の起源を明らかにす
るためには、最終的には、「今」(Now)が特別な意味を持つような時間の構造をつくり出す
必要がある。
空間の中で、「私」という視点が占める特別性と、時間の流れの中で「今」という時点
が占める特別性の間には、何らかの内的な関連性があるように思われる。
脳の情報処理プロセスの中には、明らかに非局所的と見える側面がある。この非局所性
(non-locality)は、量子力学の非局所性と必ずしも関連性をもつとは限らない。むしろ、
量子力学との関連で言えば古典的な時空から、相互作用同時性を通して構築されるある種
の非局所性と関係している可能性がある。
上の点に関連して、相対論的な時空は、必然的な非局所性を含み、それが量子力学の非
局所性につながっている可能性がある。この点において、ミンコフスキーによるアインシ
ュタインの相対論の数学的定式化は不完全である可能性がある。
計算可能性は、心の本質の議論において、あまり重要な意味を持たないかもしれない。
例えば、デジタル・コンピュータによってシミュレーションが可能であるということは、
必ずしも、脳を理解する上でチューリング・マシーンのメタファーが有効であるというこ
とを意味しない。あり得る一つの可能性は、脳の情報処理プロセスはチューリング・マシ
ーンでシミュレーション可能であるが、情報処理の本質は、チューリング・メタファーで
は有効に理解できないということである。
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4、方法論とコンジェクチャ
The Qualia Manifesto
:方法論:
クオリアの問題を解決するための方法論としてもっとも重要なのは、逆説的であるが、こ
の問題が安易に解けたという幻想を持たないこと、そのような「無知の知」で武装するこ
とである。Strong AIの主張者は、この「無知の知」そのもの、ないしは、そのような認識
に至る感受性、論理性を欠いていたがために心のモデルに到達できなかったのである。
クオリアとニューロンの時空的発火パターンの間の相互関係の解明の最初のターゲットと
しておそらく適切なのは、「色」(color)のクオリアである。 クオリアの起源を知的に把握するのと同様、「主観性」の起源を知的に把握することに
も、現時点では深刻な方法論的困難がある。まず、この困難がいかに深刻なものであるか
を理解する必要がある。Chalmersは、クオリアの問題が心脳問題におけるhard problemだ
と述べたが、同様に、主観性の問題も、hard problemであることを認識する必要がある。
ニューロンの発火とクオリアの間の対応関係を考える際には、ニューロンの発火の時空
間的なパターンに様々な変換を施した時の不変性が問題にされなければならない。
方法論的に重要なのは、クオリアの質感そのもの(例えば、「赤」という色の質感その
もの)が、クオリアを感じる枠組みである主観性の構造そのものに依存するかどうかを明
らかにすることである。
:コンジェクチャ:
心的現象が随伴現象であるという仮説は、おそらく最終的には捨て去られなければなら
ないだろう。あからさまでトリヴィアルな二元論に陥ることなくこのジャンプを行うため
には、二項間関係に基づく従来の自然法則の形態を根本的に見直す必要があるだろう。
「相互作用同時性の原理」などの考え方に基づく時空構造は、必然的に量子力学的な非
局所性を含むだろう。すなわち、神経回路網という古典的な力学の上に、量子力学とは無
関係に、非局所性をその特徴とする力学構造を作り上げることが可能になると考えられる。
このことが、「統合された並列性」などの、意識を特徴づける性質と深く関係しているだ
ろう。
「主観性」は、何らかの特異点として表れ、その周囲では、情報のある側面に関する保
存則が破れていることが見い出されるだろう。
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5、二つの文化の融合
The Qualia Manifesto
クオリアや主観性の基礎を明らかにすることは、自然科学の問題だけではなく、より一
般の人文的文化にも大きなインパクトを持つことになる。
視覚の芸術である美術、聴覚の芸術である音楽、言語の芸術である文学などの人文的文
化は、「クオリア」と「主観性」を前提にした人間の活動である。一方、従来の自然科学
においては、「クオリア」や「主観性」が何らかの本質的役割りを果たす余地は全くなか
った。したがって、ここに、C.P.Snowの言う「二つの文化の対立」の根本的原因があった。
例えば、ヴァイオリンの音を周波数分解しても、それはヴァイオリンの音のクオリアを
理解する上では何の役にも立たない。同じように、色とは光の波長のことであるというの
は、おおいなる誤解である。音楽における「美」を、シャノン的な情報論的観点から、あ
るいはダーウィン的な進化論的観点から論ずるのは全くのナンセンスである。音楽の美は、
音楽を構成するクオリアに即して研究されなければならない。音楽を構成するクオリアが
音という物理的刺激によってもたらされるというのは単なる偶然である。本質的なのはク
オリアの方であって、音という物理的刺激の属性の方ではない。
デジタル情報処理技術の発達は、人文的文化と自然科学的文化をつなぐ最初のきっかけ
となった。しかし、ここで用いられている情報のコーディングは、情報の伝達、貯蔵にお
いては有効であるものの、人文的文化の本質である情報の意味には全く関係を持たない。
人文的文化における意味を扱うには、ニューロンの発火から「クオリア」が生まれる原理
に基づく、「クオリア・コーディング」を用いなければならない。
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6、来るべき新しい状況
The Qualia Manifesto
未来感覚とは、一瞬先の未来が、過去から現在までとは全く異なるものになりうるとい
う可能性への緊張感を孕んだ感受性を持つことである。クオリアの問題を解明する上では、
未来感覚が大いに必要になる。
今日においては、宗教的な体系性(キリスト教、仏教、イスラム教)などは、形而上的
な意味は持たないだろう。しかし、社会学的には、依然としてこのような体系性が一定の
力を持っていることも確かである。このような宗教的価値の体系性(キリスト教、仏教、
イスラム教)は解体されなければならない。宗教的感情もまたクオリアであり、それは、
脳の中のニューロンの活動パターンと相関を持つ。トマス・マンは、全ての芸術の究極の
あこがれは、宗教的儀式であると述べた。芸術と宗教に共通の要素は、それらがクオリア
に直接訴えかけるということである。クオリアの起源が明らかにされることによって、宗
教的価値と芸術との共通の基盤が示されるだろう。
宗教的感情と、宗教的体系を区別するべきである。たとえば、キリスト教の教会へ行っ
て、パイプオルガンを聞くと、ある種の感情が芽生える。この感情のクオリアは、原理的
にはキリスト教とは無関係なものである。人々のキリスト教のイメージの中に、パイプオ
ルガンの音は非常に強く根付いている。だが、パイプオルガンを聞いた時に心の中に引き
起こされるクオリアが、仏教と結びついても良かったはずだ、ここには歴史的偶然が大き
く関与している。キリストの生涯といった歴史的装置は、単にキリスト教という宗教の体
系性を偽装するために存在しているだけで、さまざまな宗教的感情を、この体系性の中に
埋め込まなければならない必然性は本来ない。宗教を構成するさまざまな感情や概念(こ
れらもクオリアに他ならない)を一度諸宗教の体系性の圧政から解放して、一つ一つの起
源と、その真実性を検証する必要がある。
人間の脳の中のニューロンのコンフィギュレーションから、人間の心の中で感じること
のできるクオリアのカテゴリーには限りがある。人間の心が感じることのできるクオリア
は、本来のクオリアの空間の膨大な可能性のごく一部であることが認識される。つまり、
人間には、本来無限に存在するクオリアのレパートリーの一部しかアクセス可能ではない
のだ。このような認識は、従来形而上学と言われていた分野の実在性についての見直しに
つながるだろう。その結果、形而上学が復活するだろう。
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7、アジテーション
The Qualia Manifesto
革命が近い。単なる科学革命ではなく、人間存在の拠って立つ基盤自体が変化し、私た
ちと世界の関係自体が変化するような革命の足音が聞こえはじめている。
人間とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか? このような究極の問いに答える
ための鍵となるステップが今や見えてきている。
人間とは何かという問いに答える鍵は、私たちの心の中のクオリア、及びそれを支える
主観性の構造の物質的基礎を明らかにすることである。
クオリアや主観性の起源を明らかにすること以上に重要な知的チャレンジは存在しない。
私たちがクオリアや主観性の起源を理解した時、その認識が私たちの人間観、世界観を
どのように変えるかはわからない。来るべき認識革命の後で私たちの迎える状況がどのよ
うなものになるにしろ、その可能性が今や開かれていること、そして、認識革命に至る道
筋は論理的な議論とち密な思考と知的な勇気によって開かれうることを再確認しておこう。
クオリアの問題の解明には、論理的厳密性、開かれた感性、そして、今までにない思考
のプロセスに踏み出す、知的勇気が必要である。
クオリアの問題の解明は、一個人では不可能である。自然科学者、数学者、芸術家、宗
教家、心理学者、社会学者、全ての分野の優れた知性が共同し、総合的文化運動を起こさ
なければ、クオリアという人間の存在にとって核心的な概念の解明は可能にならない。
今や、勇気あるステップを踏み出す時機が熟している。
知的に誠実であり勇気を持つ者達よ、「クオリア」の解明のために団結せよ!
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