フカ 氏 名 ダ マ リ ア 深 田 麻里亜 学 位 の 種 類 博 士 (美 学 位 記 番 号 博 美 学位授与年月日 平 成 24年 3 月 26日 学位論文等題目 〈論文〉ヴィッラ・マダマのロッジャ装飾 術) 第 355 号 論文等審査委員 (主査) 東京芸術大学 (副査) 〃 ( 〃 ) ( 〃 ) 教 授 (美術学部) 越 川 倫 明 〃 ( 〃 ) 田 辺 幹之助 〃 准教授 ( 〃 ) 立 教 大 学 〃 佐 藤 直 加 藤 麿珠枝 樹 (論文内容の要旨) ロ ー マ の 北 西 、 モ ン テ ・ マ リ オ の 丘 に 建 つ ヴ ィ ッ ラ ・ マ ダ マ は 、 教 皇 レ オ 10世 の 命 に よ っ て ラ フ ァ エ ッ ロ が 構 想 し た 古 代 風 建 築 で あ る 。 建 設 は 1518年 頃 よ り 開 始 さ れ 、 1520年 に ラ フ ァ エ ッ ロ が 、 翌 年 に レ オ 10世 が 死 去 す る と 、 そ の 計 画 は 枢 機 卿 ジ ュ リ オ ・ デ ・ メ デ ィ チ ( 1523年 に 教 皇 ク レ メ ン ス 7 世 と し て 即 位 ) を パ ト ロ ン に 、 ラ フ ァ エ ッ ロ 工 房 出 身 の 芸 術 家 た ち に 引 き 継 が れ た 。 内 部 装 飾 は 1520年 頃 か ら 実 施 さ れ た が 、 1527年 の 「 ロ ー マ 劫 掠 」 を 機 に 建 設 が 中 断 す る と 、 計 画 は 全 体 案 か ら み れ ば 一 部 分 の み 完 了した状態のまま放棄される結果となった。 先行研究では、ラファエッロによる初期構想の復元など、建築史的観点からの考察が多く行われてき た。一方、実際に建設された建築内部の装飾に関しては、ブロッホ、ルフェーヴル、ナポレオーネによ る記述から概要を把握することができるものの、それらは建築全体を扱った基礎研究における付随的な 解説に留まっている。装飾にパトロンと関連するテーマ性を読み解く試みは、チエリ・ヴィアによる論 考が唯一であるが、その考察は細部には及んでいない。こうした状況から、本論文ではヴィッラ内部の ロッジャ装飾を主な考察対象に据え、その図像体系を明らかにすることを試みる。 Ⅰ章「総論」では、建設の歴史的背景を確認するために、注文主であるメディチ家の政治状況と建設 のクロノロジーを概観し、装飾に関する研究史をまとめる。メディチ家の迎賓館という機能を考慮して ヴ ィ ッ ラ 建 設 が 企 図 さ れ た の は 、教 皇 庁 に お い て 外 交 政 策 が 重 要 な 政 治 課 題 と な っ て い た 時 期 で あ っ た 。 未完の建築への高い関心と古代風装飾に対する総体的評価の一方、個別主題については建設当初から近 年の美術史研究にいたるまで、ほとんど話題に上らなかったことを、研究史の俯瞰から読み取る。 Ⅱ章からⅣ章では、ヴィッラの「庭園のロッジャ」を構成する3つの径間の装飾について論じる。Ⅱ 章では、中央径間のヴォールトに表された「四季」と「四大元素」を主要な考察の対象とする。これら はコスモロジカルな世界観を象徴的に表す図像であり、左右の径間に展開する装飾体系の基点に相応し い主題をなしている。 巡る季節の図像はとりわけ、メディチ家の君主たちが掲げた「回帰する黄金時代」というモットーに も関連していると考えることができる。 Ⅲ 章 で は 、 南 西 側 径 間 に あ た る 左 廊 が 、 教 皇 レ オ 10世 の 治 世 を 讃 え る 主 題 構 成 と な っ て い る 点 を 論 じ る。ヴォールト中央の《ネプトゥヌス》は、クリストーフォロ・ランディーノの『アエネーイス』解釈 を 反 映 し た「 善 き 君 主 」を 象 徴 す る「 ク オ ス・エ ゴ 」の 構 図 に 従 っ た 表 現 で あ る こ と を 新 た に 指 摘 す る 。 海神の周囲に配された4点の楕円形場面には、フィロストラトス『イマギネス』を題材に、ウェヌスと アモルたちが治める王国が表されており、これらは《ネプトゥヌス》と対応する、君主のもとに平和に 統治された世界の表象と捉えることができる。ここには、レオが教皇位に就いて以来掲げていた「平和 をもたらす者」という自己イメージと共通する特徴を見出すことができるだろう。 Ⅳ章では、北東側径間にあたる右廊の装飾が、レオの後継者としてメディチ家当主の座に就いた枢機 卿ジュリオ・デ・メディチの美徳を称揚する図像を形成していることを明らかにする。ヴォールト外縁 に 描 か れ た 、 ジ ュ リ オ の 水 晶 球 の 標 章 「 CANDIDA TVTAVIDES 危 険 を 免 れ た 白 き も の を 汝 は 見 る 」 と 的 確 に呼応するプログラムがここには展開していると考えられる。南東側エクセドラにはストゥッコ浮彫連 作 《 ポ リ ュ フ ェ モ ス と ガ ラ テ ア 、 ア キ ス の 物 語 》、 北 東 側 リ ュ ネ ッ ト に は 《 眠 る ポ リ ュ フ ェ モ ス 》、 ヴ ォ ールト頂点には《ガラテア》が表されている。各主題はジョヴァンニ・ボンシニョーリ訳『変身物語』 ( 1497年 )に 付 さ れ た 寓 意 解 釈 に 基 づ き 、 「 淫 欲 」を 暗 示 す る ポ リ ュ フ ェ モ ス を 低 次 な 存 在 と し て 、彼 か ら逃れる無垢な「貞潔」を象徴するガラテアが至高の位置を占めるという、対比構造を意図した図像上 のアンサンブルをなしていると読み解くことができる。 Ⅴ章では、庭園に設置された《象の泉》を考察の対象とする。現在失われた装飾の再構成を試みた上 で、象の彫刻、壁面に本来表されていた亀やイルカといった動物図像が、教皇クレメンス7世の君主と しての自己表象と関連する可能性を論じる。象は「君主」の寓意とみなしうることを、当時のヒエログ リ フ 解 釈 を 代 表 す る ピ エ リ オ・ヴ ァ レ リ ア ー ノ の 著 作『 ヒ エ ロ グ リ フ ィ カ 』 ( 1556年 )の 記 述 か ら 明 示 し 、 ま た 他 の 水 生 動 物 に つ い て も 同 様 の 文 脈 で の 解 釈 が 可 能 で あ る こ と を 、『 ポ リ フ ィ ロ の 夢 』( 1499年 ) と の比較を通じて指摘する。 『 ポ リ フ ィ ロ の 夢 』で は 、泉 の 装 飾 に 用 い ら れ た 動 物 が 寓 意 的 連 想 関 係 の も と に次々と登場するくだりがあるため、そのテクスト内容が装飾の直接的な着想源となったとも推測でき る。 以上の考察を通じて、これまでの研究で指摘されたことのない装飾プログラムの詳細が明らかとなる だ ろ う 。 こ こ に は 、 施 主 で あ る 教 皇 レ オ 10世 と 枢 機 卿 ジ ュ リ オ ・ デ ・ メ デ ィ チ の 治 世 と 美 徳 を 称 揚 す る ための図像体系が展開しているのである。その図像は、構図の上ではローマに保存された古代装飾や、 ラファエッロの作品を参照しつつ、フィレンツェで培われた人文主義的古典解釈を足掛かりに実施され たことが明瞭となった。ラファエッロの死から「ローマ劫掠」が勃発するまでの限定的期間に制作され た、異教主題を大々的に用いた装飾の詳細な様相を提示したことは、本論文の新知見と言える。ヴィッ ラの図像は、前後して実施されたメディチ家の一連の装飾事業とも関連しており、劫掠後にイタリア内 外 の 宮 廷 で 展 開 し た 芸 術 へ 継 承 さ れ る 典 型 的 な 図 像 レ パ ー ト リ ー を な し て い る と 考 え ら れ る 。そ の た め 、 これまで看過されてきた装飾の重要性と位置づけに関する再考をも促すことになるだろう。 ヴィッラ建設の中断が決定的となった劫掠によって、クレメンス7世治世下のローマでは、文化的発 展もまた断絶を余儀なくされることになる。ヴィッラの装飾は、はからずもローマにおけるメディチ家 の権威と芸術パトロネージによる「黄金時代」の最後の証言となったのである。 (博士論文審査結果の要旨) 本 論 文 は 、 16世 紀 初 頭 に ロ ー マ で 建 設 さ れ た メ デ ィ チ 家 の 郊 外 型 別 荘 ヴ ィ ッ ラ ・ マ ダ マ の 内 部 装 飾 を 研究対象としたものである。同建築は、ラファエッロの設計により開始されたが、野心的な全体計画の う ち ご く 一 部 だ け が 実 際 に 建 造 さ れ 、 1520~ 25年 頃 に 元 ラ フ ァ エ ッ ロ 工 房 に 属 し た 芸 術 家 た ち ( ジ ュ リ オ・ロマーノ、ジョヴァンニ・ダ・ウーディネ、ジャンフランチェスコ・ペンニら)を中心に、ストゥ ッコと壁画で装飾を施された。過去の研究史においては建築史的考察が主流であり、内部の装飾、とり わけその図像プログラムに関する考察は非常に手薄であった。本論文は主として「庭園のロッジャ」と 呼ばれる3つの径間から成る建築部分につき、多数の装飾モティーフを詳細に検討し、各径間の装飾主 題がもつ意味構造を丹念に読み解いた労作といえる。結論を端的に要約すれば、中央径間はコスモロジ カルな図像体系にメディチ家を称揚する暗喩的モティーフを重ね合わせたものであり、左廊(南西側径 間 )は 教 皇 レ オ 10世( ジ ョ ヴ ァ ン ニ・デ・メ デ ィ チ )の 統 治 の 理 想 化 さ れ た 表 象 を 、右 廊( 北 東 側 径 間 ) は枢機卿ジュリオ・デ・メディチの個人的インプレーザに呼応した「純潔と不可侵性」の表象をなすも のだとされる。 論文の第一章は、ヴィッラ建設の経緯とクロノロジー、および当時のメディチ家をめぐる政治的状況 を的確に要約するとともに、内部装飾に関する先行研究についてまとめ、本論文の研究史上の位置づけ と問題設定を明確にしている。続く第二章では、中央径間のコスモロジカルな図像体系を先行研究を参 照 し つ つ 吟 味 し 、 そ こ に メ デ ィ チ 家 な い し レ オ 10世 を 称 揚 す る 象 徴 的 要 素 が 巧 み に 織 り 込 ま れ て い る 様 相を指摘している。 第三章では、左廊の装飾が分析される。筆者は、天井中央のストゥッコ浮彫《ネプトゥヌス》をウェ ル ギ リ ウ ス 『 ア エ ネ イ ス 』 に 由 来 す る 「 ク オ ス ・ エ ゴ 」 の 図 像 と 解 釈 し 、 15世 紀 の 人 文 主 義 者 ク リ ス ト ーフォロ・ランディーノの著作『カマルドリ論議』の記述およびレオナルド・ダ・ヴィンチの素描《ネ プ ト ゥ ヌ ス 》 を 比 較 材 料 と し て 、 こ の 浮 彫 が 善 き 統 治 者 と し て の レ オ 10世 の 暗 喩 で あ る 点 を 明 ら か に し ている。さらに、周囲に展開される諸図像が「平和のもとに繁栄するウェヌスとアモルの王国」の主題 を形成していることから、 「 ク オ ス・エ ゴ 」の 図 像 と の 意 味 上 の 密 接 な 関 連 性 を 指 摘 し 、こ の 見 解 を レ オ 10世 時 代 に 制 作 さ れ た タ ペ ス ト リ ー の 図 像 や 、 の ち の フ ィ レ ン ツ ェ 公 国 時 代 に フ ィ レ ン ツ ェ 政 庁 に 描 か れた寓意図像との比較を通じて根拠づける。このように、ロッジャ左廊の図像を、メディチ家に関連し た 15世 紀 後 期 か ら 16世 紀 中 期 に い た る 象 徴 体 系 の 系 譜 の な か に 的 確 に 位 置 づ け る 見 方 は 、 説 得 力 に 富 ん だ新知見として評価できるものである。 第四章では、右廊の装飾が分析される。ここで解釈の軸となるのは、天井中央の海のニンフの像と、 リ ュ ネ ッ ト 部 分 に 描 か れ た《 洞 窟 の ポ リ ュ フ ェ モ ス 》、エ ク セ ド ラ 部 分 の 半 円 天 井 に 見 ら れ る ス ト ゥ ッ コ による連作「ポリュフェモスとガラテア、アキスの物語」である。筆者はこれまで同定のあいまいだっ た中央のニンフ像をガラテアと特定し、この図像がリュネットおよびエクセドラの装飾主題と密接に呼 応し合っている事実を指摘した。独創的な論旨といえるのは、第一に、これまでの研究者から看過され てきたルーヴル美術館所蔵の作者不詳の素描を《洞窟のポリュフェモス》の準備素描の模写と位置づけ ることで詳細な図像分析を可能にした点、第二に、オウィディウス『変身物語』の同時代の版本に添え られた寓意解釈テクストを論拠として、ガラテアとポリュフェモスの関係性を、ジュリオ・デ・メディ チのインプレーザである「無垢の白」の概念と結びつけた点である。その結果、右廊の径間全体の装飾 が相互に関連し合いながら明確な意味構造を形成している事実が明らかになった。 第五章では、 「 庭 園 の ロ ッ ジ ャ 」を 離 れ 、屋 外 の 庭 園 に 設 置 さ れ た《 象 の 泉 》が 分 析 さ れ る 。こ の 装 飾 の図像分析においては、ロッジャ右廊の図像と密接に関係する「無垢の白」のインプレーザが解釈の鍵 をなし、象の伝統的な象徴性である「善き統治者」のイメージと結びつけられている。この泉はこれま で特に象徴的レベルでの解釈を与えられておらず、筆者の知見は建築内部の図像体系と整合した、新し い読解として有効性をもっている。 以上のように、本論文はヴィッラ・マダマの装飾図像を体系的に読み解いた意欲的な論考であり、多 くの説得的な新知見を含んでいる。この装飾の図像プログラムをこれほど踏み込んで読み解いた研究は 国際的にも過去に例がなく、この点に本論文の最大の意義が認められるであろう。右廊の楕円形メダイ ヨン画のプログラム上の位置づけ、アトリウム部分のストゥッコ装飾の位置づけなど、本論文で論じき れなった問題もないわけではなく、これらの点に関しては、今後さらに考察を進めることが望まれるだ ろ う 。 し か し な が ら 、 ロ ッ ジ ャ を 中 心 に 展 開 さ れ る 装 飾 に つ い て 15世 紀 以 来 の メ デ ィ チ 家 の 象 徴 体 系 に 照らして解釈を深め、その後のマニエリスム時代の多様な装飾事例への展開を展望した論旨は、イタリ ア・ルネサンス美術研究に新たな知見をもたらした成果として高く評価することができる。
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