ノルマンディー公ウィリアム 1 世 (イングランド王ウィリアム 1 世)

ノルマンディー公ウィリアム 1 世 (イングランド王ウィリアム 1 世)
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ウィリアム 1 世(William I, 1027 年 - 1087 年 9 月 9 日)は、イングランド王(在位:
1066 年 - 1087 年)
。通称は征服王(William the Conqueror)
。ノルマンディー公(ギヨー
ム 2 世、在位:1035 年 - 1087 年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コン
クエスト)
、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。
ウィリアムは英語読みであるが、むしろフランス語読みのギヨーム(Guillaume)と呼ぶ
方がふさわしいだろうという見解もある(彼自身はフランス出身であり、彼自身も周囲の
人もフランス語を使っていたので )
。彼の墓にはラテン語風に GUILLELMUS と綴られて
いる。
生涯
ノルマンディー公時代 [編集]ノルマン人の支配するノルマンディー地方の君主であるノル
マンディー公ロベール 1 世の庶子として、フラン
スのファレーズで生まれた。母は北西フランスの
皮なめし職人の娘アルレット。出生のため庶子公
ギヨーム(Guillaume le Bâtard)とも呼ばれる。
1035 年、ギヨームは父から継承者に指名され、
エルサレム巡礼に出発して戻る途中に没した父の
後を継いでフランス王の臣下であるノルマンディ
ー公になったが、若年のため重臣達との争いが起
こり、1047 年にフランス王アンリ 1 世の助けを得
てヴァル・エ・デュヌの戦いで諸侯の軍に勝利、
領内の安定化に尽力して勢力を蓄えると、1049 年
にウェセックス王アルフレッド大王とマーシア王
オファの子孫であるフランドル伯ボードゥアン 5
世の娘マティルダと結婚したが、近親であること
を理由にローマ教皇レオ 9 世から婚姻の無効を申
し立てられた。
この頃のイングランドはサクソン七王国の支配
の後、一時デーン人の支配を受けたが、再びウェセックス王家のエドワード懺悔王がイン
グランド王に即位した。その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので、世嗣の
いないエドワード懺悔王の跡を周辺国の王や諸侯達は虎視眈々と狙っていた。ギヨーム は
1052 年にイングランドへ渡海、懺悔王から王位継承を約束されたとされる(懺悔王の母エ
マはギヨームの大叔母であり、懺悔王は従叔父に当たる)
。
ノルマンディーへ帰還後の 1053 年にマティルダと改めて結婚、レオ 9 世の結婚禁止令は
1
1059 年になって教皇ニコラウス 2 世によって解除され、イングランド王家と縁戚を得るに
至った。マティルダとの間にノルマンディー公ロベール 2 世、イングランド王ウィリアム 2
世、ヘンリー 1 世、アデラ(スティーブンの母)などが生まれた。後に腹心となるランフ
ランクともこの頃に出会い、彼をルーアン大司教に任命した。1063 年にル・マンとメーヌ
を征服、領土を拡大した。
翌 1064 年、懺悔王の義兄でイングランド王家と連なるハロルド・ゴドウィンソン(後の
ハロルド 2 世)がフランスに渡ろうとして嵐で難破、ノルマンディーに漂着した。ギヨー
ムはハロルドを歓待、ハロルドもギヨームに臣従の礼を取り、懺悔王亡き後のギヨームの
王位継承を支持することも約束した。しかし、ハロルドはイングランド帰国後にこの約束
を破ることになる。
ノルマン・コンクエスト
1066 年 1 月にエドワード懺悔王が死去すると、ハロルドが名乗りをあげてイングランド
王ハロルド 2 世に即位した。その弟トスティはこれに不満を持ちノルウェー王ハーラル 3
世を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込んだ。ギヨームもエドワー
ド懺悔王とハロルドとの約束
を掲げて 9 月 28 日、6000 人
の騎士を含む 12000 の兵を率
いてイングランド南岸に侵入
した。
両面に敵を受けたハロルド
2 世は、まずトスティとハー
ラル 3 世を 9 月 25 日のスタ
ンフォード・ブリッジの戦い
で討ち取ると、反転して 10
月 14 日にヘースティングス
でギヨーム軍と戦った(ヘイ
スティングズの戦い)
。騎兵を主力とするノルマン軍ははじめ歩兵中心のイングランド軍に
苦戦を強いられたが、敗走すると見せかけて後退し、それを追って敵軍が陣形を崩したの
を機に反転して攻勢をかけ、ついにハロルド 2 世を討ち果たした。ドーバー、カンタベリ
ーも落とし、12 月にロンドンを降伏させた。
1066 年 12 月 25 日、ギヨームはウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム 1
世として戴冠した。こうしてウィリアム 1 世はフランス王臣下にしてイングランド王の地
位を得た。
エドワード懺悔王の又甥で後継者に指名されていたエドガー・アシリングを擁立したス
コットランド王マルカム 3 世(エドガーの姉マーガレットと再婚していた)とデンマーク
2
王スヴェン 2 世は 1068 年に北部貴族の反乱を支援してイングランドに侵攻したが、1071
年に阻止、マルカム 3 世を臣従させてエドガーと和解、イングランド支配を安定させた。
イングランドの統治
ウィリアム 1 世は旧支配勢力のサクソン貴族を駆逐して土地を奪うとノルマン人の家臣
に与え、同時に戦時への参戦を
約束させ、イングランドに封建
制度を確立した。王領もイング
ランド全域の 5 分の 1 に達し、
御料林の拡大と直轄軍所有で王
権も拡大した。1070 年にランフ
ランクをカンタベリー大司教に
任命、1072 年にランフランクが
ヨーク大司教を従属させようと
して生じた争いに干渉し、カン
タベリー側に肩入れしてこれを
第 1 位の大司教と定め、イング
ランド宗教界を傘下におさめる
ことにも成功した。ローマ教皇
グレゴリウス 7 世は世俗君主に
よる聖職者の任免を問題として
いたが、ウィリアム 1 世はイン
グランド国内の聖職者に対する
国王の優越を主張、後にイング
ランドにも叙任権闘争が生じる
きっかけとなった。
エドワード懺悔王の財務・文書
(1087 年のウィリアムの所領)
制度は継承したが、国王裁判所の設置などで司法制度も整え、1085 年には最初の土地台帳
とも言うべきドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)が作成され税制度も定められ、
同時に軍事力も把握された。1086 年にソールズベリーでイングランド全ての領主を集め、
自分への忠誠を誓わせた(ソールズベリーの宣誓)
。この宣誓は以後のイングランド王も繰
り返し行い、貴族の家臣である陪臣も国王と直接忠誠を誓う義務を負った。
1087 年、フランス遠征中に落馬して受けた傷が原因で、ルーアンに近いサン・ジャーヴ
ェにて 60 歳で亡くなった。死因はマンテの攻城戦の折、落馬した時に鞍頭で受けた胴部の
傷が原因だった。遺体はノルマンディーのカーンにあるセントピーターズ教会で埋葬され
た。次男ウィリアムはウィリアム 2 世としてイングランド王に即位し、長男ロベールがノ
3
ルマンディー公に叙位された。後にロベール 2 世はフランス王フィリップ 1 世と結んで 2
度に渡ってウィリアム 2 世と対峙した。
ウィリアム 1 世のイングランド征服の後、イングランドが外国軍によって征服されるこ
とはなく、後の王家は全てウィリアム 1 世の血統を受け継いだ。またウィリアム 1 世の宮
廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されたが、時代と共に現地の言葉と融合し現代
に至る英語が形成されていった。
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