11 氷雪の穂高(西穂~奥穂)

氷雪の穂高(西穂~奥穂)
1966年(昭和41年)積雪期の記録
昨年十一月頃から先輩のMさんと計画を練っていた積雪期の穂高行が実現することにな
った。初めての雪のアルプスである。
計画は、西穂高岳から稜線をトレースして奥穂高岳に至り、さらに北穂高小屋をベース
に滝谷のルートを何本か登ろうとするものである。パートナーは先輩のMさん。
今年は例年にない雪の状態の悪さで、3月、奥又白の松高ルンゼでJCCの遭難事故な
どがあり、入山した4月の初めには冬の遭難者(遺体?)がまだ五人も山中に残っている
ということだった。しかしそんなこととは関わりなく、自分の心は氷雪と岩の穂高に入れ
るという喜びだけで、しばし我を忘れて白銀に輝く稜線の素晴らしさに酔っていた。
早春の上高地は静寂そのもので、澄んだ梓川の流れと萌え始めたケショウヤナギの薄緑
や氷雪の山稜を見てややロマンチックな気分に浸っていた。
自分が目指すアルピニズムは、今ここで本物らしいものになりつつある(?)
。厳冬の鳥
海山で鍛え、ついに本格的な氷雪の山に挑もうとする幸福感に、これ以上のものは欲しな
い気分であった。
凍てつくような大気の中に試練は始まった。4月7日、早朝3時半、上高地の木村小屋
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を出発、まずは西穂高に向かう。どちらかといえば岩場より氷雪に自信がある。しかし、
西穂山荘前からの稜線を登るほどにさすが3000メートル近いだけあって鳥海山などと
は比較にならないほど岩と氷の世界が厳しい。ナイフリッジや雪庇、青氷をまとった岩稜
など一寸でも気を緩めることができない緊張の連続である。そんな困難さを一つひとつク
リアするたびに興奮度は上がりっ放しだ。
西穂山荘から比較的緩い雪の斜面を登り、独標をめざす。そこから次のピラミッドピー
クへ向かう独標からの下りは飛騨(岐阜県)側の岩場を回り込んだ。西穂高岳はⅠ峰から
Ⅲ峰まで三つのピークから成り、中央のⅡ峰が主峰の西穂高岳である。この山頂を越えた
あたりから激しい吹雪になった。西穂の下りは慎重を期してアプザイレン(懸垂下降)を
した。吹雪がますます激しくなったのでⅢ峰付近の岩陰で、時間は早かったがビバークす
ることにした。岩と雪のくぼみに腰掛け、ツエルトをかぶるだけのビバークである。
3日目はビバークサイトから間ノ岳、天狗岩を越えて天狗のコルまで鋭い雪稜のトレー
スとなった。間ノ岳の手前に小さなピークが二つほど、ナイフリッジ(ナイフのように鋭
い雪稜)に雪庇が飛騨側に発達していた。天狗岩への登りは岩稜となって、やはり雪庇が
あった。天狗岩から30メートル懸垂下降して広い天狗のコルに下りた。吹雪というほど
ではなかったが好天ではない。コルには避難小屋があるはずというが、それは皆目わから
なかった。午後2時をまわっていたので、2度目のビバークをすることにした。平らな雪
原にツエルトを広げ、昨夜の腰掛ビバークと違ってコルでは伸び伸びと寝ることができた。
4日目の出発は遅いものだった。寒い中でツエルトをたたみ、9時に天狗のコルを後に
した。次の畳岩への岩稜を登り、コブ尾根の頭を過ぎるとジャンダルムの岩峰が立ちはだ
かっている。稜線は吹き溜まりが多かった。ジャンダルムは岳沢側をトラバース。ほぼ夏
ルートと同じであるが、それがなかなか分かりにくかった。
ジャンダルムを過ぎてからのロバの耳が難関だった。ジャンダルムの雪稜から飛騨側へ
下って回り込むのだが、傾斜約45度の青氷ルンゼ(堅い氷が詰まった急峻な岩溝)はザ
イルの長さで約35メートル。お互いザイルで確保しながら慎重に下った。
次は、夏道トラバース約35メートル。ハーケン3本のビレイ(確保)ポイントを得て
さらに10~35メートルの青氷の下りとトラバースである。ここの傾斜は80度近い。
ガラスのような氷は8本爪アイゼンを蹴り込んでツァッケ(爪)が5ミリ入るか入らない
かの堅さで、つま先2本のツァッケだけが頼りであった
ロバの耳の通過は無雪期だと30分もかからない易しいところなのだが、ここで3時間
半を費やした。まだまだ気を抜くことはできない。続く馬の背の雪稜は鋭いナイフリッジ
を跨ぐように登って通過。あとは奥穂高岳への易しい登りとなった。奥穂山頂15時40
分。ここから穂高岳山荘がある白出のコルまで2時間半の難しい下りとなる。
日没が迫る18時20分にようやく白出コルに下り立った。山荘はまるで雪に埋もれ、
涸沢岳側にある冬期小屋の屋根の一部がわずか出ているだけであった。スコップもなく、
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ピッケルで入口らしい所を掘ってみたが、分厚い板壁が出てくるだけで徒労に終わった。
仕方なく掘り出した板壁の穴でビバークすることにした。
翌5日目は悪天候のため丸一日、狭いツエルトの中で過ごした。今回、目的とした滝谷
や北穂高岳へは一歩も近づくことができない。翌朝、こうなれば安全な下降ルートを確保
するだけだ。北穂に向かって涸沢まで南稜ルートを下ろうかと完全装備で向かおうとして
みたが、それは不可能に近かった。やむなく再びビバーク用の雪を掘り始めたら、なんと
ぽっかり穴が開いて冬期小屋の入口が見つかった。九死に一生を得た心持で小屋に入った。
暗い小屋の中には、どこかの大学山岳部が正月山行のためにデポした食料の一斗缶が積ま
れていた。正月以来、まったく入山できなかったものだろう。僕たちの食料はほぼ底をつ
き始めていたので、断り書きのメモを入れて中のラーメンなどを利用させてもらった。そ
して時折、外へ出て涸沢方面へ下れるかどうか偵察した。
入山して早6日が過ぎようとしている。涸沢へエスケープするとなれば、それはまるで
雪崩の巣に突入することを意味した。それでも気温の降下さえあれば早朝には下れるだろ
うと見込みをつけて雪が締まるのを念じた。
4月12日、小屋での停滞中に奥穂から涸沢方面の雪崩を観察。朝の状況は、奥穂直登
ルンゼから、厚さがどれほどあるか分からないが、新雪表層雪崩が斜面一帯に広がってい
た。小屋がある白出コルの7、80メートル下方からザイテングラート(痩せた岩稜)に
沿って約30センチの新雪(板状)雪崩の痕跡も見られる。午後になって再び雪崩の状況
を観察してみる。奥穂も北穂もまるで斜面という斜面全体的に雪崩が発生していた。デブ
リ(雪崩痕)は涸沢の底まであり、奥穂直登ルンゼからの雪崩はザイテングラート基部の
岩にまで激突している痕跡が見られた。白出コルに到着した一昨日の夕方、涸沢に新しい
デブリは見えなかったのだが、やはり降雪があったせいだろう。
きわめて困難な状況に置かれた中で、安全な退却、エスケープをどうするかがこの際、
大問題であった。昨日の雪崩状況から判断して、気温の降下によって積雪層が安定した早
朝に一気に涸沢谷を駆け下ろうという結論に達した。
望み通り、下山決行の未明は急激な気温の降下があって冷え込みも厳しい。早朝5時、
冬期小屋を出てザイテングラートに向かう。この急峻な岩尾根は部分的にクラストしなが
らも、三分の二ほどは膝までのラッセルとなった。幸い雪崩の危険性はなさそうである。
下降するザイテングラート自体も雪崩があったようで一昨日の降雪がほとんど落ちてしま
ったものと思われた。吹き溜まりも適当に締まっている。
アイゼンを効かせながら45分で涸沢のデブリ地帯に達した。ちょっとしたビルほどの
大きなデブリの塊が散乱していた。新雪雪崩のせいか雪質は柔らかそうであった。
ここでは休む気にもなれず、一刻も早く安全地帯に達しようと横尾本谷をめざした。本
谷橋では左岸に渡らず、屏風岩の下をトラバースして一ルンゼ下部を通過したところまで
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涸沢から1時間10分。そのまま梓川右岸を徳沢まで歩いた。上高地帝国ホテルの裏にあ
る木村小屋に着いたのが正午ちょうど。白出コルから7時間のスピードであった。
木村小屋は入山してから1週間ぶりだったが、ここを出発する時に不在だった主人の木
村殖さんがいて、「秋田からの二人が山に入ったと聞いた。身のほどを知らない無茶なやつ
らだ」とひどく怒られた。
春とはいえ、穂高の稜線は冬とまったく変わらない。遭難事故が多発している状況を考
えるまでもなく、無茶といわれても仕方がない。積雪期の滝谷などあまりに難しすぎて、
まだまだ力不足ということを痛感した。しかし、今回の一連のトレースでは本当に貴重な
経験を積んだと思う。大正池から釜トンネルを歩き、中の湯を経由して沢渡に着いたのが
午後3時少し前であった。