今年、世界はどう変わったか

降誕後 第1主日 歳末礼拝説教 (2015年12月27日) 飯川雅孝 牧師
聖書
ヨハネ黙示録1章9-20節
説教
『今年、世界はどう変わったか』
本年最後の礼拝、一年のけじめの時でもあります。
今年、世界で一番危機感を煽った出来事にイスラム国の恐怖があります。シリアとイ
ラクの政治的空白地にイスラム原理主義のテロリストが国家として主張する集団です。
これまでテロリズムはイスラム原理主義の狂信的集団の一部として孤立的にアメリカ
を中心とする世界への覇権への抗議として受け止められて来ました。しかし、今回はテ
ロリスト集団が国家建設を世界に宣言する。世界の秩序の根幹を揺るがすという意味を
持つことに一層の恐れを感じます。さらに一般の家庭に育った若者が、インターネット
の影響も受けてイスラムの狂信的思想に触れ、そのテロリスト集団に組み込まれて行く、
恐ろしい現実があります。
40年間の中東および北アフリカの独裁政権が崩れると、「アラブの春」が押し寄せ
ます。2010年12月失業中だった26歳のチュニジアの青年が果物や野菜を街頭で
販売し始めたところ、販売の許可がないとして警察が商品を没収。これに抗議するため
にガソリンをかぶり焼身自殺を図った。貧しさと国の圧制を見る思いがします。それを
きっかけにインターネットで若者たちが呼びかけて引きおこしました。この出来事は独
裁から自由を享受すると言うより、国家の腐敗を暴露し、国民は無政府状態の中で過酷
な生き方を強いられております。地理的に遠方にあるわたしたちはメデイアの報道で知
る限りですが、イスラム国に殺害された日本人ジャーナリストの後藤さんの映像を見て
身近に感じ、恐怖が伝わって来る思いがします。
では、なぜこのような状態に世界は陥ってしまったのか。
元々のイスラム教の考えやキリスト教の教えは古くからの古代イスラエルの旧約聖
書の教え、「汝、殺す勿れ。」という根本思想から出ております。わたしたちキリスト
教徒はそれを越えて主イエス・キリストの教え:「汝の敵を愛せよ。」に従うように求
められております。しかし、本来の純粋な教えに従う者も、国家という形の中で同一集
団になると、キリスト教国家対イスラム教国家、あるいは同じ宗教でも国家間で戦争が
起きる。その葛藤の中で心あるものは反省をしつつも失敗を繰り返してきました。人類
の長い歴史はそれを証明してきました。
今、テロによる恐怖を世界に与えているアルカイダはじめイスラム原理主義者たちの
狂信的なテロリズムはアメリカを中心とするキリスト教国の覇権への反発がその根幹
にあります。アメリカはあのニューヨーク・ツインタワーの3.11爆破依頼、120
兆億円以上を掛けてテロリズムを抑えようとしてきましたが、度重なる中東の治安維持
の戦闘に疲憊しております。ですから日本にもその重荷を担うように求めています。西
アジア、北アフリカの政権腐敗と崩壊は、テロリズムに活躍の場を与えてしまいました。
孤立したテロリストの暴力が、インターネットも利用して、シリヤとイラクの政権の空
白地に地盤を確保します。一時的とは言え、そこには治安のない国家よりも恐怖の中で
あっても生を求める地域住民の受け入れもあるのです。その危害は最近のパリやロシヤ
の事件の他、全先進諸国を標的にしてきている。このテロリスト国に対して被害にあっ
た欧米および中東の国々が連合を組むという動きが今の状況です。今後の状況ははっき
りしませんが、世界戦争になるようなことは是が非でも食い止めなければなりません。
さて、本日の聖書、ヨハネの黙示録と関係してどのようにこの出来事を受け止めたら
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よいでしょうか。アラブ地域の人々は今、恐怖のどん底で生きて行かなければならない。
そこに、イスラム国はじめて暴力で被害を及ぼそうとするテロ集団がいる。脱出しても
喜んで迎えてくれる国は限られている。暴力の地獄の中にいて、分かっているのに、救
いの手立ての無い現実がそこにあるのです。黙示録に示されたキリスト者の状況と似て
いると考えざるを得ません。そこで、その同じ場所でキリストに会ったヨハネの言葉に
耳を傾けてみたい。
主イエス・キリストの十字架の復活の後、30年位たってユダヤ戦争が起こります。
ローマ軍による全ユダヤの殺戮とエルサレム神殿の炎上が行われます。その理由は以前
からあったローマ兵のユダヤ人に対する横暴と神殿侮辱は熾烈を極め、宗教意識の強い
ユダヤ人は全国的に反乱を起こします。ローマ軍の武力に対し一抹もなく滅びます。
黙示録とは政治的に迫害の渦中にある敬虔な人たちが、その中にあっても終末的、つ
まり歴史がページを閉じる時はこの世のサタンは神によって滅ぼされる。今、神に従っ
て耐えているあなた方は神の勝利によって救われるから頑張りなさいという文学です。
ですから、この世の支配者には理解できない、彼らの宗教的な言葉とか幻でその意味を
伝えております。もし、知れたら彼らは一網打尽に捕えられ牢に入れられるからです。
今日のヨハネは、ユダヤ戦争を経験して生き延びた。その彼が救い主イエスに会って救
われた。だから、彼のイエスにあった体験を下にこれからの時代、つまりローマによる
キリスト者の迫害を語ります。それに耐えて信仰を守り、来るべき時代を彼のイエスに
あった体験から、キリスト者に向かって語ります。パトモス島に島流しされたヨハネは
ローマ軍の残虐さを身に沁みていました。ここで復活のイエスの幻影に会います。
「わたしは“霊”に満たされていた」とは、迫害の中で主の恵みに満たされていたヨハ
ネに、後ろの方からラッパのように響く大声で語り掛ける主の幻に出会います。
「・・・燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の
帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目は
まるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろき
のようであった。・・・口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようで
あった。 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。」
神の子イエスの本来の姿は優しさを通り越して命を支配するお力のある方を思い知
らされます。その妥協のない激しさを持った言葉は、当時小アジアの7つの教会に、天
使を通じて彼の語った使命を伝えるように命じます。その後、歴史は迫害の中、死を前
にしてキリストを救い主として告白したローマ時代の信仰を伝えております。
さて、今年の一年を締めくくるに当たって、たった今、この時、世界のアラブの地で
幼い子ども抱え、当てのない救いを求めている大勢の人がいる。黙示録でキリストは7
つの教会にキリストに託された務めを求めておられる。それは当時迫害の中にあって信
仰的に立ってキリスト者が生きていけるようした神の励ましである。今、わたしたちは、
この困難な状況の中で、あのイスラム国に殺害された後藤さんの人々にこの現状を訴っ
たえたいというメッセージをどう受け止めるか。またユニセフや国境なき医師団のよう
に命を懸けて彼らの救いに奔走している事実を見るならば、それは今あるわたしたちへ
の主イエス・キリストの使命への伝達ではないか。せめて、わたしたちは自分の持って
いる物の中から分け与えることは、からし種一粒の信仰に値するのではないか。そのよ
うに考えるのであります。
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