201278L - 法然上人鑽仰会

浄土第78巻 6号 (毎月 1 固 1 日発行) 平成24年 7 月 1 日発行
J・
0
2
1
2
7
8L
法然上人 鎖仰 会
昭和 10年5 月 20 日第 3 種郵便物認可
点
JR五能線
村
絵
一 上健
をめぐる
2012年の表紙
需木駅
単式ホーム 1 面 1 線を持つ地上叡で五所川
原駅が管理する無人駅。駅舎は木造で待合室
のみがあります。 JR のトクトクきっぷ f 青春
18 きっぷ J の宣伝ポスターにその薄暮の景
観が使われ有名になりました。「儲 j は日本
の駅名に使用されている漢字の中で最も画数
が多い (30 画)こと。そして 、 男はつらいよ
奮闘編(第 7 作)に、さくら(倍賞千恵子)が
木駅に降り立つシーンが登場します。マド
ンナ役の太田花子(榊原るみ)は鏑木出身の設
定で 1970 年(昭和 45 年)当時の旧駅舎と五
能線が登場したことなどが有名。
月
~~.;t_
2012/7・ 8 月号
次
日
法然上人の教えと共に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ー・ 曽根宣緩
2
会いたい人岸部一徳さん②…・・…-…・… H ・ H ・-一
容子
8
響流十方 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・........................ . ..ーー・・・・ H ・ H ・...・ H ・- 林田康順
1
6
… H ・ H ・. .
江戸を歩く …・
・ ・・
…
…・
… ・ ・・…・…・
-…...・ H ・・…・
・ …・ かまちよしろう
00
駅をめ ぐる }.~u;t
選者= 治田河郎子
マ/
さっちゃんはネッ
編集後記・. ..
表紙裏 ・
清鑑
。
3444
誌上句会 ・...... 目 H ・ H ・-・・ H ・ H ・......・ H ・-…・・・…・・…・・ー…
マンガ
…・・… 森
渡辺海旭 ・・・・・・・・・・・・・ ・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 前田和男
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連載小説
……"......・ a ・.......…一 石丸晶子
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296
法然上人をめぐる人々
関
村 t 健
背表紙裏 ・ Ii'li の~昧探訪
表紙題字='i'村康隆元沖土 門 主
アートディレクション= 近藤卜四郎
協力=迦 陵頻伽合
教えと共に
首根宣雄
大仏教学部准教授
法然 上人の教えと共に
私は、山梨の小さなお寺に生まれました
幼い頃より、買ってもらったカセットテープ
。
今にして思えば、法然上
。
棚経等の植家参りは、小学
。
を聴いて日常勤行式を覚えたり、自然な形でお念仏や法然上人に接していたこともあり
。
最初は、母や近所の檀家のおじさんに連れられて回ったこと
Mも読む、法然上人のことが好きな子供でした
疑問を持つこともなく六歳の時に大本山増上寺で得度しました
人の絵本を何
。
校 一年生の頃からしました
を憶えています
。
。
(葬儀への参列は、中学に入学するまで続きました )
小学校 三年生の頃からは、御檀家さんの葬儀があると、小学校を半日で
早退して小僧として参列しました
。
。
私も負けん気の
この 一言は、幼い自分にとって大きな心の傷となりま
ある同級生からは「お寺は、人が死んでお金が儲かって
。
どんな職業でも、多かれ少なかれいじめの対象となるのかもしれませんが、これは
。
周囲の子から「ハゲ」「チンネ
当時の私は、檀家のおじいさんやおばあさんが喜んでくれるのがうれしくてやっていまし
たが、そのことでかなりいじめられたことも確かでした
ン」「クソ坊主」等の言 葉を投げかけられることは、日常茶飯事でした
。
。
強い方でしたので「悔しかったら真似してみろ」と 一言
い、みんなから「そんなもの真似し
たくねえ」と 言 われたものです
した
いる」と言 われたこともあります
。
質が違います 自分が寺の息子であること自体がひどく卑しいことのように思われました
。
この 言 葉は、その後進路を考える上で、自分の心の中から離れることのな
檀家のおじいさんやおばあさんは、喜んでくれるふりをしているだけなのかもしれないと
も思いました
。
。
。
その後、地元の進学校である日川高校に
俗的な話で恐縮ですが、法衣の姿を同年代の女の子に見られるこ
中学校に入学してからは、法衣を着ることが嫌になり、檀家参りは苦痛で
いものでした
しかありませんでした
とが、何よりも堪えられないことだったのです
。
今から思えば本当に恥ずかしいことなのですが、周りの同級生が共通
一次を目指し
入学したのですが、高校時代の自分は僧侶になるということに対して葛藤ばかりしていま
した
3
。
て勉強している中で、宗門大学の偏差値を知り、
日々を送りました
。
勉強への熱意を持つことなく、
虚しい
それは、他力という語を「棚からぼた餅」とか
高校時代に、たまたま読んだ本に「浄土宗 H他力本願」と書いてあるのを見て、非常に
悲しい気持ちになったことがありました
一般の人もするであろう
の教育テレビで法然上人の教えにつ
悟りのために
。
そんな私に大
それ以降、思いも新たに法然上人に興味を持つようになりました
。
F君が、交通事故で亡くなってしまったの
。
「楽をして何かを得る」という俗的な意味合いで理解してしまった故に生じたことですが、
。
。
ただ、この時の自分の誤解というものは、おそらく世間
今思えば、我が身を知らない智者のふるまいということになりますが、若気の至
そのときはどうせ寺に生まれるなら自力で悟る宗派の方がまだましだったなどと思ったも
のです
りです
ものでしょうから、他力というのは凡夫を救済してくださる阿弥陀様の救済力のことであ
。
NHK
り、世間的にいわれる楽をして何かを得るという意味ではないということをきちんと伝え
て行く必要があると思います
。
その番組の中で「悟ろうと思っても悟れない人
浄土宗は軟弱な教えなのかと悩んでいた時、
いての講座があり、偶然それを視ました
。
はどうしたら良いのかというのが法然上人の悩みであった」という言葉に出会いました
当時の私にはこういう発想がなかったので、この概念自体が衝撃的でした
。
厳しい修行をし、みんなが悟れるのが仏教だと思い込んでいた私の考え方を根底から覆す
ものでした
大学入学を前に親友の
。
私は、とても混乱し、狼狽えました
うろた
。
幸いにも彼の
F君は家業の建設会社を継ぐために、日大の理工学部への進学が決まっていました
。
大学は、家から離れたいという 一心で、仰教大学に進むことにしました
。
きな転機が起こります
です
が、その入学を目前にした死でした
菩提寺が法類の法蔵寺さんだったので、お願いして通夜・葬儀の僧侶の人として読経さ
4
法然上人の教えと共に
。
この体験は、私に「死」というものの不条理
。
悪いことをして世の中に迷惑をかけている人間が大勢いる中
せていただき、必死にお念仏を称えました
さを突きつけるものでした
。
また法然上人の教えが今を生きる私達にとってどのように役立つのか知りたいと思
。
かの固にいたりおわって、六神過をえて、十方界に入って、背の衆生を救
この教えによって、私
。
で、なぜ彼が死なねばならなかったのか悩み、その答えを仏教の中に見つけようと思いま
した
。
い、浄土学を学ぶようになり、その後学部から修士課程に進み、博士課程からは大正大学
にお世話になりました
学んでいく中で、私の精神的な支えとなったのが「往相廻向・還相回向」の教えです
せしめたまえ
善導大師の 「
発願文 」 に「聖衆現前したまい、仏の本願に釆じて、阿弥陀仏国に上品往生
。
摂せん」とあるように、往相廻向とは極楽浄土に往生することをいい、還相回向とは極楽
浄土に往生の後、十方界に戻って衆生を救済するということです
は F君との関係というものを改めて構築することができました 。 彼が極楽ゆ土に往生し、
菩薩となっていつも自分を見守ってくれているのだということは、自分が辛い時に支えと
。
一つ自分の支えとなったのが「 三縁」の中の「親縁」の教えです
。
法然上人は 「
往
なったことはもちろんのこと、だらけてしまっている時に自分を叱陀するものになりまし
た
もう
生浄土用 心」 において、
。
かるが故に阿弥陀仏の 三業と行者の 三業とかれ
衆生仏を礼すれば仏これを見たまう、衆生仏を称、つれば、仏これを聞きたまう、衆生
仏を念ずれば仏も衆生を念じたまう
。
お念仏をお称えするということは、合掌し礼持して行うことです
。
これ 一つになりて、仏も衆生も親子のごとくなる故に親縁と名づく
と述べられています
から、私達の「礼・称・念」という行為に対して阿弥陀様が「見・聞・念」という人格的
5
。
念仏を修する時の、私達の身と口と意の
三業と阿弥陀様の身と口と意の
三業は、決し
な対応をしてくださるということは、お念仏行についての説明であるということができま
す
。
私は、自分のお念仏が阿弥陀様に常
。
て離れることがないのです そして、阿弥陀様が常に親しく衆生に接してくださることは、
あたかも親子の関係のようであると説かれています
。
」
一縁
一一
私の叔父と今年一
に届きお聞きいただいている、阿弥陀様と私達は「呼ぶ・応える」という「呼応関係」を
有するのであり、常に共にあるのだということにとても感激しました
。
。
一度開催をしました
。
。
出席してく
出席者は十
私は、私達の念仏の芦が阿弥陀様に届く時、浄土に往生して菩薩となっ
月に亡くなった叔母はこの教えが大好きで、叔父は定年後立ち上げた会社の名を「
としたほどです
た叔母にもきっと届いていると思っています
数年程前に、自坊において法話の会を立ち上げ、月に
。
ある檀信徒の方からは法然上人に
人弱でしたが、みなさんと 一緒にお念仏を称え、その後お話をする会でした
ださる方は、みなさん非常に熱心に聞いてくれました
ついて「こんなにやさしいお坊さんがいたんですね」といわれ、非常にうれしく思いまし
。
ところが私が 一生懸命にやればやるほど、「副住職は理想的なことばかり 言 ってい
た。法然上人の教えを拠り所にしてくれる人がいるということは、大きな励みにもなりま
した
。
さらには、身に覚えのないことまで
言 われるようにもなりまし
家内によれば家族に対してもピリピリした態度で接していたそ
これは、ほんの数名の人達によるものでしたが、私自身は夜も眠れずノイローゼのよ
。
る」とか「別に俺達は、法然の教えが無くても問題なく生きてきた」というような声を耳
。
にするようになりました
た
。
。
その後、幸いにも、博士課程の時にお世話になった、深川の心行寺の鈴木定光上
うになってしまいまし た
うです
三 人目の
人のおかげで、芝組の竹叢軒に管理人として家族で住まわせていただくことになりました
不思議なもので本年の 二月には、山梨にいた時は望んでも授かることのなかった
6
法然上人の教えと共に
子供にも恵まれました
。
。
また竹叢軒では、月に
教えの勉強会も行っています
一度教え子達
OB
が集まって、法然上人の
今は、大正大学の仏教学科で教員をしていますが、先のことを悩みながらの日々です。
。
仏教カウンセリングの大家である中原実道先生は、「阿弥陀様はスーパーカウン
私のお念仏は、毎日、自分の悩みを念仏の声に乗せて阿弥陀様にお届けしているようなも
のです
。
浄土にいる
F君も叔母も護り導いてくれている
。
それこそ
私が、お念仏をお称えする時、阿弥陀様は常にその声を受
セラー」だとおっしゃいます
。
。
け止め護念してくださいます
が私の支えです
。
。
。
。
。
まだ、意味は良く判っていないようですが、微笑ましくてなりません
。
いろいろあり悩みつつの毎日ですが、お念仏を称
。
。
「一
枚起請文 」
長男には本人が希望したのでマイ木魚があり、お念仏
今年小学校 一年生の長男は、昨年大本山黒谷金戒光明寺において私の恩師である
私が今 一番幸せを感じるのは、家内と子供達と 一緒にお勤めでお念仏をお称えしている
時です
高橋弘次台下の元で得度しました
。
最近では、 二月に授かった次男もお念仏の時に参加しています
の時はそれを叩きながらお称えしています 。三 年生の長女もいつの間にか
は、覚えてしまいました
一向に念仏すべし」という箇所で
(ちなみに赤ちゃんは、木魚での合間打ちのお念仏が好きなようです)長男は
「一
枚起請
文」 を拝読する時に「智者のふるまいをせずして、ただ
急に声が大きくなります また阿弥陀様が 一番偉い仏様で、法然上人が 一番偉いお幼さん
だと 言 っています
お念仏は、家族そろってできる行です
えながら自分は法然上人の浄土宗で良かったとつくづく思うこの頃なのです
7
連載
獲量v タカオカ邦彦
会いたい人
l
スのメンバーが再会し、もう
をしたけど、人問、年を重ねると考え方が変
るんですね。相手のことを考えるようになる。
ザ・タイガ
一度コンサートの全国ツアーを展開しよう、
機会があって音業少年に戻って、僕は元々こ
一番よかったですね」
ういう人間だったんだな、と思えた。それが
という話はすぐにまとまった。
「瞳みのると僕たち、沢田研 二と森本太郎と
僕が 三十八年ぶりに顔を合わせたのは渋谷の
コンサートのライブを私はテ
たいで嬉しかった。もともと音楽が好きで集
番変ってなくて、遠目で見たら昔のまんまみ
と行っている店でした。会ってみると彼が
めに軽くジャンプするのが楽しそう。会場を
ムの前で、 三人が動きを揃えて右に左に、斜
水を得た魚のように張り切る臨みのるのドラ
レビで見た。平均年齢六十四歳のタイガ l ス。
・
ったグループですから、少し時間がたつと全
埋めつくした熟年以上の大群衆が、いっせい
ファイナル
スにじゃなくて少年
居酒屋で、彼がときどき慶応高校の生徒たち
l
に熱狂して青春回帰を果していた。
一
部昔に戻って、タイガ
一人じゃ絶対戻れない
ンですものね。これも沢田がずっと
いいなぁと思いました。芝居では絶対起り得
「あれは感動的でしたね。つくづく音楽って
のころに戻りました。
ですからね」
岸部さんは練習期間と公演のために半年問、
l
音楽活動を続けていてくれたおかげだと思っ
ないシ
ています。彼の艶のある声はちっとも昔と変
俳優の仕事をキャンセルした。
一月 二十四日の武道館、
「ファイナル ・コ ンサートは四十 一年前の解
と決めて、だんだんツアーがその日に近づい
ってよかったくらいです」
ってなかったし、むしろ今のほうが馬力があ
散コンサートと同じ
てくるとみんな寂しくなってきてね。若いと
き、お前とは 一生会わない、なんて喧嘩別れ
9
『 死の練』 監督 / 小栗康平 (1990年)写真担割共 / 松竹
1
0
会 いたい人
岸部さんが俳優に転じるキッカケになった
は四十歳を少し過ぎたころだった。
彦さんに、出てみたら?と言われて、ヤク
の音楽で行ってたんですけど、演出の久世光
で彼が 三億円事件の犯人の役で、僕はドラマ
十歳過ぎてからです。『悪魔のようなあいつ』
「俳優としては沢田のほうが早くて、僕は 三
た。でも了解はしたものの、完成しても私は
らい遅れたと、あとで小栗さんから聞きまし
入らない、ということで、スタートが
さんはいいけれど、敏雄さん役が僕では気に
たんですが、ミホ夫人が自分の役の松坂慶子
島尾さんがまだ生きてらして、承諾が得られ
「小栗康平監督が映画化を思い立ったときは
ザ Aみたいな役でちょっと出ました。完全に
見ないわよ、と 言 われていたそうなんです。
のも沢田研 二だった。
音楽をやめたときに、ドラマやってみないか、
ほかにも反対はいろいろあったらしいですけ
けていましたね」
たが、半分病気みたいな状態で毎日撮影を続
決めたらしいんですよ。原作も重いものでし
ど、小栗さんがどういうわけか僕でやる、と
一年く
と言ってくれたのも久世さんです」
岸部 一徳という俳優名を考えてくれたのは、
内田裕也夫人の樹木希林さんだった。
一徳って、
「俳優をやるんならと、希林さんと大楠道代
さんの事務所に入れてもらって、
ミホ夫人が反対した理由がふるっている。
やっぱり好きだからこそあれ
僕の父の名前の徳之輔から取ったんだと思い
。
「敏雄はあの人よりもっと二枚目だ、と言わ
れたそうです
ますが、五十代になれば似合ってくる名前だ
からと希林さんがつけてくれました」
映画が完成したら、何回も映画館に通って御
だけ激しく嫉妬したんでしょうね。それで、
尾敏雄のすさまじくもやりきれない私小説を
覧になったそうです」
俳優岸部 一徳の名を 一躍高めた作品は、島
原作とした『死の腕』(平成二年)。岸部さん
/1
と表れたんで、本当にびっくりしました。そ
のミホがそのまま何十年かたった感じでパツ
を受けた人で、晩年の十七年間(昭和六十 一
くらい、紙袋に用意してあって、将来結婚し
して娘 二人に島尾さんと御自分の著書を十聞
島尾敏雄は妻のすすめでカトリックの洗礼
で、神秘的で、奥深さを感じさせる不思議な
ても私たちみたいな夫婦になっちゃダメよ、
年没)を奄美大島の名瀬で過した。寡黙な人
魅力を持つ人だった、と当時を知る人が語っ
玄関先
っておっしゃるんだけど、娘たちもまだ小さ
。
返ったら、ミホさんが手を振りながら走って
で失礼して、タクシーが動き出してふと振り
いから全然意味がわからない(笑)
ている。
写真を見ると海軍の軍服姿が似合って、な
かなかのハンサム。
「映画完成の何年かあと、奄美大島の図書館
なくなったので代りに行ってくれないか、と
けておいたのに、会った瞬間、あ、敏雄の匂
んです。上がってもらうつもりで部屋を片づ
ってうちに着いたころ、電話がかかってきた
うかと思ったんですが手を振ってそのまま帰
言われ、いい機会だから僕はまだ中学生と小
いのする人だ、と思った途端に、何もわから
ずうっと追いかけてくるんですよ。どうしよ
学生だった 二人の娘を連れて、行ったんです。
なくなってしまって失礼しました、とおっし
の開館十周年の記念文化講演会に小栗さんが
地元の観光課の方から、僕に会ってもいいと
ゃって。僕にとっては最後にやっと認めても
招かれたんですけど、次の作品の準備で行け
ミホさんがおっしゃっていると聞いたのです
らえたみたいで、本当にいい機会でした」
お嬢さん 二人には、さぞ強烈な印象が残っ
が結局みえなかった。でも是非帰りに寄って
途中で訪ねたんですよ。ドアをあけて、ごめ
ていることだろう。ミホ夫人は平成十九年に
ほしい、とのことだったので、飛行場へ行く
んください、って 言 ったら、松坂さんの、あ
12
会いたい人
亡くなった
。
みたいなものですからね(笑ご
。
。
でも、
言 っていた
岸部さんが女装について笑って
。
「もういい大人になってるのに、二人とも結
く耳にする
柄本明さんは「今、役者は彼が
あ
いですか?」と絶讃だし、勘三郎さんは、「柄
一番じゃな
岸部さんが得がたい名優だという噂は、よ
は、恥ずかしくて参りましたけどね」
風間さんと 一緒に新橋の町を歩かされたのに
中にいる、というのに少し驚きました
「
別にゲイでもなくて、女装趣味の男が世の
」
婚してないのは、ちょっとクスリが効きすぎ
たのかもしれない(笑)
岸部さんに会って数日後、山田太 一さんに
。
電話をする用事があって、そのときに今の話
をした
「いやあ、島尾敏雄よりも岸部さんの暖昧さ
。
本さんと僕の『てれすこ』という映画に何と
のほうが、もっと島尾敏雄らしいですよ(笑)
一徳さんは 一見してとらえようがない、単純
。
かして岸部さんに出てもらいたかったけど、
どうしてもスケジュールが合わなかった
でないものを内に秘めてる、いい俳優さんで
何年か前に僕の『ありふれた奇跡』に出
の人がちょっとでも出ると、ひと味どころか、
。
み味もよ味も違っちゃうからさ
す
てもらったけど、威圧的な感じで自分の娘と
だった
」 ということ
の交際を相手の息子の家に断りに行ったかと
。
「
原田さんとはあの映画の前に、テレビの
(阪本順治監督)について訊く
した原田 芳 雄 最 後の作品『大鹿村騒動記』
ところで、 岸部さんがユニークな役で出演
。
思うと、女装クラブで女装したりする父親役
。
当 り前
娘の相手の父親役の風間杜 夫 さんも
余計
で、その逸脱ぷりの巾が広いほど面白くなる
。
んです 。一 徳さんは背の高い人だしね
面白い
女装するんだけど、彼が逸脱するのは
1
3
『死の稼』 監督 / 小栗康平 (1990年)写真鍵供 / 松竹
『不毛地帯』では社長と副社長、『白洲次郎』
では吉田茂と近衛文麿で共演しているんです
が、 一緒に仕事してないときでも、遊びに来
てよ、って芳雄さんに 言 われて、年末の餅っ
き忘年会に顔出したりはしてたんです 。庭 で
若い人が餅ついて、延べ百人以上もの人が来
る。知らない人も拒まない、という豪快な餅
つきでした」
『大鹿村』の岸部さんの役は、昔、原田芳雄
の奥さん役、大楠道代と駆落ちし、彼女が認
知症になったので「もう返しますから」と戻
1
4
会 いたい人
ってくる、というもの
。
この配役は岸部さん
。
三百年以上続いてる村歌舞伎が
以外には、ちょっと思いっかない
「
大鹿村には
ということを大いに学んだそうなんです」
映画完成後、試写会場に原田芳雄が車椅子
で現れた姿をテレビで見て、心が痛んだ。
ー賞最優秀 主演男優賞を受賞したし、大楠道
「芳雄さんは亡くなったけど、日本アカデミ
大鹿村が大好きになって、毎年行くようにな
代さんも田中絹代貨をもらいましたから、よ
あって、昔、原因さんがテレビ番組で行って、
った。いつか村歌舞伎を映画にしたいとずっ
「
遊びの精神」は、岸部さんの
かったと思っています」
原田芳雄の
と思っていて、それが実現したわけです」
大鹿村の人たちも多く出演して、ラストの
。
この間
のコンサートで遊び仲間と原点に立ち帰っ
ろうというのがスタートですからね
「
ええ、京都でみんなで集まってバンドをや
音楽少年時代から今日にずっとつながってい
。
村歌舞伎では原田芳雄が主役を演じ、黒衣姿
ンが感動的だった
ると 言 える。
l
の岸部さんが誠心誠意、懸命になって後見を
つとめるシ
一番大事な
「撮影後、テレビの番組に芳雄さんと道代さ
んと僕が出た時に、俳優にとって
て、つくづくそれを実感して、これもよかっ
(この項おわり)
のは何ですか?と聞いたら、遊びである、
その
たと思っています」
。
遊べるかどうかが大事だ 。芳 雄さん流には、
あらゆる能力、才能がないと遊べない
準備、研究をどれだけするかも含まれてくる。
です。若い瑛太君なんかがそれを聞いていて、
オレにとっての映画は遊びなんだ、と 言 うん
いい大人が真剣に遊んでこの世を暮してる、
1
5
響流十方
。
。
。
または無辺光仏・無醗光仏・
中国や日本では、それを翻訳して
また無 量 光仏ともいいます
。
。
阿弥陀とは、これ天盤石楚語なり ここには翻じて無量寿仏と
いう また無量光仏ともいえり また無辺光仏・無関慨光仏・無対
光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智恵光仏・不断光仏・難
忠光仏・無称光仏・超日月光仏ともいえり。(法然上人 「逆修説法』三 七日 )
。
(
「阿弥陀」とは、インドの言葉の音写語です
無 量 寿仏といいます
無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智恵光仏・不断光仏・難思光仏・無
|
十二光仏
|
称光仏・超日月光仏ともいいます 。)
人聞の叡留を超えて
「一一一一一ー
響流十 方
。
。
月の直径が太陽より大き
地球の公転軌道と月の地球周囲軌道が共に楕円なため、
去る五月 二 十 一日早朝、九州地方南部から関東地方にかけての広範囲で金環
日食が見られました
地球から見た太陽と月の直径は常に変化しています
これほど広範囲に金環日食が見ら
三分の こにあたる八三
今回の金環日食は、東京や大阪、名
。
い場合を皆既日食といい、逆の場合は、月の外側に太陽がはみ出して光の輪が
できるので、これを金環日食といいます
。
古屋など、広いエリアの大都市を中心に、日本の人口の
OO 万人の生活圏で見ることができました
れるのは、承暦四年( 一O八 O年)以来、九 三二 年ぶりの出来事といいますか
。
かくいう私も、
。
ら、それこそ法然上人がお生まれになる以前に遡らなければいけないほどです
老若男女を問わず、日本全土で大きな話題を巻き起こしました
。
文房具店で専門の日食グラスを買い込み、準備万端整えていました ところが、
。
。
軽い落胆を味わい
私の住む横浜市鶴見区周辺は、その時間帯に限って厚い雲に覆われ、日食の気
配を感じることすらできないままに終わってしまいました
つつ向かった、その日の大学の講義で、学生達に尋ねたところ、多くの学生達
。
一分 一秒、市町村単位に
が日食を満喫したことを知り、少々悔しい思いをした次第です:::
それにしても、こうした日食が起こる時間や地域を
至るまで詳細に予測する近代天文学の進歩には、ただただ敬服させられます
1
7
あまてらすおおみ均みあ
a
墨田い
b
と
そもそも、 『
古事記 」 や 『
日本書紀 』 に語られる、天照大神が天岩戸に隠れて
世の中が暗闇になるという神話を筆頭に、日食をはじめとする天体の営みを神
。
なるほど、明るきゃ温かさの源泉であり、あらゆる命の育みの大本と
秘的な力のなせる業とした神話は世界各地に見ることができ、枚挙に暇があり
ません
もいえる太陽が、目の前で欠けていく有り様は、その理由を知らない人々にと
。
。
って、まことに恐ろしい出来事だったのでしょう 無論、今や、先の金環日食
をそのように解釈する方は皆無といっていいでしょう
読み進めていくと、数十億年
加えて、先日、天文学にまつわるエッセーを読んでいたら、毎年四センチず
。
一致して、遠ざかっていた月の動きも自
っ、月が地球から遠ざかっていると知りました
後には地球の自転と月の公転の周期が
。
そんな事態まで計算していることにあらためて感心しました
。
ずと止まり、その時、月は地球の特定の場所からしか見ることができなくなる
そうです
とはいえ、こうして太陽や月の動きをどれほど詳細に察知できるようになっ
。
ても、否、それを鍛密に知ることができるようになればなるほど、その壮大な
大宇宙の営みにあらためて感嘆してしまうのは私だけではないでしょう
冒頭に記した法然上人のご法語は、私達の救い主・阿弥陀さまが具えている
18
響流十方
。
すべての場所を照らす光、 ③
いかなるものにも遮られない光、 ④無対光|比べるもののない光、⑤
l
つまり、阿弥陀さまは、無量寿 |量 り知れない寿命、を具えた仏である
無量寿経 」 の説示に沿って述べられたもの
さまざまな働きに基づくお名前を 「
です
!
と共に、 ① 無量光| 量 り知れない光、 ② 無辺光
無磁光
炎 王光|自在に燃え盛る炎王のごとき光、 ⑥ 清浄光 1食りを取り除き私達を清
浄な心に導く光、 ⑦歓喜光|眠りを取り除き私達を歓喜に満ちた心に導く光、
|
二光仏とも申し
太陽や月を超えた光、という十 二種類の光明
こうしたことから阿弥陀さまを十
1
私達の思議を超えた光、⑪無称光|讃え尽くす
心断に
導決く
光絶、
⑨不
光よ
して
⑧智恵光船かさを取り除き私達を智恵深き
えることのない光、 ⑩ 難思光
。
ことのできない光、 ⑫ 超日月光
の働きを具えた仏なのです
上げます。なるほど、私達の目に阿弥陀さまの光明を直接拝することは叶いま
せんが、その光明の働きは、太陽や月の光の働きがどれほど偉大であろうとも、
私達人間の叡智をどれほど積み重ねようとも、それらをはるかに超えた無量な
もので、それこそお月さまが目の前に立ちはだかろうとも、それに遮られるこ
。
となく、優しく温かく、いつも私達を守り包み込んで下さるのです
掌
林田康顕 )
(
1
9
A
一
法然上人を
人
めぐる人々
挿画・佐野芳朗
然つ楽
}てたに
石丸晶子
四
法
極楽に帰 っ た法然上人
。
しかしそこには餓え
(おお、これが一切衆生の世界か)
黒谷の生活は厳しい
。
ないだけの食物が支給され、張りつめた静寂
があった
青年は祈りに祈った
。
一日が過ぎ、 二日が過ぎた。一 心に祈って
いると、青年の心に周囲の喧騒が聞こえなく
。
。
十 二年、
なり、ふと気付くと、彼はただ父時国に向か
。
私はここにおります
って呼びかけていた
||おお父上
父上のご遺言にしたがって叡山で修行してま
青年は
しはまだ迷っております
。
父上は「こ
。
。
ような宿縁があったのでしょうか
||わたくしには分かりませぬ
。
わたくしの
心は今なお、時としてあの夜のことを思い出
し、明石定明への怨みに破れそうになります
叡山を駆け下りて美作に行き、定明を探し出
。
ようにお優しくご立派であった父上に、どの
れも前世の宿縁だ」と言われましたが、あの
ればならなかったのでしょうか
ーーなぜ父上はあのような御最期を遂げなけ
わたく
しかしここにあるのは:::
。
。
いりましたが、いまだ悟れず、ご遺言のよう
求道の道を究めさせたまえ
な敢然とした出離の道を歩けませぬ
人々の尊崇を集める釈迦堂に対して、今ま
、
で自分が描いていたイメージとあまりにも異
。
なる周囲の状景、そして人々の姿に
しばし荏然となった
しかし何時までも拒然として立ち尽くして
。
青年僧は堂内に入り、内外むっとした腐敗
いることは出来ない
。
と血のにおいを含む喧騒の中で、釈迦如来の
前にひれ伏して祈った
|非業の死を遂げた父をそして母を、極楽
|
。
浄土に導き、父の遺 言 をわたくしに果たさせ
給え
2
1
+
ああ、父上
。
父上
。
して万を振るいたい思いに駆られるのです
l--
父に呼びかけている自分に気付く度に青年
。
o
源空は未だこんな
はハッとして釈迦に心を向けなおした
|如来よ、憐れみ給え
|
黒谷にいても、そしてこ
と
| |
一心に祈っている自分に気付いた 。
。
修行して学問を
十 二年、叡山で修行してもわたくしに悟
りの道は聞けませんでした
積んだ者に悟りは与えられ、極楽往生にいた
るといわれておりますのに、わたくしも、そ
してここ釈迦堂に集まってきた多数の人々
。
ところにおります
も、如来の救済からは除外されているのでし
。
て堂塔を寄進できる財力のある者のみではな
れた者や学聞を究める知力を持った者、そし
||どうか厳しい修行に耐え抜く力を与えら
。
こ如来の前にひれ伏して祈っていても、時と
。
ょ、っか
。
如来よ、どうかお救い
してわたくしの心は定明への殺意でやぶれそ
ください
うになっております
憐れんでください
く、ここに集まってきた人々のような庶民を
。
四日が過ぎ、五日が過ぎようとしていた
も、どうか極楽浄土にお導きください
を殺された怨念は消えていた
。
いと変わり、気付いてみると、このとき、父
え」の祈りは、気が付くと人々の救いへの願
「このわたくし源空を導き、悟達せしめたま
。
ふっと、気付くと青年は
。
。
この釈迦堂に救いを
彼らがいかに苦しんでいる
。
||如来よ、どうかどうか 一切衆生を憐れみ
助けてください
か、如来はご存じです
求めてやってきた人々を憐れんでください
22
極楽に帰 っ た法然上人
。
夜討ちされ、或いは父を殺されたのは青年
一人ではないのであった
。
でございました」
青年は 言 った
はないのでしょうか」
。
「師僧にはいかが思われますか衆生に救い
わされた人々が、社会から見捨てられて僧に
「そなた、黒谷に居るそうじゃが、そう思う
ここには青年同様、生涯消えぬ苦しみを担
なる道も、修行して悟達する道も閉ざされた
。
若い人聞を教え諭すようにして蔵俊はいっ
。
。
この矛盾に気付かぬとはの」
仏典には阿頼耶識、末那械といってな
。
われ
。
。
「そこでそなたの悩みとやらに答えておくが、
可笑しそうに蔵俊は笑った
はないか
しておるのはそなたたち、叡山の僧侶どもで
「それにまず第 一、釈尊の教えを賞族仏教に
た
ことこそが迷いだとは気付かぬか」
・
。
まま、ただ岬き、罵り喚き、争い、そしてな
お救済を求めて釈迦堂に集まってきていた:
。
八日目の早朝、青年は新たに生まれ変わっ
七日目が過ぎた
。
た思いの中で教えを乞うべく南部へ向かった
。
十人がいれば十の世界がある
らが認めておる世界はすべて自分が作り出し
たものなのだ
まず法相宗の蔵俊を興福寺に訪ねる
「現在の仏教は、 一切衆生の救済を説かれた
たとえばだ」
。
釈尊の教えから外れ、貴族仏教になっており
「・・・・・・」
ばれたと思ってはいと答えてやってこよう
。
ます
「わたしが今手を打ったとしよう 弟子は呼
わたくしは嵯峨の釈迦堂に七日間能っ
て悟道の祈願をいたしましたが、七日間、釈
迦堂で見開いたしましたものはあまりに悲惨
2
3
+
24
極 楽に 帰 っ た法然上人
。
しかし庭先にいる鳥は、鉄砲で撃たれたと思
言 のもとに 言 って退けた
。
。
龍樹菩薩の
「大乗仏教の基本である {空}が分からぬか
らそのような悩みが生じるのだ
一つの音でも受け取り
中論』 を学んだとは感
「その年で、難解な 『
「はい」
中論 』 や 『
「
般若経』 は学ばれたか」
そなたが哀れと思うた
って驚いて逃げる 池の鯉は餌がもらえると
・・
「・・・・」
。
思って集まってくる」
「どうだ、このように
方がさまざまなのだ
。
そこで唯識が必要と
しかし 学んだだけではそなたの
心なお方だ
。
「分かり易く言えば、たとえばだ」寛雅は説
寛雅はいった
。
庶民とて、あれでなかなか強かでの
ような悩みが出てくる
自分ら
は釈尊に救われておると思うておるかもしれ
なる」
。
ぬ」
。
すでに 一切経を青年は 二度読み終えてい
阿頼耶識についての知識も末那職につい
。
明した
た
しかしこれを解体して
庵が出来上がれば庵という現象
「そこらに 生えている草木をもって庵を建て
たとしよう
。
ての知識も持っていたが、蔵俊の答えに青年
。
は何か根本的なところをはぐらかされた思い
であった
。
が現れることになる
。
(蔵俊様をわたしの師僧と仰ぐことはできな
もとの草木に 戻 してしまえば、先ほどまであ
言 えるのだ」
「・・・・・・」
とも
庵は存在しているとも 言 えるし、していない
。
った庵という現象は無くなっている つまり、
い)
。
青年僧は興福寺を辞して醍醐に 三論宗の寛
雅を訪ねた
来訪の趣を聞いた寛雅はうなずきながら一
空 }の教えを 学ばれよ」
「{
2
5
。
「つまり天地万物 一切の物は実体として存在
関係性は実体では
。
。
ばれておると説いている
その折その折によって変わっていくも
ない
その者が個人的に
し ているのではないのだ
これを {
縁起 】 といい、 {
空} という
のだ
。
識】 によって存在しているに過ぎ
構想した {
大乗仏教の根本思想だ」
。
。
・:
。
。
。
関係性の
。
。
な
折に
まことこの世界には如来の光から洩
。
慶雅の許を辞して黒谷に帰った青年僧の日
れ出ておるような庶民も多く居るよの」
いが
はそこをわたしとて考えなかったわけではな
。
「うむ いかにもそこが難しい難問だ
ゆる衆生を等しく照らさないのか:・」
ぜ、見鹿舎那仏の光は慈悲の光となってあら
いたしましたような庶民も多くおります
に置かれて、わたくしが先日、釈迦堂で目に
なかで恵まれた者もおれば、関係性の端くれ
は、その関係性の在り様なのです
「わたくしが解決出来ずに悩んでおりますの
青年は静かに 言 った
「恐れながら存じております」
ない」
寛雅の説教はいつまでも続いた
しかし、寛雅の問題意識と青年の問題意識
然房が会得しているものであった
とのずれは大きく、説教の内容も、すでに法
。
青年はそこを辞して最後に仁和寺に華厳宗
の慶雅を訪ねることにした
+ニ
。
「なるほど、華厳のわたしに教えを乞うとい
わるるか」
慶雅はいった
「{
華厳経 }は、釈迦が成道後、最初に説い
智慧の光が、 一切衆生を照らして衆生は光に
夜を忘れた勉学と修行がその日から始まっ
た経典だが、光そのものである毘虚舎那仏の
みち、またあらゆるものは関係性によって結
2
6
た
。
当代の名僧 三人を訪ねて教えを乞うたが、
そのいずれからも納得のいく答えを得ること
。
た
。
。
一切経を紐解き巻き戻し、また紐解くこと
五たぴ
いつしか「智慧第 一の法然房」の評判が叡
。
事
務
局
。
代学 刀
ι .天
楠
4当怜
が出来なかった
山や都にまで広まっていたが、法然自身にと
慧の器ではない」という内省
2
1
学
2 聾園
S霊Z
千年
葉 8.
tA ビ
1ス'\ 幽
J、
13
!00
・
。
(つづく)
宵
研
寺
回
番
地
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I
I
I
。
,
町
大民淑
8
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地
年
次
大
8
区 で
第
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3~O
ー
であれば、自分自身で迷いに、苦悩に、答
1 (日)
O
大
すでに戒・定
大 o ハ
大
巌
3
1
究
室
回想して「寝食もままならず」と法然上 人 は
0 ::5.央 8
8
回
年
3欠
表学
えを見出さねばならなかった
7
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フ
干
1~ 24
葉時
と失意が深まるばかりであった
淑
2 看
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大
24
っては光はどこからも来ず、「私のよう者は
日
後に、当時を
月
。 8τ7
4 言印 区 7 ピ先
3
|均
26 学
言っておられるが、文字通り、答えが見出せ
2 分
61
F 何千干仏間
A 当葉 2 教い
ずこ「寝食もままならぬ」歳月が過ぎていつ
場程教
。 。
会日
仏
ー
を
内藤新宿から渋谷へ
~
森清鑑
川敷
(緑地)
.散歩図 1
句
樋
r渋谷から江戸湾へ」
江戸 を 歩く
。
この長政の父が竹
祥 雲寺は福岡藩主黒田長政の子、忠之が父
長政の菩提を弔って建立
中半兵衛とともに秀吉を支えた知謀の人、黒
祥雲寺
回官兵衛(孝高、如水)である 秀吉をして
。
金王下橋(現並木橋)から渋谷川は中渋谷
次に「天下を治めるのは官兵衛」と言 わしめ
その子、長政はどちらかといえば武
ょしたかじよすい
次の比丘尼橋を過ぎると北側に福昌寺と
。
ち
村、下渋谷村の広い田畑の聞を縫って南に下
。
。
た軍師
しっせんじ
る
室泉寺が連なる (JR恵比寿駅に近い)
二万石を与える
。
福
この勝利は長政のお陰とまで
讃えた家康は筑前に五十
。
勇の人で関ヶ原では家康に付き、東軍勝利の
。
ょっと歩くと川の南側は広々とした川敷が造
歩道はこの川敷の外側を巻いている
立役者となる
。
成されており、夏ともなれば緑 一色の景観で
ある
そういうわけで黒田家
岡藩の誕生である
長政の墓石はとり
。
。
播磨小野 一柳家、
。
いる法名は金粉塗りというめずらしいもの
。
墓石は大屋根の建物に納められている
。
まなせ
。
そ
著名な御典医曲直瀬家、宝
戸を飾る文化人の代々の墓がある
祥雲寺の
。
生流家元(能楽)、常磐津節家元といった江
れだけではない
米有馬家といった代々の藩 主墓石が並ぶ
美濃八幡金森家、大和新庄桑山家、筑後久留
墓は黒田家だけではない
大名
わけ巨大で高さ五メートルに及び、刻まれて
。
左に広々とした川敷とその奥にとうとうと流
代々の墓が奉られている
その先の今の新豊津橋
。
眼下に渋谷川を挟んで両
寺域は川
。
れる渋谷川を見ながらしばし歩くとまもなく
。
緑豊かな、のどかな光
川から 二軒目の仲町通り右側に人形町玄
。
水車橋が見えてくる
を渡って北に行く
。
側に広い川敷がある
景
。
広大な寺域(子
。
泊店で有名な医師、岡本玄冶の抱屋敷がある
。
その先が祥 雲寺( 臨済宗)の山門
に沿って長方形に展開する
。
院を含めて現在もほぼ同じ) 周囲は武家屋
敷が囲む
29
。
まなせげんき〈
敷地は、江戸初期、もともと名医曲直瀬玄朔
。
げんや
「
医学天正記」
の下屋敷であった 彼は 二代秀忠の御典医で、
を残した人物
世界で最初といわれるカルテ
先ほど歩いてきた祥雲
羽橋に着く
。
広小路にある赤羽ちょろ河岸、
。
新堀河岸は著名な物資の荷揚げ河岸であった
上寺の学寮、子院が立ち並ぶ
。
新堀川はこの
赤羽楠を越えると川の左側(北側)一帯は増
辺りから金杉川とも呼ばれ、川沿いの増上寺
。
その弟子が岡本玄治で 三代家
ある
。
ったも
。
ここは内藤家の菩提寺であると
長の広い寺域が江戸最大の閤魔様で有名な大
(人足や馬の補充、駅亭)から北に広がる縦
宿場町、内藤新宿のほぼ中央にある問屋場
内藤新宿から牛込散歩
を潜って江戸湾に到達する
。
無論、
周囲は武
といやば
川はこの先将監橋、金杉橋(東海道)
第七祖の了春聖向上人を本尊とする酉蓮社が
今げいゅうれんじゃ
光の病を救った名医
。
歌舞伎で有名なお富、与 三
境内、辰巳の角地は明版 一切経を蔵し浄土宗
。
寺の門前に岡本家の抱屋敷が在ったが、本宅
げんじだなげんや
は日本橋人形町
郎「源氏店」の場面は玄冶屋敷をもじ
。
の(げんやをげんじと酒落)である
彼の 一族の墓もここにある
渋谷 川 の川敷に戻って東に歩くと左に見沙
。
門天で名高い天現寺、さらにその先は光林寺
川を挟む川敷は益々広くなり絶景
。
家屋敷がびっしり すぐに四之橋が見えてく
。
宗寺である
これを過ぎたところで渋谷川は北上し、
る
ともに、境内には大きな江戸六地蔵の 一つが
。
三之橋、 二之橋、 一之橋と続く 。一 之橋の処
川はここ
甲州街道を往く旅人は、この高さ
。
この辺りは、いわば内
。
旅の安全を祈願した
。
あった
。
は小さな溜池のようになっている
二 ・七メートルの笠かぶり地蔵に手を合わせ、
藤新宿の中心地である
。
から東に転じ、その名も新堀川(古川)と改
める
新堀川中之橋を越えると道は大きな広
場となり、増上寺火災除けの広小路となり赤
3
0
江戸 を 歩く
塀沿いに歩く
東西に細長いこ
。
この大宗寺域の右塀に沿って四谷大通から
。
北に進む 一本の細い道がある
と、表番衆町通にぶつかる
。
この道は江戸では細い
の道が今の広い靖国通りで時代の変遷とはい
え、隔世の感がある
割に重要な道で、それもその筈、道の両側に
。
。
これ
表番衆町通の番衆とは、幕府に詰めて
幕府警護の武士の館がひしめいていたからで
ある
将軍及び御所の警護にあたる者をさす
右に 曲が って表番衆
。
塀
これを
。
道の
かなり歩いても右側全て、
。
ら番衆が役目ごとにまとめて集合した地域が、
。
いわゆる大縄地である
町通を東に歩く
百 人組 与力大純 地の塀が連な っている
。
左 側は大縄地と御 家人の屋敷が混在密集
みta,が ぎか
が途切れると若荷坂(周辺若荷畑)
下ると窪地があって若荷谷と呼ばれ、ここか
。
ここは尾張藩主の母、自
ら源慶寺(浄土真宗)沿いに登ると左側が自
証院の広大な寺域
こぶでら
3
1
証院の菩提寺で、建設に節目の多い用材を用
いたため、江戸時代、ふし寺とか痛寺とか呼
.散歩図 「内孫新宿から高田馬場へ」
ばれた、桜の名所である
。
明治期、この近く
。
。
道まで合羽坂と呼ばれるようになった
。
。
火除
少し行くと
。
日露戦争で活躍した
け地から左に山がると江戸時代は武家屋敷、
明治則は子爵、男爵邸
児玉源太郎の屋敷もここにある
。
。
道はその名も
右側に月桂寺(臨済宗)がある
月桂寺通(その先が東京女子医大) 江戸期
これより先、
鎌倉中期の板
に住まいした小泉八雲は寺域のすばらしい景
観に感服し、頻繁に迫遺した
。
そしてようやく前方に広大な尾
碑(板石塔婆)も残っている
延々と続く
再び道の両側には御先手与力同心大縄地が
の月桂寺は今よりもずっと広く、柳沢吉保は
。
そこで上屋
張中納言の上屋敷が見えてくる
今日もある合
この寺の檀家であり、彼は大和郡山に葬られ
。
敷沿いを折り戻ると、合羽坂
たが長男以下の墓が建ち並んでいる
。
。
道の
この辺
やがて焼
。
江戸時
羽坂を上屋敷に沿って北に登る 右 側に見える、
代当寺には、付近に時刻を知らせる「時の錨」
右に折 れ、坂を登る
。
再び馬場に戻って北に歩く
。
徳川尾張中納 言慶勝(六十 二万石)の上屋敷
があった
。
り牛込山伏町 。一 つ日の角を左に曲がり北に
き餅坂に出る
。
は七万数千坪に及び、ここが明治以降、陸軍
周囲は旗本、御家人、同心大縄地
は、現在の防衛省、警察庁機動隊地となった
。
士官学校で勇名を馳せることになり、戦後に
徳川御殿の西塀に沿 って登ると、鉄 砲角場
ちょっと歩くと、左側に大学頭、三千五百石、
。
。
いずれも尾
林大学の下屋敷がある(上屋敷は丸の内にあ
(鉄砲場)と尾張殿馬場がある
こ
林大学頭
。
代の・刷所となっている
。
張殿専用の鉄砲馬術弓術の練習場である
った) 敷地面積は千 三百余坪だが、林家歴
明治になると
。
の練習場は上屋敷沿いに縦に並んで在り、馬
。
場の北先には広い火除け地が設けられている
道は馬場を挟む形で 二本ある
練習場は陸軍省用地となり、このあたりの坂
3
2
江戸 を 歩く
林家の祖は著名な林羅山で
。
林大学頭といえば、家康以来歴代の将軍に
。
朱子学(宋学)を修め、 二 十 三歳にし
仕えた学者 一族
ある
。
秀忠、家光にも教
て家康のブレーンになる
。
江戸幕府の土台作
え、幕府政治に探く関与
。
道の右側に文字
。
北に向かって六軒目
北に転じると、七軒寺通り
。
。
1
一七 O 八)
この寺には日本が生んだ偉
通り七軒の寺社が並ぶ
の寺社が浄輪寺
大な数学者、関孝和の墓がある
たか か ず
閑孝和は江戸前期( 一六 三九
の人物で、鎖国時代にあって難解な中固など
。
。
博覧強記に加
の教書をマスターし、独学により数学理論を
りに大きく関わることになる
打ち立てた天才である
えば 二次方程式、多項式、行列式に及ぶ
。
特
その業績は今日でい
家光から
これが五代綱吉の命によ
。
えて実務の才を持った人であった
。
上野忍ヶ丘に領地を与えられ、ここに学問所
と孔子廟を建てる
に行列式はライブニッツより早く打ち立て、
天下の幕府学問所、
り、神田昌平坂に移転
部分的にはニュートン、ライブニッツを凌駕
。
昌平坂学問所(お茶の水にある、孔子廟、東
て今日でも彼の研究がなされている
。
彼を勘
しかし、
。
日本人の優れた独創性を証拠づける天才とし
打ち立てたであろうと怖やまれる
生きていれば、轍密な数式に基づいた暦学を
定役に抜擢した家光の 三男、綱重がもう少し
。
和算の極致を極め、人
していたといわれる
。
。
京医科歯科大学の土地)に発展した 羅山に
生不運が重なったが、受け継いだ孝和の弟子
。
続く、林家歴代の当主も代々、学問所の当主
は定積分まで踏み込むに至っている
日米和親条約の締結に携わった
。
として幕府教学の責任者を任じ、 三代目(羅
。
江戸末期の当主は林復斎で、朱子学者にし
山の孫)から歴代、大学頭と称されている
て外交官
数学の天才、関孝和
林大学頭下屋敷の北沿いの道を西に歩き、
3
3
⑪快僧渡辺海旭
金中に
前田和男
求
め
て
遊 中 に 月を 求 めて
仏教界にルタ
l
よ、 いでよ怜
海旭は自らを仏門へと誘ってくれた福田行
誠の出会いの回想にひたり、行誠による兼学
の目覚めなくして今の自分はないと改めて感
得したところへ、「おいおい、なにをぼんや
あわ
。
た 「国民の大多数の仏教徒が兼学とやらを
。
。
だが、現
われらキリスト者に徒らに名をなさ
したら、日本の救貧活動は一気に活性するだ
ろうに
しめることもなかったろうに」
たしかに 言 われるとおりだった
実は先ほど紹介した公認派の動きもあってな
海旭は厳しい現実
。
かなか容易ではなかった
。
。
りとしている」と 言 われ、我に返った
スタントが訊ねた
をどう説明しようかと迷っていると、プロテ
。
てて回想から脱けだすと、行誠と兼学につい
理解し
「おぬしの兼 学の精神に共鳴する 仲間はいる
て、なんとかかいつまんで説明した
のか?」
「きみたちの
一口に 言 っても
。
スト者も無神論者も社会主義者も 一様に顔を
「いるとも」と海旭は応えた
てもらえるかどうか不安ではあったが、キリ
見合わせて領いた
キリスト教と同じで、仏教と
。
「なるほど、そういうことだったのか」と自
「おぬしがわれわれと談
いまのところ仏教の各宗派
。
様々な宗派があり、これまで相争ってきた
。
由思想団は 言 った
僕はその行誠師の教えに従い、ドイツに
しかし時代の大転換期には争うよりは学びあ
。
。
留学する 二年ほど前、仲間をかたらって兼学
だ
論風発、宗教家だけでなく社会主義者や無神
ク刷新派が引
ッ
うべきだというのがわが行誠師の兼学の精神
。
大いに結構だ」
論者とも交わるのも、その兼学とやらの精神
からなのか
「だったら、なぜその兼学の精神
の運動を興した
。
「大いに結構だが」とカ トリ
き継いだ
から十数人の集まりで、数や影響力では井上
円了らお上の庇護を求める公認派にはるかに
を信徒たちの聞に発揚させぬのだ」
「そうだ、そうだ」とプロテスタントが乗じ
3
5
及ばないが、志だけは負けてはいないつもり
。
だ」海旭はプロテスタントへ顔を向けた 「君
だ」と海旭は答えた
。
「そうそう、その観音菩薩とマリアはとても
これでもわれらキリスト者を
近い存在だと
。
たち新教にも大いに学ばせてもらっている」
驚かせるのに十分だが、さらに、冗談半分で、
。
。
それが、
あれには
おぬしに、観音菩薩とマリアとどっちが好き
。
「ほう、われらの何を・:?」とプロテスタン
仏教の革新をしようというのか」
。
「わが仏教
今度はピューリタン革命にあやかつて日本の
驚きを通り越して呆気にとられた
かと訊いたら、なんとマリアだと
つ清徒
トは身を乗り出した
。
十七世紀にかけて英国では、ピュー
H とはピューリタン
「われらが会の名前を仏教清徒同志会とした」
と海旭は言った
1
の日本語訳だ」
十六
「そうだ」と海旭は勢いづいた
よいでよ、と撒を飛ばして、このドイツへや
清徒の同志には、仏教界のマルチン・ルタ
リタンたちが宗教改革の端緒をつくり、つい
にクロムエル革命という政治体制の転換を促
には、英国の「前徒」にならって、日本の仏
「なんだと、英国だけでなく、わがドイツの
ってきたのだ」
l
した。海旭たちが「仏教清徒」と名乗ったの
教革新の担い手たらんとする決意がこめられ
。
こい
宗教改革者にもあやかろうというのか
。
ていた
つはまた痛快無比な大議論になりそうだ」と
。
「ワタナベ、おぬしはいつもわれらをびっく
カトリック刷新派が目をむくと、プロテスタ
。
はないか 今が季節の焼き栗を肴に新酒(ホ
イリゲ)を酌み交わしながら」
「よし、河岸を変えて、大議論を続けようで
。
りさせる」とカトリック刷新派が 言 った 「た
ントが後を引き継いだ
っ
しか昨年の暮れのマリア祭のときだったか、
。
言
聖母マリアと仏教の慈悲の神の・:なんと
たか?」
「観音菩薩だ ただし神ではない、 仏の化身
3
6
壷中に月を求めて
一同は、残りのピ
l
。
ルを泡まで飲み干すと、
野外へと繰り出していった
経緯会から仏教清教同志会へ
夜風に吹かれて街中をいくと、あちこちの
。
そのうちの
居酒屋やレストランが「新酒あります」の看
の志は燃つづけていた
。
しかし、いきなりキ
リスト教と兼学するのは盾突すぎるので、と
りあえず同じような考えをもっ仏教界の仲間
。
類ならぬ「憂
二十八年
はいないかと探していたところ、ちょうど海
。
旭がゆ上宗学本校を卒業した明治
暮、「同憂の士」を発見した
。
主
い」は友を呼ぶものらしい それは「経緯会」
という仏教諸宗派を超えた勉強会である
一軒
の居酒屋に入り、この年初の樽出し酒を注文、
板を掲げて客を誘っている
年、和歌山の浄土真宗本願寺派の寺に生まれ、
。
海旭より 一歳年長の明治四
宰者は古河老 川
。
軽いが爽やかな酸味のアルザスワインの盃を
挙げると、プ ロテスタントが促した
東京帝国大学卒業後、在家の僧侶として「中
央公論」などに論文を寄せて、自由主義的立
「それで、ワタナベ、日本におけるおぬした
ちの宗教改革運動、仏教の清教徒(ピューリ
「討究の自由と宗派
場から 言論活動を展開
の容認」を活動の 二本柱に語い、会の名称は
。
タン)とやらについてきかせてくれ」
この 二本の柱を
。
「少々長くなるが・
:
」と 言 いながら海旭はと
にすることに由来していた
海旭はここで高島米峰や杉村楚人冠らと出
。
H
H
経
横糸)と 緯
縦糸)
H(
d(
つおいつ語りはじめた 前の店ではもっぱら
。
聞き役の海旭だったが、この店では主役とな
った
米峰は浄土真宗本
。
願寺派の寺に生まれ中学教師、新聞記者を経
会い、紳を深めていった
誠を前に「仏教諸派だけではなく、キリスト
て後に東洋大 学学長、杉村は英語の通訳を経
海旭十五歳のみぎり、弱輩ながら、福田行
教からも学びたい」と宣 言 して、導師を大い
て新聞記者といずれも異能の個性派ぞろい
。
に頼もしがらせて以来、海旭のなかで、兼学
3
7
。
また同人の年齢がおおむね 二十代というのも、
海旭に親近感をいだかせた
彼らは海旭の浄土教報の事務所にあつまっ
ては、議論と交流をふかめていたが、明治 三
そいつは豪儀だ」
「いやいや」と海旭は手をふった
大それたことは考えてはおらぬ」
。
「そんな
とある日、仏教清徒同志会の運営について
。
そう答えながら、海旭は盟友・高島米峰と
打ち合わせをしていたところ、米峰が、この
交わした議論を思い出した
を発展的に解消し、あらたに仏教清徒同志会
程度の小人数の寄り合いで果たして仏教の革
十 一年 二月、古河が突然死去、そこで経緯会
を立ち上げることになった 経緯会はどちら
。
。
かというと言いっぱなしのところがあったが、
。
これ
新などできるだろうかと弱音を吐いた
。
言ったからには実践する、実践するためには
。
そして、現状
に対して、海旭はこう 言 って励ました
理屈を極める姿勢へと改めた
。
が出て・:」
彼の国にお
大乗修行の
だ
。
不断の精進、無尽の誓願だ
本領はここにあるのじゃないか
。
「なにごとも勇往だ、遁進さ、努力さ、奮励
旧仏教を、「疫病平愈富貴祈祷等をする迷信
にあぐらをかく旧仏教にもはっきりと対決
的仏教」「無常観に立って人生活動の真味を
役の
がど、つした:・」
耶蘇とも仲よくやれというおぬしらし
で、ルタ
。
「おお、ルタ lときたか、宗教改革の旗振り
l
いてもしかり、マルチン・ルタ
もはや旧仏教を改革しても新生命は創造
。
教えない厭世的仏教」であるとして絶縁を宣
言
できないから、新仏教を起こすと語いあげた
。
l
い
。
のである
「ルタl が出る聞にはあまたの宗教改革の団
。
「なるほど」と海旭の話が一区切りしたとこ
。
彼らは、火あぶりの
「その幾多の志士たちの孜々
営々たる運動があった
。
熱をこめた
体やら 一派があったのだ」と海旭はことばに
ほう、
「というこ
。
ろでカトリック刷新派が 言 った
ルチン・ルターになろうというのか
とで、おぬしは、日本における仏教革新のマ
3
8
遊 中 に 丹を 求めて
。
。
着 目・活目し 学
すなわちルターよりも、 宗 教
われらは、ここに
煙と化すのもおそれずに改革の旗をふりつづ
けたのだ
ばねばならぬ
。
わが日本では、偉人を呼ぶ 声 が大き
史に名をとどめない努力者に尊崇を払わねば
ならぬ
も法然上人も、日本には出
l
いが、実は偉人が出るように尽力し、努力し
。
。
!
と法然と沢
沢庵漬け 一本も漬からんのさ」
なければ、ルタ
てこぬわけさ
った
。
臨済の坊 主 どもは目を
。
「これは面白いたとえだ ルタ
庵漬けはおんなじか
むいて怒るぞ 」 と米峰は笑
「
労働者の家 」 に学 べ
った
。
。
「いや、仏教清
「何をニヤついて
「おいおい、ワタナベ」とカトリ ック刷新派
って答えた
が海旭の回想をやぶ
いるのだ」
海旭は我に返
徒同志会のあり方をめぐる議 論を思い出して
ね」
。
「ほう、それはどんな」 とプロテスタントが
促した
。
l を生み出すため
「われらは、仏教界のルタ
に名もなき礎になろうと約したのだ」と海旭
。
「で、成果は?」
「それは見上げたものだ」とプロテスタント
が目を丸くして訊いた
「実は同志たちの便りによると、機関紙を刊
。
「
異教の地にあ
って応援もで
行するのに汲々としているらしい」と海旭が
肩を落とした
きず、悩むことしきりなのだ・:」
それまでキリスト者に議論を委ねていた自
。
由思想団が割りこんだ 「どうも聞いていると、
ワタナベたちの運動は理論と実践の統 一をう
っかちのように思
何か地面にしかと足をつけた 実践が必
。
たっているわりには、頭で
える
。
。
。
」
・:
ク刷新
ッ
だからこ
って、国も社
「前の居 酒 屋 でも誰かが 言
とカトリ
「地に足がついた実 践となると
「それは俺も同感だ」とプロテスタントが同
要なのではないか」
意した
った
「やはり救貧運動だろう 」
派が引き取
ったが、日本は、ドイツとちが
会 主義 者も取り組みがいま 一つだ
そ、むしろ 宗 教の出番がある 」
39
者組合などが連携して運営している施設だ」
海旭がさらに訊こうとしたところ、自由思
「となると、やはりわれらが慈善活動を大い
想団が懐中から鎖っき時計を取り出し、針を
。
に学ぶことだな」と 二人のキリスト者が口を
確かめた
。
僕はとりそこねたよ
。
では、今夜はこ
それはうらやま
労働者
ぜひ、近いうちにその 『
。
遅れると女房殿に叱られる」
。
「おや、こんな時聞か そろそろ
「無神論者たちは国の制度を変える
。
「タンホイザ l の初日だな
手に入ってね
。
揃えた
お暇しなければ・: 。今夜のオペラ座の切符が
「ストラスプルク方式という画
「いやいや」と社会民主党が久しぶりに議論
。
ことに熱心なだけだから 」
に復帰した
期的な救貧制度を行政に作らせたのはわが社
しかし、い っぽう
しい
。
会民主党の運動の成果だ
。
これが後の海旭の生き方を決定することにな
実は軽い社交辞令で 言 ったつもりだったが、
の家」 ゃらについて教えてくれ」
までとして
。
。
われらも国に要求するだけでそ
国や行政に
っかりやれと尻押しをするだけでは限界が
社会主義者も足らざるところは自ら汗
ろうとは、もちろん当人は知るよしもなかっ
。
(この項つづく)
ある
。
た
し
れを黙過しているわけではない
状況もある
でワタナベが体験した赤いベルリンのような
。
をかかなければならない:・」
「たとえばどんなことを・・・」と海旭は促した
労働者の家(アルパイテルハ
「たとえば、『
イム)
」 がある」
。
「労働者の家?」海旭は興味を覚えて訊き返
した
「国や自治体の救貧施策では救えない貧窮労
働者を立ち直らせるために、労働組合や消費
4
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1
2
祭礼の祢宜の烏帽子蝶止まる
。
礼拝堂の木格子の札み夏立ちぬ
佳作〉礼状にひそむ告白さくらんぼ
〈
やかしこまった座だと感じさせる
を挙げることで、友達同士などではない、や
。
て「今日は無礼講で」と言う句の頭にこれ
になる 。一人が立ち上がると、乾杯に先立っ
花の下に敷き物を広げ、酒肴を並べて車座
無礼講ど言いて始まる花の宴
〈霊〉
旬一
上一
石原
。
おとなしくしていた猫が目について、そっと
。
宴も終わって立ち上がる 皆が騒いでいる問
端午の節句に招かれて行ったのだろう
去り際に猫抱 いてやる端午の日山内
霊〉
〈
浄一
子
佳
春
桃
児
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新
井
田
笠
斉
口
44
礼
去
浜
•
•
。
抱き上げた それだけのことだが、「抱いてや
増田
。
る」は、よくおとなしくしていたというようだ
〈
佳作〉透明な烏来て去る青葉闇
春の泥つけて去リ行く中学生
蝶去リてにわ かに雷雲近づき来
。
軒には子燕が待っているの
。
信子
信子
伊
吹
-自由題
十軒の岬の家並み つばめ来ぬ
。
漁業をなりわいとする岬の集落である 海
に突き出た狭い土地に、十戸の家が肩を寄せ
てはひるがえる
合うように並んでいる その家並みを燕が来
。
前には豊かな海が広がっている
。
を
だろう
吉 崎 美和子
〈
佳作〉雑草にふれて夏めくふくらはぜ
友訪・えば庭に声あリ白牡丹
田
芳
郎
苑
さとうゅう
池
口
村
松
山
林
青き空浜辺に海女の脱衣寵
4
5
〈
特選
〉
選者=僧田河郎子
浄土露上旬舎の
お知らせ
演
力
自由題
霊
。
・礼
誌上句会〈編集部選〉
過去という恋路いとおし春疾風 佐藤雅子
夏浅 し去勢の牛が目をつむる
斉田仁
去るものは追わず五月の杭である小林苑を
-去
朝礼の子ら活き活きと新入生
鈴木真理子
西原規夫
小林苑を
飯島英徳
佐藤雅子
明照会館内
佐藤雅子
金井根
とことんとことん紙の力士や柿若葉井島肇
夜濯ぎのパジャマとわたしだけの部藤
屋岡藤ゆかり
母の口や羽蟻うるさき墓ひとつ
新田あかね
やがて死ぬけしきの比えて昼寝か内
な藤隼人
風止んでダム予定地の青聞かな
石鹸はレモンの匂いして立夏
斉田 仁
長谷 川裕
緑陰の誰も読めない草書体
怒ぬりつつばあちゃんが売る浅鮒笠
か井
な亜子
山内桃児
万緑に忘れものあり白き靴
ペダル漕ぐ老の鼻唄春田ゆく
幾つかの夏へ消去のボタン押す 宮島みどり
鳥羽梓
小栗 幸隆
我はただ麓讃唱え歳をとる
起立礼着席すれば隣に夏
井口吾郎
-自由題
名
41714
水底へ消え去る村の器巣の花
去り際の声なき 言葉聖五月
返礼の品満開の花水木
蝿という大信田礼子的なもの
結城聡
道田禄助
はつなつの陽に球練を干しにけり 中嶋いづる
いちにちを金魚心地の北千住
西原規夫
3
日
敬礼の小さき手夏の駅舎かな
石原新
0
車窓より青葉若葉に 一礼す
目礼の紳士ら 二人生ビール
御礼と苦かれ衡土聞の隅
1名・佳作各
・ いずれの題とも数の制限はありません
締切・二O 一二年七月二十日
発表・ 『
浄土 」 二O 一二年十月号
『風」主宰 )
選者・増田河郎子 (南
応募方法
. 特選各
さい
東京都港区芝公園
葉書に俳句(何句でも可)と、住所・氏名を必ずお書き下
〒 mloo 11
宛先
浄土 」 誌上句会係
月刊 『
4
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~川電η今野慢す。妙
+れば志
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hしきた司法
かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画「ゴンち ゃ ん』が各地方新聞に掲載されています。(
静岡新聞・山梨日日新聞・北日本新聞・
福島民報・宮崎日日新聞・新日本海新聞・神戸新聞・岐阜新聞・中国新聞・四国新聞
)
J
C
1
1
編集後記
いつ見ても 輝き渡る海の色
海、朱夏( 三卜代から四十代)燃える朱
の海、向秋(五十代から六十代)臼く輝
を学ぶ期間である春は、あっという聞に
く銀色の海、玄冬(七十代以上)玄く艶
ている海である。(長)
やかにうねる海とした。それぞれが輝い
過ぎ、余暇としてゆっくり楽しむはずの
っているような気がしてならない
。
の被災地で自死を選ぶ人が後を絶たない
秋が、気がつくこともなく終わってしま
と聞く。パリパリ働く冥たけが人生では
東北
「アメ リ カの季語にはあるんじゃない?」
ない」 と 叱責を貿っ た。友人がすぐに
ない。今生きているそのことを楽しむだ
ないとした風潮を批判したのはひろさち
飯田実緩 (駒ヶ 根・ 安楽寺)
巌谷勝正 (目黒 ・祐天寺)
魚尾孝久 (三 島 ・願成寺)
大江田博導 ( flll 台 ・ 西方寺)
北山大超 (焼津 ・ 光心寺)
加藤亮哉 (五反 l到・専修寺)
熊谷鏑彦 (佐賀・本膳寺)
粂原恒久 (川 越・蓮馨寺)
佐藤孝雄 (鎌倉 ・ 高徳院)
佐藤成順 (品 川・ 願行寺)
佐藤良純 (小 石 川・ 光 岡 寺)
東海林良雲 (庖釜 ・ 雲上寺)
須藤隆仙 (函館 ・ 称名寺)
高ロ恭行 (大阪 ・ 一 心 寺)
田中光成 (町田・養迷寺)
中島真成 (背 111 ・ 梅:容院)
中村康雅 (r背水 ・ 実相寺)
中村瑞 貴( fl11 台 ・思鈍 院)
野上智徳 (静岡 ・ 宝台院)
藤田得三 (鴻巣 ・ 勝願寺)
縮図卓文 (締 |河・華陽院)
本多義敏 (両国 ・ 問 向 院)
真野飽海 (大本 山 清浄華院)
脳博之 ( 網 代 ・ 教安寺 )
水科善隆 (長野 ・ 究慶寺)
宮称昭彦 (大本 山 光 明 寺)
山田和緩 (諏訪 ・ 貞松院)
( 磁称略・五+音順)
発行人 Il--
|
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抹式 会 社
編集人 lil--
印刷所
発行
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大室了時
昭和十年五月 二 ト日第 三種郵便物認吋
印刷 平成 二十四 年六 月 二十日
発行干成 ニ ト四 年 じ円 一 円
年会 費 六 千円
浄土じ卜八巻七
勾鎖 倒 六百円
八 日川
佐山哲郎
青木照窓
村田洋 一
斎藤晃道
長谷川岱潤
と応援してくれたが、確かに日本には今
けの人生があってもいい。以前「人生な
四季をはっきり感じら れ た の は 今 や 昔
ゃ氏だが、自然も政治も絶望的な現代、
特別 、 維持、賛助会 員 の方々
編集チ l フ
編集スタ ッ フ
であったが、ここのとこ ろ 頻 繁 に 注 意 報
ど無 価 値、生きる意味などはじめからな
の話で、今は冬と夏の 二季になった感じ
とにかく生きていることが 何よ りも大事
い」と言い、 価値や意味がなければなら
さえする。春の花はあま り に も 短 く 、 秋
な ことだ。中国では人生の四季を海の色
変わったようだ。
の紅葉は冬の初めに過ぎないのは、何 か
二十代)群青の
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ホー ム ページ
が聞かれるようになった 。 気 候 は 本 当 に
まで竜巻など、滅多に考 え ら れ な い 現 象
先月の私の 俳 句に、「 竜 巻 な ど 季 語 に
岱
潤
一回えそうだ。人生 に替え、青春(十代から
今の私たちの人生にも き
雑誌 『浄土J
48
文と写真
浄土真宗東京東本願寺派
光徳寺平井泰雲尼
茶道歴30年
ゆたか 浅草
今、東京スカイツリーという世界 ー のタワーで賑わ
っている浅草駅から、
5 分程のたぬき通りから 1 本入
った路地裂の老舗とんかっ屋 『 ゆたか 』
を再訪した 。
浅草は路地裂に美味しいお店が多くある 。 店内は )J旨 臭
さを全く!感じさせない、隅々まで掃除の行き届いた落
ち着いた雰囲気 。 看板のロースカツ定食 ( 1 950 円)を
注文 。 薄い衣に薄ピンクに揚げられた肉はきめ細かく、
柔らくジューシー 。
ソースは特性ウスターソースと藻
復。 これが賎しい 0 ・i!X~織は肉の旨 l床を 邪 魔せず上i';j', I こ
いただける 。 聞けば向家製のパン粉は 4 日かけてっく
り、肉はキメの細かな脂身の美味しい群馬産のやまと
豚、揚げrlll は高級綿実 rlli とのこだわりが「門もたれの
しない軽やか l床」の王道のとんかつになる 。 他 にヒレ
かつ、冬の牡!鵬フライもファンが多し、 。 11m日 22年創業
なので 60余年地元に愛され、多くの遠くからの再訪者
がいることが領ける 。
台東区浅草 1 - 15-9
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定休日木曜日 、 月 1 固水晦日
11 時半 - 14時半 ( LO ) 16隠半 - 20時半 ( LO )
(平日 14時 ( LO ) 17時開店)
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アイエムが目指す
「寺院ルネッサンス」とは…
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日 本 人の心があ ぶ ない J そう感じたとき
発行人 / 佐藤良純
寺 院と周 縁 のはざまで 活 動する私たちアイ エ ムに
ひとつの 気 づきがあ り ま した 。
「寺院とは地域の人々の “ 苦 " と向き合い
編集人 / 大室了時
“学 び ・ 癒し・楽しみ" があり 、 人々を
元気にしてくれるところでなければ」 と 。
このような 寺 院と周 縁 の間に新しい 信 頼関係を 築 く
編集チ
支援 活動が、 寺 院ルネ ッ サンス 活 動なのです 。
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今 、アイ エ ムでは 寺 院か ら 地域 ・ 周 縁への
/ 長谷川岱潤
各 種文 化 発信 行 事 の開催を
お堂 コンサート
支援 致しております 。
型車 両端証L
東京都中央区京橋 2 -8-1 八重洲中央ビル
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