Ⅲ 座学用資料 1.タルガー(砂糖樽)づくり 樽皮とは沖縄の黒糖を本土に出荷するときに詰める容器のことです。戦前の、製塩に 次ぐ泡瀬の代表的な産業がタルガー(樽皮)製造でした。 泡 瀬 で は 1894( 明 治 26)年 頃 か ら 樽 皮 製 造 が 始 ま り ま し た 。晴 れ た 日 に は 塩 田 で 塩 づ くりを、天気の良くない日には樽皮づくりをしていたようです。 樽皮製造は戦後にも復活して続けられました。米軍の弾薬箱(木箱)等を再利用して つ く ら れ た そ う で す 。し か し な が ら 、1956( 昭 和 31)年 頃 に は 砂 糖 の 容 器 が 樽 皮 か ら ダンボールに変わり、樽皮は作られなくなりました。 樽 皮 の 形 や 重 さ に は 基 準 が あ り 、検 査 に 合 格 し た も の し か 使 っ て は い け ま せ ん で し た 。 タ ル ガ ー は 実 際 に 黒 糖 を 詰 め る と 100 斤 ( 60kg ほ ど ) に な り ま し た 。 タルガーの作 り方 くれ板 ①くれ板 を切 り出 す 丸太 松 の 材 木 か ら 、く れ 板( 平 たい板)を切り出します。 板 の 長 さ は 51.5cm、厚 み は 1.2~ 1.6cm で し た 。板 に は 1.2~1.6cm 山原や奄美のほうから山原 船で運ばれるリュウキュウ 51.5cm ひっくり返 して刃 を上 側 に向 けて使 う マツの材などが使われてい たようです。 くれ板 ②胴 板 をつくる くれ板から樽の胴(ど う )の 部 分 の 板 を つ く り ま す 。く れ 板 は 下 の 幅 が 狭 く そばがんな なるように、そばがんな (側鉋)で削ります。 次に板の内側を丸くす 鉋 (かんな)で削 る るよう に、おし がん な(押 し鉋)で削ります。 最 後 に 溝 き り 鉋( み ぞ き 溝 (みぞ)を彫 る り が ん な )を 使 っ て 板 の 下 くれ板 側に底板をはめる溝(み おしが んな ぞ)を彫っておきます。 45 ③胴 板 を組 み合 わせ、箍 (た が)でしめる まず胴板を組み合わせ ま す 。口 に な る 部 分 を 下 に して立てて並べます。 次に帯竹を輪っかに編 てウビ(帯)をつくり 、ウ ビタタキという道具を使 24 枚 以 内 帯竹 って木槌でたたいて樽を 箍 (たが) 締めました。 ④底 板 をつくり、樽 にはめる 編 みなが ら巻 く 最後に底板とふたを作 ります。まず、底 板の 片方 に釘 3 本ほど打ち込んで、 釘 の 釘 頭 を 切 っ て 、そ こ に ウビタタキ もう一方の板を合わせて 叩 き 、一 枚 の 底 板 に し ま す 。 3 枚ほどの板を合わせて 1 枚 の 底 板 、ふ た が 作 ら れ ま した。 図のようにトゲのつい 40.9cm た回転台の上に板をのせ 1.2~1.6cm て、丸鋸(まるのこ)を回 し な が ら 、丸 い 底 板 を 切 り 47.6~48.2cm 出します。 ウビを巻いた胴の底板 があたる部分をそこまわ しを使って滑らかにした ら出来た底板をはめこん でタルガーの出来上がり 47cm です。 泡瀬でタルガーを実際 に作っていた人の話では 1 日 に 25 個 も 作 っ て い た そ うです。 42.7~43.6 cm 46 2.塩づくり 52cm 21cm キーグ ェー ターグ クミ シンナーグ ルマ 30cm クェー 45cm 152cm 67cm 21cm ヤチバ 余 熱 鍋 (アトナービ) サシ サラ 鉄 平 鍋 (マースナービ) 112cm 242cm ユシ 27cm ナンチチウクサー パイプの先 に布 切 れをつめる 薪 や石 炭 クミ サシ ターグ ボージャ ー シンナーグ ルマ クムイ 泡 瀬 で の 塩 づ く り は 、そ の 後 の 1768 年 に な り 、高 江 洲 義 正 と い う 人 が 始 め た と 伝 え ら れています。 1905( 明 治 38) 年 以 降 は 、 泡 瀬 が 県 内 一 の 生 産 量 に な り ま し た 。 泡瀬の塩田は今の三丁目のあたり、―堤防から泡瀬小学校の前を通る水路までの間― にありました。 塩 田 一 帯 は 1978( 昭 和 53) 年 か ら は じ ま っ た 土 地 区 画 整 理 事 業 に よ り 埋 め 立 て ら れ 、 今の泡瀬三丁目になりました。 47 作 り方 と道 具 ①砂 まき は じ め に 、潮 が 満 ち て 湿 っ た 塩 田 に 砂 を ま き ま す 。砂 の 厚 さ は 1~ 1.5cm ぐ ら い 、サ シ という木のスコップで平らになるようにまきます。そこにクムイと呼ばれるため池から 海水をまいてしばらくのあいだ日光と風で砂を乾かせ砂に塩分をつけていきます。この ときに使うお椀のことをサラと呼んでいました。砂がなかなか乾かない時にはヤチバと い う 道 具 を 使 い 砂 に 細 か い 溝 を つ け た そ う で す 。天 気 が 悪 く あ ま り 乾 か な い 場 合 は 、所 々 に砂を集めて小さな山をつくっておき、次の日にまた砂まきをしたりもしました。 ②かん水 取 り 砂に十分に塩が付いたら塩田にまいた砂をユシで集めて列にします。それをキーグェ ーですくってシンナーグルマにのせ、クミまで運びます。クミには入れ口があって、シ ンナーグルマの荷台をそこに着けて、砂を入れました。入れ口の高さまでたまると、板 の仕切りをはめてさらに砂を入れました。クミがいっぱいになったら、足で砂をしっか りとふみ固めます。そしてターグ(水桶)でくんできた海水を上から注ぎます。すると 砂に付いていた塩分を含んだ濃い海水が下の穴から流れ出て、わきの水そうにたまりま す。この濃い塩水をかん水といいます。クミの中の砂はクェーですくってまた塩田にま いて使います。このかん水を塩たき小屋に持っていき、フカシ(ろか装置)に流し入れ ゴミを取り除き、タンクにためておきました。 ③塩 たき 塩たき小屋には鍋が2つありました。一つはかん水を煮つめるマースナービ(塩のナ ベ)とよばれた鉄の平たい鍋で、もう一つはアトナービとよばれた余熱用の鍋です。鍋 は隣り同士にかまどの上にのっていますが、余熱鍋の方は一段高くなっていて、そばか らパイプが出ています。鉄平鍋は下から薪(たきぎ)や石炭をくべて熱しますが、余熱 鍋はかまどの熱さで温められるようになっています。最初は両方の鍋にかん水を入れて おきます。塩炊きは鉄平鍋でかん水を煮つめていく工程です。水分が蒸発して塩の結晶 ができると火を弱め、クイシですくって木の箱の中で乾燥させます。鉄平鍋の底に付い たこげはナンチチウクナーでこそいで余熱鍋に入れます。そして余熱鍋のパイプから新 たにかん水を注いで塩たきを繰り返します。 炊き上がってすぐの原塩には塩化マグネシウムというすごく苦い成分が含まれていま す。そのため、でき上がった塩を底に小さな穴の空いている木箱に入れたり、ざるに入 れてつるしておき塩化マグネシウムが溶け出すのを待って塩を完成させました。塩化マ グネシウムはニガリとも呼ばれ、豆腐を作るときの凝固材として使われるため、塩を作 ったときに出るニガリは豆腐屋さんに売れました。 48 3.馬車軌道 馬 車 軌 道 客 車 のスケッチ(『写 真 集 ふるさと泡 瀬 』より) 嘉手納 沖縄県営鉄道 北谷 殿内前 比屋根 与儀 渡口 熱田 和仁屋 伊舎堂 浦添 ゆいレール 沖縄電気軌道 屋宜 添石 高江洲 当間 安里 前 奥間 津覇 前 津覇浜 和宇慶 朝太郎 仲伊保 小那覇 泡瀬 久場 泊 沖縄馬車軌道 我謝 与原 与那原 糸満馬車軌道 糸満 東風平 沖縄県営鉄道 戦 前 の鉄 軌 道 と現 在 のゆいレールの路 線 49 馬車軌道(ばしゃきどう)とは、馬 が線路の上を走る貨車や客車を引く もので、当時、糸満~那覇間(糸満 馬車軌道)と与那原~泡瀬間(沖縄 馬車軌道)の2つの路線がありまし た。 沖縄馬車軌道は、当時の与那原村と 美里村泡瀬を東海岸沿いに結んでい ました。 はじめは、 ( 当 時 )西 原 村 に あ っ た 製 糖工場にサトウキビを運ぶためのト ロッコとして計画されましたが、収 穫時期以外には使い道がなかったた め 、1914 年 3 月 に 人 の 運 送 を 主 な 目 的とした軌道会社がつくられました。 その後、太平洋戦争が激しくなって き た 1944 年 頃 に は 休 業 し ま し た 。 与 那 原 か ら 泡 瀬 ま で 、総 延 長 17.7km の 間 に 停 車 駅 が 全 部 で 24 駅 あ り 、 2 時 間 27 分 で 結 ん で い ま し た 。レ ー ル の 幅( = 車 輪 の 間 隔 )は 76.2cm で し た。 1925 年 4 月 の 時 点 で は 、1 日 7 往 復 の客車が運行するスケジュールとな っており、与那原から泡瀬までの運 賃 は 片 道 30 銭 、往 復 50 銭 で し た( 1 銭 = 1/100 円 )。 泡瀬駅があった場所は、およそ泡瀬 公民館の南側あたりでした。 当 時 の乗 車 きっぷ (『図 説 沖 縄 の鉄 道 』より) サトウキビの収穫時期になると、サ トウキビをいっぱいに積んだ荷車が レールをのろのろと走り、人をのせ た客車が、いらいらしながら、その 後をついている光景がよく見られた そうです。 50 4.海とのかかわり 泡 瀬 は 沖 縄 市 内 で も 唯 一 、海 に 面 し た 地 域 で 、古 く か ら 漁 が 行 わ れ て き ま し た 。西・南 ・ 北の三方を海に囲まれているので、戦前は海産物が豊富にとれました。 (1)積 場 跡 (ちんばあと) 泡瀬は山原船の寄港地で、船で運ばれてきた荷物の積み下ろしをした場所を積み場(ち んば)と呼んでいました。 今の漁港の奥の船揚場へと向かうあたりに当 時 の ち ん ば が あ り 、三 つ の ち ん ば に 分 か れ て い て 、中 の 津 口( 今 の 漁 港 )と 西 の 津 口 、東 の 津 口があったようです。 山原からは木材や炭などが多く運ばれたので、 これらの中南部への荷卸点として泡瀬は発展 し 、海 岸 通 り に は 木 材・薪 炭 材 業 者 が 十 数 件 も 並び、いつも活気に満ちていたそうです。 1945 年 (昭 和 20 年 )頃 の積 場 跡 (『泡 瀬 村 創 設 百 周 年 記 念 誌 』より) (2)泡 瀬 の漁 業 戦 前 に は 、半 農 半 漁 で 生 活 を す る 漁 民 が 14・15 戸 ぐ ら い あ っ た そ う で 、現 在 の 桃 原 三 丁目や泡瀬六丁目あたりに住んでいました。漁船のサバニは小さかったので遠くまで は行かず、久場崎(中城モールあたり)~勝連半島の沖で漁をしていました。 昭和に入ると、組合「美里村水産会」がつくられ、カマボコ工場もできたそうです。 そこでは泡瀬の海でとれた魚でカマボコがつくられていました。 1968( 昭 和 43)年 に は 海 岸 の 一 部 を 埋 め 立 て て、船が着く接岸施設、事務所、せり市場が 整備され、現在の漁港ができあがりました。 (3)泡 瀬 ヨットハーバー(沖 縄 マリーナ) 戦時中、泡瀬飛行場の建設で資材を運ぶため につくられた船着き場がありました。 戦争が終わって飛行場の必要が無くなったた め船着き場も使われなくなっていました。 1935( 昭 和 28) 年 、 ア メ リ カ 人 と 日 本 人 の 数 人が、船着き場だったところを利用してヨッ トハーバーをつくろうとしてできたのが「沖 縄ヨットクラブ」で、沖縄最初のヨットハー バーでした。現在は「沖縄マリーナ」に名前 が変わっています。 51 船 着 き場 だった頃 の様 子 (左 )とヨットハーバ ーができた頃 の 様 子 (右 ) (『写 真 集 ふるさと 泡 瀬 』より) 5.海のめぐみと方言 沖縄の海に生きている生物と私たちの暮らしには深いつながりがあり、私たちは海の生 物からさまざまな恵みを受け暮らしてきたのです。生物の名前などの方言名などは地域で 少しずつ違っていて、そこには昔の人と海との付き合い方が見え隠れしています。 チンボーラー(カンギクガイ) 3.5cm 干潟に転がっている石をそっとめくるとフタのあるサ ザエのような形をした丸い貝をみかけます。沖縄ではこ の貝をチンボーラーと呼んでいます。貝の口にあるフタ のすき間に針や爪ようじを差し込み、身を引っかけて取 り出して食べるととてもおいしい貝です。泡瀬地域では この貝を方言で“シチラン”と呼び、アンダミスー(油 カンギクガイ みそ)の具として用います。 6cm 10cm ティラジャー(マガキガイ) 水 深 20m く ら い ま で の 岩 場 に い て 、岩 や 海 草 の 表 面 に 生える藻類を食べる貝です。丸ごと茹でて、足の先に付 いているノコギリのようなギザギザの爪を持って身をク ルクルと出すと、きれいに出てきます。猛毒の歯舌(ハ チの針のような)を持つアンボイナガイ(イモガイの仲 間 )に よ く 似 て い る の で 間 違 え な い よ う 注 意 が 必 要 で す 。 マガキガイ アンボイナガイ タカセガイ(サラサバテイ) タカセガイは潮が満ち引きする岩磯にいます。大きいものでは 殻 径 10cm 以 上 に な り ま す 。 身 は 食 用 、 貝 殻 は 高 級 ボ タ ン の 素 材 10cm として利用されています。 巻貝以外に干潟では多くの二枚貝を見ることができますが、次 サラサバテイ のものが食べられます。 イソハマグリ リュウキュウマスオ リュウキュウアサリ リュウキュウザル アラスジケマン リュウキュウサルボウ 52 ホソスジイナミ ホソスジヒバリ アーサ(ヒトエグサ) ヒトエグサ、アオサ、 アナアオサ等を引っくる めて沖縄方言では“アー サ”と呼んでいます。冬 の終わりから春先にかけ て引き潮で干出(干上が アーサの養 殖 網 ヒトエグサ るようなところ)の岩場や転石に生える緑色の海藻です。 沖縄では吸い物やみそ汁や天ぷらの具としてよく使われ、鮮やかな緑色 で磯の香りが感 じ ら れ る 食 材 で す 。泡 瀬 で は 県 総 合 運 動 公 園 オ ー ト キ ャ ン プ 場 近 く の 岩 場 に 生 え て い ま す 。 海の中に棹(さお)を立てて網が張られているのはアーサの養殖をしているものです。 ナチョーラ(カイニンソウ) 昔の人はおなかにいる回虫と呼ばれる寄生虫を退 治するために海人草(かいにんそう)と呼ばれる海 藻を虫下しとして使っていました。泡瀬ではこの海 藻をナチョーラと呼んでいました。泡瀬の海でも少 し深いところの岩にいくと生えているのをみること ができます。見た目は、赤っぽく、茎は丸く伸びて いて、規則正しく枝分かれし、細い毛のような小枝 カイニンソウ でおおわれています。 モーイ(イバラノリ) イバラノリはテングサの仲間で緑色から暗い赤色 をした海藻です。 “いばら”の名前が付くとおり、 先のとがった枝が数多く分かれ出ていますが、さわ ったかんじはやわらかいです。寒天(かんてん)の ように熱を加えると溶け、冷めると固まる性質があ ります。沖縄では春先に見られる海藻で、一度茹で イバラノリ てから乾燥させて保存すれば一年中食べられます。 「モーイ豆腐」という料理が有名です。 スヌイ(モズク) 春先の泡瀬の少し沖の方の大潮の干潮時でも潮が引かないよ うな場所の転石や岩場にスヌイは生えています。沖縄では盛ん に 養 殖 も さ れ て い て 、全 国 の モ ズ ク 生 産 量 の 95%以 上 は 沖 縄 の モ ズ ク で す 。モ ズ ク に は が ん 細 胞 の 働 き を 抑 え る“ フ コ イ ダ ン ” という成分が多く含まれていることがわかり、注目を集めてい ます。 モズク 53 6.ビジュル、旗 頭 、祭り (1)泡 瀬 ビジュル ビジュルとは霊的な力を持っているとされる石のことで、豊作、豊漁、子授けなどを 願って祀られています。 泡瀬ビジュルは、昔、高江洲義正(たかえすぎしょう)という人が、海に浮かんでい る不思議な石を見つけ、それを持ち帰って祀ったのが始まりだと言われています。 旧 暦 の 9 月 9 日 に 行 わ れ る ビ ジ ュ ル 祭 で は 、1 年 の 無 病 息 災〔 病 気 を し な い で 健 康 で あ っ た こ と 〕、平 穏 無 事〔 何 事 も な く 穏 や か で あ っ た こ と 〕を 感 謝 す る と と も に 、こ れ か ら の 1 年のそれを祈ります。 (2)旗 頭 旗頭(はたがしら)とは、綱引きの ときに立てる幟(のぼり)で、綱引 きの雰囲気を盛り上げるために揚げ ら れ ま す 。竿 の 長 さ は 約 6.3m で 、そ の上にさらに様々な飾りを付けるの で 、全 体 の 高 さ は 7.3m、重 さ は 約 50 ~ 60kg に も な り ま す 。旗 頭 の 飾 り や 旗の文字は地域によって様々で、そ れぞれの伝統や特色を表しています。 綱引きは 2 手に分かれて引くので旗 頭は両方で 1 つずつ、つまり 2 本ず つのセットになります。 泡瀬では東と西に分かれて綱を引い ていて、それぞれに一番旗から三番旗 まで 3 本ずつ の旗 があ りまし た。ま た、昔か ら 泡瀬の綱引きは夜に引いていたので旗頭には明 かりが灯せるようなつくりになっています。そ のためテークドゥールー(太鼓灯篭:たいこと うろう)と呼ばれました。 (3)カシチー 旧 暦 6 月 25 日 に 火 の 神 や 仏 だ ん に 豊 作 を 感 謝する行事です。各家庭では新米で強飯(こわ めし)を炊いて食べ、また村全体では綱引きを 行いました。綱引きの中では、旗頭を突き上げ ながらガーエー(身体のぶつかり合い)を行い盛り上げます。 54 7.井戸と人の暮 らし 水道ができる前の時代には、人々が暮らす場所として、水が得られる井戸があるかどう かが重要なポイントでした。 (1)カーヌ毛 (川 原 毛 ) 泡瀬の人口が増えて水が必要になったため、カーヌ毛が掘り当てられました。 カーヌ毛はどんな干ばつにも枯れることがなく、集落一の共同井戸でした。 泡 瀬 地 区 は 1983 年 ( 昭 和 58 年 ) か ら の 土 地 区 画 整 理 事 業 で 全 体 的 に 地 面 が 高 く な り ま したが、カーヌ毛の井戸の前だけは昔の高さのまま残されています。 (2)ウブガー(産 井 泉 ) ウ ブ ガ ー は 泡 瀬 集 落 が で き た 初 め( 1768 年 )頃 に 飲 み 水 用 の 井 戸 と し て 作 ら れ ま し た 。 また飲料水だけでなく、出産時の産湯用の水を汲んだり、正月元旦の若水を汲んだり する井泉でもあり、古くから村落の原井泉として人々から尊ばれました。 (3)ミーガー(新 井 泉 ) ミーガーは昔、野良仕事や漁の帰りに使用されていたと伝えられています。 1945( 昭 和 20)年 に 泡 瀬 全 域 が 米 軍 施 設 に 接 収 さ れ た こ と で 、元 の ミ ー ガ ー は 消 え ま し た が 、 1983( 昭 和 58) 年 に 、 東 之 御 嶽 の 敷 地 内 に 新 し く 移 さ れ ま し た 。 カーヌ毛 (川 原 毛 ) ミーガー(新 井 泉 ) ウブガー(産 井 泉 ) 55 8.泡瀬の歴 史 年表 年 代 1768 明和 5 年 1777 1804 安永 6 年 文化元年 1805 文化 2 年 1854 嘉永 6 年 1867 1872 慶応 3 年 明治 5 年 1888 明 治 21 年 1893 明 治 26 年 1901 明 治 34 年 1903 明 治 36 年 1906 明 治 39 年 1907 明 治 40 年 1909 明 治 42 年 1912 明 治 45 年 大正元年 1914 大正 3 年 1916 大正 5 年 1917 大正 6 年 1918 大正 7 年 1926 大 正 15 年 昭和元年 泡 瀬 のできごと 高 江 洲 義 正 さんが 泡 瀬 島 に初 めて住 み 始 め たと伝 えられる (※社 会 ワークシート№16) 社 会 のできごと アメリカ独 立 宣 言 ナポレオンが皇 帝 となる 書 物 にはじめて「泡 瀬 」という地 名 があらわれる (『球 陽 』) ペリー艦 隊 が沖 縄 にきて 米 琉 条 約 を結 ぶ 東 京 が首 都 となる 琉 球 藩 が設 置 される 泡 瀬 に簡 易 小 学 校 が設 置 される (※社 会 ワークシート№15) 泡 瀬 に簡 易 小 学 校 が廃 止 される 美 越 尋 常 小 学 校 大 里 分 校 が美 東 尋 常 小 学 校 となる(美 東 小 学 校 ) 泡 瀬 が高 原 村 から分 立 して泡 瀬 村 となった 戸 数 404 戸 、人 口 2,984 人 製 塩 業 220 戸 、砂 糖 樽 製 造 業 90 戸 ライト兄 弟 が飛 行 機 を 発 明 した 越 来 村 と美 里 村 が誕 生 する この頃 の泡 瀬 の職 業 別 人 口 は、 医 者 1、獣 医 1、売 薬 請 負 業 2、料 理 屋 1、 飲 食 店 9、屠 殺 善 獣 肉 販 売 業 19、鍛 冶 1、 代 書 業 1、湯 屋 2、理 髪 業 7、石 炭 業 1、塩 製 造 業 204、材 木 商 1、雑 貨 1、教 員 2、屠 場 1、郵 便 局 1、巡 査 駐 在 所 1、農 業 100、 豆 腐 業 50、砂 糖 樽 製 造 業 80、藍 染 物 30、 魚 類 販 売 業 10、牛 乳 搾 取 所 1、ブリキ屋 1、 畳細工 1 泡 瀬 漁 業 共 同 組 合 がつくられる 第 一 次 世 界 大 戦 が起 こる 与 那 原 -泡 瀬 間 の馬 車 軌 道 が全 線 開 通 (※社 会 ワークシート№14) 海 中 道 路 の工 事 はじまる この頃 の泡 瀬 の戸 数 は 637 戸 、人 口 3,728 人 3 月 31 日 、泡 瀬 街 道 の工 事 が完 成 。4 月 14 日泡瀬街道開通式 (※社 会 ワークシート№13) あづまバス 那 覇 -大 山 -泡 瀬 経 由 -屋 慶 名線開通 56 1929 昭和 4 年 1930 昭和 5 年 1932 昭和 7 年 1938 昭 和 13 年 1939 昭 和 14 年 1945 昭 和 20 年 1946 昭 和 21 年 1950 1951 1953 1956 昭和 昭和 昭和 昭和 1960 昭 和 35 年 1966 昭 和 41 年 1974 昭 和 49 年 1978 昭 和 53 年 1980 昭 和 55 年 1981 昭 和 56 年 1986 昭 和 61 年 1987 昭 和 62 年 1993 平成 5 年 1994 1995 2000 2001 平成 平成 平成 平成 2003 平 成 15 年 25 26 28 31 年 年 年 年 6年 7年 12 年 13 年 泡 瀬 - 与 那 原 間 に安 田 バス と宮 城 バスが 運 行 する 電 灯 が設 置 される この頃 、樽 皮 製 造 業 63 戸 、年 間 16 万 挺 生 産 泡 瀬 郵 便 局 に公 衆 電 話 設 置 (※社 会 ワークシート№12) ビジュル改 築 (一 間 社 流 れ造 りの本 殿 、2 基 の 鳥 居 、 内 外 の 玉 垣 を 鉄 筋 コン クリ ー ト 造 に 改 築 する) 泡 瀬 製 樽 工 業 組 合 の設 立 が認 可 される 第 二 次 世 界 大 戦 おこる (※社 会 ワークシート№9, 10, 11) 4 月 1 日 、米 軍 が沖 縄 本 島 に上 陸 4 月 3 日 、泡 瀬 へ進 駐 しキャンプが設 営 される 7 月 、泡 瀬 飛 行 場 が新 設 される 美 東 初 等 学 校 高 原 分 校 を設 置 ( 高 原 小 学 校) (※社 会 ワークシート№8) 沖 縄 製 塩 株 式 会 社 が設 立 される 東 陽 バス泡 瀬 線 が運 行 開 始 泡 瀬 ヨットハーバーがつくられる 泡 瀬 郵 便 局 が開 局 泡 瀬 内 海 埋 立 工 事 が着 工 する。面 積 31 万 5 千 ㎡。 泡 瀬 内 海 埋 立 工 事 が完 了 する。 (※社 会 ワークシート№7) コザ市 と美 里 村 が合 併 し沖 縄 市 ができる 泡 瀬 土 地 区 画 整 理 事 業 が着 工 する。 「泡 瀬 京 太 郎 」が県 の無 形 民 俗 文 化 財 に指 定 される。 土 地 区 画 整 理 事 業 に 伴 い、ビジュルのかさ上 げ工 事 を行 なう 泡 瀬 内 海 埋 立 事 業 記 念 碑 、泡 瀬 土 地 区 画 整 理 事 業 記 念 碑 が建 立 される (※社 会 ワークシート№6) 海 邦 国 体 (第 42 回 国 民 体 育 大 会 )開 催 高 原 小 学 校 か ら分 立 し、 泡 瀬 小 学 校 が でき 第 1 回 ('93)おきなわマ る ラソン開 催 (※社 会 ワークシート№5) 慰 霊 の碑 「泡 瀬 の塔 」竣 工 (※社 会 ワークシート№4) 「匠 の家 」竣 工 泡 瀬 村 創 設 百 周 年 祭 り開 催 (※社 会 ワークシート№3) 57 沖 縄 サミット開 催 米 国 同 時 テロ発 生 9.泡瀬飛行 場 1945( 昭 和 20 年 ) 年 5 月 1 日 、 米 国 海軍が工事を開始した泡瀬飛行場は、 1,520 m の 滑 走 路 を 持 つ 米 国 海 軍 専 用 の 飛行場として 7 月に完成しました。9 月 に本格的な運用が始まる予定でしたが、 日本の敗戦のため一部を残して放棄され ていました。 当時を知る人などは、この飛行場でバ イクや車を乗り回したり、資材置き場に 忍び込んで物資をしっけいしたという話 が聞かれます。 そ の 後 、 1977 年 ( 昭 和 52 年 ) 3 月 ま でに、通信施設を除いた範囲が返還され ました。現在は、県総合運動公園や市街 1949( 昭 和 22) 年 作 成 の 米 軍 地 図 地になっています。土地区画整理事業が 行われたため、かつての飛行場の跡はま ったく残っていませんが、運動公園の北 口から北に延びる道路が、ちょうど当時 の滑走路の道筋にあたります。 1945( 昭 和 20) 年 頃 の 航 空 写 真 58 10.泡瀬と埋立 ての歴史 (1)泡 瀬 島 泡瀬地区は昔、海に浮かぶ無人島で した。 琉 球 王 国 時 代 の 絵 地 図 に は 、「 あ せ 嶋」 「 あ ふ 嶋 」の 2 つ が 描 か れ て い ま す。あせ嶋は今の二丁目~泡瀬通信 施設あたりの泡瀬半島、あふ嶋は県 あせ嶋 総あたりの奥武島になります。 あふ嶋 1768 年 に は じ め て 高 江 洲 義 正 と い う人が泡瀬島に住み始めたといわれ ています。その頃の泡瀬は高原村の 一部でした。 だ ん だ ん 人 口 が 増 え 、1903( 明 治 36) 年には高原村から分かれて泡瀬村と なりました。 天 保 琉 球 国 絵 図 (1830 年 代 作 製 ) (2)海 中 道 路 の整 備 戦前ではたくさんの品物を運ぶ 主な手段は船で、泡瀬は山原船 が寄る港地でした。 大正時代になると人と物の往来 が盛んになり陸上の交通が発展 していきました。 海中道路 その頃の泡瀬では、勝連方面に 行くには、大里・桃原を通って 遠回りするか、干潮時に浅瀬を 横切って古謝にたどり着くほか ありませんでしたが、その不便 をなくすために泡瀬から古謝へ 海中を横切る道路が大正 2 年か ら建設され、大正 5 年に完成し ま し た 。 全 長 約 700 メ ー ト ル 、 幅 員 5.4 メ ー ト ル 、 高 さ 3.6 メ ートルで、沖縄では初めて海の 中を通る道路でした。 戦 前 (昭 和 20 年 頃 の)の航 空 写 真 59 (3)軍 用 地 返 還 と内 海 埋 立 事 業 泡瀬の旧市街地は戦後、米軍に 取り上げられたため住民は元の 屋敷地に戻ることができず、そ のため、代わりの土地として海 中道路西側が埋立てられました。 昭 和 35( 1960)年 に 工 事 を 始 め 、 昭 和 41( 1966)年 に 完 成 し ま し た。 現在の泡瀬五丁目・六丁目の範 囲がそれで、美里工業高校や市 営住宅の近くを流れる水路は昔 の海岸線のなごりです。 土 地 返 還 の流 れ(『泡 瀬 誌 』より) (4)泡 瀬 土 地 区 画 整 理 事 業 米軍に取り上げられ ていた軍用地が徐々 に返されるようにな っ た の は 、 昭 和 40 ( 1965) 年 か ら の こ とです。 その土地を使いやす いように、土地の形 を整理して道路を通 す土地区画整理が行 われました。工事は 昭 和 53 年 か ら 始 ま り 昭 和 63 年 に 完 成 しました。 区 画 整 理 工 事 の様 子 こ れ に よ り 昔 の 塩 田 跡 地 も 住 宅 地 と な り 、現 在 の 泡 瀬 の 街 の 姿 の ベ ー ス が で き ま し た 。 現在の一丁目・二丁目・三丁目と四丁目の東側、比屋根四丁目の東側がそれに当たり ます。ビジュルの入口には土地区画整理の記念碑が建てられています。 (5)新 港 地 区 の埋 立 て 中城湾港は本土復帰後、国の重要港湾に指定されました。また県や国の方針によって 沖 縄 本 島 中 南 部 の 東 海 岸 の 物 流 や 産 業 の 拠 点 に し て い く た め 、昭 和 59 年 か ら 新 港 地 区 の埋立てが始まりました。 こ れ に よ り 、新 港 地 区 の 南 側 の 海 邦 町 と 、そ の 対 岸 の 海 邦 地 区 が 埋 め 立 て ら れ 、平 成 2 年から新しい街として加わりました。 60
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