11 粟畑に取り残された少年 - 中国帰国者支援交流センター

11
粟畑に取り残された少年
ひがしやま
よし あき
わし だ よう こ
し みず あい
語り手:東 山 良昭/聞き書き:資料収集調査員 鷲田洋子・清水愛
良昭(右側)と妻の写真
東山良昭の略歴
しゃ り
昭和9(1934)年8月
北海道斜里郡で生まれる
昭和 18(1943)年3月
父、母、祖父、兄、妹、弟の一家 7 人で渡満
ア ル ロォン
チンシャヌきょうえい
二 龍 開拓団[記録によれば、
「青 山 共 栄開拓団」とも呼ばれ
ていた]に入植
昭和 21(1946)年月末
李墨松に引き取られる
昭和 36(1961)年 10 月
宋桂蘭と結婚
昭和 61(1986)年6月
一時帰国[用語集→]
平成2(1990)年7月
2度目の一時帰国
平成 13(2001)年6月
永住帰国[用語集→]
現在
北海道札幌市に在住
はじめに
い
く しな
私は東山良昭といいます。
故郷は北海道斜里郡斜里町以久科です。
これが私の生まれた家の住所です。
71 歳になった良昭ははっきりとした口調で語り始めた。孤児になってから、ずっと忘れる
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ことのなかった家の住所、そして父や祖父、兄・弟・妹・おじ
の名前だけが祖国日本と良昭とを結ぶ手がかりだった。
平成 13(2001)年 6 月、良昭は戦後 50 年以上もたってよう
やく永住帰国を果たした。現在、近所に住む日本生まれのかわ
いいお孫さんに目を細めながら、平和な日々を過ごしている。
1.故郷、北海道斜里での生活
しれとこ
良昭は、昭和9年8月、北海道知床半島の付け根にある町、
父母の写真
斜里で生まれた。
てん
父母と祖父母と兄が一人、あとになって妹と弟が生まれて8人家族だった。家は農家で、甜
さい
菜[砂糖大根のこと]やじゃがいもや米を作っていた。
6歳の時祖母が亡くなった。その後良昭は小学校に上がる前の2年近くを子どものいない
おじの家で過ごした。
おじさんは写真館をやっていたんです。おばさんは家に1人でさびしかったんでしょう。私はおじさ
んの家に行くことになり、結局 1 年以上2年近くおじさんの家にいました。
おじさんの家で遊ぶのはけっこう楽しかったです。海に魚をとりに行ったりしましたね。魚は小さく
て1寸くらいでめずらしい魚でした。やっぱり夏が過ぎると、この魚は海にいくらでもいたので、つ
かまえて遊んだんです。それから小学校に行くことになったので、また家にもどりました。
学校は以久科小学校でした。全校児童 50∼60 名でした。私のクラスはというと、1学年1学級しか
なくて、15∼16 人でした。学校は家から2里ぐらいのところにありました。夏は歩いて行き、冬は雪
がひどくて、雪は深さが2尺以上や1メートル以上の時もあって、いつもスキーでした。小さい時は
スキーができたんです。スキーをはいて学校に通っていました。
2年生の時に山でスキー学習が始まりました。それにスキー大会もありました。先生が子どもたちを
連れて行ってくれたんです。その時、私は一等賞を取ったんです。やっぱりとてもうれしかったです
よ。
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近所のうちに通じる道の方、つまり自分のうちの前に大きな川がありました。その川には春や秋にな
ると鮭がたくさん来ました。春はその川に鮭の子どもが生まれる。秋にまたもどってくる。夏はたい
ていあまりいないです。父が魚を取ることもありました。でも一般人は取ろうとしなかったです。ど
うしてかというと国が取らせてくれなかったからです。魚を取る道具がみつかったら、すぐに没収に
なるし、魚を取ってるところを見られたら罰せられるんです。だから魚をとるのはたいてい夕方こっ
そりととっていたんです。
小さいころから大人といっしょに魚をとるのはけっこう楽しかったですよ。
家は農家をやってたでしょう。甜菜やじゃがいも、それに米を作ってなんとか生活してたんです。気
候はというと、雪がけっこう多かったですね。うちの玄関の前に道があったんですが、その道が家の
建ってる地面より1メートル以上も高いんですよ。雪が降ると玄関の前に降りつもるので、すっかり
ふさがれてしまうんです。戸を開けようにも開けられないので、雪のトンネルを掘って玄関の戸を開
けなければならなかったんです。
小さいころを思い出すとね、夏休みちょうどあひるの雛がかえったので近所の子どもといっしょに見
に行った事がありましたよ。魚を取るのもいれば、あひるをつかまえにいくのもいました。小さいこ
ろを思い出すと、そのころはけっこう楽しかった。子どもは遊びまわってました。
2.満洲へ
二龍開拓団
とうあん
りんこう
東山家は以久科村の8戸の村民とともに、満洲国東安省林口県二龍開拓団に向かうことに
なった。昭和 18(1943)年3月のことである。
3年生になって、どういうわけかわからないけど中国に行くらしいということになったんです。行く
ときはどうやって行ったかっていうとね、3月の末に船に乗って行ったんです。船は、2日かかりま
と もん
ぼ たんこう
したね。1泊2日で韓国で船をおりて、図們まで行って、それから牡丹江行きに乗り換えました。牡
丹江についた時には、お昼になっていました。そこで、昼ごはんを食べて、食べ終わったら、また二
龍駅まで行きました。二龍駅には、晩の6時すぎに着きました。もう、暗くなっていました。おばさ
んの家がうちより3年早くそこに来ていたから、そのおばさんたちが駅まで私たちを迎えに来てくれ
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たんです。それで、その時、おばさんの家に泊まらせてもらいました。
行った時はね、うちの家族は弟も妹もいて、全部で7人でした。しばらくおばの家に泊まっていまし
た。その村は周囲を塀でめぐらしてある大きな村でした。村に一軒空き家があったので、おばの家を
出てから、その空き家に入りました。
二龍開拓団は、周囲に塀をめぐらせた 50 世帯の住む大きな村だった。しかし、良昭の家
族を初め以久科村からやってきた9世帯が住む家はなかった。そこで、この9世帯は分団を
作り、開拓団の本村から4里離れた丘の平らな土地を開墾することになった。
こうして東山家はその土地に根をおろしたのである。
そう、分団の中の1軒でした。ここに鉄道が通っててね。この開
拓団の駅は、もとは臨時の駅だったんですよ。でも私たちが行っ
チンシャン
てからこの中間に正式に二龍駅ができました。ここは青 山 駅です。
チンシャヌ
フゥシャヌ
こっちは青 山 、こっちは虎 山 、虎山駅です。そう、1つ作ったん
です。もともと駅はなかった。もとは臨時の駅だった。
なんて言えばいいかな。やっぱり農家の仕事は、米づくりが多か
ったですよ。ほとんど、水稲が主でした。その他に、大豆やとう
もろこしをつくったね。そうでなかったら、じゃがいもなんかを
つくった。そこは町から遠かったから、何も売りに行けなかったんですよ。町まで行くとなったら、
林口県まで、100 里以上あるようなところだからね。斜里に比べたら、よくない、よくないですよ。
小学校
学校は、この二龍開拓団村の外にありました。学校には、40 数人、50 人もいなかったけど、そのく
らいの子どもがいました。私の組は、全部で8人、3年生の時ですね。4年生になっても、8人でし
た。とにかく、冬の登下校は、歩くのがたいへんでしたよ。山に登って坂を上がったり下ったり、雪
がふれば道がなくなるし。歩く時はけっこうたいへんだった。着る服は国が少し支給してくれた。み
グアンフゥ
んな国が支給した服でした。靴も帽子も綿の服も全部国が支給したんです。
「 光 復」
[
「社会が輝きを
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取り戻した」という意味。
「解放」
。ここでは、
「終戦」という意味]まで、ずっとこんなふうに暮らし
てました。
」
家の前での一家の写真
前列:左から4人目より父・母
後列:左から1人目よりおじ・兄・良昭
一番右は、祖父
中国人とのかかわり
家の近くに、中国人はいなかったです。ただ、線路の補修をする工夫の小屋がありました。本村の鉄
道線路のところの山のふもとに 20 数人線路を補修する中国人がいました。一般の日本人は、この人
たちに声をかけなかったです。
開拓団の思い出
学校が終わってからね、勉強が終わってから、私と兄は夏、父が草を刈ったり家畜にえさをやったり
するのを手伝いました。時間があると水田のところまで行って、用水路のところで、よく水浴びをし
たり魚とりをしたりしました。当時はだいたいこんなふうに遊んでいました。
ある時、午後しばらくして山から熊がおりてきたんです。みんなが発見してから、全村民、大人も子
どももみんな、子どもは後ろ、大人は前になって、棒なんかを持ってつかまえに行きました。
その熊は大熊ではなかったです。そうです、そんなに大きくなかった。つかまえるのに2時間はかか
ったかな、ようやっと、つかまえました。その日、私もそこに行ったんですよ。つかまえてから、そ
の熊を村に運んでって、囲いの中に入れたんです。それから、みんなその熊をからかって遊んで、そ
のあと県のほうに連絡したら、県から車が来てその熊を連れていってしまいました。
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それから一度こんなことがありました。春のある日の午後、火事になったんです。干草が人の背丈ぐ
らいの高さでずっと並んでいました。かなりいくつもつながって並んでたんですが、それに火がつい
たんです。この火が2里以上広がって、みんないっしょに火をたたきに行きました。
その当時は、まだ子どもだったからね、なんだかわいわいやっておもしろいと思ったけど、本当はす
ごく危なかったと思います。実際、火事はいいことじゃないんだけど、まだ小さかったからね。ただ
遊びたいと思っただけなんですよ。
父の応召と防空壕
(1945 年)6月に父が兵隊にとられて部隊にもどってから、情勢が緊迫してきたのを覚えてます。ど
うしてかというと、学校は村の外に建ててあったんですが、学生に防空壕を掘らせたんです。
これが本村です。ここに正門があります。このへんは丘です。丘に学校がありました。ここが学校の
玄関です。ここが道路です。開拓団の分団は、この本村から3、4里のところですよ。それがここ。
(右下図を参照のこと)私たちが学校に通っていた時は、長い坂をひとつ上がって、それからまた小
さな坂をふたつ上がり、さらに窪地を歩いていって、ようやっと家に着いたものなんです。
最初に、この学校の周囲に先生と学生が防空壕を掘りまし
た。左に一つ右に一つというように背の高さぐらいの穴を
掘ったんです。その時、みんな緊張していました。砲弾が
落ちてくるのに備えたんですよ。それ以外に住居の方はと
いうと、外はだいたい山でしたからね、村の者はこの山に
ほら穴を掘ったんです。
このあたりは、
9軒だったからね。
大きなほら穴を1つ掘ったんですよ。家から半里のところ
だったね。大きな山があってそこに大きなほら穴を掘ったんですよ。その当時、ずいぶん緊張状態で
したね。
家に残ったのは祖父と母、大人はこの2人だけになりました。他は、あっち(満州)に行って妹が1
人生まれたので、家には7人が残りました。残ったのは年寄りや子どもばかりです。自分のうちだけ
じゃなく、村中の若者や働き盛りの者たちがみんないなくなりました。あとはみな、おじいちゃん、
おばあちゃん、女の人や私のような子どもが残されたんです。
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私のいとこは 17 歳で中学生だったんですが、兵隊に行きました。村の前に汽車がとまって、兵隊に
とられた中学生たちが汽車に乗るのを私たちは見てました。
3.
「光復」
避難が始まった
この「光復」のことを知ったのは、8月 14 日の夜でした。開拓団の団長は急いで本村にもどるよう、
もう日本はだめだからここにとどまるなと言ってきました。それで何ももたず、何も物もいらないか
ら、とにかく馬車に馬をつないで持っていける食べ物やふとんや着る物をのせて、夜のうちに本村ま
で逃げてきました。そしてそこに集まって、命令を聞くことになったのです。
1945 年8月 15 日終戦。
日本人にとっては敗戦だったが、良昭はそれを「光復」と言った。
「光復」
、すなわち亡びた国を建て直すこと。
14 日の晩、通知が来た。
「日本人は全員牡丹江に集合させるからただちに出発せよ。
」
しかし、日本人避難民を待ち受けていたのは、8月9日に侵攻してきたソ連軍や匪賊によ
る容赦ない襲撃だった。
そんな混乱した情勢下で、良昭たち開拓団員の逃避行が始まった。
15 日の朝になって、全員本村に戻りました。そしてこの開拓団の団員全員が、本村を出発したんです。
チンシャン
7時すぎ、8時前には、出発しました。ここに青 山 駅があってそこに向かって、撤退したんです。
(村
から)60 里のところまで来た時ですよ。そこまで来て、その青山駅の近くに来た時に、ソ連の飛行機
が来て、爆撃を始めました。私たちを爆撃してきたので、道路には出なかったです。まず、持ってき
た物もいらない、馬もいらない、馬車もいらない、ということになって道路から離れ、山に向かって
走って逃げました。こうやって進んでいくことになったんです。避難が始まりました。
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ソ連機の爆撃を受けた開拓団員からは、多くの死傷者が出た。そのため人々は山に逃げ込
んだ。
大きな道路はもう歩きませんでした。大きな道路を離れてからは、小さな道に沿って山の中を歩きま
したが、道がなくなってしまいました。道がなくなったので、私たちはそこで一晩泊まりました。2
日目は、車(馬車)
、当時どの家にも物を運ぶ車があったんです、でも車では山は登れません。だから
家畜も車にのせてきた物も捨ててしまいました。およそ食べられるものは、みな持っていきました。
こうして最初は山の背を逃げていきました。
山の背には初め、
曲がりくねった小道があったんですが、
歩いているうちにその道もなくなりました。全く道がなくなったんです。だいたい、2、3日歩いた
でしょうか。2、3日してから、山を下りました。山を下りてから、その時は何時だったかな、午後
かな、村をみつけたんです。村には人はいませんでした。私たちは、四方を堀で囲まれた庭のある、
見たところ、どうも地主の家らしいところに泊まりました。塀の中は「三合院」になっていて、こっ
ちに一並びこっちに一並び、そしてこっちに一並び部屋があって、外側は四方に塀がめぐらされてい
ました。私たちは 50 世帯だったでしょう。この 50 世帯がみんなこの家に泊まったんです。そこで、
ごはんをつくり、晩ごはんを食べたんです。
次の日起きて、ごはんを食べ終わったばかりのころ、この塀の外側のそう遠くないところに小さな山
があるんですが、その小山の頂上から匪賊がこの庭めがけて発砲してきたんです。でも射撃が始まっ
ても、誰も部屋から出なかったので、怪我をしたものはいませんでした。この時、びっくりして、塀
の前には正門があって、後ろには裏門があったんですが、この裏門から逃げたんです。裏門の後ろに
小さな川がありました。その川に沿って、川の両岸に柳の木があって、身を隠してくれたんです。け
っこう日陰になってたから、この柳の木に沿って逃げたんです。
半里ぐらい行ってから、人数を数えたら兄がいないんですよ。いないので、誰だったかな、そう私の
おばだ、そのおばと、そして私もいっしょにもどったんです。もどってさがしたんです。さがしたら、
まだふとんの中で寝てるじゃないですか。私は兄を起こして、急いで外に出て逃げたんです。川に沿
って南の方へ行きました。
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それから、何日か歩いていったら、私たちが持っていた食べ物は、ほとんどなくなってしまった。私
たちは、この時何か食べるものがあれば何でも食べたんです。どこか、何かつくっている畑、とうも
シアングア
ろこしやらかぼちゃやら、なすやらの畑に来れば、それを食べたこともあります。 香 瓜[まくわ瓜]
シィグア
すいか
や西瓜[西瓜]はだいたいなくなってました。秋でしたからね、もう8月でしょう。持ってきた物は
何でも食べました。生のまま食べたこともあります。ある時、さつまいもがあったのですが、これも
生のまま食べました。こうして、1週間近く歩きました。
匪賊の襲撃、一家離散、そして孤児となる
あの日のことはとてもはっきり覚えています。
その日、朝ごはんを食べてから、ある川の川岸を、その川はどうも松花江のようだったんですが、そ
の川の川岸を歩き始めたんです。そんなに長い時間歩かないうちに、2時間ぐらいでしょうか、9時
ごろだったと思います。この川、私たちはこの川の川岸を歩いてました。そしたら、川の向こう岸か
ら我々の方に向かって、たくさんの人たちが発砲してきて、また射撃が始まったんです。相手が次々
と隙間なく撃ってくるので、みんなばらばらになってしまったんです。大声で泣き叫びながら、怪我
をする者もいれば死ぬ者もいました。
当時、私と兄といとこと、おじさんがいっしょになって、前の方を歩いてました。けれど、この攻撃
ですっかりばらばらになってしまったんです。自分一人逃げるのが精一杯で、他の人のことなんかか
まってられませんでした。銃は、びっしりと隙間なく撃ち込まれてきました。
その時私は、
道のそばの粟畑に入って隠れたんです。
粟は人の背の半分くらいの高さになってました。
1 メートルちょっとですかね。その粟畑に入って隠れて小さくなってたんです。小さくなって隠れて
いた時も、まだ銃を撃ってきてました。やはり、泣き叫ぶ声や銃声がして、そのあと 30 分ぐらいた
ってから銃声がやんだんです。そしたら、道の両側から匪賊が出てきたんですよ。それで避難民はす
っかりはさまれてしまったんです。そして匪賊達が、棍棒や銃で殴りかかってきたんです。
私は畑の中にじっと隠れて、外に出ませんでした。1時間以上もたってから、静かになったので立っ
こうりゃん
て見てみようと思いました。見てみると、粟畑のとなりが高 粱 畑になっているんですが、その高粱畑
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の中にまだ人がいました。あちこちさがしてみたら、話をしている者もいました。ここに死んでるの
がいるよとか、撃たれて死んだ人がたくさんいるとか話している声が聞こえました。私は小さくなっ
て外には出ませんでした。
小さくなってるうちに、だいたいお昼ぐらいにはなったんじゃないかと思います。おなかはすくし眠
くなるしでぼんやりしてきて、そこで眠ってしまったんです。目が覚めると、太陽はあっちの方、西
の方に傾いてましたから、たぶん3時ごろだったんじゃないかと思います。様子を見てみたら、しー
んとしています。それで立ち上がって回りを見てみたら、どこにも人がいないんです。誰もいないの
で、道路に沿って進んで行きました。死体もたくさん見ました。こうやって、家族と離れ離れになっ
てしまいました。
九死に一生を得た良昭が見た光景はあまりにむごたらしいものだった。
さっきまで一緒に避難していた開拓団の人たちのおびただしい死体。数時間前のあの阿鼻
叫喚の声が、うそのように静まり返り、畑の中にたった一人立ち尽くす良昭少年。
そのとき彼は恐怖と絶望に襲われ、家族の姿を求めて泣きながらあちこち探し回る。しか
し、少年は誰一人としてみつけることはできなかった。
異国の空の下、たった一人残されてしまったのだ。
日本兵との逃避行
そうやって歩いてるうちに、日本兵が7人やって来るのが見えました。日本兵は、銃を持ち完全武装
してました。日本兵達は私のそばまで来て、その中の小隊長が「じゃあ、ついて来なさい」と言いま
した。それで私は日本兵について歩き始めたんです。
日本兵と歩いて行った時は、
日本兵は昼間は小道を歩いて、
大きな道路を歩こうとはしなかったです。
とにかく、小さな道ばかり歩いてました。村の中にも入ろうとしませんでした。人数が少なかったか
ら、食事をとる時には、家が点在しているところに行って、それぞれあっちの家こっちの家に行って、
ごはんを食べました。ごはんを食べたら、山に入り、山の上の小さな道をさがして歩いていきました。
夜は山の中で寝ました。
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こうやって歩いていくうちに、ある日の夜、山の上で蚊に刺されたんです。雨に降られたので、蚊に
ひどく刺されてしまったんです。何にもかぶるものもなかったから、目も手も足も日ごと腫れていき
ました。目も顔も頭も刺されて腫れたんです。雨が降ったって、その時雨がっぱも何も持ってなかっ
たから、木の根元の所にしゃがんで座ってぼんやりしながら寝たんです。そうやって夜が明けたら、
また歩いてごはんを食べる場所をさがしました。そんな時は人の少ない所をさがしました。大きな村
には入ろうとしませんでした。3 軒から 5 軒の所や、1軒だけの所ばかりを探しました。夜、家の者
にごはんを作らせて食べて、食べたらまた歩くんです。
戦いながら
歩いていった時はこんなふうでした。歩いていくうちに、だんだん人が多くなるんです。私たちが歩
いていくと、日本兵の一団に行き合う。また歩いていくと、また別の一団に行き合う。みんな、いっ
しょになって歩いていきました。部隊になって歩いていって、30 数人になりました。
当初は敵を攻撃したりしてました。正門に銃を撃っても、中から何も反撃してこないこともありまし
た。両者で戦いになることもありました。相手は日本兵を打ち負かせなくて負けてしまい逃げていき
ました。相手が逃げればまた歩いていくというふうに、進んでいきました。食べるものがないことも
あったし、山の上に道もないこともありました。人気のないところを歩いて山に入り、何日も出てい
かなかったです。
日本兵はある日、ある家につないであった馬をみつけて、どうしようもなくなって、その馬を殺して
食べました。おなかがすけば、およそ食べられるものは火が通っていようが生であろうが、おかまい
なく食べたものです。とうもろこしだって、生のとうもろこしです。生のまま食べました。こんなふ
うに歩いてったんですよ。
4人の女子中学生
5、6日か、6、7日歩いたら、また別の一団に行き会いました。4人の日本の中学校の女生徒です。
4人の女の子です。その子たちも私たちといっしょに歩きました。こうやって、5人の孤児たちは部
隊について行きました。進んでいけばいくほど、人が増えていきました。人数がどんどん多くなって
60 人以上になりました。
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日本兵の略奪
ある日の午後、ある村に着きました。そこは、どうも朝鮮族の村のようでした。やはり塀をめぐらし
てありました。それでその村の近くまできた時に両者で撃ち合いが始まりました。それは3時すぎで
した。私は4人の中学生といっしょに高粱畑の中にいました。兵隊たちはもってきた物をそのへんに
置いて私たちに番をさせ、私たち数人を残して日本兵は皆戦いに出ていきました。その日の戦いは、
2、3時間かかりました。最後に朝鮮族の村が負けた時はもう夜の7時すぎになってました。その村
は負けてしまったんです。それで村中の者は皆逃げてしまいました。
皆逃げたあと、もう8時近くになっていたんですが、まだごはんを食べてなかった。村にはにわとり
もいるし、牛も豚もいる。それで豚を殺し、牛を殺し始めた。何でも殺したよ。でも煮ないで食べま
した。日本兵は家に火をつけて家を燃やしちゃったんです。殺したあと、その肉をひとかたまりひと
かたまりに切って、火の中に入れて焼いて食べたんです。砂糖をつけて食べる者もいれば、塩をつけ
て食べる者もいました。
屍をまたいで
次の日の朝起きて、また何か食べて、食べ終わったら出発しました。その日の午後1時すぎに、また
別の一団に出くわしました。この一団に出くわした時は、正面から撃ってこないで我々の部隊が通り
過ぎてから、後ろの方から前に向かって撃ってきたんです。でも、この時日本兵は何もかまわなかっ
たので、撃ち合いにもならなかったです。私たちはそのまま前へと歩き続けました。
私たちが歩いた道には中国人だか日本人だか、とにかく死体がごろごろしていた。死体を踏んでしま
ったこともあったし、線路の近くの平らなところに4、50 体もの死体がころがってたこともあった。
歩く時はそんな中を死体をまたぎながら進んでいったんです。
南へ、南へ。日本兵の一団は道中幾度となく小さな戦闘を繰り返しながら撤退した。どん
どんふくらんでいく日本兵。その人数は最終的に 120 数名に及んだ。
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日本兵の墓
我々が進んでいくと、道の傍らの山の斜面にできたばかりの新しい墓がいくらでもありました。中に
は札を立ててあるのもありました。それは皆、日本人の兵隊が死んだ後立てた札です。土饅頭1つに
札が1枚、また土饅頭1つに札が1枚。道路沿いに並んだ土饅頭は全部そんな日本兵の墓でした。そ
れは(敗戦の)少し前に死んだ人の墓で、敗戦後に死んだ人の墓ではなかったんじゃないかと思いま
す。
そうやってまた歩いていかなければならなかったんです。ぼんやりしながらね、何か食べてね。その
当時ちょっと寒くなってきて、おまけに体がきたないもんだから服にシラミがすごかったんです。綿
入れの中の綿に手を入れて取り出せばシラミが6、7匹、7、8匹はいたね。たくさんいた。シラミ
をさがさなくたって、シラミの方が人間をさがしてくれるからね。
全くきたないやらひどい目にあうやらで、靴もぐちゃぐちゃになってだめになってしまった。靴をさ
がしても、みつからなかった。破れた靴がみつかったこともあったけど、何日かはけばもうだめにな
ってしまう。こうやって部隊についていったんです。40 数日は歩いたね。
一度大きな村まで来たことがありました。大きな村でね、塀も2丈以上の高さがある塀でね、その塀
の中に入らせないんです。塀の上に見張り台がありました。入らせないなんてどうしようか、中の人
たちは塀の外を行くならいいけど中はだめだというんです。しようがないここに泊まろうと思ったけ
ど、中に入らせないんだからしようがない。塀の回りをぐるっとまわって行きました。中の人たちは
発砲してこなかったから、我々の方もかまわなかったんです。この村はこんなふうにして通りすぎて
いきました。もしも無理やり入ろうとすれば戦いになるでしょう。そういうものでしょう。食べる物
もないから、手に入った物は何でも食べた。生でも火が通っててもみんな食べた。1食抜きの時、1
日2食のこともあった。やっぱりおなかをすかしてることが多かったですね。3食、食べることはそ
んなになかったです。
いつも時間がないんです。とにかく逃げました。
八路軍が来た 日本兵に見捨てられて
我々は最後に朝鮮族の村にやってきました。もう晩の4時すぎになっていました。この朝鮮族の村で
1泊しました。兵隊も皆泊まりました。1泊して食事をとりました。次の日朝起きてみると兵隊がい
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ません。兵隊が1人もいなくなったんです。みんな行ってしまった。我々5人の子どもをそこに捨て
て行ってしまったんです。日本兵は蛟河県の八路軍が日本兵を引きとりに来るようだという話を聞い
たんです。日本兵はそんな話を聞いたので、おそらく山に逃げてしまったのでしょう。八路軍はそこ
にその我々が泊まったところ、朝鮮族の老夫婦の家にやってきたんです。
(八路軍が来る前に)その家のおじいさんは我々5人を田んぼの中の掘っ建て小屋に連れていきまし
た。その村からけっこう遠いところにある掘っ建て小屋でした。そこに我々はじっとしてました。そ
の掘っ建て小屋の中に隠れてたんですよ。昼ごはんはおじいさんが届けてくれました。朝、八路軍が
来たんですが1人の日本兵もみつかりません。八路軍は山の方に追っかけていきました。晩になって
暗くなり物音もしなくなったので、朝鮮族のおじいさんが我々5人を迎えに来ておじいさんの家にも
どっていきました。
そして晩ごはんを食べ終わったばかりの時ですよ。7時すぎでした。八路軍がもどって来たというじ
ゃないですか。
朝鮮族のそのおじいさんは、我々5人を米倉の中に隠してくれたんです。八路軍がやってきてあちこ
ちさがしまわりました。そしてついに米倉にいる我々5人はみつかってしまったんです。こうして、
我々は八路軍に連れていかれました。
蛟河難民収容所
8月 15 日から始まった良昭の逃避行がようやく終わった。
家族と一緒に逃げたのが 10 日ぐらい、あとの 35 日は略奪しながら進む日本兵と行動を共
にした。全部で 45 日間に及ぶ逃避行だった。
こう が
良昭は蛟河(良昭は「ジアオホ」と発音)難民収容所に入り、2ヶ月近くそこで生活した。
八路軍は車でやって来ました。4台のトラックです。4台のトラックに大勢の人が乗ってました。100
人以上はいました。トラックに乗って、つまり大きな車に乗って、蛟河県の方へ行きました。その蛟
河のそばに日本人の難民収容所があって、そこに連れて行かれたのです。そこに着いたら、もう夜の
11 時すぎになっていました。我々5人はそこに、その難民収容所に送り届けられたのです。その収容
所の責任者に引き渡されました。
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その所長のところに行った次の日収容所の人たちが相談して、我々5人をばらばらにすることにした
んです。我々数人を分けて、めんどうをみようということになりました。誰々さんはあの子をつれて
いく、誰々さんはあの子をつれていくというふうにね。私は鈴木さんのところにあずけられました。
その人は、鈴木という日本人でした。そこの家族は 30 すぎの夫婦と5歳くらいの子どもが1人のう
ちでした。鈴木さんが私を連れていきました。誰も面倒をみないわけにはいかないでしょう。そこで
はとにかくいつも食べ物が不足してました。食べ物を節約しながらそこですごしました。
王家屯で
敗戦の年の冬、食べるだけで精一杯の生活。
おう か とん
1945 年 11 月、蛟河難民収容所の日本人は全員蛟河県から 20 数里離れたところにある王家屯
(良昭は「ワンジィアトゥヌ」と発音)
)に移動した。ある日、匪賊の略奪に遭い、持ち物を
すべて失った。こうして一人一人が仕事をさがして生活していかなければならなくなったの
だ。
鈴木さんはね、鈴木さんは豆腐屋に働きに行きました。あとになって、私も来るように言われて行っ
たんです。豆腐屋に行って、にわとりや豚の世話をしました。私はそこでにわとりや豚の世話の手伝
いをしました。2ヶ月ぐらいやったかな。2ヶ月近くです。この間ずっとそんなことをしてました。
時には燃やす薪がなくなったので、山に薪をとりに行ったりもしました。当時冬でちょうどいちばん
寒い時期でね。12 月や1月の寒い時期だったのに、その家の部屋の中には暖房もなかったんです。そ
れで薪で暖を取らなきゃならなかったんですが、薪もない、金もない、買おうと思ったってそれもな
い。部屋の中は朝起きると掛け布団の襟のところが、吐く息で真っ白な霜みたいになりました。そう
やって1月までなんとか暮らしてました。
吉林難民収容所
1月です。たぶんもうすぐ 1 月末になるころ、1月末だったと思います。我々難民は、全員吉林市の
方へ向かうため集まりました。みんな集まってから全部で3、4日歩いたと思います。ちょっと忘れ
たなあ。とにかく全部徒歩でした。しようがなかったんです。山があれば山を歩き、山がなければ道
路を歩きました。道だって歩きづらいし、道を知ってる者も誰もいない、道案内する人もいないんで
すから。当てずっぽうに歩いてるうちに1月末になって吉林市に着いたんです。そして吉林市の難民
- 265 -
収容所に行きました。そこは人も多く生活もやはりたいへんでした。
ダ バン
その年の冬、鈴木さんは薪をつくる仕事を思いつきました。中国では「大棒」を売ると言って大きな
枝、このぐらいの太さの枝をのこで切って、薪にするんです。一節一節切って割って小さな棒にする
んです。それから小さな束にまとめて縛ってそれを売るんです。鈴木さんが薪を割って、鈴木さんが
薪を割ってから、
私がそばでその針金で1束1束に束ねていきました。
こうして薪を一冬売りました。
4.7尺の大きな石臼
そして、春3月になりました。鈴木さんは薪売りをしても売れなくなってお金をかせげなくなったの
ワンジィアディエヌ
で、今度は「王 家 店 」という王さんの店に行きました。そこは車の店、つまり馬車を引く商売の店
で、道を通る人たちがそこまで来て泊まる、まあこのあたりの言葉で言えばホテルのような店をやっ
てたんです。私はそこに行っても豚やにわとりにえさをやる仕事をしていました。そこの仕事は食べ
るにはおなかいっぱい食べられたけど、とにかく疲れました。どうしてかって?豚やにわとりのえさ
をつくるからですよ。臼でね。臼は知ってる?石臼ですよ。まるくてこのぐらいの大きさの 2.7 尺の
大臼でね。その臼をひいて穀物を砕いて粉にするんだ。わかる?こいつをひく仕事をそこで 1 ヶ月や
ったんです。
ホウ
イェヌリアン
そこに馬車の商売をしている候さん、候 言 良 という人が馬車をとめてたんです。候さんは吉林市で
長春市の方面への運送の仕事をしてました。それでその人がもどって来て、その店に泊まった時、私
を見て店長に聞いたんです。
「あの子はどこの子だい?」
「雇いの日本人さ。
」
「いやあ、あんなに小さい子があんなに大きい臼をひけるのかい?たいへんだろう。ひいても動かな
いだろう。
」
そしたら候さんは
「あの子に田舎で牛飼いをしてるところをさがしてやろう、いいかい?」と言ったんです。
それで店長は
- 266 -
「じゃあ、鈴木さんに聞かなきゃな」と言って、鈴木さんのところに行ったんです。
鈴木さんは「いいよ」と言いました。
店長も行ってもいいと言いました。
李家に引き取られる
1946 年4月末、良昭は候さんに連れられて吉林市郊外の李家に向かった。
リ
モ ソォン
李墨 松 です。李墨松という人のうちに行ったんです。そのうちの家族には夫婦2人に、息子が3人、
娘が2人と李墨松の兄がいました。そこのうちは農家で、畑で野菜をつくって、吉林市で売ってまし
た。果樹園もありました。そこのうちに行ってからは、家畜を放牧したり豚にえさをやってました。
家畜を放牧する時は、朝ね、夏なら2時半すぎには起きたよ。2時半すぎには夜が明けてくるからね。
夜が明けてくるころには、
放牧に出るんです。
4時とか5時には畑仕事にかからなきゃならないから、
家畜を放牧してちゃんと食べさせとかなきゃならないんですよ。それから家にもどって豚にもえさを
やらなきゃならない。えさをやり終わったら、また家畜にやる草を刈りに行かなきゃならない。こん
なふうでしたよ。
昼間は大した事ではなかったけど、やはり畑仕事をしなきゃならない。何をしたかって?野菜の種を
まいてね、大きくなったら植えかえるんです。なすの苗を植えて葉をとったりしたね。それからトマ
トの芽を摘んだりね。
それからその苗を支柱にくくりつけなきゃならなかったし。
きゅうりもあった。
きゅうりの苗も支柱にくくりつけなきゃならなかった。こんなふうな仕事だったね。家畜が仕事を終
わらせてもどってきたら、また放牧に行かなければならなかった。放牧したら、まず日が暮れて暗く
なるまでもどれない。家畜におなかいっぱい食べさせなきゃならないからね。
草刈鎌
1度こんなことがあったのを覚えてますよ。私とそこのうちの息子といっしょにね、草を刈ってたら
ね、その草刈りのことでけんかになったんですよ。今もここに傷跡があるでしょ。鎌ですよ、鎌は知
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ってる?鎌で草を刈るでしょう。その鎌でかかってこられて、肉がめくれて骨までみえるような傷を
負わされたんです。
もとはと言えば、草刈りでね。私が刈った草が相手のより多かったから、けんかになったんです。相
手は自分がせっかく見つけた草を、みんな私が刈っちゃうって言うんです。それで言い合ってるうち
にけんかになったんです。
日本人の集団引き揚げから取り残されて
そして8月になった。1946 年の8月です。この時、日本人が大挙して帰国したんです。それで鈴木さ
んは私のところに会いに来ました。鈴木さんは私を連れて吉林市の難民収容所にもどりました。その
時、鈴木さんは
「我々は帰ることになったけど、おまえを連れていけないよ」と言いました。
「我々が帰る時に生きるも死ぬもわからないし、道中無事に帰れるかもわからないからな。だから
おまえを連れていくわけにはいかない。
」
私は
「生きるか死ぬかわからないたって、今こんなんじゃないか、僕だって帰るよ」と言ったら、鈴木
さんは
「どうしてもだめだ。とにかく連れていけないよ」と言うんです。そして
「娘も蛟河の知り合いにあずけなければならない。2、3年したらおまえたちに会いに来るから。
おまえたちをいっしょに連れて帰るから」となだめすかして言うんです。
どうしようもありません。結局私は帰れなくなりました。それでまた李さんのうちにもどりました。
日本人が集団帰国することを知りながら、異国に捨て置かれてしまった良昭少年。
そしてある日のこと。良昭は李家の次男とまたけんかになる。あんまり腹がたったので家
から逃げ出したが、15 里ほど行った所で結局つかまってこっぴどく怒られてしまう。
「日本に帰りたい」しかし祖国ははるか遠く、周囲の日本人が帰ってしまった今、帰国す
るための手立ては何も残されていなかった。
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「貼骨瘡」になる
9月になると私の足が痛くなりだしました。最初はちょっと痛いぐらいだったのですが、日に日にひ
どくなりました。外から見ても何も見えません。1ヶ月も痛んで、ついに歩くこともできなくなりま
した。畑仕事に行こうとしたら、ばったり地面に倒れてしまったんです。それでズボンのすそをたく
チン
し上げて見たら、足がね、青くなってるんだ。
「青」はわかるでしょう。少し青黒いような色だよ。そ
の時、本当に動けなくなってしまったんです。でも子どもらは私が仕事をしたくないから仮病をつか
ってるんだと言うんです。こんなふうだったけどおじさんはいい人だった。結局、本当にどうしよう
ティエグゥチョアン
もなくなって医者に診てもらいに行ったんです。医者によれば、
「
『 貼 骨 瘡 』になった」と言うんで
すよ。
「見たところ今はだめだ。あと1週間たたなきゃだめだよ。今はまだ早い。中はもう化膿して膿
があるから、今はメスを入れられないな、まだ早い」と言うんです。それでさらに1週間たってから、
メスを入れました。そして3日してから、またメスを入れました。全部で2回メスを入れたんです。
最初にメスを入れた時には血膿が流れ出て、どんぶり1杯になったよ。次にメスを入れた時はね、こ
のへんだけどほとんどそんなに痛くなかった。中の方をちょっと切った。それでそこのところはこの
ぐらいの傷あとが残ってるんです。こんなふうに1ヶ月以上休んでから、やっと畑仕事に出られるよ
うになりました。もう 10 月末になってました。そうやって、その家にずっといたんです。
吉林解放
46 年と 47 年の2年。その時は国民党が占拠していて国民党の地区だった。47 年、そう 47 年の秋に
八路軍が吉林市を取り囲んだんです。そう八路軍が取り囲んだんです。中の方には国民党がいた。1947
年の冬、
(八路軍が)取り囲んだ。
その年の冬はね、農民は皆食べる物がなくなってしまったんです。その年は雪が多くて、降るのも早
かった。食料は全部雪にうもれてしまって、取り出すこともできない。家に持ってかえることもでき
なかった。中には持ってかえったものもあるけど、それは皆雪の中から外に取り出したものでした。
八路軍は時々吉林市に攻撃をしかけたけど、なかなか攻めあぐねていた。攻めては後退するといった
具合でした。これは小さな戦いで大きな戦いではなかったです。こんなふうに一進一退を繰り返し、
48 年3月何日だったかな、3月 18 日だ、吉林市は解放されたんです。国民党は負けて撤退しました。
国民党は撤退したんです。撤退してどこに行ったかというと長春市に行ったんです。吉林市から 240
里のところに国民党は撤退しました。八路軍は吉林市を解放したんです。
- 269 -
土地改革
トゥガイ
トゥーガイ
48 年冬に解放してからは八路軍の政府になって「土改」が始まりました。
「土 改 」はわかる?「土地
改革」つまり田畑を分けるんだよ。地主を打倒するんだ。48 年の冬に始まったんです。当時、国民党
の頃は戸籍がなかった。戸籍簿がなかったんです。48 年「土改」の時、48 年の冬秋にはもう始まっ
てたけど、冬の土地改革の時、各世帯が皆それぞれの家族を登録したんです。戸籍簿に記載したわけ
です。そういうわけで、李さんのうちでは私もいっしょにそこのうちの戸籍にのせてくれたんです。
私の名前をね、李さんのうちの子どもの名前同様、私の名前をつけてくれたんですよ。そうして李さ
リ ジュファ
んのうちにずっといたんです。
(名前は)李居發。その時戸籍簿が変わって私もそうやって登録したん
です。
冬になって土地の分割が始まりました。土地を分割する時は私も1人分として支給されたので、私の
分も含めて李さんのうちの家族といっしょに支給されました。1人2畝1分の田畑を分け与えられま
した。そうやって、その土地でやっていくことになりました。働けるなら働く、そうすれば(ただで)
食べたり仕事をしたりできました。李さんのうちの家族と同じです。おじさんやおばさんはよくして
くれました。
」
「小日本(シアオルィベヌ)
当時私は何歳だったかな、13 歳だな。やっぱり家畜を放牧したり畑の仕事をしてたね。家畜の放牧の
時はね、みんなして放牧に出たんだよ。その村に住んでる人たちは、それぞれ半里ぐらい間をおいて
住んでいました。4軒の家は山の中ではなく谷間に住んでいました。
家畜を放牧する子どもはね、その家畜にまたがって山に行って放牧するんです。ある時ある群れに出
くわしてね、牛を放牧してた時だった。放牧に来ていた子どもたちも私が日本人だということを知っ
ていて、
「あいつは小日本だぞ、なぐってやれ、なぐってやれ。
」と言われました。そんなことはしょ
っちゅうありました。
良昭はいじめられても口も返さずたたき返しもせずにじっと耐え忍んでいた。
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村の業余学校
日本では3年生まで学校に行き、中国に渡って5年生の夏に戦争は終わった。その後孤児
になってから、良昭は学校には行っていなかった。
イエユィシュエシアオ
[作業時間外を利用した
しかし昭和 26(1951)年、村で夜間学校が始まった。
「業余 学 校 」
学校]である。2、3年間良昭は仕事が終わるとそこで勉強した。こうして良昭は李家で働
きながら成長していったのである。
5.独り立ち
就職
1956 年李家は吉林市内に引っ越してきた。そしてその年、長男の紹介で良昭の就職が決ま
った。
56 年に、
(李家の)長男が私に町の中の仕事をさがしてくれました。仕事をさがしたのは8月でした。
労働局の試験があったけど、試験があっても合格するわけないからね。それで李さんのうちの長男、
私の兄の知りあいの労働局の人に頼んで、手続きをしてもらったんです。だから試験は受けないで合
格して、登録してもらったんです。
吉林市の機械工場でした。全部で何人行ったかって?42 人行ったよ。試験はね。今回は試験を受けた
んです。試験をやってね、合格したのは 11 人だった。合格者の中に私がはいってました。そういう
わけで 11 人が残ったんです。そして「家に帰って知らせをまってなさい」と言われました。
10 月に試験が終わって、12 月になっても知らせがこない。12 月末になって知らせが来ました。それ
によると中央からの命令でこの工場はもう大きくしないから、募集したって受け入れできないという
ことになりました。それでそこから製紙工場の方に回されました。つまり私たち 11 人はそのまま吉
林市の製紙工場に回されることになったんです。
製紙工場に届けを出したのが 12 月、56 年 12 月 26 日でした。製紙工場に行って届けを出しました。
年を越して、1月3日から正式に仕事が始まりました。
- 271 -
困難な時代
勤めに出てから、59 年は困難な年でした。中国全土が困難な時期でした。災害が起きて食料は実らな
い。そんな困難な時期が 3 年続きました。59 年、60 年、61 年の3年間は困難が続きました。
困難な時期に私がしていた仕事というのはボイラーの仕事、つまりボイラー係でした。 その時は、
見習工だったからね、1ヶ月その当時で初めのうち、ようやっと 29 元かせいだかな。あとになって、
ス ルゥゴォン
33 元かせいで3年後に 39 元かせぐようになった。
「司炉 工 」というボイラーの仕事です。
李家を出る
当時私は食べる量も多かった。その当時食料は配給でしたよ。一般市民の主婦やおじいさんおばあさ
んには、27 斤半の食料をくれました。残りの勤めに出てた者にはその人の職種によって食料が支給さ
れました。30 斤ちょっと、35 斤のや 38 斤の、40 斤の者もいた。いちばん多いのは 48 斤の人でした。
私は当時肉体労働だったから 45 斤でした。生活はたいへんでしたよ。家で食べるごはんも、私は食
べる量が多いからね。そのころいちばん上の兄はもう結婚していました。子どももいました。それで
兄嫁は、私がたくさん食べるのをよく思わなかったので、しょっちゅう言い合いになったんです。
そういうわけで自分は 45 斤なんだし、自分1人でどんなに食べたっておなかいっぱいになるだろう
と思いました。それで私はおばさんに「僕は宿舎に行くよ。姉さんが僕がたくさん食べるのを嫌がっ
てるから」と言いました。おばさんは承知してくれました。59 年の 11 月だったと思います。宿舎に
入りました。宿舎で暮らすようになったんです。
タンジャ
てんさい
当時工場でもみんな食べるものがないことがありました。
「糖渣子」を食べました。甜菜[砂糖大根の
こと]だよ。砂糖をつくるあの甜菜のくずです。そいつを食べたんですよ。それから、とうもろこし
の茎を細かく砕いて水につけて布ごしして食べました。なんでも食べました。それからさつまいもの
つるや、にれの実、それに、にれの皮も食べた。我々の工場では時々農民のところに行って畑仕事を
することもありました。農民はお金ではなくて野菜をくれました。かぼちゃをもらう者もいれば、な
すや唐辛子をもらう者、じゃがいもやなんかをもらう者もいました。当時はいちばん大変でしたよ。
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工場の業余学校
61 年から製紙工場の「業余学校(イエユィシュエシアオ)
」が始まりました。文盲を一掃するという
ことで「業余学校」の授業が始まったんです。
「業余中学」というのは仕事の余暇を利用して行う中学
校で、61 年に始まりました。私の余暇の時間はというと、3交代だったからね、朝8時に仕事が始ま
って4時に仕事が終わる。午後の遅班は4時に仕事が始まって、夜中の 12 時に仕事が終わる。夜勤
は夜中の 12 時に仕事が始まって、次の日の8時に仕事が終わります。こんなふうに1日を3つの班
に分けてました。
4時すぎに終わる時は、4時半から6時までが(業余学校の)1つの組になっていました。3つの組
に分かれて勉強しました。それからずっと中学卒業まで勉強しました。つまり「業余中学卒業」です。
これが私の中国での教育程度です。
結婚
61 年の春になって、ある人が妻を紹介してくれ
ました。私の同僚が彼女と知り合いだったんで
す。そういうわけで秋になって、彼女に異存は
なく私にも異存はなかったので、秋の 10 月に
なって結婚して家庭を持ったんです。
最初は部屋を借りてました。裏の方に妻の姉の
家がありました。それで、その姉の家のとなり
に家を建てました。年齢は 27 歳です。家内は
結婚当時の写真
26 歳です。
6.文化大革命
日本人であることが知られる
工場に就職した頃、良昭が日本人であることを知っている者は誰もいなかった。戸籍も農
村から持ってきたので記載がなかったのである。
- 273 -
ス チン ユ ヌ ドォン
1963 年に文化大革命の発端となった「四清運 動 」が始まった。そのとき良昭のことが調
べられ、日本人であることがわかってしまう。
当初上司に知られている程度であったが、1966 年に文化大革命が始まると、良昭の作業場
のほとんどの人に知られてしまう。
我々の作業場は、その当時 200 人以上いました。1 つの作業場に 200 人以上です。あの工場は大きく
てね、当時工場全体で 6000 人以上いました。6000 人以上が、15 ヶ所の作業場に分かれて仕事をし
ていました。我々の作業場は 200 人以上でした。
文化大革命のころね、
初めのうちはグループには入らなかったんです。
でも上司が私のところに来て、
私が参加していないというんです。革命をやらないとだめだ、革命をやらないのは反革命だ、中間派
なんてないというんです。しょうがないので参加しました。それで私はそのグループに入りました。
解放軍側のグループです。もう 1 つのグループは解放軍に反対するグループでした。2つのグループ
があって戦ってました。
日本のスパイと言われて
やはり中には私のことを日本人だから日本のスパイだろう、
日本の回し者だろうと言う者もいました。
我々の作業場の上司も、つまり作業場の主任や支部の書記も当時窓際に追いやられてました。ですか
ら、その上司は私に対してとても良くしてくれました。文化大革命の運動は上に立つ人を集めてやる
トウトウ
ものではなかったんです。
「頭頭」というのは、指導幹部のこと、作業場の指導幹部です。やっぱりそ
の人たちは私に対して良くしてくれました。
チ ウエイドォイ
だいたいその人たちのグループは、1つはね、我々のグループの名前は「赤 衛 隊 」といって、解放
ザァオファヌ ダ ジュヌ
軍が支持してたグループでした。もう 1 つは解放軍が支持していないグループで「 造 反 大 軍 」とい
って、この2つのグループが戦ってたんです。その(造反大軍の)親玉が私をよこせというんです。
でも、私のグループ(赤衛隊)は(私を造反大軍に)渡さなかった。このグループ(赤衛隊)はね、
力があったからね。こっちの方(造反大軍)は弱かった。
- 274 -
りんぴょう じ けん
そうやって、文化大革命が終わったら今度は林 彪 事件です。林彪事件の時にも私が日本人だというこ
とが影響しました。会議でね、林彪の事があって会議が開かれた時に私は参加させなかったんです。
1ヶ月以上もたってから、あの時、林彪がこうこうこうだったと教えられました。でもそんなことは
たいしたことじゃない。初めのうちは私に教えようとはしない。1ヵ月もたってからね、世界中が知
ってるころになってね、公開も公開しないもないころになって、私に教えるんだから。
(一般の人たち
は)みんな参加したよ。
(私には)参加させなかった。
(文化大革命のころつらい事は)なかったです。私のことを批判してこなかったからね。私のことを
スパイだの何だのという者はいたけどね。
我々のグループにも作業場の中にもそんなのは何人かいた。
もう1つのグループは、また私のことを日本のスパイだ、回し者だと言ってきたけど、証拠もないし、
そんなことでそのままになって言われなくなったんです。
農村に行き、知識青年を管理する
結婚後、良昭の家に息子が3人生まれた。文化大革命が終わり、仕事も家庭も順調になる。
とはいえ、当時は中国人全体が苦しい生活だったから、良昭の家もどうにかやっていくしか
なかった。
シアファン
[用語集→上山下郷]
1976 年良昭は「下 放 」
政策のため農村に派遣された。青年の管理を任されたの
である。
農村に行って、何をしたかって?当時、文化大革命では「知識青年は農村に行って、再教育を受けよ」
というスローガンがあったじゃないですか。つまり、町の学生が卒業後、中学、高校、大学を卒業し
てからみんな農村に行かなければならなかった。みんな働いて、鍛えに行かなければならなかったん
です。農村に行ったら、そういう青年を受け入れるために新築された建物がありました。町から来た
青年が泊まるところです。76 年に作業場の上司が私を農村に派遣しました。
これは、順番には行くことになってるんですけどね。順番に行くんだけど、やはりちゃんと手本にな
るような人じゃないとね。よくない人は行かせない。私を行かせるという時、最初私は行かないと言
いました。あとで作業場の方で状況を説明してくれて、
「あんたは行きたければ行けるけど、上司が行
かせないと言えばやっぱり行けないんだよ。
行きたくたって行けない人もいるんだから」
という話で、
- 275 -
私は農村に派遣されて知識青年を管理することになりました。
何の管理かというとね、つまり、青年の生産大隊を管理するんです。学生の生活や労働についていろ
んな角度からどんなふうに予定をたてればいいか、何か問題があればその問題を解決しました。学生
は卒業したら農村に行ったんです。中学も高校もだよ。
もうたくとう
これはね、毛沢東が出したスローガンなんだ。
「知識青年は農村に行って再教育せよ。
」管理の仕事は
1年間だけだったけどね。農村に1年間いたんです。
(妻は)子どもと家にいたよ。子どもを3人かか
えてた。でも、私は1週間に1回もどってきたんだ。1週間に1回もどってきた。そう、交通の便が
よかったからね。
当番長になって
農村に行く前は、工場の仕事は3交替勤務だったが、
「下放」が終わり、工場にもどると良
昭は昼の勤務になった。しかも作業場の班長となった。その後さらに作業場全体をまとめる
当番長となった。
88 年に試験があった。技師の試験です。88 年の試験に合格したんです。それで当番長になったんで
す。当番長になってから私を副主任にしようとしたんですが、私はやらなかった。年をとってたから
ね。89 年に当番長になって 92 年の末までずっとやってました。93 年に退職しました。そして、私の
ところの三男が私の職場を引き継いだんです。息子は 87 年から製紙工場に勤め始めました。その時
は臨時雇いでしたけどね。
よかったこと?何もないですよ。でもやっぱり、作業場の上司は私にまあよくしてくれましたよ。
7.国交回復の知らせ
1972 年日本と中国は国交を回復した。
しかしその知らせが良昭のところまで届くことはなかった。
3年後のある朝のこと。良昭はたまたま職場の同僚と読んでいた新聞で、日本と中国が国
- 276 -
交を回復した事実を知ったのだ。
私の場合はね、中国に行った時家族全員で行ったでしょう。日本の方には、私の父親の兄弟の中で2
番目のおじだけが残りました。中国に行った時、おじの家には子どもがいませんでした。おじも年を
とっただろうし。私が思いをめぐらしても、中国は当時戦争状態で、これから生きていけるのかもわ
からないし、
(日本の親戚が)誰が生きてて誰が死んでるのかもわからない。それに当時、結婚して所
帯をもったからね。その後はいっそのことこの事はもう考えないで、中国にいればそれでいいと思い
ました。
(家が)恋しいたって家はもうないし、日本に帰ろうにも子どもは皆大きくなってしまったし、戦争
が終わってから、ふるさとがあるのかどうかさえわからなかったんだから。それにことばだって通じ
ないでしょう。
全部忘れてしまったよ。でも忘れてしまったことには忘れてしまったけど、北海道のどこに住んでい
たのかは忘れなかった。私の父親と2番目のおじの名前、祖父と兄・弟・上の妹の名前は忘れなかっ
た。他はみんな忘れた。すっかり忘れてしまいました。
肉親捜しのため一時帰国 43年ぶりに祖国の土を踏む
日中国交回復を知ってから 10 年たち、1985 年良昭のもとに公安局の職員がやってきた。
中国に残された日本人孤児たちの肉親探しをすることになったのだ。
日本と中国が国交を回復したらしいと聞きましたが、吉林市の日本人については 1 人も知らなかった
です。1985 年になって、政府の公安局の人が私のところに来ました。日本に行って、肉親探しを集団
でやることになったというんです。初めはそれを聞いても行くとは言いませんでした。それから又公
安局の人が私のところに来たので、その時、初めて家内に話をしました。公安局は日本の方で肉親探
しをするから、中国で人を集めて日本に行って、親戚を探すんだと言ってると話しました。こうして、
2 回目にはだいたい同意して登録しました。日本行きが決まった後、通知が来て、それには 86 年6月
1日に出発すると書いてありました。
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1986 年5月末、吉林市内と近郊に住む日本人孤児 14 名が公安局に集められ、第 11 期日
本人孤児肉親探し調査団が結成された。良昭は戦後こんなに多くの日本人孤児に会ったこと
はなかった。しかも皆見知らぬ人ばかりであった。
6月1日良昭は同じ境遇の日本人孤児たちとともに、ようやく祖国日本の土を踏んだ。小
学3年生の3月に満洲に渡ってから、すでに 43 年の月日が流れていた。
一行が滞在した東京代々木のホテルで記者会見が行われると、孤児の親戚が続々つめかけ
てきた。良昭は帰国前に北京で、日本の記者から、良昭を探している肉親がいるということ
をすでに聞かされていた。
良昭(左側)
、おじ(中央)
、いとこ(右側)の写真
通訳(左側)
、おじ(中央)
、良昭(右側)の写真
当時、その2人に会っても2人がおじさんといとこだとはわかりませんでした。でも4番目のいとこ
はかろうじて、見覚えがありました。いとこの顔に傷あとがあったからです。この傷あとはずっとと
れないで残ってました。だからいとこの方はわかったんですが、おじさんだけはどうしてもわからな
い。
(血縁関係にあるという)証明が終わってから、午後におじさんといとこは私を羽田空港に連れて行
きました。羽田空港の近くにホテルがあってそのホテルに1泊しました。6日には北海道に着きまし
め まんべつ
た。北海道の女満別空港で降りて、そこから車に乗っておじさんのうちに行ったんです。おじの家に
はおじとおばとその子ども、息子が3人、娘が2人いましたが、みんなもう家から離れていました。
けれども歓迎してくれた人がたくさんいました。4、50 人はいたと思いますよ。私の母方のおじの家族
や、4人のおばさんの家族、それにいとこもいました。2人のいとこの家族やたくさんいましたよ。
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その日の午後には墓参りに行きました。
次の日、斜里町役場に行って町長や役所の人たちに面会しました。そして、その日の夕方、町役場で
は歓迎会を催してくれました。3日目には私のクラスメートが何人か、全部で 10 人がみんな集まっ
て私に会いに来て、また歓迎会を開いてくれました。そう、小学3年生の時の。1人も思い出せない
よ。1人だって思い出せない。名前もわからない、みんな忘れちゃったよ。それから写真を持ってき
て見せながら「これはあんただよ。これは私」といった具合に見比べれば、まあだいたい写真の顔と
そんなに違わなかったけどね。
しれとこ
4日目になって、みんなは私を斜里の知床観光に連れて行ってくれました。そして知床のホテルに1
ま しゅう こ
泊しました。それから摩 周 湖にも行きましたよ。摩周湖は行ったことある?山のてっぺんに大きな湖
があるんだ。
父は戦後良昭の兄と二人で日本に引き揚げたが、ほどなく兄が亡くなり一人になってしま
う。良昭やその妹、妻や祖父については、中国で行方不明になったまま何の消息もつかめな
かったため、父は家族の生存をあきらめて、妻の姉と再婚したのだ。
それから、私の父親の養子となった息子の家に1日いました。それにこの時には、その家に母方のい
ちばん上のおばさんもいました。この人は私の継母となった人で、当時 80 数歳になっていました。
母方のおばが何人かいましたが、みんな会いました。あの時、親族にはほとんど会いました。15 日に
は東京から中国にもどって行きました。帰ってから、状況について家族に話したら、家族はとても喜
んでくれました。
帰国したい、でも・・・2度目の一時帰国
当時の私の気持ちとしては、肉親探しの時には、私も帰国したいと言ってました。でもおじは帰って
くることに賛成しませんでした。それで私は考えてみました。どうしてかというと、おじは年をとっ
てて夫婦とも 80 歳をすぎてたからね。当時おじに保証人になってもらわなきゃならなかったし、帰
国したらおじたちの負担が重くなってしまうからです。おじさんたちは、私が家庭をもって子どもも
いて仕事もあるのを見て、
「お前は帰って来るんじゃない。中国にいた方がいい」と言って、私が帰っ
- 279 -
てくるのに賛成しなかったんです。
良昭はいとこに一時帰国の手続きをしてもらい、1990 年7月から3ヶ月間、妻と一緒に2
度目の一時帰国をした。
今回は建築会社を経営しているいとこの家に滞在し、北海道各地の親戚 9 軒にそれぞれ数
日間泊まって、親戚回りをした。
帰れない理由
当時もこの帰国の件について話が出たんですが、もどってくるにしたってどうしたらいいのか妻は賛
成しませんでしたね。その理由は、こっちに来ても言葉が通じない。妻の方の親戚と別れるのはつら
い。
中国にもどってから、88 年に私のいとこがハルビンに来たので、私と妻はハルビンに行きました。88
年にハルビンに行って、90 年に吉林でまた面会しました。そしていとこの家の状況について聞きまし
た。ホテルで会って話をしました。
でも 99 年には私の帰国したいという思いはもうだいたいなくなっていました。
どうしてかというと、
私も孤児だし、妻も孤児(残留孤児ではない)です。当時妻としては、日本には誰もいないし。中国
を離れたくない、そうでしょう。生活も慣れないし、特にことばには慣れないからね。それで妻は私
が帰ることに反対だったんです。もし私が無理に帰れば、2人とも離婚しなきゃならない、そうなれ
ば子どもたちだってちゃんとやっていけないでしょう。
1999 年日本の民間友好団体が訪中。吉林省の各地にまだ残っていた良昭ら日本人孤児 15
名が集められ、友好団に現在の中国での生活状態や日本にもどりたいかどうか、親戚はみつ
かったかなどいろいろと聞かれた。
当時私もそこではっきりと私は帰る、帰りたいんだと言いました。でもね、今は帰れない。その理由
というのは、妻も孤児で家には3人の子どもがいてそれぞれもう結婚している。足りない物はない状
態で、中国を離れ難いのだということ、それに外国に行けばことばは通じないし生活だってどうなる
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ともわからない。口では、日本の生活はけっこういいらしいと言うけれど、見知らぬ土地に行って新
しい生活を始めるのはそんなに簡単な事じゃない。こんな話をしたら、その友好団の人たちもうなず
いていました。
良昭の妻は永住帰国に反対だったが、次男は、帰国に積極的だった。息子は母に日本行き
を勧め、何とか同意を得たのである。2001 年2月ようやく帰国の手続きが始まった。
8.永住帰国、日本での生活が始まる
日本語の壁
2001 年6月 14 日、良昭は妻と次男家族とともに永住帰国を果たす。日本語をすっかり忘
れてしまった良昭は、帰国すると埼玉県所沢市の中国帰国者定着促進センターと定着先の札
幌の北海道中国帰国者自立研修センターで1年間、さらに高齢者のための「桜教室」で週に
一度2年間日本語を勉強した。
たくさん勉強したけど、覚えてるのは少ないです。今振り返ってみると、だいたい忘れてしまいまし
たよ。
それにここは中国とは違うんです。中国はね、隣近所の人が外にいくらでもいて、おしゃべりしても
何してもいいですよ。日本では、ふつう1つの建物の中の上に住んでいる人も下に住んでいる人も誰
が誰だかわからない。外に人がいないんですよ。中国ではね、外は夏になれば木の下に世間話をする
人たちがいくつもグループをつくってるんです。日本にはないです。隣近所の人と世間話をするなん
て全くありえないです。だからここで勉強したって忘れちゃうんです。
生活は苦しいし、ことばも通じないし
生活の面では国が生活保護費を少しくれるけど、もしちょっとでも計算しないでぱっぱとお金を使っ
たりしたら、1ヶ月の生活費にはとても足りないですよ。だから、計画的に節約しなければならない
んです。他に困難なことといえば、一つは一般家庭に比べると経済的に苦しいこと、もう一つは特に
ことばのことがあって外出しようと思わないこと。
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道を聞こうと思ったって、けっこうたいへんですよ。こっちにもどって来てから、ふるさと(斜里)
に帰って墓参りがしたいと思ってもう4年以上になりますよ。このことも実現してません。1つは切
符を買ったりとか乗り換えしたりとか、道を聞いたりとか、こんなことがみんなけっこう大変なんで
す。特に列車に乗って乗り換えるのがね。一つ何かやるにしても年をとってしまったし、それにぼう
っとしてしまうんですよ。だから今までまだ行ってないです。それから、3番目のいとこが毎年やっ
て来る時、私に遊びにおいでと言うんですが、それもまだ行ってません。行けないんです。
勉強にしたって年をとっちゃったでしょう。勉強してから1日2日はまあ覚えてられるけど、何日か
たって使わなきゃすっかり忘れちゃうよ。それに日本語を話したいと思っても言いまちがって笑われ
るんじゃないかって思うから、しゃべろうと思わないんです。言葉がへんで笑われたらと思ってね、
そうでしょう。そういうわけだから、いっそのこと思いきって話そうとは思わないんです。
何か手続きに行く時は、話さなきゃならない言葉なんかがあるでしょう。知らない言葉は前もって辞
書で調べてね、その言葉を書きとめて、そこにもって行って手続きをするんですよ。やっぱり、今の
ところここの生活はちょっときちきちの状態だけど、やっていくことはできます。
でも年寄りの生活ということから言えば、病気も多い、問題も多い、栄養もとって体に気をつけなき
ゃならない。年寄りは体が弱いし、病気も多いからね。私の方はたいしたことはないけど、家内の方
が体中病気だらけですよ。家内はいいものなんかたいして食べようと思わない。食べるのだって、そ
んなに食べないです。でも毎日あっちこっち痛いと言っています。でも今のところ。この病気の問題
はたいしたことはないです。国が保障してくれるからね。
中国の人、養父母に対する思い
中国の人はね、日本が中国に侵略して中国人に大きな苦しみをもたらしたでしょう。それにもかかわ
らず「光復」後、中国の人たちは孤児に対してけっこう気にかけてみてくれました。つまり、この戦
争は 1 つ上の世代が引き起こしたもので、孤児が起こしたものじゃないと思うんですよ。だから、こ
の孤児の養父母は自分が引き取った孤児に対しては、自分の子どもと同じようにかわいがって学校に
行かせたんです。けれど、ほとんどがそういうふうだったんですが、中にはそうじゃない人もいます。
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私の場合は、養父母はいませんでした。どうしてかというと、何ていえばいいのかな「光復」の後、
46 年に李さんのうちに行って家畜を放牧したり、畑仕事をしたりしたでしょう。それから「解放」で
す。
「解放」後に李さんの家は私を李さんの家の戸籍にいれたんです。正式に戸籍に入りました。でも
ね、どうしても私に、お母さん、お父さんと呼ばせなかった。私は、おじさん、おばさんと呼んだん
です。
でも、この2人は私にけっこうよくしてくれました。おじさんは時々かっとなって、私を怒ったりし
たけど、おばさんの方はけっこう気にかけてくれました。食べるものも着るものも、そこのうちに3
人の息子と2人の娘と同じでした。分け隔てなくみてくれました。
「土地改革」になって、土地を分け
てから李さんのうちで畑仕事が始まって李さんのうちの人と同じようになりました。
良昭は李家に子どもとして受け入れられなかった。お父さん、お母さんと呼ばせてもらえ
なかったのだ。
そんな寂しさを抱えながら成長し家庭をもった良昭のもとに、ある日「おばさん」が訪ね
てきた。
私が仕事に行くようになってから、おばさんが我が家に来たことがあってね、その時ちょうどうちの
子が病気だったんです。おばさんがやって来て、我が家がぼろぼろの状態なのを見て、ひどく心を痛
めたんですね。
「なんでこんなふうに暮らしてるの。どうして。
」
「我々2人のかせぎは少ないし、子どもを入院させるのにお金がかかるし、けっこうきついんだ。生
活もずいぶんたいへんなんだよ」と私は言いました。
それでおばさんは穴があいた服を、家内が病院に行ってて家にいない間に繕ってくれたんです。
近所の人たちも同じです。中国の人たちの場合、つきあいが長くなれば何か問題があったら、近所の
人も気の毒に思うんです。
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日本人は憎いことは憎い。でも憎いのは、孤児というわけじゃない。孤児が憎いわけじゃない。文化
ルィ ベ ヌ グォイ ズ
ルィ ベ ヌ ザァイ ズ
大革命といい、小さいころといい「日本 鬼 子」とか「日本 崽 子」とか言われたことがあったし、文
化大革命の時には日本の回し者とか日本のスパイと言われました。でも全体から見ればそんなことを
言う人は少なかったです。ほとんどの中国国民はやはり善良な人たちだと思います。
中国へ里帰り
(札幌に定住してから中国に)一度行ったことがあります。去年(2004 年)の7月3日です。中国に
1ヶ月近くいました。主に私の同僚や家内の同僚、それに隣近所の人の家を回って歩いて、会って来
ました。中国はこの数年大きく変わりました。今、街に行ってもわからないものもあるし、古いもの
はみんな新しくなってしまって、だいたいよくわかりません。昔の同僚にはほとんど会ったけど、中
にはもう亡くなった人もいたし、会えなかった人もいました。今は中国も日本と同じですよ。経済は
不景気だし、仕事のない者も多い、生活もなかなか大変です。倒産してしまった工場もあるしね。
家族の消息
終戦後の逃避行の中で匪賊の襲撃に遭い、家族がばらばらになってしまってから、その後
の家族の状況について良昭には知る由もなかった。
しかし、1986 年良昭が肉親探しのため一時帰国した時、東京に迎えに来たいとこが、その
後の家族の消息について語ってくれた。
ハルビンで
1986 年の肉親探しの時に、4番目のいとこがこんなふうに私に言いました。うちの家族は、いとこた
ちと一緒にハルビンに向かいました。うちの家族の中では、私の兄と妹と弟の3人だけが、おばさん
と4人のいとこたちと一緒にハルビンをめざして逃げました。
ハルビンに着いてから、私の弟が死にました。食べるものもなく、病気になったからです。それから、
いとこの女の子が、やはりハルビンで亡くなりました。おばもハルビンで亡くなりました。
しんよう
その後、父がハルビンで兄妹やいとこに会ったんです。こうしてみんなハルビンから瀋陽まで逃げて
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きました。
瀋陽で
ほうてん
瀋陽に着いたら、私のすぐ下の妹が、瀋陽で、あの時は奉天と言ったけど、そこで、やはりだめにな
った。死んでしまった。そして、いとこの小さい男の子もそこで死んだ。当時襲撃を受けて避難した
家族の中で生き残ったのは兄だけになりました。当時行方不明になったのは私と祖父と母といちばん
下の妹の4人です。うちの家族で行方不明になったのは4人でした。
うちは父と兄の二人、おばのうちは、いとこが二人、つまり3番目のいとこと4番目のいとこの二人
が残りました。他の者はみんなみつからなかった。行方不明になったり、死んだりしたのかもしれな
い。父がいとこ二人と兄を連れて日本にもどったんです。私の家族はこんな状況でした。母やなんか
は今に到るまで、祖父も妹も、未だに何の音沙汰もないです。まあこんな状況です。
命からがら日本に引き揚げて来た父と兄
も、良昭が一時帰国のためようやく祖国の
土を踏んだ時にはすでに亡くなっていた。
戦後 40 数年の月日は良昭にとっても、良昭
の父や兄にとってもあまりに長い月日だっ
たのだ。
母(一番右側)ときょうだいの写真
◇◆◇◆◇◆◇
聞き書きを終えて
淡々と自分の生い立ちから話を進める良昭さん。終戦までは、貧しいながらも普通の農家の少年の暮ら
しだった。しかし、日本が戦争に負けて避難が始まってから、良昭さんは苦難に満ちた道を歩むことにな
る。
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11 歳になったばかりの少年の目に映った光景はあまりに過酷であった。阿鼻叫喚の中匪賊の襲撃を受け
て死んでいく開拓団の人たち。そして家族にはぐれ、たった一人粟畑に取り残された時の絶望。
テープを取り終わってから、良昭さんの家に伺ったとき、たまたま高校生のお孫さんが立ち寄った。そ
の子は良昭さんの体験談を聞いたことがないと言う。
良昭さんは以前一般市民向けに残留孤児の体験談を話したことがあったので、当然家族にも話していた
と思っていたが、なんと息子にも孫にも過去の出来事を話したことがなかったのである。
実を言えば、私は自立指導員として良昭さん一家の札幌での生活を3年間お世話してきた。しかし、こ
の聞き取り調査をして初めて、永住帰国までの道のりの長さ、そしてその年月にことばに尽くせない重さ
があったことを思いしらされた。
70 歳を過ぎたとは思えない黒々とした髪と身のこなしの良昭さん。激動の人生を受け入れるしかなかっ
た人が見せる達観した柔和な表情がそこにある。
そして今、日本語の問題などさまざまな問題を抱えながらも、苦楽を共にした奥さんと静かでゆったり
とした時間の中で日々を送っている。
良昭さん御一家の幸せを心より祈るばかりである。
(わしだ ようこ)
基本データ
聞き取り日:2005 年 11 月8・10・14 日
聞き取り場所:東山宅
注:良昭さんは中国語でお話しされたので、聞き書き内容は翻訳文となった。
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