フランスの文化と社会 II (M. David COURRON) ‒ 2016 年度 秋学期 ポルトガル 概要 正式名称:ポルトガル共和国 国旗: 面積 (la superficie) :92,094 ㎢ 人口 (la population) :10,555,000 (2011 年) 首都 (la capitale):リスボン (Lisbonne) 公用語:ポルトガル語 (le portugais) (ロマンス語派) 宗教:カトリック (le catholicisme) (90%) GDP:2202 億$(一人あたり 18,100$)(2006 年) 平均寿命:男 73.9 歳 女 80.7 歳 イベリア半島 (la péninsule ibérique) 西部に位置し (se trouver)、スペイン (l’Espagne) との国境地帯は丘陵性山地、西部の大西洋 (l’océan Atlantique) 側には海岸平野が開け る。北部にはドーロ(ドゥェロ)川、中部にはテージョ(タホ)川、そして南部にはグ アディアナ川が流れており、河口部に良港を形成している。 主な産業 (l’industrie) は農業 (l’agriculture)、漁業 (la pêche) で、特にオリーブ (une olive, l’oléiculture)、米 (le riz, la riziculture)、ジャガイモ (une pomme de terre)、トウモ ロコシ (le maïs)、小麦 (le blé) を多産。 工業では、コルク (le liège) を世界の生産高の半分以上を生産。鉱業も石炭 (le charbon, la houille)、錫 (l’étain)、銅 (le cuivre) など生産。 歴史 古くはルシタニア (la Lusitanie) と呼ばれており、紀元前1世紀ローマの属州となり、 ラテン化 (la latinisation, la romanisation) が進む。その後、ゲルマン人の侵入 (les invasions germaniques) を受け、8世紀にはイスラム人 (les Musulmans) の支配下に (sous la domination de) もなったが 11 世紀末レコンキスタ (la Reconquista) によりイ ス ラ ム 人 を 駆 逐 し (expulser) 、 1143 年 カ ス テ ィ リ ア (la Castille) か ら 独 立 フランスの文化と社会 II (M. David COURRON) ‒ 2016 年度 秋学期 (l’indépendance)。大航海時代 (la période des grandes traversées) にはカスティリアから 独 立 を 守 っ た ジ ョ ア ン 1 世 の 子 、 エ ン リ ケ が 西 ア フ リ カ の 探 検 (l’exploration de l’Afrique occidentale) を推進し (promouvoir, encourager)、セウタ (Ceuta) を攻略 (la prise)。1498 年ヴァスコ=ダ=ガマ (Vasco de Gama) がインド (l’Inde) のカリカット (Calcutta) に到着してインド航路を開拓 (l’exploration de la route maritime des Indes)。 香辛料 (une épice) の交易ルートを確立し黄金時代 (un âge d’or) を築くが 1580 年に はスペインに併合される (être incorporé/fusionné/intégré)。1640 年に独立を回復 (le rétablissement)。しかし経済や軍事的な面で (sur un plan militaire) はイギリスへの従属 (la subordination à l’Angleterre) を強めていった。1373 年に締結された (être conclu) 英葡永久同盟条約 (l’Alliance anglo-portugaise) が現在も効力 (la validité) を保ってい る。1807 年ナポレオン軍 (les armées de Napoléon) の侵入 (une invasion) を受け国土 は荒廃 (le délabrement)、1820 年の自由主義革命 (la révolution libérale) により 22 年 には植民地ブラジル (la colonie du Brésil) は独立。1851 年ポルトガルは革新党と進歩 党の二大政党により安定期 (une période de stabilité) を迎えて産業革命 (la révolution industrielle) は進行。19 世紀末には共和主義 (le républicanisme) が台頭し (devenir puissant)、1910 年 10 月共和国 (la république) が樹立 (établir, instaurer)。1961 年か ら 軍 事 ク ー デ タ (un coup d’État militaire) に よ り 独 裁 政 治 (un gouvernement autocratique) が8年間続いた。その頃植民地のアンゴラ (l’Angola)、モザンビーク (le Mozambique)、ギニアビザオ (la Guinée-Bissau) で植民地解放戦争 (une guerre de libération coloniale) が開始される。1974 年に青年将校がカエターノ政権を倒し、1976 年マリオ・ソアレス (Mario Soares) 社会党内閣 (un gouvernement socialiste) が成立、 民主体制 (un régime démocratique) が誕生。1986 年 EC(ヨーロッパ共同体 (la Communauté européenne) に加盟 (l’adhésion) を果たし、1999 年ユーロ圏 (la zone euro, l’eurozone) 始動な参加した。1982 年の憲法改正 (une révision constitutionnelle) により社会主義の色は薄められた。2007 年に EU 議長国となる。10 月に行われた EU の首脳会議 (une conférence au sommet entre les responsables de l’Union européenne) で 欧 州 憲 法 改 正 に 伴 い 採 択 さ れ た (être adopté) 条 約 は リ ス ボ ン 条 約 (le traité de Lisbonne) と命名された。近年では 2010 年のギリシアの財政危機 (les difficultés financières grecques) によりユーロ危機 (la crise de l’euro) が拡大し (s’étendre, se propager) ポルトガルにも不安が広がり 2011 年、EU に緊急金融支援 (une politique d’austérité, des mesures d’austérité) を申請 (réclamer, demander)。6月の総選挙 (les élections générales) で財政再建 (le redressement des finances) を掲げる社会民主党のコ エリョ (Coelho) が首相に就任した。しかし財政は一向に回復せず、他の EU 諸国から は支援を反対する (s’opposer à) 声もあがっている。 文化 フランスの文化と社会 II (M. David COURRON) ‒ 2016 年度 秋学期 ポルトガルの文化は、イベリア半島にかつて居住していたケルト人 (les Celtes)、ローマ 人、アラブ人 (les Arabes) 等の影響を受け (être influencé par)、カトリックを基盤にポ ルトガル人によって形成された。政治や経済的にはイギリスの強い影響を受けて来たが、 文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと 同様に闘牛の文化 (la culture de la corrida, la culture tauromachique) もある。なお、ポ ルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁 (la nostalgie) を表す「サウダ ーデ」(Saudade)という言葉がある。食文化においては、ポルトガル料理は魚介類を 使うことが多く、特に干鱈(バカリャウ)(la morue sèche) がよく用いられる。穀物に おいて米はヨーロッパで最多の消費量である。他には豚肉が使われる。主な料理として、 フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)や、ガスパチョが挙げられる (pouvoir donner en exemple)。またポルトガルワイン(ポルトワイン (le vin de Porto)、マデイラ ワイン (le vin de Madère)、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質 を保っている。 国民 ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベ リア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人、ユダヤ人 (les Juifs)、ムーア人(大多数 はベルベル人 (les Berbères) で一部はアラブ人)が混血した (métisser) 民族である。 かつてポルトガルは移民送出国 (un pays d’émigration) であり、特にコーヒー栽培のた めに、奴隷 (un esclave) に代わる労働力 (la main-d’œuvre, la force de travail) を必要と したブラジルには 1881 年から 1931 年まででおよそ 185 万人が移住した。ブラジル以 外にもベネスエラ (le Vénézuela)、アルゼンチン (l’Argentine)、ウルグアイ (l’Uruguay) などのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アフリカの植民地 にも多くのポルトガル人が移住。1960 年代から 1970 年代にかけてはフランスやスイ ス (la Suisse)、ルクセンブルク (le Luxembourg) など、西ヨーロッパの先進諸国への移 民が増えた。しかし、1973 年のオイル・ショック (la crise pétrolière) による先進国 (un pays avancé/développé) での不況 (une dépression, une crise économique) などで多くの 在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国 (les États-Unis) への移住が行われるようになった。近年ではブラジルをはじめ、ウクライ ナ、ルーマニア、アンゴラ、ロシアなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入し ている。
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