石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 66 整理番号 ミ ヨ シ ジョウ 名 称 イシカワジョウ 三芦城(石川城) 住 所 管 理 6 - 001 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町字下泉地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 石川城は、石川町の市街地の西方、通称「八幡山」に所在する。八幡山は標高342m、比 高約50mの独立山塊で、山裾の東側から南側にかけて今出川が西流し、言わば外堀の役目を 果たしている。 規模は、東西約750m、南北390mでその城域は基本的に石都々古和気神社(八幡神 社)の建つ曲輪を中心とした主郭部の曲輪群、主郭部の西方、大堀切の西側に位置する曲輪群 (西館)乗蓮寺及び愛宕神社付近の3か所により構成されている。更に周辺部に関連遺構が確認 されることから、石川氏の本城に相応しい壮大な城域が想定される。 特に主郭部は、山頂の曲輪を中心に山腹から山麓にかけて大小100か所ほどの曲輪及び切 岸による削平地が設けられ、八幡山全体を城塞化したと言っても過言ではない。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 67 6 ワ タ リ サワルイ 名 称 渡里沢塁 住 所 管 理 整理番号 - 002 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町字渡里沢地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 渡里沢塁は、石川城周辺部に存在する関連城郭遺構の一つとして、石川町字渡里沢に所在す る。 石川城の西端から北西方約300m、JR水郡線線路敷きの西側丘陵上に立地する。 現在、渡里沢塁以外に確認されている石川城関連遺構は、①愛宕神社の西側丘陵(字当町、 遠藤氏宅裏山)、②石川ヒューズの西側丘陵、③宮城団地の北側丘陵、④北方丘陵(「石川山 館」から字高田)であるが、機能上から見ると、①~③は本城地区に隣接し、直接的に西側防 御館」から字高田)であるが、機能上から見ると、①~③は本城地区に隣接し、直接的に西側 防御ての「砦」ないし「塁」に位置付けられる。渡里沢塁の規模は、東西、南北とも250m 程で、遺構は概ね良好に残存している。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 68 6 サ ワ イ ジョウ 名 称 沢井城 住 所 管 理 整理番号 - 003 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町沢井字舘地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 沢井城は、石川町西部の大字沢井字舘に所在する。沢井地区は、阿武隈川と支流の社川とに 囲まれ、東西には県道白河・石川線が通り、北側は台地が続くが南側は丘陵で、その標高33 2m、比高50m程の通称「館山」に立地する。 付近の城館との位置関係は、東方約6kmの地に石川城が、また、西方約2.5kmの範囲 内に赤館・権現山館、一夜館が、更に阿武隈川を挟んで北西方約2.5kmの地に滑津城(西 白河郡中島村)が存在する。 遺構は、館山の山頂・山腹部をはじめ派生する尾根先端部にまで及び、城域は東西約440 m、南北約450mの広大なものである。 基本的な築城プランは、最高所の曲輪とそれを取り囲む三重の曲輪群とにより主郭部を構成 し、各尾根とは二重の堀切りによって遮断し、主郭部の独立性を高めている。 城主の沢井氏は、石川氏の最有力な一族であり、永禄11年(1568年)6月に南奥に進出 した常陸の佐竹氏に起請文を提出し、以降約20年間石川氏とともにその支配下にあった。 したがって、その間沢井城は、佐竹氏属城として、同じく佐竹氏直轄の南奥の拠点であった 赤館城(棚倉町)、滑津城(中島村)の中継地としての役割を担い、現在見られる大規模城郭とし て佐竹氏による拡張 整備がなされたものと推測される て佐竹氏による拡張、整備がなされたものと推測される。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 69 6 イ チ ヤ タテ 名 称 一夜館 住 所 管 理 整理番号 - 004 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字赤羽地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 一夜館は権現山館から北東約800m、赤羽地区の字馬舟沢に所在する。赤館、権現山館と 同様、阿武隈川河岸の段丘上に立地し、特に谷を隔てた北側の台地を利用している占地は、権 現山館のそれに類似している。 一夜館の主郭部は、東西約80m、南北約90mの規模で、その形態は方形単郭の縄張りの 崖城である。曲輪内は灌木や矢竹に覆われているが空堀、土塁、土橋等遺構の残存状態は極め て良い。 特に注目されるのは、南側及び東側の土塁中央部を開いて虎口とし、その前面に幅約1m、 長さ約12mの土橋を設け、更にそれぞれの土橋に対して塁線上に折歪、張出を設けて横矢掛 りの構造になっており、また北側も両端が張出し、中央部が内側に窪んでいることから横矢掛 りを意識した構造とみることが可能である。 このような規模、構造については、近隣の城館と比較して決して大規模なものではなく、ま た複雑な形態を示している訳ではない。しかし、特異な縄張であることは明らかで、自然発生 的な在地の技術とは異なるものと考えられる。築城主体の特定はできないが、戦国末期の佐竹 氏あるいは伊達氏等外部勢力の築城技術ではないかと想定される。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 70 アカ カン 名 称 6 ゴンゲンヤマタ テ 赤館・権現山館 住 所 管 理 整理番号 - 005 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字赤羽地内 連 絡 先 管理者及び所有者 石川町西部の赤羽地区、八幡神社の裏手方向、北側台地上に赤館が、また、東側の開析谷 を挟んで権現山館が所在する。いずれも、阿武隈川の河川敷水田面から比高20m程の台地 先端部に立地している。 赤館の現状は、主郭部が土取りによって往時の形態はほぼ失われ、周辺部も宅地等によっ て変貌しており、確実な遺構は、堀、土塁、腰曲輪の一部であり、全体的な規模、構造とも に不明確な状況である。 概 要 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 71 6 イタバシジョウ 名 称 板橋城 住 所 管 理 整理番号 - 006 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字板橋地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 板橋城は、石川町南部の大字板橋字沢古屋及び字柿木平に所在する。 地勢は阿武隈高地の山間地で、標高500m、比高30m程の丘陵上に立地している。 付近の主要城館との位置関係は、北方約5kmの地に石川城、西方約5kmの地に浅川城 (浅川町)、南方約7kmの地に赤坂城(鮫川村)、また、東方約7kmの地に竹貫城(古殿町)が 存在している。これらの城館は、この地方を代表する戦国期城郭であり、板橋城はそれぞれと の中間地点に当たり、要衝の地を占めている。 なお、板橋城の呼称については、従来から「沢古屋館」、「天神館」、「三沢城」の三か所 が城館として認識されていたが、平成八年の鉄塔建設に伴う縄張調査により、遺構、構造面か ら本来的にはそれぞれが独立したプランを備えているにもかかわらず、「沢古屋館」と「鉄塔 建設地」及び「天神館」とが切岸により有機的に結び付いており、しかも機能的には隣接する 「三沢城」とも連結した壮大な規模の城郭が想定されるに至り、ここでは一括して「板橋城」 と呼称している。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 72 6 マ ガ キ タテ 名 称 曲木館 住 所 管 理 整理番号 - 007 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字曲木地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 比高20mほどの丘陵上にある。主郭は三方に分かれる支尾根を束ねる位置を占め、開墾に よってかなり旧形を損じているように見られるものの、東辺南部には土塁が残っており、進入 路はその裾を回る形で設定されている。南の曲輪は広い畑となっている。その東裾あたりを「 表」と呼ぶ。ここからさらに南へ、大きな堀切を越えると曲輪があり、尾根先端を切り離す堀 切まで細長く続く。西南端には土塁で区切られて一段下がった区画があり虎口と判断される。 この方面はそれぞれの曲輪にまとまった面積があり、幅広い堀切、先端の虎口と合わせ、城域 の中枢的な性格が感じられる。 曲木館は、石川氏の有力庶子の本拠にしては意外に規模が小さく、主郭を中心に置いて派生 する支尾根を堀切で切断していくという比較的単純なプランであるが、堡塁的性格をもつ曲輪 を別に分立させて主郭の背後を固めた点に、独創性豊かな築城技術の発達を認めることができ る。さらにその外にはいくつかの支塞の存在が伝えられており、これらを含めたエリアとして 本拠が存立していたものであろう。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 73 6 カ ネ コ タテ 名 称 金子館 住 所 管 理 整理番号 - 008 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字曲木地内 連 絡 先 管理者及び所有者 現在では周囲が大規模に造成され、そのただなかに屹立した形になった比高30mほどの 丘陵上に築かれた城館である。曲木館南端から約200m、「仲ノ内」の谷筋をはさんだ地 点に位置する。尾根の先端を幅広い堀切で独立させ、主郭の周囲に腰曲輪をめぐらした計画 である。主郭の南側は壁がゆるくなって小さな段が認められるところから、動線がここを通 るように設定されていたと考えられる。腰曲輪についてみると、主郭の東側は傾斜している が、西側はしっかりしており、岩石が多数露出している点からすると、普請量は決して小さ くなかったと判断される。 概 要 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 74 整理番号 シ ン チ タテ 名 称 ト ノ ウチマエタ テ 新地館・殿内前館 住 所 管 理 6 - 009 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字曲木地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 新地館は曲木館の支塞の一つと伝え、東の尾根を500mほどたどった先にある。比高20 mほどの丘陵上に築かれた城館である。しかし、城跡と伝えられている尾根のうち先端は土取 りで失われてしまっており、それに続く部分は蒲鉾状に整地されているが、城館としての普請 によるものかどうかは判定しがたい。ここから曲木館にいたる主尾根はやがて北側に支尾根を 派生し、その先に曲木研修集会所の裏に通じる深い切通しがあって、古くからの道とされてい る。この一帯も人手が加えられているのは確かだが、遺構と断定できるものはない。 殿内前館は新地館の南に、谷を挟んで向かい合うように築かれている。東西に細長い比高2 0mほどの独立丘陵に占地し、北に支尾根を派生する地点を中心に曲輪を一つ設け、東の鞍部 を掘り込んで堀切とし、西に対しては壁を削り出した小規模かつ簡素な城館である。北に派生 する支尾根に対しての遮断施設は認められない。この支尾根と主尾根に挟まれた谷の最奥部に 井戸の存在が伝えられている。東の尾根先は曲輪にしてよさそうな平坦な地形であるが、城館 としての明確な普請の痕跡は見出せない。西に一段下がった尾根上も同様で、その先は道が通 って切通しになっているが、館跡から見て外側の方が高く、明らかに城館遺構ではない。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 75 6 - ナガシダタテ 名 称 長石田館 住 所 管 理 整理番号 010 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字母畑字長石田地内 連 絡 先 管理者及び所有者 概 要 丘陵の裾に位置する長石田の集落からの比高は30mほどであるが、南麓の谷からだと60 m近くある独立丘陵上に位置する。この地域では珍しく、はっきりした技巧性の高い虎口をも つ城館である。 主郭内は竹林造成のための根切り・畝が全面に広がり、旧状はつかみにくいが、北から西に かけて土塁がめぐっているように観察される。ホームベースのような形状の曲輪が最もすぼま った南端を開口し、その内側にL字形の土塁を盛って、壁に沿った土塁と合わせ虎口を形成し ている。小規模ながら内枡形と見てよい。この形態の虎口は、福島県内でもいくつか事例があ るが、多くは掘り込んで低くなった区画が方形をなすもので、土塁を盛って形づくったのは特 筆に値する。その外には堀切が半分だけ残っており、城域はここで区切られ、ほぼ同じ高さで 続く南側尾根は特に普請を加えていない。 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図 石 川 町 資 源 調 査 調 書 通し番号 76 6 フ ジ タ ジョウ 名 称 藤田城 住 所 管 理 整理番号 - 011 作成 項 目 平成19年2月 城・舘跡 石川町大字中野地内 連 絡 先 管理者及び所有者 石川町 石川町の北辺部、大字中野の堀ノ内、矢ノ内、滑津の各字に亘って所在し、国道118号線 に沿う丘陵先端部に立地する。 近隣の城館との位置関係は、南方約4kmの地に石川城が、北方約2kmに川辺城(=雲霧 城、玉川村大字川辺)、また、東方約1kmの至近距離に曲木館(大字曲木)が存在する。 概 要 石川町史 第三巻 参考文献 関連項目 備 考 写真及び位置図等 位 置 図
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