1 第五十二話 秀 衡 松と薬師 駒形 薬師如来という仏さまは、人々の病気

ひでひら
第五十二話 秀 衡 松と薬師 駒形
薬師如来という仏さまは、人々の病気を治し、「迷いの闇の中にあって苦しんでいる者」を癒
してあげようと十二の願をかけて修行されたというありがたい仏さまのことです。駒形にある医
王山遍照院の薬師さまは「目の薬師」と言われ、目の悪い人の信心を集め、昔はずいぶん遠くか
らも参拝に来たものだそうです。
今日はこのお薬師さまのお話をさせていただきましょう。
昔、平泉の城主であり、鎮守府将軍でもあった藤原秀衡が、仁安元年(一一六六年)に目を患
い、盲目に近い状態になってしまいました。どんな治療を施しても一向に治る傾向にありません
でした。この事を聞いた南部の城主 盛岡信濃守は同国の三戸崎美濃次郎、出羽の城主 山形帯
刀と相謀り、盲目になった秀衡を幸いとし、この虚に乗じて一戦交え、秀衡を亡き者にし奥州を
し の ぶ ごう
手に取ろうと軍勢を催したのでありました。これを知った秀衡は、守り本尊である信夫郷の薬師
如来に、断食をし心から祈願して祈っておりました。すると七日目の満願の日、秀衡の目はなん
ころもがわ
と正常に見えるようになったではありませんか。秀衡の喜びは大変なもので、勇みに勇んで 衣 川
の関に至り、南部の大軍を打ち破ったのだそうでございます。
秀衡はそのありがたい薬師さまのために、お堂を建てようと計画し、その地をどこにしようか
と考えておりました。すると、仁安三年四月八日の明け方、薬師如来が秀衡の夢枕に立ち「これ
た つ み
さと
まつ
から辰巳の方角である、鎌倉街道の郷に有縁の地があるからその地へ祀れ」というお告げがあり
ました。
こし
秀衡は薬師如来の尊像をお輿に乗せ、牛にひかせて家臣栗原五郎秀時に守らせて出発させまし
た。辰巳の方角へと旅をすること四か月、八月八日にこの忍の郷の地にある遍照院まで辿りつき、
一夜の宿をすることになりました。
ところが、その夜、突然引いてきた牛がぽっくり死んでしまったのです。不思議にも同じ夜、
とど
遍照院の住職円慶と栗原五郎の二人は、薬師如来より、「この地に留まりたい」と言うお告げを
受けたというのです。さては、この尊像安置の地とはここであったかと心に決めて、死んだ牛を
本堂の南に埋め、その印としてこの場所に松の木を植えました。栗原五郎は秀衡にその次第を報
告したところ、秀衡は大いに喜び、本堂、庫裡、鐘楼、仁王門、大塔、山門と建て連ね、寄進し
たのでありました。
薬師如来さまは、高さ八十四センチの木製で、藤原末期の様式の立派なものであります。
さて、その牛を埋めたところの印として植えた松は、大蔵寺入口手前右手にあったそうであり
ますが、享和三年(一八〇三年)まで、秀衡公を慕ってでありましょうか、不思議なことに枝が
東北へ東北へと伸び、大変な巨木になっておりましたが、六月のある夜落雷し、枯れてしまった
ということであります。
しんてき
はりじゅつ
中野鍼的という 鍼 術 で忍藩阿部の殿様に仕えていた方は、この由緒深く、美しい松の巨木をい
たみ、その姿を大きな木額に彫らせ、遍照院薬師堂に奉納し、その木額は薬師堂内東方に今もそ
の松の美しさを留めております。額の裏には
ひでひら
と き わ
いく ち
よ
秀衡の常盤の松の幾千代を
る
り
めぐ
瑠璃の恵みに残すわが名も と書いてあります。
しょう ひ
みち やす
いしぶみ
またお堂の前の「秀衡 松 碑」には、忍藩藩校教授、眉山 佐阪通泰の長文の碑文があります。
また先ほど申し上げた中野鍼的も
ら
と
あ良堂ふと瑠璃の壷なるまつ風は
やま う
病ふ雲をはらふ音
と記しております。木額、石碑ともに、文化七年(一八一〇年)四月八日とあります。瑠璃とい
うのは、病もない、迷いも苦しみもない、清らかで澄み切った所と言う意味で、薬師さまの世界
のことをいいます。 完
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