No.033 Summer 「住まいの資材部品物語」 金 属(2) 中村正實 日本の青銅器 日本に青銅器の技術が伝わったのは弥生時代の紀元前 3 世紀頃で、大陸からの渡来人によって伝えられた。佐賀 県の吉野ヶ里遺跡には青銅鋳造の遺構があり、巴形銅器 や有柄銅剣などが出土している。1984 年夏に発掘された 島根県斐川町の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡 からは、紀元前 2 〜 1 世紀に製作された 358 本の銅剣が 発掘され、その大半が中国華北の鉛を含んでいた。これ らは九州北部から持ち込まれたのだろうといわれている。 ところが、神庭荒神谷遺跡から 3 キロほど離れた加茂町の 加茂岩倉遺跡からは 1996 年秋に 39 個の銅鐸が発見され、そ の一部は近畿の銅鐸と同じ鋳型から作られたものと見られて おり、こちらは近畿から持ち込まれたものと考えられている。 この頃の出雲に強大な権力を持ったものがいたのであろう。 (秩父黒谷の自然銅の露天掘り跡) 働対価に値したという。これ以降 963 年(応和 3 年)に かけて皇朝十二銭と呼ばれる銅銭が鋳造された。順に 708 年 (和銅元年)和同開珎・760 年(天平宝字 4 年)万年通宝・ 765 年(天平神護元年)神功開宝・818 年(延暦 15 年) 隆平永宝・818 年(弘仁 9 年)富寿神宝・835 年(承和 2 年) 承和昌宝・848 年(嘉祥元年)長年大宝・859 年(貞観元年) 饒益神宝・870 年(貞観 12 年)貞観永宝・890 年(寛平 2 年) 寛平大宝・907 年(延喜 7 年)延喜通宝・958 年(天徳 2 年) (加茂荒神谷遺跡の銅鐸) 弥生時代初期には日本で銅を採掘した遺跡が見つから ないこと、当時の銅製品に含まれる鉛が分析の結果中国 のものであることが判明していることなどから、鉄器時 これらの発行は通貨制度を整えるという表向きの理由 と、平城京遷都に係る莫大な費用を、銅地金の価値と 貨幣としての通貨単位の差で賄うという意味もあったと いわれている。 代に入って不要になった銅製品を中国や朝鮮から輸入し、 黄 銅 日本で最初に銅が採掘された記録は文武 2 年 (698) 因幡、 は遥かに新しく、何時ごろ生まれたのかも余り定かで 溶解して再利用されていたと考えられている。 周防の 2 国だという記録があるが、歴史の表舞台に出る のは、慶雲 5 年 1 月 1 日秩父市黒谷で純度の高い自然銅 (和銅 = にきあかがね)が発見され献上されたことによっ て、「和銅」と改元された 708 年で、唐に倣って貨幣制度 を整えるため 5 月には銀銭が発行されていたが、7 月に 鋳造が始まった銅銭(和同開珎)が 8 月に発行された ことによる。この後古い銀銭の使用は禁止されている。 和同開珎は唐の開元通宝を模したもので、律令で定め た 1 文として通用した。当時で米 2 ㎏、成人 1 日分の労 8 乾元大宝である。 青銅の歴史に比べて亜鉛と銅の合金である黄銅の歴史 ないが、少なくとも紀元前 4000 年ごろから用いられて いたといわれている。ローマに征服される前のダキア人 (ルーマニア)は紀元前から亜鉛の精錬技術に精通してい たといい、それ以前に金属亜鉛を手にした民族は知られ ていない。12 世紀からはインドで亜鉛の精錬が行われ、 中国では古代から黄銅が鍮石と呼ばれて珍重されていた が、亜鉛の精錬が始まったのは 16 世紀である。ヨーロッ パには 1737 年に中国から精錬技術が伝えられたという。 ところが、正倉院御物の中には鍮石と呼ばれる材料を 使ったものが記録されている。恐らくその名前から南倉 28 の真鍮製造と亜鉛輸入」原祐一・小泉好延・伊藤博之) あろう。また、昭和 62 年に発掘調査が行われた大阪市羽 亜 鉛 亜鉛 21,03%の黄銅であることがわかった。この頃すでに 亜鉛について簡単に触れるのが良いと思う。人体に有害 号の「金銅合子」のことで、中国から舶載されたもので 曳野市の野中寺遺跡から出土した板状金属が銅 71,80%・ 日本に黄銅製品があったことは間違いない。青銅に比べ て歴史が浅いのは、合金として使う錫の融点が 419,5℃、 沸点が 907℃と低く、開放式の還元窯で木炭を使って鉱石 を還元すると、亜鉛が昇華して、煙突の先端で空気中の 酸素によって酸化物になってしまうのだそうだ。そこで この煙を冷却して初めて亜鉛を得るのだという。この抽出 の難しさが亜鉛の普及を遅らせたということが出来る。 黄銅は、 亜鉛の含有量によって丹銅 (亜鉛 5 〜 20%未満) ・ 七三黄銅(亜鉛 30%) ・六四黄銅(亜鉛 40%)と呼ばれ、 丹銅はその名のとおり赤味が強く軟らかい。亜鉛の含有量 の多い六四黄銅は金色に近く硬いという特徴がある。黄銅 (真鍮)が歴史上に華々しく登場するのは大航海時代(15 世紀中頃〜 17 世紀中頃)のことで、海水に対する耐食性 に優れているため船舶用の金物としてその地位を固め、 やがて住宅の建具や家具の金物としても発達していった。 また、展延性が良いためこの頃からバルブの無いトラン ペットなどの管楽器に用いられ、ブラスはいまや金管楽器 の代名詞になった。実際、真鍮が管楽器に用いられるよう になったことでバルブ装置が発明され、管楽器は急速に進 歩している。これらの楽器は真鍮の板を叩き延ばして整形 し、真鍮蝋で溶接して作られている。イギリスでは 1702 年に真鍮製品の製造会社が設立され、1775 年以降は圧延 による真鍮線と板材が製造されていた。さらに、18 世紀 から 19 世紀に掛けて興った産業革命では機械の部品とし て大量に用いられるようになって現在に至っている。 日本で真鍮が用いられるようになったのは江戸時代中 期以降といわれ、明和年間(1764 〜 1772)には寛永通宝 の真鍮四文銭がつくられている。真鍮の製造のため 1600 年 代にはオランダから亜鉛が輸入され真鍮製造の技術も伝 えられたことが、オランダの貿易文書や国内文書の検討の 結果分かっている。正徳年間(1711 〜 1716)の「奉行所 ここで流れとして、現在は欠かせないものになっている な亜鉛ではあるが、古くから白色の顔料として絵の具に 用いられ、建築に関しては鋼材の腐食を防ぐためのメッ キとして、鋼板や鋼管に多用されているのはご存知の 通り。だが、特筆されなければならないのは電気の実用 化に貢献したことだろう。1600 年にエリザベス王朝お抱え の医師ウイリアム・ギルバートが、電気と磁気に関する 基本的な考えをまとめてから 100 年経って、 オットー・ゲー リックが感応式発電機をつくった。これをライプチイッ ヒのウインクラーが 1744 年に改良して放電火花を送ること に成功すると同時に、その速さが弾丸よりも早く、絶縁 された導体を用いれば何処までも送れるだろうと述べて 送電という考え方を知らしめた。 さらに 1800 年になってイタリアの中学校の物理学教師 アレキサンドル・ボルタが、銅と亜鉛の板を湿った布を 挟んで積み重ねると、その両端から電気が発生し、これ を電線でつなぐとそこに電流が生ずることを発見した。 これが現在の化学電池の原型となったボルタ電池である。 これが乾電池となるまでにはさらに二つの段階があった、 始めはフランス人のルクランシュが塩化アンモニウム溶液 を用いたルクランシュ電池を発明した。ところが溶液が こぼれて不便だったため、1888 年ドイツ人ガスナーがこ れを改良して液洩れのしない電池「乾電池」を発明した。 ところがこれに 3 年先駆けて新潟県長岡市に生まれた 屋井先蔵という日本人が乾電池を発明して 1892 年のシカゴ 万国博覧会に出品しているというから驚きである。亜鉛 はこれ以降さまざまに改良され、現在はボタン型の空気 亜鉛電池として補聴器などに用いられている。一方、酸化 亜鉛はいまやブームとなった光触媒の材料として、タイ ル・衛生陶器・塗料などに多用されている。光触媒となる 材料はこのほかに銀や酸化チタンなどがある。 引継」正徳年間大阪市中各種営業表」の「職工之部」に 鉄 金属遺物」原祐一) 超新星の爆発によって宇宙に飛散した元素が、短時間に は「真鍮吹屋 四人」と記されているという。(「近世の 東京大学本郷構内の病棟建設地にあって、明暦 3 年 (1657 年)の明暦の大火(振袖火事)で消失したため大聖 寺藩邸となった加賀藩下屋敷跡からは「正徳」と「天下一」 の刻印がある真鍮の分銅が発見されており、1669 年(寛 文 10 年)〜 1682 年の間につくられたものと考えられて いる。同遺跡からは真鍮製のキセルの雁首や吸い口も出 土しているから、この頃には真鍮製品がかなり出回ってい たことが推察される。(江戸遺跡研究会会報 No72・「近世 人類が最初に手にした鉄は隕鉄だったようだ。隕鉄は 核融合した結果生成されたものと推定され、数パーセン トのニッケルが含まれているので判別できる。(「金属の 百科事典」丸善株式会社)別に山火事などのあとから偶然 鉄を発見したという説もあるが、エジプトのギーザにある ピラミッドから発見された首飾り(紀元前 2750 年)と、 トルコのアラジャホユク遺跡から発掘された鉄ピンと鉄 の飾り板(紀元前 2500 〜 2200)は隕鉄からつくられて いるという。(次号につづく) 9
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