2016 年 10 月 27 日(各務原) 日本キリスト改革派 岐阜

2016 年 10 月 27 日(各務原)
日本キリスト改革派 岐阜加納教会 西堀 則男
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」
ヨハネによる福音書12章24節
皆さまが中部学院大学で学ぶようになられた理由は、それぞれ違うので
はないかと思います。けれども、少しでも自分の人生に役に立つため、社
会的にも意義ある人生、実りある人生となるためと願って学んでおられる
のではないでしょうか。
主イエス様は本当に大切なことを語っておられます。「はっきり言って
おく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、
死ねば、多くの実を結ぶ」。一粒の麦が地に落ちる。一粒ですから本当に
目立ちません。けれども、地に落ちて麦として死ぬことを通して、やがて
多くの実を結ぶようになります。何よりも、これは主イエス・キリストご
自身のことです。永遠の神の子でありつつ、真の人間となって、この世に
お出でくださいました。地上のご生涯は皆さまもご存知のように、神様の
御心を生き抜かれたのです。悩み苦しむ世の人を愛し、敵さえ愛し抜かれ
ました。地上のご生涯の最後は、人々から罵られ見捨てられ十字架の死で
す。一粒の麦として、今から約二千年前に地に落ちて死なれました。その
イエス様が多くの実を結ぶと言われました。一体、何処に、その実を見い
だせるのでしょうか。二千年の歴史を通して分かるのは、世界の各地に、
このイエスを救い主と信じて歩む無数の人たちたちが起こされているこ
とです。これからも起こされるでしょう。
けれども、イエス様による実りは、それだけではありません。中部学院
の建学の精神は「神を畏れることは知識のはじめである」。この言葉は旧
約聖書の箴言一章七節の言葉です。この言葉を建学の精神に定められたこ
とは素晴らしいと思います。大きな戦争で敗戦焦土となった日本でした
が、聖書が示す真の神様に希望を置かれたのです。この中部学院はイエス
様による大切な実りの一つと言えると思います。福祉を学ぶ方も多い中部
学院ですから、聖路加国際病院の日野原重明さんという現在105歳で現
役のお医者さんをご存知かと思います。日野原さんは牧師の息子で、クリ
スチャンです。小さい時から聖書の言葉を聞いて来られたのですが、本当
の意味で人生の転機となったのは、もっと後のことです。
皆さんが生まれておられない今から46年前、日本で最初の飛行機ハイ
ジャック事件がありました。日本の赤軍派が起こした、よど号ハイジャッ
ク事件。乗客の一人であった日野原さんは、その事件に巻き込まれてしま
います。犯人グループはポケットにダイナマイト。生きるか死ぬかの緊迫
した状況です。そんな中、犯人グループの一人が、自分たちが持ち込んだ
本を読みたければ、貸し出すと言う。赤軍派の機関紙、金成日の伝記、そ
の他何冊かの本の題名があげられ、実際に犯人から本を借りたのは日野原
さんだけでした。ロシアの作家ドストエフスキーの小説。『カラマーゾフ
の兄弟』を読み始める。小説の内容よりも、小説の扉に記してあった言葉
に深くとらえられたのです。「はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落
ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
日野原さんは、この時の体験を後になって『私を変えた聖書の言葉』と
いう書物の中で語っています。「聖句を読んだときの私の内的ならびに外
的環境の中で、この言葉は私に新しい人生観なり価値観を与えてくれたよ
うに思う。この価値観の転換は、宗教的には回心といわれ、パウロのキリ
ストに反発する心と態度が百八十度転換したような現象に似たものだと
思う」(同書14頁)。いつ死ぬかもしれないという緊迫した中で、この聖
書の言葉、イエス様の言葉が強く迫ってきたのです。生きることの意味、
死ぬことの意味。そのことの新しい意味を見出し105歳の今日まで現役
です。過激派の人たちは、武器、暴力、力づくで、世の中を変えようとし
て失敗したのです。私たち、そんな過激ではないとしても、実を結ぶ人生
へ何とかして変えられたいと願っていると思います。
激しい競争社会の中で、手応えが得られにくいと思います。お互い様々
な限界を抱えています。けれども、イエス様の御言葉は真実です。「はっ
きり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままであ
る。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。自分のためだけでなく、他者のた
め、人々のために生きること。一粒の麦のように目立たないかもしれませ
ん。評価されにくいかもしれません。命をかけて取り組んでも、無駄に思
えるようなこともあるかもしれません。けれども、神を畏れて、心を込め
て、それぞれの分野で取り組んで下さるようにと願います。小さな私たち
ですが、神様は必ず、それらを用いて、実を結ばせてくださるに違いあり
ません。イエス様は別の聖書の箇所で、こう言われています。「わたしは
ぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ1:
5)。
掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー