哲学会春季大会・偶感(2012 年 7 月 21 日) 井上 克人 今回の哲学会の発表はそれぞれ力のこもったもので、知的興奮を覚えました。M さんの カントも道徳的次元と宗教的次元とが触れ合うところはどこにあるのか、 「理性の事実」が 行き詰まってしまうところはどうなのか、という疑問も湧いてきました。蜷川先生のご発 表も、これまで聖母子像は幾度となく見てきましたが、 「子供神」という発想は斬新な視点 のように思われ、大きな刺激を受けました。 ただ、今回の院生の皆さんの発表内容で考えてみたいのは、カントの道徳哲学における 「理性の事実」の自覚、或いは家永の「罪障の自覚」に基づく社会的実践ということ、そ して京都学派の哲学、です。つまり共通に考えたいのは、「原発」の問題です。 原子力エネルギーは決して原子爆弾のような破壊のみを目的とした戦争の手段ではあり ません。近代文明の基盤たる電気エネルギーの供給源です。しかし近代文明を支える当の ものが、まさに想定外の出来事から、文明と人類の生存を壊滅させる毒薬であることの正 体を露わにしたのが、チェルノブイリ事故であり、福島原発事故でした。 考えてみますと、私たちの近代文明は多かれ少なかれこのような〈毒薬〉の常用化によ って成り立っており、原発はその巨大な象徴に過ぎません。環境汚染や地球の砂漠化など の害悪も、近代文明がもたらした害毒です。 こうした結末は決して予想されぬことではなかったはずです。近代の初めに於いて人間 が神の支配から独立し、自己の存在を、自ら設定した自己の権利を追及することのなかに 見出した時、自己を超えたものに対する〈畏怖〉の念は喪失し、人間の全体像は見失われ て、個々の〈欲望〉がそれぞれの自己目的として追及される構造が成立したのです。それ は人間の知性を過信した「倨傲(ヒュブリス)」にほかなりません。近代は、カントに代表 されるように、人間が自らの力で自己を確立する自律的人間主義の主張とともに、自らの 全体像を喪失したニヒリズムの生起として始まったといえるのではないでしょうか。この ような自律的人間主義=ニヒリズムを支える〈倨傲〉と〈欲望〉の自己展開の構造こそが、 近代文明の基盤であると同時に、その滅亡の隠された原因ともなるのです。 〈欲望〉の追求は、それぞれの欲望が自己目的と化して限りなく展開されるゆえに、多 様な価値を特色とする現代社会は、それぞれの価値に向けて突っ走り、やがて分裂・解体 してゆかざるをえません。現代社会の混乱は偶然ではなく、欲望の構造から由来する必然 なのではないでしょうか。 〈欲望〉の追求をよりよくするためには、人は毒薬を用いるのも 憚らない。これが原発の存在理由なのであって、快楽を求めて麻薬を使用するのと、なん ら変わるところはありません。欲望の構造は、根本的に矛盾する二面性を持っています。 それは近代文明を推し進めて人類に物質的な繁栄をもたらした原動力であると同時に、人 間存在を根底から破壊する爆薬にほかなりません。このような矛盾をどのように解決すれ ばよいのでしょうか。どこまでも付きまとう人間的自己の「欲望」を前にして、カントの 「理性の事実」の自覚でどう対処できるのでしょう。O 君の発表にあったような家永三郎 のいう「否定の論理」に基づく社会的実践があるとすれば、それはどういう行動に出るべ きなのでしょうか。そうしたニヒリズムの時代に今なお生き続けている私たち、とくに哲 学者、宗教学者はどのような行動を起こすべきなのでしょうか? 問題は次の点にあります。それは、近代文明の諸結果も、近代文明を動かしてきた欲望 の構造も、ともに全面的に否定されることもできなければ、全面的に肯定されることもで きないということです。全面的な否定・肯定は、いずれも人間の歴史的現実を把握しそこ なった誤りにほかなりません。しかし例えば、ニーチェのいわゆる「永劫回帰」をふまえ て全面否定即全面肯定という立場をとるか、西谷啓治のいわゆるニヒリズムを徹底化して ニヒリズム自体を超克するといったことは、現実に可能なことでしょうか。それは単なる 言葉の上の思弁にすぎないか、或いは一つの高度に目覚めた禅的境涯に立脚することにほ かなりません。しかしそれで事態は片が付くのでしょうか? S さんの発表のタイトルにありましたように、禅ではよく、「火は火を焼かない、故に火 である」と言いますが、これは、一切の事物がそれ自身の実体性を有せず、無自性である こと、その意味で一切は平等無差別なのですが(色即是空) 、そのことにおいてはじめてそ れぞれの事物はそのありのままの「自体性」において存在する(空即是色)と考えられて います。西谷がよく引用する松尾芭蕉の「万物静観すれば、物皆自得す」 (これはじつは程 明道の言葉)と言われる場合の「自得」ということにほかなりません。 「火は火を焼かない」 とか、 「目は目を見ない、水は水を濡らさない」という表現で重要なことは、いかなる働き も、その根底のところでは「働かないこと」があるということです。こうした即非の表現 でしか言い表せない(即非の表現でこそ言い表せる)般若知を自覚することが重要なので す。昨年、大学院のゼミで読んだ僧肇の『肇論』にある「物不遷論」に即して言えば、身 体は移動しながらも、全く移動していないということ、去来しながら不去不来だというこ と、あらゆる行動の根底には「不動」があるということにほかなりません。これを現象学 的に言えば、私たちがどう行動しようとも、どこへ向かって歩き、どこへ走ってゆこうと も、私の身体はいつも「ここ」にあること、 「絶対的ここ(absolutes Hier) 」であって、私 の身体の位置はここを離れず、そうした意味でまったく「不動」なのだということです。 しかしその不動の身体が、歩き、走っているのです。走りながら〈絶対的ここ〉を維持し ています。しかしこういう説明は比喩にすぎません。 ところで今、このような宗教的境涯ないしは宗教的直観に含まれている思想の意味的構 造についてはこれ以上、言及しないでおきます。問題は上記のチェルノブイリや福島の原 発事故といった深刻な現実的状況との関係です。 かつて、 『ハイデガーの思惟の道』(邦訳『ハイデガーの根本問題』晃洋書房)という古 典的名著でも著名な O.ペゲラーが、京都学派の禅的哲学を批判したことがありました。西 谷は「火は火を焼かず」とか、アッシジのフランチェスコの述べた「兄弟なる火」に言及 することによって、禅的境涯に基づく哲学を標榜しているが、問われなければならないの は、アウシュビッツのユダヤ人虐殺収容所の焼却炉や、原子爆弾の閃光によって灰燼とな った人々に向かって、火を歓迎することを要求できるのか、という厳しい批判でした。 (『ハ イデガーと解釈学的哲学』法政大学出版局)こういう無残な死に方をする人々を前にして、 例えば「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と説き伏せたり、火を愛し、 「火よ、我が兄弟よ」 と呼びかけよと、求める人がいたら、その発言は存在の次元を取り違えているばかりか、 宗教者としても問題でありましょう。 私個人としては、ペゲラ―氏の批判は、揚げ足取りに過ぎず、かなり意地の悪い、的が 外れた批判のように感じます。上記の言葉は、なにも火を歓迎せよ、言っているわけでは ないし、そういう不幸を前にした人々に向かった場合、誰がそういう無神経で無慈悲な言 葉を発するでしょうか。要は「火は火を焼かず」という表現で語っている「自体性」とい うか、即非的自己同一の内実を捉えることが眼目であるはずです。とかく、京都学派の哲 学に対して批判的な人は、事柄の真相に正面から真摯に肉薄することをはじめから敬遠し、 ともかく《初めに批判ありき》 、で片づけてしまいがちです。何かささいな非を発見すれば、 まるで鬼の首をとったかのように、得意満面になって攻撃的態度に出てしまいます。 ところが、何かで読んだか、誰かに聞いた話ですが、そうしたペゲラ―氏の批判を誰か が西谷氏に直接語ったところ、西谷氏は反論・反発することなく、そのまま肯定したとい うことでした。たとえそれが原爆の火でも、その「火は火を焼かない」のだ、と、そう説 かざるをえない、それが火の自体性なのだと。それはそうだと思います。 だいぶ昔の話ですが、1987 年にペゲラ―氏のタイプ原稿「ハイデガーと老子」を翻訳す る機会を得て、 『理想』に拙訳が連載されたことがありました( 『理想』634 号~636 号、1987 年) 。その翌年の春に、ペゲラ―氏が来日し、講演をされたのですが、京都に滞在された折、 翻訳した縁もあって、ペゲラー教授とお会いし、京大名誉教授の T 先生とペゲラー氏と共 に、妙心寺・霊雲院にある西田幾多郎の墓にお参りをし、その足で、吉田神社近くにある 西谷啓治先生のご自宅へ伺ったことがありました。西谷邸の狭い書斎で、籐椅子に座りな がらわくわくひやひやした思いがあったことを覚えています。結局、上記のような話題は なかったように思います。ただ、西谷先生が、これからは若い哲学研究者はヨーロッパの 哲学の受容ばかりに専念するのではなく、日本や東洋の思想をしっかり勉強して海外に発 信していく必要が大である、と仰ったことが記憶に鮮明に残っています。ペゲラ―氏の「ハ イデガーと老子」の翻訳を是非送ってほしいとご要望があったのでお送りしましたが、読 んでくださったのかどうか、知るよしもありません。
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