【論文】 「戦後空間」の中の『平凡』 ―1950 年代・人々の欲望と敗戦の傷― 夏 井 美奈子 要 約 戦後の都市空間というものを考えるとき、出版物の与えた影響というものは欠かすことのできない 材料である。中でも『平凡』は、戦後初の 100 万部雑誌であり、都市だけでなく地方へも行き渡り、 単なる娯楽雑誌としてだけでなく、その中にさまざまな論点を含んだ雑誌である。 実際『平凡』にはどのような魅力があったのかを考えたとき、1 つにこの雑誌の感性が都市的であ ったことが挙げられる。最新映画を紹介し、 「アメリカ文化」を大量に流し込み、東京を中心とする都 市圏の若者のファッションや言動、生活を共に創っていった雑誌であった。それはつまり、敗戦後の 人々の欲望を満たすものだった。 そして一見都会の代表のような雑誌でありながら、実は多数の農村の読者に支えられていたという 点にも着目し、なぜ戦後の都市空間をはじめ若者社会全体をリードできたのかを探り、位置づけるこ とで、1950 年代の日本社会に対する1つの考察となることを目指したい。 1950 年代の日本社会は「敗戦」との戦いであったとも言えるだろう。 「娯楽雑誌」 『平凡』ですら、 「戦争」というものの影響は、意識しているもの、していないもの、その両方を含めて避けて通れな いものであり、雑誌の中に濃淡さまざまに、ちりばめられている。 『平凡』に描かれている「戦争」 、 描かれていない「戦争」を考察しながら、新しい『平凡』像を提示する。それにより戦後に生きた人々 の欲望を語る『平凡』から考える、新たな 1950 年代の「戦後空間」の一面を示していきたい。 はじめに だけでなく、その中にさまざまな論点を含 んだ雑誌である。地方支部まで持った愛読 戦後の都市空間というものを考えるとき、 者の会というコミュニティの存在や、各記 出版物の与えた影響というものは欠かすこ 事の内容を考えると、 「戦後」という時代と とのできない材料である。 『世界』や『思想 『平凡』の関係を考察することは、「戦後」 の科学』などの総合雑誌から、娯楽雑誌に という空間の問題意識の中に『平凡』を位 いたるまで、ありとあらゆる出版物が敗戦 置づけることにつながると考えられる。 「戦 を境に大量に市場に出回った。それらの出 後空間」とは、主に都市を中心とした 1945 版物は敗戦後の人々にとって欠かすことの 年敗戦以降の日本社会とまず漠然と捉えて できない娯楽であり、抑えられた「知」へ おり、その中でも本稿は 1950 年代の「戦後 の欲求であった。中でも『平凡』は、戦後 空間」というものを考察の的として、 『 平凡』 初の 100 万部雑誌であり、都市だけでなく を通してその一端を示していきたい。 地方へも行き渡り、単なる娯楽雑誌として 雑誌『平凡』は 1945 年 10 月に社長岩堀 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 83 喜之助、編集長に清水達夫、その他、菅原 ら『ロマンス』のような高い稿料も出せず、 幸基、菊池正成、伊藤進一郎と五人で発足 人気作家には連載してもらえなかったが、 した凡人社から、その年の 11 月に、12 月 1949 年 3 月号より連載した、まだ稿料の低 号を第 1 号として創刊された。創刊号はA5 かった小糸のぶの小説「乙女の性典」が大 版 418 頁、定価 1 円で発行部数は 3 万部で ヒットしたことなどがこの躍進の原因のひ あった。 とつとなった。 創刊号の中身は小説やエッセーのような この転換によって部数は 4 万部から 8 万 ものが載っているだけであり、グラビアも 部へと伸び、1949 年 8 月発売の 9 月号にお 無ければ、スターも出てこない。そこに後 いて 10 万部を突破した。その後は更に順調 の『平凡』の面影は全くなく、地味な文芸 に部数を伸ばし 1951 年 3 月号で 55 万部、 雑誌である。しかし、3 色オフセット刷り 1952 年 11 月発売の 1953 年 1 月号では 100 という印刷方法は、黒い印刷物だらけの書 万部突破記念特大号を出版した。戦後初の 店で目を引くものだった。 100 万部雑誌の誕生であった。1955 年 7 月 活字に人々が飢えていた中で例外に洩れ 号では 139 万部を発行し、この 50 年代がも ず、 『平凡』も 3 万部を完売した。しかし創 っとも『平凡』が光り輝いていた時代とい 刊号は売り切れたものの、その後部数は伸 える。 2) 1) 等に さらに当時は回し読みの習慣もあり、ま 大きく差をつけられて、凡人社は倒産の危 た『平凡』の投書欄にはいつも売り切れて 機にあえぐことになった。そこで岩堀は、 しまって手に入らないといった投書も数多 何時間もかけて、社員と、雑誌の方向性や く寄せられている。当時これだけ多く読ま 会社の方針を話し合う編集会議を開き、再 れた雑誌は他になく、 『明星』3) 『ラッキー』 起をかけて 1948 年 11 月発行の 2 月号より、 4) まずサイズをA5 版からB5 版へ変え、表紙 までしか伸びなかった。これらの事実は『平 をスターの顔のアップで原色のバックとし 凡』を考察することが「戦後空間」の問題 た。この最初の転換号の表紙は、マイクの 意識を考える中で重要であり、必然である 前に立つ高峰三枝子の特写ポートレート、 ということができるだろう。 びず、当時の人気雑誌『ロマンス』 『東京』5) のような類似雑誌も 30 万部程 バックは原色の黄色地で、ページ数 40 ペー 『平凡』の読者は町内会での回し読みな ジ、定価は 25 円であった。2 月発行の 3 月 どで、高齢の読者も存在したが、主に 10 号よりサブタイトルに 百万人の娯楽雑誌 代後半から 20 代の独身男女であり、彼らに というキャッチコピーが入り、それは 4 月 圧倒的な支持を受けていた。が、なぜそこ 発行の 5 月号(48 頁、定価 30 円)より 歌 まで支持を受けたのだろうか。 『平凡』には と映画の娯楽雑誌 と改められ、以後この どのような魅力があったのだろうか。その キャッチコピーや表紙は文字通り『平凡』 1 つにこの雑誌の感性が都市的であったこ の顔、看板として定着していく。 とが挙げられる。最新映画を紹介し、 「アメ このようにして再出発した『平凡』は、 リカ文化」を大量に流し込み、東京を中心 この後出版界としても驚異の躍進をとげて とする都市圏の若者のファッションや言動、 いった。岩堀は「B5 版では絶対に見る雑 生活を共に創っていった雑誌であったとい 誌でなければいけない」としてグラビアを うことである。それはつまり、敗戦後の人々 増やし、資金が無かったことを逆手にとっ の欲求を満たすものだった。 て当時タダでもらえた映画のスチール(宣 そして一見都会の代表のような雑誌では 伝写真)を使った。また同じく資金不足か あるが、実は多数の農村の読者に支えられ 84 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) ていたという点にも着目し、なぜ戦後の都 鶴見は「見る雑誌を作るためには、グラ 市空間をはじめ若者社会全体をリードでき ビア印刷、色彩写真の発達を前提とする。 たのかを探り、位置づけることで、1950 年 それだけでなく、映画、ラジオ、レコード 代の日本社会に対する 1 つの考察となるこ 等の国民的な普及を前提とする。平凡や明 とを目指したい。 星は、レコードや映画やラジオや新聞漫画 更に「娯楽雑誌」「大衆雑誌」としての評 などのマス・コミュニケーションの諸通路 価のみを受けている『平凡』が本当にそれ をじゅうおうにぬってゆく一種の連絡機関、 だけだったのか、ということも本稿ではキ いわば間道なのである。こういう雑誌の進 ーワードとなる。1950 年代の日本社会は 出は、少しずつ日本の伝統を底の方から変 「敗戦」との戦いであったとも言えるだろ えつつある。」 8) と述べ、『平凡』の他のマ う。 「娯楽雑誌」 『平凡』ですら、 「戦争」と ス・コミと連動しての雑誌作りを特徴とし いうものの影響は、意識しているもの、し て挙げている。 ていないもの、その両方を含めて避けて通 さらに『平凡』や『明星』が若者や女性 れないものであり、雑誌の中に濃淡さまざ 向けに作られている、として「この人達が まに、ちりばめられているのである。 『 平凡』 見る雑誌をなぜ好んで買うかと言えば、そ を考える上で、 「戦争」というキーワードは れは日本の家の中で女の人の持つ時間がズ これまで一般的ではなかったが、 『平凡』に タズタに切られていることからくる。(中 描かれている「戦争」、描かれていない「戦 略)ひとつながりの時間を持つことはすく 争」を見ていくことで、新しい『平凡』像 ない。大きな読みものにエネルギーを集中 を示し、それにより戦後に生きた人々の欲 することはむずかしくなる、そこで、見る 望を語る『平凡』から考える、新たな 1950 雑誌なら裁縫の間に見てたのしめるし、一 年代の「戦後空間」の一面を示していきた 枚二枚めくるだけでもそれなりの納得があ い。 る。」 9) と分析している。 これに対し江藤は雑誌を「見る」という 1 『平凡』の魅力 点をより深く考察し、 「 時には活字を 読む よりもさらに深く、写真や映像を 「歌と映画の雑誌」!? 『平凡』といえば、「歌と映画」の雑誌、 見る ばあいが生ずるようになった。写真または 、、 映像との対話 、と言ったらいいだろうか。 凡』には 1948 年 5 月号より「歌と映画の娯 読者(視聴者)は一方で受身の姿勢で写真 、、、 の映像に接しながら、その、外に開いた 姿 楽雑誌」というキャッチコピーが掲げられ 勢のまま、自分の感じや考えをきたえ、深 ていたのだから、その評価は当然のものと めていくことができる。 見る雑誌 は、こ もいえる。 うしてひろい読者層の受けいれやすい形態 という評価が与えられてきた。実際に『平 『平凡』についての研究はまだ数が少な を提示しながら、その読者たちとの時間を いが、その先駆けになったものとして、鶴 かけたつき合いのなかで、読者たちの、そ 見俊輔の「見る雑誌の登場」 6) という論が ある。これに続いて鶴見論を踏まえて発展 させた、江藤文夫の『見る雑誌する雑誌 して自分自身の、 見る 行為を深化させて いった。」と分析している。 平 この 2 人の分析は、 『平凡』の画期的な手 があり、この 法であった他のマス・コミュニケーション 二つの論では『平凡』は「見る雑誌」とし との共同企画、今で言うならコラボレーシ て位置づけられている。 ョンというものに相当する作業をいち早く 凡文化の発見性と創造性』 7) 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 85 おこなったことを商業面からだけでなく評 ビア・ヒットソング集」が掲載された。ヒ 価し、また雑誌を「読む」のではなく「見 ット曲の歌詞が掲載されたこのグラビアが、 る」という行為としてとらえることで、 『平 読者にどれほど喜ばれたかを推測すること 凡』の視覚に訴えた編集を的確に分析した。 は容易である。このグラビアのヒット曲集 「見る」ことが「読む」ことより一段低く は 1948 年 12 月発行の 49 年 1 月号から別冊 受け止められていた風潮の中で、 「見る」の 付録となり、同時に恒例企画となる花形歌 価値を位置づけ、さらに、 「見る」という行 手人気投票もスタートした。他の映画雑誌 為が「歌と映画」を雑誌で表現するにあた とは一線を画し、歌謡曲業界と手を結ぶと り、最良の方法であったということを示し いう手法は斬新であり、また歌謡曲に魅せ ている。 「歌と映画」の雑誌としての『平凡』 られていった人々が無意識に求めていた新 の成功、という論理は鶴見と江藤の 2 人に しい雑誌の可能性だったのだろう。 より、初めて商業的な面からだけでなく学 問的に評価されたといえよう。 このように「見る」雑誌、 「歌と映画」の 雑誌、という評価を長年されてきた『平凡』 私自身、 『平凡』を「見る雑誌」ととらえ だが、私としては、 『平凡』の評価はそれだ ることについて異論はなく、彼らの指摘は、 けで終わるべきではなく、 『平凡』の抱える それまで誰も振り向かなかった「大衆娯楽 さまざまな論点を表していきたいと考えて 雑誌」への分析として、大きな一歩であり、 いる。その 1 つとして、2 人の論に付け加 雑誌を「見る」という行為の誕生を的確に えたいのはその「見る雑誌」というコンセ とらえ、位置づけていると考えている。ま プトが大都市東京を映し出す鏡であり、 『平 た『平凡』が全盛を誇った同時代に取り上 凡』の成功はそこに人々の欲望がマッチし げられたという点や、当時『平凡』は低俗 たからではないか、という点である。 雑誌 10 ) とされていたという点でも重要な 指摘であるといえるだろう。 これまでも他に、 『平凡』のスタイルや内 容に論点を置くのではなく、 「 作り手との或 しかし、それらにより『平凡』に対する いは読者同士の連帯意識に戦後大衆文化の 評価イコール「見る雑誌」としての、つま 原型が多くを負っているということは、更 り「歌と映画の雑誌」としての評価に落ち に重要な論点を含んでいよう。」 12) という 着き、その他の視点がこれまで出てこなか 課題をたてて論じた、阪本博志による 2 本 った。 の論文がある マガジンハウスの社史 11 ) 13 ) 。確かに『平凡』における でも『平凡』 読者同士の連帯感、雑誌という枠を越えた の成功の秘訣は歌謡曲を取り上げたこと、 思い入れの強さなどは現代の私たちの感覚 と書かれている。当時NHKの「ラジオ歌 からは考えられないような強いものだった 謡」という番組では、歌詞を聴衆者に書き ことは、私もこの雑誌を読むと感じること 取らせるため、ゆっくり何度も歌詞を読み ができる。阪本の場合それを主に読者の投 あげる時間があった。人々はお気に入りの 稿、雑誌のラジオ、映画との結びつきによ 歌謡曲の歌詞を覚えるために、ラジオの前 って明らかにしている。 で紙と鉛筆を持って聞き入っていたのであ 雑誌が読者に語りかけ、またそれが一方 る。当時映画を専門的に取り上げている雑 通行ではなく読者も雑誌に語りかけ、働き 誌はあったが、歌謡曲を取り上げていた雑 かけていくという関係が、彼の言う「共同 誌はなかった。 体的受容と共振性」なのである。そしてそ 改革後の『平凡』第 1 号(1948 年 2 月号) には、巻頭にグラビア 8 ページで「コロム れは 1950 年代前半の特徴であったと位置 付けられている。この考察については私も 86 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) 同様の意見を持つのであるが、私はこの論 は 2 ヶ月で 360 万部も売れる大ヒットとな 文においては阪本の論文で重要論点とはな る。この出来事が岩堀に強い衝撃を与えた らなかった『平凡』の記事の内容やその年 のだ。新聞記者を志し経験し、ジャーナリ 代における変化から、読者と『平凡』の関 ストに夢を持っていた岩堀はもともと出版 係を考察し、そしてそこから浮かび上がる 事業に興味がないわけではなかったため、 娯楽への人々の欲望と、その中に存在した 改めて雑誌出版への意欲が湧いてきたのだ 共通体験としての「戦争」というものを取 った。 り上げる。阪本のいうところの「共同体的 中国大陸にいた時、岩堀は日本兵が古雑 受容」にはまず表面に人々が雑誌に求めた 誌をボロボロになるまで読みまわしている 歌謡曲やスターへの憧れというわかりやす のを目撃し、そのときすでに雑誌作りへの い欲望があり、その裏には実は「戦争」と 理想を持っていたという。 「『キング』や『主 いうキーワードが存在すると私は考える 婦の友』17) などの雑誌には、まず最初のペ 14) ージから社長さんの挨拶がのっている。 「忠 『平凡』を読むとさまざまな『平凡』の魅 孝をつくせ」とか「国のために喜んで死ね」 力と共に「戦後空間」の一側面が浮かび上 といったお説教が三ページも載っているの がってくるのである。 だった。兵士達は社長さんの挨拶はとばし 。「戦争」をキーワードに「都市的雑誌」 ていた。「『ふざけるんじゃないよ』とおれ 2 「戦争」の傷跡 は言いたかったね。命はって働いている兵 隊さんに、安全な場所にいる社長が『忠だ、 2-1 共通体験としての「戦争」 孝だ』とよく言えたもんだ」18) と後に娘に 厳しい戦時統制の中で活字や情報に飢え 語ったという。そして「今に社長の挨拶な ていた人々は、次々と生まれる新しい雑誌 んかない雑誌を作ろうと。ひっくりかえっ に飛びついていった。そのような背景の中、 て読める楽しい雑誌を作るんだ」19)と考え 岩堀も雑誌創刊に向けて活動を開始した。 た。世間の出版界への追い風を『日米会話 雑誌の発行にいたるまでには、彼の戦時中 手帳』で感じ、今こそ以前考えたこともあ の活動が深く関わってくる。 った、雑誌発行への思いを実現しようと戦 岩堀は 1938 年北支派遣軍に採用され、宣 後の銀座に飛び出していったのだった。 撫班五期生として華北山東省に渡り、宣撫 岩堀は雑誌発行の準備を、誘われた仲間 工作に従事したのち、1945 年、敗戦間際に がその早さと周到さに舌を巻くほどの勢い 大政翼賛会へ入っている。そこで、生涯の で進めていく 同士となる後の『平凡』編集長清水達夫と 『平凡』を創刊してしまったのだった。 出会い、また戦後もずっと親交を持った花 森安治が岩堀の上司だった。 大政翼賛会の中で敗戦を迎えた岩堀は、 20 ) 。そして 1945 年 11 月には 『平凡』を発行した理由、そして『平凡』 が『平凡』らしい雑誌になっていった理由 を探ると、戦時中の岩堀の個人的な体験は 新井の伝記によると、敗戦後すぐの時点で、 欠かすことのできないものであるといえる。 若い日に夢見た理想的な近代農業の村を完 戦時中に抑えられていた娯楽というもの 成させる構想を実現させようと動き、準備 への渇望が、疲れた労働者がひっくり返っ 15 ) のだが、結局はこの事業を仲 て読める雑誌を作りたい、という形で表れ 間に託し、出版の世界へと飛び込んでいっ ていったのである。この娯楽への渇望はも た。そのきっかけとなったのが『日米会話 ちろん岩 堀だ けの思い では なく、大 勢の 手帳』 16 ) の発行だった。『日米会話手帳』 人々の強い思いだった。なぜ『世界』や『改 も整えた 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 87 造』だけではなく『平凡』を多くの人々が けの霧」 (竹田敏彦作、1951 年 10 月号で完 求めていったのかを考えるとき、戦時中に 結)という連載小説がある。まず、この作 抑えられていた様々な娯楽への欲求を『平 品は第 1 話に「終戦後迎える四度目の冬」 凡』がわかりやすく満たしてくれたから、 という文があるため、時代設定が 1948 年で という理由は大きいと感じた。そして双方 あることがわかる。 を結びつける土台として戦争を耐え抜いた、 という人々の共通感覚があった。 この小説は恋愛小説なのだが、主人公の 小学校教師、露木早苗の父親は軍人(中将) 1950 年代の『平凡』の読者層は、10 代後 で、敗戦後、シベリアに抑留され、まだ帰 半から 20 代前半の男女ほぼ半数、都市圏、 国していないという設定である。早苗には 農村圏ともに多数の読者がいた、というの 倉岡隆一郎という許婚がいた。戦前、戦争 21 ) から推測できる読者 中は隆一郎の親は、早苗の父が高級軍人で 層であるが、その前提をもとに考えていく あるということを計算して、親同士も親密 と、読者は必ず戦争体験者である。そもそ な付き合いをしていたが、敗戦後は軍人と も、読者は、という限定がおかしいのであ の付き合いを拒みたく思い、早苗との交際 って、この時期ほとんどの人々がその経験 を反対し、隆一郎は不本意ながらも親の勧 の中身はさまざまだったが、戦争体験者な めで、金持ちの娘と結婚する。早苗は「純 のである。岩堀をはじめ、雑誌の作り手も 潔」を守る心清らかな理想の乙女という設 読み手も、共通体験として「あの戦争」と 定で、早苗が幾多の試練を乗り越える物語 いうものが意識の根底にあった。50 年代を となっている。 が現在多くの資料 通して「あの戦争」は『平凡』の中で、意 この小説の中で早苗の弟は父親がシベリ 識的にも無意識的にも触れられていく。当 アに抑留されていることを「戦犯」とから 時の人々にとって戦争経験は「当たり前」 かわれ、早苗の勤める小学校には「缺食兒 」 の前提であったからだ。しかし、やはり 50 と表現される生徒も登場する。また 51 年 2 年代の 10 年間という流れの中で、戦争の取 月号では早苗の父の部下で、戦死した男が り上げられ方は徐々に変化していく。50 年 いたのだが、その男の子供が偶然早苗の担 代前半(1950 年から 1954 年)と後半(1955 任する生徒だった、という事実が発覚し、 年から 1959 年)では同じ「戦争」を語るに 父親を失ったが為に困窮を極める遺族の老 しても、その表現、言葉、企画、そして数 婆と児童の姿を見て、作者は早苗に「その 自体などが変わっていくのをみることがで 老母や、幼児の手から、たのみの柱の命を きる。本稿ではこの前半と後半の二つに分 奪った父の地位を考えるとそれはもう誰を けて、都市的感性を持つ雑誌でありながら、 恨むこともない「戦争」という人類の「業」 「戦争」というキーワードが重要であり、 だった。」という心情を持たせている。 農村の若者にも支えられていた『平凡』を 考察していく。 まず、50 年代前半であるが、見過ごして けっしょくじ この小説において、もともと早苗の苦労 の始まりは父親が軍人で、戦争に行ったき りシベリアに抑留されて帰ってこないこと、 しまいそうな小説やグラビアの中にも「戦 そして連載半ばで処刑されてしまうこと、 争」の影響を多く目にすることができる。 が深く関わっている。つまり戦争がなけれ また「戦争」を正面から取り上げたような ば早苗の人生の苦労の大半は防げたものな 投書のコーナーも存在した。 のである。また戦争について「人類の「業」」 具体的に記事を挙げて示してみよう。例 と表現しているところでは、被害とか加害 えば、1950 年 11 月号から始まった「夜明 という言葉で戦争を語るのではなく、戦争 88 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) というもの自体が悪なのだ、という作者の 人々が「当時」を振り返ったとき、「当時」 メッセージが発信されている。 は知らなかったさまざまな事実や情報も入 このタイプのメッセージはこの時期の っているため、 「当時の気持ち」と「今から 『平凡』では珍しいことではなかった。 「誰 振り返ったときの当時の気持ち」が混ざっ が」悪い、とか責任がどうといった展開に ていることが推測されるからである。 「 戦時 は決してならないのである。読者にも編集 意識も長くは国民を欺せなくなっていた」 者にもこのようなメッセージが受け入れら という表現は、まさにその部分を強く表し、 れていったと推測できるため、これは読者 多くの読者はその部分を、自分も戦争への を含めて『平凡』上での 1 つの戦争観と考 嫌悪感や勝利への諦めを持っていたかのよ えることができるだろう。 うに読んだのではないだろうか。もちろん また「戦犯」 「缺食兒」という言葉が使わ すべての読者が自分を正当化する回想や、 れるのも 1950 年代後半の紙面では見るこ ある種の感慨をもってこの小説を読んだわ とができない。それらは敗戦後まだ 5 年し けではないだろう。逆に私が指摘したよう か経ていないということを感じさせる。 な箇所は流して読んだ読者もいたかもしれ そして 1951 年 2 月号掲載の大映映画化連 ない。しかし、流して読める、ということ 載小説「誘惑の火花」 (川口松太郎作、1951 が、このような戦争感を抵抗無く受け入れ 年 1 月号スタート、1951 年 12 月号完結) ているといえることにつながるのではない 第 2 話では、これも男女の恋愛小説なのだ かと思う。 が、出征する男と見送る女のシーンが登場 1953 年 6 月号には「中共引揚者を迎えて」 する。召集令状が来たというシーンでは「今 と題し次の投書が「友の会」22) ページトッ にも赤紙の令状が、来るかとおびえている プに掲載されていた。 「僕は昨日(三月二十 ような日本中の青年であった。なかには棄 七日)青少年赤十字団体関係で、中国より て鉢の悪賢さに落ちる者もあり、気の弱さ の引揚者を迎えるために品川駅まで行きま マ マ を隠し切れず、死んでしまいそうな、意久地 のなさに沈み込んでいる者もある。お国の した。出迎えの人にもみくちゃにされなが 為だとか、君が為めだとか、掛け声ばかり 見かけ、思わず胸にこみあげてくるものが が立派で、実のない戦時意識も長くは国民 ありました。引揚者が下車すると、肉親や を欺せなくなっていた。アッツ島の玉砕を 近親の名をよぶ人さがす人で構内はまるで 手始めに、玉砕の文字が青年の心を暗くし 蜂の巣をつついたようなありさまです。僕 初める頃、謙太郎にも最後のとどめが刺れ たちは入場制限のため、入れないでいる家 たのだ。」と記述され、読者は戦時の気持ち 族の方から、引揚者の名前を書いた小旗を を思い返したことだろう。この文章では、 うけとり、ようやく相手を探し出して、一 まるで当時「実のない戦時意識」が人々に 刻も早くと案内してきましたら、その家族 実感されていたかのような表現が使われ、 の方が、いきなり僕たちを突き飛ばして、 日本全体が戦争に対し悲観的、もっといえ 引揚者に抱きついていくではありませんか。 ら、おばあさんが日の丸を振っているのを ば否定的だったという印象をつくっている。 そして人前もはばからずお互いに抱きあっ このような、「戦後からの回想」「戦後だか て泣くその姿を見て、僕たちももらい泣き らこその思想」であるはずの考え方や意見 してしまいました。」これに対して、編集部 が、まるで戦争当時の人々の心情であった より、 「引揚者の方には、これから苦しい生 かのように語られることは、深い意味があ 活が待っていると思います。私たちは、お るといえる。1951 年という時代において、 互いに困っているときは救けあっていきた 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 89 いものだった、ということを表している。 いですね。」(横山)と書かれていた。 引揚者についての投書はこの投書しかな 1948 年 8 月号のグラビアには「上原謙の かったが、なぜこの投書が掲載されたのか 家庭訪問」が掲載された。これがスターの を考えてみると、まず引揚者の存在も、こ 家庭訪問の第 1 回目であり、この企画は読 の当時ならではの光景であり、戦争の傷と 者にも好評でこの先もずっと誰かが引越し いうものを人々がまだまだ生々しく負って したり、家を新築するたびに、 『平凡』で採 いたことがひとつとしてあるだろう。戦後 り上げられていった。 処理はまだまだ終わっておらず、人々が日 『平凡』の中でスターとは俳優や歌手、 常的に戦争の傷跡を目にすることが当たり スポーツ選手、モデル、時には作家など実 前だったのである。 にさまざまなジャンルの人々を指し、登場 そしてこの投書は引揚者の苦労、感動的 させている。戦前までは遠い存在だったそ な再会がしのばれ、感傷的な文面である。 れらのスターを『平凡』は 50 年代という時 苦労した、また現在も苦労している私たち 間を通して、読者と近づけようと試行錯誤 「日本人」という無意識の図式がここから していった。本当はスターとは所詮スター 浮かび上がるのである。このような記事か であり、芸能界の中で生きる虚像であるの らは華やかな娯楽雑誌『平凡』というより だが、50 年代はあたかも戦前はそうだった も、人々の心情に沿い、支える雑誌として が、新しい時代は違うぞ!という夢を読者 のイメージが浮かびあがる。 も『平凡』も果てはスターも持っていたの ではないかと紙面から推測できる。 2-2 スターとの絆 しかし 50 年代前半の特徴は、スターを自 1950 年代前半という時期、人々にとって、 分と近づけたい、身近な存在であるのを喜 「戦争体験」とはほぼ全員が何らかの形で ぶファン心理と同時に、一方で神格化も自 持っているものであった。そしてそれは、 然とおこなっているという点である。複雑 読者とスターという一見共通点のない 2 つ な心理なのだろうが、自分と一緒ではスタ を強力に結びつける働きをした。1948 年の ーはスターたりえないのである。だからス 紙面改革以来、 「スターの半生記」 (1948 年 ターの住所を『平凡』誌上に番地まで載せ 9 月号スタート、第 1 回は二葉あき子)、読 ていても、弊害が大量のファンレター程度 者の希望によるスター同士の対談のコーナ だったのではないだろうか。 「友の会」の名 ー、1951 年 2 月号からは「話題の人 希望 簿にも特別会員としてスターの氏名住所を インタビュー」51 年 3 月号からは「○○さ 掲載しているが、それは読者にとって、そ んを囲むファンの集い」などスターに関す れだけで充分満足を与える出来事だったよ る記事が掲載されない号はなくなっていく。 うである。 しかも「素顔のスタア」「半自叙伝」「思い もちろん現在ほど交通事情が発達してい 出のアルバム」など内容としてはどれもス ないので、東京にでも住んでいない限り、 ターの半生記といえるものなのだが、コー 気軽に読者がスターの家を訪問することは ナー名を変え、人を変え、同じ号にいくつ 難しかったとは思うが、それでも読者の中 もこのようなスターの身の上に関する記事 に「スターに迷惑をかける」ような行動は や物語が載るという状態だった。 「ファンとして」慎まなければならない、 『平凡』にとってスターというものの存 という思いがあったことは確かである。つ 在は欠かすことができない。それはつまり まりスターはやはり一段違うところの人だ 読者にとってスターが欠かすことができな という意識が心にあったのではないだろう 90 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) か。また私だけのものにしたい、というよ 自身の軍隊経験、慰問体験などスターのほ りは、自分がファンであるそのスターの魅 とんどが戦時中のエピソードを持っている。 力を皆に知って欲しい、認めて欲しい、と そして大半の読者も戦時中のエピソードを いう意識が働いていることを感じる。そし 持っていた。そのことは読者とスターを結 てだからこそ、普段知ることができない、 ぶ重要な絆だった。スターのエピソードを 「私だけが知っている」ようなスターの一 知ることによって、読者は少し自分とスタ 面を知りたいと強く思うのだろう。その欲 ーが近づいたような気がしたり、またはス 望をもっともうまく、そして「清く正しく」 ターに対して更に尊敬の気持ちが湧いたり、 伝えてくれたのが『平凡』だったのではな 同情心が生まれたりしたのだと思われる。 いだろうか。このスターの存在は 50 年代後 そして前掲のようなスターの人生を描く企 半になるとまた微妙に変化していく。 画が繰り返されるということも、読者の要 1951 年 9 月号から「○○物語」と題され 求を表している。人気のあるスターは、対 て清閑寺健がスターの半生記を書く物語が 談、半生記、インタビューとさまざまな企 掲載されているが、10 月号の第二回では 画でプライベートや半生をさらけ出すこと 「鶴田浩二師弟愛物語」と題されて鶴田浩 を要求されていくのである。一見華やかな 二の半生記が物語になっている。そこには スターの苦労話を皆知りたかった、共感し 高田浩吉の内弟子として「封建制ムキ出し」 たかったのである。 の奉公をしたことなどが綴られていた。そ 他にも、このような企画がある。1952 年 の後、学徒動員で横浜の海兵団へ入隊し、 5 月号に「父いずこ母いずこ 特攻隊の訓練を受けたが、敗戦で彼は死を なしごたち 免れる。そのことについて「無残な敗戦は、 ームを訪ねて」というグラビアページであ あたら男一匹の若い魂を、めちゃめちゃに る。これは高峰三枝子と関千恵子の二人が してしまった。いわゆる『特攻くずれ』泣 孤児院を訪問する、という企画で、たくさ くに泣かれぬうらぶれの身を、浜松の実家 んの子供と一緒に遊んだり世話を焼いたり によせた彼が、夜毎にヤケ酒に浸りだした する様子が写真に収められている。 のもむりはないだろう。」と書かれていた。 青い瞳のみ エリザベス・サンダース・ホ 各写真に合わせて編集者(無記名)によ その後もう一度高田浩吉の劇団に入り、辛 るコメントもついていて、 「 外国人と日本の い下働きの修行を経て、スターとなってい 女性との間に生まれた不幸な混血児 く、という感動の物語になっている。 父も母も分からない混血孤児が日本にどの この話は師弟愛をうたっていたが、人気 位いるでしょうか 神奈川県大磯町にある の鶴田浩二が戦争の苦労、下積みの苦労を エリザベス・サンダース・ホームには していることを知って、ファンはさらに応 余名の運命の子らが収容され 援する気持ちが湧いたのではないだろうか。 人の愛の手によって 勿論 百 沢田美喜夫 すくすくと成長して そして「特攻隊」という最も戦争の悲劇を います 象徴するような経験を鶴田がしていたこと さんがサンダース・ホームを訪問して は、人々の興味をひき、彼に読者はいつも ぐんだり その「特殊」な悲劇性を重ねて見ることに した感激の写真です」という解説や、「「こ なったのではないだろうか。 んなに可愛いい赤ちゃんをすてるなん これは高峰三枝子さんと関千恵子 遊んだり 涙 思わず抱きしめたり 戦時中の苦労というものは読者も、当時 て・・・」とおむつを取りかえながらほろ はスターでなかった今のスターもそれぞれ りとする高峰さん」というコメントととも 味わった共通体験である。父の戦死や自分 に高峰三枝子がおむつを取りかえる写真な 「戦後空間」の中の『平凡』 どが掲載されている。 (夏井)― 91 もその開放された娯楽、どっとなだれ込む この記事がどのような目的で書かれたの 「アメリカ文化」を紹介し、華やかで楽し かを推測すると、戦争の傷跡の 1 つを読者 い世界への欲望を満たす『平凡』に惹かれ に伝えたいという思いだろうか、とまず考 たのである。そこにはほんの少し前までア えられる。しかし「乳児の部屋 御覧のよ メリカが敵国であったことなどはみじんも うな設備にお医者と看護婦がつきっきり。 感じさせない。 『平凡』にはよくハリウッド だからパパもママもいなくたってボク達は 映画の紹介が日本映画と共に掲載されてい こんなに元気ですよ。」「一万五千坪の広い るのだが、それら外国映画、スター、暮ら 庭には、ブランコやすべり台が備えられて し、すべてが憧れ、理想として紹介された あり早春の陽を浴びた孤児達が のであった。 無心に健 やかに遊んでいます。」などのコメントとそ 憧れを掲載する一方で、しかし、小説、 の充実した設備を写した写真からは、暗さ 投書、映画、グラビアなど『平凡』誌上の というものは感じられない。戦後復興への あちこちに戦争に関連する記述が登場し、 歩みというものを示したかったのだろうか。 そしてその内容がどれもいまだ戦時の混乱 戦後の混乱の中で多数生まれた、主にアメ や苦しみを生きているような生々しさを持 リカ兵と日本人女性との間の孤児の様子を たせる設定であるということは、やはりそ 紹介したわけだが、そこには彼らの父母へ れだけ読者にとって、敗戦後たった五年ほ の直接的非難を感じるようなコメントはな どしか経ていない生活には戦争の傷跡とい く、 「戦争によって生まれた悲劇の子供」と うものが深く残り、敗戦後ならではの混乱 いう枠がはめられていて、 「不幸な子供」に もあったことを示している。そしてそれは 対する同情を呼びかける視点でしか描かれ 逆に、多かれ少なかれ、いまだ生活に敗戦 てはいない。しかし、一方では近代的設備 後の影響が残るような暮らしをしている、 を紹介し、慰問に訪れるスターの存在とい ということが当時大半の人々にとって当た うものも含めて、彼らを救う愛の手が存在 り前のことだったからこそ、これだけ 1950 することをアピールしている。やはり不幸 年代前半の『平凡』誌上に戦争の影が現れ の中にもわずかな光、というものを描きた たといえるだろう。そしてそのことはただ かったということなのだろうか。 「アメリカ文化」や都会の華やかさを紹介 以上の記事からわかるのは、読者もスタ ーも共に戦争を経験しているという事実と する都会的雑誌と思われている『平凡』の 新たな面を表している。 共に、 「 あの不幸な戦争」の時代を共に生き、 苦しんだ、という不幸の共有感とでもいう べき感覚である。不幸が人と人を結びつけ 2-3 「平和」への祈りが抱える矛盾 1951 年 7 月号に、 「私は戦後派ではない」 るとでもいうべきなのか、戦争の傷跡とい (田村泰次郎作)という小説が 1952 年 6 う絆は読者と読者、焼け跡から娯楽の復興 月号まで 1 年間に渡って連載された。この を目指した岩堀はじめ作り手と読者をも深 小説では主人公の草間泉が、後にヒロポン く結ぶ絆だったといえる。 23 ) 中毒にかかる悪い男にひっかかって、駆 そして、戦争がなかったら『平凡』のよ け落ちし、騙されて「純潔」を失ってしま うな雑誌は生まれなかったのではないか、 う。その後、売春斡旋の「秘密クラブ」で とも思う。娯楽が制限された暗い時代、と 働かされそうになったりするが、逃げ出し いうものがあったから、岩堀は『平凡』の て更生し(もともと泉は人に流されやすい ような雑誌と作ろうと思ったのだし、読者 ところはあるが、清純な心を持つという人 92 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) 物設定)、結婚という「幸せ」を得るという を貫徹しようとしているんだ。」と言うと氏 筋書きだ。そこに泉の姉の鏡子のロマンス、 原が「君たちが、愛国者だって?笑わせな 元中将の泉の父親を担ぎ上げて日本の再軍 いでくれ。そういう愛国主義者が多すぎて、 備化を企む一味との抗争などがからんだ作 日本はこんなみじめな敗戦の憂目を見たん 品である。今までの小説と比べて、大胆な じゃないか。また、こりずに、そんなこと 性的描写も登場しているし、日本の再軍備 をいいだすのか」という部分がある。 化の筋などは時代の状況を踏まえようとし ている小説といえる。 この小説の中では、日本の再軍備化を企 む旧日本軍の者たちが登場し、元中将で今 1952 年 1 月号に、泉の父が日本の再軍備 は隠居のような生活をしている泉の父を担 計画を企む元部下にそそのかされた後、鏡 いでクーデターを起こそうと企むという設 子と会話する場面がある。「「時世も、どう 定なのだが、この再軍備という問題は、実 やら、また一転換しそうな具合じゃから、 際のところ作者と読者がどれほどのレベル お父さんでも、もう一度お国のために役立 で考えて小説にしたのかははっきりしない つときが、来ないともかぎらないよ」 「戦争 が、52 年には保安隊ができる現実の動きと なんて、もう、二度とない方がいいわ」 「い 朝鮮戦争の動きというものを意識した上で くら、ない方がいいと思っても、起きるん のフィクションであることが想像できる。 だから仕方がない。武装のない独立国とい そしてこの作品において重要なのは、 「 日本 うものは、古来あったためしはないからの」 の」再武装を危ぶみ、 「平和」を叫ぶ主人公 「戦争は、勝っても、負けても、いいこと たちの視点は日本にだけ向けられていると はなくてよ。折角、平和になったのにまた いうことである。また戦前の軍の体制は強 戦争が、はじまるなんて、―人間は、どこ く非難されているが、では保安隊の存在や まで、馬鹿にできてるんでしょう」 「お前た 朝鮮戦争への否定がこの非難に含まれてい ちには、まだよくわからん。人間というの るのかどうかは怪しい。 は、そういうものなのじゃ。闘争が人間の 1953 年 6、7 月号には「雲ながるる果て 本来の姿なんだよ」」と 2 人は会話するのだ に」 (家城巴代治作)という映画化小説(『平 が、そこではどんな大儀があろうとも、戦 凡』に掲載された小説は、よく映画化され 争はいけない、というメッセージが発信さ たため、ほぼ毎号に映画化された小説が掲 れている。当時は 1950 年の朝鮮戦争を契機 載され、それを『平凡』上では映画化小説 に、警察予備隊が整備され、 「逆コース」と という呼び方でジャンル分けしている)が いう言葉が流行し、実際に再軍備化を危ぶ 掲載されている。これは む声が高まっていた。そのような時代背景 生の手記より がここでも表れている。 説の紹介文には「重宗プロ映画化 戦没飛行予備学 と添え書きされていて、小 神風特 2 月号では鏡子に惹かれている氏原とい 攻隊の悲劇!」 「八年前の今日、日本のどこ う青年と、再武装計画の一味との会話で かでこんなことが行われていたのだ!若も 「「お前は、日本が再武装するのに反対だそ のたちは爆弾を抱いて飛び立った―そして、 うじゃないか」「僕は戦争に反対するんだ」 一人も帰ってはこなかった・・」 「遥かなる 「それは再武装に反対することと、同じこ 大空に散ったうら若き人びとに平和への誓 とじゃないか」」という言い合いがあり、再 いかたくこの一篇を捧ぐ!」という読者の 武装計画の一味の方が、 「俺たちは、愛国主 心に響かせるようなフレーズが使われ宣伝 義者だ、―憂国の志士だぜ。心の底から、 されている。そして、この小説や実際映画 国を思うために、一身を犠牲にして、目的 を見た読者の反応というものも、この小説 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 93 の場合『平凡』から読み取ることができた。 いたかを知る大きな手がかりとなる。特攻 例えば 1953 年 7 月号の「友の会」に「 雲 隊の悲劇性に重点を置き、悲劇の犠牲者に ながるる果て によせて」と題し、撮影現 思いをはせることを呼びかけ、それに応え 場であった大阪の大正飛行場にいた元・少 た読者の投書を掲載することで、人々は先 年飛行兵(当時 16 歳)より、「苦しかった の戦争に対し、各々の「被害」の経験を思 がまた愉しかった過去を懐かしむ時、沖縄 いおこしたのではないだろうか。これらの の海に散っていった先輩、同輩、後輩が想 記事の中には、特攻隊が突っ込んだ「相手」 いだされ、私は涙を禁じ得ないのです。こ に対しての加害意識の入る隙はない。また の 特に特攻に限らず「加害」という意識を呼 雲ながるる果てに をごらんになる若 い人びとよ、今は亡き人の真意をくみとり び起こさせる掲載は皆無である。ただただ、 再び戦争をくりかえしてはならないことを、 「戦争はいけない」 「戦争は悲劇である」と 改めて学んでいただきたい。そして、なが いうメッセージが強く発信されているので るる雲を墓標として大空にねむる若い幾多 ある。 の人びとの冥福を祈ってほしいと熱望しま す。」という投書が掲載され、この投書に対 1952 年 6 月号の「友の会」投書欄にはこ のような投書も掲載された。 して「ほんとうに、戦争を二度とくりかえ 「皆さま。お元気ですか。沖縄と云えば、 したくないものですね。(横山)」という編 何かしら遠い外国のように思われるかも知 集部のコメントがついている。 れませんが、私たち沖縄のものは、日本帰 また同じく 8 月号の「友の会」読者の映 属の日の早からんことを祈っています。当 画評のコーナーには「雲ながるる果てに… 地新聞の報ずるところによれば御地の新聞 …を観て」と題し、映画の感動した場面を では、沖縄の山野いたるところに、戦争当 書いたあと、 「 私達若人はおたがいしっかり 時の遺骨が野ざらしになっているという記 手をにぎり合って再びこのような悲劇をま 事が出ていて、日本の方(特に遺家族の方) ねかない様にしようではありませんか。」と が嘆き悲しんでおられるとのことですが、 書かれた投書が寄せられている。そしてこ 私たちとしては、また別の意味において悲 の映画に主演した鶴田浩二自身も海軍特攻 しく思いました。それは、一部の無責任な 隊に 1 年 3 ヶ月いたという経験を持ってい 旅行者の言葉によって、戦争の犠牲になら る。 れた数多くの御遺族を悲しませ、また、遺 私がこの記事を取り上げた理由は、『平 骨をあつめて、ねんごろに供養した私たち 凡』は映画会社とのタイアップを積極的に の努力が、無残にもこわされてしまったか おこなっていたので、映画の宣伝のため、 らです。残念でたまりません。」(沖縄本島 という側面があることは外すことはできな 今帰仁村字謝名 高良二郎) いが、現在のスポンサーとは違い、特定の この投書に対し編集部からのコメントは 映画会社だけと結びついていたわけではな ないが、 「友の会」ページのトップに掲載さ いので、タイアップという面を省いて考え れていた。実際にこのような風評が流れて ても、大々的に宣伝され、取り上げられ、 いたのだろう。当時アメリカに占領されて また読者の反応というものも号を重ねて知 いた沖縄だが、 『平凡』では占領という言葉 ることができた材料だったからである。特 は使われない。一日も早い復帰を祈りまし 攻隊を扱った映画をこのように取り上げ、 ょう、というメッセージは発信するものの、 読者の反応を特に多く掲載したということ 占領政策を非難するような態度はない。そ は、 『平凡』が先の戦争をどのように扱って の上で、沖縄を外国扱いはしていないので 94 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) ある。それは住所の表示の仕方に表れてい 集部は「沖縄が一日も早く、日本に帰属で る。沖縄県では当然ないのだが、アメリカ きますよう、皆さんと一緒に祈ります。」と の、とはわざわざ書かないという微妙な表 コメントしていることからも察せられる。 記である。 沖縄返還問題というものが、戦後復興が 1953 年 4 月号の同じく「友の会」ページ 進みつつも、当時の社会に影としてまとわ にはトップに「皆さん、平凡に連載された りつき、占領という現実は大きな問題であ 「ひめゆりの塔」の映画を御鑑賞になった り、読者にとっても編集部にとっても取り でしょうか。実は私は沖縄攻防戦参加の生 上げるべき問題だったことが伺える。 ( 1953 残りの一人なのです。 (中略)今日、再び七 年 12 月号には「友の会」ページに同じく占 年前の悲惨なりし沖縄攻防戦を目のあたり 領されていた奄美諸島の日本への復帰を喜 に見、純情可憐なひめゆり学徒の悲壮な働 ぶ奄美大島からの投書が掲載されている。) きに、ただ瞳があつくなり、息つまる思い しかしその一方で沖縄の日本復帰が行われ でした。皆さん、私たちはおたがいに力を たのは 1971 年であるのに、1950 年代を通 あわせて、再びあのような悲惨な戦争を起 してこの問題が『平凡』で継続して取り上 こさぬよう努力しようではありませんか。 げられるということはなく、早くも 50 年代 なお、ひめゆり学徒の生残り安屋谷ヨミ子 後半には取り上げられることはなくなって さんから、亡き友へのつぐないに、衛生研 いくのであった。 究所に勤めていられるむねお手紙がありま 1953 年 4 月号には朝鮮戦争についての投 した。」という投書があり、編集部から「ひ 書も佐世保の読者より掲載されていた。 「朝 めゆり部隊のみたまの安らかに眠られんこ 鮮動乱でクローズアップされた国際都市佐 とを皆さまと御一緒にお祈りいたしましょ 世保は、国連軍兵士の行き来に、戦禍も身 う。」というコメントが寄せられていた。 近に感じられます。また夜の佐世保に君臨 映画の中の出来事、ではなく、実際の戦 する闇の女たちには、思わず目をおおわせ 争体験者がたくさん生きている社会では、 られます。私たちは切に平和の来ることを このような体験談がいたるところに存在す 願うとともに、闇に生きる人びとにも、健 る。その体験は一人一人違うものであるの 全に明るく生きていただきたい気持で一杯 に、発せられるメッセージは皆一様に、 「戦 です。」この投書について編集部からのコメ 争」をしないように、というメッセージで ントはない。 『平凡』誌上には朝鮮戦争の真 ある。 「あの戦争」がどのようなものだった っ最中である時もまったくその情報という のか、という分析は『平凡』の中では行わ ものが掲載されていない。小説の中に朝鮮 れない。語られる体験も被害者の視点のも 特需という言葉が出てくるくらいである。 のばかりである。本土の者の沖縄への視点 そのため、この投書は大変貴重なものとい というものも、決まっていて、それは同情 える。しかしこの投書者の視点も、部外者 という視点である。沖縄問題をどうするか、 としての視点のみであることが感じられる 返還運動促進、果てはアメリカへの非難、 だろう。 「夜の佐世保に君臨する闇の女」と という議論は起こらず、不幸な沖縄、とい いう言葉には、彼女たちを蔑み、恥に思う う視点で投書も編集部も取り上げていくの 感情がよく表れ、彼女らの思想や人権など である。 は無視され、生活状況を推測する想像力や、 それは、例えば他にも同じ号に日の丸を 彼女らを買う男性への視点は欠如している 掲げることができるようになった、という ことがわかる。たった一通の投書から、す 沖縄からの投書があり、それに対して、編 べてを決めることはもちろんできないが、 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 95 推測の材料とすることはできるのではない 験を語らずとも、戦争体験を読者と共有せ かと思う。 ずとも、スターはスターになれる時代にな もう戦争が二度とおこらないように、平 ったのである。それは読者の年齢、石原裕 和を祈ろうと、戦争映画を特集するたびに 次郎の年齢を考えれば当然のことで、1950 呼びかけあう一方で、実際には隣で朝鮮戦 年代後半になってからの 10 代後半から 20 争が起きていて、 『平凡』はそれには触れな 代の若者は、戦争当時はまだ小学生以下で い。朝鮮特需の裏には何があるのか。日本 あり、戦後ティーンエイジャー期を過ごし 各地からの物資や日本の基地から飛び立つ たものが大半だったからである。 米軍と、平和への祈りは『平凡』の中では 裕次郎は 1956 年 5 月に石原慎太郎原作の 矛盾しないのである。それはこの平和への 映画「太陽の季節」にチョイ役で出演して 祈りが、 「世界平和」をうたいながらも、実 注目され、続いて「狂った果実」に主演。 は「私たち日本人」 「私たち日本の平和」と 以後「勝利者」 「嵐を呼ぶ男」など次々に映 いう限定されたものであったことを示す。 画に主演し、日活の大スターとして裕次郎 「世界平和」というスローガンは建前だけ ブームは続いていく。 『平凡』の読者投票で であり、ひとびとの視点は広いようで狭か は 1957 年に初登場し、以後長い間トップテ った。 「加害」意識の持てないうちは、それ ン入りを続けている。平凡出版は月刊『平 は当然の視点と言えるのかもしれない。 凡』の増刊号として『あなたの裕次郎』と いう別冊を 1958 年 4 月に発売している。こ 3 もはや「戦後」ではない の企画はその後『あなたの美空ひばり』 『あ なたの錦之助』として続いていくが、その 3-1 新しいスターの登場 第 1 号は裕次郎だったのである。当時すで 石原裕次郎の登場、それはそれまでとは に大スタ ーだ った美空 ひば りよりも 先に 違うスターの登場だった。役者らしくない 『あなたの裕次郎』が作られるということ ところが評価され、 「裕ちゃん」というニッ が、裕次郎の爆発的人気を物語っているだ クネームを持ち、映画界を暴れまわった新 ろう。 しいタイプのヒーローに人々は夢中になっ 『平凡』ではまず、1956 年 6 月号に映画 ていった。そんな石原裕次郎が活躍したの 「太陽の季節」の特集が組まれている。映 が 1950 年代後半からであり、まさに都会的 画の筋書きが掲載され、「この映画小説は、 な若者像の登場であった。型破りな演技、 日活映画「太陽の季節」のシナリオに基い 言動はまさに 50 年代後半の新しさを代表 て、原作を物語風にダイジェストしたもの するものだった。そして裕次郎は戦争の傷 跡というものを感じさせないスターだった。 自由、奔放という言葉が似合い、太陽も雨 も雪も似合ってしまうスポーツ万能のイメ です。」というコメントが小説の最後に付け 加えられていた。そして「みなさんはどう 思いますか?」と題されて「読者の皆様、 この小説 をお よみにな って どう思い ます か?今度の芥川賞受賞作品「太陽の季節」 ージは、明るい未来を感じさせるものであ ほどいろいろな意味で大きな反響を呼んだ り、人々の憧れそのものになっていった。 小説はないでしょう。特に作中に描かれた 兄の慎太郎と共に「太陽族」という新しい アプレ高校生の無軌道な性行動と、暴力賛 若者世代を代表するスターとして『平凡』 の中でも不動の人気を築き、それとともに 美には賛否両論ゴウゴウの騒ぎを起してい 、、、 ます。最近では「あいつは何しろ太陽族 だ 『平凡』上で 50 年代前半に見られたような からなァ」などという新語まで流行する始 戦争の影は見られなくなっていく。戦争体 末です。どうぞ、本誌がお贈りする特集「た 96 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) いようの季節」をお読みの上皆様のご感想 処女を求めることが、女性陣から非難され を平凡編集部宛、およせ下さい。」という編 ていた。女性が「純潔」なんて気にしない、 集部よりのコメントが掲載されていた。 『平 と『平凡』上で堂々と述べていたが、それ 凡』が常に若者社会の流行に敏感であり、 は『平凡』上でも画期的なことだった。50 リードすることはあっても遅れることなく 年代後半になって次々に登場する、性に関 流行に乗っていったことがこの「太陽の季 節」の取り上げ方でもわかると思う。 またこの特集では「スタアアンケート」 として「太陽の季節について」を 5 人の若 者スターに感想を聞き、掲載していた。ス ターに映画や小説の内容について意見を聞 く、しかも「問題作」とされているような 作品についての意見をスターが述べる、と いうことは画期的だったと思われる。『平 凡』の中でもスターがこのような過激な作 品について、いい、とか悪いとかの感想を 述べているのはこれが最初である。道徳的 に問題視されていた作品であるから、私は はじめ当然スターは皆「反対」意見を述べ ると思ったが、さすがに自分はそのような 行動はしない、と前置きしつつもこの小説 や映画に共感を表明したり、良い評価をす るスターの意見が掲載されていることに驚 いた。スターとしてあまり「道徳」から外 れたことは言えないだろうが、それを差し 引いて考えても読者と同じ目線でスターが 小説を読み、映画を評価するという『平凡』 の目指した新しい姿勢を感じる。スターが 意思を持つ、表明する、という 50 年代後半 の特徴がここに表れていると思う。 最後に、石原慎太郎を囲んでの誌上読者 座談会が行われている。 「 若い世代はこう考 する相談室コーナーや性医学小説 24 ) で、 かなり「純潔」が重要だと示されている中 で、そうは考えないと述べる人がだんだん 出てくるということが 50 年代後半のひと つの特徴なのだが、その一端がこの座談会 にも表れている。またこの座談会は読者の プランだったようで、最後に提案者の住所、 氏名が公表されていた。 この特集に対する反響は感想を募集した からだけとは言えないくらい、すさまじい ものがあったようで、翌月の 1956 年 7 月号 では「読者のつくるページ」25) のコーナー がすべて「太陽の季節」についての反響の ページとなっていた。「私たちはこう思う 特集太陽の季節を読んで」と題し、 「若い情 熱は私たちの特権 ごうごうたる反響 許 せない無責任な快楽」 「 あなたは先月号の特 集「太陽の季節」を読んでどのような感想 をおもちですか。―」と添えられていた。 そしてさらに編集部より「先月号で発表し た特集「太陽の季節」は、いろいろな話題 をまき起し、読者の方がたから、連日、山 のように多くの批判が寄せられております。 そこで今月は、皆さんから寄せられた感想 のなかから、賛成、反対にかかわらずここ にとりあげてみることにいたしました。」と この特集の意図が寄せられている。賛否両 える」と題されて 17 歳から 20 歳までの男 論繰り広げられていたが、新しい若者のモ 女 5 人、いずれも学生が石原慎太郎を司会 ラルに賛成する投書が少数で、 「 自分たちは に男女交際について色々語り合っていた。 恋愛中の肉体関係、性の話が主な話題であ り、処女や童貞の価値についてなどが話し 合われている。処女や童貞にこだわるのは 古い考え方だ、という意見が出る一方で、 「守ったほうがいい」という意見も出てい た。また、男性がいざとなると結婚相手に あのような行動はしない、道徳的に間違っ ている」というような意見が多く、読者世 代にそれまで教えられてきた「純潔」とい う考え方が、多くの若者に根付いて内面化 されていることを感じさせる。年齢は投書 に書かれていないが、映画の中の学生と同 世代と思われ、同世代の読者自身にとって 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 97 も衝撃的な内容であり、当たり前の世界で ような若者は都市圏内のしかも少数派であ はなかったことがこれらの投書から感じら り、 『平凡』を支える多くの農村圏読者には れる。そして特集の中の座談会で、「純潔」 憧れこそあれ、実際は無縁だったと思われ や貞操に関して否定的な意見が出たことも る。そういう点でもやはり若者全員に共通 議論の的となったようである。 するような行動では当然ないわけである。 道徳的に正しい性や恋愛が『平凡』上で しかしそれでも問題になるということは、 もずっと示されてきた中で、この「太陽の 実際の行動は同じことをしなくても、精神 季節」は正直、若者自身が戸惑ってしまう 的に奔放に生きたい、それまでの道徳を破 ような衝撃を与えたようだ。そして戸惑い りたいという流れに時代が突入し、若者の ながらも新しい価値観や考え方に惹かれ、 心を捉えていたからだろう。だからそうい 影響を受けている様子も感じられる。皆道 う部分を汲み取ったこのような小説、映画 徳的、教育的見地からは「反対」を表明す が生まれ、またそれが話題になったのだ。 るものの、だからといって切り捨てる、無 それらの小説、座談会からは 50 年代前半の 視するのではない。これはそれだけ人々が 戦争の影、というものは嘘のように排除さ 「太陽の季節」に興味を持ち、無視するこ れている。 とのできない魅力を感じていたからではな この太陽族ブームはまだまだ続き、1956 いだろうか。それまで当たり前、絶対だと 年 10 月号では石原作品出演のスターを「太 思われていたモラルが少しずつ崩れていく 陽チーム」と呼んで夏山登山をさせている。 タイミングとこの石原慎太郎作品の登場、 また「日蝕の夏」という石原慎太郎原作、 裕次郎の登場が、当時の社会の流れにマッ 主演の東宝映画の特集グラビアでは「若く チしたからこそブームを巻き起こしたのだ て二枚目の芥川賞作家、石原慎太郎さんの と思う。 生活ぶりを逗子・葉山の海岸ロケからご紹 もちろん『平凡』もブームから遅れるど 介しましょう」として慎太郎の自宅と妻の ころか率先して「太陽族ブーム」を引っ張 典子も登場し、食事の様子、司葉子との撮 っていく。1956 年 8 月号では「映画特集」 影風景などが多数のグラビアで紹介されて のコーナーで「まだまだ終わらない太陽続 いた。 ブーム」として映画「処刑の部屋」がじっ このように、太陽族ブームは『平凡』の くり紹介されている。また同年 9 月号では 中も駆け巡って、読者もそれに食いついて 「私たちは太陽族ではない!」という読者 いったのである。 座談会が開かれていた。扇谷正造を司会に 太陽族ブームが下火になっても、下火に 迎えて 19 歳から 21 歳の男女 6 人が参加し、 なるどころかますます加熱していったのが 扇谷は「今日、大映の川口松太郎さんに会 裕次郎人気であった。デビュー以降毎号の いましたがね、いろいろ調べてみたところ、 ようにグ ラビ アに登場 する 裕次郎だ が、 実際はあれよりひどいという。」と述べてい 1958 年 5 月号でも大々的に特集が組まれて る。これらの発言からは、6 月号や 7 月号 いる。 「 特集 では実際にはあんなにひどくない、と言わ 魅力」と題されてまず見開き 5 ページにわ れていた「太陽族」は少人数なら実在する たって彼のグラビアが掲載されている。裕 ということが読者に披露されている。 次郎の口癖だったという「イカス」や「グ 爆発する青春!石原裕次郎の 「太陽の季節」に登場する若者はヨット ッと」 「∼ぜ」という言葉は今で言う流行語 遊びやパーティー遊びが出来るほどのある になっていて、子供に囲まれた裕次郎の写 程度のお金を持っている若者である。その 真には「グッと!可愛いぜ」という見出し 98 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) がついていた。スターの口癖がここまで取 をならべ、最後に当時からすでに噂になっ り上げられた例もそれまで他になかったこ ていた北原の名前を堂々と挙げてしまう飾 とであるし、どのコメントも「裕ちゃん」 らなさも、それまでのスターからは考えら という呼びかけで始まっていることも新し れないことだったろう。そのような大胆さ いスターの像だった。 もファンには魅力だったのだと思われる。 グラビアに続いては「コンビ対談」とし この他このページには裕次郎の涙もろい て裕次郎と北原三枝の対談が見開き 4 ペー 一面などが紹介され、次のページは見開き ジにわたって掲載されていた。そこでは裕 で「今日も元気だ!―裕ちゃんの朝から夜 次郎が一日 1 ダース以上のビールを飲み、 まで―」という密着 24 時のような企画が掲 撮影所でもビール三昧の様子が語られ、北 載されていた。その次のページからは日活 原がそれを心配したりする会話が披露され 映画化の「明日は明日の風が吹く」 (松浦健 ていた。ビールを撮影中からがぶ飲みし、 郎作)という連載小説の第 1 回がスタート その奔放さを咎められず、キャラクターと し、挿絵は裕次郎と北原三枝の絵が書かれ して認められ愛されたスターというのも過 ている。まさに裕次郎づくしの『平凡』だ 去にないスターだった。この対談の囲み記 った。 事では、歌詞を見て歌いながらもテレビの この石原裕次郎に象徴される「新しい若 放送で歌詞を間違えてケロッとして歌って 者像」が 50 年代後半登場してくる。それは しまった話を紹介し、 「彼には、こんな一面 スターの世界だけでなく、実際の読者の間 もあるのです。」と結んでいた。今までなら でもそうだった。自分の意見を座談会でど 隠される一面や失敗談を披露して、それで んどん述べていく若者の姿が『平凡』の中 も人気が落ちない新しいスターである。ド でたくさん見られる。例えば、農村から上 ロドロした内容の映画に主演しながらも、 京した勤労青年を集めて苦労や楽しみを語 暗さのない裕次郎の型破りな姿に、読者を り合う座談会 はじめとするファンは、それまでとは違う 会」を中心としたサークル活動も各地で展 憧れと親しみを抱いていったのである。鶴 開されていった。 26 ) も開かれているし、 「友の 田浩二や佐田啓二はスターになる前のエピ もはや「戦後」ではない、この言葉に導 ソードを披露したり、ファンからの質問に かれるようにスターと戦争を結びつける記 答えたりと少しずつファンに近づいていく 事も、確実に減り、小説や映画の内容も「恋 のだが、裕次郎は登場から「素」であり、 愛」や「性」、「働くこと」に結びつけるよ 読者、ファンの中に飛び込んできたという うなものへと変化していくのである。1957 イメージだ。後に年月が経つにつれ、70 年 年 11 月号からは「有楽町で逢いましょう」 代以降は裕次郎も「大スター」になってし (宮崎博史作)という平凡・大映・ビクタ まい「裕次郎のような大スター像」という ー・十合デパートの 4 社タイアップ小説が ものが出来て本人も周りもファンも変化し 始まり、有楽町で待ち合わせするデートと ていってしまうが、この 50 年代後半は、新 いうものが流行する。まさに新しい戦後都 鮮な魅力溢れる裕次郎が、新しい時代に挑 市空間の登場であり、読者にとっては憧れ んでいくように登場し、活躍した時代だっ であり、 『平凡』はその案内役だった。そし た。 て戦争に何か不幸の原因があるような設定 対談の次には裕次郎直筆の「僕の好きな の小説は少なくなっていくのであった。太 女性」というタイトルで『平凡』のために 陽族ブームで改めて若者の生活が注目され、 書いた原稿が掲載されている。色々タイプ 若者自身も自分たちの恋愛や性、結婚につ 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 99 いて積極的に意見を表明していく。「自由」 中学 1 年生の少女が、友達が暴行され「パ への欲求を『平凡』と読者が相乗効果で盛 ンパン」になったことをきっかけに、初め り上げ、示していったのである。 花売り娘になり、最後は自分もお金のため 古いモラルにとらわれない、 「新しさ」を に「パンパン」になるという話だった。こ 求めて人々が動き出しているのであった。 の話の付記として藤原は警察の臨時検査で 花売り娘の売春が発覚し、中高生が 3 名い 3-2 人々の新たな欲望と目標 たことが父兄を驚かせた、と前置きした上 石原裕次郎と太陽族の登場とともに、 『平 で、そのようなことは基地のある町ではよ 凡』は大きな転換期を迎えた。 『平凡』の中 くあることだとしている。そして「小学生 の小説にも「性医学小説」というジャンル がパンパンごっこをしたり、風呂屋で子供 が確立し、50 年代前半には見られなかった、 が性病をうつされたり、売春婦にもてあそ 読者参加の恋愛・性に関する諸問題をテー ばれた中学生が、女友達を犯すようになっ マとする座談会が毎号のように開かれてい たり、さまざまな不幸が基地のために起っ く。 『平凡』のメインテーマはこの機を境に ている。アメリカ兵たちの性行為が露骨す 性の問題へと移り、敗戦の影をしょった小 ぎるせいだが、そればかりでなく、アメリ 説よりも、読者の興味に密着した恋愛・性 カ兵が落す金をあてにして、その場かぎり をテーマに、さまざまな記事が掲載されて の暮しを送り、平和な産業を発達させる等 いくのである。50 年代後半での『平凡』上 のことをせず、また失業者をなくするため の新たな課題は「純潔(性の問題)」と「結 の、地道な努力をしないことなどに、大き 婚」だった。 『平凡』と性の問題については な原因がある。基地反対運動の理由の一つ また別の機会に詳しく述べたいが、ここで には、アメリカ兵とパンパンとの男女関係 も人々の問題意識がどのように『平凡』上 の生態が、日本人の間に大きく影響し、女 に表われていたのかを示していく。 性を尊重しない感情がひろがるということ 1957 年 8 月号に「特別よみもの わたし はこわい!!十代の恐るべき性の記録」と もあるのである。」とまとめていた。 ここでは『平凡』では見かけることのな いう特集が組まれている。直木賞受賞作家 かった基地問題が、10 代の性との関係で初 の藤原審爾が書いたもので、藤原より「み めて大きく触れられている。基地と売春の なさんは、こんなことが果してあるのだろ 関係は、他のメディアでも取り上げられて うかと思うでしょう。しかし、これはほん いることではあるが、この話を読めば読者 とうにあった話なのです。若い人がただし は基地のある町に対して、またアメリカ兵 く生きるためには、よごれたものから目を に対しての 1 つのイメージが出来上がり、 そらしてはいけません。ここに集めた記録 青少年の性的乱れが基地のせいだ、としつ は、十代の恐るべき行動をつたえています つも、親や青少年自身に自覚を促す内容の が、これはひとごとではなく、若い人にも 小説である。 その親にとっても、今日のみじかな問題と ここでは、基地があることによる性的悪 して考えてもらいたいのです。」と添えられ 影響が語られ、それが基地反対運動の理由 ていた。 となっていることが挙げられている。青少 内容は 3 つの手記風の話とそれぞれに対 年への悪影響を訴えることが、 『平凡』での して藤原の付記がつけられている構成にな 一番効果のある基地の取り上げ方だったの っていた。 だろう。また、売春は基地周辺だけで行わ 1 つ目はアメリカ軍の基地がある都市の れていたわけではないが、 「 アメリカ兵」 「基 100 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) 地」というスケープゴートを仕立てること 子が登場する。それは昭和天皇の登場回数 で、それらが「日本人」のモラルを低下さ や、弟の義宮とは比べ物にはならない多さ せ、悪影響を与えている、という論理がで である。 きあがっていることが伺える。 「 基地」も「ア もちろん、50 年代前半でも皇太子は登場 メリカ兵」も敗戦の象徴であるが、大きく していた。例えば 1952 年 11 月号では皇太 『平凡』に登場したのはこれが初めてであ 子の名前、身長、体重などを紹介して「 わ る。ひとつの社会問題として取り上げ、産 れらのホープ 業としての基地の問題にも藤原は触れては 年 3 月号では「日本の青春皇太子さま」と いるが、ほぼ問題点は性的乱れに終始し、 いうグラビアの中で、 「皇太子さまこそ、私 また今後この問題が登場することもなく、 たち日本の青春の象徴です。」「日本の青春 『平凡』上で基地の存在が議論されること は皇太子さまと共にある。」「私たちの上に もなかった。敗戦からの時間の経過と共に、 かがやく星のように、皇太子さまは私たち 人々にどう基地が受け入れられていたのか の光であり、喜びでもあります。」「皇太子 を『平凡』だけから探ることはできないが、 さまと同じ時代の同じ若さに生きる私たち 『平凡』はその得意分野である「性」の部 の幸せを大事にしましょう。」「私たちのこ 分を、基地という社会問題から切り取り、 ころが哀しくなったとき、淋しくて、暗い 記事を作っていこうとしたことが伺える。 気持になったとき、皇太子殿下―と、こう また 50 年代前半の論調でいけば、「世界 お呼びしてごらんなさい。私たちの胸の中 中から基地のない、平和な世界を作りまし には、きっと若い希望が生れ、明るいとも ょう」というメッセージが発信されてもよ しびがともる筈です。」「万才!日本の青春 いのだが、ここではそのような論調にはな 皇太子さま」という一見、本当に戦後なの っていない。基地やアメリカ兵への怒りは か、というような言葉が並べ立てられてい 感じるが、結局は「純潔」を強調する性非 る。 」と表現しているし、1954 行の問題に転換され、基地反対を求めるよ ここで重要なのは、昭和天皇からは戦争 うな論調では決してなかった。基地という の影を拭うことは難しくても、一緒に「戦 ものの問題点を共有しつつも、簡単に基地 後」に育ってきた皇太子になら、遠慮なく 返還が認められないという戦後の認識がで 賛美の言葉を投げかけられるという背景で きあがっていることが見える。 ある。いくら『平凡』のような娯楽雑誌で また、1950 年代前半と後半で圧倒的に違 あったとしても、昭和天皇を「人間天皇」 うもの、それは皇太子の扱いだった。現在 としてグラビアに登場させたり、特集を組 の天皇明仁は 1933 年生まれであり、当時皇 むことはない。そこが『平凡』の触れない 太子であった 1953 年に 20 歳を迎えた。本 「戦後」であるといえる。しかし、このよ 稿では皇太子、というと現天皇の明仁のこ うに皇太 子を まつりあ げて いくこと で、 とを指すこととするが、彼が学習院を卒業 人々の中にある「戦争」と「敗戦」の苦い する 1955 年前後から、『平凡』においても 記憶は、若々しい皇太子によって表面上忘 皇太子に関する記事は格段に増えていく。 れられていくのである。そして消えること その大きな理由に、 「お妃選び」という問題 のない皇室に対する尊敬や賛美の念の根深 が当時大変騒がれていたことがある。皇太 さを感じ、もろ手を挙げて称えることがで 子はグラビア、小説、座談会、と種類も問 きる新しい皇室=皇太子という「象徴」を わずに全ジャンルにわたって取り上げられ、 人々は「戦後」も必要とし、忘れてはいな 50 年代後半はほぼ必ず毎月、どこかに皇太 かったことが伺える。そこからは天皇をは 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 101 じめとする皇室の戦争責任という論点など、 葛藤が生々しく語られている。しかしその でてくるはずもないことは当然であった。 「性」の部分には触れられずに、自由な恋 そして皇太子の記事のポイントは、年を 愛をして、運命の人と巡り合い、大勢の人 追うごとに皇太子妃問題へ移っていく。 に祝福される結婚をする、という恋愛結婚 1956 年 4 月号では「特集皇太子妃は誰?」 のモデルが、皇太子の結婚で「現実ものと という「学習院青春座談会」が開催され、 同年 7 月号では「皇太子さまの悩み」と題 して」誕生した。誕生した、というよりは 、、、、、、 『平凡』と読者の両方で理想と決めた とい された座談会が開かれている。どちらも皇 った方がよいだろう。 「純潔」問題に悩まず 太子の日常生活や女性の好みなどを話し合 によい皇太子は、「孤独の人」から、「性」 う内容である。そして、1958 年 11 月 27 日 の葛藤の部分は飛ばして、一気に最高に幸 午前 11 時 30 分、宮内庁より皇太子妃に正 せな人になったのである。そして最高に理 田美智子が決定したというニュースが流れ 想的、とまつりあげることによって、人々 た。皆の予想を裏切って、正田美智子に決 は自分たちの幸せの目標をとりあえずここ 定したこと、皇太子が恋愛して美智子を選 に定めたのではないだろうか。戦後の人生 んだことに人々は熱狂する。 スタイルにおけるひとつのモデルを自分た 『平凡』は 12 月 24 日発売の 1959 年 2 ちで定めたのである。しかし皇太子に関し 月号で、いち早くその婚約を伝える記事を ては(当然)触れられなかった結婚前の性 掲載した。 「 元皇族でも元華族でもない平民 行動、というテーマは一般人にはそのまま のお嬢さんです」と紹介されたその記事は、 残され、 「純潔」という規範が繰りかえし示 24 日発売なのに、グラビアには 12 月 6 日 されても、開放されつつあった人々の「性」 の 2 人のテニスの模様も掲載するという力 への欲望の前に、絶対の効力を持てずにい の入れ方である。 たため、 『平凡』上では「純潔」の可否を巡 今まで一般とは違う暮らしぶりが伝えら れていた皇太子に、 「平民」出身のお嬢さん る語りが展開され続け、60 年代へとひきづ られていった。 が嫁ぐこと、皇太子が恋愛したということ 人々は、皇太子が恋愛した、ということ で、皇室のすべてが劇的に変わるかのよう だけで、満足し、敗戦後からの課題であっ な期待が皆にあることを感じさせる。これ た「民主化」への思いがひとつ満たされた はどうしても拭いきれなかった皇室にまと ような気がした。さらに家も身分も越えた わりつく因習や暗さ、そして敗戦の影を多 (身分とか平民とか言われている時点で、 くの人々から払拭させるような効果があっ 越えていないのだが)恋愛結婚、と言われ たように記事から感じた。そしてこの 2 人 ながら、その正田美智子は日清製粉の社長 の結婚は日本中が祝福しているはずだ、と の娘、という「超お嬢様」であって、大多 いう記事で溢れ 27) 、面白くない人は 1 人も 数の「私たち」とは違うのである。その差 いない、という発想は『平凡』のあちこち に気づきながらも、それには触れずに熱狂 にもにじみ出ている。そこには無意識の「日 してしまうところも、ある意味人々の「戦 本」を挙げての強制というものが働いてい 後」皇室への「民主化」の希望と期待の表 ると感じる。 れだったのかもしれない。 50 年代後半ずっと『平凡』上では恋愛結 この皇太子の結婚というものが、素敵な 婚が理想として語られてきていたが、一方 恋人とさわやかに交際して結婚して都市の で恋愛にはつきものの自由な性行動という おしゃれな団地で幸せな家庭を築きたい、 欲望が赤裸々に語られ、その可否について という当時の若者にとって 1 つの理想であ 102 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) り、言い換えれば新たな目標、欲望となっ で人々の心を掴むことができなかったので た。 はないかと思う。その底流に「戦争の傷跡」 を共有していたからこそ、 『平凡』に人々は おわりに 惹かれていったのだろう。自分たちと同じ く戦争で傷を負った主人公が幸せになる物 『平凡』のみていたもの 語や、スターの苦労話があったために、華 一見、ただの大衆娯楽雑誌であり、まさに やかなグラビアがさらに輝いて見えたので 「歌と映画の雑誌」としか見られてこなか はないだろうか。 った『平凡』だが、1950 年代の 1 冊 1 冊を しかし一方で、人々はいつまでも敗戦の 開き、読んでいくと、 「歌と映画」だけでは 傷に浸ることを望んではいなかったのだっ くくることのできない、さまざまな論点を た。時間の経過とともに新しい時代、輝か もつ資料であることがわかる。 『平凡』には しい未来を自分たちのものにしようと、 「敗 「歌」「映画」「小説」「グラビア」「投稿」 戦」 「戦後」を乗り越えようとしていく。そ 「座談会」などたくさんのジャンルがあり、 れは「敗戦」から生まれた新たな「欲望」 その中でも今までは光があてられなかった の誕生だった。新しいスターの登場ととも 「小説」 「グラビア」 「座談会」 「投稿」など に、敗戦を感じさせる記事は減り、作られ の中にあふれる、読者を惹きつけた力に、 た映画も今、目の前にある自分たちの恋愛 私も惹きつけられていった。 や結婚をテーマにしたものが多くなってゆ 『平凡』を語るとき、 「戦争」というキー く。読者参加型の座談会が増え、自由に恋 ワードを抜きにして語ることはできない。 愛や性が語られていく中に、表面上「敗戦」 あの「戦争」があったからこそ、大衆娯楽 の入る隙はなくなっていった。そして人生 雑誌『平凡』は生まれたのである。戦争の の理想像として、1959 年という 50 年代最 傷跡から這い上がるようにして創刊された 後の年に皇太子の結婚があった。 「平民」と 『平凡』は、都市空間を表象し、誌上を通 の結婚は人々にとって「民主化」の象徴で して新しいコミュニティを形成し、人々の あり、まさに「戦後」を乗り越えた瞬間だ 欲望を抱え込みながらリードしていった。 ったのではないだろうか。しかし実際は、 創刊した岩堀喜之助はじめメンバーは皆戦 これは 60 年代という経済成長への入口で 時中に翼賛会などさまざまな経験と挫折を あり、ゴールではなかった。皇太子の結婚 し、 『平凡』発刊に至っている。岩堀に言わ に集約されたかのような『平凡』に提示さ せれば、敗戦の産物の象徴でもある『日米 れた人生の理想像は、あくまでひとつの誘 会話手帳』がなければ、 『平凡』は生まれな 導論にすぎなかった。だからこそ、人々は かったのである。つまりなぜ『平凡』が人々 50 年代の間ずっと恋愛・性・純潔・結婚・ をリードできたのか、それはまず、根本に 職業、と繰り返し同じテーマで悩み、語り 『平凡』が「共通体験としての戦争」を抱 合い、60 年代へひきずっていった。読者が えて創られていたからではないだろうか。 繰り返し悩むように、 『平凡』も繰り返し同 1950 年代、多かれ少なかれ全員が戦争と敗 じテーマを取り上げ続ける。それは「これ 戦を経験し、生きていた。いくら娯楽に人々 が答えだ」というゆるぎのない答えを『平 が飢えていたとしても、もし『平凡』がひ 凡』も提示することができなかったことを たすら「アメリカ文化」を流していただけ 示しているといえる。いくつかのある種ス の雑誌だったなら、そしてただ都会の流行 テレオタイプ的な答えを提示しつつも、そ を紹介するだけの雑誌だったなら、ここま れで解決にならないからこそ、円を一周す 「戦後空間」の中の『平凡』 103 友』だけだった。 るかのように、また振り出しに戻って同じ ことが語られる。そこに少しずつ、年代に (夏井)― 3) 1952 年 10 月号、集英社より創刊。当 おける語り方の変化はあるが、繰り返し同 初のキャッチフレーズは「夢と希望の じことが語られる中に 1950 年代の抱えて 娯楽雑誌」12 月号より「歌と映画の雑 いるテーマが見えるのだ。さまざまな中に 誌劇場」と書かれる。発売日は毎月 22 も、その根本となるテーマが「敗戦」とそ 日の『平凡』に対し、一週間前の 15 こから生まれた「欲望」の芽だったのでは 日だった。発売日当日にほとんど売り ないだろうか。 「敗戦」と「戦後」をどう乗 切れの状況で慢性的に『平凡』不足だ り越えるのか、それが基本にあり人々が迷 ったということもあり、『明星』は歓 いながら、 新しい何か 、 よりよい明日 迎されたという。 (模倣雑誌に怒る『平 という欲望の実現を求めて進んでいた時代 凡』愛読者も多数いた。) であった。そして『平凡』という一見非常 4) 1947 年創刊。1953 年 4 月廃刊。 に都市的な娯楽雑誌が、メディアの共有に 5) 1950 年創刊。1953 年 4 月廃刊。 より都市と農村の読者をつなげていく。1 6) 鶴見俊輔「見る雑誌の登場」『大衆芸 つの社会認識の共有に大きな役割を果たし たといえるだろう。 術』河出新書 1954 年 7) 敗戦を迎え、今までの価値観が崩れつつ 江藤文夫『見る雑誌する雑誌 平凡文 化の発見性と創造性』平凡出版 1966 ある中で、暗いこと苦しいことも足元にた 年 くさんあるのだが、それを乗り越えようと 8) 鶴見俊輔『図書新聞』1952 年 10 月 する力強さを『平凡』から感じるのである。 9) 注8 それは実際に、50 年代に芽として生まれ 10) 『平凡』はカストリ雑誌などと呼ばれ たさまざまな欲望を実現させていく、1960 ていた。カストリ雑誌とは粗悪なカス 年代の土台となる時代ともいえ、また雑誌 トリ焼酎のように三合(0、54 リット を通しての読者の交流は、好きな対象でつ ル)=三号でつぶれてしまうというシ ながっていく現在のネットコミュニケーシ ャレから。 ョンの原型であるともいえるかもしれない。 また「岩堀喜之助という男 100 万 読者が戦争の傷跡を受け止めながらも、時 雑誌「平凡」の秘密」 『週刊朝日』1954 間の経過とともにそれも薄れ、乗り越えて 年 9 月 5 日号では『中央公論』編集長 新しい時代へ向かおうとする経過が『平凡』 藤田圭雄が「『平凡』がよく売れるこ には表れている。 とは、嘆かわしい現象だ。戦後、アメ リカの占領軍が残したものに、良い面 と悪い面があるが、良い面を生かすに 注 は金がかかる。結局、悪い面だけが残 されがちだ。リーゼント・スタイルと 1) 2) 1946 年 5 月創刊。東京タイムズ社出版 かジャズのもっている軽薄な面とか。 局。1948 年 82 万 5 千部を記録。1956 これらを助長しているのが『平凡』だ。 年廃刊。 やはり問題は教育だ。まず、小学校の 戦前では、100 万部を越したのは『キ 教師の待遇をよくすること、教師たち ング』 (1924 年 12 月、大日本雄弁会講 の教養を高めることだ。美しい文章と 談社より創刊)『家の光』(1925 年 5 はなにか、美しい音楽とはなにか、美 月産業組合中央会より創刊)、 『主婦の しい絵とはなにかを教え、それによっ 104 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) て子供たちを導かせる。そうすれば、 <スタア>と皇太子の親和性―」 (『日 『平凡』のあのきたならしい誌面や低 本女子大学大学院 俗な文章は、だれも見向きしなくなる 紀要』2002 年)がある。 15) 新井恵美子『腹いっぱい食うために』 だろう」と述べている。 11) 『創造の 40 年マガジンハウスのあゆ み』マガジンハウス 1985 年 12) 阪本博志「『平凡』読者の連帯と戦後 大衆文化」マス・コミュニケーション 研究№60 人間社会研究科 近代文藝社 1994 年 16) 小川菊松『日米会話手帳』誠文堂新光 社 1945 年。32 ページ、定価 80 銭。 17) 1917 年 2 月創刊。初めタイトルは『主 婦之友』で東京家政研究会発行。1921 2002 年 13) 阪本博志「1950 年代前半における大衆 年に社名を主婦之友社へ。1953 年に 娯楽雑誌の受容経験―『平凡』の共同 『主婦の友』へ改名。社名も同時に変 体的受容と共振性―」京都社会学年報 更し、現在に至る。 18) 注 15 第 9 号 2001 年 14) この他の『平凡』論として、1957 年か 19) 注 15 ら 1959 年の『平凡』に掲載されてい 20) 清水達夫『二人で一人の物語―マガジ る紙面の内容 をジャンルごとに分類 ンハウスの雑誌づくり』出版ニュース し、さらに小説の中の主人公たちの人 社 1985 年 間性や対人関係などを分類して、それ ぞれの価値指向を分析し、どのような 21) 注 14 前掲、原喜美、中川敏子 注7 影響が読者に現れるといえるのか、を 22) 1949 年 2 月号の「スタアの応接室」と 考察した、原喜美の「青少年向け娯楽 いうコーナーが発端となり、投書欄と 雑誌『平凡』にあらわれた価値指向」 して「友の会」というコーナーができ (『国際基督教大学学報Ⅰ−A教育学 る。「友の会」は紙面上だけでなく、 研究 7』1960 年)、セクシュアリティ 読者による愛好会的なものとなり、全 の面から考察した吉澤夏子の「性のダ 国各地に支部ができたり、自主的に各 ブルスタンダードをめぐる葛藤―『平 種活動を行うようにもなる。『平凡』 凡』における<若者>のセクシュアリ も紙面でそれを呼びかけたり、応援し ティ」 (『近代日本文化論 8 たりしている。 女の文化』 岩波書店 2000 年)、読者が勤労青年で 23) 強力な覚醒作用を持つ塩酸メタンフ あるという点と、純潔という規範とい ェタミンという薬品の商品名。第 2 次 う視点から論じた石崎裕子「1950 年代 大戦中にパイロット用の軍需物資と の『平凡』を読み解く−「働くこと」 して大量に生産され、敗戦とともに闇 と「性」に関する記事を中心に―」 (『日 市に出回った。刺激物に乏しかった混 本女子大学大 学院 人間社会研究科 乱期の中で、不良や作家などにも多用 紀要』2002 年)、読者層を統計的に分 され、乱用から中毒症状を起こす者が 析した中川敏 子「会員名簿からみた 続出した。1951 年に覚せい剤取締法が 1950 年代の『平凡』読者像」 (『日本女 成立したが、それ以降も流行した。 人間社会研究科紀要』 24) 『平凡』には、主に青少年の性を主題 2002 年)、皇太子(裕仁)と当時のス として取り扱う小説が、1950 年代後半 タアに対する読者の反応を分析した、 から欠かさず登場するようになる。 三品裕美「『平凡』の「民主主義」− 「家庭や学校で読んでも恥ずかしく 子大学大学院 「戦後空間」の中の『平凡』 (夏井)― 105 ない」「先生や親にもおすすめ」など 蔵は「日本というところは、戦争が終 のキャッチコ ピーがひとつの特徴で っていままで国中が一致して喜んだ あり、それらの小説は「性医学小説」 ということがないですね。ところがこ というジャンルとして『平凡』上で扱 んどの発表には誰もが大喜びです。面 われている。 白くないなんていう人は一人もいな 25) 「友の会」が、1954 年 10 月号より「読 いでしょう。それから皇太子さまは特 者のつくるページ」として改題された。 殊社会の人としかおつき合いがない 愛好会としての「友の会」はずっと続 のに軽井沢で正田さんをキャッチさ く。 れた、これはぼくらに勇気を与えまし 26) 『平凡』1957 年 1 月号、1959 年 1 月 た。」と言っている。 号他 27) 1959 年 2 月号には、スターからのお祝 いコメントも掲載されていて、市川雷 (日本女子大学大学院・博士後期課程) 106 ―ヘスティアとクリオ Vol.1 (2005) Heibon magazine in the post-war period: Emotional effects of the lost war on people during the 1950s N ATSUI Minako Japan Women’s University This paper discusses the influence of publication in relation to the spread of urban space concept in the post-war era of Japan. Among many publications, I would draw attention to the emergence of Heibon. This monthly magazine was so popular that it became the first million-seller in the post-war Japan, as it circulated not only within the urban areas but also around every part of Japan. It was not simply a magazine for entertainment, but in fact contained many contemporary issues in that particular period of time. It seems that one of the main reasons why Heibon gained so much popularity from the general public is that it was particularly sensitive to the then Japanese urban cultural development. By introducing features such as blockbuster movies from the United States to show an alternative way of living within the Japanese culture, it created new urban fashion and cultural trends with the younger generation in Tokyo and surrounding areas. As a result, Heibon satisfied the desires of ordinary people for a new life after the war. I would particularly like to emphasize the fact that, while seemingly Heibon targeted urban readers, it in fact had a great deal of support from those in rural areas. This would lead to the question how Heibon was able to put itself in a position in which a new urban image was being constantly created, permeating younger generation of every corner of the country. This would also contribute to the inquiry as to the characteristics of Japanese culture in the 1950s. The people in the 1950s were still in a struggle with facing the reality of ‘defeat in the war’. Even an entertainment magazine such as Heibon may (or may not) have been susceptible to the notion of the loss of war. Evidence of such ambivalence can be found throughout the magazine. Identifying what Heibon tried to depict (or tried to avoid to depict) in the context of the war would give us a reason to reconsider the role that Heibon had played at that time. Knowing what the people in the immediate post-war period really wanted through reviewing Heibon would show us another view of the ‘post-war period’ in the 1950s.
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