内は木炭、材木、レンガ等の貨車積みで活況を呈した。 戦時中南方からの原油のタンカ-や輸送船が米潜水艦によって次々と撃沈され 燃料不足で継戦能力が極端に落ち、軍艦は動けなくなり瀬戸内海に係留する措置 が執られ、特攻機は燃料不足を補うため松根油なる怪しげな燃料をミックスした燃 料を使ったから性能が悪いのは当然で、それでもフラフラしながら敵艦に突入して いった。 こ の 松 根 油 と は 、 松 の 木 の 根 を 掘 り 起 こ し 、こ れ を 乾 燥 さ せ 、細 か に 切 っ て か ら 、 大きな鉄竈に入れて蒸し焼きにすると竈の下にある蛇口からドロドロの油が出てき てこれをドラム缶に入れておくと定期的に陸軍のトラックがやってきて運び出し、 どこかの工場で燃料油に精製していたらしい。 深谷地区の六号線脇の窪地に松根油の作業場があった。 同じく燃料不足は自動車も同様で木炭を蒸すことによって生じるガスを発火・爆 発させさてエンジンを作動させ走行する自動車が一般的になった。 その木炭トラックも不足しており、川内で生産される木炭が運び出せず、横須賀 の海兵団所有のトラックが派遣されてきて川内~富岡貨物構内の間、海軍兵士が木 炭運送に従事していた。 更に貴重な木炭を使わず木片を蒸してガスを作るガス薪自動車も出現した。 そのためガス薪の需要が伸び、戦後だが駅前に「高部興業」というガス薪の小さ な 工 場 が 出 来 て 一 時 期 活 況 を 呈 し た が 、物 資 不 足 と い う 一 時 期 に 咲 い た も の で あ り 、 急速に咲きほころび、そして散るのも早かった。 戦 後 の 一 時 的 な 活 況 も 、 1950 年 代 半 ば に は ま た 元 の 純 農 村 地 帯 に 戻 り 、 全 国 的 に は 徐 々 に 上 向 き に な っ て い る 頃 、反 対 に 停 滞 若 し く は や や 下 り 坂 的 な 傾 向 に あ っ た 。 お隣のいわき地方を見てみましょう。 常磐炭田の興亡がこの地方の興亡でもあった。 南端は茨城県北部の磯原付近から北は富岡付近まで が常磐炭田になる。富岡にも一時期「新妻炭鉱」と いう小さな会社が赤木で採炭していた。 この常磐炭田は、筑豊炭田、北海道炭田と並ぶ大 炭田で日本三大炭田の一ッとされた。 鉱脈の南端である日立付近では銅の鉱脈が発見さ れ日立銅山を設立、久原房之助によって大日立へ成 長する日立グル-プの根幹となった。 いわき市 白 水 阿 弥 陀 堂 に 近 い 、内 郷 白 水 町 に あ る 弥 勒 澤 が 常 磐 炭 田 の 発 祥 の 地 で 、そ の 石 炭 を 弥 勒 澤で発見し石炭産業発展の礎を築いたのが片寄平蔵 -2-
© Copyright 2024 Paperzz