『南海物語』論

関東学院大学文学部 紀要 第107号(2006)
『南海物語』論
深 沢 広 助
要 旨:
『南海物語』は 8 つの作品から成る短編集である。ハリケーンや鮫など南海特
有の自然の猛威が、人間や建物に与える甚大な被害を活描している。
また、白人の優越性、権力、大胆不敵さなどを強調している。しかし、この
短編集に登場する白人は、自分の使命に忠実で真摯な宣教師もいるが、アル中
のスコットランド人、相手構わず暴力を振うドイツ人、射撃以外は能なしのヤ
ンキー、といった甚だ偏った人物である。
一方、南海の島民の場合は、沈着冷静、素朴さ誠実さなどを備えた人物を登
場させ、白人の危急を救ったり誠心誠意白人に尽くしたりしている。
ロンドンは『南海物語』を通して、白人がその優越性や権力をやみくもに振
り回すのはマイナスであり、愚かな行為である、南海の島民が持つ沈着冷静、
素朴さといった人間的徳性を兼ね備えるべきだと示唆している。
キーワード:
南海、自然、白人、島民、徳性
ジャック・ロンドン(Jack London, 1876−1916)の短編集『南海物語』
「マプヒ
(South Sea Tales, 1911)は 8 編の作品から成っている。すなわち、
の家」(“The House of Mapuhi”
, 1909)、「鯨の歯」(“The Whale Tooth”
,
1910)、「マウキ」(“Mauki”
, 1909)、「ヤー!ヤー!ヤー!」(“Yah!Yah!
Yah!”
, 1910)
、
「異教徒」
(
“The Heathen”
, 1910)
、
「恐ろしいソロモン諸島」
(
“The Terrible Solomons”
, 1910)
、
「大胆不敵な白人」
(
“The Inevitable White
Man”
, 1910)
、「マッコイの子孫」(
“The Seed of McCoy”
, 1909)である。
言うまでもなく、南海を舞台にした作品群で、それぞれ独自の味わいを
含んでいるが、全体としては南洋冒険小説といった風情である。本稿では、
この短編集の特徴をいくつか列挙し、それに主な登場人物の分析をからめ
― ―
1
『南海物語』論
ながら、作者の意図するところを考察してみたい。
1
ロンドンは、既に、アラスカを舞台にした作品群で、そこでの大自然を
いろいろな形で描写している。自然に対する彼の関心は非常に強く、それ
は南太平洋に赴いた時も同じだった。必然的に『南海物語』でも自然の描
写は欠かせない。
「アラスカもの」の一編「焚火」(“To Build a Fire”
, 1910)では、厳しい
寒さによって生命あるものを容赦なく襲撃する、目に見えない自然の脅威
を描いた。
「襲撃」とは生命あるものの息の根を止めるための「襲撃」であ
る。
『南海物語』の自然も、生命を奪い取ろうとする熾烈な自然である。
「マプヒの家」にはハリケーンの凄まじさが描出されている。「あたりは
何かが突進してくるような気配に包まれ」
(p. 25)たかと思うと家中がガタ
ガタと震え、窓が揺れて 2 枚の窓ガラスが砕け散る。ハリケーン襲来の始
まりである。ロンドンは、ハリケーンが次第に勢力を強め、島中の木とい
う木を引きちぎり、なぎ倒し、数多くの人間を荒れた海へ吹き飛ばし、教
会堂を土台からもぎ取り、巨大な波に礁湖へ叩き込ませる様子などを事細
かに描いている。
(1)
A・グローブ・ディ(A. Grove Day)が指摘しているように、
南海のハ
リケーンに関する風の描写は特に念入りに行なわれている。以下はその一
例である。
それ(風)は憤怒のあまり叫び狂う恐ろしい怪物だった。また絶えず
襲ってきては飛び去る―それも果てることなく―壁の連続だった・・・
風はもはや動いている空気などではなかった。まるで水か水銀のよう
な現実性を帯びたものになった。その中に飛び込んでいって・・・崖
にしがみつくように風をつかまえてしがみつくこともできそうな感じ
がした。
(pp. 33−4)
ここでロンドンは、風を目には見えないが何か物質のような感覚でとらえ
ている。
「異教徒」でも同様であるが、ここでは具体的な固体名を挙げそれ
に譬えている。
― ―
2
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「異教徒」の主人公チャーリー(Charley)は、南海で体験したハリケー
ンの風についてあれこれ語っている。その時の風の強さはチャーリーにと
って初めての経験だった。体から衣服をちぎり取ってしまう風は、まるで
何百万トン、何十億トンもの砂が時速120マイル以上の速さで飛んでくるよ
うな感じだった。しかし、砂の譬えは適当ではないとして、次には、目に
見えない、手ざわりもないどっしりとした重い泥に譬える。それも言い直
して、今度は、空気中のすべての分子がそれ自体泥の堤になっていて、そ
の泥の堤が無数にぶつかってくるようなもの、としたが、結局、
「とても私
にはうまく表現できない」(p. 162)と、言葉での表現は不可能だとしてい
る。そして、風の恐怖を次のように結んでいる。
・・・最初荒れていた海が、あの風によって抑え込まれてしまった。
いやむしろ、海全体がハリケーンの胃の中に吸い込まれ、どこか空中
に消え失せてしまったような感じだった。(p. 162)
「焚火」に描かれた自然は、恐ろしいほどの寒さがその特徴だった。そこに
は吹きつける風も、生命を脅かすほどの豪雪もない。あるのは、主人公の
「男」の体内深く沁み込む極度の寒気である。それが「男」の血管を萎縮さ
せ、血液の循環を滞らせる。そのため手足の末端、頬、鼻まで血が通わず、
凍傷がじわじわと体をむしばむ。
「男」の最後は凍死である。
同じ作者による「生命への愛着」(“Love of Life”
, 1907)では 7 月頃の北
極が舞台である。
「焚火」と違って全身を麻痺させるような寒気はない。し
かし、そこでの自然も主人公の「男」の生命を奪おうという目的で、彼の
食物を断ち徐々に衰弱させてゆく。
「男」にとっての恐怖は、恐ろしいほど
の力でのしかかってきて、自分を押しつぶそうとする荒漠たる自然の姿で
ある。この主人公は、無慈悲な自然によって餓死寸前にまで追い込まれる
が、幸い、海辺まで辿りつき停泊中の船に救助される。
「焚火」
、
「生命への愛着」における自然は、いわば、物言わぬ静的な自然
である。それでいて、生命あるものをさまざまな方法で痛めつけ、押しつ
ぶそうとする。しかし幸いなことは、それを防ごうと思えば防げるし、被
害も最小限に食い止めることができる。一方、「マプヒの家」や「異教徒」
の自然は正反対で、凄まじい音を立てて荒れ狂い、樹木や建物を破壊し数
知れぬ人命を奪い取る、残忍極まりない動的な自然である。ハリケーンと
― ―
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『南海物語』論
いう自然の猛襲を、人々はとうてい妨げることはできない。
ハリケーンは人間にとって一つの大きな脅威であるが、さらにもう一つ、
鮫の脅威も無視できない。鮫はその凶暴さのため、小説や映画には大抵人
間を襲い重大な危害を加える獰猛な生物、悪役として登場する。
『南海物語』
でも、船で病死し海中に投じられた人間や、船内での争乱を逃れようと海
中に飛び込んだ人間が、鮫の恰好の餌食になる場面が散見する。その中で
最も印象深いのは「異教徒」の一節であろう。
主人公チャーリーは、商売になるような骨董品を求めて、鮫が多いので
有名なソロモン諸島のサヴォ(Savo)に立ち寄る。カヌーに荷物を一杯積
み込んで船に戻る途中、カヌーは転覆する。チャーリーと一緒の 4 人の土
民が次々と鮫に襲われチャーリーだけが残る。彼は船へ向かって必死に泳
ぎ続けるが、やがて体力が消耗し意識も遠のく。そこへ忠実な友人オート
ー(Otoo)が泳いできて、鮫の注意を自分に引きつけ、チャーリーに泳ぐ
方向を指示する。
私(チャーリー)は方向を変えてやみくもに泳いだ。その時はもう
ほとんど意識がなかった。私の手が綱に触れた時、船から叫び声が上
がるのを聞いた。私は振り返った。オートーの姿がなかった。次の瞬
間、彼は水面に浮かんだ。両手が手首からなくなって血が吹き出して
いた。・・・それから彼は海中に引き込まれ、私は船に引き上げられ、
船長の腕に抱えられて気を失った。
(p. 195−6)
こうしてチャーリーは、17年の長い歳月を共に過ごした最愛の友人を失う。
ヘミングウェイ(Ernest Hemingway, 1899−1961)による『老人と海』
(The Old Man and the Sea, 1952)の老漁夫サンチャゴ(Santiago)は84日も
漁に見離されていた。85日目に大魚を釣り上げ小舟にくくりつけて帰る途
中、鮫に襲われ魚は食いちぎられてしまう。それは老人にとって自分の体
を引きちぎられたのと同じ痛手だった。彼は港に戻り家路につく。
かれはマストをはずし、帆を巻く。それを肩にして坂道を登りはじ
める。そのときはじめて、かれは疲労の深さを知った。ちょっと立ち
どまって、うしろをふりかえると、魚の大きな尾が街燈の光を反射し
て、小舟のともの後方にぴんと跳ねあがっているのが見えた。それか
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ら露出した背骨の白い線と、とがったくちばしを持った頭部の黒いか
(2)
たまりと。そのあいだにはなにもない。
(福田恆存訳)
サンチャゴの「深い疲労」とは、魚を守ろうと渾身の力を振り絞って何匹
もの鮫と闘ったための「疲労」と、85日目の漁でようやく仕留めた魚を鮫
に奪い取られて被った「精神的疲労」とが重なったものである。心身両面
に受けた「疲労」によって老漁夫は意識を半ば失いかける。家へ帰るまで、
一度倒れ込みようやく起き上がるが、その後 5 回も腰を下して休み、家に
着くとすぐにベッドに入り深い眠りに落ちる。
チャーリーの場合とサンチャゴの場合を同様に扱うのは少し無理がある
かもしれない。とは言え、友人を失ったチャーリーの深い悲しみも、大魚
を失ったサンチャゴの疲労落胆も、鮫という獰猛な生物(つまり、自然)
によってもたらされたものである。両作品において、鮫はその悪役ぶりを
十分に発揮していると言えよう。
ハリケーンや鮫が人間や建物に甚大な被害をもたらすとしても、天性の
冒険家であり、
「資本主義を逃れて、もっと楽しく愉快な原始的フロンティ
(3)
アの世界へ後戻りしたい」
と望んでいたロンドンにとって、 南の海やア
ラスカの原野はまさに彼の欲望を満たしてくれる世界だったのである。
2
人種的偏見を取り除き、人間の平等性を訴えるのが社会主義者の第一義
的な仕事である筈だが、社会主義者であったロンドンは「私はまず白人だ、
(4)
社会主義者はその次だ」
と言ったという。ロンドンの人種に 対する考え
方を表わす言葉と解釈できるが、
『南海物語』でも、白人の優越性や大胆不
敵さを強調する描写が見られる。
「大胆不敵な白人」では、居酒屋の店主チャーリー・ロバーツ(Charley
Roberts)が次のような話をしている。
「どこかの礁湖に 1 万人の獰猛な食人
種が住んでいようと、そこに真珠貝がある話を聞けば、白人は 6 人ほどのカ
ナカ人ダイバーと目覚し時計を持って一人で出掛けてゆく。北極で金が発
見されたと聞けばすぐさまそこへ向かうし、真っ赤に焼けた地獄の城壁に
ダイヤモンドがあると聞けば、白人はさっそく出掛けてゆき、よぼよぼのサ
タンに金を掘り出させるだろう。それは白人が愚かで不敵だからだ」
(p. 239)
― ―
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大胆不敵とは、どんな障害をも乗り越えて世界を開拓してゆく精神であ
る。当然そこには、血なまぐさい戦闘も含まれている。ロンドンは「バッ
ク」(Buck『野性の呼び声』―The Call of the Wild, 1903―の主人公)や
「白い牙」
(
『白い牙』―White Fang, 1906―の主人公)には動物の世界で血の
吹き出る熾烈な闘いを展開させた。
『鉄のかかと』
(The Iron Heel, 1907)で
は人間同士の闘いを描き、あまりの暴力的な要素に強い批判を浴びた。
ロンドンの生きた時代はちょうど新時代の動揺期であり、強烈な暴力も
求められていた時代でもあった。力や権力への崇拝を禁じ得なかったロン
(5)
ドンの性情が暴力趣味を生み出し、
それが作品に反映していった。しかし、
「バック」や「白い牙」の噛みつき噛みつかれ、倒し倒され、食うか食われ
るかの物語は、動物同士の闘いであるが故に許され、読者の興味をそそっ
た。それが人間同士の血を流す闘いとなると話は別である。『鉄のかかと』
の不評はそこに原因があった。
「ヤー!ヤー!ヤー!」はマックアリスター(McAllister)という飲んだ
くれのスコットランド人が主人公である。彼は体重90ポンドの小柄な老人
で、朝 6 時にまず一杯やり、その後は一定の間隔をおいてチビリチビリと
飲み、それが真夜中の就寝時まで続く。睡眠時間は 5 時間ほどで、残りの
19時間は酒に酔っていてしらふでいることはない。その酔い方は、実に見
事で秩序正しいものである。
ナレーターの「私」はウーロン環礁(Oolong Atoll)に 8 週間滞在し、マッ
クアリスターと一緒に暮らす。
「私」が不思議に思ったのは、この「体の内も
外も強いアルコールと強い日差しで焼けこげたようなしなびた男」
(p. 122)
が、島内に住む5, 000人の島民を治めるその支配力である。島民は男女共が
っしりした体躯をしている。この島に住む唯一の白人マックアリスターは、
身長 6 フィート 3 インチ、北米インディアンを思わせる容貌の持主である
島の王様や、堂々たる体躯の総理大臣を、まるで幼児に対するように命令
を下しあごでこき使う。一言の弁解も許さない。
「私」のこの疑問はやがて
オティ(Oti)という老人によって明かされる。
昔、ここの人間は、海を渡ってきた多くの白人を殺し、何隻もの船から
数え切れない財宝を手に入れた。ある時、3 本マストのスクーナーがやっ
てきた。血気盛んな若者だったオティたちは、この船を襲い船長を初め乗
組員を殺害したが、一人の白人と 3 人の黒人水夫が小さなボートで難を逃
れた。
― ―
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約 1 ヵ月後、白人たちのスクーナーがやってきて、島の人間を次々と射
殺した。にわとりや豚までも殺され家も焼き払われた。小さなボートで難
を逃れた白人が兄弟を連れて復讐にやってきたのだ。3 つの村が全滅した。
白人に危害を加えると恐ろしいことになる、という教訓を彼等は学んだ。
マックアリスターは白人である。彼の言葉がどんなに理不尽であろうと決
して逆らってはならない。島の連中はそう思っているのだ。こうして、酔
っ払いの老人はウーロン島を支配しているのだった。
オティ老人は白人についてこう語っている。
白人は悪魔だ。わしは白人をたくさん見てきた。わしはもう老人だ。
今になってようやく、白人がなぜ海の中のあらゆる島を自分たちのも
のにしたかが分かったよ。それは白人が悪魔だからだ。
(p. 135−6)
「私」に対しても、老人は「あんたの得意なものは何かね?わしの知ってい
るかぎり闘うことだけだ・・・あんたもあんたの兄弟たちと同じで悪魔の
ように闘うことは分かっている」(p. 136)と言っている。白人が「海の中
のあらゆる島を自分たちのものにした」のも世界開拓の一例である。世界
開拓のため白人は死ぬまで闘い続けるだろう。しかし、そういう白人の行
為に対して、オティは一つの警告を口にしている。
「あんたたち(白人たち)
はいつ負けるか分かっていない・・・自分たちがやられることを知った時
はもう遅すぎるのだ・・・」(p. 136)白人の無謀なやり方を戒しめている
のである。その例を『南海物語』の中に見ることができるが、それについ
ては後述する。
「大胆不敵な白人」で、ウッドワード船長(Captain Woodward)は、20
年前に出会ったサクストーフ(Saxtorph)という恐れを知らないヤンキー
の話をしている。サクストーフにできることは銃を撃つことだけだった。
星明りのない真っ暗な夜に、外でうるさく鳴いている 2 匹の猫を、狙いも
つけずにまるで 2 発を一度に撃ったような速さで仕留める。しかも、仕留
めたことを確かめもしない。射撃には絶対の自信があるからだ。
後に、ある黒人労働者徴募船に、ウッドワードは航海士として、サクス
トーフは平水夫として乗っていた。船にいた50人の黒人応募者がある日暴
動を起こし、他の乗組員同様ウッドワードも肉切り包丁で切り裂かれよう
とした瞬間、サクストーフのウィンチェスター銃が火を吹きウッドワード
― ―
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『南海物語』論
は命拾いをする。サクストークは二丁の銃で、一発のミスもなく次々に暴
動者を倒す。海中に飛び込んだ連中も頭を出した途端に撃たれてしまう。
ウッドワードは、まるでクレー射撃のようだった、と回顧する。大胆な船
乗りでありながら船のことは一切駄目だったサクストーフについて、ウッ
ドワードは「確かにこれ以上ないくらいの馬鹿だった」(p. 240)と語って
いる。
「鯨の歯」に登場する白人宣教師ジョン・スターハースト(John Starhurst)
も勇敢な人物である。フィジーのビチレブ(Viti Levu)全島に神の福音を
伝えるため、一人で山の部落へ分け入ることを宣言する。島の伝道師たち
はもちろん、教会の信者である酋長たちもことごとく反対する。山の住民
はきわめて危険で、スターハーストをカイカイ(食べる)するばかりか、
山を下ってきてこの平穏な部落を襲撃する恐れがあるからだ。しかし、ス
ターハーストは反対の声に耳を貸さず、自ら同行を志願したナラウ(Narau)
という土地の伝道師を伴い川を上って山中を進み、白人として初めてガト
カ(Gatoka)部落に入る。そして大酋長ブリ(Buli)に神の福音を説くが、
ブリの棍棒の一振りで倒れ釜の方へ引きずられてゆく。
スターハーストは、固い宗教的信念と大胆な行動にも拘らず、「鯨の歯」
の魔力により肉体的には滅ぼされ、その努力は水泡に帰するが、精神的に
は異教徒に勝る熱意を示した(6)、と言えよう。
「マウキ」には、立腹しながら生まれてきたような暴漢マックス・バンス
ター(Max Bunster)が登場する。背の高いがっしりしたドイツ人で、相
手が白人だろうが島の黒人だろうが、とにかくやたらと暴力を振るう。最
初と 2 番目の妻は殴殺され、3 番目の妻も虐待を受けている。マウキは、バ
ンスターの料理人兼ハウスボーイとして仕えていたが、ことあるごとに痛
めつけられる。島中の人間がバンスターを嫌っており、マウキも復讐を胸
に秘め機会を待つ。ある日、バンスターは黒水熱に襲われ赤子のように衰
弱してしまう。この時を待っていたマウキはバンスターの首をはね、自分
自身ばかりでなく、全島民のかたきを討つ。バンスターは「少々頭のイカ
レタ」
(p. 103)人間だった。
ロンドンは、白人については多分に極端な人物を登場させ、その優越性、
剛力ぶり、大胆不敵さを示しているが、反面、バンスターの例のように、
単に無謀な力は身の破滅を招くと警告している。それは、前述のオティ老
人の言葉「・・・自分たちがやられることを知った時はもう遅すぎるの
― ―
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だ・・・」に通じるものである。バンスターもサクストーフも愚かな人間
だったし、既述のチャーリー・ロバーツの話の最後に、
「・・・白人が愚か
で・・・」という言葉があった。スターハーストの例もあるが、良くも悪
くも、命を賭けた不敵さというものは、愚かでなければ生まれてこないの
かもしれない。
3
ロンドンは、よく中国人や日本人を雇って身辺の用事をさせたが、彼等
(7)
の仕事ぶりには大いに満足していた。
自分の設計した「スナーク号」
(the
Snark)という船で世界一周の航海を試みた時、乗組員の中に「トチギ」、
「ワダ」
、
「ナカタ」といった日本人も含まれていた。この航海の途中、ロン
ドンはテヘィ(Tehei)という名のポリネシア青年と出会った。テヘィはロ
ンドンの航海の話に強く引かれ、自分を是非船に乗せて欲しいと頼み込ん
だ。ロンドンはその熱意に屈して、彼を乗組員に加えた。テヘィは律義な
青年で、この航海の最後までロンドンのために尽くした。
「異教徒」のオー
トーは、このテヘィをモデルにしている。
ハリケーンで乗っていた船が木端微塵になり、ハッチカバーにつかまっ
て海を漂っていたチャーリーは、カナカ人のオートーと出会い、ハッチカ
バーを共有しどうにか助かる。それが縁で二人は17年間固い友情で結ばれ
る。むしろ、チャーリーに対するオートーの献身的な友情が二人を結びつ
けていた、と言う方が適切かもしれない。
チャーリーにとってオートーは兄弟であり、父母であった。オートーは
力の限り、チャーリーが道を踏みはずさないように気を配り、病気の時は
熱心に看病し、共に事業を起こし裕福にもしてくれた。チャーリーがそれ
なりの社会的な名誉や地位を得ると、一番喜んで誇りに思ってくれたのは
オートーだった。「私がまともで善良な人間としての暮らしができたのは、
オートーのお蔭だったのである」(p. 174)チャーリーは繰り返しそう語っ
ている。二人の別れについては既に述べた。
『南海物語』では、無謀とも言える白人の描写に比べて、南海の主な登場
人物については、オートーのように素朴で誠実な描写が目につく。マウキ
は心根の穏やかな若者だったが、バンスターの狂暴な行為に出会い徐々に
変貌する。そして彼への復讐を遂げ、最後は自分の部落へ戻りかつての主
― ―
9
『南海物語』論
人であった老ファンフォア(Old Fanfoa)と 6 人の酋長を射殺し、自ら全
部落の酋長になる。こうした点で、マウキは例外であるが、「マプヒの家」
のマプヒとその家族、
「マッコイの子孫」のマッコイなどはやはり素朴さ誠
実さを感じさせる。
1903年、パウモツ諸島を襲ったハリケーンで400人が死亡した。その際、
一人の女性が沖へ流され、18日間漂流し救助された。この話を聞いたロン
ドンは、その女性をモデルにして「マプヒの家」に登場させる。マプヒの
母親ナウリ(Nauri)である。
ハリケーンによる甚大な被害の中で、マプヒは娘のヌガクラ(Ngakura)
を抱きかかえてどうにか難を逃れる。妻のテファラ(Tefara)も助かる。母
のナウリだけが行方不明になった。60歳ほどのこの老女は家族と離れ離れ
になり、波に漂って生死の間をさまよう冒険へと旅立っていた。かなり苦
労したものの、数々の幸運が重なって、彼女はとにかく家族のもとへ戻っ
てくる。
ハリケーンという自然の猛威に晒され多くの犠牲者を生むが、
「運命のき
まぐれ」によってマプヒ一家は命拾いをする。そしてこの一家は家を建て
ることに執着する。その資金となるのが、マプヒが見つけた世界に二つと
ない大きな真珠である。この真珠が一家に幸運をもたらしたのだろう。人
手に渡りながら巡り巡って漂流中のナウリの手に入り、それを持ち帰って
家も建ててもらえる、というストーリーである。
逆境にあって、その中に埋没するのではなく、それをはね返す強力なエ
ネルギーを内蔵しているのがアメリカ型自然主義である。『野性の呼び声』
のバックや、スティーブン・クレイン(Stephen Crane, 1871−1900)の『赤
い武功章』(The Red Badge of Courage, 1894)のヘンリー・フレミング
(Henry Fleming)にその典型を見ることができる。マプヒの家族、特にナ
ウリをその中に含めたいところだが、彼女の場合あまりにも幸運が重なり
すぎて、バックやフレミングの場合と同様には考えにくい。むしろ、誠実
に生きてきた南海の純朴な家族が、災害に遭遇したけれども、文字通り「運
命のきまぐれ」によって救われ、大団円を迎える、と単純に考えた方がよ
さそうである。
「マッコイの子孫」の主人公もはやり誠実素朴で穏やかな人物である。マ
ッコイ(McCoy)はピトケアン島(Pitcairn Island)の島主という身分の高
い人物だが、もじゃもじゃの灰色の頭髪にすり切れた麦わら帽子をかぶり、
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ボタンの取れた木綿のシャツを着て、裸足で海岸をうろつき回っている。
彼は、出火して15日間も海を漂っているピレネー号(the Pyrenees)を率
いて、投錨できる安全な島を探し南太平洋の島々を巡る。船の火は次第に
勢いを増し、時間的余裕のないぎりぎりのところでファカラバ島(Fakarava
Island)の浜辺に乗り上げ、乗組員の危急を救う。
『南海物語』では、白人の優越性、力強さ、開拓精神などが随所に折り込
まれ、白人の存在を強調している。しかし「マッコイの子孫」では、そん
な白人がすっかり弱り果て途方にくれる状態を描いている。そしてそれを
救うのが南海の一人の、たった一人の島民である。火災に見舞われて危険
な状況にある船をうまく指図して、全乗組員を救うのは決して容易な業で
はない。それを成就するだけの才覚が必須条件である。ロンドンはバック
に、極北の厳格な環境を乗り切るだけの十分な条件を与えた。同様にマッ
コイにも困難な任務を果す条件を与えている。
まず、そのあたりの海域に精通していることである。火災の船を一刻も
早く安全な場所へ導くためには絶対的条件である。
彼は海図など眼中になかった。これらの島々、岩礁、浅瀬、礁湖、入口、
そこへ行くまでの距離などは彼の記憶の海図にすっかり刻み込まれて
いた。彼は都会に住む人間が建物や街路や路地などをよく知っている
ように、このあたりの島については隅々まで熟知していた。(p. 291)
第 2 に冷静さである。ピレネー号の船長、航海士、その他の乗組員が疲れ
切り不安な気持ちを募らせ、時折、怒声や罵声を吐いて苛立っている時で
も、マッコイは常に素朴な慈悲深い微笑を浮かべ、鳩の鳴くようなやさし
い声で応待する。決して不快感を表わしたり慌てたりしない。第 3 に人の
心を鎮める力である。それは、マッコイの沈着冷静な物腰から発せられる
力である。マッコイの声、一つひとつの言葉が乗組員の体内に魔術のよう
に流れ込み、彼等を平穏な魂の静けさと休息の中に引き入れてゆく。その
結果、彼等の怒り、苛立ちは鎮まり、マッコイは彼等を自分の考えに従わ
せることができる。第 4 に誠実さである。ピレネー号の案内役を承諾した
マッコイは、島をしばらく離れるため、島主として島民の許可を得ること、
留守の間の任務の引き継ぎなどが必要なので、一旦島へ帰らなければなら
ない。そう言ってもう戻ってこないのではないか、と船長や航海士はいぶ
― ―
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『南海物語』論
かるが、マッコイは、約束通り、翌朝早々 2 隻のカヌーに食料用の干しバナ
ナの包みを一杯積み込んで戻ってくる。また、これも約束通り、マッコイ
は最後の最後まで船長と共に船に残り、全乗組員の安全のために挺身する。
以上の条件を備えたマッコイは、誠心誠意ピレネー号のために尽くすが、
風向きや潮流のせいで、目指す島を見失ったり、うまく到着できなかった
りする。正常な運航が不可能になった船を航行させるのは、特にこの危険
な海域ではきわめて困難である。そういう理由をからめて、安全な島への
到着が遅れるという展開は、作者が一種の冒険性をこのストーリーに持た
せているからである。また、マッコイの曾祖父が、昔、ピトケアン島で流
血と淫行と虐殺が横行した頃の悪党の一人だった、というのも興味深い人
物設定になっている。
★ ★ ★
『南海物語』では、ハリケーンや鮫などの自然的要素も重要であるが、そ
れ以上に登場人物に大きな特色を持たせている。マウキ、オートー、マッ
コイなどに共通するのは沈着冷静さである。さらにマプヒには素朴さ、オ
ートー、マッコイには素朴誠実さが感じられる。一方、白人については、
スターハーストのように自らの使命に忠実で真摯な宣教師もいるが、マッ
クアリスター、バンスターなどはとうてい正常な人間とは言えない。サク
ストーフにしても射撃以外は能なし、という甚だ偏った人物である。
「恐ろ
しいソロモン諸島」に登場するバーティー・アークライト(Bertie Arkwright)
などは、恰好をつけるだけの臆病者として皮肉的に描かれている。
ロンドンは『南海物語』を通して、白人がその権力や優越性をやみくも
に振り回すのはマイナスであり、愚かな行為である、南海の島民が持つ上
記の人間的徳性を兼ね備えるべきだと示唆している。
注
テキストには、Jack London, South Sea Tales. New York: The Macmillan
Company, 1967を使用。引用は同テキストからの拙訳。
¸
Day, A. Grove, Introduction of South Sea Tales. Honolulu: Mutual Publishing,
1986, p. 24.
¹
Hemingway, Ernest, The Old Man and the Sea. New York: Simon & Schuster
― ―
12
関東学院大学文学部 紀要 第107号(2006)
Inc., 1980, p. 121.
º
Kazin, Alfred, On Native Grounds. New York: Harcourt Brace Jovanovich, Inc.,
1970, p. 110.
»
London, Joan, Jack London and His Times. Seattle: University of Washington
Press, 1968, p. 284.
¼
½
On Native Grounds. p. 110.
¾
中田幸子『ジャック・ロンドンとその周辺』北星堂、1981、p. 325.
Day, A. Grove, p. 25.
― ―
13