close

Enter

Log in using OpenID

ヘリテージ財団と米外交安保政策 - 久保文明研究室

embedDownload
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
ヘリテージ財団と米外交安保政策
―その役割と影響力―
(2003 年度『現代アメリカ政治と公共利益団体』ゼミ・リサーチペーパー)
法学政治学研究科修士一年 三石浩貴
2004 年 2 月 13 日提出
目 次
序 章…………………………………………………………………………………………..1
第一章 ヘリテージ財団の台頭……………………………………………………………....2
第一節 ヘリテージ財団台頭の歴史的背景………………………………………..……...2
第一項 従来のシンクタンク……………………………………… ……... ….………...2
第二項 ヘリテージ財団の設立……………………………… … …. .… .… .…………3
第二節 ヘリテージ財団台頭の理由……………………………….….….…..……………4
第一項 財源確保と保守系ネットワークの構築……………………………………….4
第二項 「市場メタファー」の導入…………………….….….….…………………….5
第三項 メディアの利用…………………………………………………………………6
小 活……………………………………………………………….....……………………...7
第二章 レーガン政権の外交安保政策とヘリテージ財団…………………………………..8
第一節 緊密な関係の構築………………………………………………….….….….…….8
第一項 外交安保政策顧問団の形成及び高官への起用……….…….…….…….……...8
第二項 「リーダーシップのための付託」……………………………………………..9
第二節 外交安保政策形成における役割及び影響力……………………………………10
第一項 戦略防衛構想(SDI)推進…………………………………………………….10
第二項 対ソ強硬政策…………………………….….…….…….…….….……..………11
第三項 反共ゲリラ支援…………………………….….….….….……………………...12
第四項 国連政策………………………………………….….….….….………………...14
小 活…………………………………………....…..…..….….……………………………..15
1
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
第三章 ブッシュ(シニア)政権以降の外交安保政策とヘリテージ財団…….………….15
第一節 ブッシュ(シニア)政権期….….….…………….…….......….…..….….….….…15
第一項 保守派の後退…………………….….….….……………….….…..….…………15
第二項 関係悪化………………………………….….….….……………………………16
第二節 クリントン政権期…………………………………………………………………16
第一項 議会共和党との緊密な関係…………………………………………………….16
第二項 国連の活動及び人道的介入への否定的姿勢…………………………………..17
第三項 ミサイル防衛構想の推進.….…..…..……...…..…..…..…..…..…..…..…...…….18
第四項 対中強硬政策…………….…….…….…….…….………………………………20
第五項 (補足)ブッシュ現政権……………………….….….….….………………….21
小 活…………………………………………………………………………………………22
終 章………………………………………………………………….………………………...22
2
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
序 章
米国においては、行政府は当然のこと、議会、メディア、世論、そして各種公共
利益団体も外交安保政策形成過程で一定の役割を果たしうるアクターとみなされて
いる。無論、外交安保政策で最終的な政策決定を行うのは行政府であり、外交交渉
の当事者となるのも行政府である。しかし、議会(上院)には憲法によって条約の
批准及び大使等外交使節任命の承認の可否を判断する権限が付与されており、古く
はウィルソン政権期にヴェルサイユ条約、近年ではクリントン政権期に包括的核実
験禁止条約(CTBT)の批准を否決するなどの形で外交安保政策に影響を与えてき
た。また、メディアは世論を形成することにより、間接的に外交安保政策に影響を
及ぼしているとも言える。特に、戦争報道の在り方が国民のみならず戦地の兵士の
士気を高揚ないし沈滞させ、
時には戦争の方向性さえ左右し得るものであることは、
ベトナム戦争で実証済みであろう。各種公共利益団体についても、エスニック・ロ
ビーなどは政府の政策や議員の言動を監視し、それらが自民族集団の「母国」の利
益に反するものである場合にはこれを厳しく糾弾、時にはそうした議員を落選に追
い込むため対立候補を支援する選挙活動まで展開することさえある。1また、公共政
策の調査分析及び提言に携わるシンクタンクも公共利益団体の一形態であるが、そ
れではシンクタンクはどのような形で外交安保政策に関与してきたのであろうか。
さらに言えば、
「シンクタンクの影響力」とは一体何を指すのか。
「影響力」という言葉は我々が頻繁に用いるものであるが、影響力の計測には困
難が付きまとうことを認識しておく必要があろう。しかも、シンクタンクの政策形
成における影響力を入念に考察している研究者はごく少数である。2ただ少なくとも、
ある特定の政策領域において何らかの影響力を行使しようとしているアクターの
「目的」
、アクターが用いる「手段」を明確に捉えることができれば、アクターと「結
果」との間にある因果関係を把握する上で、大きな一助にはなり得るであろう。シ
ンクタンクの場合、影響力行使の目的は政策実現であり、その手段は主に人材供給
及び政策提言の二点ということになる。3大雑把ではあるが、ブルッキングス研究所
は民主党政権に、ヘリテージ財団やアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所
(AEI)は共和党政権に人材を供給し、それぞれ政策提言を行ってきた。特に近年
においては、かつて保守系にカテゴライズされていた戦略国際問題研究所(CSIS)
の超党派傾向が強まり、民主・共和両政権に対して安定的に人材供給及び政策提言
を行っている。
本稿は以上に述べた認識に基づいており、その大きな問いは「シンクタンクは外
交安保政策形成過程でどの程度の役割及び影響力を有しているのか」というもので
1
George Lardner Jr., “Free-Lance Campaign Funding By PACs, Individuals Rising,” Washington Post, October 30, 1984,
A1; “Study Finds Pro-Israeli PAC's Active in '84 Races,” New York Times, August 16, 1984, B10.
2
Donald E. Abelson, “Think Tanks and U.S. Foreign Policy: An Historical View,” U.S. Foreign Policy Agenda,
November 2002: http://usinfo.state.gov/journals/itps/1102/ijpe/pj73abelson.htm
3
久保文明「
(第八章)利益団体とその活動」阿部齊・久保文明(編)
『国際社会研究Ⅰ 現代アメリカの政治』
(放送大学大学院文化科学研究所, 2002 年), p.143.
3
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
ある。しかし、シンクタンクといえども米国においてはリベラル系から保守系、学
術性の高い団体からイデオロギー性の濃厚な団体まで多岐に渡り乱立しているのが
現状であり4、シンクタンクの影響力や果たしうる役割について一般化して論ずるこ
とは事実上不可能である。
そこで本稿は、シンクタンクの中でもニューライト系のアドヴォカシー・タンク
として 1970 年代に登場し、
その後レーガン大統領並びに議会共和党保守派と密接な
関係を構築、多くの政策提言を外交安保政策に採用ないし反映させることに成功し
たヘリテージ財団を対象とし、同財団がいかなる条件下で政策提言を実際の政策に
反映させることを可能としてきたのか、またその影響力とはどの程度のものである
のか検討するものである。具体的には、同財団がレーガン政権を起点とする歴代政
権との関わりにおいて、いかなるアプローチを通じて「影響力」を行使してきたの
か、といった点について明らかにしていきたい。
ヘリテージ財団の特異性を理解する上でも、まずはいかなる歴史的背景の下で同
財団が登場し、成功を収めるに至ったか考察する必要があろうと思われる。まず第
一章では、同財団が成功を収めるに至った経緯を振り返るとともに、その成功の要
因となった活動内容がどのようなものであったか確認する。
なお本稿は、ヘリテージ財団の活動内容及びイデオロギー的立場の是非を問うこ
とや、各政権が実施した個別の政策の問題点等につき評価することを目的とするも
のではないという点について、予めお断わりしておきたい。
第一章 ヘリテージ財団の台頭
第一節 ヘリテージ財団台頭の歴史的背景
第一項 従来のシンクタンク
後に「シンクタンク」と呼ばれることになる公共政策研究機関の第一世代は、1910
年代の「学問の専門化」という時代の潮流に乗り、研究志向の強い「学生不在の大
学」として登場した。カーネギー国際平和財団(CEIP)
、外交評議会(CFR)
、ブル
5
ッキングス研究所やフーバー戦争・革命・平和研究所がこの世代に属する。 これら
の研究機関は、いずれも官僚制そのものや連邦政府の政策形成能力の向上を目指し
て設立されたものであったが、前三者は無党派であることを組織の基本理念とし、
フーバー研究所も後に共和党政権に助言を行うようになるものの、設立当初から政
4
実際、1,200 ものシンクタンクが影響力の拡大や人材と財源の確保を巡って熾烈な競争を展開している点は、
米国以外では見られない現象である。Donald E. Abelson, American Think-Tanks and their Role in U.S. Foreign Policy,
(London and New York: Macmillan and St. Martin's Press, 1996), p.2.
5
ジェームズ・A・スミス
『アメリカのシンクタンク 大統領と政策エリートの世界』
(ダイヤモンド社, 1994 年),
p.8; 中山俊宏「保守系シンクタンクの台頭の背景とその役割」, 『米国内政:共和党-現状と動向-』研究会報
告書, (日本国際問題研究所, 2001 年), http://www.jiia.or.jp/pdf/america_centre/h12_nakayama.pdf, pp.120-121.
4
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
策形成への参画を目標としていた訳ではなかった。6
そして、第二次世界大戦終戦後の 20 年間あまりの間、政府は冷戦下の国防計画策
定のために技術的専門知識を動員しており、50 年代からそうした政府との契約を行
う機関を「シンクタンク」と呼ぶようになる。これが公共政策研究機関の第二世代
にあたるのだが、1947 年新設の空軍との契約から発生したランド研究所は、そうし
た政府からの委託研究により運営される研究所の先駆である。7民主党のケネディ政
権(1961 年発足)は、第一世代のブルッキングス、第二世代のランド両研究所の助
力を必要とした。
前者は対外援助政策の研究や政府高官向け研修プログラムを実施、
後者もその政策分析の方法論がケネディに評価されるなど、いずれも同政権の政策
形成に貢献しているものの、これらシンクタンクの側から政府に対して自らの主張
やアイディアを「売り込む」ということはなかったのである。8この点こそ、ヘリテ
ージ財団に代表される第三世代の「アドヴォカシー・タンク」との決定的な相違点
として挙げられよう。
第二項 ヘリテージ財団の設立
1973 年に共和党の保守派議員スタッフのエドウィン・フュルナーとポール・ウェ
イリッチが設立したヘリテージ財団は、研究機関というより政治論争を先鋭化する
ために設立された保守系アドヴォカシー・タンクの典型である。9 1977 年以降理事
長の座にあるフュルナー自身、団体の理念は「自由企業、小さい政府、個人の自由、
伝統的な米国的価値観、強固な国防といった原則に基づく、保守的な公共政策の立
案と促進にある」10と述べている点からも明白であろう。
ヘリテージ財団設立のアイディアは、ニューライトの間に渦巻く、ケインズ的財
政政策を導入し「大きな政府」志向を強めるニクソン大統領への不信感、保守系シ
ンクタンクでありながら学術志向が強く政策志向の希薄である
(と彼らがみなした)
アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)への不満、そしてブルッキ
ングス研究所が立案する政策に対する「現実的かつ原則的な選択肢」を提示し得る
研究機関の必要性の痛感から生まれたものであった。そうしたニューライトの代表
人物がニクソン大統領のスピーチライターを務めるパット・ブキャナンであった。
彼は、共和党政権を支える保守人材バンク、そして共和党の政治信念の貯蔵庫とし
て機能する研究機関設立の必要性を説く提言書を 1972 年大統領選で再選されて間
もないニクソンに提出したのである。その頃、フュルナーとウェイリッチもブキャ
6
Abelson, American Think-Tanks, pp.37-38; スミス, 前掲書, p.90.
スミス, 前掲書, p.8, 171.; 中山,「保守系シンクタンクの台頭の背景とその役割」, pp.121-122.
8
スミス, 前掲書, pp.194-199.
9
同上, p.287.
10
Edwin Feulner, “The Heritage Foundation” in James G. McGann and R. Kent Weaver, (eds.), Think Tanks & Civil
Societies: Catalysts for Ideas and Action, (New Jersey: Transaction Publishers, 2000), pp.68-69. なお本稿は、このフュ
ルナー論文とヘリテージ財団のリー・エドワーズ研究員による Lee Edwards, The Power of Ideas: The Heritage
Foundation at 25 Years, (Ottawa, Illinois: Jameson Books, 1997)に負うところが大きく、事実上の回想録に伴うバイ
アスから免れない側面がある点についてご了承頂きたい。
7
5
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
ナンと同様の保守系シンクタンク設立の構想を練っていたが、彼らは、AEI は学術
志向に走るあまり議会に影響力を及ぼすことにも消極的であり、彼らの構想を実現
するシンクタンクではないと判断するに至る。かねてより共和党保守派議員をサポ
ートできるような時宜を得た研究の不在に気付いていたフュルナーとウェイリッチ
は、遂にヘリテージ財団の設立を思い付き、資金集めを開始するのであった(財源
については次節で触れることとする)
。11
なお、AEI とヘリテージ財団についてジャーナリストのシドニー・ブルメンソー
ルは「レーガン政権で最も影響力を有していたシンクタンクは AEI とヘリテージ財
団」と述べているが12、両者が組織として掲げていた目的上の相違点は、AEI の目
的がリベラル・エスタブリッシュメントに学問的に対抗しうる研究機関になること
にあったのに対し13、ヘリテージ財団は政策形成サークルとメディアへの「売り込
み」を通じてカウンター・エスタブリッシュメント運動の拠点になることを目指し
た点にあった。14そうした両者の相違点は、当然の事ながら影響力行使の手段、即
ち活動にも反映されることとなる。次節では、ヘリテージ財団の台頭の要因となっ
た、その活動内容に焦点を当てる。
第二節 ヘリテージ財団台頭の理由
第一項 財源確保と保守系ネットワークの構築
ヘリテージ財団が他シンクタンクに対する優位を確立することができた要素の一
つとして、保守系フィランソロピーによる戦略的財政支援を指摘することができよ
う。この点についてカーター政権の国務省高官だったレスリー・ゲルブとアンソニ
ー・レークは、国際経済研究所の I.・M・デスラー(当時)との共著で、
「共和党右
派を喜ばせることができたのは、AEI でも CSIS でもなかった。右翼の資金はスケ
イフ財団からヘリテージ財団やフーバー研究所へと投入された」と記している。15同
じ保守派フィランソロピーの中でも、スケイフ財団のヘリテージ財団への貢献度は
突出していた。というのも、スケイフが出資したヘリテージ財団設立資金 90 万ドル
という額は、同様に設立資金を提供したクアーズ社(ビール会社)の額の三倍以上
11
スミス, 前掲書, pp.284-288; Feulner, “The Heritage Foundation,” p.68.
Sidney Blumenthal, Rise of the Counter Establishment: From Conservative Ideology to Political Power, (New York:
Harper & Row, 1988), p.37.
13
1964 年大統領選で共和党ゴールドウォーター陣営のスピーチライターを務めた AEI のウィリアム・バルー
ディ一世は、
「リベラル・エスタブリッシュメント」の一翼と目されたブルッキングス研究所に学問的にも対抗
しうる競争力のある保守系シンクタンクの構築を目指し、結果的に成功した。ただし、1964 年選挙での AEI
職員の選挙活動への関与が非課税団体の資格に反したとの嫌疑を国税当局から掛けられて以来、バルーディは
政治活動への関与に注意深くなり、AEI は学究的な方向に進んだ。スミス, 前掲書, p.258.
14
中山俊宏「
(第五章)アメリカにおける保守主義台頭の力学」久保文明(編)
『G・W・ブッシュ政権とアメ
リカの保守勢力-共和党の分析-』
(日本国際問題研究所, 2003 年), p.149; Blumenthal, Rise of the Counter
Establishment, p.45.
15
I. M. Destler, Leslie H. Gelb, and Anthony Lake, Our Own Worst Enemy: The Unmaking of American Foreign Policy,
(New York: Simon & Schuster, 1984), p.114.
12
6
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
に上っていたからである。16しかし、ヘリテージ財団の財源を特徴付けるのは、保
守系フィランソロピーからの資金提供もさることながら、個人献金の割合の高さで
あろう。同財団がダイレクト・メールによる資金集めを行った結果、設立当初の年
間予算の約 4 割を占めたのが、25~50 ドル程度が大半を占める個人献金だったので
ある。17こうした点は、まさにヘリテージ財団がニューライトの草の根運動体であ
ることを示すものと言えよう。
資金を得たヘリテージ財団は、次々と保守系ネットワーク構築のためのプログラ
ムを生み出していく。その一つが、
「リソース・バンク」の設置である。保守主義運
動を支援するために保守系団体のネットワークを構築するというそのアイディアは
元々スケイフ財団から出されたものだったが、フュルナーが理事長に就任した 1977
年に現実のものとなる。18このリソース・バンクに期待されるのは、
「保守派の情報
センター」
、
「保守派連合の建設者」
、そして「戦略フォーラム」の三つの機能を果た
19
すことであった。 もう一点、保守系ネットワーキングのためのプログラムとして
挙げられるのが、1982 年の「プレジデンツ・クラブ(President’s Club)
」の創設であ
る。献金の呼び掛けには、エドウィン・ミース大統領顧問がこれを支持する書簡を
寄せるなど、ホワイトハウスによる全面的な後援も存在したのである。またミース
の書簡の内容は、1,000 ドルの献金を支払うことによって「ホワイトハウス高官や議
会幹部との一連の会議に参加できる」という、文字通りの宣伝であった。20また、
1992 年に「ナショナル・リビュー」誌と共同で発足させた保守系のシンクタンク研
究員やコラムニストらのフォーラムである「タウンホール」も、保守系ネットワー
ク構築の一翼を担っている。21
このように、保守系フィランソロピーによる財政的支援によって、ヘリテージ財
団は研究プログラムを拡充することが可能になっていったのである。
第二項 「市場メタファー」の導入
フュルナーは自らを「アイディア・ブローカー」と位置付け、その運営方針に市
場メタファーを導入した。22つまりヘリテージ財団は、「アイディアの市場」に勝
16
Karen Rothmyer, “Citizen Scaife,” Columbia Journalist Review, (July-August 1981),
http://archives.cjr.org/year/81/4/scaife.asp
17
スミス, 前掲書, p.289.
18
Feulner, “The Heritage Foundation,” p.79.
19
Edwards, The Power of Ideas, p.90. フュルナーは、
「リソース・バンク」の設置の目的は、ヘリテージを「保守
派の情報センター」にし、各大学内の保守的な専門家をワシントンの政策コミュニティーに結び付けることに
あると語っている。Ibid., p.25. なお 2003 年 4 月にルイジアナ州ニューオーリンズ市で開催された「第 26 回リ
ソース・バンク年次総会」には、保守中の保守として知られるアシュクロフト司法長官及び元ヘリテージ財団
研究員のチャオ労働長官の 2 閣僚が出席した。http://www.heritage.org/about/community/resourcebank.cfm
20
Howie Kurtz, “Meese Helps Group to Raise Funds,” Washington Post, January 20, 1982, A2; Blumenthal, Rise of the
Counter Establishment, p.45. 2003 年 11 月のプレジデンツ・クラブ会合では、ブッシュ大統領が来賓として演説
している。http://www.heritage.org/Support/presidentsclub_1103.cfm
21
Feulner, “The Heritage Foundation,” p.80.
22
中山,「保守系シンクタンクの台頭の背景とその役割」, p.123.
7
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
ち抜くため、それまで他のシンクタンクが用いてこなかったような政策提言の方法
を「開発」したのであった。具体的には、同財団は矢継ぎ早に発生する政策課題に
対処する上で政策担当者が現場で使用するのに適したペーパーを続々と生産してい
ったのである。23特に、財団のニューズレター「バックグラウンダー(Backgrounder)」
は 5000~20000 語程度の政策ペーパーであり24、「エグゼクティブ・メモランダム」
に至っては一枚紙の両面に政策論議の概要をまとめただけのものである。25これら
ヘリテージ財団の政策ペーパーは、外交評議会(CFR)の「フォーリン・アフェア
ーズ」など、従来のシンクタンクがその成果物と位置付けてきた書物や長編の報告
書とは異質なものであったと言えよう。26
この点については、シンクタンク研究家のジェームズ・マッギャンも「ヘリテー
ジの研究活動の成功のカギは、その簡潔さと適時性にある」27と評価している。こ
うして、ヘリテージ財団が作成する迅速に作成される簡潔なペーパーは、多忙な政
策担当者に歓迎されるところとなったのである。
第三項 メディアの利用
広報費に全予算の約 35~40%割を当てるヘリテージ財団は28、自団体のアイディ
アを宣伝する上でのメディアの有用性をいち早く認識していた。
ヘリテージ財団が1980年11 月にレーガン次期政権に充て提出した政策提言書
「リ
ーダーシップのための付託」は、後に同政権が「バイブル」と呼ぶほどの政策手引
書となるのだが(この点については後に詳述)
、同財団は提言書が公表される数週間
前の時点で、メディアにその内容の一部をリークしていた。当時の財団広報責任者
によれば、リークの目的は提言書に関する議論を巻き起こすことにあった。この戦
略は成功し、提言書に関する最初の記事が配信されると、同財団にはメディアから
の問い合わせが殺到、これまでヘリテージ財団の名前も知らなかった記者までもが
同提言書を読み漁るようになったという。つまり、ヘリテージ財団はメディア利用
を通じて自らのアイディアに世間の注目を集めさせ、政治的影響力の中枢に接近し
ていると思わせることで、その存在価値を高めることに成功したのである。29
次にヘリテージ財団は放送メディアの利用に着手する。
同財団は 1981 年に調査結
30
果を放送メディアに売り出し始め 、翌 1982 年には、米公共放送(PBS)の 90 分の
番組枠を買い取り、ポーランドの反共産主義政府運動「連帯」への支持を表明する
23
同上
Feulner, “The Heritage Foundation,” p.79.
25
スミス, 前掲書, p.290.
26
ただし、今日ではほぼ全ての公共政策研究機関がコンパクトなニューズレターを定期的に発行している。
27
James G. McGann, The Competition for Dollars, Scholars and Influence in the Public Policy Research Industry,
(Washington, DC: University Press of America, 1995).
28
スミス, 前掲書, p.290.
29
同上, pp.283-284.
30
Edwards, The Power of Ideas, p.221.
24
8
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
旨のテレビ番組を放映したのである。31また、ヘリテージ財団はトーク・ラジオが
まだメディアの傍流とみなされていた時期からその発展可能性を見出し32、ついに
1995 年には自前のラジオ局をヘリテージ・ビル内に設置するに至った。同局のトー
ク・ラジオ番組には、イラン・コントラ事件の中心人物として知られるオリヴァ―・
ノース元海兵隊中佐など多数の保守派論客がホストとして出演している。33さらに
ヘリテージ財団は、早くからウェブサイトの活用にも着目し、1992 年発足の保守系
言論人のフォーラムである「タウンホール」を、1995 年にネット上でも立ち上げて
いる。34
フュルナーは、これらのプログラムは単なるマーケティングの道具ではないと言
明している。これらヘリテージ財団による一連のメディア事業の使命は、あくまで
「保守エスタブリッシュメント」を確立することにあったのである35
小 活
シンクタンク急増期に出現したヘリテージ財団は、シンクタンクの世界にメタフ
ァーとしての市場、つまり競争原理を導入したことにより成功を収めた。この成功
により、今や同財団は他のアドヴォカシー・タンクのモデルともなっている。36他
方、運営上の必要性から形式的には非党派性を掲げつつ、実際には共和党(特に保
守派)のためのロビイングに近い活動を展開している点や、イデオロギーに基づく
政策提言が丹念な研究活動に先んじている点など、ヘリテージ財団の在り方に対し
てはメディアをはじめ各方面から厳しい批判が寄せられているのも事実である。し
かし、他のシンクタンクには見られなかった先見の明を有したことで、同財団は自
らが目標とした「政策形成に影響力を行使できるシンクタンク」へと飛躍を遂げた
点は認めざるを得ないだろう。
なお、ヘリテージ財団の台頭のもう一つの大きな要因として、1980 年代のレーガ
ン政権との密接な関係を挙げることができるが、この点については次章で掘り下げ
ることとする。具体的には、保守系シンクタンクとして成功を収めたヘリテージ財
団が、レーガン政権の外交安保政策形成にどのように関与し、どの程度その政策提
言が実際の政策に反映されてきたのか検討することにより、その役割及び影響力の
範囲の計測を試みる。
31
Abelson, American Think-Tanks, p.83.
Feulner, “The Heritage Foundation,” p.81.
33
Edwards, The Power of Ideas, p.221.
34
Feulner, “The Heritage Foundation,” p.80.
35
Edwards, The Power of Ideas, p.222.
36
Abelson, American Think-Tanks, pp.51-52, p.59; 中山,「保守系シンクタンクの台頭の背景とその役割」, p.123.
シンクタンク研究家のジェームズ・スミスはヘリテージ財団成功の理由の一つとして、ライバル団体である
AEI の運営方針のつまずき及びそれに伴う一時的な財政難を指摘している。スミス, 前掲書, p.293.
32
9
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
第二章 レーガン政権の外交安保政策とヘリテージ財団
第一節 緊密な関係の構築
第一項 外交安保政策顧問団の形成及び高官への起用
ヘリテージ財団が最も政権に接近でき、政策提言を通じた影響力を最大限に行使
できるようになったのは、レーガン政権期のことである。
カリフォルニア州知事出身で中央政界での経験が皆無であるロナルド・レーガン
は、1980 年大統領選出馬に際し、連邦レベルの公共政策に関しては専門家の助言を
必要としていた。
特に、
外交安保政策に関するレーガンの経験が乏しかったことは、
選挙参謀で後に内政担当のアドバイザーとなるマーチン・アンダーソンも認めると
ころであった。37
共和党レーガン陣営では、レーガン政権初代の国家安全保障問題担当大統領補佐
官となるフーバー研究所のリチャード・アレン研究員が、外交安保政策アドバイザ
ーの作業部会の監督を任されていた。アレンによれば、作業部会を構成する 80 名の
外交政策アドバイザーと 40 名の国防政策アドバイザーは、
学術界の専門家から元外
交官まで多様であったという。また、同作業部会にはシンクタンクの研究員も多数
参画しており、結果的に、この作業部会から政権入りした者の実に半数がシンクタ
ンク出身者であった。38アレン曰く、作業部会で出された提言は大統領候補(レー
ガン)の発言となり、政権発足後にはそれらが現実の外交政策となっていったとい
う。39
ヘリテージ財団理事長のフュルナーも政権入りはしなかったものの、レーガン陣
営の対外援助政策担当アドバイザーを務めていた。40なお、フュルナーはアレンと
15 年来の友人関係にあり41、アレンが 1982 年 1 月に大統領補佐官を辞任した後には
ヘリテージ財団に迎え入れ42、同年中に財団内に新設したアジア研究センターの初
代所長の座も与えている。43
1981 年 1 月にレーガン政権が発足した後も、政策決定に参画するシンクタンク研
37
五十嵐武士『政策革新の政治学 レーガン政権下のアメリカ政治』
(東京大学出版会, 1992 年), p.186.
Abelson, American Think-Tanks, pp.13-15.
39
Donald E. Abelson, “Trends In Search of Policy Influence: The Strategies of American Think Tanks,” NIRA Review,
(Spring 1998): http://www.nira.go.jp/publ/review/98spring/abelson.html
40
Michael R. Gordon, “Right-of-Center Defense Groups -- The Pendulum Has Swung Their Way,” National Journal,
January 24, 1981.
41
フュルナーは 1965 年、アレンが運営する CSIS のプログラムのフェローシップを獲得。その後、フュルナ
ーはアレンを通じてフーバー研究所の研究員に採用されている。また、両者は保守系大学生のコミュニティー
である Intercollegiate Studies Institute のメンバーという共通点も有していた。Blumenthal, Rise of the Counter
Establishment, pp.46-47.
42
アレンは日本人ジャーナリストからの金品授受及び不正確な資産公開について司法省から捜査を受け、レ
ーガンが復職を認めなかったため、国家安全保障問題担当大統領補佐官を辞任した。“Richard Allen Joins
Heritage Foundation,” Washington Post, January 23, 1982, A6.
43
Edwards, The Power of Ideas, p.62.
38
10
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
究員の数は増大した。1981~88 年の間、およそ 200 名のシンクタンク研究員が常勤
の政権アドバイザーを務めたが、その中では、フーバー研究所(50 名)
、ヘリテー
ジ財団(36 名)
、AEI(34 名)
、目前の危機委員会(CPD)
(32 名)
、CSIS(18 名)
44
の保守系シンクタンク 5 団体が際立っていた。 政権移行チーム責任者のエドウィ
ン・ミースによれば、政権移行期において次期大統領のレーガンに対して最も積極
的に政策提言を行っていたのは、ヘリテージ財団だったという。実際、14 名の財団
スタッフが政権移行チームに参画している。45
また、カーター民主党政権の政治任用高官がレーガン共和党政権に引き続き登用
されることはなく、レーガン政権発足と同時に野に下ることとなったが、旧政権高
官の受け入れに関するこれら保守系シンクタンクの対応はまちまちであった。レー
ガン新政権に多数の研究者を政権入りさせたこれらの保守系シンクタンクの中でも、
露骨に保守色を打ち出すことの回避に努めた CSIS、AEI 及びフーバー研究所は、戦
力が政権入りして抜けてしまった穴を埋める意味からもカーター前政権の高官を受
け入れる姿勢をとったが、保守傾向を隠そうとしないヘリテージ財団や CPD は受け
入れなかったのである。46この点からも、同財団が保守運動の牽引車としての自負
を強く有していたことが窺える。
第二項 「リーダーシップのための付託」
共和党内でもゴールドウォーター以来の筋金入りの保守主義者であるレーガンが
大統領に就任したことにより、フュルナーらニューライトの悲願は成就する。
ヘリテージ財団がレーガンの大統領選当選直後に発表した政策提言書「リーダー
シップのための付託:保守政権における政策運営(Mandate for Leadership: Policy
Management in a Conservative Administration)
」は、レーガンが最初の閣議で閣僚にそ
のコピーを配布し、読むように命じたほどの「バイブル」となり、同提言書の作成
に従事した者のうちウィリアム・ベネット(教育長官に就任)を始めとする 30 名以
上が政権入りを果たしている。47 同提言書は減税などの内政・経済分野も扱ってい
たが、提言は、200 億ドルの国防費増額や新たな戦略爆撃機の開発といった国防分
野から、議会でのテロ・国内治安小委員会の設置や CIA による秘密工作の奨励とい
った対テロ・諜報分野にまで及んでいた。48
「リーダーシップのための付託」がレーガン政権に与えた影響は多大であった。
これについてはレーガン自身も 1981 年初頭に、
「我々が決して忘れ得ぬ特別かつ重
要な助力を与えてくれた団体はヘリテージ財団だ」と謝意を表しており、フュルナ
ーによれば、
「リーダーシップのための付託」で示した提言の「61%が政策として採
44
Blumenthal, Rise of the Counter Establishment, pp.35-38. ただし今日の CSIS は、所長や副所長にクリントン政
権の高官を迎えるなど保守色がかなりの程度薄まり、無党派傾向が一層明確なものになっている。
45
Abelson, American Think-Tanks, p.14, p143 (55), p.144 (61).
46
Gordon, “Right-of-Center Defense Groups”
47
Edwards, The Power of Ideas, p.47; Blumenthal, Rise of the Counter Establishment, p.38.
48
Gordon, “Right-of-Center Defense Groups”
11
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
用された」という。49また、
「リーダーシップのための付託」がヘリテージ財団の影
響力増大の要因となったのは第一章で触れた通りであるが、これについては政権移
行チームの責任者であったミースも認るところである。50
それでは当時、
「共産主義は封じ込めるだけでは不十分であり、巻き返さねばなら
51
ない」 との戦略観を持っていたヘリテージ財団が、レーガン政権の外交安保政策
において担った役割及び行使することができた影響力とは、一体どのようなものだ
ったのであろうか。
第二節 外交安保政策形成における役割及び影響力
第一項 戦略防衛構想(SDI)推進
レーガン政権の外交安保政策に採用されたヘリテージ財団の政策提言の中で、最
も象徴的なものは「スターウォーズ計画」とも称された「戦略防衛構想(SDI)
」で
あろう。
1982 年 3 月、フュルナー理事長とレーガンの軍事政策アドバイザーを務めたダニ
エル・グラハム元国防情報局(DIA)局長は共同で、
「ハイ・フロンティア計画」と
呼ばれる宇宙戦略を発表、レーガン政権と議会に対して宇宙の軍事利用の必要性を
説いた。グラハムによれば、同計画はソ連から飛来する大陸間弾道弾を宇宙衛星か
ら迎撃するシステムを含む「自殺的で非道徳的な相互確証破壊(MAD)に代わる、
防衛可能な」戦略であった。52
一方、
レーガンも大統領就任前からミサイル防衛について強い関心を抱いていた。
まずレーガンは、1979 年 7 月にコロラド州コロラドスプリングスの北米航空宇宙防
衛司令部(NORAD)を訪問した際、米国にはソ連が大陸間弾道弾(ICBM)の SS18
が発射したのを検知しても、10~15 分以内に着弾することを警告する以外の術がな
いことを空軍の幹部から知らされ愕然とし、飛来する弾道ミサイルから米本土を防
衛するシステム構築の必要性を痛感したのである。また、側近のアンダーソンによ
れば、レーガンは MAD に道徳的な嫌悪感を抱いていたという。53大統領選が開始
されると、レーガンは共和党綱領(1980 年 7 月発表)にも「実効的な対弾道ミサイ
ル・システムの研究開発」の提唱を盛り込ませる。さらに、大統領就任直後にはハ
リソン・シュミット上院科学技術宇宙小委員長(元宇宙飛行士)と面会し、宇宙時
49
Dom Bonafede, “Issue-Oriented Heritage Foundation Hitches its Wagon to Reagan's Star,” National Journal, March 20,
1982; Edwards, The Power of Ideas, p.47.
50
Donald E. Abelson, Do Think Tanks Matter? Assessing the Impact of Public Policy Institutes, (Montreal:
McGill-Queen’s, 2002), p.135. ミースは第一期レーガン政権で大統領顧問、二期目に司法長官を歴任し、その後
はヘリテージ財団研究員及びフーバー研究所客員研究員を務めている。
http://www.heritage.org/About/Staff/EdwinMeese.cfm; http://www-hoover.stanford.edu/bios/meese.html
51
Edwards, The Power of Ideas, p.35.
52
Ibid., p.63; 五十嵐, 前掲書, p.202.
53
五十嵐, 前掲書, p.185.
12
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
代の防衛の実現可能性について意見聴取を行うとともに54、統合参謀本部にも戦略
防衛の可能性を検討するよう指示を与えたのである。翌 1982 年 1 月には、レーガン
は前年にアンダーソンが立ち上げた戦略ミサイル防衛を検討する非公式の会合に参
加、自らミサイル防衛の実現可能性やコストについて質問している。また同時期、
それまで SDI に懐疑的であったレーガンの科学担当顧問ジョージ・キーワースがヘ
リテージ財団を訪れ、財団研究員やグラハムと長時間にわたり意見交換するうちに
考えを改め SDI 支持に転向したことは、SDI にとり重要な出来事であった。55
政権内にはシュルツ国務長官などによる同計画への強い反対意見も存在したもの
の、結局のところレーガンは 1983 年 3 月 23 日に行われた国民向けテレビ演説で、
包括的な対弾道ミサイル・システムの開発と展開こそ国防の最優先事項であると宣
56
言するに至る。
そして翌1984年4月には、
国防総省内に
「戦略防衛構想機構
(SDIO)
」
が設置される。こうして「ハイ・フロンティア計画」は SDI と名を変え、技術的に
は実現に至らなかったものの、政策としては現実のものとなったのである。レーガ
ンが SDI 計画の公表に踏み切った背景には、
宇宙配備防衛兵器ロビーからの陳情や、
1982 年 12 月に下院が MX ミサイル予算を否決されたことにより行き詰まり状況を
打開する必要性に迫られたことも指摘されるが57、ヘリテージ財団が打ち出した「ハ
イ・フロンティア計画」が、レーガンが抱いてきた問題意識及び価値観にほぼ完全
に呼応するものであった事実に変わりはないであろう。58
なお、ヘリテージ財団が 1984 年 11 月にホワイトハウスへ提出した提言書「リー
ダーシップのための付託」の第二弾(Mandate for Leadership II)の中には、包括的
核実験禁止条約(CTBT)の批准反対や、SDI の障害となる弾道弾迎撃ミサイル
(ABM)制限条約の破棄といった主張も盛り込まれていた。59これら 1980 年代半ば
にヘリテージ財団によって示された主張は、1990 年代後半の議会共和党や今日のブ
ッシュ現政権によって受け継がれているのである。
第二項 対ソ強硬政策
対ソ政策に関するヘリテージ財団の主張も、レーガン政権の政策に部分的に反映
されている。
54
William J. Broad, “Reagan's 'Star Wars' Bid: Many Ideas Converging,” New York Times, March 4, 1985, A1.
Edwards, The Power of Ideas, pp.64-65. なお 1982 年 1 月の会合には、ヘリテージ財団設立資金の提供者であ
るクアーズも参加していた。
56
Ronald Reagan, Address to the Nation on Defense and National Security, March 23, 1983,
http://www.reagan.utexas.edu/resource/speeches/1983/32383d.htm; Edwards, The Power of Ideas, p.65.
57
五十嵐, 前掲書, p.203.
58
レーガンが SDI を政権内の反対派ひいては国民に説明し納得させるために用いたレトリックに注目したの
が以下。Frances FitzGerald, Way Out There In the Blue: Reagan, Star Wars and the End of the Cold War, (New York:
Simon & Schuster, 2001). またゴードン・ミッチェルは、ヘリテージ財団が SDI への世論や同盟国の支持を得る
ため、核凍結運動からその標語を盗用し、ミサイル防衛を「軍縮」と結び付けるレトリックを開発したと指摘
する。Gordon R. Mitchell, Strategic Deception: Rhetoric, Science, and Politics in Missile Defense Advocacy, (East
Lansing: Michigan State University Press, 2000), p.281.
59
Fred Hiatt and Spencer Rich, “U.S. Urged to Use 'Paramilitary',” Washington Post, Nov 20, 1984, A4.
55
13
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
1985 年 11 月にジュネーヴで行われた米ソ首脳会談で、レーガンはゴルバチョフ
書記長に対し、アフガンからのソ連軍撤退、テロリスト養成の中止、キューバ及び
ニカラグア支配の放棄などを要求すると同時に、米側が推進中の SDI については交
渉の余地なしと断言した。これらは全て、首脳会談の 2 週間前にホワイトハウスで
行われたレーガンと保守派指導者の会合の席上でフュルナー理事長がレーガンに手
渡したヘリテージ財団の提言書の内容に沿ったものであったのである。60また、同
提言書は、首脳会談直前に政権のみならず、議会やメディアにも配布されていた。61
ここで興味深いのは、ソ連側がヘリテージ財団の外交政策における影響力を警戒
していた点であろう。前述の米ソ首脳会談の後、帰国したゴルバチョフはソ連最高
会議での演説で、
「我々は、ヘリテージ財団に代表される米極右勢力が大統領に与え
た『信託』を見逃してはいない」と述べ、ヘリテージ財団を名指しで首脳会談を決
裂させようとした張本人だと非難したのである。またゴルバチョフは、同財団は「米
極右勢力の思想的拠点」であるとも断じている。62さらにフュルナーによれば、ゴ
ルバチョフの側近であるA・N・ヤコブレフは喧伝担当相に就任する直前、
「目的性
や洗練さの点でヘリテージ財団に匹敵するプロパガンダ組織は他にない」との認識
を示したが、フュルナーはこの発言をヘリテージ財団の影響力を評価した「称賛」
と受け取っている。63
しかし、1987 年 12 月の米ソ首脳会談で地上配備の中距離核を全廃する INF 条約
が署名され、レーガンの対ソ批判が軟化すると、フュルナーら保守派は一様にレー
ガンの変身ぶりを訝しがることになる。64当然のように、ヘリテージ財団のアレン
元国家安全保障問題担当大統領補佐官や AEI のジーン・カークパトリック前国連大
使ら保守系シンクタンクの専門家は、ゴルバチョフの登場はソ連の政治体制の抜本
的な変革を意味するものではないと主張してレーガン政権に慎重な対応をとるよう
求めていた。65しかし、その後ゴルバチョフがソ連軍のアフガンからの撤退や通常
兵力 50 万人削減などの措置を講ずると、
もはやゴルバチョフが冷戦を終結に導こう
としていることは誰の目にも明確なものとなり、米政府もそうしたソ連側の動きに
呼応したのであった。結局のところ、戦略環境の変化には、レーガン政権の原動力
となり支柱となってきた保守勢力も抗うことはできなかったのである。
第三項 反共ゲリラ支援
ヘリテージ財団がレーガン政権期を通じて力を入れていた外交政策の一つが、共
産主義諸国内の反体制勢力や反共ゲリラの支援であった。
60
Edwards, The Power of Ideas, p.76.
Blumenthal, Rise of the Counter Establishment, p.50.
62
Gary Lee, “Gorbachev's View of U.S. Startling to Observers; Images of Swastikas, Unemployment,” Washington Post,
December 1, 1985, A1.
63
Feulner, “The Heritage Foundation,” p.78.
64
Joel Brinkley, “Is Reagan Now Less Hard on Communism?” New York Times, December 20, 1987, E5.
65
Ibid.; David B. Ottaway, “Geneva Credited For New 'Mood': But Experts Say Progress on Arms Control Is Needed to
Maintain Atmosphere,” Washington Post, November 23, 1985, A13.
61
14
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
ヘリテージ財団は 1984 年 11 月に提示した「リーダーシップのための付託・その
2(Mandate for Leadership II)
」の中で、米政府のアフガニスタンやニカラグアの反
政府勢力への支援は「曖昧で不明確である」と批判、上記二カ国に加えてベトナム、
カンボジア、リビア、ラオス、アンゴラ、ニカラグア、イランといった「米国益を
脅かす」9 カ国内の反政府勢力ないし反共ゲリラに対する経済的及び軍事的支援を
強化ないし開始すべきであると提言した。66同提言書は、1981 年にウィリアム・ケ
ーシー中央情報局(CIA)長官が提案した活動を実行に移すよう求めるものであり67、
当日ヘリテージ財団研究員のアレン元大統領補佐官は、同提言書がレーガン政権の
思考に「重大な影響力を及ぼすだろう」との見通しを示している。68
1980 年代半ば、ケーシーCIA 長官、カークパトリック国連大使、キャスパー・ワ
インバーガー国防長官、国家安全保障会議(NSC)幹部やジェシー・ヘルムズ上院
議員らを中心に南ア白人政権及びアンゴラの反政府勢力であるアンゴラ全面独立民
族同盟(UNITA)を反共の砦として支援する活動が活発化した際、ヘリテージ財団
はこうした動きを積極的に支持した。69 事実、同財団は財団発行の安保問題月刊誌
「ナショナル・セキュリティ・レコード」1981 年 10 月号の中で、UNITA に兵器供
給を実施するようレーガン政権に訴えており、それから間もなく UNITA は「レー
ガン・ドクトリン」に沿って米国からの支援を受けるようになるのである。UNITA
のジョナス・サビンビ議長は、ヘリテージ財団からの支援は自身の生存の上で「決
定的」なものであると謝意を表したという。70さらにサビンビが 1986 年 1 月に訪米
した際には、ヘリテージ財団は同議長のために講演会及び晩餐会を開催し、ジョー
ジ・シュルツ国務長官、ケーシーCIA 長官、ポインデクスター国家安全保障問題担
当大統領補佐官らをゲストに迎えている。これについてヘリテージの国際問題担当
顧問ジェフリー・ゲイナーは、
「サビンビは必要とする観客を得た」と満足気に語っ
71
ている。
また、UNITA と同様の理由でケーシーCIA 長官やヘルムズ上院議員らが支援した
モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)にも、ヘリテージ財団は目に見える支援を
行っている。同財団は敷地内に RENAMO の広報官用の事務所を提供した上、フュ
ルナーが 1987 年 3 月に政治顧問としてホワイトハウスに招聘された際には、
ホワイ
72
トハウスから RENAMO の地位向上に貢献したのである。
ニカラグアの反政府勢力「コントラ」に対しては、ヘリテージ財団は保守派ネッ
トワークを通じた財政支援に関与している。保守系フィランソロピーであるオリン
財団のウィリアム・サイモン所長や、国連大使を辞したカークパトリックが中心と
66
Bill Keller, “Conservative Group Urges Aid to Anti-Communist Guerrillas,” New York Times, November 20, 1984,
A.20; Hiatt and Rich, “U.S. Urged to Use 'Paramilitary'.”
67
James M. Scott, Deciding to Intervene: The Reagan Doctrine and American Foreign Policy, (Durham and London:
Duke University Press, 1996).
68
Keller, “Conservative Group Urges Aid to Anti-Communist Guerrillas”
69
Scott, Deciding to Intervene, pp.125-126.
70
Edwards, The Power of Ideas, p.76.
71
“The Heritage Foundation Goes Abroad,” The Nation, June 6, 1987, p.764.
72
Scott, Deciding to Intervene, pp.204-205.
15
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
なり設立した「ニカラグア自由基金」の理事会の中に、ヘリテージ財団でも理事を
務めるミッジ・デクターも名を連ねていたのである。73なお 1987 年 7 月には、ヘリ
テージ財団への献金 10 万ドルが、国家安全保障会議(NSC)のオリヴァ―・ノース
海兵隊中佐の管理下にある、コントラ支援の目的で設立された海外の銀行へ流出し
た嫌疑が持たれ、その資金の流れが議会のイラン・コントラ事件調査委員会の調査
対象となっている。74
冷戦終結と共に米国は共産主義諸国の反政府勢力への支援を停止してしまったこ
ともあり、こうした支援へのヘリテージ財団の助力が結果的にどの程度の影響力を
もたらしたのかという点について判断を下すのは困難である。しかしながら、ケー
シー、ヘルムズといった政権及び議会内の保守派、保守系フィランソロピーなどと
連携して、ヘリテージ財団が「レーガン・ドクトリン」に基づく反共ゲリラ支援の
原動力となっていたことは疑いのない事実である。
第四項 国連政策
国際機関不信は、第一次世界大戦以来の共和党外交の潮流としてブッシュ現政権
にも受け継がれるものであるが、この点でも、ヘリテージ財団はレーガン政権と価
値観を共有していた。
ヘリテージ財団は 1982 年、財団内の「国連評価プロジェクト」を通じて、国際連
合教育科学文化機関(ユネスコ)のほぼ全てのプログラムに浪費、腐敗、反米姿勢
が見られると指摘し、非難を強めた。75こうした動きを受け、レーガン政権も翌 1983
年の 12 月、
「現行の体制ではユネスコ脱退は不可避」との書簡をユネスコ事務局長
に送付する。76しかしヘリテージ財団は、ユネスコ攻撃の手を緩めることはしなか
った。1984 年 10 月に米国のユネスコ脱退の動きを側面から支援するため、ダイレ
クト・メールを通じて7万5千ドルの基金を募るキャンペーンを開始したのである。
同キャンペーンを通じてフュルナーは、1983 年 12 月の米政府のユネスコ脱退表明
は当時ユネスコ批判の中心人物となっていたヘリテージ財団所属のオーウェン・ハ
リス元豪州ユネスコ大使が作成した報告書の「直接的な結果」であると主張してい
た。77結局、レーガン政権は 1984 年 12 月、1985 年 1 月 1 日をもってユネスコを脱
退するとの声明を発表するに至るが、この時ニューヨークタイムズ紙は、
「米国のユ
ネスコ脱退の主唱者である保守系のヘリテージ財団は、米政府の声明を賞賛した」
と報じている。78
73
Blumenthal, Rise of the Counter Establishment, p.10.
Joe Pichirallo, “Use of Contribution to Heritage Foundation Probed,” Washington Post, July 14, 1987, A7.
75
Edwards, The Power of Ideas, pp.76-77.
76
Walter Pincus, “U.S. Officially Gives Notice of Intention To Quit UNESCO,” Washington Post, December 29, 1983,
A14.
77
“Foundation Seeks Cash to Back UNESCO Pullout,” Washington Post, October 20, 1984, A15.
78
Frank Prial, “U.S. Move Praised By Conservatives,” New York Times, December 20, 1984, A10.
74
16
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
小 活
一連の外交安保政策面でのヘリテージ財団の貢献に対し、レーガンは大統領退任
後の 1990 年 6 月、
「SDI や、グレナダ、ニカラグア及び東欧での自由への支援など、
私がヘリテージの助けを必要とした時、
ヘリテージはいつもそこにいてくれた」
、
「米
国人は全世界のために自由の松明を携える運命にあるが、ヘリテージ財団はその松
明の光が最も明るく輝いている場所の一つである」と最大級の賛辞を送っている。79
実際はどうあれ、こうしたレーガンの言葉からは「ヘリテージなくしてレーガン政
権なし」と言わんばかりの謝意が見て取れる。事実、ヘリテージ財団からは多くの
人間がレーガン政権入りし、また、多くの外交安保問題で同財団の提言が政策とし
て実現されたことも確認された。つまり、レーガン政権はヘリテージ財団にとり、
影響力を行使する上で最高の舞台だったのである。ただしこれについては、ヘリテ
ージ財団の政策提言がレーガンの思考に変化を与えたというより、元々ヘリテージ
財団とレーガンが価値観及びイデオロギーを共有していたため、レーガン政権には
ヘリテージ財団の提言が政策に反映される前提条件が備わっていたと判断するのが
妥当であろう。
次章では、ヘリテージ財団が最大限にその影響力を行使することができたレーガ
ン政権期との対比という意味も含め、ブッシュ(シニア)政権以降の外交安保政策
へのヘリテージ財団の関与の在り方について検討を進める。
第三章 ブッシュ(シニア)政権以降の外交安保政策とヘリテージ財団
第一節 ブッシュ(シニア)政権期
第一項 保守派の後退
1989 年 1 月、共和党内でも中道派に属するブッシュ・シニアが大統領に就任した
ことにより、保守派の影響力は減退を余儀なくされていく。まず、ブッシュ・シニ
ア政権は発足に際し、レーガン政権時代の外交安保政策担当官の多く、とりわけ新
保守主義イデオローグを締め出した。80ブッシュ・シニアとフォード政権時代から
交友関係にあり、国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任したブレント・スコウ
クロフトは、かねてよりレーガン政権の強硬な対ソ外交や戦略防衛構想(SDI)に
否定的であり81、ジム・ベーカー国務長官に至っては、レーガン時代の保守系スタ
ッフの追放を歓迎したとさえ言われている。82 また、シンクタンク出身者のブッシ
79
Edwards, The Power of Ideas, p.113.
Abelson, Do Think Tanks Matter?, p.137.
81
ボブ・ウッドワード『司令官たち』
(文藝春秋, 1991 年), pp.36-37; 五十嵐, 前掲書, p.243.
82
デビッド・ハルバースタム『静かなる戦争(上巻)
』
(PHP 研究所, 2003 年), p.123. ベーカーはレーガン政権
初代の首席補佐官を勤めたものの、元々ブッシュ(シニア)が 1980 年の共和党大統領候補指名争いに出馬し
た際の選挙参謀を務めるなどブッシュ人脈に属する。五十嵐, 前掲書, p.187.
80
17
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
ュ・シニア政権への参画が限定的なものであったため、同政権におけるシンクタン
クの存在は総じて目立たないものとなっていった。83
第二項 関係悪化
ヘリテージ財団とブッシュ・シニア政権の関係は、当初は良好なものであった。
1989 年末のマルタ島での米ソ首脳会談の前には、ブッシュ・シニア大統領は財団支
持者の会合で首脳会談への提言を心待ちにしていると述べており、フュルナー理事
長長もキャンプデービッドでのブッシュ・シニアとの私的な会談に、ゴルバチョフ
書記長に対し強硬な姿勢をとるよう促す財団研究者による分析報告を携えて臨んで
いた。またフュルナーは、保守派に属さないブッシュ・シニアに懐疑的で反対姿勢
をとる他の保守派を諌めさえもしている。84
しかし、間もなくブッシュ・シニアの経済政策がヘリテージ財団と政権の関係を
決定的に冷却化させることとなる。全米が不況と財政赤字にあえぐ 1990 年、ブッシ
ュ・シニアは当時議会多数派であった民主党からの増税を求める圧力を受け、増税
策に傾斜していた。一方、これに気付いたヘリテージ財団はブッシュ・シニアに対
し増税せぬよう警告を発したが、同年秋、ブッシュ・シニアは 1988 年大統領選の減
税公約(“Read my lips, no new taxes”)を破棄して増税に踏み切ってしまう。この決
定に対して怒りを爆発させたフュルナーを始めとする保守派は、
「レーガン革命を貶
めた」などとブッシュ・シニアに非難を浴びせるに至ったのであった。85
このようにブッシュ・シニア政権期においては、共和党とは言え中道派の大統領
と民主党多数派議会の下で、ヘリテージ財団がその影響力を行使できる場は極めて
限られたものとなっていたのである。
第二節 クリントン政権期
第一項 議会共和党との緊密な関係
ビル・クリントン政権が 1993 年 1 月に発足し、12 年振りに民主党政権が誕生し
たものの、ヘリテージ財団にとっての冬の時代が長く続くことはなかった。元来、
議会に対して影響力を行使することを重視してきたヘリテージ財団は86、1994 年中
間選挙に勝利した共和党が上下両院で多数党となったことにより、議会に政策目標
の実現を託すことができたのである。また、この時期のヘリテージ財団の影響力に
ついて触れる上で、下院共和党を率いるニュート・ギングリッチ下院議長と同財団
83
Abelson, American Think-Tanks, p.1.
Edwards, The Power of Ideas, p.105, 114.
85
Ibid., pp.115-116. ブッシュ・シニアは 1980 年大統領選でレーガンと共和党大統領候補指名争いを展開して
いた際、減税を柱とするレーガンの経済政策を「まじない経済(voodoo economy)
」と呼んで批判していた経
緯があった。
86
Abelson, Do Think Tanks Matter?, p.61.
84
18
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
の間に既に緊密な関係が存在していた点を看過することはできないだろう。ギング
リッチとフュルナー理事長の関係は 1979 年にさかのぼるものであり、
ギングリッチ
は下院議長として最初の主要演説をヘリテージ財団で行い、財団の功績を讃えてい
る。87さらに、ジム・タレント共和党下院議員は、ギングリッチが 1994 年中間選挙
に臨むにあたり党の選挙公約としてまとめた「アメリカとの契約(Contract with
America)
」の草稿作成に従事した際、ヘリテージ財団の研究員に助言を求めていた
のである。88クリントン政権期に同財団と議会共和党指導部との関係が緊密になっ
た点については、財団のスチュワート・バトラー、キム・ホームズ両副所長も認め
ている。89
第一章で筆者はシンクタンクの影響力を測定する指標の一つとして「議会での証
言」を挙げたが、共和党が多数派となった結果、1995 年のシンクタンク研究員によ
る公聴会証言はヘリテージ財団所属の研究員によるものが最多となり、二位に AEI、
三位にリバタリアンのケイトー研究所といずれも保守系団体が続いた。その影響も
あってか、1997 年に行われたバーソン=マーステラー(Burson-Marstellar)社の調
査によれば、110 人の議会スタッフ及び在ワシントンのジャーナリストらの 68%が
「保守系シンクタンクは政策形成に及ぼす影響力という点でリベラル系シンクタン
クに優っている」と回答、さらに 42%が、ヘリテージ財団が最も影響力のあるシン
クタンクであると回答している。90これらの例は、ヘリテージ財団が民主党政権下
にあっても影響力の拡大に成功したことを表す一つの指標となろう。
それでは、クリントン政権期においても影響力を保持したヘリテージ財団は、同
政権の外交政策に対して、具体的にどのような反応を示したのであろうか。
第二項 国連の活動及び人道的介入への否定的姿勢
ヘリテージ財団は、クリントン外交は米国益を重視せず、米国益が絡まない遠隔
地での国連の活動に米軍を従事させていると認識し、政権発足早々に批判を展開し
た。そうした認識の下、1993 年に財団の副所長兼外交国防政策研究所長であるキ
ム・ホームズが発表した「安全かつ繁栄するアメリカ(A Safe and Prosperous
America)
」と題する報告書には、以下の批判点が提示されていた。
・対外介入は重大な国益が懸かっている場合に限定すべき。
・リアルポリティークの立場から、AEI に在籍する新保守主義者が唱えるような、
「民主主義の世界への輸出」は否定する。
87
Edwards, The Power of Ideas, pp.158-159.
Ibid., p.219.
89
1996 年春に出版されたヘリテージの「1995 年版 年次報告」の中で、バトラーは「ヘリテージは議会指導
部と緊密に活動し、主要法案の細部の作成に従事している」と述べ、ホームズも「ヘリテージ財団は事実上、
議会付属の調査機関となっている」と語っている。Norman Solomon, “The Media's Favorite Think Tank: How the
Heritage Foundation Turns Money into Media,” Extra!, (July/August, 1996), http://www.fair.org/extra/9607/heritage.html
90
Andrew Rich and R. Kent Weaver, “Advocates and Analysts: Think Tanks and the Politicization of Expertise in
Washington,” in Allan Cigler and Burdett Loomis, (eds.), Interest Group Politics (5th ed.), (Washington D.C.:
Congressional Quarterly Press, 1998), p.249.
88
19
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
・いかなる場合においても米軍を国連の指揮下に入れてはならない。
同書は介入主義にも孤立主義にも属さない第三の選択肢を提唱するものであった
が、同書でフュルナーは「米国の自由と民主主義は全世界にとっての指針」である
から外交政策には「道徳的姿勢」を採り入れるべきとの認識を示しつつ、人道支援
活動は義務ではなく「慈善」として行うべきであると述べている。91これらの発想
は後になり、特に発足当初のブッシュ現政権の外交姿勢に色濃く反映されることに
なるのである(後述)
。
第三項 ミサイル防衛構想の推進
クリントン政権初代国防長官のレス・アスピンは 1993 年 5 月 13 日の記者会見で、
「ソ連の崩壊によりレーガン大統領の夢であった SDI は不要となり、
『スターウォ
ーズ時代』は終わりを告げた」
「冷戦の終結を受けた新たな脅威に対処するため、第
一に戦域弾道ミサイル防衛(TMD)
、第二に国家ミサイル防衛(NMD)
、第三に TMD
及び NMD 双方にとり有望な後継技術研究に優先順位を置く」などとする旨の新た
なミサイル防衛構想を発表した。92これは正に、クリントン政権による SDI に終止
符を打とうとする試みであったが、これに対して SDI の「生みの親」の一員である
ヘリテージ財団は即座に反発する。同財団のミサイル防衛及び軍備管理専門家ベー
カー・スプリングが「アスピン長官は SDI 計画の名称だけ変更しただけであり、ア
スピンの『新計画』はそもそも SDIO が生み出したもの」と非難したのである。93
またヘリテージ財団は、1993 年 9 月に国防総省が発表した、冷戦後に必要とされ
る米軍の規模を定めた「ボトム・アップ・レビュー」では国防費が過度に少額に見
積もられているとして、発表直後から額の見直しを迫る政策ペーパーを相次いで発
表した。同財団は一連のペーパーで、今後 5 年間で 1 千億ドルが不足するとの見通
しを立てていたが、ホワイトハウスと国防総省はこの数字を否定する。しかし会計
検査院(GAO)による調査は、クリントン政権の国防予算ではヘリテージ財団の見
積額を上回る 1 千 5 百億ドルが不足していると結論付け、同財団の分析を後押しし
た。結局、共和党多数派議会の発足に伴い、ヘリテージ財団と長期にわたる友好関
係を有する共和党のストローム・サーモンド上院議員とフロイド・スペンス下院議
員がそれぞれ上下両院の軍事委員長に就任、彼らはクリントン政権に方針転換を迫
り、遂に国防費増額を認めさせることに成功したのであった。94しかし、国防費を
91
Kim Holmes, (ed.), A Safe and Prosperous America: A Foreign and Defense Policy Blueprint, (Washington, D.C.:
Heritage Foundation, 1993), pp.9-12.
92
Secretary of Defense Les Aspin, The End of the Star Wars Era, DoD News Briefing, May 13, 1993,
http://www.fas.org/spp/starwars/offdocs/d930513.htm なお、アスピン長官の記者会見で明らかにされた新たなミサ
イル防衛構想には、
「戦略防衛構想機構(SDIO)
」の「弾道ミサイル防衛機構(BMDO)
」への改編も盛り込ま
れていた。前者が国防長官直属だったのに対し、後者は取得・技術担当国防次官傘下の機関とされた。
93
Baker Spring, “Aspin's "Star Wars" Deception,” Executive Memorandum #356, May 24, 1993,
http://www.heritage.org/Research/MissileDefense/EM356.cfm
94
Edwards, The Power of Ideas, p.124; Larence T. DiRita, Baker Spring, and John Luddy, “Thumbs Down to the
Bottom-Up Review,” Backgrounder #957, September 24, 1993,
20
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
巡るクリントンと共和党多数派議会の対立はその後も続いた。1995 年 12 月にクリ
ントンは、
ミサイル防衛システム配備費用を計上した 1995 年会計年度国防費に拒否
権を発動する。これを受け、ボブ・ドール共和党上院院内総務、ジェシー・ヘルム
ズ上院外交委員長、ギングリッチ下院議長ら議会共和党幹部は翌 1996 年 3 月、2003
年までの国家ミサイル防衛(NMD)システムの配備決定を明記した「米国防衛法案
(Defend America Act of 1996 [H.R. 3144/S. 1635] )
」を提出したのである。この法案
はミサイル防衛が初めて上下両院の共和党指導部の積極的な支持を得たことを示す
ものであったが、この時ドールやギングリッチらは、ヘリテージ財団の提言ペーパ
ー「バックグラウンダー」にかなりの程度依存していたのであった。95
またヘリテージ財団は、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約はミサイル防衛を
阻害するとの認識から、
長年にわたり同条約の破棄こそ最善の選択肢と考えてきた。
この ABM 条約の維持には 1972 年の条約締結時の相手国であるソ連の後継国を明確
にする必要があったが、同条約の維持を目指すクリントン政権は「条約締結の相手
国が数カ国加わる程度であれば実質的な条約の改定は不要」との立場から、共和党
が多数を占める上院に諮らずに後継国問題を解決しようとし始めたのである。こう
したクリントン政権の姿勢に対し、ヘリテージ財団は 1996 年に入り「条約締結の相
手国をソ連から変更するには大幅な条約改定を必要とする。憲法上、そのような条
約改定には上院の同意が不可欠である」と議員に説いて回る工作を開始する。この
ヘリテージ財団の働き掛けに呼応したのが、ヘルムズ上院外交委員長とそのスタッ
フであった。96ヘルムズは翌 1997 年 5 月、欧州通常兵力(CFE)条約外縁部文書(Flank
Agreement)を承認する際、
「クリントン大統領は ABM 条約改定に関するいかなる
協定についても上院に提出せねばならない」という規定を盛り込むことに成功する
97
この一件以降、
クリントン政権の ABM 条約維持の試みは停滞する。
1997
のである。
年 9 月、ベラルーシ、カザフスタン、ロシア、ウクライナを ABM 条約締結国ソ連
の後継国とする協定がそれら各国と米国との間で署名されたものの98、クリントン
政権は同協定を上院に承認させることができなかったのである。99
こうしてヘリテージ財団は、クリントン政権によるミサイル防衛構想の後退を断
固として阻止するという主張を、議会を通じて政策実現させることにある程度は成
http://www.heritage.org/Research/NationalSecurity/BG957.cfm. なお、1977 年以来ヘリテージ財団に籍を置くフィ
リップ・トゥルラック現副所長は、かつてサーモンド議員の補佐官を務めていた。
http://www.heritage.org/About/Departments/trustees.cfm
95
Edwards, The Power of Ideas, p.214; Missile Defense Study Team ("Team B"), “Defending America: Ending
America's Vulnerability,” Backgrounder, #1074, March 15, 1996,
http://www.heritage.org/Research/MissileDefense/BG1074.cfm
96
Baker Spring, “The Heritage Foundation: Influencing the Dabate on Missile Defense,” U.S. Foreign Policy Agenda,
Vol. 7, No. 3, (November 2002), http://usinfo.state.gov/journals/itps/1102/ijpe/pj73spring.htm
97
Michael Dobbs, “Senate Removes a Barrier To European Troop Pact: White House Objects to Link With ABM
Treaty,” Washington Post, May 15, 1997, A.30.
98
John M. Goshko, “U.S., Russia Reaffirm Nuclear Pact: Leaders Sign Accords to Preserve ABM Treaty and Boost
START II,” Washington Post, September 27, 1997, A.16.
99
Spring, “The Heritage Foundation”
21
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
功したのである。100
第四項 対中強硬政策
クリントン政権が 1992 年大統領選選挙戦での対中強硬レトリックに反して対中
関与を深め、特に二期目に入り米中関係を「戦略的パートナーシップ」と位置付け
るに至ったことで、米保守派各層は激しく反発した。
こうしたクリントンの対中接近に対して保守系シンクタンクの研究員らは、共和
党議員、議会スタッフ、保守系ジャーナリスト、台湾ロビーなどと連携し、中国の
軍事力増強は米国に対する脅威であるとする「中国脅威論」を喧伝する。この緩や
かな反中連合体が「ブルー・チーム」と呼ばれるで一団である。1011990 年代後半、
中国系ロビーからのクリントン政権への献金疑惑や中国の核スパイ疑惑を追及した
のも、この「ブルー・チーム」であり、その中核メンバーにはヘリテージ財団主任
研究員(当時)のリチャード・フィッシャーも含まれていた102。なおフィッシャー
は、1999 年 1 月に中国の核スパイ疑惑を指摘する報告書「コックス・レポート」103
を大統領に提出した下院特別委員会のクリストファー・コックス委員長(共和党)
の元スタッフであり、同レポートにはフィッシャーがヘリテージ財団在籍中に執筆
した複数のペーパーが参考文献として引用されている。また、この「コックス・レ
ポート」が米中関係にもたらした影響は過小評価されるべきではないだろう。とい
うのも、北大西洋条約機構(NATO)軍機が在ユーゴ中国大使館を誤爆した直後の
1999 年 5 月 25 日に同レポートが一部公表されたことにより、クリントンの対中関
与政策は後退を余儀なくされたからである。104
このような流れを受け、1999 年 8 月には議員代表団を率いての台湾訪問から帰国
したばかりのフュルナーと「新アメリカの世紀プロジェクト(PNAC)
」理事長のウ
ィリアム・クリストルの呼び掛けで、彼らを含めた 23 名の保守主義者及び外交安保
専門家が連名で「米国は、台湾が攻撃ないし海上封鎖された場合には台湾を防衛す
ると明確に宣言せねばならない」とする声明を発表する。なお、この声明書参加メ
ンバーの中には、
元レーガン政権高官やブッシュ現政権高官が多数含まれている
(文
105
末資料を参照)
。
100
結局クリントン政権は、2000 年 9 月にミサイル防衛の配備決定は次期政権に委ねるとの決定を下し、事実
上この問題を「棚上げ」した。Roberto Suro, “Clinton Defers Missile Defense; Deployment Decision Left to Successor,”
Washington Post, September 2, 2000, A.01.
101
Robert G. Kaiser and Steven Mufson, “ 'Blue Team' Draws A Hard Line on Beijing: Action on Hill Reflects Informal
Group’s Clout,” Washington Post, February 22, 2000, A1.
102
川上高司「ブルー・チーム(Blue Team)の実態と影響力」日本国際問題研究所『米国政治:共和党右派と
その支持勢力』
(平成 13 年度外務省委託研究報告書, 2002 年 3 月), pp.60-61.
103
正式名称は The United States House of Representatives, Report of the Select Committee on U.S. National Security
and Military/Commercial Concerns with the People's Republic of China (The Cox Report), 1999,
http://www.access.gpo.gov/congress/house/hr105851/, http://www.house.gov/coxreport/
104
吉原欽一(第二章)
「ブッシュ政権とその政策形成について-政策形成過程における「レーガン主義」の
影響」久保(編), 前掲書, p.54.
105
Heritage Foundation, “Leading Conservatives, Foreign-Policy Experts Call for the Defense of Taiwan,” Heritage
22
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
このようにクリントン政権期におけるヘリテージ財団の活動には、共和党多数派
議会に働き掛け、民主党政権の外交政策を規定するという従来には存在しなかった
パターンが見られるようになったのである。
第五項 (補足)ブッシュ現政権
外交政策の素養がほぼ皆無のジョージ・W・ブッシュ・テキサス州知事は、大統
領就任後も外交政策アドバイザーの助言に頼る方針であることを 2000 年大統領選
選挙戦の当初の段階から認めていた。106 ブッシュ陣営は 1999 年初頭に外交政策ア
ドバイザー集団「バルカンズ(Vulcans)
」を結成、その座長にはブッシュ・シニア
政権の国家安全保障会議(NSC)ソ連担当部長を務めたスタンフォード大総務部長
のコンドリーザ・ライス(現・大統領補佐官)が抜擢され、同政権の国防次官でジ
ョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)学長のポール・ウォルフォウ
ィッツ(現・国防副長官)が座長の補佐に回った。その他のメンバーの中には、レ
ーガン政権で国防次官補を務めた AEI のリチャード・パール(現・国防政策諮問委
員)や同政権の国防副次官で CSIS のドヴ・ザクハイム(現・国防次官)らが含ま
れていた(表2を参照)
。107 こうした経緯から、政権発足後、閣僚や大統領補佐官
クラスから各省の部長レベルに至るまで、多数のシンクタンク研究員や大学教員が
政治任命ポストに指名されたことは当然の成り行きといえよう。事実、ヘリテージ
財団からもエレイン・チャオ研究員が閣僚(労働長官)に登用されたほか、前述の
「安全かつ繁栄するアメリカ」を執筆したキム・ホームズ副所長兼外交国防政策研
究所長は国際機構担当国務次官補に就任し、中国専門家のスティーブン・イェーツ
研究員108も国家安全保障問題担当副大統領副補佐官に採用されている。
こうした人事を通じ、台湾安保への関与強化、中国の軍備増強への非難、クリン
トン政権が署名した国際刑事裁判所(ICC)設立条約の署名撤回、クリントン政権
が推進してきた包括的核実験禁止条約(CTBT)批准の拒否、弾道弾迎撃ミサイル
(ABM)
制限条約からの脱退、
クリントン政権下で棚上げされたミサイル防衛
(MD)
109
構想の促進 、クリントン政権が関与してきた「国家建設」への否定的姿勢など110、
Foundation News Release, August 24, 1999, http://www.heritage.org/Press/NewsReleases/nr082499.cfm
Jacob Heilbrunn, “Team W.: The Unrealistic Realism of Bush's Foreign Policy Tutors,” New Republic, September 27,
1999.
107
John Lancaster and Terry M. Neal, “Heavyweight 'Vulcans' Help Bush Forge a Foreign Policy,” Washington Post,
November 19, 1999.
108
なお、イェーツは対中最恵国待遇(MFN)供与を支持していたが、それは MFN の停止により中国経済が
悪化すれば、同国の経済・社会改革が阻害され、人権状況の改善にも悪影響を及ぼすとの観点からであった。
Stephen J. Yates, Statement before Senate Foreign Relations Subcommittee on Asia and Pacific, June 5, 1996,
http://www.fas.org/spp/starwars/congress/1996_h/s960605y.htm
109
ブッシュ政権は 2002 年 1 月 4 日、弾道ミサイル防衛機構(BMDO)を改編、ミサイル防衛局(MDA)に
格上げにすると発表している。Wade Boese, “BMDO Renamed 'Missile Defense Agency'” Arms Control Today,
January/February 2002, http://www.armscontrol.org/act/2002_01-02/mdajanfeb02.asp?print
110
ここでは外交姿勢を巡るブッシュ現政権とヘリテージ財団との共通点を指摘するに留まる。これら現政権
の外交姿勢の特徴は以下に詳しい。Ivo H. Daalder and James M. Lindsay, America Unbound: The Bush Revolution in
Foreign Policy, Brookings Institution Press, 2003.
106
23
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
ヘリテージ財団がクリントン政権時代に唱えてきた主張の多くがブッシュ政権発足
以降、その外交安保政策に反映されている。つまり現政権においては、レーガン政
権期と同様、ヘリテージ財団と政策決定サークルの間で外交姿勢を巡るイデオロギ
ーが共有されるケースが多々見られているのである。
小 活
ヘリテージ財団が存分にその影響力を行使することができたレーガン政権期とは
異なり、ブッシュ・シニア政権下では同じ共和党政権であったにもかかわらず、人
材供給も政策実現も満足に適わなかった。こうした現象を「保守派のヘリテージ財
団と中道派のブッシュ・シニア大統領とのイデオロギー上の不一致の結果」と結論
付けるのは容易い。むしろここでは、中道派のブッシュ・シニア大統領に譲歩して
まで政策サークルに接近して政策実現を計ることをしなかったヘリテージ財団のイ
デオロギー的一貫性に注目すべきであろう。また、クリントン政権下では、議会で
共和党が多数党に転じたことがヘリテージ財団にとっては救いとなった。ギングリ
ッチ下院議長やヘルムズ上院外交委員長らニューライト勢が議会を支配したことに
よって、共和党のブッシュ・シニア政権よりも民主党のクリントン政権期において
ヘリテージ財団の活躍の場がより多く提供されたからである。なお、仮定の話であ
り実証不可ではあるが、民主党が長期にわたり行政府も立法府も支配する状況下で
ヘリテージ財団が影響力を保持ないし行使することができたかどうかは、極めて疑
わしい。
終 章
[ヘリテージ財団の特異性]
従来の学術志向のシンクタンクや政府からの委託研究に従事してきたシンクタン
クとは異なり、ヘリテージ財団が発足当初から実践的な志向を有し、政策形成過程
への参画を通じた自団体の主義主張の政策への反映を主要な組織目標と位置付けて
きた点は特徴的であり、その目標の多くが達成された点についてはこれまでに見て
きた通りである。しかし、ヘリテージ財団の特異性はそこに留まらない。同財団は、
リベラル・エスタブリッシュメントに対抗すべく展開された保守運動の牽引車の一
つとして、米国現代政治史において一研究機関以上の役割を果たしてきたと言えよ
う。ヘリテージ財団は、宗教保守、社会的保守などを巧妙に組織化した草の根運動
体として立ち現れた初のシンクタンクであったのである。また、保守系シンクタン
クの中でも、ヘリテージ財団の存在は際立っていた。第一章で触れた通り、AEI と
ヘリテージ財団の間には組織目標や活動内容の面で大きな特徴上の差異が存在した
が、それに加え、アーヴィング・クリストルやジーン・カークパトリックといった
新保守主義イデオローグを擁する AEI がインテレクチュアルな色彩を帯びていたの
に対し、ニューライトに根ざすヘリテージ財団が反知性主義的側面を多分に残して
24
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
いた点についても、ヘリテージ財団の特異性を理解する上で認識しておくべきであ
ろう。しかし、同財団の特異性を把握するだけでは「影響力の計測」を行う上では
全く不十分であり、次に「特異性が影響力(の行使)にどうつながってくるのか」
、
という点について検討せねばなるまい。
[外交安保政策における影響力]
ここで繰り返しになるが、レーガン以降の各政権の外交安保政策におけるヘリテ
ージ財団の影響力について今一度振り返ってみたい。
第二章で見たように、ヘリテージ財団と行政府との関係の緊密化は、レーガン政
権期に始まるものであった。同政権期においては、ヘリテージ財団をはじめとする
保守系シンクタンクによる政権への人材提供が活発に行われ、特にヘリテージ財団
と大統領との間では、SDI 推進、共産主義諸国内の反政府勢力支援、国際機構及び
国際条約への否定的姿勢といった点で、政策目標ないし価値観の共有が見られた。
つまりレーガン政権は、ヘリテージ財団がその影響力を発揮する上で最高の条件を
備えた場であり、まさに「レーガンあってのヘリテージ」であったと言える。ただ
しここでは、ヘリテージ財団の対ソ強硬姿勢も冷戦終結に向かい変容を遂げつつあ
った米ソ関係の前には、さすがのレーガンにもアピールし得るものではなかったこ
とについても留意する必要があろう。
一方、第二章で触れた通り、同じ共和党政権下であるにもかかわらず、ブッシュ・
シニア政権期には、シンクタンク出身者の政権への参画が全般的に少なかった上、
中道派の大統領とヘリテージ財団との間に政策目標の共有がなく、議会でも民主党
が多数派であったために同財団の政策形成における役割は減退し、その影響力が発
揮される機会もほぼ皆無に近かった。しかし、民主党クリントン政権期には、ヘリ
テージ財団は共和党多数派議会に自らの政策目標の実現を託すことができた。これ
により、
「シンクタンクが議会を通じて政権に圧力をかけることで、自らが提言した
政策を実現させる」という政策実現の一類型がクリントン政権期には見られるよう
になったのである。また、クリントン政権の外交安保政策へのカウンタープランと
して議会に提示された政策の多くが、ブッシュ現政権の発足により現実のものとな
るパターンも少なからず見られている。
それは、
ブッシュが生来持つ保守的性質と、
ブッシュ政権がヘリテージ財団をはじめとする保守系(及び新保守主義系)シンク
タンク研究員を多数吸収したこととは無縁ではないだろう。
これらの事例から分かることは、ヘリテージ財団の特異性と影響力とを結び付け
るものは、
「常にイデオロギーに基づく政策提言を行い、政策実現が適う環境が整備
されるまでは大統領にさえも妥協せずにその機会を待つ」という同財団の「一貫性」
に他ならないということである。この点は、1980 年代初頭のレーガン政権期の SDI
に始まり現在に至るミサイル防衛への同財団の姿勢において特に顕著である。この
ように、米国のシンクタンクの中でも特異な存在であるヘリテージ財団の事例から
「シンクタンクの外交政策における影響力はどのようなものか」との問いに対する
一般化しうる明快な答えを引き出すことは不可能であるが、同財団の事例がシンク
タンクの潜在的可能性を示すものであると言うことは可能であろう。
25
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
なお、ヘリテージ財団の「一貫性」に拘泥する姿勢からは、イデオロギー的信念
を現実のレベルで活かしていこうという、ある意味で「研究者としてのアイデンテ
ィティーを犠牲にしてでも政策実現を最優先させる」との覚悟すら窺える。果たし
て、近年の保守派優位に対するリベラルの巻き返しを目論んで設立が相次いでいる
リベラル系アドヴォカシー・タンク111には、そういった覚悟があるのだろうか。
(総字数 23,577 字:脚注、資料及び参考文献は除く)
111
投資家ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティ・インスティーテュート(Open Society Institute)
」
(http://www.soros.org/initiatives/washington)
、クリントン政権の首席補佐官ジョン・ポデスタが昨年立ち上げた
「センター・フォー・アメリカン・プログレス(Center for American Progress)
」
(http://www.centerforamericanprogress.org/)
など。
いずれに対してもソロスが出資している。
両団体については、
David Von Drehle, “Liberals Get A Think Tank Of Their Own: New Shop Will Develop Ideas, Fight Conservatives,”
Washington Post, October 23, 2003, A29; Laura Blumenfeld, “Soros's Deep Pockets vs. Bush: Financier Contributes $5
Million More in Effort to Oust President,” Washington Post, November 11, 2003, A03.も参照。
26
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
[資 料]
台湾防衛要求声明(1999 年 8 月 24 日)署名者(下線はブッシュ現政権メンバー)
氏 名
エドウィン・J・フュルナーJr.
ウィリアム・クリストル
エリオット・エイブラムス
リチャード・V・アレン
リチャード・L・アーミテージ
ウィリアム・J・ベネット
ジョン・R・ボルトン
現 職
当時の肩書/主な経歴
ヘリテージ財団理事長
左に同じ
新ア メリ カの 世紀プ ロ ジェ ク ト
(PNAC)理事長/「ウィークリー・
スタンダード」誌編集長
国家安全保障会議(NSC)近東・
北アフリカ担当上級部長
左に同じ/ベネット教育長官(レーガン政
権)及びクェール副大統領(ブッシュ・シニア
政権)の首席補佐官を歴任
道徳・公共政策研究所(EPPC)所長/レー
ガン政権で国務次官補
左に同じ/レーガン政権で国家安全保障問
フーバー研究所上級研究員
題担当大統領補佐官
アーミテージ・アソシエーツ所長/レーガン
国務副長官
政権で国防次官補
左に同じ/教育長官(レーガン政権)、国家
ヘリテージ財団研究員
麻薬管理政策室長(ブッシュ・シニア政権)
Empower America 共同理事
を歴任
軍備管理・国際安全保障問題担 AEI 上級副理事長/ブッシュ・シニア政権で
当国務次官
国際機構担当国務次官補
ウィリアム・F・バックレーJr.
「ナショナル・リビュー」誌創刊者
左に同じ
ミッジ・デクター
ヘリテージ財団理事
左に同じ
アーサー・ウォルドロン
PNAC 理事/カーネギー国際平 左に同じ/レーガン政権で国務省政策企画
和財団上級研究員
局メンバー
AEI 上級研究員
左に同じ/レーガン政権で国連大使
Empower America 共同理事
「コックス委員会」法律顧問/ブッシュ・シニ
副大統領首席補佐官
ア政権で国防副次官
ヘリテージ財団研究員
左に同じ/レーガン政権で大統領顧問及び
フーバー研究所客員研究員
司法長官を歴任
AEI 常任研究員
左に同じ/レーガン政権で国防次官補
国防政策諮問委員
弾道ミサイル脅威評価委員会メンバー/レ
国防科学委員長
ーガン政権で科学技術担当国務次官
ペンシルベニア大学教授
AEI アジア研究部長
リチャード・L・ウォーカー
(2003 年 7 月死去)
南カリフォルニア大学名誉教授/レーガン
政権で駐韓大使
マルコム・ワロップ
ヘリテージ財団研究員
左に同じ/元共和党上院議員
ジェームズ・ウェッブ
ジャーナリスト
左に同じ/レーガン政権で海軍長官
キャスパー・ワインバーガー
「フォーブス」誌発行人兼会長
左に同じ/レーガン政権で国防長官
ロバート・ケーガン
ジーン・J・カークパトリック
I・ルイス・リビー
エドウィン・ミース三世
リチャード・N・パール
ウィリアム・シュナイダーJr.
ポール・ウェイリッチ
R・ジェームズ・ウールジー
ポール・D・ウォルフォウィッツ
Free Congress Foundation 会長兼 Free Congress Foundation 理事長/ヘリテー
CEO
ジ財団共同設立者
法律事務所共同経営者/クリントン政権で
国防政策諮問委員
CIA 長官
ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究
所(SAIS)学長/国務省政策企画局長及び
国防副長官
駐インドネシア大使(レーガン政権)、政策担
当国防次官(ブッシュ・シニア政権)を歴任
27
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
[参考文献]
Donald E. Abelson, American Think-Tanks and their Role in U.S. Foreign Policy, (London and
New York: Macmillan and St. Martin's Press, 1996).
Donald E. Abelson, “Trends In Search of Policy Influence: The Strategies of American Think
Tanks,” NIRA Review, (Spring 1998): http://www.nira.go.jp/publ/review/98spring/abelson.html
Donald E. Abelson, “Think Tanks and U.S. Foreign Policy: An Historical View,” U.S. Foreign
Policy Agenda, November 2002: http://usinfo.state.gov/journals/itps/1102/ijpe/pj73abelson.htm
Donald E. Abelson, Do Think Tanks Matter? Assessing the Impact of Public Policy Institutes,
(Montreal: McGill-Queen’s, 2002).
Sidney Blumenthal, Rise of the Counter Establishment: From Conservative Ideology to Political
Power, (New York: Harper & Row, 1988).
Ivo H. Daalder and James M. Lindsay, America Unbound: The Bush Revolution in Foreign Policy,
Brookings Institution Press, 2003.
I. M. Destler, Leslie H. Gelb, and Anthony Lake, Our Own Worst Enemy: The Unmaking of
American Foreign Policy, (New York: Simon & Schuster, 1984).
Lee Edwards, The Power of Ideas: The Heritage Foundation at 25 Years, (Ottawa, Illinois:
Jameson Books, 1997).
Frances FitzGerald, Way Out There In the Blue: Reagan, Star Wars and the End of the Cold War,
(New York: Simon & Schuster, 2001).
Richard N. Haass, “Think Tanks and U.S. Foreign Policy: A Policy-Maker's Perspective,” U.S.
Foreign Policy Agenda, November 2002,
http://usinfo.state.gov/journals/itps/1102/ijpe/pj73haass.htm
James G. McGann, The Competition for Dollars, Scholars and Influence in the Public Policy
Research Industry, (Washington, D.C.: University Press of America, 1995).
James G. McGann and R. Kent Weaver (eds.), Think Tanks & Civil Societies: Catalysts for Ideas
and Action, (New Jersey: Transaction Publishers, 2000).
Gordon R. Mitchell, Strategic Deception: Rhetoric, Science, and Politics in Missile Defense
Advocacy, (East Lansing: Michigan State University Press, 2000).
Andrew Rich and R. Kent Weaver, “Advocates and Analysts: Think Tanks and the Politicization
of Expertise in Washington,” in Allan Cigler and Burdett Loomis, (eds.), Interest Group Politics
(5th ed.), (Washington, D.C.: Congressional Quarterly Press, 1998), pp. 235-253.
James M. Scott, Deciding to Intervene: The Reagan Doctrine and American Foreign Policy,
(Durham and London: Duke University Press, 1996).
28
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
Baker Spring, “The Heritage Foundation: Influencing the Dabate on Missile Defense,” U.S.
Foreign Policy Agenda, Vol. 7, No. 3, (November 2002),
http://usinfo.state.gov/journals/itps/1102/ijpe/pj73spring.htm
五十嵐武士
『政策革新の政治学 レーガン政権下のアメリカ政治』
(東京大学出版会, 1992
年)
ボブ・ウッドワード『司令官たち』
(文藝春秋, 1991 年)
川上高司「ブルー・チーム(Blue Team)の実態と影響力」
『米国政治:共和党右派とそ
の支持勢力』平成 13 年度外務省委託研究報告書(日本国際問題研究所, 2002 年 3 月)
阿部齊・久保文明編『国際社会研究Ⅰ 現代アメリカの政治』
(放送大学大学院文化科
学研究所, 2002 年)
久保文明(編)
『G・W・ブッシュ政権とアメリカの保守勢力-共和党の分析-』
(日本
国際問題研究所, 2003 年)
ジェームズ・A・スミス『アメリカのシンクタンク 大統領と政策エリートの世界』
(ダ
イヤモンド社, 1994 年)
中山俊宏「保守系シンクタンクの台頭の背景とその役割」
『米国内政:共和党-現状と
動向-』研究会報告書(日本国際問題研究所, 2001 年),
http://www.jiia.or.jp/pdf/america_centre/h12_nakayama.pdf
デビッド・ハルバースタム『静かなる戦争(上巻)
』
(PHP 研究所, 2003 年)
松本礼二「知識人と政治」五十嵐武士・古矢 旬・松本礼二編『アメリカの社会と政治』
(有斐閣ブックス, 1995 年)
[新聞・雑誌記事]
Laura Blumenfeld, “Soros's Deep Pockets vs. Bush: Financier Contributes $5 Million More in
Effort to Oust President,” Washington Post, November 11, 2003, A03.
Dom Bonafede, “Issue-Oriented Heritage Foundation Hitches its Wagon to Reagan's Star,”
National Journal, March 20, 1982.
Wade Boese, “BMDO Renamed 'Missile Defense Agency'” Arms Control Today,
January/February 2002, http://www.armscontrol.org/act/2002_01-02/mdajanfeb02.asp?print
Joel Brinkley, “Is Reagan Now Less Hard on Communism?” New York Times, December 20, 1987,
E5.
29
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
William J. Broad, “Reagan's 'Star Wars' Bid: Many Ideas Converging,” New York Times, March 4,
1985, A1.
Michael Dobbs, “Senate Removes a Barrier To European Troop Pact: White House Objects to
Link With ABM Treaty,” Washington Post, May 15, 1997, A30.
David Von Drehle, “Liberals Get A Think Tank Of Their Own: New Shop Will Develop Ideas,
Fight Conservatives,” Washington Post, October 23, 2003, A29.
“Foundation Seeks Cash to Back UNESCO Pullout,” Washington Post, October 20, 1984, A15.
Michael R. Gordon, “Right-of-Center Defense Groups -- The Pendulum Has Swung Their Way,”
National Journal, Jan. 24, 1981.
John M. Goshko, “U.S., Russia Reaffirm Nuclear Pact: Leaders Sign Accords to Preserve ABM
Treaty and Boost START II,” Washington Post, September 27, 1997, A16.
Jacob Heilbrunn, “Team W.: The Unrealistic Realism of Bush's Foreign Policy Tutors,” New
Republic, September 27, 1999.
Fred Hiatt and Spencer Rich, “U.S. Urged to Use 'Paramilitary',” Washington Post, Nov 20, 1984,
A4.
Robert G. Kaiser and Steven Mufson, “ 'Blue Team' Draws A Hard Line on Beijing: Action on Hill
Reflects Informal Group’s Clout,” Washington Post, February 22, 2000.
Bill Keller, “Conservative Group Urges Aid to Anti-Communist Guerrillas,” New York Times,
November 20, 1984, A20.
Howie Kurtz, “Meese Helps Group to Raise Funds,” Washington Post, January 20, 1982, A2.
John Lancaster and Terry M. Neal, “Heavyweight 'Vulcans' Help Bush Forge a Foreign Policy,”
Washington Post, November 19, 1999.
George Lardner Jr., “Free-Lance Campaign Funding By PACs, Individuals Rising,” Washington
Post, October 30, 1984, A1.
Gary Lee, “Gorbachev's View of U.S. Startling to Observers; Images of Swastikas,
Unemployment,” Washington Post, December 1, 1985, A1.
David B. Ottaway, “Geneva Credited For New 'Mood': But Experts Say Progress on Arms Control
Is Needed to Maintain Atmosphere,” Washington Post, November 23, 1985, A13.
Joe Pichirallo, “Use of Contribution to Heritage Foundation Probed,” Washington Post, July 14,
1987, A7.
Walter Pincus, “U.S. Officially Gives Notice of Intention To Quit UNESCO,” Washington Post,
December 29, 1983, A14.
Frank Prial, “U.S. Move Praised By Conservatives,” New York Times, December 20, 1984, A10.
30
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
“Richard Allen Joins Heritage Foundation,” Washington Post, January 23, 1982, A6.
Karen Rothmyer, “Citizen Scaife,” Columbia Journalist Review, (July/August 1981),
http://archives.cjr.org/year/81/4/scaife.asp
“Study Finds Pro-Israeli PAC's Active in '84 Races,” New York Times, August 16, 1984, B10.
Norman Solomon, “The Media's Favorite Think Tank: How the Heritage Foundation Turns
Money into Media,” Extra!, (July/August, 1996), http://www.fair.org/extra/9607/heritage.html
Roberto Suro, “Clinton Defers Missile Defense; Deployment Decision Left to Successor,”
Washington Post, September 2, 2000, A01.
“The Heritage Foundation Goes Abroad,” The Nation, June 6, 1987, p.747, pp.760-764.
[報告書・提言書]
Lawrence T. DiRita and Baker Spring, Clinton Defense Increases: Good Start, But Not Enough,
Backgrounder #399, December 12, 1994,
http://www.heritage.org/Research/NationalSecurity/EM399.cfm
Larence T. DiRita, Baker Spring, and John Luddy, Thumbs Down to the Bottom-Up Review,
Backgrounder #957, September 24, 1993,
http://www.heritage.org/Research/NationalSecurity/BG957.cfm
Heritage Foundation, Leading Conservatives, Foreign-Policy Experts Call for the Defense of
Taiwan, August 24, 1999, http://www.heritage.org/Press/NewsReleases/nr082499.cfm
Kim Holmes, (ed.), A Safe and Prosperous America: A Foreign and Defense Policy Blueprint,
(Washington, D.C.: Heritage Foundation, 1993).
Missile Defense Study Team ("Team B"), Defending America: Ending America's Vulnerability,
Backgrounder, #1074, March 15, 1996,
http://www.heritage.org/Research/MissileDefense/BG1074.cfm
Baker Spring, “Aspin's "Star Wars" Deception,” Executive Memorandum #356, May 24, 1993,
http://www.heritage.org/Research/MissileDefense/EM356.cfm
The United States House of Representatives, Report of the Select Committee on U.S. National
Security and Military/Commercial Concerns with the People's Republic of China (The Cox
Report), 1999, http://www.access.gpo.gov/congress/house/hr105851/,
http://www.house.gov/coxreport/
[演説・議会証言等]
Secretary of Defense Les Aspin, The End of the Star Wars Era, DoD News Briefing, May 13, 1993,
http://www.fas.org/spp/starwars/offdocs/d930513.htm
31
三石浩貴「ヘリテージ財団と米外交安保政策」
President Ronald Reagan, Address to the Nation on Defense and National Security, March 23,
1983, http://www.reagan.utexas.edu/resource/speeches/1983/32383d.htm
Stephen J. Yates, Statement before Senate Foreign Relations Subcommittee on Asia and Pacific,
June 5, 1996, http://www.fas.org/spp/starwars/congress/1996_h/s960605y.htm
32
Author
Document
Category
Uncategorized
Views
0
File Size
541 KB
Tags
1/--pages
Report inappropriate content