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創業者 山元正宜
中央公論社、谷崎潤一郎『鍵』
(昭和 31 年 12 月、本文 65 頁)。片仮名交じり文に、
棟方志功の挿絵入り美本として、たちまちベストセラーとなる。
中公文庫、創刊時の 10 点(昭和 48 年 6 月、本文 135 頁)以後、現在も受注を継続。
中公新書、昭和 43 年から印刷。
(平成 20 年 4 月現在 1945 番、本文 135 頁)
小学館、コロコロコミック
200 万部突破(平成 10 年、本文 235 頁)
コロコロコミック創刊(昭和 52 年)
小学館、てんとう虫コミックス『ドラえもん』6 ~ 16、22 ~ 45 巻
双葉社、
「週刊大衆」創刊
(昭和 33 年 4 月、本文 64 頁)
双葉社、
「週刊漫画アクション」
創刊(昭和 42 年 7 月、本文 135 頁)
双葉社の『スーパーファミスタ 5 必勝
攻略法』。当社 DTP による最初の製品。
(平成 8 年 3 月 20 日、本文 240 頁)
「少年画報」発行部数 20 万部(昭和 30 年 7 月当時、本文 59 頁)
郵便番号の 7 ケタ化に伴い、超大型の特需と
なった「ぽすたるガイド」(平成 9 年、本文
227 頁)
少年画報社、「少年キング」創刊
(昭和 38 年 7 月、本文 93 頁)
目
次
9
第一章
山元鉛版所の創業
ささやかな町工場として出発
……………………………………………… 不況の中、大量印刷物時代の到来
………………………………………… 日本経済も大恐慌時代へ突入
……………………………………………… 不況を乗り越え、山元鉛版所の着実な歩み
……………………………… 第二章
鉛版業から印刷企業へ
時流に抗して、画期的な事業展開
………………………………………… 印刷事業への進出とその経緯
……………………………………………… 戦時下の混乱の中で
………………………………………………………… 焼け跡からの再出発
………………………………………………………… 17
13 12 10
26 21 19 17
9
整版部の創設
………………………………………………………………… 三晃印刷株式会社に改組
…………………………………………………… 機械・設備への注力が飛躍の礎に
………………………………………… 印刷業としてのスタートから一〇年
……………………………………… 第三章
輪転部門による業容の拡大
輪転印刷への志向
…………………………………………………………… 輪転印刷の果たしてきた業界での役割
…………………………………… 命運を賭けての資金投下
……………………………………………………
輪転フル回転で急成長への助走
…………………………………………… 石切橋工場の建設
…………………………………………………………… 石切橋移転前の柳町本社について
………………………………………… 二四時間稼動、輪転現場の勤務体制
……………………………………… 万感を胸に創業三十年の式典
……………………………………………… 三十周年の年に思わぬ災害に遭遇
………………………………………… 40 37 32 30
76 73 68 64 59 55 53 50 47
47
石切橋工場の完成
…………………………………………………………… 総合印刷工場を目指して
…………………………………………………… 雑誌、全集の大量受注による飛躍
………………………………………… 活力に満ちた社内環境づくりのために
…………………………………… 業務の機械化、コンピューター化の促進 …
……………………………… 第四章
まさに第二の創業、習志野へ進出
広大なスペースに最新設備の新工場
……………………………………… 急速な成長、拡充を続けるオフセット部門
……………………………… 近代化が続く印刷関連設備
………………………………………………… 若い力を前進のエネルギーに転換
………………………………………… 近代化が進む本社工場
……………………………………………………… 安全、衛生、事故防止など労務管理の改善
……………………………… 活気に満ちた社風づくりの実践と成果
…………………………………… 山元正宜社長の社会貢献と叙勲
…………………………………………… 100 94 90 84 80
149 139 136 129 125 122 113 105
105
第五章
昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
創業五十周年を迎え、盛大に記念式典
…………………………………… 新社長に山元悟副社長が昇格
……………………………………………… 本社新社屋・八階建ビル、工場の建設
…………………………………… 山元正宜会長の突然の逝去
………………………………………………… オフセット印刷機、関連機器の導入相次ぐ
……………………………… 出版を支えに、商業部門の営業を推進
…………………………………… 活力ある社内づくり、安全・福利厚生の充実を目指して ……………… 第六章
バブル崩壊後の長引く不況に抗して
印刷、出版業界も長期不況への対応に苦慮
……………………………… 長期不況、印刷業務の変容時代における課題への対応
………………… 六色機導入などでオフセット充実、さらにきめ細かな設備投資の継続
… 213 206 185 181 172 165 158
233 227 223
157
223
DTPの導入と業務の進展、設備投資も急増
…………………………… 組織の合理化、内製化などによる経営基盤の整備に向けて
…………… ゆとりある業務体制や安全で健康的な環境整備にも格別の努力
……… 第七章
デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
出版の低迷、印刷価格に下落圧力の逆風
………………………………… 企業体質の強化に一層の注力
……………………………………………… 活版輪転五〇年の歴史に幕、印刷機も世代交代へ
……………………… 業務の拡大に伴いデジタル関連への設備投資加速
……………………… 業務効率を配慮しての社内態勢の整備
…………………………………… 勤務態勢、社内管理などにも時代を反映
………………………………… 249 243 238
267 264 262 261 255 253
253
終章
三晃印刷の豊かな未来に向けて
題 字 輿水紫石
経営理念の実現に向けて
…………………………………………………… 今を踏まえて未来を拓く
…………………………………………………… 271
274 271
八十年の歩み
第一章
山元鉛版所の創業
ささやかな町工場として出発
わが三晃印刷の事業は、昭和三年四月、山元正宜が小石川(現・文京)区戸崎町三七番地に山元鉛版所
を開設したことに始まる。山元正宜、二六歳の春のことであった。
ちょうどその年の三月、山元に長女敏子が生まれ、それまで住んでいた旧牛込区早稲田南町の貸家から、
この戸崎町の住居兼工場の瓦葺二階建の貸家に引っ越してきての創業である。大正七年に郷里である鹿児
島県大島郡喜界町を一六歳で後にしてから一〇年余の歳月を経ていた。
工場といっても、鉛版鋳込機、紙型取り金盤、地金沸し釜、その他に必要とするわずかばかりの設備と
若干の鉛版地金があるだけで、従業員といえば次弟の速雄を加えて四人という実にささやかなものであっ
た。
第一章 山元鉛版所の創業
この創業に至るまで、山元正宜は郷里の紬工場で働いたり、船員になったりもした。船員をやめ一念発
起して上京したのは十九歳のときである。旧制大成中学などで学業に打ち込みながら、縁あって鉛版所に
職を得て技術を学び、創業にこぎつけたのである。しかし鉛版業という業種は、商売としては非常に弱い
立場にあった。当時でも、大きな印刷工場は当然ながら鉛版設備を自社工場自身で保有している。鉛版業
者に依頼してくるのは印刷機のみしか持たない零細な印刷所、つまり下請専門でやっている印刷所がお得
意なのである。従って、受注の値段も安い。こうした事業環境の下で発展していくには、ひたすら勤勉に
お得意の期待に応える仕事で信頼を得ていくしか道はない。
山元初代社長の当時を述懐した記録にも、
「朝は明るくなって起床したことはなかった。いつもたいてい四時頃に起き、寝たのは十二時であった。
本当に寝る時間をおしんで働いた。ただ家内が大変で気の毒だった。若い時代だからとはいえ、身体がよ
く保ったものだ……」
とある。
不況の中、大量印刷物時代の到来
ここで、昭和三年の創業前後の社会経済の状況についてかいつまんで見てみよう。大正三年に端を発す
る第一次世界大戦による好況の時を迎えた日本の産業も、大正七年、大戦の終息によって不況への転換が
始まっている。大正十一年には株価がいっせいに暴落、不況の慢性化時代へと突入している。また、大正
10
十二年九月の関東大震災も大きな打撃をもたらした。そうした時代の流れの中、昭和二年三月、東京渡辺
銀行の破綻が火付け役となって金融恐慌が燃え上がった。さらに、総合商社鈴木商店の倒産、台湾銀行の
休業などから、預金者の不安は一気に高まり、一流銀行まで取り付け騒ぎに巻き込まれたのである。そし
てついに、四月二十二日に三週間の支払猶予令(モラトリアム)が発動される。昭和二年一月から五月ま
でに休業した銀行は、実に三七行に及ぶという日本の銀行史上未曾有の大パニックとなった。
山元鉛版所の創業は、
前述したように昭和三年四月であるから、このような世情騒然とした中でのスター
トだったのである。
ところで、この頃の印刷業界はどのような状況であったのだろうか。『大日本印刷株式会社史七十五年
の歩み』には、次のように書かれている。
「沈滞した空気を動かして雑誌の出版を大企業化し、大量生産
の糸口をつけたのが、講談社の『キング』の創刊であり、新しい出版形態を作り、出版界にも読書界にも
一大旋風を巻き起こしたのが改造社の『現代日本文学全集』の刊行であった。いわゆる『円本時代』を創
始した改造社の『現代日本文学全集』は、大正十五年十二月から第一回の配本をやり始め、約四十万とい
う驚異的な部数を出した。実に出版界の革命であった。かかる成功を見て、出版社はやがて昭和二年三月
から新潮社の『世界文学全集』
、
五月には春陽堂の『明治大正文学全集』、六月にはアルスの『日本児童文庫』、
興文社の『小学生全集』
、九月には日本評論社の『現代法学全集』、平凡社の『世界美術全集』、十月になっ
て改造社の『マルクスの資本論』五巻、春秋社の『世界大思想全集』、その翌年昭和三年には新潮社から
『現代長篇小説全集』
、九月には日本評論社から『現代経済学全集』、改造社から『経済学全集』、十月には
11 第一章 山元鉛版所の創業
講談社から『修養全集』と『講談全集』が出され、加えて、『キング』の創刊を契機として大衆雑誌と婦
人雑誌は急速に大量生産の傾向を高め、付録添付の競争となって著しく印刷数量を加えた」
世間が不景気でも印刷業界はあまり景気に左右されない業界だとよく言われるが、当時の状況は、この
出版ラッシュでも分かるように、まさにそうだった。不況風に吹かれて対応に苦慮する他の業界、世間一
般に比べ、出版印刷業界には、それまでになかった大量印刷物時代という一つの歴史の転換期が到来しつ
つあったのである。
日本経済も大恐慌時代へ突入
しかし、昭和四年も過ぎ、昭和五年を迎えると、日本経済は大恐慌の時代へと突入していく。先の金融
恐 慌 の 痛 手 な ど か ら し だ い に 行 き づ ま り を 余 儀 な く さ れ て き た 日 本 経 済 は、 貿 易 の 不 調、 為 替 相 場 の 低
落に対する緊急措置としてとられた金解禁の実施(昭和五年一月十一日)によって、それまで一ドル二
円四〇銭だったのが二円へと円高が進み、歴史上かつてないほどの深刻な不況に陥った。さらに不運なこ
とに、前年(昭和四年)十月の「暗黒の木曜日」として知られるアメリカ・ニューヨーク株式市場の大暴
落に始まる世界恐慌の嵐の余波が日本にもやってきた。不況の谷は一段と深まり、物価は激しい勢いで下
落したのである。全体的に見て、物価が二、
三割も下がったのだから経済への影響はきわめて大きかった。
そのあおりによる農産物価格の下落は、農村を直撃した。
当時の日本農業の二大生産物である米の価格は半分以下、繭の値段は実に三分の一以下にまで下がっ
12
た。これは第一次世界大戦直後の価格のほぼ八分の一という暴落ぶりで、大蔵省が農村部に緊急融資を
行うという惨状であった。また、失業者も昭和五、六年にピークに達し、五年十月の国勢調査による全国
失業者数は三二万二〇〇〇人と記録されているが、この数字は文字どおり職を失った者だけで、もともと
働き口にありつけなかった者や、学校を出ても就職することのできない者を含んでいない。それらを含め
た潜在失業者は、三〇〇万を超えていたというのが今日の定説となっている。まさに「大学は出たけれ
ど」の時代であり、内務省社会局の調べによると、大学出(新卒)の就職率は、昭和五年四一・八%、六
年四〇・七%、七年三九・六%と落ち込んでいる。「モッコをかつぐ学士さま」の言葉も真実味を帯びてい
たのである。
「金解禁の一年」と題した「サンデー毎日」昭和五年十二月二十一日号の記事には、「緊縮時代、節約時
代、失業時代、就職難時代、物価下落時代等々あらゆる不景気の声に満たされたわれらのどん底時代、昭
和五年はすでに過ぎ去りました」
とあり、「貿易が促進されて世界的不景気の重い扉の開かれる日はいつか」
と結ばれている。
不況を乗り越え、山元鉛版所の着実な歩み
こうした不況の中、
価格の下落については印刷業界も決して例外ではなかった。円本ブームのおかげで、
昭和六年頃まではまずまずの好調を保っていたが、円本時代の一段落、同業者の増加、印刷機械の能率化
等によってしだいに競争が激しくなり、昭和二年頃と昭和八年の印刷料金単価を比べてみると、和文組版
13 第一章 山元鉛版所の創業
の定期ものが平均一円七一銭から一円五九銭、平台活版で四厘三毛九糸が三厘七糸に、活版輪転一通し平
均九毛九糸が六毛七糸に、紙型は平均一六銭六厘が一二銭九厘、鉛版鋳込は頁六銭二厘が五銭八厘にとい
ずれも下がっている。
鉛版業についてもこうした印刷業の状態と同じような傾向をたどって競争が激しくなってきていた。し
かし、鉛版製作の作業は、紙型は圧搾機の出現以前で、まだ手叩き(大きな刷毛で、濡らした紙型用紙を
鉄板にのせて叩いて作る)の時代であり、鋳込も機械鋳込機が出ておらず、溶解釜の地金を鉄ひしゃくで、
鉛釜から手作業ですくい鋳込むというように、まったく機械化ができていない手作りの時代であった。そ
のため、当然ながら単価の下落は、労働の量で補うしかない商売であった。
こうした状況の中、山元正宜初代社長は、昼夜を分かたず懸命に働いた。彼は社員にあまり訓示めいた
ことを言わない人であった。だが、人生訓として心がけているいくつかがあった。それは、一つに「誠実」
ということであり、二つは「正確」
、三つは「勤勉」である。
「誠実」は対人訓であり、
「正確」は技術訓である。そして「勤勉」は自分自身に対する自律訓である。
鉛版業という下請企業は数多くの零細なお得意を持ち、そのお得意企業の印刷進行のすべてを把握してい
なければ成り立たない。印刷機が刷了して、つぎにかけるものの鉛版が届いていなければ仕事に間に合わ
ないわけで、したがって、鉛版社主の頭の中に各社各機の進行表をコンピューターのように内蔵している
ようでなければ優秀な鉛版屋とは言えないのである。山元正宜は、そうしたことを徹底して実行した人で
あり、お得意の厚い信頼を得て、当然ながら山元鉛版所は繁盛し、毎日忙しい日を過ごしていた。
14
この頃、山元家の家庭も、昭和五年次女正子が、同八年三女房子が誕生し、翌九年には鹿児島の郷里か
ら父母を呼び寄せ、ようやくにぎやかに家族のだんらんを楽しむゆとりが出てきていた。
昭和十一、二年頃になると、従業員も一六~一七人を数えるようになった。工場も狭くなったので、そ
の前年の昭和十年夏に、戸崎町一三番地に寮を兼ねた工場を新築し、さらに戸崎町五〇番地に第二工場を
設置した。従業員は二、三人を除いて、ほとんどが住み込みの少年工員であった。朝六時になると少年た
ち全員が屋上の物干場に上がり、
ラジオ体操をした。この界隈の工場にしては珍しい光景であったという。
住み込みの従業員たちの食事の世話はえい子夫人の仕事であった。家族を加えて二〇人を超す炊事は、相
当の負担であり重労働であったに違いない。
山元正宜自身も懸命に働いたのはもちろんだが、えい子夫人の献身的な協力を得て、まだ零細ではあっ
たが山元鉛版所は着実に、順調に成長していった。昭和十二年には町工場では進歩的とされていた紙型圧
搾機を導入している。しかし、昭和十二年七月、盧溝橋事件に始まる支那事変の戦火がしだいに広がり、
世の中は戦時色が日ごとに色濃くなって、山元鉛版所からも入営、出征と、何人かの従業員たちが引き抜
かれるように徴集されていった。
15 第一章 山元鉛版所の創業
16
第二章 鉛
版業から印刷企業へ
時流に抗して、画期的な事業展開
中国との全面戦争に突入して軍事国家としての道を歩み始めたわが国であるが、昭和十三年四月には、
国家総動員法が発布された。これは、戦争に必要な人的、物的資源を国が全面的に統制運用することを可
能にする法律で、経済社会、国民生活などあらゆる面での統制が強化されるとともに、労働争議の禁止や
言論統制さえ可能にするものだった。
十四年、十五年と戦争が長期化するにつれ、一般物資はもとより軍需物資としての金属が不足し、金属
を使うものは陶製や木製に代わり、戦争に直接関係のない商店主や職人、会社員などが廃業、転業を余儀
なくされ、軍需工場へ「徴用」されて働かざるをえなくなったり、「贅沢は敵だ」のスローガンが目立つ
ようになったのもこのころからである。
17 第二章 鉛版業から印刷企業へ
18
もちろん、こうした物資不足などは、印刷業界も例外であ
るはずもなく、印刷用紙の配給統制が厳しさを増し、鉛など
の活字用材、ブランケットやローラ原料用生ゴム、アラビア
ゴム、さらにジンク板、銅板、アルミ板などの版材の確保も
極めて難しい状況にあった。
二割以上の制限、夜業は禁止」と答え、困るを通り越して悲
業種への転出、新たな雇用困難、平素の七割の稼動」、「電力
神戸のある印刷業主は、「用紙不足で営業困難」、「工員の他
さらに、同雑誌の昭和十五年三月号のアンケートに対して、
一、印刷用紙の増産並配給の円滑を期せられたし
に改められたし
一、物動計画による印刷工業の産業順位を軍需産業の次位
ような建議書を提出している。
受けている」として、民政党の代議士を通して、国会に次の
は平和産業として、時局産業の埒外に置かれ、諸圧、制限を
業界の窮状にたまりかねて、東京印刷同業組合は、「印刷業
当時の状況を伝える「印刷雑誌」によれば、こうした印刷
創業 10 周年記念旅行、大島に遊ぶ。(昭和 13 年 4 月)
惨とその窮状を訴えているほどであった。
そして、昭和十六年。この年は、わが国にとって命運を賭けた太平洋戦争への突入という衝撃があった
が、わが社にとっては第二の創業ともいえる画期的な事業展開があった。創業者の山元正宜が、時代状況
を考えれば、まさに不退転の決意で鉛版業から印刷事業への進出を計り、それを実現させたのである。昭
和三年に独立して山元鉛版所を開設してから一三年を経てのことであった。
印刷事業への進出とその経緯
第一章でも触れたように、山元社長の昼夜を分かたずに働いた気骨とたゆまぬ努力によって顧客の信頼
をえて着実に発展を遂げてきた山元鉛版所は、当時すでに業界の雄としての地位を築き、鉛版業者として
は、いわばその頂点に達していたといってよい。鉛版の仕事を通して、印刷のこと、印刷業界のことを知
り尽くしていた彼にとって、鉛版製造が印刷の一つの過程である以上、鉛版業が発展の限界にきたとした
ら、さらなる飛躍、事業の展開は、鉛版からの脱皮、いや鉛版を含めた印刷を手がけることに向かうのは、
当然の帰結であったであろう。しかし、先に触れた時代状況、さらに国策であった印刷業新体制に伴い、
中小印刷企業の整備統合が業界の潮流となりつつあったことを思えば、印刷事業へ手を伸ばす条件はどこ
を探してもほとんどないに等しい最も厳しい時期でもあった。
だが、将来に向けて事業を継続させ、発展させていくためには、印刷は欠かせない。それに、印刷はど
のような時代になっても、文化の発展を支える担い手としての役割を果たしていくものであり、また社会
19 第二章 鉛版業から印刷企業へ
生活にとっては一つの必需品であることを思えば、万難を排し、生涯を通して真摯に取り組むに値する事
業であることにまちがいはない。確信は決意にかわり、「新たに事業を始めるならば、最も不況や困難の
時にこそチャンスがある」という先人の言葉にも触発され、決断したのである。そしてこの決断こそが、
まさに「今日の三晃印刷」の出発点となった。
ちょうどその頃のことである。山元鉛版所のお得意だった柳文堂印刷所が、折から推進されていた印刷
業新体制によって小石川印刷(株)に統合されてしまったので、新事業の準備を進めていた山元社長は、
思いきって不要になった工場の権利を買うことにした。買ってはみたものの既存の業者でさえそのまま事
業を続けて行くことが難しく、統合や転廃業を余儀なくされていた時代である。しかも統合のために止め
た工場を用いて開業しようというのであるから、まかりまちがえば国策に対する逆行ともとられかねない。
実際、新体制では、
「工場の新設、合併、移動は時局関係でないと許可しない」、「その人物、資本系統が
新体制の趣旨に沿わねば許さぬ」というのが当局の方針であった。こうした背景を考えると、開業するま
での壁は厚く、越えなければならないさまざまな困難が待ち受けていたであろうことは、およそ想像がつ
く。
さらに、その当時の印刷工場の経営はすべて許可制であった。厳しい戦時下ということで、金属、用紙
など資材の軍需へ向けての統制はもちろんのこと、思想、防諜を含めた有害な印刷物の抑制、チェックと
いうこともあり、営業許可の権限は警視庁の管轄下にあったのである。業界の無駄をなくすために、企業
の合同、機械設備の統合が時代のテーマであった状況下での営業許可の折衝は、並大抵のことではなかっ
20
た。山元正宜は企業家としての情熱と印刷文化に対する見識をたずさえて、まさに文字通り霞ヶ関に日参
して折衝にあたった。そして、ようやくのこと、彼の篤実で気骨ある人柄と印刷にかける熱意が認めら
れて営業許可がおり、三晃社印刷所として発足することができるようになった。昭和十六年十一月初旬、
三九歳にしての飛躍であった。
戦時下の混乱の中で
日中戦争の長期化に伴い厳しさを増す戦時体制の中で、いわゆる持たざる国、日本の物資は逼迫するば
かりで、軍需用はもちろんのこと、米などの生活必需品も配給制になっていた。しかも戦線は拡大の一
途をたどり、昭和十六年の七月には、日本軍は主食の米の確保と資源の豊富な南方進出の足掛かりとし
て南部仏印(仏領インドシナ)に進駐した。アメリカ A
( ・
) イギリス B
( ・)オランダ D
( は
) 、日本資
産の凍結で報復、さらにアメリカは、航空機用のガソリンの輸出禁止、オランダは、日本との石油協定の
停止で対抗、これに中国 C
( が
) 加わって、いわゆるABCDの対日包囲ラインがしかれたのである。こ
のころから対米関係は一段と悪くなり、新聞にも毅然とした態度をとるべきといった論調も目立ちはじめ
た。
そして石油などが入らなくなってジリ貧状態に陥る前に一挙に決着をつけようという開戦論が強まり、
十一月には来栖特派大使の対米和平交渉が物別れになるにおよんで、日米開戦は時間の問題となった。昭
和十六年十二月八日の未明、ついに日本のハワイ作戦機動部隊による真珠湾急襲となり、米英に対する宣
戦が布告された。この時、山元社長は、所用で警視庁を訪ねており、そこでその放送を聴いた。この日か
21 第二章 鉛版業から印刷企業へ
ら、まさに動乱の数年間が始まったのである。
太平洋戦争初期の「山元鉛版所」および「三晃社印刷所」については、これといって特筆すべきものは
ないが、資材、営業などあらゆる面で厳しい統制という戦時の悪条件に耐えながら、堅実なペースで実績
を重ねていった。三晃社の印刷機械もスタートの時はB全二台であったが、間もなく菊半裁一台を追加し
ている。得意先としては、国民工業学会、山海堂、牧書房などがあった。
ちなみに当時の出版、印刷業界に対する国家統制としては組織を一元化する方式がとられ、昭和十五年
には日本出版文化協会が設立されている。これは、内閣情報局の指導監督のもと、全出版物の事前審査と
用紙の割り当てを行う出版統制機関であった。翌十六年十月には、印刷業界を統制する日本印刷文化協会、
十七年には日本新聞会が誕生し、出版・新聞の発行は、内閣情報局の主要ポストを占める軍部の支配下に
置かれることとなった。
店頭に並ぶ雑誌には、
「東亜開放」
、
「戦争文化」、「戦時女性」などといった戦時色の強い誌名が目立つ
ようになり、横文字の雑誌は改題させられ、
「キング」が「富士」に、
「オール讀物」が「文芸讀物」に、
「ス
タイル」が「女性生活」に変わった。ポスターなども、「撃ちてし止まむ」や「進め一億火の玉だ!」と
いったスローガンや、節約を呼びかけ、国民服を奨励するなどの広告に様変わりしていた。大衆文化、消
費文化が開花していた時代には、印刷工場からは人々に夢を与えるべくさまざまな印刷物が世に出ていっ
た。しかし、この時代、同じ印刷工場からは、国民に戦意高揚や忍従、犠牲を強いる雑誌やポスターが送
り出されていった。その意味で、印刷は、まさに時代の文化状況を映し出す鏡にほかならない。
22
昭和十七年に入ると、戦局はさらに拡大を続け、シンガポー
ル占領などの報道に沸き返り、国民は大本営発表の戦局有利
を信じていた。ところが、ミッドウェー海戦の大敗、ソロモ
ン沖海戦とガダルカナル島の作戦失敗など日本軍の敗退が目
立ちはじめ、空母からの本土空襲も始まり、翌十八年には、
戦局はますます深刻化して、学生の徴兵により若者が戦場へ
駆り出された。十九年になると、六月に米軍はサイパン、グァ
ムに上陸、続いてテニヤンと破竹の勢いで進撃し日本軍の悲
の行動半径にすっ
れている電話局に三晃社印刷所の工場が隣接していたため、
どうしても他所へ疎開しなければならなくなっていた。その
当時は、工場でも、商店でも、また一般の家庭でも、資産の
23 第二章 鉛版業から印刷企業へ
劇が繰り返され、占領された。かくて、マリアナ群島の米軍
基地が整備されるとともに、わが国はB
の始まりであった。
行機武蔵野工場を攻撃、これが東京に対する大がかりな空襲
ぽり入り、十一月二十四日には、その七〇機の編隊が中島飛
29
そして、これより前の二月には、国家重要建築物に指定さ
山元鉛版所従業員(昭和 18 年 1 月頃)
工場も、この空襲によってついに罹災した。ひと一倍、責任感が強く、気骨に満ちた彼は、戸崎町東町会
24
あるものほどいち早く安全な所に疎開し、生命、財産を守ろうとしたものだった。実際に、街の工場主た
ちの多くは、すでに疎開してしまっていた。しかし、山元社長は慌てることなく、東京にいたまま、自ら
の信ずる道を着実なペースで歩いていった。
山元鉛版所の得意先であった柳町の昭文堂も、戦争がさらに激しくなるのを怖れて、早々に八王子へ疎
開していた。彼はこの昭文堂の工場に目をつけたのである。幸い、当時の椿太助印刷部長が、当社に入る
前、長い間にわたり昭文堂に勤めていたことがあり、主人の佐藤磨氏とは昵懇の間柄であった。さっそく
椿部長を介しての空いた工場の買収交渉となった。まだ、東京への大がかりな空襲は始まっていなかった
が、戦争の激化が避けられない情勢ということもあり、話はうまく運び、昭和二十年二月に契約がまとま
った。購入金額は五万円程だった。みんなが東京は危ないと逃げるようにして疎開を始めていた時におけ
の
る工場の入手は、どんなもくろみ、成算があってのことかと周囲の人々には奇異に感じられたに違いなか
った。
実際に、それから工場に機械を入れて一か月も経たない三月十日の夜、東京は一三〇機からなるB
加え、東京の街はまさに焼け野原になっていった。
五月二十五日夜半から二十六日の明け方にかけての、B
二五〇機による空襲では、小石川植物園あた
大空襲に見舞われたのである。これを前触れとして、毎晩のように繰り返される爆撃は日に日に激しさを
29
りに落ちた焼夷弾により、白山御殿町から戸崎町界隈は瞬く間に燃え広がり、山元社長の住居や山元鉛版
29
五〇〇機による
の防空指導係長として、皆の先頭にたって果敢に消火にあたったが、火の勢いは強くなるばかりで、どう
にも手の下しようのない状態に陥ったのであった。それから三日後の五月二十九日、B
大空襲が横浜を壊滅させたことを聞くに及んで、さすがの彼もそのまま東京に留まることを断念するほか
なかった。家族のうち、老いた母と三人の子供は、すでに岐阜の方に疎開させていた。彼は、妻と二人で
焼け残った本社(柳町元本社)の二階に居を移すとともに、工場の疎開について真剣に考え、その手立て
に想を巡らした。
そんな折、たまたま当時のお得意の一つだった山海堂が、参謀本部の橋本中佐の世話で長野県に疎開し
たということを耳にした。さっそく紹介をしてもらい、長野管区司令部に転勤命令を受け取ったばかりの
参謀に会うことができた。折から軍は、東京を灰燼に帰した空襲の猛威を避けるために、急きょ大本営を
松本に移す計画を立て、その準備に追われている最中であったことも幸いして、同参謀からも「軍の仕事
があるから、すぐ工場を長野に移し給え」という願ってもない答えをいただき、彼の希望はかなえられた。
工 場 に 遊 ん で い る 製 版 設 備 や 用 紙 な ど 一 切 を 売 り 払 っ て 得 た 一 七 万 円 ば か り の 金 を 手 に、 山 元 社 長 は 、
印刷機を分解、梱包し、これを疎開列車と軍用列車で混乱する中を、やっとの思いで飯田町の貨物駅から
長野行の貨車に積み込んだ。疎開先は長野市在の古里村。山々に囲まれた寒村の村はずれに、村人との苦
しい交渉を続けてやっと土地を借り、大工にも建築契約の手金まで渡し、工場建設の準備もどうにか整え
ることができた。その間にも敗戦という運命の日は刻一刻と迫っていたのである。しかし、一般の国民に
とっては知るよしもなかった。
25 第二章 鉛版業から印刷企業へ
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焼け跡からの再出発
昭和二十年八月十五日、山元社長が終戦を伝える詔勅のラジオ放送を聴いたのは、長野市の出版社山海
堂の事務所であった。人々は、ただ呆然として突っ立ったまま、信じられず涙を拭おうとさえしなかった。
敗戦の衝撃は彼とて同じであった。しかし、彼には、家族の、従業員の、お得意さんの、多くの人たちへ
の責任が重くのしかかっている。何としても生き抜かねばならない。彼は、その日のうちに東京行の列車
に飛び乗っていた。車中は、終戦の悲しみからか、あるいは長い戦時下から解放されての安堵感からか、
放心しているような人たちで溢れかえっていた。人々は板で打ちつけられた窓から身をよじるようにして
乗り降りし、車内からはみ出したものは汽車の屋根にまで這い上がり、必死になってしがみついていた。
夕刻、やっとの思いで東京についた。長野では東京の様子が断片的にしかわからず、さまざまな流言の
たぐいも飛んでいて真相がつかめないので、どうしても自分の目で確かめてみる必要があったのである。
東京の惨状は凄かった。街は見渡す限りの焼け野原と化していて、住まいらしいものは、焼け残りのト
タンを使って道端に建てられた小屋などで、あとは崩れ落ちたコンクリートの家や瓦礫の山が目に入るば
かりであった。それでも人は生きていた。早くも闇市や一杯めしを売る店などが並び始めていた。戦災で
親兄弟や財を失い、さらに飢えが人の心を荒ましたのか、東京は、ただ混乱と無秩序の支配する無政府都
市の様相を呈していた。
そうした戦争の残した凄まじい爪痕に驚き、心を傷めてはいたが、山元社長は決して挫けることなく、
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直ちに事業の再建に取りかかった。ところが、肝心の工場の問題で、たちまち行き詰まってしまったので
ある。事業再開のための工場として彼がまっ先に考えたのは、長野へ疎開するので知り合いの某氏に売却
していた柳町工場(元昭文堂)のことであった。さっそく、その工場の買い戻しにかかったのだが、思う
ように話が進まない。毎日のように西荻窪の譲渡先の家を訪ねては、粘り強く折衝を続けた。どうやら工
場を貸してもよいところまではいったが、手放そうとは言ってくれない。さらに交渉を続け、結局、売却
した時の金額に三万円ほどを積んで買い戻すことができたのは、九月に入ってからであった。当時、まだ
インフレの進行していない時の三万円はまさに大金ではあった。しかし、戦後の驚異的な事業拡張の基礎
がこの柳町工場にあったことを思えば、決して高い買い物ではなかったといえる。
幸いにして工場の問題を解決することができた山元社長は、一時も早い東京での事業の再開を目指して、
すぐさま長野に飛んだ。まだ混乱の極にあった東京ではあるが、必ず再建できる、再建してみせるという
将来に向けての強い意志と確信があった。
長野に到着するや、急いで古里村の敷地や、建てかけの工場の建築材料などをただ同然の値段で処分し、
まだ梱包を解いてなかった印刷機械をそのまま吉田駅から東京へ送りかえした。鉄道の施設・車両は老朽
化の上に戦災の被害もあって末期的な状態であり、さらに疎開から帰る人、内地にいた復員兵、買い出し
客などで混雑を極め、まさに大混乱の状態であった。そうした事情もあって、荷物はなかなか着かない。
飯田町駅へ日参し、時には長野まで輸送の状況を確かめに足を運んだ。そして、九月も末になって、待ち
に待った印刷機三台がようやく届いた。この重く大きな荷物を、数少ない運送屋に頼み込んで工場に運び
27 第二章 鉛版業から印刷企業へ
込み、備え付けて動かせるようになったのは、秋も深まった十月半ばのことであった。
戦争が終わって、世の中は新しい時代に向かって動き出していた。焼け跡の闇市には国民服やモンペ姿
の男女が群がり、国民の多くは衣食住すべてに窮乏生活を強いられていた。しかし、重苦しい戦争の時代
から解放されて、その表情には明るさがあった。印刷業界にも、九月には連合軍総司令部からの指令で多
少ではあるが資材が供給されることとなり、操業再開への道が開けつつあった。
また、言論などへの規制や出版物に対する検閲がなくなったこともあり、用紙の不足や機械設備の焼失
による印刷能力の低下といった悪条件の下にありながら、出版界は空前の活気に満ち始めていた。人が餓
えていたのは食べるものばかりではなく、活字に対しても同様だったのである。極論すれば、紙に印刷し
てさえあれば、どんなものでも売れる時代の到来で、廃刊、休刊などの雑誌も次々に復刊し、出版社も雨
後の筍のように増え続けた。戦争中の企業整備で三〇〇社あまり、終戦時には約二〇〇社に減っていた出
版社だが、終戦後四か月たった十二月には六〇〇社を超え、さらに一年後には二六五七社(出版協会加入
分)に達している。
敗戦によって、わが国の産業の構造と性格もがらりと変わった。「人、物、金」の一切を挙げて戦争の
目的遂行のために動員されていた全産業は、平和的再建への方向転換を迫られ、印刷産業も平和で文化的
な社会を築く上での重要な機能を持つ、最有力部門と位置づけられたのである。日本印刷産業統制組合も
二十年九月に、
「戦後における印刷産業の在り方」というパンフレットの中で、要約すれば「印刷産業の
もつ平和的文化的機能を即時に発揮して強靱な生存を続け、文化の発達に不可欠な工業として、平和的新
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文化の建設のために積極的に寄与すること」を訴え、「印刷産業に関係する者は、この社会的文化的使命
を自覚し、新しい意味の印刷報国に献身しなければならぬ」と続けている。
ちなみに、昭和十八年の企業整備が本格化する前の印刷業者の数は、一万八二二五であったが、十九年
には五四二二となり、さらに都市集中型の産業ということもあって戦災の被害も大きく、終戦直後の二十
年十月には三三五六にも減少していたが、印刷業者の懸命な再建への努力と出版ブームもあって、二十一
年には三八三三と増え、立ち直りへの確かな兆しが数字となって現れている。
しかし、社会のすべてに渡っての終戦処理には、膨大な費用がかかる。それを賄うために、日本銀行券
の発行は急激に膨張したのに、生活物資や食糧の不足は極めて激しく、物価は恐ろしい勢いで上がり続け
た。このような悪性インフレの進行は、庶民の生活にいちじるしい圧迫を加え、みんな生きるために必死
であった。
もちろん、三晃社印刷所の経営責任者として山元社長も、この厳しい状況を生き抜くために死にもの狂
いであった。終戦とともに出版ブームが訪れたということもあって、仕事はあった。インフレが激しい勢
いで進行する一方、事業としては右から左へ物を動かしさえすれば、十分に儲かる時代でもあった。
社長の陣頭指揮のもと、全従業員が力を合わせて日曜も祭日もなく働き抜いた。こうした目覚ましい働
きぶりで儲からないはずはない。事実、面白いほど売上げが増え、利益もあがったが、こんな濡れ手で粟
のような時代はいつまでも続くものではない。山元社長はやがて健全な社会に戻り、その時こそが事業家
としての真価を問われることになると考えていた。つねに時代とともに変化、進展を続ける印刷業として
29 第二章 鉛版業から印刷企業へ
の事業展開に思いを馳せていた山元社長は、次々に手を打っていったのである。
整版部の創設
山元社長は手始めに、昭和二十年十月半ばに操業を再開してから間もない十一月に、いち早く整版部を
創設している。当時、小石川印刷株式会社の整版部長であった鈴木伊三郎が入社して、整版部をつくった
のである。これで、活版印刷所としての形が整い、増え続けるお得意からの受注に応える体勢ができた。
整版部は戦後におけるわが社の発展のまさに礎となった。その頃の思い出を、鈴木は、昭和二十七年五月
の「社報」に大要として次のように記している。
「わが社の整版部の創設は、二十年八月の終戦の日から三カ月後の十一月で、玉川学園の活版部の譲渡
ということが、きっかけであった。話がまとまり、トラックで引取りに出かけたのは、十一月も末の頃だっ
たと思う。学園は、小さい丘陵の起伏を利用してつくられており、トラックは行かない。
梱包に何かと手間取り、とうとう日が暮れてしまった。牛車への積み込みがすむと、霜どけの山坂道を
半里、社長、私、藤田君、それに学生諸君でこれを引っ張ったり、押したりして、やっとトラックに積ん
だ。町田からわが社まで、真っ暗な田舎道を、折からの氷雨に濡れながら、トラックの上でちぢこまって
いた光景は、今なお脳裏に浮かんでくる。
社長のお陰で運よく九ポの母型が借りられ、新興印刷からハンドプレスを譲り受け、木具屋も探し出し
て、先ず九ポの整版部が発足した。
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整版部をつくるといっても、つくるのに必要なものは殆どといって何も無い時代であった。活字屋も、
木具屋、罫線屋も、人員も。その中で産声をあげたのだ。そうこうしているうちに、昔の部下だった若い
人たちが、次から次へとやって来た。鋳造機も、六号の母型も、五号の母型も入ってきた。
しかし、考えてみれば、こんなことは一つの過程にしか過ぎなかったのだ。一番大切な、一番肝に銘じ
ている、また、これあってこそ整版部が成長することができたといえるのは、一切をあげて私に一任され
ている、社長の剛腹さである。何を買おうと、何人採用しようと、些かの掣肘を受けたことがない。この
大きな負託にどうすれば応えられるか、日夜腐心している。まだ意に満たないところはあるが、今日、一
通りの体裁を整えて、一流出版社の仕事をやれるまでに成ったことは、一にかかって社長の人格の賜と信
じている」
そして、整版部の創設に続いて昭和二十年十二月には、B全一台、菊判一台の印刷機を増設している。
当時の工場(元柳町本社工場)は、二階の手前のほうが整版部、その奥のほうに鉛版設備があり、東南
の片隅に、少し遅れて二十一年の二月に購入した鋳造機が動いていた。
始まったばかりの整版部の人員は、鈴木部長をはじめ四名であった。大工もいなかったので、この四人
で材木やベニヤ板などを買ってきて馬や文選台を作った。そうこうするうちに宮内保夫整版技手が入って
きた。文選も、植字も、解版も、皆が何でもやった。
昭和二十一年八月には、用紙倉庫を建てた。建てたといっても、建築資材が極端に不足していた当時の
こと、必要になったからといって、すぐに新築というわけにはいかない。しかし、仕事を円滑かつ効率的
31 第二章 鉛版業から印刷企業へ
にこなすためにも、どうしても倉庫が欲しい。そんな折、幸いにも、知り合いの飛行協会に「戸田橋のグ
ライダー格納庫と寄宿舎を解体して売ってもよい」との意向がある、ということが耳に入った。さっそく
その話を進めて購入し、ようやくの思いで、先に強制疎開で空地になっていた、旧三晃社印刷所の跡に倉
庫を建てることができた。トタン屋根のバラックではあったが、用紙不足の折から、印刷能力をはるかに
上回る大きなこの倉庫は、いつもお得意の依託用紙でいっぱいになっており、何かと便利で役に立つこと
が多かったのである。
三晃印刷株式会社に改組
昭和二十一年は、食糧難による飢えや家を失った人々の仮小屋暮しなど世情は混乱し、極めて不安定な
社会情勢の中で明けたが、元旦に「天皇の人間宣言」が行われた一月には、公職追放に関する覚書が発せ
られ、超国家主義団体が解散の指令を受けるなど、戦後に向けての施策が具体的になり始めた。そして二
月には、金融緊急措置・日本銀行券預入令が施行となり、新円が生まれた。三月には、物価統制令が出さ
れ、四月には食糧危機とインフレが深刻化するとともに、幣原内閣が総辞職して総選挙が行われた。五月
には、鳩山一郎がGHQ (連合軍総司令部)により公職から追放されて吉田内閣が成立、メーデーが復活
した。皇居前で食糧メーデーが行われるなど物情騒然という中、十一月には、戦後の日本の進路を決めた
新憲法が発布され、十二月には、鉄鋼・石炭の超重点的増産による経済危機の突破を目指した、いわゆる
傾斜生産方式が閣議決定された。
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このように現在の日本につながる新たな出発の年といってよい二十一年だが、わが社にとっても、株式
会社への改組と現在の名称になった記念すべき年であった。
この年は、出版界には雑誌の創刊・復刊ブームが到来していた。ブームに乗って低俗といっていい興味
本意の記事を満載した雑誌や書籍も氾濫していた。他の多くの印刷所がそうした仕事に手を出して儲けて
いたが、山元社長は、自分のペースを崩そうとはしなかった。世の中を毒する、有害無益と思える印刷は、
たとえ値段がよくても敬遠した。なるべく堅実な、なるべく文化的に意味のある、良心的なものしか受注
しなかった。
「事業というものは、金儲けだけのものであってはならない。社会性・公共性を持っていなければなら
ない。低俗な印刷物は、儲かるかもしれないが、いやしくも見識のある事業家の為すべきことではない」
というのが、彼の強い信念であった。そして、事業から生まれる利潤は、すべて、これを次の事業展開の
ために還元していったのである。
当時の業者が、目先の利益の追求に明け暮れていた二十一年の春には、中馬鉄工所に二回転印刷機を発
注していた。いまの印刷ブームもそう長くは続かない、これからは技術で勝負する時代になる、という先
見からであった。そのためにも、できるだけ優秀な技術者を雇い入れることに努力を注いだ。その結果、
当時のわが社の印刷部には、各会社の職長クラスがずらりと顔を揃えるという状態となった。
これまで記してきたように、戦中から終戦後間もなくにかけて、山元社長の先を見据えた投資と信念──
人への、機械や設備への思い切った投資と文化事業としての印刷業への信念──によって、わが社は戦後
33 第二章 鉛版業から印刷企業へ
の急激な出版・印刷ブームにも応えることができ、お得意も倍増して業界での信用も一段と高まったので
ある。
そして、昭和二十一年六月二十一日、
「三晃社印刷所」の組織を株式会社に改め、名称も「三晃印刷株
式会社」と変更するとともに、役員を次のとおり決定した。
代表取締役
山元
正宜
取
締
役
山元
速雄
同
椿
太助
同
鈴木伊三郎
監
査
役
水野
東吉
取締役、監査役はすべて会社の従業員である。山元速雄は営業部長であり、椿太助は印刷部長、鈴木伊
三郎は整版部長、そして水野東吉は印刷部次席であった。
ところで、わが社の歴史をたどるうえで、山元速雄の果たした役割に触れないわけにはいかない。彼は、
社長の実弟であり、
「山元鉛版所」時代から社長と労苦を共にし、社長にとってかけがえのない協力者と
してずっと献身的な働きを続けていた。戦時中に一時、病のために帰省し、快癒するとともに二十一年の
暮れに上京、営業部長として復職した。そして、山元社長の事業家としての卓抜した決断力から生まれた
諸施策を実践に移し、前進させる力としてその手腕を発揮した。難しい戦後の業界にあって、確かな礎を
築き後の発展への道を切り拓いた社長のまさに片腕であり、会社にとっても至宝というべき存在であった。
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しかし、昭和二十四年の九月、戦後の難局を乗り切り、わが社を軌道に乗せた彼は、自ら鉛版所を創設
するために退社し独立した。その後、株式会社三元社社長として鉛版業界のリーダーとして活動するとと
もに、当社の監査役としても長年にわたり重要な役目を果たしたのである。
さらに、言及しておかねばならないのは、國社長夫人のことである。十三年に死別した前夫人の労苦も
筆舌にしがたいものがあったが、戦中から戦後にかけて、山元社長の猛烈ともいえる働きぶり、超多忙の
陰にあって、幼い子を抱えつつ奮闘した國夫人の努力も大変なものがあった。戦火による罹災、困難を極
める食糧事情、社運を賭けての夫の悪戦苦闘といった悪条件が重なる中にあって、夫を助け、屈すること
なく気丈に、脇目もふらずに働き抜いたのである。
会社の従業員も二十一年の暮れ頃には五〇人を超していた。この人たちにも家族のように接し、まるで
母親のように優しく親切で、外部の人たちが後に彼女を山元夫人と知って驚くほどであった。山元社長の
人と事業を語るうえで、國夫人の賢明で献身的な働きぶりもさることながら、その人間的な温かさが及ぼ
した影響を決して忘れることはできない。
当時経理課長だった高橋ツネは、その頃の思い出を次のように述べている。
「私が入社したのは、三晃印刷が個人経営から法人にかわって間もない昭和二十一年九月でございまし
た。その当時の従業員は五〇余名だったと思いますが、経理部は私一人でございました。
印刷部門は四六全判三台、菊半裁二台から始まり、整版部門も鋳造機は一台、文選、植字もまだまだ充
実していなくて、隣りの活字屋さんから、よく活字を買って間に合わせたことなどを覚えています。
35 第二章 鉛版業から印刷企業へ
柳町工場は、どうにか戦災を免れた、建坪、延一五〇坪の木造建で、少し離れたところに一〇〇坪ばか
りの倉庫がありました。
工場の一角に、社長をはじめ家族の方が住んでおられました。そして、印刷機械を増設する度に社長夫
人が買い出しにお出かけになり、お手製のお料理にみんなで舌鼓を打ちながら試運転のお祝いをしたもの
です。ほんとうに、家族ぐるみ会社のために一所懸命でございました。
従業員も、敗戦の試練に耐えてこられた底力の持主と申しましょうか、男子も女子も、星を仰いで帰途
に就くといった、今ではおよそ考えられないことでございました 」
さらに彼女は、それに続く柳町工場時代のことについて綴っている。
「そして、みんなで頑張っておりますうちに東京電力の節電が始まりました。三晃印刷は共同印刷と同
じ線に結ばれましたが、停電、また停電に悩まされ、折角の受注をかかえながら、どうすることもできな
かった時代もありました。また、紙持ちで仕事をする場合には、おいそれと紙が自由に手に入らないばか
りか、全部現金取引ですから、実際に金庫の中の金を調べてから取引したことなどを覚えています。
柳町工場時代は、なんと申しましても小規模で、それだけ家庭的でございました。印刷健保の運動会に
は家族ぐるみで応援しましたが、わが社は、たいてい一位か二位の成績で、私なども、時には綱引きに狩
り出されたこともありました。
また、当時は、社長がご自分で車の運転をしておられました。そのころ、私は社長のお宅にお世話にな
っておりましたが、寒い時には、なかなか車のエンジンがかからず、共同印刷のところの坂を後押しして、
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やっと動き出す……そういうことを幾度か繰り返しながら出勤したこともありました。それから給料日に
は社長の運転で銀行へお金を引き出しに行き、持ち帰って袋詰めにしたことなども、忘れられない思い出
の一つです」
機械・設備への注力が飛躍の礎に
昭和二十二年三月に、トルーマン米大統領は、社会主義国に対して「封じ込め」政策をとることを発表。
米ソ対立による冷たい戦争の時代に入った。この年から翌年にかけての中国の革命の進展や朝鮮半島など
極東における情勢の変化に伴って、
アメリカの対日占領政策が変わり、日本経済の速やかな「安定」と「自
立」が強く求められることになった。そして、二十三年十二月、連合軍総司令部(GHQ )は日本政府に
対して経済安定九原則を指示、インフレの克服に向けてデフレ政策への転換を迫ったのである。
二十四年二月にはジョセフ・ドッジ経済顧問、続いて五月にはシャウプ使節団が来日し、インフレ抑止
の特効薬として、ドッジ・ラインと呼ばれる一連の経済政策が強力に推進された。確かに増税を基軸とし
たこの超デフレ財政によってインフレは終息したものの、一方で異常な不況を招いたのである。中小企業
の倒産が相次ぐとともに、官公庁の人員整理に加えて失業者が急増し、ドッジ・ライン実施後、わずか一
年間で解雇者は五〇万人を超えた。
このような深刻な経済の状況に追い込まれて購買力が落ちていたところに、用紙を供給していた日本出
版配給株式会社が、総司令部により閉鎖機関に指定されて解散という非常事態が起こり、戦後の出版ブー
37 第二章 鉛版業から印刷企業へ
ムはたちまち泡と消え去ったのである。そうしたこともあって、戦後派の中小出版社をはじめ、歴史のあ
る老舗でも倒産するものが少なくなかった。そして、この事態が、必然的に印刷業者にも大きな打撃を与
えたことはいうまでもない。
わが社にとってもこの影響は大きかった。お得意先であった出版社の倒産は数社にとどまらず、被った
印刷代金の回収困難や貸倒れ被害も少なくなかった。資金繰りに苦しむことも多くなり、時には、月末の
支払いに困って、街の金融業者のところへ走ったことさえあった。それでも、山元社長は、将来にわたっ
ての技術と品質、需要増への対応を考え、印刷機械の改善・更新や設備・施設の拡充だけは決して滞らせ
ることはなかった。
まだ混乱の極にあった昭和二十一年の春、中馬鉄工所に四六判ミーレー二回転印刷機を注文しておいた
ことはすでに記したが、最初の一台が入ってきたのは二十三年の六月だった。翌二十四年には、二台目の
ミーレーおよび菊全判一台が中馬から、四六全判停止円筒式一台が佐賀機械から入り、二十五年には、菊
半裁テープを中馬と佐賀から一台ずつ、それに四六全判停止円筒式(佐賀)一台を購入した。
さらに、二十六年には、四六全判テープ(中馬)二台が入荷し、合計九台がすべて最新鋭機にとり替え
られた。それとともに、同年、山元社長は、新台の停止円筒式のものをすべてテープ式に改めて印刷の鮮
明度を高めるなどをしている。印刷業のプロとして、何はさておき最高品質のものを提供するのだと、あ
らゆる面にわたって改善し、改良を加えて、業務内容の充実に力を注ぎ続けていたのだった。
この頃の模様を、当時の取締役印刷部長で、後に相談役を務めた椿太助は、次のように伝えている。
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「わが山元社長は、戦前より〝ミーレーの中馬〟として名高かった都内一流の印刷機メーカー、中馬鉄
工所をいち早く訪れ、二回転式四六判印刷機(通称、ミーレーと言い、当時の町工場には未だ一台も無か
った)二台の購入契約を結んだが、当社に納められたのは、中馬の戦後における操業再開第一号機であっ
た。
ミーレーは、その性能抜群で、スピードもあり、印刷も鮮明で、特に写真版の印刷に向いていた。併し、
われわれには、全く未知の機械で、わが社の印刷部員二名が数日間、日本書籍に技術の習得に通ったもの
だった」
また、先述の高橋経理課長の「回想」にもあったように、当時の電力事情は極めて悪かった。そのため、
停電による休業を少しでも避け、お得意への迷惑をできるだけ減らすとともに、生産の低下を防ぐ必要が
あり、小工場には不似合いの変電設備まで導入した。柳町工場程度の規模で、変電設備をもっているのは
例がなかったのである。自動鋳造機も少しずつ新しいものに替えながら増設していった。エリノミスタッ
ト(静電気除去装置)を取り付けたのも、柳町界隈では最初であった。
つねに最善を求め、能率を上げ、よい仕事をして、お得意への真の満足を提供するために役立つことで
あれば、万難を排して決断し実行する、これは山元社長の終始一貫した企業家としての信念だった。それ
は、先を読み、考え、状況に応じて行ってきたこれらのすべての施策が物語ることでもある。
経営面においても、昭和二十三年二月、資本金を七〇万円に、続いて九月には一五〇万円に増資して基
盤の整備を行っている。そして、この年の二月には、後に専務取締役として当社の発展に腕を振るった主
39 第二章 鉛版業から印刷企業へ
藤敏郎が入社しており、九月には、整版部が手狭になったため倉庫の一部を建て増しして、そこに鉛版係
と鋳造係を移している。さらに、昭和二十六年九月には、文京区白山御殿町に第二工場を建設し、生産の
拡大と能率の向上を計った。
戦後の操業再開から、先手を打って次々に行ってきた人材、技術、機械、設備への手立てが、終戦直後
の混乱から少しずつ落ち着きを取り戻すとともに力を発揮し、企業としての着実な発展への軌道に乗ると
ともに、
その印刷技術の優秀さは、
出版社をはじめ関連業界で広く知られ、高い評価を受けることとなった。
この間、山元社長は、二十四年四月には東京印刷工業協同組合理事に、二十五年九月には同協同組合文
京支部長に推され、業界の先達として社会的地歩を固めつつあった。また、二十四年には、その後の大き
なお得意となる光文社、中央公論社との取り引きを開始している。二十五年には、光文社、河出書房、角
川書店から受注。二十六年には、小峰書店、井上英語、講談社、郁文堂、創元社、みすず書房、筑摩書房
などから新たな受注を得て、三晃印刷は名実ともに成長し、新たな飛躍への展望を拓くことのできる地点
にまで到達したのである。ちなみに、二十六年度のベストセラー上位五点のうち、
『少年期』『武蔵野夫人』
『人間の歴史』
(いずれも光文社)の三点をわが社が請け負っている。
印刷業としてのスタートから一〇年
昭和十六年十一月に、
「三晃社印刷所」として印刷業に進出し、二十一年六月には現在の名称である「三
晃印刷株式会社」に商号を変更したわが社であるが、すでに記したように、戦前・戦中・戦後すぐの混乱
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期を、山元社長の身を粉にしての働きと従業員の協力で乗り切り、二十六年十一月には、三晃の名のもと
に印刷業に従事して、満十年を迎えた。それを記念して、塩原温泉へ全従業員を招待(七三名のうち五九
名出席)という形で日頃の働きぶりに感謝し、式典とともに盛大な懇親会を催したのである。
このように、わが社は社業の進展とともに従業員も増え、着実な歩みを続けていたのであるが、当時の
社会、経済情勢はどうだったのだろう。振り返ってみると、日本の経済は戦争によって疲弊し、戦争によ
って救われるといった歴史の逆説のようでもあるが、一つの大きな分岐点を迎えていた。
前にも触れたが、インフレに苦しんでいた日本経済に対する金融財政面からの再建策としてGHQ の経
済顧問・ドッジから指示された、いわゆるドッジ・ラインによる産業界の金詰まりはひどく、日本経済は
まったくといっていいほど活力を失い、景気の谷底のままに推移する安定恐慌の様相さえ示していた。こ
のような時に、即ち、昭和二十五年六月に突如として起こったのが朝鮮動乱である。
戦後の米ソの冷たい対立を背景に、朝鮮半島の北緯三八度線で発生した南北朝鮮の紛争は、韓国支援の
ため国連軍が派遣されて、一時、北側は制圧されたかに見えたが、十一月には中国軍が参戦して形勢は逆
転し、双方とも膨大な兵力を投入、戦乱の様相は一進一退して激化、泥沼化していった。日本は、物資補
給の後方基地となり、戦場で戦う国連軍兵士の帰休地ともなった。その結果は、月平均一〇〇億円の特需
(米軍の日本産業への発注)
、二〇〇億円の輸出となって現れ、これが戦後の日本経済に活力をもたらし、
復興の基礎ともなった。
朝鮮戦争は、二十八年七月の朝鮮休戦協定をもって終わりを告げるのであるが、こうした背景を踏まえ
41 第二章 鉛版業から印刷企業へ
つつ印刷関係について見てみると、特需による好ましい影響はほとんど出ず、出版界の不況はいぜんとし
て続いており、業界の競争はますます激化して、原料高の製品安という状態に陥っていた。その結果、倒
産にまで追い込まれる業者も少なくなかった。いわゆる特需景気も、軍需関連を中心にしてのもので、印
刷産業を潤すまでには至らなかったのである。
わが社に関して言えば、昭和二十七年四月発行の「社報」によると、同月十五日現在の従業員数は、事
務所一二、印刷部二四、同分工場五、整版部三七、鉛版部八、総員八六となり、前年より一三名増えてい
る。しかも、同じ四月には、それまで縁故に頼って採用していた従業員であるが、初めて「三晃印刷幹部
社員候補募集」の広告を新聞紙上に載せて広く人材を募った。これなども、三晃印刷が発展への新しいス
テップを踏み始めたことを物語る出来事といえよう。
また、同社報には、山元社長が「私の夢」と題して寄稿している。その後半には、会社の近未来像を次
のように記している。
「…(前略)……… 私の次の計画(これは皆様から夢だと笑われるかもしれませんが)でありますが、
現在は工場が、鉛版、倉庫、第二工場と三カ所に分かれて非常に不便を感じております。不便ということ
は、非能率的と言い換えられます。
この非能率は、会社の運営上、長年月の間に相当の損害になるのではないかと思います。これを考えま
すときに、どうしても、これらを一カ所に集め得る工場を建設することが急務だ、と考えております。そ
して、その工場は、労働基準法、労働衛生規則、安全規則にかなった建築設計をし、能率的な、無駄のな
42
いものにしたい。
また、いかに良い設備をしても、現工場社屋のような木造では、耐震耐火の点ではどうしても不安であ
るから、少なくとも鉄筋建築には致したい。実際のところ、現在の工場では、地震または火災など、有事
のことを考えると、日夜、心が安まるいとまがありません。
一、地震、火災に耐え得る能率的、理想的な工場をぜひともつくりたい。
二、皆さまがたに愉しく、朗らかに過ごして頂ける職場にしてゆきたい。
三、規模小なりと雖も、質において権威があると言われる工場(山椒は小粒でもピリリと辛いという処)
にしたい。
これが現在、私が描いている夢であります。私は、この夢を、ぜひ夢に終わらせないでゆきたいものだ、
と考えております。皆様のご協力を切にお願い申す次第でございます」
後に詳述するが、輪転印刷部を設けたのは二十八年六月、輪転印刷機を発注したのは二十七年の十二月
である。
「私の夢」を書いた二十七年四月には、各部門を一カ所に集めることのできる、総合的で能率的な、
しかも耐震、耐火の鉄筋工場の建設が何よりも優先されるべきということで、この時点では、輪転印刷に
早急に取り組むことには触れていない。いや、文章には書かなかったが、業界や受注の流れからして輪転
印刷への取り組みは必然で、そのためにも高価な印刷機械を安心して稼動させることのできる、安全、効
率的な工場の建設こそが長期的な事業展開からみて、急務と考えていたのであろう。
当時の三晃印刷の経営内容は、決して悪くはなかった。いや、むしろ良い方の上位にあったといったほ
43 第二章 鉛版業から印刷企業へ
うが正しいかもしれない。まだ、企業としては中小の部類に属し、時代の景気や出版事情などの波にもま
れるなどして、かなり長く、苦しい歳月ではあったが、山元社長の適切な対応と従業員の努力で、急カー
ブを描いて成長を続けていた。
しかし、この頃になると、印刷業者の数も増え、競争が激しく、業界は飽和状態になってきてもいた。
当時のわが社は活版印刷(平台)ひとすじであり、活版印刷の中でも文化的意義は大きいけれど浮沈の激
しい出版印刷を得意としており、もちろん顧客の選定にもよるが利潤の薄いことも多く、経営的には非常
に難しい分野と言ってよかった。実際に、
「出版印刷業をやれるような人なら、どんな事業でも経営でき
る人だ」と言われていたぐらいである。
幸いにも、山元社長のリーダーシップによる企業努力で、歴史のある確かな大小出版社のお得意に恵ま
れていたこともあって、二十七年度もベストセラー上位五点のうち、『人間の歴史』『ニッポン日記』(筑
摩書房)
、『千羽鶴』
(中央公論社)の三点の印刷を引き受け、その実績からして平台活版印刷業者としては、
すでに発展の限界に達するまでになっていた。すなわちこの時期、三晃印刷は、今後の発展、成長を期す
るなら、機械、技術を含めて思い切った印刷業としての質的転換を必要とする曲がり角にさしかかってい
たと言えよう。そして、この転換──ステップ・アップこそ、山元社長の「私の夢」を実現しつつ、将来
への発展、成長を確かなものにする鍵だったのである。
さてここで、当時の従業員の状況についても記しておこう。先に触れたが、二十七年に初めて公募・試
験・採用といった雇用方式で人材を広く募ったのであるが、その時に入社し、後に営業部長を務めた大脇
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一郎は、
「寮の誕生」と題した五十年頃の回想で次のように述べている。
「昭和二十七年四月、就職難の最中に上京した私は、毎朝、新聞広告の求人欄に目をさらし、ラジオの
求人放送に耳を澄ますのが日課となっていました。『三晃印刷幹部社員候補
募集』の新聞広告を見たの
がその頃です。三〇余名応募し、四名の採用が決まり、晴れて三晃印刷の社員となったわけです。
衣食住の困難といったら、現在と比べて全くお話にならず、まことに粗末で苦しい生活でした。若い私
たちの、そんな様子を社長がご覧になって、寮の建築に着手されたのです。その第一号寮生として、高田
氏、大脇が入寮、続いて岩倉、星野両氏が入りました。こうして食住の心配もなくなり、安心して仕事に
精を出すことができるようになりました。私たちにとっては、今の子どもたちが、自分の部屋を与えられ
た程の喜びでありました」
入寮により安住の地を得た喜びにあふれる一文であるが、朝鮮戦争の特需に沸いていた時代だったとは
いえ、その恩恵は大手企業など社会の中枢のものであって、庶民にとっては就職難であり、衣食住、何も
かにもが不自由で厳しい状況にあった。
この寮は、文京区白山御殿町の第二工場の敷地に建てられたもので、その後に続く「若葉」など充実し
た福利施設の先鞭をつけたものである。
この最初の寮については、後の副社長である若き主藤敏郎が、「完成しましたよ」と山元正宜社長に報
告すると、彼は大粒の涙で頬を濡らし深くうなずいたという。一九歳で上京し住居を始め生活に苦労した
日々への思い、地方からの若い従業員が安心して生活し仕事に取り組める場を用意できたことへの感慨の
45 第二章 鉛版業から印刷企業へ
胸に迫るものがあったのであろう。社長自身はまだ老朽家屋に住んでいるにもかかわらず、従業員の住ま
いを第一義に考えての新築であった。
この様子に感動した主藤敏郎は、この人となら生涯一緒に仕事をすることができると心に決めたと語っ
ている。これは、後に現・取締役習志野工場長の川勝勲が個人的な酒席の折に直に聞いた、今でも忘れら
れないエピソードであるという。
46
第三章
輪転部門による業容の拡大
輪転印刷への志向
政治、経済、社会などあらゆる面で戦後処理とその復興への歩みを続けていたわが国であるが、昭和
二十七年には、対日講和条約が発効して独立を果たした。連合軍がアメリカ軍に変わったが、学生や労働
者などがその支配に抵抗し、反権力闘争も激しさをまし多くの人の血が流れた。血のメーデー事件があっ
たのもこの年である。さまざまな社会現象、事件、さらには、池田勇人通産相の「倒産・自殺もやむなし」
の発言で辞任などもあったが、マクロ的にみれば、朝鮮戦争の特需もあって経済は急激に拡大し、社会風
俗では、ラジオドラマ「君の名は」が大ヒットして明るい話題になり、新しい時代へ向かっての展望が開
けてきた頃でもあった。
印刷業に進出して十年余、成長は続けていたものの、わが社にとっては経営上の一つの判断ミスや停滞
47 第三章 輪転部門による業容の拡大
が致命傷となりかねない、将来に向けての大きな分岐点にさしかかっていた。しかも、池田発言でも読み
取れるように中小企業や出版、印刷業は、特需の恩恵をこうむることもなく不況下にあったのである。
昭和二十八年一月、山元社長は社報の「年頭に当って」の寄稿で次のように述べている。
「一般の不況の中でも出版界の不況は、印刷業の経営を非常に不安定なものにしつつある。加えて、昨
秋からの停電、ガス供給の停止等による打撃は、決して少ないものではない。そして、今年の予想も極め
て悲観的である。
このような状況は、丁度、私共が昭和初年ごろ経験した、いわゆる恐慌時代と称する頃より、なお悪質
な経済状況のような気がする。印刷業者の集会でも異口同音に全くひどい時代になった、と言っている。
そんなわけで、昨今、よく諸君に話していた、私の多年の宿願である、焼けない工場の建設も、当分延
期しなければならなくなった。それは、さきに話したように、経営上の利潤の幅が少しずつ狭くなって、
たとえ金融的な措置で立派な工場をつくっても、経営の合理化はむずかしくなってきたからだ。会社の内
容を、もっと、もっと豊富にしてから、という考えに変わってきている。
この一月から、お得意先に印刷単価の値上げを申し入れているのも、採算上の限界に達してきたからで
ある。
新しい年を迎えて、印刷業界に吹きつける嵐は、相当激しいものと覚悟せねばならぬ」。そして、当時、
社内で浮上していた賃金問題にも論及し、
「だが、やはり印刷界の現状よりして、賃金の値上げを論ずる
には、高能率をもってしなければならない。私が今度、輪転機の設置を試みようとするのも、かかる理由
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からである。普通の平台の活版印刷機をもってしては、能率の増進にも限りがあるし、自由競争の激烈な
現段階においては、高が知れている。その故をもって、従業員諸君に対する賃金も、中小企業における限
界があるような気がする。
大会社における高賃金は、資本の力でする高能率機、あるいは他の容易に真似のできない、特殊な機械
設備による増収を計っているからではないかと考えている。率直に言って、印刷企業における賃金の占め
るパーセンテージは大きな分野をしめており、赤字経営の工場は、ほとんどが低能率、高賃金のせいであ
ると言っても差し支えないであろう。
そんなわけで、私は昨年来、諸君に言明していた焼けない工場の建設を一時、見合わせ、先ず利潤の多
い仕事を手がけ、会社の内容をもっと豊かにする算段を考えている。その一つが、先に述べた輪転機の設
置である。輪転機について営業的な面も、一応そちこちに当っている。先ずこれをやってみたい。工場は
石切橋前の地所に設置する。稼動は早くて七月頃となるだろう。
この計画が成功すれば、会社の内容も、もっともっと良くなるだろうし、諸君に対しても、少しはよい
待遇をすることができるのではないか、と考えている」
と述べ、当時の活版印刷(平台)の限界について触れ、輪転印刷工場の必要性と実現への決意を語ってい
る。
前年の春に寄稿した「私の夢」では、輪転印刷機導入には触れていず、燃えない工場の建設を優先する
考えのように読み取れる。しかし、わが社及び業界を取り巻く課題、景気、労働賃金問題などを含めた時
49 第三章 輪転部門による業容の拡大
代状況は、山元社長に輪転機導入による高能率化、大量生産などへの対応をベースにした経営体質の強化
が先決という新たな決断を迫った。そして、創業以来、つねに時代の流れと変化とに敏感に反応して手を
打ってきた先見性と的確な判断力、転機を必要とする場合は、過去の経緯にとらわれず新たな方向に進む
という決断力が、ここでも発揮されたのである。
輪転機を導入、設置することは、会社としては大変な転換である。大きな飛躍であるが、人員の配置を
含めて業態が変わるほどの出来事で、冒険とさえ言ってよいほどの決断であった。山元社長が、現実の印
刷業界の趨勢を洞察し、この時点、タイミングで中小活版印刷業者が将来に渡って生き残っていく鍵とな
る手立てとして、
思い切って輪転印刷に踏み出したことは、三晃印刷のその後の発展を決定づけた措置だっ
たのである。
輪転印刷の果たしてきた業界での役割
ここで、輪転印刷をポイントに印刷の歴史を振り返ってみよう。印刷業は不況に強いとも言われるが、
出版業界は不況の時に大量生産時代を迎えていることがわかる。不況だから、廉価な出版物でなければ売
れない。では、
安くするにはどうするか。まず、マスコミなどを最大限に活用して宣伝・広告を積極的に行っ
て売れる下地をつくり、大量生産によって単価を下げる。それに、不況の時は、用紙なども値下がりして
コストの低下を助け、いっそう安い印刷物がつくれる循環になる。その大量印刷を可能にしたのが、輪転
印刷である。
50
昭和二十七、八年頃には、すでにマスコミを始めとしたさまざまな情報戦略を練り、仕掛けをつくって
需要を創り出していくアメリカ式出版販売技術が日本でも進展し、大量生産、大量販売の優位性が判然と
してきていた。実際、二十八年には数種の雑誌がそうした販売技術を駆使して驚異的に伸びており、こう
した場合には輪転印刷でしか対応できず、また少し遡って二十四年から教科書検定制度が実施されたこと
に伴い、短時間に大量生産の可能な輪転業者がそれを受注し、有卦に入っていたのも確かなことだった。
当時、東京で稼動していた活版輪転機の数はまだわずかなものであった。詳しい資料はないが、教科書
と大量に発行されていた数点の雑誌の印刷に用いられていた輪転機のほとんどは大手の印刷会社に保有さ
れていて、その他は、その下請か自家印刷用の輪転で二〇台に満たず、しかもその半数は戦前からの機械
ではなかっただろうか。
輪転印刷は印刷の歴史を語る上でも重要な役割を持っていて、川田久長著の『活版印刷史』では、輪転
印刷の沿革について、次のように記している。少し長くなるが、印刷・出版史の変遷の一端が分かるので
引用してみよう。
「大正年代に入ってから以後、東京の大印刷工場においては、活版輪転印刷機使用の傾向が著しく目立っ
てきた。一般の出版界は不況の域を脱しなかったが、婦人向、少年少女向及び大衆向の雑誌類が次第に部
数の増加を示して来たことと、大工場の経営者が漸次、労働力の節約に目ざめて来た結果とが、かくあら
しめたものと見てよいであろう。
すなわち、明治三十七年にフランスのマリノニ社製菊判六四ページ掛活版輪転印刷機を据付けて、民間
51 第三章 輪転部門による業容の拡大
の普通印刷工場における輪転機使用の先鞭をつけた博進社工場の後身である博文館印刷所(後の共同印刷)
は、ますます輪転印刷機を増設し、株式会社秀英社(後の大日本印刷)においては、大正三年の二月、ド
イツのケーニッヒ・バウアー社製菊判三二ページ掛活版二色刷輪転機を据付けたのを最初として、更に大
正六年七月には、アメリカのアール・ホー社製菊判六四ページ掛活版輪転印刷機が据付技師とともに到着
した。ついで、その翌七年十一月、その当時まだ中村鉄工所に勤めていた浜田初次郎(後の株式会社浜田
精機鉄工所社長)の設計製作した、最初の四六倍判三二ページ掛活版輪転印刷機が、やはり株式会社秀英
社の市ヶ谷工場に設備されて、
『実業之日本』その他の印刷に充てられた。
その後、
大正十三年の暮のキング創刊による諸雑誌への刺激と、つぎに大正十五年の末からの改造社『現
代日本文学全集』によって始められた『円本時代』によって輪転印刷も拡大し、遂に昭和九年の主婦之友、
婦人倶楽部の、今なお語り草となる大量生産時代は輪転印刷の全盛時代であった。各大会社はこぞって輪
転機を設置した。だが、これを境として支那事変、大東亜戦争に至り、終戦一〇年の頃までの輪転印刷に
対する需要は、大会社数社による既設輪転機で充分な時代であった」
山元社長が輪転印刷機導入について触れたのは、すでに記したように二十八年の年頭である。引用の最
後にあるように、当時の状況は、大会社の既設輪転機で足りていた時代であった。しかも、不況の波にも
まれて厳しい経営環境にあった。そんな時代だからこそ、出版界の歴史的な流れや現在の動向を把握し、
活版印刷業者としての将来を見据えて新たな進路を決め、実行に踏み切ったのである。厳しい時代状況の
底での決断、そして上昇への努力、これは昭和十六年、企業整備という名のもとに企業整理が行われてい
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た戦時下にあえてそれまでの鉛版業に加えて印刷業へ進出し、成長・発展へと導いたことを彷彿とさせる
出来事でもあった。
命運を賭けての資金投下
新たに輪転工場を建設することを決意した山元社長にとって、何はさておき解決しなければならない大
問題は、資金の調達である。この種の仕事はむしろ苦手としていたようで、大変な覚悟と努力のいること
だった。というのも、これまでも述べてきたように、社長としての事業信念というべきものは、あくまで
自己本来のペースを守り、一歩一歩、堅実に事業を伸ばしていくことである。そのため、他から多額の融
資を受けてまで設備投資をして事業の拡張を計ることは、あえて考えていなかったものと思われる。それ
まで、運転資金の手形割引でさえ、なるべく銀行のお世話にならないで、手持資金の範囲内で運用してい
く考えが強かったのである。実際、そうしていた。従って、銀行の信頼は厚くても、そこから資金を借り
た実績はなかった。
しかし、企業としての成長とともに、生産力、生産性の増強が不可欠になり、技術の進歩・革新に伴い
機械も高額化し、資本の投下も巨大にならざるをえない。印刷の分野においても、印刷工学の急速な進歩
と業界の激しい競争に対応していくためには、絶えず機械設備の更新が迫られており、それなりの資本投
下が必要になる。そして、このような段階になれば、もはや自己資本だけで機械設備、人材を揃えて経営
していくのは、困難というか不可能なことと言わざるをえない。わが三晃印刷の場合も、すでにその段階
53 第三章 輪転部門による業容の拡大
にきていたのである。
借金は社長自身の主義として避けたいと思っても、八〇名を超える従業員に対する経営責任を果たして
いくためには、この段階で新たな資本を入れ、輪転印刷機の導入をはじめ将来に向かって必要とする設備
を整えなければならなかった。三晃印刷は、すでに、創業者である山元正宜社長の事業であって彼の事業
ではないと言われるところまで発展し、広く社会性、公共性を持つに至っていた。
新たな事業展開のための資金調達は、増資による方法もあるが中小企業の場合には無理があり、やはり
長期資金の銀行借り入れに頼らざるを得ない。わが社の場合も同様だった。そこで、東京印刷工業協同組
合を介して、商工組合中央金庫に設備資金の借り入れを申し込んだ。実際のところ、初めてのことで融資
への不安はあった。幸いにも、東印協の金融関係にたずさわり、組合員の面倒をみていた、当時の浜本参
事が親身になって尽力してくれたこと、また、初めての取り引きのため厳しく調査を進めていた商工中金
からも、当社の堅実な経営方針と実績、すっきりとした健全な経理内容が分かるにつれて信用と好意的な
助言までもらい、希望通りの金額を借り入れることができた。
さっそく、機械(A倍判書籍輪転機二台、および輪転鉛版諸機械)は、東京機械製作所に依頼した。工
場 敷 地 と し て は、 前 年 購 入 し て お い た 新 宿 区 水 道 町 二 九 番 地 の 一、四 八 五 平 方 メ ー ト ル が あ り、 こ こ に
二三七・六平方メートルの工場と一五八・四平方メートルの倉庫をたてたのである。輪転部の責任者は、永
く共同印刷に勤め、経験豊富な輪転技術者として知られていた小池荘作に委嘱し、オペレーターも集めて
もらった。このようにして、わが三晃印刷の輪転印刷部は、昭和二十八年の六月に誕生した。
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ところが、さて、というときに困った問題が持ち上がった。当時は、わが国が戦後処理の多くを終えて
独自の道を歩み始めた頃であり、政治、経済、社会のすべての点で激しく動き出していた。賃金を含めた
労働条件を巡る労資のトラブルも多かった。そんな時代状況もあって、東京機械製作所の従業員がストラ
イキに入ってしまったのである。
七月に予定されていた輪転機の完成が遅れ、一台は九月、もう一台は翌月の納入となり、二台揃って稼
動し始めたのは、ようやく十月に入ってからであった。この間の二か月の遅れは、会社の事業計画にとっ
て少なからずのダメージとなったが、関係する人たちの必死の努力で産みの苦しみを味わいながらも、輪
転部の仕事を軌道に乗せることができた。
そして、この年、新潮社との取り引きが開始され、以後、数多くの文芸書の発注を得て、当社の印刷し
た書籍がベストセラーに名を連ねることになる。
輪転フル回転で急成長への助走
全面的とは言えなかったが、一時、わが国の経済を活気づかせた朝鮮戦争によるいわゆる特需景気も、
二十六年を頂点として徐々に減退し始めた。特需景気にも浴することのできなかった出版界は、不況の状
態で推移していたが、その不振ゆえにこそ、各出版社は、慎重に比較的安定性のある雑誌の発行を手掛け
るようになっていた。また、この時期、昭和初期の経済恐慌時代に出版して大ヒットした改造社の『現代
日本文学全集』のひそみにならって刊行されたと思われるものに、角川書店の『昭和文学全集』がある。
55 第三章 輪転部門による業容の拡大
この成功に触発されて各社の文学全集合戦が始まったが、思惑通りにはいかず、かつてのような出版ブー
ムは起こらなかった。中には、全集で一山当てようとして投機的に大部数を発行したが、売れ行き不振で
途中で中止となったり、それが命取りとなって倒産に追い込まれる出版社も出てくる始末で、印刷業界の
状況も深刻となってきていた。
こうした不況の厳しさが増す中、ついに昭和二十八年、印刷業者は、設備制限、受注・価格制限など需
給調整の法的規制によって業界の安定を図ろうとして、「中小企業安定法」の指定を受けた。この安定業
種指定に伴って調整組合づくりが行われ、二十九年二月、新潟県に生まれた印刷工業調整組合を皮切りに、
各都道府県にぞくぞくと調整組合が結成されていった。その後、三十年十二月には、全国組織の日本印刷
工業調整組合連合会が結成されている。しかし、三十三年三月に「中小企業安定法」が廃止されたことに
より、調整組合は工業組合に移行し、その役割を終えた。この間、山元社長は、東京都印刷工業調整組合
の常務理事を務めている。
さて、前述のように業界全体としては深刻な不況だったが、当社が参入したばかりの輪転印刷界はどう
だったのだろうか。雑誌や全集の発行が大量になり、活版輪転機での対応が求められているのに輪転機設
備そのものが少ないために、わが社の受注も急増し A, 倍判書籍輪転印刷機は昼も夜もなく回り続けてい
た。
このような活版輪転のフル稼動に伴って、極めて重要な緊急の課題となってきたのが、整版部門と印刷
部門との不均衡によって起こる営業、業務上のいろいろな障害であった。特に、スピードがあり能率のよ
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活版輪転機 ( 東京機械 )
い輪転印刷の生産量にみあう整版部門の量産化、迅
速化は、輪転印刷の受注によって生産性を挙げると
いう当時の業務課題の根幹に関わる問題であり、一
日もゆるがせにできない至上命令となった。
しかし、工場ではすでに既存の人員や諸設備の状
況から限界にきており、かといってすぐに工場を拡
大したり、人員、設備を整えることは難しく、残さ
57 第三章 輪転部門による業容の拡大
れた方策は、整版作業の機械化、業務体制の徹底し
た合理化を図るなどして質的な転換を遂げていくし
かなかった。そこで、まずモノタイプの導入に踏み
切り、昭和二十九年七月、TK型モノタイプ、八ポ
三台、九ポ三台を東京機械製作所に発注した。これ
らの機械は、十一月から一台ずつ次々に入荷し、動
き始めた。
立っている。また、雑誌の作り方、内容にも一つの
ているが、一方、限定出版とした豪華本の刊行も際
二十九年頃の出版界では、新書版ブームが起こっ
輪転工場
変化が現れてきていた。それまでの雑誌は、大体、読む本であり、考える本であった。それが、戦後にどっ
と流入したアメリカ文化の影響や、
映画を始めとした映像文化、ファッションへの関心の高まりなどもあっ
て、写真や挿絵、漫画などが多く掲載されたヴィジュアル系の本が大衆受けするようになってきていた。
ヴィジュアル要素を重視した本となれば大型のものが向いている。それまで、雑誌と言えばA5判が主
で、B5判は特殊なものだけだったが、このように大衆の読書傾向が変わってくれば、それにつれて一般
雑誌も見栄えのする大型化を採らざるをえない。特に、大型大衆雑誌の「平凡」などは、じつに百万部を
超える驚異的な伸びを示し、これが他誌にとって大変な刺激になった。婦人雑誌もこの傾向に遅れてはい
なかった。
「主婦之友」が最初に規格を変え大型化した。そして、他の婦人雑誌、小学生雑誌などが続いた。
ところが、当時、印刷所に設備されていた活版輪転機は、教科書の印刷に向けてのA判輪転機が多く、
B判輪転機を備えているところは極めて少ないこともあって、なかなか急増する需要に追いつくことはで
きなかった。もちろん、当社に対してもお得意先の出版社からB判輪転機の設置を要望する声が強くなっ
た。B5判の雑誌がどんどん増えており、しかも雑誌は定期刊行物なので、B判印刷機があれば、計画生
産ができる有利さがある。当社の場合、A判輪転印刷には実績があり、A、Bと規格の異なる印刷機の組
み合わせによる対応は、受注増、生産力のさらなるアップを可能にし、工場の効率的で、安定的な運営に
もつながる、こうした経営判断からB判雑誌輪転機の導入を決定した。印刷機は、今回も東京機械製作所
に依頼した。
一台目の完成予定は三十年三月であったが、またしても東京機械の争議のために遅れてようやく五月始
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めになって稼動できるようになった。そして、七月には、少年画報社発行の「少年画報」(当時の発行部
数二〇万部)の受注によって始めて月刊雑誌を手がけることになり、輪転印刷の仕事はまさにフル回転の
状態になった。二台目のB判輪転機が動き始めたのは九月、この時点で従業員は一五〇名を超え、この二
年余でほぼ倍増した。なお、この年、元顧問の山本章正が経理部長として、元常務取締役・営業本部長の
忠岡義敬が研修生として、それぞれ入社している。
石切橋工場の建設
昭和三十年五月に稼動を始めたB判雑誌輪転機は、導入に際してのもくろみ通り当時の出版界のニーズ
に合致し、それこそ昼夜兼行で動かしても、なお間に合わぬといった繁盛ぶりであった。中でも、同年七
月に印刷を受注した「少年画報」の部数の伸びは目覚ましく、二台ではとても対応しきれなくなったばか
りか、他の得意先にまで迷惑をかける事態になったのである。こうしたことに加えて、従業員の急増など
諸々の営業事情からしても、B判輪転機の増設を決意しなければならなくなった。三十年の秋のことであ
る。
昭和三十年といえば戦後十年、この年から三十一年にかけては、世界の自由諸国が史上最高ともいえる
好況を謳歌した時代で、わが日本においても、三十年の下半期からの輸出ブームを契機にいわゆる神武景
気がはじまり、高度経済成長のスタートの年となった。
この神武景気も、印刷業界にとってそれほどの好況をもたらしたわけではなく、わが社においてもB判
59 第三章 輪転部門による業容の拡大
輪転部門こそ活況を呈していたが、全般的にみれば、特に景気がよいとは言えなかった。しかし、景気が
上昇へ向かい、経済成長への明るい見通しが見えていたことは、金融面からいっても積極策を採りやすい
条件下にはあった。
当時を振り返ってみると、社会は恐ろしいほどのテンポで変わっていた。三十年にはラッシュアワーの
新宿駅のホームに乗客を車内に押し込む押し屋やトランジスタラジオが登場し、三十一年には、国連に加
盟して国際社会の一員となり、「太陽の季節」
が芥川賞を受賞、この作品に現れた若者の生態に戦後は終わっ
た感があった。実際、この年の経済白書は、
「もはや戦後ではない」と宣言している。
印刷の技術面での進歩も激しかった。
機械をとっても、一、二年前のものをそのまま増やしていたのでは、
とても厳しい競争に勝てない。
当社が最初の輪転印刷機を発注したのは、昭和二十八年である。しかし、たっ
た二年ほどの間に、輪転印刷機製作上の技術水準は急速に上がり、速度、能率その他の面で、はるかに優
れたものができるようになっていた。
凸版印刷では浜田精機に、大日本印刷では日立に、それぞれ開発を依頼して高速輪転機の製作に取りか
かっていた。特に、日立の高速輪転機の全貌が見えてくるにつれて、その驚異のスピードと効率的なメカ
ニズムが業界で評判になり、当社にもその性能の素晴らしさが伝わってきた。
山元社長の機械設備に対する考え方は、折に触れて断片的に述べてきたことではあるが、「最も価値の
高いものを創るためには、ともかく最高水準のものを必要とする」ということで、一貫して変わるところ
がない。こうした方針のもとに、昭和三十年十月、やはり東京機械製作所にわが社の綿密な資料を提供し
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て、できる限りのスピードと能率的な機械の設計、製作を依頼した。そして出来上がったのが、B5判高
速雑誌輪転機である。この機械については、高速化をはかるために従来のメタル軸受をボールベアリング
に変え、給油を自動化し、給紙から排紙までの流れを長くした。さらに、非能率的なB6判折装置を除去
してB5判専用とした。このようにして、当社の輪転印刷機は、いろいろな曲折を経ながら時代の要請に
応えつつ整備されていった。
そして、わが三晃印刷は、経済の高度成長、機械技術の急速な進歩などと軌をいつにするかのように、
ホップ、ステップの勢いで成長し業態も拡大していた。増大していく機械・設備や一五〇名を超えて増え
続ける従業員、ここまでくると、それを受け入れるための社屋がどうしても必要になる。昭和二十七年の
四月に、山元社長は社報で、
「私の夢」と題して耐震、耐火の総合的で能率的な工場の建設を発表したが、
情勢の変化により輪転機の設置が急務となり、着手の順を変更せざるをえなかったことは、すでに記した
通りである。
だがここにきて、業務を円滑に運営し、導入されてくる新鋭機などをすみやかに動かすためにも、新工
場の建設は否応なく進めなければならない懸案事項となった。「私の夢」はおよそ四年を経て、まさに現
実となった。建設用地は、昭和二十七年に決定していた石切橋である。
この時代のことについて、昭和三十年二月以来、経理部門の責任者として活躍した山本章正は、顧問時
代に次のように回顧している。
「漸増する活版印刷機を導入するに当り、これらを収容する工場建設や、得意先の用紙、刷本などを預
61 第三章 輪転部門による業容の拡大
かる保管倉庫が当然必要になる。火災の心配のない不燃性の建造物で、しかも採光・風通のよい、働き易
い工場というのが必須条件となる。
このような本格的な工場の建設は、会社としても初めてのことでもあり、衆知をあつめて慎重に計画を
練り、現場の意見も充分に採り入れて実行に移した。設計は幸一社建築事務所に、建築は株式会社朝日組
に、それぞれ依頼し、昭和三十一年十二月、鉄筋コンクリート造り、三階建一、五〇八平方メートルの第
一期工事の完成を見た。
この頃は、水道町界隈には未だ空地が見られ、工場も少なく、ビルらしいものも無かったので、新築社
屋を誇りに思い、胸を張って通勤したものだった。
もともと石切橋工場の建設は、五カ年計画に基づいて実施されたもので、メインバンク商工組合中央金
庫からの融資などの関係で、一年おきに、第二期、第三期工事の着工が予定されていたものである。
以上のようないきさつから、一年おいて、鉄筋コンクリート造り、地下一階、地上三階、八三三平方メー
トルの第二期工事(施工・立野建設株式会社)が昭和三十三年十二月に完成した。
さらに一年おいての第三期工事は熊谷組への発注と決まった。これは、地元の仕事はぜひ熊谷組にと同
社の幹部の方々が何回となく来社され、工事については他社に比し優るとも劣ることはない旨強調され、
落札されたのである。熊谷組の面目にかけて地元の工事は他社に譲れぬ、という建設業者としての強い意
地をまざまざと見せつけられた。
かくして、昭和三十五年十月、地下一階、地上四階、一、五六八平方メートルの第三期工事が完成し、
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五カ年計画は一応、完了した。
竣工を記念して、平素ご愛顧をいただいているお得意先、協力会社、社員の家族の方々をお招きして、
盛大なパーティが三階の食堂で催された。
この日、正装の山元社長自ら玄関にお客様をお迎えし、会場へのご案内、飲みもの、料理はもちろんの
こと、サービスにも万全を期し、きれいどころも充分、配置するという、心のこもった配慮は一段と華や
かさを盛り上げた。堅実経営を看板とする三晃印刷としては、かなり思い切った企画であり、会社の将来
の発展を禱る社長の誠意の現れだったと確信する。
新しい部屋、明るい照明の下で仕事をすることが、こんなにも楽しいものかと皆が働く意欲を燃やし、
会社には活気が充満して、会社発展の息吹きがひしひしと感じとられた、躍動の時期であった」
そして、第三期工事が完了する前年の三十四年七月の従業員数は二二四名にのぼり、その急増ぶりをみ
ても、企業としての急速な成長、進展がうかがえる。また、営業面では、三十一年には、旺文社の「中二
時代」
「学生週報」
、小学館より「小学四年生」付録、集英社より「少年ブック」付録、光文社より「少年」
付録などを受注している。一方、平台の受注も年を追って増加し、新潮社の文芸書『浮雲』『新警察日記』
『晩菊』さらに石原慎太郎の話題作『太陽の季節』や、光文社のベストセラー『欲望』『うらなり抄』『帝
王と墓と民衆』など、当時の評判図書を次々と印刷、中央公論社より受注の『折口信夫全集』全三十一巻
は、三十年十月から三十二年四月までのロングランであった。
また、三十三年四月に、新聞社以外から発行の週刊誌としては、「週刊新潮」に続く二番手として名の
63 第三章 輪転部門による業容の拡大
りをあげた双葉社の「週刊大衆」の活版部門を全面的に引き受け、現在にまで続いている。
石切橋移転前の柳町本社について
昭和三十五年十月に、石切橋工場の第三期工事の完成に伴い、柳町本社の社長室、総務、経理部門はす
べて新工場に移り、そこで本社業務を行うことになった。柳町工場は、わが社が印刷業に進出して以来の
ベースになったところで、石切橋移転前の昭和二十年代半ばから三十年代前半頃にかけての柳町本社につ
いて、事柄の多くは歴史の経緯としてすでに記したが、当時、現役として経理部で活躍していた後の山本
章正顧問(前出)の回想文の中(一部略)から、その時代の息吹きをじかに感じていただこうと思う。
「柳町本社工場の建物は、木造二階建、瓦葺きモルタール塗りの、延四九五平方メートルの社屋。二階
が社長室兼事務室、宿直室、整版工場。一階は営業事務室、印刷工場という配置になっていた。
この建物は、戦災を免れた、かなり古いもので、社長室の天井や壁にも傷みが見られ、木造りの階段も
摩滅して丸みをおびるほどになっていた。
それで、入社翌日から毎朝、時間をかけて、階下に水が洩らないよう、モップによる丁寧な清掃が始まっ
た。一年ほど続いたであろうか。最後の仕上げは、玄関と表通りの撒水が日課であった。寒い冬の朝でも、
清掃が終わると汗ばんでいた思い出がある。
年一度の税務調査に当たった日など、床の木目が見えるまで念入りに手をかけて、古くても清潔な部屋
で気持ちよく応対できるように心を配った。
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一階の工場内には、新鋭の中馬製二回転印刷機を含めて九台の活版印刷機が稼動していた。
当時はどこの町工場でもそうであったように、照明、換気設備なども不充分な面が多く、作業場も狭隘
で、作業環境は決して良いとは言えなかった。昼の食事も、機械場でワンプをしいた簀の子に腰を下ろし
て摂るのが普通であった。
しかし、印刷機は何時も良く整備され、印刷工も、いわゆる腕に覚えがある職人気質の人が大勢いて、
技術面では他社を大きくリードしていた。奥付に三晃印刷の社名のある単行本は、品質の優れた点で、お
得意には勿論、読書界からも絶大な信用を博していた。
その頃の主要得意先は、中央公論社、新潮社、筑摩書房、大月書店、少年画報社、光文社など、優良出
版社で占められ、支払条件も当月末の現金払いが多く、極めて恵まれた経営環境に置かれていた。
谷崎潤一郎の『鍵』が発刊されたのは昭和三十一年十二月。片仮名交じり文に、棟方志功の挿絵入り美
本として、たちまちベストセラーとなり、出版業界の注目を浴びた。
出版企業の生命は企画にあるといわれるが、中央公論社がこの本にかけた意欲には並々ならぬものが窺
われた。嶋中鵬二社長自ら柳町工場に出張され、二階の社長室で夜おそくまで校正に取り組まれ、仮名一
文字の訂正にも、京都の谷崎先生に電話で確認してから直すという真摯な態度には強く心を衝たれるもの
があった。
出版社、著者、挿絵、印刷、造本の粋を集め、信用と真心と技術の結実である『鍵』は、貴重な文化財
として永く後世に残るにちがいない。
65 第三章 輪転部門による業容の拡大
製造業や小売業で聞かれる〝にっぱち〟という言葉は、古くから、二月と八月は注文が少ないし、売上
げも下がることから来た言葉であろうが、この二か月は止むをえないんだ、というあきらめの意味を含ん
でいるような気もする。
しかし、繁忙期ともなれば徹夜もし、日曜、祭日も稼動して間に合わすこともしばしばであった。
『単行本だけでは、どうも安定性がないなあ……どうしても定期ものをとらなければ……』口癖のよう
に言われていた山元社長の言葉を思い起こす。
この頃(昭和三十年まで)は未だ月刊誌の発行点数も少なく、週刊誌も、「週刊朝日」
「サンデー毎日」など、
新聞社発行のものに限られ、出版社による週刊誌の発行など不可能と考えられていた時代にあって、社長
はつとに定期刊行物の受注確保に執念を燃やされていたのである。その後、三十年代から四十年代初めに
かけて、三晃印刷の売上げの大半が、週刊誌、月刊誌、書籍部門でも全集物、定期に準ずるもので占めら
れた結果をみるとき、社長の考えの正しかったことがわかる。
後年、婦人雑誌のA5判よりB5判への大型化を見越して、いち早く東京機械製作所のB判高速輪転機
を導入し、更に新潮社等、出版社による週刊誌の発刊に備えて、つぎつぎと機械を増やし、活版輪転印刷
能力の点では業界のベストスリーに伸展したのも、これまた社長の先見性と決断力の賜であると思う。
そ の 頃 の 従 業 員 数 は 約 一 五 〇 名 そ こ そ こ、 従 業 員 一 名 当 り の 給 料 は 平 均 一 万 七、〇 〇 〇 円、 年 間 売 上
八、
八〇〇万円、利益六一六万円(売上高に対する利益率七%)という状態であった。
現場従業員はすべて時間給制で、今日のように電算機が開発されていない時代のこととて、カード計算
66
による給料の算出には、かなりの時間と労力とをかけたものである。それに町の印刷工場には、どこにも
前借という陋習が残っていて、月の半ばには月収の約半分を前借りする制度が一般に行われていた。
低賃金と長時間労働が社会的な通念であった三十年代の初め頃。前借日は必ず定時仕舞い。従業員は帰
りに決まって一杯というパターン。家庭の主婦もこれでは月の生活設計が立てにくいし、一方、会社は手
形の割引きなどして資金をつくり、月半ばには概算払いをし、さらに月末に精算するという、二重の手数
をかけていた。
この不合理、
不経済を打破するため、
給料一か月分を貸し付け、これを十二か月で返済させる方法をとり、
一年がかりで古くからの悪習慣を断つことができた。実施に当っては強い不満も聞かれたが、後日、家族
の方々から感謝の言葉をいただいたのは救いであった。
経営面については、山元社長、鈴木、椿の両取締役、主藤総務、山本経理、森谷営業の三部長の担当と
なっていた。経理部といっても部長一人、高橋ツネ部員一人しかおらず、給料日など、総務、営業の人に
も手伝ってもらい、社長を囲んで給料詰めをするという、いかにも家族的な雰囲気にあふれていた。
毎年十一月末、決算期を迎える頃は、年末調整、決算準備、年末賞与計算と、経理事務も繁忙をきわめ
るのが常であった。それで、十二月、一月の二か月間は、終電車による午前様の帰宅であったし、日曜、
祭日も休んでいられなかった。時間をかけることと比例して決算事務が進捗していく喜びに、疲れなど全
く感じなかったように思う」
ちなみに、その後の柳町本社工場について触れておこう。昭和三十七年十二月、石切橋工場第四期工事
67 第三章 輪転部門による業容の拡大
の完成を機に、終戦直後から三晃印刷発展の礎となり、重要な役割を果たしてきた柳町工場のすべての機
能は石切橋へ移り、輝かしい歴史に幕を下ろした。この移転に際し、柳町二九番地にあった倉庫の建物と
土地は、播州電気株式会社に売却し、また工場の土地建物は、かねてから話のあった同業の株式会社大永
社が不慮の火災に遭い、緊急に操業を迫られていたため、時計、タイムレコーダー、木インテル、解版糸
などを残したまま引き渡しを終えた。
二四時間稼動、輪転現場の勤務体制
昭和二十八年六月に、水道町の敷地に石切橋工場を開設して、輪転印刷に進出したわが社であるが、雑
誌や全集など出版業界には大量生産の流れがやってきており、輪転機を設置した工場がまだ少なかったこ
ともあって、受注が相次いだ。それに加えて高価な高速輪転機で採算をとり、減価償却を一時も早くする
ためには、生産性の向上がどうしても必要であり、二四時間稼動に踏み切らざるをえなかった。また、そ
れが出版状勢に対応する時代の要請でもあった。
工場からは、終日、輪転機の響きは絶えることなく、この頃から工場騒音の問題で近隣から苦情が出て、
対策を考え何回となく話し合いの場を持つこととなる。三晃印刷の水道町進出が少しでも地元の繁栄に役
立つよう腐心し、工場裏側のコンクリート塀の上には、さらに板塀を作って防音するなど、地元の要望に
は努力を惜しまず応えた。
また、従業員の勤務体制も、二四時間制を実施したことにより徹夜作業に当る者には、健康を配慮して
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昼夜四時間の仮眠を与えることになっていた。そのため、一台の輪転機に一二名もの従業員を配置せざる
をえなかった。三十年頃から急速に従業員の数が増えているが、成長による業容の拡大もさることながら、
輪転機の増設による要因が大きい。
石切橋工場に初めて活版輪転機が導入された時からその仕事に取り組んで輪転部門の発展に尽力し、後
に第二作業部長、専務取締役を務めた星野尚義は、当時の勤務ぶりや、いわゆる職人気質について次のよ
うに記している。
「二十八年の九月に稼動し始めた輪転一号機に就くようになったのが、私の印刷オペレーターとしての
出発でありました。一台あたり一二人の要員のうち、一〇人ほどの人は、他の工場から入ってきた、いわ
ゆる一人前に腕の立つ〝職人〟でした。そして残りの二人、私ともう一人の青年の仕事といえば、機械へ
の注油や結束といった、はした仕事が殆どで、ときには職人たちの使い走りであったり、炊事当番を命じ
られるといった、笑うに笑えぬ、泣くに泣けぬ役目が〝新入り〟の姿でありました。
そして、黙々と注油や結束、屑出しに精を出しながら、先輩職人の仕事を〝盗んだ〟ものです。盗んだ
と言えば人聞きが悪いが、しかし当時の職人が自分たちの後輩に仕事を教えたり、覚えさせるということ
は、ふつうには考えられないのが、一般的な風潮でしたから、正面切って教えを乞うわけにはまいりませ
ん。こっそりと、わからぬように先輩の仕事(技術)を覚えこむ(盗む)より手だてはないのです。
腕の立つ職人と、何もない職人見習いとの間には、自然にはっきりとした敷居がありました。職人と呼
ばれることには大きな誇りがあり、まだ職人と呼ばれるに値しない者にとっては、職人に対する強い憧れ
69 第三章 輪転部門による業容の拡大
がありました。浮かぶ瀬のない新入りとしては、両者の間に在る高い敷居を跨いで、腕の立つ職人に成る
ためには、必死になって先輩の仕事ぶりを盗むことに主眼を置くより他に致しかたなかった、と言っても、
あながち見当ちがいではありません。
また、その頃の勤務体制は、当時の不況と不安の内在する社会情勢を反映して厳しい側面もありました。
三日か四日間の徹夜仕事のあと、一日の休日という仕組み。二四時間勤務の内わけは、昼間(八時~二〇
時)と、夜間(二〇時~八時)に、それぞれ四時間ずつ仮眠をとり、前記のように一機当り一二人のメン
バーを按排して機械を動かしました。
食事については、寮生の分は朝、昼、晩とも社長の奥さまの手で用意され、私を含めて四人の寮生は交
代で工場まで運びました。他の人たちは弁当を持参したりもしますが、徹夜勤務ではそれも思うにまかせ
ないので、職場の中で機械を傍らに自炊という珍風景が見られたものでした。今から考えますと、すこぶ
るお粗末で哀れさをさそうようですが、なにしろ終戦後まだ一〇年にも満たなかった復興途上のことであ
り、中小企業に働く人たちの姿は周囲を見わたしても、凡そわが社のそれといくらも違ってはいなかった
ように思います」
当時の現場の様子を彷彿とさせる興味深い報告であるが、少し後には、この何かと欠陥が多く無理も生
じやすい二四時間制から脱却して、新しい時代の業務管理とも言える二部制勤務に移行している。その頃
のことを、同じく星野尚義は、前文に続けて次のように述べている。
「輪転機は年ごとに台数が増えていきました。二号、三号、四号、五号、六号、七号と続き八号機の導
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入が昭和三十六年七月 そ
―れと同時に、それまでの徹夜勤務が改められ、二部制勤務に移りました。この
編成替えに当って考慮されるべき問題や、予期せぬ支障は少なからずあったものの、生産性向上という見
地と、時間の短縮という観点、また移り行く一般社会の情勢、などといった点から、実施に踏み切ること
になったものです」
また、昭和二十八年十月、優秀な輪転印刷技術者として当社に招かれ、わが輪転印刷部門の基礎づくり
とその後の目覚ましい成長のリーダとして大きな功績を残した海老原昭雄技師長は、その辺の事情につい
て、後に感慨をこめて語っている。
「 昭 和 二 十 八 年 の 十 月 に、 活 版 輪 転 機 二 台 が 揃 っ て 動 く よ う に な り、 そ の 後、 次 々 と 増 設 さ れ て ゆ く
につれて、輪転職人の数も増えてまいりました。ところが、当時の職人の風潮として、労働時間という
ものに対する正しい観念が無く、当工場でも二四時間ベタ勤務が行われており、名目上の労働時間が月
一、〇〇〇時間(徹夜・時間五割増)を超えるものも出てきて、莫大な収入をあげていました。だが、こ
んな有様では、いくら稼げる者がいても、健康上にも問題があり、また、どうしても低能率とならざるを
えません。
このようなことを続けていては、
『高能率・高賃金を基盤とする近代的労務管理の実現』という、輪転
機を入れた、最初の、一番大きな目的は到底、達成できません。そこで、今までのような、非能率的な、
古いやり方をどうしても打ち破って、新しく二部制(昼夜交代制)に変える必要がありました。
いまさら、われわれがこんなことを申しあげるまでもなく、とっくに実情を呑みこんでおられた社長は
71 第三章 輪転部門による業容の拡大
『もう、これ以上ぐずぐずしているわけにはいかん。どんなに難しい問題があっても構わずに、思い切っ
て二部制に移すのだ』と、主藤敏郎総務部長(後に副社長)や輪転関係の責任者たちを督励して、率先、
新体制の推進に当たられたのです。
陋習とは申せ、長い間の習慣や、まだ遅れていた一般輪転界の労働慣行に敢然と挑戦して、革新的な勤
務体制を布くことは、予測した以上の大きな抵抗もあり、混乱も生まれました。それでも粘り強く工作を
進めて、遂に三十六年七月から二部制勤務が実現したことは、正に、わが社の輪転印刷の歴史にとって画
期的なことでありました」
さらに、先に「寮の誕生」についてのコメントを紹介した大脇一郎も、当時、輪転課で頑張っていたが、
彼の「二部制移行への決断とバックアップ」の記述には、
「昭和三十六年、長時間労働、低賃金のイメージが強かった印刷業界の体質改善を目指し、輪転課の若
返りと能率アップとを主眼として二部制へのスタートを切ったわけですが、会社と従業員とが自発的に会
議を開き、白熱した討議の中で、一つの目的に向かって真剣に話し合い、長い習慣であった長時間労働か
ら、短時間労働・高賃金への布石と、組織づくりとに成功したことが、非常に印象に残っています。
一歩まちがえれば、意志の疎通を欠き、ギスギスした関係にもなりかねない、話し合いの際、社長のお
人柄と従業員を思われる真心とは、私たち若いものにとっては、まことに心強いバックアップでありまし
た」
とある。
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ここでも、時代の流れと会社の将来を考えて、新たな方向に向かって決然と断を下し、経営を大きく前
進させてきた社長の力が遺憾なく発揮されたのである。
万感を胸に創業三十年の式典
山 元 社 長 の 夢 で あ っ た 近 代 的 な 新 社 屋 の 第 一 期 工 事 が 完 成 し、 第 二 期 工 事 の 着 工 を 控 え て い た 昭 和
三十三年四月に、わが社は、山元鉛版所開設の日から、ちょうど三十周年を迎た。
同年の一月には、
「創立三十周年記念行事実行委員会」が設けられ、話し合いの結果、記念行事として
次の四点を行うことになった。
一、従業員全員による記念旅行を行うこと。
二、温泉旅館において記念式典を行うこと。
三、式典で、従業員の多年勤続者に対し表彰式を行うこと。
四、社史を作成すること。
そして、四番目の社史の作成以外の行事は、五月三日、四日の連休日に熱海温泉の岡本旅館で行うこと
に決定したのである。
当日の五月三日には、予定通りにすべての行事が行われた。夕刻には、来賓、従業員、約二〇〇名が集
まって式典が挙げられ、社長の挨拶、多年勤続者の表彰、社長より互助会に対する記念寄付金の贈与、社
長に対する記念品贈呈、祝辞(山元会 山
―元鉛版所時代に山元社長から薫陶を受けた人たちの集り の
―代
73 第三章 輪転部門による業容の拡大
30 周年記念式典
熱海温泉、岡本旅館
74
表)の順序で、列席者一同の感動のうちに滞りなく終えることができた。
この時の社長のあいさつは、大要としては次のようなものであった。
「回顧すれば今から三〇年前の昭和三年、当時、私は満二六歳で山元鉛版所を小石川区戸崎町(当時の
名称)で開業したのでございます。創業の時の資本は、家内の実家から二、〇〇〇円、私の貯金五〇〇円、
合計二、
五〇〇円でした。今のお金で八〇万円ぐらいになりましょうか。その資本で鉛版機械一切を整え、
従業員三名で発足した次第でございます。
開業当時は、しゃにむに働いてお得意さまの信用を得、おかげで一年一年お得意の数も増えてまいりま
した。その間に、日本の歴史がたどった、いろいろの苦い経験は、そのまま私の小さな工場にも影響し、
昭和五、六年の不況、満州事変に始まる支那事変、太平洋戦争等、工場の危機がしばしば訪れたのであり
ます。こういった非常事態に対処し、従業員と一緒に全力を尽くして一切の苦難を克服し、今日の礎を築
いたのでございます。
昭和十六年に三晃社印刷所を始めましたのは、鉛版開業当初から将来は印刷業を、と心に秘めておりま
したことを実現いたした次第でございます。
昭和二十一年六月に株式会社に組織を変更し、三晃印刷株式会社となったのでございますが、その間、
戦争中、長野に印刷機を疎開し陸軍の仕事をすることになり、敷地の選定、工場の建築などで、知らぬ土
地で随分苦労いたしました。
終戦となって機械を持ちかえり、運転にこぎつけるまでのこと、また、整版部の設置には、町田町の玉
75 第三章 輪転部門による業容の拡大
川学園の整版部の一切を譲り受け、その荷物の運搬には、暗く寒い田舎道をトラックの上乗で、整版部長、
藤田氏、私の三人、十一月の夜中の寒さにふるえて言葉も出ず、やっとの思いで柳町の本社に着いたこと
などは、終生忘れることのできないことです。
昭和二十八年に石切橋で輪転印刷を開始し、従業員の皆さんの協力を得て、ただ今、輪転機六台を持つ
隆盛を見るに至った次第でございます。昭和三年、従業員三名、資金二、五〇〇円で始まって、現在、従
業員二〇〇名余り、資本金九〇〇万円、年間売上高一億五、〇〇〇万円までになりました。
学問も才能もない私が、ここまでまいりましたのは、第一に従業員の協力と、お得意様、銀行関係のお
蔭であります。私は感謝の気持ちで一杯でございます。(中略)
最後に私は、この記念式典に当たり、わが社の信条である『規模は小さくとも、良い製品を期限内に』、
言い換えれば『技術と期日』
、これを実行していただき、会社の発展と各個人の繁栄が実現できるよう、
お祈りして私のあいさつといたします」
式典後は懇親会。一五〇畳の大広間に二〇〇名分の膳が並び、華やぎの中で、なごやかな交歓の集いは
お開きとなった。
三十周年の年に思わぬ災害に遭遇
三十周年の記念すべき年に、わが社は後にも先にも初めてという大きな災害に遭遇している。伊豆を中
心に一一八九名の死者、行方不明者を出した台風二二号(狩野川台風)の襲来である。
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「社報一六号」は、その時の様子をつぎのように伝えている。
「九月二十六日、台風二二号は物凄い豪雨を伴い、午後に至り石切橋付近は江戸川(現・神田川)の増
水によって氾濫、三時頃には遂に工場内が浸水し、午後五時頃には床上三尺位に達した。この江戸川の氾
濫は、四、五〇年ぶりというから、むろん会社創設以来、始めてのことで、工場建築にも水害に対する予
防措置というものは全然顧慮されておらず、変電所も地下室に在って停電を余儀なくされたのが、被害を
多く大きくした原因にもなっている。加えて本社(柳町)工場も、柳町、初音町界隈の、いわゆる千川暗
渠の氾濫で床上二尺の冠水を見、両工場の水害で三晃印刷全滅かという最悪の事態となった。
しかし、明けて二十七日は前日の豪雨も忘れたような快晴となり、水の氾濫も朝方には完全にひき、全
従業員の必死の復旧作業で二十八日には一部作業を開始し、三十日には諸機械は全部、復旧を終わった。
その損害は約一、
〇〇〇万円、用紙の冠水約五、〇〇〇連。従業員に怪我が無かったのは不幸中の幸いで
あった」
このような苦い経験を生かして、石切橋工場ではそれから間もなく防水壁をつくり、防水用砂嚢を常備
して非常事態に備えるとともに、防水訓練を行うなど万全の態勢をとってきた。しかし、現在では、行政
主導の工事によって水害の危惧はほとんど解消している。
この年の出版界を振り返ってみると、三十一年二月創刊の「週刊新潮」が引き続き好調を保っていたこ
ともあって、
「週刊大衆」
、
「週刊明星」
、
「週刊女性」、「週刊女性自身」、「週刊ベースボール」などが創刊
された。また、豪華本ブーム、経営学本の刊行も一つのブームを起こした。
77 第三章 輪転部門による業容の拡大
江戸川(現・神田川)の氾濫
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わが社では、
「週刊大衆」の活版部分をすべて受注しているが、すでに活版輪転のレギュラーとして部
数をのばしていた月刊誌「少年画報」は、同年十一月印刷の新年号では、八大付録付きで、何と八〇万部
を突破するという当時としては予想もつかない大飛躍をとげた。かくして、石切橋工場の輪転機は、昼夜
もなしにうなり続けることとなった。
また、社会経済関係では、四月に日ソ漁業協定が妥結、五月には第二八回総選挙、六月、第二次岸内閣
成立、十月には警職法審議で国会が混乱。十一月には皇太子妃に正田美智子さまが決まり、十二月、一万
円札発行、東京タワーが完成している。
経済は、印刷業界があまり恩恵に浴することもなかった神武景気が続く中、卸売物価の上昇、輸入の急
増による国際収支の悪化の対策としてとられた金融引き締めなどの策によって、景気は三十二年夏頃から
後退し始め、この年は「なべ底不況」に落ち込んでいた。
山元社長は、つねづね「設備投資は景気の悪い時にこそやるべきだ。景気がよくなってからでは遅すぎ
る。何故なら、不況時の設備は、価格、金利、支払い条件などからくる経済効果が、好況時に比べてはか
り知れないほど大きいものがある。人と同じことをしていたのでは競争に負けてしまう」と言っており、
この持論に忠実だった。これまでもそうだったし、昭和三十年代の設備投資も、必要とあらば不況の年で
も歯を食いしばって続けられた。
79 第三章 輪転部門による業容の拡大
石切橋工場の完成
石切橋工場は、昭和三十五年に第三期工事の竣工をみているが、その翌年には、たまたま話のあった
隣接地(水道町二八、地積六六九平方メートル)を所有者の中教出版株式会社から買い取った。そして、
三十七年四月には、鉄筋コンクリート造り、地下一階、地上四階、延べ二、二〇七平方メートルの別館新
社屋(施工・立野建設株式会社)の建設にかかり、同年十二月に完成した。
地階は巻取り保管倉庫、一階グラビア印刷、二階平台印刷、三階活版整版、そして四階は男子独身寮、
娯楽室、男子浴室に充てられた。さらに屋上には鉄骨張りのネットをして、バレーボール、ピッチング、
バッティングなどスポーツの練習場として有効活用することにした。目白通りに面する外側ネットには、
丸ゴシック体ロゴ「三晃印刷」の黄色いネオンが取り付けられ、夜にもなると、三晃印刷の存在を彩り鮮
やかにアピールしている。
この新館の完成によって、わが社の各作業場、事務室、厚生施設、機械設備等も急速に充実し、石切橋
工場の拡充計画は、一応完了の形になったが、これほどまとまった隣接地をタイミングよく入手できたの
は、まさに幸運であった。
ところが、明けて三十八年には、これまた幸運にも隣接地の水道町二七の二の竹一商店の社長から話が
あり、
地積二九九・二四平方メートルの土地を総額約二、四〇〇万円弱で手に入れることができたのである。
これで目白通りに進出することになり、現在のわが社の本社敷地が整ったことになる。翌年の八月には、
80
この敷地に、巻取用紙輸送トラックの駐車場と、機械場からベルトコンベアで流れてくる輪転刷本の発送
用倉庫とを建て、表玄関前の車両混雑の緩和をはかった。なお、この年の五月には、かねてから従業員、
特に寮生からの要望が強かった図書館兼集会室を、第一期建設社屋の屋上三七九・五平方メートルに、寮
や紙型倉庫と一緒に建築した。こうして、厚生面の内容も徐々に充実していった。
このように、成長、拡大する業容に合わせるとともに、将来を見据えての設備投資が行われていったの
だが、三十八年は、土地、建物、機械装置などを含めて、支払いベースで一億三、八〇〇万円にのぼり、
当時の月商四、〇〇〇万円の三・五四か月分に相当する。大変な資本投下で、これだけの資金が固定化し、
投資に伴う運転資金も膨らむわけで、資金繰りが苦しくなるのは見通しの上ではあるが、金融機関からの
短期・長期の借入金の合計額も、前年比三〇パーセントと大幅に増え、一億四、九三〇万円に達した。また、
この年の十一月には、一、
六〇〇万円の増資をしている。
さらに、四十年度は、土地取得を含め、生産力増強と作業環境の整備のため、六、九〇五万円の設備費
が投入されている。この額も、月商の一・五か月分になり、かなり思い切った投資であった。その結果、
当年度の決算では、当然のことながら流動負債、固定負債のトータルが、前年比一億二四二万円で二六パー
セントも増えているものの、売上高では前年比一二パーセント、経常利益で一一パーセントと大きな伸び
を示している。これは、当社の企業としてのより大きな成長への転換期であり、強気にして堅実な経営政
策が着実に成果をおさめつつあったことの明かしでもあった。
機械設備を含めた生産能力、技術水準などお得意先の信用、並びにわが社の仕事に対する社会的評価も
81 第三章 輪転部門による業容の拡大
定まり、大幅な受注増が見込め生産計画も拡大の一途をたどった。それは従業員の入社数にも反映され、
四十年の新規学卒者の採用人数は、前年に比べて倍以上の八六名であった。大部分が地方出身者というこ
ともあって、年ごとに急増を続ける若い人たちの宿舎の確保にもおおわらわで、この年には、第二期建設
建物の屋上、一一一・二平方メートルに寮を増築している。
一方、業容の拡大と生産量の増大に伴う、どうしても解決していかなければならない問題が起こってき
た。広い意味での生産要素となる輸送・運搬管理対策である。年とともに新鋭機を導入し、これらをフル
稼動させることで、時代の要請であるスピードアップと大量生産体制を実現させてきたが、刷本を積み出
すのに時間がかかったり、巻取紙の搬入に手間取っていては、優秀な機械の性能を十分に生かし切れてい
ないことになる。その辺のことを考慮して、山元社長は、隣接地の買収など思い切った投資を行い、すで
に記したように目白通りに面して用紙輸送トラック駐車場兼輪転刷本発送用倉庫を建て、輸送・運搬管理
に当った。だが、その後の加速度的に増えてきた印刷物、高度成長経済時代でますます厳しさを増す都内
の交通事情などにより、さらにすみやかで、抜本的な対策が必要になった。
そこで、既存の建物を改築、拡張し、鉄骨を組んで荷揚場をつくり目白通第一倉庫とし、そこから輪
転機械場への通路を開設した。そして、省力化には役立ったが速度に欠けるベルトコンベアを取り払い、
フォークリフトの使用やパレット方式による積み降ろしを開始し、輸送・運搬管理に伴う倉庫業務の合理
化を進めたのである。
その辺の事情について、当時の森戸春見輪倉係長は「社報」の中で次のように記しており、現場の生の
82
声として興味深い。
「
(前略)大量受注が今後ますます強まるとすれば、搬出入の面においても大量の製品を手ぎわよく処理
せざるをえないと考える。これを如何にうまく処理するか、そのためにはどうしたらいいのか、今こそ、
この問題について真剣に考えてみる必要があるのではないかと痛感する。
電車通り側倉庫の完成とあいまって実施している、パレット方式による運搬管理は、問題解決のために
採用した、一つの新たな試みである。
そして、現在この新しい試みが相当に効果を上げて軌道に乗ってきたというのも、主藤専務自らこの作
業に取り組み、額に汗して方法を練って下さったお蔭であり、今さらながら有難く、深く感謝申しあげる
次第である。
倉庫の工事中に、用紙の搬入、刷本の発送などの業務が渋滞し、ご近所にも相当ご迷惑をかけてしまっ
たが、山元社長はじめ、社長のお嬢さま、機械場の方々から刷本発送業務をお手伝いいただき、何とか乗
り切ってきたのである。
(中略)
年末の繁忙期を迎え、相当な量の印刷物を処理しなければならないわけであるが、目下のところ、少な
い人員で手ぎわよく働いている。これは、単にパレット方式やフォークリフトを使用するためによるばか
りでなく、品名別に行っている製品の整理整頓、および事務処理、搬出入計画、輸送など ――
多面的にこ
の問題に取り組んできたからである。
年々、交通事情が悪くなってくるが、これは、わが社のように迅速性を必要とする雑誌など、多種多量
83 第三章 輪転部門による業容の拡大
の製品を扱うところにとっては、まことに頭の痛い問題である。加えて、恒常的な人手不足、ことに良質
の労働力不足の問題を抱えているわけだが、この時こそ、人力に替わる、機械力による運搬管理を真剣に
考え、大量の用紙・製品などの搬出入をスムーズに処理することに努力したい」
企業としての成長、発展に伴うこうした問題は、さらなる伸展に向かうとき、新たな視点での対策が必
要になる。わが社の場合、石切橋工場本社の設備、機能強化に加えて、後に詳述する習志野工場建設となっ
て、その道が拓かれて行ったのである。
総合印刷工場を目指して
昭和三十年代は、革命的ともいえる技術開発によって、紙以外の素材に刷ることを含めて、今までの印
刷の概念を超えて素晴らしい印刷物を産み出し、印刷界は大きな変貌を遂げつつあった。しかしこれは、
大資本をバックに大規模な設備投資と大がかりな研究機関を擁しての絶えまない技術革新の裏付けが必要
で、資本力の乏しい中小企業の及ぶところではない。
わが社は、こうした技術革新、
「拡印刷」とも呼ばれる印刷新時代を視野に入れつつ、山元社長の信念
とリーダーシップの下に、堅実に、時に大胆に独自の発展への道を走り続けることになる。営業面からみ
れば、出版印刷に加えて商業印刷へと商域を広げることであり、それを可能にするためには印刷技術面か
らは、活版の他にグラビア印刷、オフセット印刷に取り組むことであり、その必要性とタイミングを山元
社長は計っていたのである。
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その考えは、すでに三十二年の社報で述べられている。
「出版社だけの印刷をしているわが社の生きかたの、この辺にも、なお考えるべき大きな問題があるの
ではなかろうか。得意先を、従来の出版社一本槍から、官庁や会社方面に働きかけて商業印刷の面も開拓
し、新しい分野に手を拡げて行きたいと考えている」
さらに彼は、三十七年の年頭のあいさつの中で、「三十七年度事業計画」の施設関係に触れ、「印刷が近
代産業であることに考えを巡らし、製品の搬送合理化に主力を置くはもとより、三晃印刷の将来の方向と
して考えているグラビア印刷、商業印刷部門を開設できるように設計を進めており(中略)、すでに開設
しているグラビア部門の強化と、
イタリアより輸入する印刷機ネビオロ二台を六月に据え付けて稼動させ、
新しい印刷部門を開拓してまいりたい……」
と語り、続いて同年三月の入社式に当っては、その「あいさつ」で、
「さらに今後は、時代の要求する印刷部門を拡大して行く計画を持っております。つまり、商業印刷部
門の拡充であります。マスコミ時代の印刷は、単に紙に印刷するだけでなく、広い範囲で進歩しておりま
す。従来の印刷は、ビニール、鉄板、木材へと、そして活版印刷は平台から輪転へと、仕事の重点が移っ
ている現状でありますし……」
と話している。
そして、具体的には、この挨拶の少し前、三十六年の秋からグラビア印刷を手掛けている。
最初の機械は凸版印刷(株)からウェベンドルファー・グラビア印刷機(中古の枚葉機)を購入した。
85 第三章 輪転部門による業容の拡大
しかし、誰も経験者がいない。そこで、活版輪転機のオペレーター経験五年半の長井一義と、新人で印刷
課に配属されて半年の山田栄という若い二人が選ばれ、グラビア・オペレーターのパイオニアとして仕事
をすることになった。凸版印刷工場での三週間のグラビア実習は、三晃印刷の代表としての責任の重さを
背負いつつ、まったく無我夢中だったという。そして、同年九月二十八日、二人のグラビア研修要員を加
えたやる気充分な若い四人によってウェベンドルファーは動き始めた。ところが、グラビア印刷には非常
に難しい点があった。火災が起こりやすいということである。
その頃のことを振り返って長井一義は、
「グラビア印刷での思い出は?
と 聞 か れ る と す ぐ 火 災 の こ と が 浮 か び ま す。 グ ラ ビ ア イ ン ク は 引 火 性
の高い溶剤を使うので、何かのはずみですぐに火災事故を起こしやすいのです。やっとのことで機械を動
かすことができてやれ嬉しやと思っていたのに、翌日、もう火災事故で、びっくりしたり、がっかりした
りしました。
除電装置をつけて、静電気の起こらぬように予防に努めたり、これはちょっと後になりますが、火が出
れば立ちどころに消化できる装置を取り付けたりもしましたが、それでもなかなか根絶というわけにはい
かず、神経を使うことこの上なしでした。それから、新館ができる前は、作業場の隅に小型のボイラーが
設けられ乾燥用に使っていたのですが、
専任のボイラーマンは未だいなくて、私たちが交替で操作に当たっ
ていました。
仕事は凸版印刷さん、共同印刷さんの下請的なものが多く、週刊誌のグラビアページ、チラシ類が多かっ
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グラビア印刷機の版
ウェベンドルファー・グラビア印刷機
87 第三章 輪転部門による業容の拡大
たですね」
と述懐している。
その後、三十八年五月には、やはり凸版印刷から最初のものと同じ機種のグラビア印刷機を買い入れ、
最初のものと取り替えた。さらに一年後の三十九年には、グラビア印刷の仕事にめどがたったこともあっ
て、思い切って小川鉄工所に依頼し、枚葉にも使える新型ウェベンドルファー機を購入し設置した。
グラビア技術面は、今まで述べてきたようにまったくの素人からの出発であった。若さと情熱でいろい
ろな難問を乗り越えてはきたが、受注の商品が高級化・高度化するにつれて新鋭機を使いこなす高度な知
識、技術、経験が不可欠で、わが社の陣容では難しくなってきていた。そうしたこともあって、技術、能
率、品質向上の指南役として、当時、凸版印刷(株)グラビア課の老練な技術者、佐々木武男技師を当社
のグラビア課長として迎えることになった。
四十一年の十一月に入社した佐々木課長は、まさに寝食を忘れての指導にあたり、その情熱と若者たち
の意欲によって、みるみるうちにスタッフの技術は向上し、品質、能率ともに上がって、グラビア課は、
独り立ちのできる生産部門として年ごとにその業績を伸ばしていった。
しかし、グラビア課については後に、思いがけず残念なことが起こった。年代的には大分先のことにな
るが、一連の流れとしてここで記述しておくことにする。
昭和四十八年十月、突如として起こった第四次中東戦争による石油危機が産業に与えた影響は、まさに
ショック症状をもたらすほどのものだった。わが社においても、仕事が激減したのにインキ代は予想外に
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高謄し、インキを多く使うグラビア印刷のコストは目に見えて上がって、採算割れの惧れさえ出てきた。
それに、有機溶剤関係による公害についても社会問題化しており、最初に述べた火災の危険もなかなか少
なくならず、悪条件が重なっていた。その上、昼夜を分かたず稼動し、実績を残してきた新型ウェベンド
ルファーも新しい機械に替えなければならない時期に来ていたのである。
これらのあらゆる条件を勘案して、山元社長は、グラビア印刷をどうするか会社幹部と慎重に検討を重
ね、将来に渡っての事業展開を見据えての経営判断として、「会社全体を生かすためには、一部を犠牲に
しても仕方がないではないか」という結論に達した。かくして、グラビア課は、同年十月に一二年にわた
る歴史の幕を閉じたのである。
創設の苦しい闘いに若い情熱と努力で打ち勝ち業績を伸してきたグラビア課のスタッフに対しては、山
元社長を始め会社サイドから十分な事情説明をし納得を得た。そして、同じ社内とはいえ、新たな配属先
での健闘を後押しする激励の言葉をそえて送り出したのは言うまでもない。
山元社長にとっては、グラビア課の廃止は一つの挫折であり、誰よりも無念の思いでいっぱいであった
ろう。しかし、経営者としては石油ショックに続く難局を乗り切り伸びていくための決断であった。その
背景にあったのは、この時点ですでに習志野工場で手掛けていたオフセット部門の将来性に対する確信で
あり、そのさらなる開拓、拡充による商業部門の新たな展開への可能性であった。
89 第三章 輪転部門による業容の拡大
雑誌、全集の大量受注による飛躍
ここまでしばらく、昭和三十三年の創業三十年から後の一〇年ほどの間に起きた、わが社の分岐点とも
なる施設建物や事業展開に関する主な事柄について記してきた。ここでは、その間の急成長に繫がった主
な営業、受注関係についてまとめておきたい。
ところで、この時代の経済、社会状況はどうだったのだろう。振り返ってみると、この時代は急速な転
換期にあった。技術革新と大衆消費社会が進展する中で、昭和三十五年には、日本で初めてクレジットカー
ドが誕生し、国産初のカラーテレビも発売された。そして、何よりこの年が戦後最大の転換点となったの
は、この年発足した池田内閣が、一〇年間でGNP(国民総生産)を二倍にするという「国民所得倍増計
画」を打ち出したことである。
これを機に、重化学工業を中心とする基幹産業は、折からの技術革新と設備投資、エネルギー革命の波
に乗って飛躍的に生産を伸ばし、
輸出を押し上げた。景気に浮き沈みはあったものの三十三年後半から「岩
戸景気」
、四十年末からは「いざなぎ景気」を迎え、その結果、八年後の四十三年には、GNPが自由世
界二位となり、日本経済は未曾有の高度成長期に突入したのである。
印刷業界を見てみると、三十年から三十九年にいたる九年間に、印刷業出荷額が約五・二倍に増加して
いる。企業の活発な経済活動に伴って各種印刷物の需要が高まり、売上増をもたらしたものと言えよう。
またこの間、三十九年には東京オリンピックが開催され、三十年代の国民の憧れの的は、冷蔵庫・電気
90
洗濯機・テレビの「三種の神器」であったのが、三十年代後半から四十年代にかけての中流家庭の新たな
目標は、カラーテレビとマイカー、ルームクーラーの「3C」に移っていった。
こうした経済成長の著しい時代背景のもとに出版界を概観してみると、週刊誌ブームが意外と早く起き
ており、三十四年には「週刊現代」
「週刊文春」をはじめ「少年サンデー」などのマンガ誌まで続々と創
刊され、その数は二〇種以上に達している。またこの年、講談社が創業五十周年を記念して「日本現代文
学全集」を刊行し始めたが、これは全部で一〇八巻にも及ぶもので、戦前戦後を通じて最大の全集であり、
同じく同社の「日本版画美術全集」
(全八巻、定価各三、八〇〇円)は、既刊の全集中、最高の価格のもの
であった。
わが社関係では、
柳町時代からのお得意であった中央公論社から、「世界の歴史」が出版されたのである。
この全集を手始めに連続的にヒットを続けた同社刊行物の印刷に示したわが印刷課の働きぶりは、目覚ま
しいものがあった。このあたりのいきさつについて、かつて取締役印刷部長を務めていた椿太助は、後の
相談役時代に次のように述べている。
「特筆すべきことの一つは、中央公論社が三十五年十一月に、小説より面白いと銘うって刊行した『世
界の歴史』全十六巻、別巻一巻の印刷のことである。
この全集の印刷については、
最初、
ある都内の印刷会社に発注して、三巻まではどうにかうまく行ったが、
そこの設備だけでは間に合わずほとんどを外注に頼ったため、思いどおりに進捗しないようになった。そ
こで、中央公論社としては、思いあまって当社へその印刷を頼んでこられた。当時わが印刷陣は最新の設
91 第三章 輪転部門による業容の拡大
92
備を有し、技術も抜群のものがあったので、自信
をもって、よしとばかりに全面的に引き受け、同
社の希望されるとおりの『品質と納期』で、ご満
足をいただいた。
この『世界の歴史』は、中央公論社が、その総
力をあげて企画製作に当たったものと言われた
が、その努力は見事に報われてベストセラーを続
け、重版を重ねた。
物凄い売れ行きを示した。これにより、ますます
大 幅 に 上 回 り、 発 行 部 数 五 〇 万 を 超 え る と い う
特に、『日本の歴史』の第一巻は初めの予想を
出版した。
出版として『日本の歴史』全二六巻、別巻五巻を
全八〇巻を、四十年二月からは創立八十周年記念
年二月より刊行、三十九年二月には『日本の文学』
いて同じ判型の『世界の文学』全五四巻を三十八
この成功に大いに意を強くした同社は、引き続
雑誌、全集の数々
旺盛となった同社の出版意欲は、四十一年二月の『世界の名著』全六六巻、四十二年九月の『日本の詩
歌』全三〇巻、別巻一巻の刊行をもたらし、続いて四十三年五月の『新集世界の文学』全四六巻、さらに
四十四年六月の『日本の名著』全五〇巻の出版へと発展していったのである」
この一連の「全集もの」
(ホームライブラリーシリーズ)を印刷したのが、石切橋工場のドイツ製ハイ
デル印刷機で、次々に増設してこの膨大な受注に応じている。この機械は、もともと高級写真板や原色版
の印刷向きにつくられたものだが、わが社では、これを初めて一般書籍の印刷に試み、その成果で見事な
出来栄えの製品を次々に世に送りだし、業界の大きな注目を浴びたのだった。まさにわが社にとって、活
版平台の黄金時代の到来と呼ぶにふさわしい活況であった。
また、雑誌関連では、三十六年に学習研究社より「高二コース」を受注、その後「五年の科学」「六年
の 学 習 」 と 順 調 に 受 注 し、 旺 文 社 よ り 受 注 の「 中 二 時 代 」「 大 学 受 験 テ キ ス ト 」 と と も に、 学 参 関 係 の
二本柱となっていった。さらに、三十七年に受注した月刊「平凡」付録歌本(平凡出版社)では、常時
一〇〇万部の印刷であった。三十八年七月には週刊「少年キング」(少年画報社)が創刊され、活版輪転
のレギュラーとなり、文字どおりのフル操業であった。
こうした膨大な受注に応えるためには、必然的に現場スタッフの問題が生じてくる。それまでも会社の
規模の拡大につれて、必要に応じて従業員の雇用をしてきたが、新規学卒者がまとまって入社したのは
三十六年三月からで、この年は三二名であった。翌三十七年には六五名で、整版部門は女性に向いている
のではとの研究、検討がなされ、高卒女子に対する求人も積極的に行われ、二四名採用のうち二二名が整
93 第三章 輪転部門による業容の拡大
版部に配属された。
この試みの成功により、
その後、毎年相当数の高卒女子が雇用され整版部に向けられた。
そ し て、 三 十 八 年 の 新 卒 入 社 は、 五 〇 名、 三 十 九 年 は 二 九 名。 四 十 年・ 八 六 名、 四 十 一 年・ 九 〇 名、
四十二年・九三名、四十三年・七五名で、雇用人数の急増からも、日本経済の高度経済成長に歩調を合わ
せるかのようなわが社の急成長振りがうかがえる。
活力に満ちた社内環境づくりのために
企業にとってその将来を決めるのは、最終的には人、すなわち人財である。どんなに最新の設備、機械
を揃えてもそれを活かすのは人であり、その資質、技術を優れたものに導くための教育は欠かせない。
当社では、戦後における企業規模の拡大に伴い、新入社員、一般従業員、職制などに対する教育を重視
し、絶えず直接に、あるいは社報、パンフレットなどによる啓蒙を行ってきた。そして、初めて本格的な
集団教育というべきものが行われたのは、
新規学卒者が三二名も揃って入社した昭和三十六年三月である。
その時の「新規従業員教育日程便覧」によれば、
「三月十五日、面接試験と身体検査、三月十六日、九時から文京区製本会館で入社式挙行、新入生(見
習生、研修生の意味で、新入社員とは呼ばなかった)の自己紹介、社長あいさつ、幹部職員の紹介で式を
終了。ついで、主藤総務部長(当時)から会社概況説明。午後一時から『従業員訓練講座(全一七時間)』
実施(講師、日本ビジネス社、堀内・柴藤両氏)。三月二十日、午後から職業適性検査施行。三月二十一日、
本社において山本経理部長(当時)から『従業員の心得』の説明。続いて主藤部長、先輩従業員との懇談会」
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となっている。
また、山元社長は、いよいよ職場に就いた新入生に対して、
「皆さんは、従業員訓練を受け、それぞれ職場に就いたわけですが、まず感じたことは、
〝仕事が単調だ〟
ということだと思う。単に印刷に限らず、世の中の仕事というものは惰性で進みがちのものだが、その単
調さに打ち勝って仕事を遂行する人こそ、他の人とは違った光彩をはなち、秀れたものとして傑出し、認
められるものである。私は、皆さんが、このような、立派な人になって欲しいと思う(中略)。
印刷産業は、電気産業のような華やかさはないが、高度な技術、高能率の機械設備をもって近代産業の
一翼を担っている以上、われわれの前途は洋々たるものがあると確信する」
と、愛情を込めて激励している。
さて、三十六年の春、既述のように三二名の新入社員を採用し職場に配置してみると、困ったことが起
こった。新人には、一時も早く一人前の働き手として育って欲しいのだが、肝心の「育てる人」がいない
ということであった。多くの職制が「若い頃は習うより覚えろ」式のやり方で、経験と身体で仕事を覚え
たものであったので、身に付き知っていることを分かりやすく伝え、教え込む術を知らない。そこで、翌
三十七年からは、新入生教育に先だって、
「幹部研修会」による各職場の主だった役職者に対する教育を
始めた。日本ビジネス社の杉山講師を迎えての勉強会だったが、この研修を受けた当時の星野尚義第二作
業部長は、
「三月五日から、およそ一〇日に及んだ受講のかずかずから、少なからぬ教訓と示唆を得ました。
95 第三章 輪転部門による業容の拡大
ことに、新入社員に対する職場教育の実施、途中入社々員の指導方法などのほか、職制として、他の問
題についての適用や応用の基礎となる大きな収穫がありました」
と、その成果について述べている。
その後の新入社員教育であるが、三十六、三十七年でおよそのパターンができ、三十八年からはそれに
加えて、他社の工場見学を行うようになった。ちなみに、この年は凸版印刷板橋工場と大日本色材三鷹工
場を見学している。さらに、この年、たんに新人や職制の教育だけでなく、一般従業員の質の向上も円滑
で高率的な業務の推進には欠かせないということで、前記、杉山氏を講師に四月、五月、九月にわたり、
新しい時代の人間像、労働者像をテーマに「従業員教養講座」を開いている。
三十九年には、地方出身者が多いことを配慮して、日本学生会館で寮生テーブルマナー講習会、翌四十
年からは「成人の集い」が同じ会場で洋式の晩餐スタイルで催されるようになり四十六年まで続いた。ま
た、新入社員の都内見物(四十五年で終了)が教育計画の日程に加えられたのも三十九年であった。
そして、この三十九年には、それまで実施されていた職制教育より、さらに高度で、より充実した内容
を目指した「職制教育講座」が、
「三晃印刷株式会社の管理のすすめ方」を中心テーマとして、七月八日
から十三日にわたり行われた。印刷関係について学識経験の豊かな講師陣(肩書は当時のもの)と主題は
次のとおりだった。
日本印刷共同研究協会常任理事
松尾真利氏「しごとをスムーズに流すために」
千葉大学短期工業大学印刷科
高畑伝氏「データのとり方と活用」
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毎日新聞社印刷局
山本栄蔵氏「作業改善について」
ダイヤモンド社管理部
山県啓利氏「人間関係について」
凸版印刷板橋工場技術課長代理
田村照一氏「品質管理について」
きわめて啓発的で有意義な講義であったが、この職制教育講座は、どちらか言えば、部課長クラスが中
心であった。そこで、ある意味では管理職に比べて新入社員に対してより直接的な強い影響力を持ってい
る、機長、主任クラスの教育も欠かせないということで、この年の十月から「第一線監督者講習会」が開
催されている。さらに、四十一年六月には、雑司ヶ谷の桂林寺で、座禅を組み入れた職制研修会が、一班
から五班まで総勢七六名が参加して行われている。
この他、四十三年には、新入社員を従来の新人教育に加えて、飯田橋労働基準監督署、同労働基準協会
共催の「安全教育講習会」に参加させている。続いて同年の十月からは、日本印刷技術協会主宰の通信教
育のうち、凸版整版科及び凸版印刷科に二名、写真製版科に五名を入学させスクーリングにも参加させた。
その後も、セミナーなどあらゆる教育の機会をとらえて、積極的な参加を続け、従業員の資質、技術の向
上に努めてきている。
四十四年以降の従業員教育については、後述する習志野工場建設及びその後の項で触れることとする。
次に、ここでは、昭和三十年代半ばから習志野工場完成前の昭和四十年代前半の社内及び従業員に関す
る主な話題について、記しておきたい。
三十六年十二月には、
その後もずっと順調な発展を続けている社内貯金の三晃預金制度が発足している。
97 第三章 輪転部門による業容の拡大
地方出身の若い人たちを中心に、将来に向けての経済的基盤づくりと生活設計を確かなものにするための
試みで、その設立趣旨に沿った成果を挙げてきた。また、時代はさかのぼるが、昭和二十七年には、「従
業員の冠婚葬祭における慶弔」と「長期資金の貸付」を主な目的とし、従業員の相互扶助、親睦融和を図
る組織として三晃印刷互助会が設立されている。その後の運営も順調に行われ、従業員の心強いよりどこ
ろとなって今に至っている。
三十七年一月には、自分の身体を始め、住む部屋、機械・設備を含めた働く場所を清潔に保ち、整理整
頓することを目的にした「清風運動」が始まっている。気持ちの上ではわかっていても実際にはなかなか
難しいこともあり、
「整理整頓に関する規定」をつくり、「作業服着用について」「作業衣洗濯のための交
換について」などこまごまとした取り決めをして実行に移した。こうした運動は、清潔で、働きやすい職
場環境をつくるだけでなく、作業能率の向上、事故やミスの防止にも大切な役割を果たしてきた。
さらに、この年の四月には、かねてから希望のあった社歌が誕生した。会社の行事などの折にみんなの
心を一つにする絆としてその必要性を感じていた山元社長が、自らポリドールレコード専属の岩瀬ひろし、
原伸二の両先生に依頼してつくってもらったもので、正式には「三晃印刷株式会社々歌」という。
続いて三十八年の四月に、企業としての業容も大きくなり、そのシンボルとして社章が制定された。創
立三五周年を記念してのことでもあった。社員から応募の四〇点余りの作品の中から、専門家と会社幹部
で構成する選定委員会で選び、専門家による若干の修正を経て完成した。
社歌、社章について記したので、社旗のことにも触れておきたい。社旗が初めておおやけに使われたの
98
99 第三章 輪転部門による業容の拡大
100
は、昭和二十八年秋の印刷健保主催の陸上大会の時である。現
在のものは、社章が制定された後年に新規作成されたもので、
四十四年五月に出来上がり、五月十日に赤城神社で入魂式を行
い、翌十一日の創立記念式典で飾られた。式典の参会者からは、
絢爛と重厚さが織りなす見事な出来栄えに、思わず感嘆の声が
あがったという。
業務の機械化、コンピューター化の促進
に先駆けて電子計算機の導入を考え、その採用に踏み切った。
ることを告げてもいた。そして、これまでと同様に、同業他社
かった。また、事務機器の発達により、時代はそれを可能にす
より正確に、より緻密にできる計算、これは機械化より他はな
岐になり、個人の手におえる範疇を超えてきていた。より速く、
規模、社内組織が大きくなるにつれて算出すべき数字も多量多
理内容を充分に把握し、経営指針としてきた。しかし、会社の
など営業の状態が一目でわかる日報を工夫、作成して会社の経
山元社長は、日頃から、その日の生産、売上げ、原価、損益
社旗
昭和四十一年三月のことである。
この年の年頭のあいさつでは、
「この二月には電子計算機の搬入を予定しておりますが、印
刷業界でこれを採用し能率の研究をしているところは他に例が
ない、といってよいでありましょう。作業管理のための資料、
売上げの計算など、これらの仕事が速く、正確で、能率的に処
理できるものと期待しております」
101 第三章 輪転部門による業容の拡大
と話し、同年五月一日の会社創立記念式典のあいさつでは、
それへの自信を示している。
と述べて、先端の科学技術を活かした合理的な経営への転換と
向上のために、大いに役立つわけです」
ない経営をやっていけば、会社の発展と従業員の生活の安定、
速、的確にできるので、このデータを基礎に、私どもが誤りの
が、単に日報や給与計算だけでなく、各課の出来高の集計が敏
五月分の給与計算から機械に乗せることになっております
名の給与計算もわずかな時間で正確にできるそうです。
「 三 月 に 入 れ た 電 子 計 算 機 は、 日 報 計 算 は も と よ り、 六 〇 〇
電子計算機
全自動モノタイプ
鋳造機
紙型取り
手動写植機
102
( 日 立 ) を リ ー ス 契 約、 さ ら に 四 十 九 年 に は、 To s
i
この頃(四十一、四十二年)には、技術革新もかなりの速度で進み、モノタイプにも思い切った改善・
とっては、機械の進歩と経営を秤にかけていつの時点で決断するかの問題になっていた。
なかったという苦い経験をしている。しかし、整版の機械化は避けられないことであり、会社の首脳部に
機械化に挑戦したことがある。しかし予期した成果が上がらず、十分な稼動をしないまま廃棄せざるをえ
わが社では、かつて他社に先駆けてこの整版部門の問題を解決するために、手動モノタイプを導入して
が、痛いほどわかっているゆえに、量産化、高速化のための機械化が遅れていたのである。
だが、これを阻んできたのが、日本文字の宿命ともいえる複雑さ、そこから生ずる制約である。この制約
れる状態ではなくなってきていた。この窮状を打開するためには、整版業務の機械化、近代化しかないの
に頼る部分が圧倒的に多い整版部門においては、コスト高の傾向がますます強くなって、とても採算がと
四十年代に入って、相変わらずの過当競争が続き、料金が横這い状態の印刷業にあって、とりわけ、人手
のは、三十年代半ばころから労働市場はまったくの売り手市場となって、賃金は飛躍的に上昇していった。
印刷機本体に関するものは別にして、機械化が強く求められていたのは、整版関連部門である。という
さて、ここで印刷関係の機械化、電子化についても記すことにする。
ba c
そして最初に導入されたのが、電子計算機NCR3 90 型(日本ナショナル金銭登録機)で、これを
七 年 ほ ど 使 い、 つ ぎ に は Hita c
1500モデル (東芝)に切り替えている。
i
改良が加えられて、完全に自動化された新しい機械も実用化の段階に入っていた。だが、わが社には、導
103 第三章 輪転部門による業容の拡大
10
入失敗の経験があるだけに慎重にならざるをえなかった。
当時、作業管理室長として整版業務の合理化に腐心していた大脇一郎は、先のかんばしくなかった事例
を踏まえて、機械の現時点での性能、業務体制など慎重に検討を重ねた。そして到達した結論は全自動モ
ノタイプの導入であり、念には念を入れた導入計画書を幹部会へ提出したのである。
彼はこの時のことを、
「新機種購入に対する勇気ある決断に敬服」と題して、次のように綴っている。
「昭和四十一年から四十二年にかけて、私が全自動モノタイプの導入計画書を作成、幹部会で、その全
容を説明したときのことです。過去のこと(社長は、先に手動モノタイプの導入が不成功に終わったこと
を心においておられる様子だった)から推して、購入は到底無理だろうと思っていたところ、社長は、地
位も低く、若い、私のような者の意見を快くきかれ、四十三年には、全自動モノタイプを入れてください
ました。その時の社長のご勇断には、ほんとうに頭がさがります」
このようにして、四十三年の八月と九月には、全自動モノタイプ(鑽孔機)がそれぞれ二台ずつ、十月
と十二月には、全自動鋳植機各一台ずつ(いずれも東京機械製作所製)が導入され、同時に十月には、リ
ライター室が設けられた。これらの全自動組版機は、その後も年を追って数を増やし、組版部門には不可
欠な大きな戦力として組版の仕事をスピーディーに、かつ効率的に処理し、素晴らしい成果を上げていく
こととなった。
104
第四章
まさに第二の創業、習志野へ進出
広大なスペースに最新設備の新工場
この章では、昭和五十三年の創業五十周年を迎える前の四十年代の前半から五十年代前半のおよそ一〇
年間についてふれるが、わが社にとって、第二の創業とも言える大きな出来事があった。習志野工場(千
葉県)の建設である。従って、これから先は、煩雑さを避けるためにも習志野工場、本社関係をそれぞれ
のブロックに分けて記述せざるを得ないことが多くなり、こうしたことも、わが三晃印刷が、戦前、戦中、
戦後の厳しい時代の波を乗り越えて成長、発展し、業容が飛躍的に拡大したことを物語っている。そして、
習志野工場の竣工で、現在に至る三晃印刷の業態がほぼ整ったことになる。
では、
「習志野工場の建設」から記述を進めよう。
明治百年に当る昭和四十三年は、わが社にとって創業四十周年に当る記念すべき年である。山元正宜社
105 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
長は、かねてから四十周年記念事業の一環として、目白通りに面した角地(現在の新館)に高層ビルを建
て、そこにオフセット工場や営業部門などを設ける構想を持っていた。そして常々、もし新たに工場を建
てる時がきたら、これまでの印刷工場にはみられないまったく新しい視点をベースにして、オフセットを
中心とする理想的な施設をつくりたいという強い願望を抱いていた。それが現実のものとなって、いざ検
討をしてみると、その理想を実現するには石切橋の敷地は狭すぎたし、その上、ますます混雑、渋滞が増
すであろう交通問題は、一企業に解決できることではない。
その後もこうした条件や、さらなる飛躍を期す会社の将来などを勘案して熟慮した結果、この場所では
自分の求めている工場の建設は無理と判断し、すでに四十二年五月に購入してあった習志野の地への進出
に踏み切ったのである。
また、山元社長が、特にオフセット印刷に重点を置くことにこだわったのは、オフセット印刷の汎用性
と、出版、商業の両印刷部門ともに読むから見るへの傾向が強くなり、多色化が進んでいたことへの将来
を見据えての対応策であった。その背景には、四十一年の『国民生活白書』が、国民の半数が自分は中流
だと意識していると指摘しているように生活レベルが向上し、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)に
象徴される耐久消費財ブーム、レジャー時代などライフスタイルの変化に伴うあらゆる面での需要の多様
化、高級化があった。ちなみに、ビートルズが来日したのは、この年の六月二十九日であり、グループ・
サウンズ、ミニスカート、全共闘による大学闘争など若者が元気な時代でもあった。
そして、結論を先に言ってしまえば、習志野工場のオフセット設備が整うのを待っていたかのように、
106
印刷業界には、オフセット輪転時代が到来したのである。
習志野といえば、明治の比較的早い頃から陸軍演習場となり、明治三十二年には騎兵連隊が置かれたり
したことで知られていた。とはいえ、当時はまだ雑草が背丈より高く生い茂って、道路はもちろん舗装さ
れておらず、街灯もなく、夜ともなれば野犬の遠吠えが聞こえてくるような地だった。工場の敷地から見
える建物といえば、日軽アルミ工場(現・日軽金属工業)ぐらいで、現地への足は、津田沼駅から自衛隊
(陸上自衛隊習志野駐屯地第一空挺団本部)までバスで行き、そこから徒歩一五分ぐらい。新工場の施設
が整うまでは水もなく、お隣りの協同乳業からホースでわけてもらい、飲料や洗面に使ったという。しか
し、東京の隣接地として工場用地、住宅地としての立地を備えており、都市化が進むとともに開発されて
いくことが先見できる有望なエリアではあった。
四十二年七月二十五日、現地には社長をはじめとした会社幹部、工事関係者など約三〇名が揃って、厳
かに地鎮祭が行われた。
多額の建設資金の調達、導入する印刷機、設備、営業関係などへの手立て、そして工場を運営し、現場
を動かしていく人の問題、その他さまざまなことへの対応、そして山元社長の鍬入れ。その一振りは、こ
の一大プロジェクトに三晃印刷の今後を賭けた夢の実現へ向けての第一歩であった。工事は、日本住宅公
団推薦の村本建設株式会社が担当、四十六年十月三十一日に完成し、南習志野工業団地の一等地に静かな
たたずまいを見せることとなった。
もちろん、最終的な完成の前から、工事を終えたところから随時、業務を始めたのであるが、その過程
107 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
108
を振り返ってみよう。
昭和四十二年の十月には、最初の印刷機、ローラン
ドA倍判二色オフセット印刷機二台が搬入されてい
る。これはドイツのローランド社の製品で、この種の
印刷機としては世界的な名機である。その二台がまず
十一月に稼動した。それから少し遅れてマリノニ菊倍
判両面刷印刷機が入り、十二月から稼動を始めている。
彼らは、四十二年の五月から八月にかけて、すでに
刷の勉強から始まりました。
から若い優秀な人たちが選抜され、まずオフセット印
真剣に考えていたようでした。結局、輪転、印刷など
「 習 志 野 工 場 の オ ペ レ ー タ ー に つ い て は、 会 社 で も
役・習志野工場長)は、次のように語っている。
その当時の事情について山岸保男作業課長(後に取締
事に取り組む人材であり、極めて重要な課題であった。
のであるが、会社の期待を背負ってまったく新しい仕
これに先立って、新工場の要員の人選が進められた
習志野工場(昭和 42 年)
古くからオフセット印刷工場として立派な成績を上げている中堅企業三社に、それぞれ三班に分かれて実
習に入りました。私は私で、インキ会社に、オフセット印刷に使うインキの性質とか、調肉のことなどに
ついて勉強に行きました。
三か月の研修が終わったところで、今度はみんな一緒に、一か月ほど凸版印刷(株)さんにお世話にな
り、最後の仕上げとして懸命に頑張りました。それから習志野工場に行って、今度は搬入された機械の組
み立てに当り、どうやら機械が動くところまで漕ぎつけたのです。
若いといえば、
オフセット印刷の実習に行った人たちはみんな若く、私を除いては、活版印刷(平台、輪転)
経験一~四年が三人、
この年の新規高校卒業者が七人という陣容でした。始めのうちはみんな五里霧中で、
ただ、若さと情熱で身体ごとオフセット印刷にぶつかっているうちに、だんだんいろんなことを覚え、そ
れが身についてきたような次第です」
四十二年十月における習志野工場勤務者は、研修に参加した一一名に加えて、岩倉満志工場長、凸版印
刷(株)の技師をしていて招かれた関口辰五郎オフセット印刷課長、それに、土地購入の時から関わり、
庶務主任として配属された石川治夫の一四名であった。
四十二年十二月発行の社報にある「習志野工場だより」では、岩倉工場長が、
「十一月十四日より、ローランド印刷機が稼動し始めたが、関口オフセット課長、および凸版印刷(株)
その他、
関係各社へ技術の習得に行っていた若いオペレーターたちは、仮眠所へ泊まり込んで懸命に頑張っ
ています。
109 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
また、マリノニ印刷機も十二月五日頃から本稼動の状態に入ってきたので、いよいよこれからが本格的
な仕事ということになった。
版付その他で最初は苦労したが、目下のところ順調にすべり出せる見込み。現地で採用した検品要員が
不慣れのため、印刷してから発送までの間、スムーズに流れない傾向があるが、漸次、解決されると思う
(後略)
」
とスタート直後の現地の状況を報告している。
地鎮祭からここまで、
まったく初めての仕事ということもあって、さまざまな困難に直面することもあっ
たが、
習志野工場の勤務者はもちろん、
会社をあげての努力によって、四十三年の年明け頃には、設備、内容、
外観とも、最新鋭工場としての体裁が整った。
そして、同年五月十一日には、お得意、同業者、金融関係をはじめ、関係者をお招きして、習志野工場
竣工披露パーティを開催し、翌十二日には、協力工場の方々、従業員とその家族の方々にも参加していた
だき、創立四十年記念式典および新工場、新社宅の披露を兼ねた「祝賀と懇親の集い」を催した。
二つの催しとも大変な盛会で、参加者は両日を通じて約一四〇〇人。集まった人たちからの心のこもっ
た祝福に、社長をはじめ社員一同の感動と感激は、格別に深いものがあった。
初日の披露パーティでは、社長から次のような挨拶があった。
「
(前略)当工場は、創業四十周年の事業の一環として、習志野従業員社宅の建設とともに計画いたしま
したもので、このほど、両者とも完成をみたわけでございますが、これもひとえに皆さまがたの多年にわ
110
たる高庇と、ご支援の賜と深く感謝いたしている次第でございます。
ただいま当工場におきましては、
ローランドA倍判二色印刷機(二台)、マリノニ菊倍判両面刷印刷機(一
台)
、シーズニングマシン(一台)
、ポーラー断裁機(一台)などの諸機械と、自動殖版機その他の刷版設
備をもってオフセット印刷に従事しているのでありますが、写真製版については、今のところ本社工場で
行っております。
幸い、皆さまの心からなるお力添えによりまして、新分野開拓に伴うもろもろの困難も克服し得て軌道
に乗せることができましたが、
私どもはさらにより優れた製品を目指して一段と技術の向上に研鑽を重ね、
皆さまのご期待にお応えするよう精進いたす所存でございますので、なにとぞ今後とも宜しくご指導、ご
鞭撻のほどをひとえにお願い申し上げます(後略)」
そして、二日目の式典では、恒例の皆勤賞の表彰のほか、永年勤続者(一〇年以上四三名、二〇年以上
一二名)の表彰も行われ、その後、人気落語家の三遊亭円楽や新進歌手の余興を楽しんで散会となった。
以上が工場建設関係の流れであるが、同時に建設が進められた社宅、寮についても記しておきたい。
まだ開発が進んでいない地域だったこともあり、住宅の確保は従業員が安心して働くためにも欠かせな
い課題であった。社宅は四十二年九月、日本住宅公団との間に特別分譲住宅譲渡契約を締結して工事を進
め、翌年四月、敷地の南端にスマートな四階建の社宅が竣工した。工場まで二キロの距離にあり、環境に
恵まれ、家庭菜園などもつくられ、快適な生活が営めるよう配慮がなされた。表示規格は、鉄筋コンクリー
ト造り、陸屋根四階建2DK、共同住宅一棟(一六戸)。建設会社は石切橋の本社も手掛けた立野建設株
111 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
社宅
第二青雲寮
112
式会社。
さらに、四十六年十月には、第一棟と同型の第二棟四階建社宅が村本建設株式会社の施行によって完成
している。
社員寮については、新規採用者の多くが習志野工場に配属され続けていたこともあって、それまでの木
造二階建の寮では収容しきれなくなり、四十八年二月には鉄筋四階建(三七室)を借り上げ、寮名は従来
と同様に青雲寮(第一)とした。また五十一年には、習志野工場の急速な発展もあり、三〇名からの新入
社員のために男子寮の新築(第二青雲寮)と女子寮のための増築が行われている。
急速な成長、拡充を続けるオフセット部門
これまで述べてきたように、披露パーティが開催された昭和四十三年には、習志野工場の基礎づくりは
ほぼ完了し、その土台のもとに機械設備、人材の両面から充実を図って行かなければならない段階にさし
かかった。
四十四年の「年頭のあいさつ」では、山元社長は全従業員に次のように呼びかけている。
「習志野工場で始めたオフセット印刷は、原版が簡単につくれ、しかも印刷が他の方式に比べて容易で、
印刷用紙の制約も少ない。そうしたことから、これらの利点が好まれるようになり、このところ、オフセッ
トの需要がグンと増して、印刷界は、従来の活版から、オフセット印刷の分野へと拡大される傾向にあり
ます。
113 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
判オフセット輪転機の略称)
114
インキの質、あるいは機械の向上により、さらにオフ輪への移行が目立ってきております。また、最近
アメリカでは、美術印刷のオフ輪化が実用化される方向にあると聞いております。こういったことを考え
てみましても、オフセットは将来有望なわけで、私は習志野工場を立派な効率の高いオフセット工場にし
たいと考えています。
その意味で、まずオフセットの優秀な技術者を採用して技術面の強化を図り、また均斉のとれた形の工
場にして、今年こそ習志野工場が独り立ちできるようにできるだけの手を打って行きたいと思うし、三晃
印刷が必要とする大きな力を、ここから生み出せるようにしたいと思うのであります」
習志野工場の拡充の基本方針は、まさにここからスタートし、この線に沿って歩みを止めることなく努
力が続けられていったのは言うまでもない。
さっそく、この年の九月には、第二期工事として工場の増築が行われ、ここにBOR( 判オフセット
ルにも及んだ。
には第三期増築工事が完成し、工場は一段と広くなって、第一期からの合計建坪は三、〇九七平方メート
らみて輪転機の優位性は動かしがたく、早くも輪転機の導入に踏み切ったのである。さらに四十五年五月
をもたらし当社の急成長をうながしたが、オフセット印刷部門においても生産性、迅速性、経済性などか
輪転機の略称)が設置された。先の活版専業時代に、いち早く導入した輪転印刷機が飛躍的な受注の拡大
B
当時の機械設備をリストアップしてみると、オフセット平台関係では、ローランド印刷機二台、マリノ
ニ印刷機一台、そしてオフセット輪転機関係では、BOR一台、AOR(
A
二台(四十五年一月に入れた中古機で、一年半ぐらい使用後廃棄)、それに活版用のA倍判書籍輪転機二
台となっており、急ピッチの新しい印刷機導入で、すでにかなりの充実ぶりがうかがえる。
最初にBOR機が入った頃を回顧して、五十一年当時に山岸作業課長は、
「最初、凸版さんに一か月くらい、みんなで講習を受けに行き、それが終わって機械に就いたのです。
一台に配置された五人、
初めのうちはいきなり船の甲板の上に立たされたようでなかなか要領がつかめず、
やみくもに駈け回っていたような感じだったと思います。その内にだんだん慣れてきてどうやら動かせる
ようになり、一年ほど経って、生産額が一、
〇〇〇万円に達した時には本当に嬉しくて、祝杯をあげました。
今でも、その喜びが忘れられません」
と新しい機械への戸惑いと喜びを語っている。
そして、四十五年十二月には、まだスタートしたばかりで解決すべき難しい問題が山積していた習志野
工場に、
山元悟副社長が工場担当役員として着任した。すぐに問題点を洗い出し是正に取り組むとともに、
工場同様に若い従業員がほとんどということもあり、技術・人間教育にも格別の力を注いだ。その詳細に
ついては後述するが、この着任は、将来の三晃印刷の命運を握っている習志野工場の重要性を明確に示す
ことでもあった。
翌年の四十六年五月には、BORの第二号機が導入され、見込まれる受注増へのハード面からの対応策
が打たれた。そうしたことを踏まえて、山元社長は、四十七年の「年頭あいさつ」で、習志野工場のさら
なる充実を図るべく全従業員に対して次のように期待を述べている。
115 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
「昨年、本社のオフセット製版関係の拡充整備が完了し、習志野工場のオフ輪も四台となったので、こ
れで習志野工場は、いよいよ適正な規模と内容をもったオフセット工場にまで発展したと考えます。今後
は、この設備、機械を皆さんともども、いかに活用するかにかかってまいりました。
ご承知のように、現在まで印刷屋といえば、活版印刷が主流であるかのような考えがあり、オフセット
印刷は特殊な印刷のように言われてきましたが、最近の世間一般の意識、技術の進歩が、この考えを変え
させております。
印刷組合の実態調査によれば、凸版と平版の割合は、昭和三十九年が六対四、四十四年は五対五、五十
年には四対六になり、平版と凸版との立場が逆になるだろうと予想されております。これでおわかりのよ
うに、わが社の場合、このオフセット部門の強化と充実に総力をあげて当らないと、将来を誤るおそれが
あります。
そこで、今年の習志野工場については、こういうふうに考えています。
まず、当工場には、マリノニなど、人手が足りなくて遊んでいる機械があるが、今年はぜひ、これを稼
動させていただきたい。幸い、マリノニ印刷機向きの仕事は、最近、非常に増えているようなので、せっ
かくの設備機械だから有効に生かされるようにしていただきたい。
次に電話帳用の機械のAORのことですが、評判もよくないようなので、状況さえゆるせば本年から来
年にかけて、この二台をスクラップ化(間もなく実現した)して、新しいA判の二色オフ輪を備えたいと
考えています。
116
それから人の面ですが、この春、入社予定の現場系男子約三〇名のうち、三分の二を習志野工場へ配属
するつもりです。
いずれにしても、今年は、当工場については、会社の総力をあげて独り立ちできる工場としての完成を
期したいと考えていますが、習志野工場には、その可能性が十分にあると信じています。
今年の重点施策、中でも習志野工場の完成については、皆さんの協力をお願い致したい。副社長に聞く
と、特に昨年来、習志野工場の皆さんが、情熱をもって実に真剣に仕事をするようになった。本社の諸君
は見習わなければならない、とハッパをかけられていますが、ぜひ、本社の模範となるよう頑張ってもら
いたい」
そして、この社長の方針にそってスクラップ化された旧いAORに替わって、この年の八月には、最新
型の素晴らしい性能をもつ東芝製A全判二色オフセット輪転機が動き始め、同時に、面積五五〇平方メー
トルの倉庫も完成し、一本立ちの工場としての内容を整えた。また、社長の「あいさつ」にもあった、人
員その他の関係で前年来、稼動できなかったマリノニが三月には本社工場に移設され、印刷課のスタッフ
の手により「中公文庫」の印刷に充てられて徐々に真価を発揮し始めたのは、生産効率からいっても意義
深いことであった。
さらに、適材適所は人だけでなく機械も同様で、商業印刷部門の拡大に伴いローランドの持ち味がより
生かせる仕事の受注を期待して、四十九年四月にはその一台をやはり習志野工場から本社工場へ移設して
いる。そしてさらに、その穴を埋めるかのように翌五月には小森製の四六全判四色オフセット印刷機(平
117 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
台)を導入し、新戦力としたのである。
この小森製の印刷機は、安全性が高く取り扱いも簡単で、しかも一工程で四色刷ができ、品質が安定し
ていて時間の短縮も望めるという素晴らしい特徴を持っていた。ポスター、高級出版物などいわゆる高級
カラー印刷用として最適であり、営業部門としては、出版に加えて新分野の開拓を目指して四十七年に新
設された商業印刷部門についても、これによって受注の幅をなんの憂いなく広げることが可能になった。
五十年に入ると、五月に、在来の巻取紙倉庫が手狭になったため約三三〇平方メートルの増築が行われ、
同じ月に、本社工場から活版輪転機一台が移設されている(この機械は、業務の都合により五十二年七月
に再び本社に移された)
。
また、この年の八月には、ジェット炉(株)の製造、施工によりサイクロン(集塵機)装置が完成した。
これは、今まであった焼却炉を移設するとともに、集塵機を取り付けたもので、焼却効果が一段と高く、
不完全燃焼による燃えかすなどを取り除く工夫もほどこされていた。ゴミ焼却量は、一日(八時間)で約
二トンであった。四十年代における水俣病、イタイイタイ病に代表される企業による深刻な公害問題もあ
り、公害規則がますます厳しくなっている折からその重要性を認識しての対処であり、工場自体のゴミ、
清掃は自らの手で処理するという考えの実践でもあった。
そして、十一月には、小森製のコスモA倍判四色オフセット印刷機が設備された。この新鋭機は、受注
競争がますます激化し、品質が問われている時代の中にあって、シェアを拡げていくであろうオフセット
印刷の将来を考慮して導入したのである。さらに五十一年三月になって、かねて発注済みであった東芝製
118
の BOR(二色両面オフセット輪転機)の据え付けが完了し、稼動を始めた。高速時代に先駆けて増設
されたもので、主に、週刊誌、雑誌、商業印刷向きの機械である。高速印刷方式でありながら、計数シス
テムにより操作が非常に簡単で、いわばオフセット印刷の精兵ともいえる性能を持ち、この導入で機械設
備面での受注体制はほぼ万全に整ったといえよう。
このように習志野工場では、特に四十九年から新鋭機を次々に投入して受注の拡大に備えているが、当
時の社会、経済情勢は、決して予断をゆるさないものがあった。四十八年の石油ショック以降、深刻な景
119 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
気後退が続いていたのである。年を経るにつれて厳しさを増す経営環境の中、山元社長は、五十二年の年
判
頭の「あいさつ」で、直面する減益の問題に触れ、必死の経営努力を続けて行かなければならないことを
強調したあと、当年度の重点施策の第一に、やはり習志野工場の充実をあげている。
「……年々増加するオフセットに対する需要に応えるために、本年五月末から東芝のFBR(四色
社長が言明したとおり、この年の五月には、FBRが稼動を始めた。FBRという機械は、わが国オフ
だきたい」
工場を最重点部門として、人的、物的に会社を挙げて力を注ぐので、工場の皆さんは、ぜひ頑張っていた
また、人の面では、今年の三月の新入社員(一五名)は全員、習志野勤務とする。このように、習志野
さんも、営業部の人も、新設備の導入を成功させてもらいたい。
多少無理だけれど、営業の拡大、高い付加価値の実現のために、あえて購入するものである。習志野の皆
オフセット輪転機)が稼動することになっている。本機は、かつてない高額の設備投資額(約三億)で、
B
セット輪転界の最高峰といえるもので、婦人雑誌のモード写真、料理のページなどの高級印刷はもちろん、
新聞、商業印刷にも向いているという幅広い用途をもっており、大型機械ながら精密度抜群のオフセット
四色印刷機である。
さてここで、習志野工場開設の四十二年からこの五十二年までを振り返って見ると、時代の先端にある
精鋭な印刷機がかなり早いテンポで次々に増設されていることがわかる。ということは、これらの機械を
動かす人の手当てが大きな問題になってくる。
すでに四十三年までの新卒雇用状況、人数などについては第三章で記したが、急成長を続けるわが社に
とって、それに見合う必要人員の採用は、決して楽だったわけではない。というのは、日本経済は高度成
長期に入っており、とりわけ四十一年末から四十五年にわたる大型景気(いざなぎ景気)の下では、業種
によっても異なるが、おしなべて人手不足、特に若年労働者の不足が深刻になり、それに伴う高賃金の招
来で「労務倒産」に追い込まれる企業もあったほどである。一方、好況業種ならいくらでも働き口がある
といった錯覚を起こさせる社会状況の中で、定着率の低下という問題も生じていた。
わが社は成長企業であるということと、人事部門の懸命の努力もあって、それでも恵まれているほうで
あった。
しかし、
求人や定着率低下についての時代の流れは、決して安閑としていられるものではなかった。
そこで求人対策本部を設け、地域別に求人対策班をつくり、出身地域や学校に社員を派遣して社員募集を
するとともに、従業員教育による定着率向上に力を注いだが、こうした全社を挙げての努力にもかかわら
ず時代の流れには勝てず、人事部門に携わる人たちの焦りと苦悩は続いたのである。
120
そうした中、
四十五年一月に本多昭三人事課長が入社、武田一朗主任(当時)とともに、求人その他の人事・
労務管理に専念することになった。そして求人活動に入ったのだが、普通に学校などに足繁く訪ねてみて
も、さまざまな企業の求人活動も活発であり、とても意図する求人目的を達成することはできない状態
だった。そこで、狭く、深くの求人方法に切り替える方策をとったのだが、永い野球生活を通じてその方
面に顔も広く、交際も深い本多課長の人脈が極めて有効な役割を果たすこととなった。四十五年、四十六
年にわたっての彼を始めスタッフの懸命な努力によって四十七年には、新卒採用数の低落傾向に歯止めが
かかったが、それでも男子高卒は前年比、わずか一名増の二四名、女子高卒も前年比、二名増の九名であっ
た。しかし、新規大卒は七名の採用で、商業・オフセット印刷部門の拡大に伴う技術、営業に備えること
ができたのである。
こうした求人状況の下に、習志野工場の伸展に合わせて本社工場の活版輪転部門からも適任者を送り込
む措置が採られたが、そう多くの配転は望めず、やはり新卒採用を増やして、一日も早く優れたオペレー
ターに育て上げるしかなかった。
五十一年になると、今まで記してきたような機械設備の拡充により、これらをフル稼動させるためには
高卒男子三〇名近くのまとまった配属の必要に迫られ、本多人事課長を始め、本社、習志野のスタッフ一
丸となった前年からの求人活動により男女四六名を採用することができた。そして、男子二九名、女子二
名が習志野工場への配属となった。男子社員は、その年の三月二十二日から四月末日まで、徹底した現場
研修の後にそれぞれの職場に就き、年を経るにつれて重要な戦力として貴重な実績を上げていく。
121 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
18
122
五十二年については、先の社長の年頭「あいさつ」にもあったように、現場系男子全員を習志野工場へ
配属するとともに、この年から初めて新卒者に対する研修は、他の部署に就く者も含めてすべて同工場で
行った。
近代化が続く印刷関連設備
技術の粋を尽くした最新のオフセット印刷機が次々に導入されて、生産力の増強に目覚ましいものが
あった習志野工場では、これに伴い、他のさまざまな面においても近代化が推進された。すでに紹介した
五十年夏のサイクロン装置もその一つであったが、続いて五十一年一月にはガス供給装置、ついで六月に
は冷水機工事を行い、新たに二つの近代的施設が完成している。
従来、オフセット輪転機で印刷中の紙の乾燥用ガスは、ガスボンベからプロパンガスを送っていたが、
機械の増設に伴い間に合わなくなってきていた。そこで、まずボンベから気化装置を通して円筒の大型タ
ンクにプロパンガスを送り、これからさらにオフ輪の乾燥機に供給するようにした。これが、ここでいう
ガス供給装置である。
また、今まで、オフ輪用チルローラー、インキ部およびオートベスタ用パウダーブレーキなどの冷却に
は、外気の影響を受ける貯水槽内の水を利用していたが、真夏には水温が約 度Cほどにもなり、印刷物
るための六〇馬力チラーユニットを導入した。これが冷水機工事である。
の品質に悪影響を及ぼしていた。そこで新しく機械力を使い、たとえ真夏でも水を常に約 度Cに冷却す
32
これら二つの新しい試みによって、オフセット輪転機は非常に効率よくスムーズに動くようになった。
いくら本機が優秀でも補助的な機能を果たす設備がそれに見合ったものでなければ、印刷機の優れた性能
を生かしきれない。こうした面へのきめ細かな配慮は、山元社長の常日頃からの指針であり、それにそっ
て改善、開発に努めてきた。その成果が、品質の三晃という評価につながったといえよう。
ここで、オフセット製版の最終工程として直接オフセット印刷機にかける版をつくっている刷版につい
ても記しておきたい。
しょう き
習志野工場が新設された初期の頃は、設備としては、ホエラー一台、コンポーザー一台、それに刷版処
理設備(流し台、乾燥機、焼燬機)一式などで、版は、平台オフセット印刷機用のアルミ版とPS版の二
種類であった。
四十四年十月、
初めてBORオフセット輪転機が導入されて輪転用のトリメタル版を使うことになった。
やがて、PS版が時とともに改良されて耐久力が増し、アルミ版より優れた点が多くなったのでPS版に
しぼり、その後はトリメタル版とPS版の二本立てで進んでいくことになった。年を追ってオフセット印
刷機が続々と増設されるに伴い、刷版の仕事も繁忙を極めるようになり、より効率的な機械設備、必要な
人員も増えていった。五十二年当時、一二名の刷版要員が次のような機械を使って、懸命に仕事に取り組
んでいたのである。ホエラー二台、コンポーザー二台、トリメタル腐蝕機一台、PS版用自動現像機一台、
PS版用ガムクォーター一台、刷版処理設備一式。
ところで、もし刷版に誤りがあれば、その刷版で刷られた印刷物は商品でなくなり、ただの紙屑になっ
123 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
てしまう。特に大量に刷る輪転の場合、刷り直しをするようなことになれば、その損失を含めた影響は、
致命的ともいえるほど大きなものになってしまう。こうしたことを考えても刷版の仕事は、極めて厳格な
正確さ、緻密さが要求され、一時の油断も許されない、まさに厳しい神経戦である。オフセット部門の業
績向上の背後には、刷版にたずさわる人たちのプロとしての地道な努力があることを忘れるわけにはいか
ない。
今まで見てきたように、短い年月の間に習志野工場は、まれにみるスピードで成長を遂げ、機械設備、
内容ともに先発の中堅オフセット工場に比べても決して遜色のないレベルに到達した。実際に、五十二年
度における生産額は、全社(社内)生産額の五割を占めるに至り、この比率は年を追って高まっていった
のである。
それでは当時、習志野工場では、どのような仕事を手掛けていたのだろう。そのいくつかを取り上げて
みよう。まず、四十年代に入ってのオフセット印刷には、その使われ方に大きな特徴があった。従来から
の写真・多色刷りの需要が増加しただけにとどまらず、文字印刷のオフ化という新傾向を生みだし、多方
面に利用されるようになったのである。四十五年以降、習志野工場で印刷していた「教科書」「電話帳」
なども、そうした流れに沿ったものといえよう。また、四十七年からは、商業印刷部門が新設されたこと
もあって、ポスター、カレンダー、カタログ、パンフレット、各種チラシ、リーフレット、包装紙、レー
ベル、ステッカー、POP、年史、社内報、PR誌など多岐にわたる印刷物を受注し、わが社における新
しい分野を開拓していった。
124
さらに、五十年には、
『日本の名画』全二六巻、『浮世絵全集』全七巻、『日本陶器全集』全三〇巻、い
ずれも中央公論社を受注、そして、五十二年からは小学館の学年誌を手掛けている。
若い力を前進のエネルギーに転換
習志野工場の新設は、その規模からいって、いわば新しい企業を設立するに等しい草創の努力を必要と
した。建物、機械、設備などハード面についての施策展開は前項で述べたが、それらを活用して生産活動
をする人づくりの成否こそ、企業の将来を決定する生命線となる。
工場の草創期においては、一部の幹部は別として、他は二〇歳前後の若者がほとんどであった。若さは
その情熱、体力ともに楽しみであるが、それはあくまでも素材としてであって、心身の力を仕事とともに
新しい時代を切り拓くエネルギーに変えて行くためには、リーダーシップをもった優れた指導者が必要に
なる。
新工場での業務がスタートして二、三年は、前例のないところから新たな業務態勢をつくっていかなけ
ればならず、それに技術的にも十分とはいえず、山岸作業課長が前項で述べているように業務・労務管理
に難しい問題がいろいろ生じていた。
そうした状況の中に、やはり前項でふれたように昭和四十五年の十二月、本社から山元悟副社長が、習
志野工場の責任者として赴任したのである。三〇歳の若さであったが、三晃印刷の将来がかかった最重要
部門である習志野工場の基礎がためと拡大強化に向けて、力を振るうこととなった。
125 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
着任早々の社報における、
「習志野工場の責任者として、まず手掛けたいことは?」
の問いに対して、即座に、
「何といったって〝人〟ですよ。
〝人を育てる〟ということですね。どんなに立派な機械を入れ設備したっ
て、実際にこれらのものを使って仕事をする人間ができていなければ……」
と、明快に答えている。
そして、ただちに試みたのは、広い意味での従業員教育ともいえる若い従業員たちとの懇談会であった。
社宅の一戸を確保し、夕食をともにしながら、仕事のこと、そうでないことも時間をたっぷりかけて話し
合ったのである。初めのうちはできるだけ集まる機会を多くした。山元副社長は若い従業員にとってちょ
うど兄のような年齢であり、情熱をもって互いにじっくり話すことで、働く人の希望や意見を実感し、会
社の方針、仕事の心得を直に伝えることができる。それは、新しい工場の従業員を育てていくために、極
めて意義深いことであった。
やはり従業員教育の一環として、ちょっと異色のものも行っている。工場近くの自衛隊への三、四日の
体験入隊である。景気の好況を背景に浮わつき気味の世相に流されて、若者の耐える、我慢をして何かに
打ち込むといった気風が薄れていたこともあり、彼らが生活している社会環境とはまったく異なった自衛
隊という規律の厳しい集団に身を置くことで、社会人として、職業人として成長していく何かを摑んでく
れればという意図からの企画であった。この体験入隊には、若者だけでなく、管理職にある人たちもリー
126
ダーとして一緒に参加している。
最初は先兵として、四十六年の六月に、四九歳の石川治夫主任(当時)が入隊し、その体験をもとに、
同年十一月に新井管理課長以下一〇名、翌年の四月に山岸作業課長以下一六名(六名は本社の大卒新入社
員)
、そして六月には、松元機長以下一〇名と入隊が続いた。入隊しての生活体験から得たものはそれぞ
れに大きかったようで、
「だいぶきつい訓練もあったが、やればやれるという自信もつき、より若返った感じでけっこう楽しかっ
たね」
という中年組。
「会社の生活では知ることのできなかった、仲間の個性などもよく分かったし、忘れがちだった規律あ
る生活の大切さなども思い出すことができた」
という若者からの実感も寄せられている。
この体験入隊とは別に、四十六年からは毎年、箱根の全印健の保養所(箱根荘)で、従業員研修会が行
われている。参加者は、原則として、入社以来三年の間、脱落せずに頑張りこれからさらに三晃マンとし
て飛躍しようとしている人たちである。研修の主なテーマは、①より優れた社会人を目指してするべきこ
と、②会社の中堅社員としてふさわしい教養と見識を身につけ、より幅の広い人になるための努力をする
こと、③限られた人生を、より豊かに過ごすためのものの見かた、考えかたをもつこと、などであった。
四十六年四月に一二名参加して行われた第一回を皮切りに、翌年からは毎年秋、一六名から一九名の参
127 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
加によって続けられている。当初は暗中模索的な点がないではなかったが、五十年からは、それまでの主
藤専務、星野部長の講師陣に加えて、外部からコンサルタントの辻智道氏が参加され、内容も一層の充実
をしていった。なお、五十一年秋からは、山元副社長も講師として参加している。
一方、従業員の数が増えたこともあって、こうした会社による研修、教育とともに、四十七年頃から楽
しみと親睦を兼ねた同好会やクラブがつくられていった。
スポーツでは、野球、テニス、ソフトボールなどがあり、特に野球チームは、四十七年十一月の第二回
習志野工業団地野球大会で見事に優勝している。一七社が参加しての大会だったが、元オリオンズの新井
彰捕手、元ノンプロの川勝勲投手を擁する習志野工場チームには、どこも歯が立たなかった。クラブとは
違うがボーリングも盛んで、四十八年四月には、青雲寮主催の新人歓迎大会、続く十一月には、習志野・
本社合同ボーリング大会が行われ、本社との親睦を深めた。また、五十年六月には、初めて職場対抗ソフ
トボール大会が行われ、
オールドパワーの活輪チームが優勝の副社長杯を手にする番狂わせを演じている。
文化活動などでは、四十七年八月に習志野工場写真同好会が結成され、フォト・コンテストも行われた。
この他、ビリヤード同好会、変わったところでは、毎年、夏には親睦「生ビール大会」があり、職場の仲
間との楽しいコミュニケーションの輪を広げている。
なお最後になったが、工場の安全、衛生管理についても記しておきたい。
習志野工場では、これまで述べてきたように質、量にわたる生産力の向上や従業員教育その他の充実
に 格 別 の 注 力 を し て き た が、 広 い 意 味 で の 労 務 管 理 に も 絶 え ず き め 細 か な 配 慮 を し て き た。 た と え ば、
128
四十八年三月には、山岸作業課長を委員長とする安全衛生委員会(詳細は本社関連で後述)を設置し、本
社工場と同じく、小泉二郎顧問の指導のもとに、工場の生産活動には欠かせない安全・衛生問題に熱心に
取り組み非常な努力を重ねてきた。
その成果が認められ、五十年十月、船橋労働基準協会より衛生優良工場として表彰され、同時に船橋労
働基準監督署長から楯をおくられたことなどもその証といえよう。
近代化が進む本社工場
さて、習志野工場が竣工して業務をスタートさせ、草創の困難を乗り越えて急成長を始めていた頃、本
社工場はどのような歩みを続けていたのだろう。
まず活版輪転部門からであるが、出版、印刷の世界においてオフセットへと重点が移ったが、活版輪転
の生産力、技術力に対して、お得意の信頼がゆるぐことはなかった。また、輪転課においてもその重責を
十分に認識し、絶えまなく進化を続けている機械の動向を見据えながら、既存の機械の能力と受注関係な
どのタイミングを見計らって、最新機械に更新し能力の増強を行っていた。
四十三年十月、四十四年九月にはB判輪転機を東京機械から新たに購入し、四十七年十一月には、業務
のなお一層の効率化を目指して、画期的な二つのことを実施した。一つはインキ自動供給装置の設備であ
り、もう一つはオペレーター一人制の導入である。
前者は、この装置を高速輪転機すべてに取り付けることによって、今まで人が行っていたインキの取り
129 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
11
バーホールして 号機(旧 号機は解体)とした。また、過去
5
二〇年間にわたって稼動し、わが社の飛躍の時代を支えてきた
5
、 号両機は、工場の構造改善に欠かせないS・B(スクラッ
4
版メッキ液からの排水ガス吸引排水機(プロペラ式)」を設け
メッキ装置」を実現させている。続いて五十年十一月には、「丸
管 理 の 合 理 化 な ど を 主 眼 に お い て 設 計 さ れ た「 全 自 動 ク ロ ム
月に完成させた。さらに四十九年十月には機械装置の安全、液
薬品処理によって無害とする「廃液処理装置」を四十八年十一
丸版鉛版部門については、丸版鍍金装置から流出する廃液を
され、輪転印刷部門に大きな力をもたらしたのである。
五一年四月に性能の優れたB判輪転の新世代機が相次いで投入
化 さ れ た。 そ し て、 こ れ ら の 老 朽 機 に 替 わ っ て 五 〇 年 四 月 と
プ& ビルド)計画にそって、四十九年の五月に解体スクラップ
3
130
替え作業、補給作業を解消させたが、その軽減された労力を後
者の一人制(一部実施)に振り向けたのであった。
(TB6型)機(東京機械)を導入するとともに、 号機をオー
四十八年四月には、最新鋭高速(分速四五〇回転)B判輪転
丸版仕上げ
丸版ルーティングマシン
平台鉛版
ている。これは、今までコンプレッサーによる空気攪拌だっ
たためガスが発生しやすかったのを、プロペラ攪拌に改めて
環境浄化を図ったもので、従業員の健康管理に十分な配慮を
しての導入であった。
また、これは平台鉛版関係であるが、四十九年十月には、
西研工業の製作による全自動鋳込機が導入されている。この
131 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
鋳込機は、鋳込作業を文字通り自動的に行うもので、能率の
向上はもちろん、作業をする人の負担を軽減するため大いに
役立った。
やすく健康に配慮した環境づくりにも、輪転倉庫課は積極的
地下スロープ排気ガス消去換気装置を備え付けたりと、働き
角に課員の設計・施工による発送事務所を新たにつくったり、
は、業務のより迅速化、合理化を図るため、刷本発送場の一
に非常によい結果をもたらした。この他にも、同じ五十年に
ンプによる巻取紙の縦積みの実施によって、振動防止その他
からピットタイプ・コーハンボード方式を採用し、回転クラ
輪転倉庫関係においても改善が行われている。五十年八月
平台鉛版仕上げ
に取り組んでいる。
かつて中央公論社を始め各出版社の膨大な「全集もの」が印刷されていた頃、昼夜を分かたずの活況を
呈していた印刷課であるが、四十二年頃の全集最盛期を峠に徐々に縮小され、静かになっていった。しか
し、四十八年三月にはマリノニ・オフセット平台両面印刷機が習志野工場から移設され、翌四月からこの
機械を使って「中公文庫」の印刷に当ることになったのである。この時の様子をファミリー新報(四八・六)
は、
〝怪物・マリノニくん順調〟の見出しで、
「……自ら先頭を切ってインキに汚れた大脇第一作業部長に、水越課長、同課のホープ佐藤芳行さん、
と実力者をずらり揃えての取り組みはまさに〝大仕事〟にふさわしい。
長さだけでも一〇メートル近くもありそうな、巨大〝怪物〟マリノニが動きだしたおかげで印刷課は見
事に蘇った。
(中略)活版印刷に比べてシャープさこそ劣るが、ハイデル機の八倍の能率という前評判は
本当だった。この〝怪物〟は、今後も自分たちに、第一作業部に、会社に、大きな実績と歴史を残してく
れることだろう」
と、再び活気づいた印刷課の喜びを伝えている。
そして、四十九年四月には、ローランド印刷機向きの仕事の拡大と、習志野工場への大型機の導入とい
う二つの事情から、同工場にあった二台のうちの一台を本社グラビア工場(四十八年十月、グラビア課廃
止)あとへ移設し、主に、チラシ、学参もの、音楽の友社関係の出版物その他(二色もの、単色もの)の
印刷を手掛けることとなった。さらに、五十一年には、四六四裁全自動印刷機(桜井機械)が入った。こ
132
の機械は、一般印刷用の高速機としてつくられており、さまざまな面に最新の機械装置が装備されていて、
高級印刷も簡単な操作で刷り上げるという逸品だった。このような優秀機を、月報とか、奥付といった細
かい仕事に向けたが、これは常に細部にわたってまで最高の製品を仕上げてこそお得意の信頼が得られる
という、山元社長の創業当初からの信念がわが社の伝統として生きていることの証左でもあった。
印刷機以外でもさまざまな工夫、改善を行ってきた。活版印刷を得意としていた当社では、その生命
と も い う べ き 活 字 の 質 の 向 上 に は、 終 始、 力 を 注 い で き た の は い う ま で も な い。 母 型 も 必 要 に 応 じ て
替 え ら れ て き た し、 活 字・ イ ン テ ル の 各 鋳 造 機 も、 た び た び 更 新 さ れ た。 特 に 活 字 鋳 造 機 に 至 っ て は、
四十八、
四十九、
五十年と、毎年新規購入が行われた。
整版業務についてはすでに触れたように、全自動モノタイプの導入など機械化によってその能力も飛躍
的に増大し、五十二年四月には鋳植ならびにタイプの二つの係は、鋳造係とともに機械整版課として整版
部門の大きな柱となった。
一方、習志野工場の急成長もあり、オフセット製版部門の役割は極めて重要な部門となった。当時、オ
フセット製版業務を担当していたのは第三作業部のオフセット製版課であるが、ここでその歴史と業務状
況について記しておきたい。
オフセット製版課は、はじめ特殊製版課といった。四十二年の一月に岩倉満志技術課長(当時)がダ
イクリル版の研究、試作に着手したこともあり、それまでなかった特殊の版をつくることを業務とする
課という意味である。その後、実態にそぐわなくなったので、四十五年十月にオフセット製版課と改め、
133 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
134
四十八年五月には、それまで所属していた習志野作業部から離れ
て 第 四 作 業 部 一 課( オ フ セ ッ ト 部 門 担 当 ) に 統 合 さ れ、 さ ら に
五十年一月、この課は独立して第三作業部となった。カメラ、レ
タッチ、版下、写植、検版、青焼・フィルム、校正の七係で構成
され、他に進行・管理部門として第三管理室を置いている。
の優れた機械、設備が次々に導入され、ハードの面では申し分の
セット製版場を完成させた。この大改造と併行して、新しい性能
計、施工の監督に当り、広さ四〇〇平方メートルの近代的なオフ
氏の指導の下に、犬養俊輔営業部員が専任となって新作業場の設
四十六年八月、凸版印刷(株)板橋工場長(当時)の門脇十一郎
かったりすることも多く、思い切った改革を行うことになった。
バラで非能率的であったり、機械、設備も受注する仕事に合わな
ざまな問題点が浮上したが、人の問題だけでなく、作業場がバラ
の大所帯になった。こうなると、チームワークの難しさなどさま
れ、オフセット製版課となった四十五、六年頃には三〇人くらい
あったが、やがて一〇人ほどになり、オフセット輪転機が導入さ
は じ め は、 数 人 で ス タ ー ト し た 特 殊( オ フ セ ッ ト ) 製 版 課 で
オフセット製版場
ないものとなった。
R
―Y型二台、写研パボジャック二台)、B2中西平版校正機一台、その他、製版付帯設備一式(現
主な機械としては、大日本スクリーン製版横型カメラ一台、日本光学B3懸垂カメラ二台、写植機四台
(写研3
像機他)などである。
技術的には、レタッチ、校正刷とも他社に比較しても優れているが、直接、売上増に結びつくカメラ部
門が弱く、早急な強化が課題であった。また、カラーものは外注に依存することが多く、この部門の社内
消化がオフセット課の次のテーマでもあった。
印刷関連ではないが、四十八年十一月には、出張校正室の大改装が行われた。お得意先が増えるにつれ
て出張校正の機会も多くなり、何より気持ちよく仕事をしていただけることをポイントに設計、施工され
た。全部で一〇室、もちろん冷暖房完備で簡素ながら快い感じの部屋にしあがった。
このように、本社工場では、機械、設備などさまざまな面で増強、改良、改善が加えられていたが、そ
の頃に受注していた印刷の中から、すでに記した中央公論社の膨大な全集(ホームライブラリー・シリー
ズ)を除いて、主なものをいくつか挙げてみよう。
四十二年、
『山本周五郎全集』全三八巻(新潮社)、「週刊漫画アクション」(双葉社)、四十三年、『どく
とるマンボウ青春記』
、
「中公新書」一六九番以降(中央公論社)、『資本論』全三巻五分冊(大月書店)、
四十五年、
『レーニン十巻選集』全一〇巻別巻二(大月書店)、四十七年、
『恍惚の人』、
『花神』全四巻(新
潮社)
、
『本朝画人伝』
、
「中公文庫」創刊より全冊、
『広津和郎全集』全一三巻(中央公論社)、四十九年、
「パ
135 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
ワーコミック」
(双葉社)
、
『現代労働組合事典』(大月書店)、五十年、
「ミスターアクション」(双葉社)
、
『遠
藤周作全集』全一二巻(新潮社)
、『現代人の科学』
(大月書店)、五十一年、『モーツァルト全集』全一〇巻(中
央公論社)などとなっている。
安全、衛生、事故防止など労務管理の改善
次に、このように多様多岐、大量の受注を得て、多忙を極める業務をこなす上で欠かせない安全、衛生、
事故防止など労務管理についてもふれておこう。
職場における適切な環境整備、労務管理は、労働災害を防ぎ、従業員の健康維持のためにも欠かせない
問題である。生産業務の過程でこれらの面が重要視され、周到な管理が行き届き、ケガをせず、事故を起
こさず働いてこそ能率が上がって生産も増え、企業の繁栄と従業員の生活の向上が望めることを思えば、
いくら力を入れても入れ過ぎることはない。
当社においてもその重要性は絶えず認識され、三十年代の後半から四十三年頃までをとっても、清風運
動(既述)
、歩行禁煙運動、明るい職場づくり運動、長時間無事故確立運動、防火防水訓練、健康相談室
開設、安全委員会活動、避難訓練、環境調査などが行われている。それでも四十六年四月には、労働基準
局から安全管理特別指導事業場に指定されたこともあって、これを契機にそれまでの安全衛生委員会を改
組し、より積極的な活動を推進させるため、各職場から委員を選出し再出発させた。そして新生委員会の
委員長には海老原昭雄技師長が就いたのである。と同時に、各労働基準監督署長を歴任、労働行政に深い
136
学識と豊かな経験をもつ小泉二郎顧問を迎え、指導に当っていただいた。
この委員会は、月一回は必ず開くものとし、安全・衛生などに関する基本方針の周知徹底と、各職場か
ら上がってくる問題点、提案を討議、検討して具体策をつくって会社に具申するとともに、その実施に当っ
ては各委員が積極的な役割を果たした。さらに委員会は、独自の年間行事計画を立て、その計画に基づい
て一つ一つ実現していったのである。この一連の活動によって当社の安全・衛生管理が進展し、従業員の
意識も高まった。
四十七年一月には労働保健協会の手により、整版、鉛版、丸版各課の環境測定が実施された。結果は心
配なかったが、四月になって、四十三年に次いで衛生管理特別指導事業場に指定されたので、不備な点に
ついては速やかに改善の措置がとられている。また、この年には、労働安全規則がさらに進められて労働
安全衛生法として成立している。技術革新による生産様式の大規模化、それに伴い企業による有害物質の
大量排出、煤煙、自動車の排ガスなどによる公害が大きな社会問題になっていたこともあり、国民の安全、
衛生、健康を守るために法による規制が必要になったのである。
同年に当社では、三月十日から五月五日までを「作業部品質管理月間」と定めて、各作業部のそれぞれ
の課ごとに具体的な方針を決めて、作業ミスの防止はもちろん、「製品をきれいに速く」を主旨とした強
力な運動を展開している。
防火対策も印刷工場にとって極めて重要なポイントで、四十九年には、当社の自衛消防隊員に対する講
習と特別訓練が牛込消防署の指導で行われた。防災意識のなお一層の徹底が図られ、同時に、防火技術も
137 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
向上して、有事の際における自衛力はさらに強化された。なお、防火については、防水とともに毎年、定
期的に訓練を実施している。
五十年に入ると、消防法が改正され、当社の防火管理体制も改められた。これは、防火管理組織をより
合理的で効果的なものに改組し、各担当者の責任と業務の範囲を明確にして的確な防火対策の実現を目指
したもので、
その具体化の第一歩として防火管理委員会が置かれることになった。その委員長を主藤専務、
副委員長を星野部長が務め、委員には各部課長その他が当ることとした。
歩行禁煙運動も過去においてしばしば行われてきたものだが、なかなか効果があがらないものの一つで
ある。安全衛生委員会でもこの問題を取り上げて、運動の一環としてこの年の秋から「喫煙者守則十カ条」
をつくり、昼休みの時間を利用して社内放送を続け、それなりの効果をあげるようになった。
そして、同年の九月には、事故防止委員会が発足している。作業工程で起こるさまざまな事故、ミスも、
安全、衛生、防火などと同様、古くて新しい問題であり、山元社長も永い間、絶えず従業員に訴え続けて
きたことである。しかし、なかなかその根絶は難しく、少なくなったと思えば、ちょっとした油断でまた
増えるといった状態が続いていた。経済は低成長期へと向かい、不況も深刻化し、過当競争もますます激
化していた。必然的に経営環境も厳しく、こうした状況下で大きな事故やミスが起これば、当社にとって
も命取りになりかねず、事故の根絶を目指しての取り組みだった。
委員長には山本常務(当時)
、副委員長には星野、主藤(泰郎)、鈴木各部長、委員には営業部と作業部
の部課長が当るという陣容であった。ねばり強い討議と事例研究などを積み重ね、事故発生の原因である
138
不注意、訓練不足、不完全な作業環境の三つを、全社を挙げて徹底的に取り除くことに努めたのである。
その結果、事故発生件数は、皆無とは言わないまでも、次第に下降線をたどっていった。
五十一年の四月に、五年ぶりで安全管理特別指導事業場に指定された。安全衛生委員会もこの頃には、
社内キャンペーンなどその内容、手法ともに充実してきており、この指定を積極的に受け止め、監督官庁
の知恵も借りて職場の安全管理対策をより強力に進めていった。と同時に、もう一度、安全衛生委員会の
組織、運営のあり方を見直し、労働基準監督署の指導に基づき組織を改めたのである。そのポイントは下
部組織から末端の従業員に至るまで、指示伝達が速やかに届き、また、それがすぐに実行できるような組
織に変えるということであった。その手立てとして、委員会の下に第一、第二の両部会を置き、一般従業
員の意見、希望も部会に吸い上げることで、委員会活動も真に血の通ったものとなった。
そしてその効果は、すぐに第一部会の安全衛生アンケートの一〇〇%回収となって現れ、安全・衛生管
理を進める上での大きな指針となったのである。
活気に満ちた社風づくりの実践と成果
さて、昭和五十三年は一つの大きな区切りであり、記念すべき創立五十周年を迎えることでもあり、こ
こではその前年までの、人を育て、親睦、融和などに大切な役割を果たしてきた教育、行事、クラブ活動
などについてまとめておきたいと思う。
まず教育であるが、四十三年頃まではすでに第三章で述べたので、それ以後について記すことにする。
139 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
生産計画の拡大による機械設備の充実に伴い人員の急激な増強が必要になったわが社では、四十年から
四十三年の四年間に三四四名もの新卒者を採用している。そのため、技術研修を含めて従業員教育が、極
めて重要な課題になった。しかし、新卒者を教育し育てる人がいないという問題を抱え、職制教育の重要
さがいよいよ強く認識され、四十四年には、従来にも増して力を入れている。
外部から二人の特別講師を招いて三日間にわたる講演を行った。第一日と第三日は、明治大学の中野渡
信行教授。テーマは「能力開発とリーダーシップ」で、
「訓練によって生まれる力、即ち能力を引き出させる手助けをするのがリーダーシップであり、これに
欠ける人はリーダーとはいえず、また、部下に対する好悪の感情の強い人も、監督者の資格はない。職制
はこういう点に十分な注意をし、どんな性格の人でも各自の能力をフルに発揮できるような豊かな土壌を
会社の中につくりあげて行かねばならない」
と熱弁され、受講者に深い感銘を与えた。
第二日は、日本印刷学会の山本隆太郎氏が、「成長産業の中の印刷」をテーマに講演された。組織にお
けるチームプレイの大切さと、そのポイントをサッカーチームに例をとりながら説得力豊かに話され、職
制としての責任と管理の方法を述べた後、情報自体のめまぐるしい変化に伴い情報メディアとしての印刷
様式も多様化し、その技術革新にも目覚ましいものがあると、印刷産業の明るい将来にふれて受講者たち
に強い希望をもたせた。
また、新卒者に対しても、従来の導入教育に加えて社外からの特別講師による講議を行っている。その
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テーマと講師(肩書きは当時のもの)は、次のとおりである。
「自分自身の力で自分を伸そう 」 水口哲樹氏(東京商工会議所中小企業課長)
「孤独こそ伸びるチャンス 」 日比野明氏(全国勤労少年団体協議会長)
「一印刷人の体験 」 飯倉基次郎氏(細川活版所勤労課長)
さらに四十六年にも、監督者教育講座を開いている。対象は習志野作業部を含む各作業部の機長、係
長、主任クラスとし、講師として日本リサーチセンターの杉山雅康氏(元日本ビジネス社勤務)を本社会
議室に迎えて、
「新入生の早期戦力化、従業員の勤労意欲の再開発、管理者のレベルアップ、定着性の問
題」などを中心に、二日間にわたっての研修を進めた。この年は、五月から六月にかけても、六回にわたっ
て職制研修会がもたれている。
「わが社の職制」としての現実的な問題への対応と自覚をうながすもので、
講師は、当時の専務、常務、営業部長、総務部長の四人で、それぞれ担当している問題を深く掘り下げ、
徹底して討議を尽くした。現実の問題に真正面から、真剣に取り組んだ研修会としてその意義は極めて大
きかった。
この年の新入社員に対しては、定型化した導入教育とは別に、箱根荘における二泊三日の研修を加えた。
その目的として、環境を変えての教育、定着率の向上、慰労などがあるが、最大の目的は、何といっても
企業全般において低下を続けていた定着率の向上にあった。四十七年、四十八年の新入社員の社外におけ
る教育研修は、箱根荘に比べてスポーツ施設が多く、宿舎も広くて新しい全印健直営の伊豆高原保養所に
場所を移して実施された。
141 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
また、これまでいく度となく行われてきた監督者教育であるが、四十九年は、新卒者の入社を控えた三
月に三班に分かれて伊豆高原保養所で行われている。日頃、若い従業員といちばん仕事をする機会の多い
中堅監督者を対象に、主藤専務、星野・大脇両部長の三名を講師に、「談話」と「懇談」を中心にした研
修会であった。
「日本経済の推移と印刷業界との関連・展望」から「われらは何を為すべきか」「働くこと
の意義」など重要で幅広いテーマについての講話と質疑応答、懇談会と活発な話し合いが行われ、そこで
得たものは、現場でのチームワークづくりに生かされた。さっそく、新卒者に対する現場教育に変化が現
れ、それまでのものに代えて、各作業部単位にそれぞれの責任者を囲んで「職場への対応」などの問題に
ついて話し合いの機会がもたれ、後に続く職場への配属の決定などにも役立ったのである。
五十年の新卒入社二一名への導入教育は従来と同様だったが、この他に、八月には東京で第二二回印刷
文化典の主要行事の一つとして「経営・技術集団会」が開催された。この集団会のテーマは「転換期を迎
える印刷界」で四分科会に分かれて行われたが、当社からは、第一分科会(文字組版の将来)に鈴木一作
部長、第二分科会(写真製版と印刷の動向)に海和オフセット製版課長、第三分科会(印刷料金の考え方
と管理)に主藤第一営業部長、そして第四分科会(低成長下の印刷経営)には土屋常務が参加して、印刷
界における最新の技術、経営に関する問題点について研鑽に努め、後にそれぞれ担当する業務で生かされ
ることとなった。
五十一年、五十二年については、習志野工場の項ですでに配属、教育などの詳細について述べたので割
愛する。
142
次に会社が実施してきた行事の中で、主なものについて記述しておきたい。
最初に、ほぼ毎年行っている創立記念日の行事であるが、すでに記した三十三年五月の熱海温泉におけ
る創立三十周年記念式典の後の主なものとしては、三十八年四月に創立三五周年記念と石切橋社屋の新築
落成祝賀会を兼ねて、盛大な行事が椿山荘(東京・目白)で行われている。
式典は、社歌斉唱に始まり、開会のことば、社長あいさつ、多年勤続者の表彰、万歳三唱の順で終了し、
祝賀会となった。この年は特に従業員の家族を招き、「工場見学と祝賀会」への参加を主眼として楽しん
でいただいた。三十九年の記念行事も椿山荘で行われたが、この年から創立記念行事を毎年行うことに決
定し、四十一年まで場所も方法も同じであった。四十二年は、場所を文京公会堂に移し、従業員の家族や
協力工場の人たちも招いて三九周年の式典をあげた。四十三年の創立四十周年記念は、習志野工場関係の
項で記述したとおりである。四十四年は趣きを変えて新橋演舞場で式典を行い、新派の観劇と洒落た。
そして、四十五年は、大阪万国博覧会が開催されたこともあり、創立記念の式典は行わずその見学にす
べてを振り向けた。式典行事にかかる費用額相当と春秋二回の旅行補助金とを一度にすべて従業員に支給
し、それぞれ思い思いのプランで「万博」見学をすることとした。よかった、感激したとの感想がたくさ
ん寄せられ、時宜を得た企画であった。
四十六年は前例にならい椿山荘で創立四三周年を祝ったが、越えて四十七年の四四周年の記念行事は画
期的なものであった。全社員こぞっての熱海一泊旅行が実現したのである。当社の仕事がらなかなか難し
いことであったが、営業サイドで早くからお得意先にお願いし、五月九日、十日と一斉休業にこぎつけた
143 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
のである。四五〇名の大型超デラックスバス一〇台による旅、会場の熱海グランドホテルでの盛大な式典、
宴会。そして、
「鏡開きに際しての社長の嬉し涙の姿は、まさに劇的であった」と、ファミリー新報は伝
えている。その後の創立記念行事は、四十八年は豊島公会堂、四十九年は椿山荘、五十年、五十一年は九
段会館と会場は変わったが、その内容、式典とアトラクションなどほぼ同じであった。そして、五十二年
の記念行事は、創立記念とならび、この年、四月の「春の叙勲」で、勲四等瑞宝章を拝受した山元社長の
叙勲の祝賀を兼ねた催しとなり、社員揃ってその栄誉をたたえ、祝福したのである。
「成人の集い」も、会社の行事として意義深いものであった。寮生のほとんどが地方出身者であり、そ
うしたことへの社長夫妻の親代りの配慮であった。最初の「成人の集い」は、四十年一月十五日に、社長
夫妻と所属部課長、外部の来賓の方が出席して、お茶の水の日本学生会館で行われている。成人該当者が
いちばん多い年は七〇名にもなったが、その後、該当者が減少してきたこともあって、四十七年からは、
本社で社長からお祝いの品を手渡すこととなった。
「成人の集い」とよく似た性格を持った催しに「寮生誕生会」というのがあった。毎月、その月生まれ
の寮生を、親や家族に代わってお祝いしてあげようという主旨から始まったもので、三十七年十一月から
行われていた。日頃、めったに会う機会のない社長や会社の幹部とゆっくり話し合おうという意味もあっ
た。しかし、いざ実行してみると毎月というのは大変だったので、しばらくしてからは、社長がその月生
まれの人に集まってもらい、お祝いの言葉と、記念品を贈ることに改められている。
四十一年の正月からは、職制新年懇親会が始まっている。普段はなかなか一緒になれない職制が新年に
144
集まって懇親し、気持ちを一つにして新しい年へ臨もうという会であった。当初は好評で喜ばれたが、そ
のうち正月には帰省する人も増え、四十六年から取り止めになった。この職制新年懇親会と並んで、やは
り四十一年の正月からは、協力工場新年懇親会という集いが始まっている。日頃から当社の仕事に何かと
協力して下さっている工場関係の方々と、わが社の社長、関係幹部が出席して互いの懇親を深める催しで、
いわば三晃グループとして共存共栄を図っていこうという意味合いもある。
わが社では、すでに折にふれて述べてきたように、企業の発展を支えるのは、何をおいても「人」であ
る、という信念に基づいて業務はもちろんさまざまな行事などを行ってきた。それは、「従業員とともに」
という精神であり、同時に活気に満ちた社風づくりの源として意義深いことであった。次に紹介するクラ
ブ活動や福利厚生についても、そうした考えは貫かれている。
わが社のクラブ活動を語る場合、何といっても、まっ先に取り上げねばならないのは、歴史がいちばん
古く、見事な活躍を続けてきた野球部である。
わが社に野球部ができたのは、戦後の混乱がまだ続いていた昭和二十四年である。そして、二十六年に
は、三晃、小泉、杜陵、興陽社の四印刷会社が参加して四社親睦野球連盟が結成され、山元社長が初代会
長に就き、第一回大会が開催された。この記念すべき大会でわが三晃チームは優勝し、幸先のよいスター
トを切った。その後、四社親睦野球連盟は発展し、二十八年に六社、三十二年からは八社になった。
わが社チームの戦績を振り返ってみると、三十年の第五回大会(六社)で再び優勝、八社親睦野球大会
になってからはしばらく低迷が続いたが、三十七年の「東京都中小企業従業員野球大会」では、日頃の練
145 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
国民体育大会
146
習が実を結んで遂に後楽園球場で優勝旗を手にし、表彰
式に参列した選手の頬には感激の涙がつたわったのであ
る。この時、野球部の指導育成に尽力されていた早稲田
大学の木村覚先生は、喜びの中で職場スポーツのあり方
について、
なければ駄目だ。今まで、練習で職場の人に迷惑をかけ
ていることもあるのだから、その分を取り返せ。そうす
ることによって会社も良くなる。会社が良くなれば野球
部も強くなるのだ」
と、説いている。
この大会で優勝して自信をつけ、力も貯えた野球部は、
三十九年には、八社親睦野球大会になって初めて優勝し、
以後ますます実力を増した三晃チームは、四十三年の第
一八回大会まで実に五年連続優勝という輝かしい記録を
うち立て、「三晃さんは強すぎる」とボヤかれるまでに
なった。そして四十四年はわが三晃野球チームが、全国
147 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
「 野 球 で 一 番 に な っ た の だ か ら、 仕 事 で も 一 番 に な ら
念願かなって長嶋監督と(昭和 53 年頃)
148
に名を馳せた画期的な年になった。八月初旬に明治神宮崇敬
会野球大会で優勝し、その勢いをもって国体予選東京大会に
出場、決勝で新潮社を降し、東京代表として長崎国体に駒を
進めたのである。本大会でも準々決勝まで進出、東京代表と
して恥ずかしくない成績を残した。
回の優勝を飾り、その度に印刷業界の代表として全国実業団
対抗野球大会においては、四十一年から五十二年の間に一〇
した。この他にも、全国印刷工業健康保健組合主催の事業所
五十一年、五十二年には連勝を果たし三晃チームの健在を示
の メ ン バ ー に よ る 出 場 と な り、 優 勝 か ら は 遠 ざ か っ た が、
そ の 後、 八 社 大 会 に は、 正 規 ナ イ ン の 多 忙 も あ り 主 に 他
と、感慨を込めて述懐している。
えたことは、優勝を逸したとはいえ大変に気持ちよかった」
チームワークも極めて良好という最高のコンディションで戦
「 選 手 た ち の 気 力 も 充 実 し、 非 常 に よ い 雰 囲 気 も 生 ま れ、
活躍をした山口文三第一営業課長代理は、
当時、プレイングマネージャーとして、攻守に目覚ましい
華道部、現在も活動中(平成 20 年)
野球大会(後楽園球場)に出場し健闘している。また、四十五年の東京都選抜野球大会の優勝、同じ年の
天皇賜杯全国野球大会東京都予選を制し、都を代表して全国大会(滋賀県大津市)に出場したこと、さら
に四十六年には、全国工場対抗軟式野球大会(愛知県刈谷市)に東京代表として出場したことなども記録
にとどめておきたい。
なお、この他の野外スポーツでは、多忙な業務の間をぬって、各課対抗の早朝〝オハヨウソフトボール
大会〟なども盛んに行われ、
日頃、
何かとすれ違いの多い職場の仲間たちとの親睦を深めるよい機会となっ
ている。変わったところでは、マリン・スポーツ・クラブ(素潜りクラブ)があり、時に伊豆諸島などに
遠征して、都会では味わえない自然の豊かさを味わっているのはうらやましい限りである。
室内のクラブとしては、三十六年頃から、野球部顧問の木村覚先生の夫人、木村美光先生を指導者に華
道部(草月流)が発足し、そして三十八年には、裏千家の牧宗尚師範の指導で茶道部も活動を開始してい
る。この他、同好会的なものとして、写真、囲碁、将棋、麻雀など多彩なものがあり、それぞれ趣向をこ
らした大会や催しを行い、親睦と融和を図ってきた。こうした従業員たちの自発的な催しには、社長、副
社長、専務などから優勝カップが贈られたり、いろいろな援助がなされてきたのは言うまでもない。
山元正宜社長の社会貢献と叙勲
山元社長の経営哲学といえる考え方については、これまでも年頭の「あいさつ」あるいは、経営上のさ
まざまな施策、行事の折における発言から察することができたことと思う。とてもそのすべてを語り尽く
149 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
すことはできないが、その根本にあるのは、生来のヒューマニストであり、身分や地位、職業を問わず、
人としてお互いの人格を認め合う人間尊重の経営であり、平たく言えば、平素からよく口にしていたよう
に「みんなで努力して、みんなで良くなろう」という考え、思いである。
すべての従業員が立場、
職種の違いを越えて会社づくりの仲間として各職務にベストを尽し、みんな揃っ
てそれに見合う配分を得ようという「全員経営的な経営」を目指して努力を続けてきたのであり、この精
神は創業五十周年を迎えようとしていたこれまでの半世紀を通じて変わることなく貫かれている。
こうした考え方の根本は、自社の経営だけでなく、業界、協力企業、地域に対しても同様で、篤実な人
柄と堅実な実行力への信頼から公的な仕事への推挙も多く、社会貢献においても大きな足跡を残してきた。
その足跡の主なものをを辿ってみると、戦後の業界統制時代の昭和二十一年九月の東京都印刷業統制組
合小石川・四谷支部副支部長を皮切りに、二十四年四月には、東京印刷工業協同組合理事、翌年九月には、
東京印刷工業協同組合理事・文京支部長に就任。二十八年には、東京都印刷健康保険組合の理事、三十年
四月に東京都印刷工業調整組合常務理事、三十三年一月に全国印刷工業健康保険組合理事、同年四月に東
京都印刷工業組合常務理事、三十七年四月に東京都文京区青少年問題協議会委員、四十三年に文京区産業
連合会相談役、同年五月に全日本印刷工業組合連合会常務理事などを歴任している。
そして、四十九年九月には、東京都印刷工業組合理事長とともに、全日本印刷工業組合連合会会長に就
任した。
山元社長が、最初に業界団体の理事などに就任した二十年代の半ば頃は、中小企業を大資本の圧迫から
150
解放するとともに経済活動の機会均等を図ろうとした「中小企業等協同組合法」(二十四年六月公布)が
制定され、これに基づき新たに業界組織の改編を目指していた時期にあたる。そして、二十八年八月には、
印刷業は「中小企業安定法」の適用業種に指定された。この指定を受けて印刷業界は、印刷価格を制限し
たり、印刷設備を制限したりするなどの需給調整によって中小印刷企業の安定を図るべく調整組合づくり
が行われた。
三十年代に入り、三十三年三月には「中小企業安定法」は廃止され、調整組合は工業組合に移行し、同
年一月には全国印刷工業健康保険組合が創立され、五月には日本印刷工業組合連合会が設立されている。
この三十年代は、日本経済が神武景気、岩戸景気に示されるように拡大、成長を続けており、三十五年の
池田内閣による「国民所得倍増計画」によって経済成長は国家目標となって、景気は一気に上昇した。こ
の好況、経済成長は大小の企業間における機械設備、生産力の格差を拡大することにもなり、経済の二重
構造による歪みをもたらす結果にもなった。そして、三十八年四月には、中小企業の設備、構造の近代化
の促進による二重構造の改善を目的として「中小企業近代化促進法」が施行されている。中小印刷業界は、
三十九年四月にこの法律の業種指定を受けて、第一次(四十~四十四年)、第二次(四十六~五十二年)
近代化基本計画を策定し、設備の近代化、合併、共同施設などによる協業化、その他の施策の一体化、集
中化による近代化に向けての構造改革を目指したのである。
中小印刷業界は、日本経済のこうした急激な変革の波にもまれ、厳しい対応を迫られたのであるが、山
元社長は業界の中枢を担う一人として、自社における業態の近代化を図るとともに、公的な課題にも力を
151 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
注いでいた。そして、四十九年九月には、極めて状況の厳しい中、先輩や知己のたっての推挙を受けて、
前述の通り東京都印刷工業組合理事長、全日本印刷工業組合連合会会長の要職に就いたのである。
四十九年の九月といえば、四十八年十月の石油ショックの翌年であり、「いったい日本はどうなるのだ
ろう」とサントリーのCMで作家の開高健が国民の不安を代弁し、耐乏生活、省エネ運動などの表現が切
実な問題として国民に迫り、便乗値上げなどもあって物価が狂乱、景気は大幅に後退し、中小印刷業界は
大変な状況にあった。
山元社長は、混乱を重ねている時であるからこその「団結と協調」を説き、業界の立て直しと全国にわ
たる組織力の強化、印刷業全体の地位の向上に、自らの経験と実行力をもとに力を尽くした。その結果、
業界の混乱はやがて収まり、組織の運営も軌道に乗って発展へと向かったのである。
そして、昭和五十二年四月の春の生存者叙勲では、永年にわたる業界への貢献、ひいては社会の発展に
尽くした功績により、民間人としては稀な勲四等瑞宝章受章の栄に浴したのであった。翌五月の十二日は
記念すべき宮中参内の日であったが、この日の夜の情景を、当時の岩倉富駒取締役管理部長は、次のよう
に伝えている。
「……その夜、愛するお子様がたを前に喜びを語られる社長の瞳は、心なしか濡れていた。時折り眼を
閉じ、何かを思いつめるような表情で語られる社長の脳裏には、七十五年の人生を顧み、創業以来の数々
の苦難の道が、辛くも楽しい思い出が、いま、回り灯ろうの絵のように、はげしく駆けめぐっているので
あろう。
152
話しが進み、やがて昭和十三年、生涯で一番、大変だったあの頃、自分が、ただ、がむしゃらなばかり
に随いてこれず過労で斃れ、今なら治せる胸の病に打つ手もなく、自分の分までも苦労を背負って報いら
れないままに、幼い愛し子三人を残して死んでしまった、えい子前夫人の話になると、一語一句かみしめ
るような社長のおことばは声にならず、溢れる涙を拳で拭い、男泣きする社長の真心の貴さは、私たちの
胸に言いつくせぬ感動を呼びおこした。誰もが共に泣き、涙してこの章の重みをかみしめ、喜びをわかち
あったあの感激は、今もなお瞼が熱くなる思いである(後略)
」 その後、山元社長の叙勲をお祝いして、いく度か叙勲記念祝賀会が盛大に行われた。
五十二年五月八日の会社創立四九周年記念行事とともに行われた社内の叙勲祝賀の集いについては、す
でに前項で記した。この集いを皮切りに、
五月十七日には、わが社に関係の深い有志の方々が発起人となっ
て、協力工場の方を中心に極めて親しい人たちが集まってのパーティが、ホテル・グランドパレスで催さ
れ、当社からも課長代理以上の社員が出席した。席上、瀬川雄章・双葉社社長、志村重美・商工組合中央
金庫営業部長、小森善一・
(株)小森印刷機製作所社長から祝辞をいただいた。
祝辞を受けて山元社長は、
「ただ長く印刷の仕事をやってきたというだけで、別に取り立てて優れたものはないが、何事にも『誠
実と努力』で貫いてきたということだけは言える。この度の受章は、皆さまのご支援によるもので、自分
だけの力だけではない。従って、この栄誉も皆さまと共に分け合うのが本当である」
と、お礼のことばを述べている。
153 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
154
ついで、六月二日には、ホテルニューオータニで四
団体(東京都印刷工業組合、東京都印刷工業組合新宿
支部、全国印刷工業健康保険組合、東京印刷工業厚生
年金基金)主催の盛大な叙勲祝賀会が開催された。当
日 は、 こ れ ら 四 団 体 の 加 入 会 員 を 始 め と し て、 日 本
印刷工業界や印刷関連業者の組織団体を代表される
方々、遠く各県の印刷工業組合理事長の方も出席され、
およそ三〇〇人ものパーティになった。祝典は、松本
た。
末男・東京厚生年金基金理事長が乾杯の音頭をとられ
社社長の祝辞をいただいた。そして、祝宴では、中田
連合会会長、最後に友人代表の長宗泰造・(株)厚徳
山本忠勝・新宿区長、金子洋二・全日本製本工業組合
それから、東京都吉富経済局長(石原工業課長代読)、
の功績を称え、今後の健闘をというあいさつがあった。
矢板東一郎・東京都印刷工業組合理事長から山元社長
一麿・新宿支部長の開会のあいさつに始まり、続いて
叙勲祝賀会
六月十日は、
社長の郷土の出身者による祝賀会が、東京喜界島郷友会・東京小野津会の主催により日比谷・
松本楼で行われた。およそ二〇〇人が集い、二つの主催団体の会長であった実弟の山元速雄・(株)三元
社社長が主催者を代表してあいさつした。思えば、ともに力を合わせ昭和三年四月、小さな町工場を創業
してからおよそ半世紀を経て、この日を迎えたのである。
叙勲の報を聞いて、郷里からも祝賀会の強い希望が寄せられた。それに応えて、六月二十七日に、山元
社長夫妻は、実弟の山元速雄、次女正子とともに空路、喜界島へ向かった。一九歳で上京、これもまた
五十六年の歳月を経て、兄弟そろっての喜びと感慨に満ちた帰郷であった。
155 第四章 まさに第二の創業、習志野へ進出
156
第五章
昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
この章では、昭和五十三年から平成三年頃までの社会経済、すなわち、オイル・ショック後の経済復興、
そしてバブル景気、その破綻に至るまでを背景に、三晃印刷の主な出来事を記述することになる。この十
余年は、
わが社の歴史にとっても、
極めて重要な節目であり、強く記憶されなければならない年代であろう。
その具体的な詳細については、個々の項目で記すとしても、創業五十周年、社長の交代、今ある本社社
屋の建設があり、そしてわが社の現在ある姿の基盤を創り、発展の礎となったかけがえのない先人の逝去
があるなど、まさに激動の年代であった。
この間、若年層を中心に国民の生活意識やライフスタイルの変化が起こり、印刷メディアに対する需要
の劇的な転換もあった。ビジュアル指向がさらに顕著になり、デジタル化など印刷技術の進歩発展を背景
に、印刷業界では活版からオフセットへの流れが抗し難いものになった。
そうした中で、わが社では需要の変化に対応する機械設備に注力しつつ、人材の育成を行い、売上実績
157 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
をみても、五十四年に活版六、オフセット四の比率だったものが、五十五年には、オフセット七、活版三
となり、鮮烈な転換を成し遂げ現在に続く企業体質を創り上げたのである。
創業五十周年を迎え、盛大に記念式典
昭和五十三年はわが三晃印刷にとってまさに記念すべき年である。昭和三年四月に小石川区戸崎町に山
元鉛版所を創業してから五十周年を迎えるのである。この年までの貴重な経過、記録についてはすでに記
してきたが、盛大に行われた五十周年記念式典の慶事を伝える前に、五十三年前後の経済社会情勢や会社
が抱えていた課題などにまず触れておきたい。
当時の経済社会を振り返ってみると、四十八年十月のオイル・ショックによる原油価格の約四倍にも及
ぶ大幅な上昇は、狂乱インフレと深刻な不況のダブルパンチとなって産業界や国民生活を襲い、大きな負
の影響を与えるとともに高度経済成長の終焉をもたらすこととなった。その後における政府の財政投融資
や日銀による度重なる公定歩合の引下げ(五十年四月から五十二年四月までに六度)などの景気刺激策も
思うような効果を発揮せず、不況は慢性化の様相を呈していた。そして、わが社の五十周年の前年に当た
る五十二年には、九月からの急激な円高の追い討ちを受け、経済の福田を自認していた当時の福田首相の
経済運営も極めて難しいものとなっていた。そして、企業にとっての景況感は、まさに一層の悪化をたど
らざるを得なかったのである。
実 際 に 企 業 の 経 営 を 預 か る 者 に と っ て、 当 時 の 不 況 の 実 感 は 極 め て 切 実、 深 刻 で、 山 元 正 宜 社 長 の
158
五十三年の年頭のあいさつがそのことを如実に物語っている。少し長くなるが、あいさつの前半部分を引
用してみよう。
「明けましておめでとうございます。
昨年、つまり昭和五十二年は、昭和の初年の大恐慌に匹敵する不況の年だったと言われ、国内の需要が
依然として停滞し、景気は低調のまま終わったと言えます。しかも、政府の財政金融による景気の浮揚策
も帳消しになってしまうほどで、昨年のこうした不況が今年へ引き継がれ、さらに深刻化していく様相に
あります。
正月早々のっけから不景気な話で恐縮ですが、私が商売を始めた昭和三年から六年頃の社会情勢が、丁
度このような時代でありました。今年はあの時から数えて、五〇年目に当たります。いわば、私が創業し
てからちょうど五十周年になるわけですが、これを記念して、会社を挙げて盛大な行事をやりたいとかね
てから予定し、皆さんにもお約束してきたように、この大不況下ではありますが、この行事を実行し、不
景気をはね飛ばすように三晃印刷の輝かしい五十周年をお祝いします。同時に、半世紀にわたる伝統の上
に立った新しい出発が、この年から始まるように鋭意努力したいと考えております(後略)……」
このように日本の経済状況は厳しい不況下にあったが、それでもこの年のわが社は、年度始めに設定し
た売上目標を達成している。これは、社員の努力によるのはもちろんであるが、印刷は不況に強いという
一面を示したことでもあったように思われる。「印刷業統計表」を見ても、オイル・ショック後の不況下
にあって、製造品出荷額ベースで四十八年の二一・〇% に比べれば厳しい伸び率の低下はあったものの、
159 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
五十三年の一三・二%を始め一〇%内外の伸びを保っている。
さて次に、わが社は、当時どんな課題を抱えそれに対応しようとしていたのであろうか。一つは、印刷
技術の進歩に伴う時代の流れへの対応、すなわち、活版印刷への需要の衰退という時代の現実を受けて、
著しい伸びを示すオフセット印刷への注力であり、その設備、技術力の充実であった。
「これからは、オフセット印刷の時代になる」という山元社長の先見のもとに、四十二年に開設した習
志野工場は、
すでに述べてきたようにオフセット印刷への対応の拠点として充実を図ってきたのであるが、
社会、経済の成熟に伴う若年層を中心としたライフスタイルの変化とともに印刷需要も多様化し、出版、
商業の両印刷部門ともにビジュアルを重視する傾向が顕著になり、多色化への指向も勢いを増していた。
それはとりもなおさず、出版印刷を得意とし実績を積み重ねてきたわが社にとってもオフセット印刷によ
る多品種少量化と印刷機械の大型化、自動化などによるさらなる印刷サービスの向上という課題への対応
を迫られることとなっていたのである。
その対応策としてのオフセット印刷機やスキャナなど印刷関連機器の導入などについては、まとめて後
述することとする。
そして、印刷に関するハード、ソフトの充実に加えてもう一つの課題は、つねに意識され改革が行われ
ていたのではあるが、企業としての体質強化である。具体的には、経営環境が厳しくなっているなかでの
優れた人材の確保と合理的な配置、スムーズな事業運営を可能にする組織と作業システムの見直し、さ
らに日進月歩で進歩発展を続ける印刷技術への対応である。こうした課題を抱えつつ迎えた五十周年の
160
五十三年であるが、
年頭に発表された売上目標はまさに五三億円であった。そしてこの年の一月一日には、
時代の流れの中で労働組合が結成されていることも記しておきたい。
さて、ここから五十周年式典について、その詳細についての報告をすることにしたい。
創業から五十周年、新たな半世紀に向かっての三晃印刷の出発の年と位置づけられる記念式典は、五月
十四日と二十六日の二回にわたって行われた。
五月十四日は目白の椿山荘での開催で、従業員を中心にしての式典となった。当日は、開会の言葉に続
いて創業者である山元正宜のあいさつ、永年勤続表彰と進み、そして三晃・花のステージと題されたアト
ラクションなど盛大かつなごやかな記念の夕べとなった。
昭和三年のわずか四人ほどでの創業から、山元は戦前、戦中、戦後のさまざまな困難をまさに昼夜を分
かたずの努力と才能によって克服し、従業員五〇〇名にならんとする中堅企業にまで育て上げ、記念すべ
きこの日を迎えた山元の思いは、いかばかりであっただろうか。その思いの深さは、本人だけのものだが、
式典における「あいさつ」によってその一端を感じ取っていただければと思う。
「今日は三晃印刷創業五十周年記念のお祝いを、ここ椿山荘において催すことができ、皆さんともども
喜びに堪えません。
かえりみますと、昭和三年、現在の文京区小石川で、わずかばかりの人数で鉛版業をはじめてから、今
年で五〇年になりました。本当に感慨無量のものがあります。
161 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
162
戦前は鉛版を主体にした活版平台の印刷、戦後は印刷物
の大量発注の傾向が強くなり、これに応じて、書籍輪転機
を入れたのが契機になって、平台関係から輪転へ、工場も
小石川から石切橋の方へ移転させて、本格的に印刷に取り
組んでまいりました。昭和四十二年に千葉県の習志野にオ
フセット工場を新設して、活版印刷からオフセット印刷へ
と、新しい分野の仕事を始め今日に至っております。
お礼の言葉を申しあげます。
てこられたというのが本当で、改めて皆様に心から感謝し
皆さんのご協力とご支援と励ましによって何とか乗り切っ
私 に と っ て 随 分 と け わ し い 道 で あ り ま し た。 こ う し た 時 、
しかし、この五〇年、平穏無事に過ごせたわけではなく、
深く感謝しております。
た く さ ん の 方 々 の 変 わ ら ぬ 温 か い ご 支 援 を 頂 い た 賜 物 で、
並びにそのご家族のご協力はもとより、お得意様をはじめ、
負しております。これもひとえに、永年勤続された従業員
お蔭様で、この五〇年、比較的順調に発展して来たと自
50 周年式典
印刷も一般産業同様、大変厳しい経営環境にありますが、私どもは従業員あげて、目的達成のため全力
投球していきたいと思います。
今日はこの席に私の小学校時代の同級生を同席させてもらいましたほか、日頃の感謝の気持ちをこうい
う形で表現させていただくわけですが、なごやかに過ごしてもらい、また明日から、現在の規模を基盤に
新しい出発をしたいと思います。覚悟も新たに皆さんともどもさらなる発展を願い、ごあいさつといたし
ます 」 そしてアトラクションは、いしだあゆみ、森サカエの華やかなステージ、大爆笑のケーシー高峰などの
多彩な出演者で、特別な慶賀の日にふさわしいものとなった。
続く五月二十六日には、ホテル・オークラにて、お得意様をはじめ多数の来賓の方々をお招きしての祝
賀記念パーティが盛大に開催された。
開宴予定の午後五時前からお客様がぞくぞくと来場し、山元社長を始め役員全員での出迎えの後、開宴
となった。席上、山元社長の謝辞を中心としたあいさつを皮切りに、中央公論社・嶋中鵬二社長からの来
賓を代表しての祝辞をいただき、パーティはたけなわとなった。
こうして創業五十周年を記念しての行事は盛会のうちに終了したのであるが、この記念すべき年をベー
スに、五十三年六月十五日発行の『三晃ファミリー新報』には、主だった従業員の次の五〇年にかける決
意とビジョンが寄稿されている。当時の第一営業部部長だった主藤泰郎は、「私の心得帳」と題して次の
ように述べている。その主な部分を再録してみると、
163 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
「一口に〝五〇年〟というが、その陰には、永年にわたって営々と築き上げてきた先輩諸兄の輝かしい
伝統の賜物がある。まずはこの功績に敬意を表するとともに、これからのわれわれ(従業員)は、どうあ
るべきかを考える時期ではないだろうか。
その意味では、企業が最も必要とする『新しい血』を導入し、五〇年の伝統をさらに伸ばしてゆくべき
だと思う。
現代の社会は変動のテンポが早い。したがって今、大衆が何を求めているかを適切にキャッチし、刻々、
それにこたえて改善・創造し、敏速にその時流に乗らなくては、企業の繁栄はないだろう。
また、わが社が経営理念とする『全員経営』の問題。はたして、末端の従業員まで浸透しているだろう
か?
私には、そうは思えない(現在、三晃労組が結成されて、多少とも事態はことなるが……)。
幸い会社も五十周年の記念すべき年。ここで『全員経営』の意味と真意を、全従業員に具体的に、納得
してもらえるような措置を会社に希望したいし、そうすることによって〝真〟の意志統一ができるものと
確信する。
その時こそ、企業の繁栄はこの上もないものに達し〝わが世の春〟を謳歌することができるだろうし、
われわれの将来も、永遠に保証されるのではないだろうか」
この他にも、千葉征毅(第二営業部次長)
、溝口早苗(第一営業部第四課々長)、松元徳男(習志野作業
部課長代理)
、宇野正志(習志野作業部副機長)からの寄稿が寄せられているが、いずれも五十周年を迎
えて、新たな出発への決意と抱負、将来に向けてのビジョンを述べたものであった。
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新社長に山元悟副社長が昇格
わが社では、前年の五十周年に続いて昭和五十四年にも大きな出来事があった。
この年の二月、株主総会の後に開かれた取締役会で、山元悟副社長が二代目の代表取締役社長に昇格し、
創業者・山元正宜が代表取締役会長に就任したのである。
山元正宜は、二六歳で鉛版所を創業し、喜寿を迎えた七七歳まで五〇年に及び経営の先頭に立ち、三晃
印刷を中堅の印刷企業として確固たる基盤を築き上げ成長させてきた。その先見性と決断力など経営手腕
については、鉛版所から印刷企業へ、活版平台から輪転機の導入、そしてオフセットへの進出など成長発
展の分岐点での記述において触れてきたが、その篤実で堅実な実行力に富んだ人柄への社内外の信頼につ
いても、昭和四十九年のオイル・ショック後の大不況下、印刷業界が極めて難しい対応を迫られた時期に、
請われて全日本印刷工業組合連合会会長に就任し、卓抜な舵取りによってその難局を乗り切ったことなど
で実証されている。
今回の社長を退くことについては、五十周年が一つの節目として意識されていたのであるが、その辺の
心境、経緯など具体的な内容については、
『三晃ファミリー新報』(昭和五十四年三月十日号)に山元正宜
が寄稿した「五〇年を顧みて」の記述の中に詳細のほとんどすべてが示されている。そこで、ここに全文
を転載することとする。
「さる二月二十日の取締役会の決議によって、私が代表取締役会長に就任し、取締役副社長山元悟が代
165 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
表取締役社長に昇格しましたことをご報告いたします。
昨年度の経営環境は、依然として失速経済下にありましたが、当社の営業成績は、創業以来の経常利益
を収めることができ、椿山荘に於いて皆さんとともに創業五十周年記念式典を盛大に挙行できたことは、
私の生涯にあって最も感銘深く誇りに思って居る次第であります。
し
し
しかしこの背景には、半世紀にわたるお得意先、協力会社の絶えざるご協力、ご支援の賜であること
ちゅうしん
はもちろんですが、私とともに孜々営々汗して尽くしてくれた従業員の努力を忘れることはできません。
衷心より厚く感謝の意を表するものであります。
私は来る四月に喜寿を迎えますが、
感覚的に年齢そのものにはあまりこだわらないことにしております。
そんなわけで自分が老齢だなどという意識は本当にうすく、お陰様で健康にも恵まれ、体調も極めて順
調であります。私は健康保持のためにゴルフを愛好しておりますが、他にこれといった趣味らしいものは
もちあわせておりません。あえていうならば仕事そのものが一番の趣味と言えるかも知れません。
従って元気なうちはいつまでも第一線で頑張りたい意欲は大いにあります。聞くところによれば、帝人
の大屋社長は八四歳で今なお陣頭にあって叱咤激励されておられるそうだが、社長にもそれぞれ自ずと交
替適齢期の時機があるはずです。
経営者にとって最大の関心事は後継者の選定と育成であります。創業社長としては、まったくゼロから
スタートして茨の道を乗り越えて苦労を重ねた結果、伝統のある今日の三晃印刷が存続しているわけであ
ります。
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私は親子関係にある後継者の教育には慎重を期し、早くから自分なりに厳しく教育してきたつもりであ
ります。
こんな観点から大学卒業と同時に、下積みの苦労と現場作業・営業の仕事を経験させるため凸版印刷株
式会社板橋工場で二年間修業させました。また新しい経営感覚の習得と国際的視野を広める考えから一年
余り西ドイツで過ごさせたような次第です。
その後四十一年六月、取締役副社長として営業を担当させ、四十五年十二月から五十三年八月まで、習
志野工場長として機械設備の増設、品質の向上、内部充実に苦労と経験を積ませております。
従いまして、年齢的な若さからして、新社長の責任の重大さ等精神的負担は大きいに違いないが、勇猛
心をもってこれを克服し、邁進して欲しいと願っております。
私はかねてから『人は一生、企業は悠久』なものだという考えをもって経営に当って来ましたので、自
らの引き際につきましても十数年来、意識し続けてまいりました。
そんなわけで会社創立五十周年を一つの大きな節目であるという認識に立ち、新風を社内に吹き込むこ
とを願って、社長交代を決意した次第であります。
私は今後とも『ルック・ヤング・リブ・ロング』を信条として生きたいと考えております。
つまり若く見えて永生きするという大変に欲張った考えですが、健康な間は会社に出勤して少しでも会
社の役に立ちたいと願っている次第であります。
終わりに永年にわたる私の社長在任中に与えられました全従業員の方々の、心からなるご協力に対しま
167 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
して深甚なる謝意を表しますとともに、新社長に対しましても私同様、力強いご支援、ご鞭撻をお願い申
し上げます」
以上であるが、一読してお分かりいただけるように、五〇年の社業の間に出会ったすべての従業員への
感謝、三晃印刷の将来へ向かっての決断、そして社長交替の心情などが率直に語られている。その真摯な
文面には、心打たれるものがある。
これを受けるように、三八歳の若き山元悟新社長も「社長に就任して」と題して寄稿し、社長としての
これからの抱負、経営の基本方針、社会経済状況、印刷業に対する需要の変化とそれへの対応の問題など
を明確に語っている。
八十周年にまで繫がる重要な一文であり、そのすべてを記載しよう。
「激動を続ける内外の政治、経済情勢下、企業経営も一段と厳しさを増しつつある折から、社長に就任
した私は、その責任にひとしお、身の引き締まる思いがいたしますが、同時に前社長を中心に全従業員が
五〇年にわたり力を合わせて築き上げてきた、確固とした基盤の上にたって、さらに大きく社業の発展を
期したいとの闘志もまた、勃然として起きてくるのを禁じ得ません。
顧みますと、もの心ついた頃、印刷工場の一隅の住居で、印刷機の騒音の中に過ごしていました。その
後、大学を出ると凸版印刷で二年間印刷様式、技術、組織等を修業、続いて西独を中心とする印刷事情の
研修、四十一年に帰国、直ちに当社へ入社と今日までまさに印刷一筋で通して来たし、今後もこの道を懸
命に歩み続けるでありましょう。
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印刷産業は華やかさこそありませんが、真摯に取り組めば確実に報われ着実に伸びて行く事業です。私
は、印刷に堅く結びつけられている自分の運命に心から悦びと誇りをもって感謝し、燃えるような使命感
をもって当社の発展に挺身する決意でおります。
さて、次に皆さんにご理解を得たいことは、私が実際に経営を進めていく上での考え方は前社長といさ
さかも変わるものはないということです。従って施策の重点も、その指向するところは根本において一致
しているというのは当然であります。
私はまず何よりも人を大切にし、一人でも多く立派な人材を育てることに意を注ぎます。それは、諸々
の機械・設備より真の人材こそが企業の優劣を決するものと考えるからです。和で結ばれた人々の総合力
が、個々バラバラの力よりも遥かに強いことを知っているからです。
次に品質向上に特段の努力をしてみたい。従来の量産指向の傾向を完全に払拭して、さらに質の底上げ
に重点を置きたい。事実これからの業界は、品質の競争がわが社の勝負どころになるのではないかと考え
ております。
一般的に言って、印刷業界はここ五、六年底を這うような形で景気は決してよくない。競争はいよいよ
激しく企業経営は決して楽ではない。しかし、こんな時代こそ、私は神の与えた試練と心得ております。
全従業員の皆さんと手を取り合い、この試練を乗り越えるために苦労と節制をいとわず、懸命に頑張り
たいと存ずるものであります。
就任に当たり、感慨の一端を申し述べましたが、皆さんにおかれましても宜しくご精進とご協力をお願
169 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
いいたします」
このように昭和五十四年は、年明け早々の二月に社長交替という、現在までの三晃印刷の歩みにとって
最も大きな節目の年となった。
またこの二月、同時に行われた役員人事による経営陣は、すでに触れた会長、社長を含めて次のような
陣容だった。
代表取締役会長
山元正宜
代表取締役社長
山元
悟
取締役副社長
主藤敏郎
専務取締役営業本部長
忠岡義敬
常務取締役経理担当
土屋大陸
取締役資材担当
岩倉富駒
取締役習志野工場長
星野尚義(新任)
取締役
山元
國(新任)
監査役
山元速雄
この役員人事で注目されるのは、星野尚義・習志野工場長の取締役昇進である。本社および習志野工場
を含む現業系からの初めての取締役誕生であった。
そして、星野取締役・習志野工場長はその抱負を、
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「現在、難問山積みの習志野工場において、とくに直面する課題は、遊休機械(ローランドBOR1号機)
のフル稼動、従業員の定着と指導育成、それと生産性および品質の向上などですが、その中でも急務は従
業員の定着で、これには私を始め、工場関係者全員が心をひとつにして事に当たる」
と意欲に満ちて力強く語っている。
習志野工場は、時代の要請に応え、三晃印刷躍進を支えるオフセット工場として人材、機械設備の充実
171 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
が図られてきたが、四十二年秋に新設されてから一一年、五十三年七月の工場の概要は次のとおりである。
従業員は男子一〇八名、女子一〇名の合計一一八名である。
印刷機械については、工場新設当初、ローランドが二台(一台はその後本社へ)、マリノニが一台(そ
の後本社へ)でスタートしたが、その後の約一〇年ほどの間に、オフセット輪転機五台、オフセット平台
印刷機三台、活版輪転機二台(本社より)と出版、商業への両印刷分野における対応力は飛躍的に伸長し
ている。
記録として印刷機のリストを示しておこう。
オフセット輪転機
AOR(四十七年 ) BOR1号機(四十四年)・2号機(四十六年)・3号機
(五十一年 ) FBR(五十二年)
号機(四十三年)
・ 号機(四十三年)
オフセット平台印刷機
ローランド(四十二年 ) コスモ1号機(四十九年)・2号機(五十年)
活版輪転機
以上である。
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本社新社屋・八階建ビル、工場の建設
ここで記述するのは、昭和五十七年に建設された現在の八階建ビル社屋に関してであるが、その前に、
すでに記したことも多いが、現在の本社に至る三十年代からの経過を再度概略することで、わが社の成長
発展の変遷をまとめて理解する一助にしたいと思う。
わが社が目白通り沿いの石切橋に本社並びに工場を建設し始めたのは、昭和三十年代に入って間もな
く の 頃 か ら で あ っ た。 工 事 は 三 十 一 年 十 二 月 に 完 成 し た 第 一 期 を 皮 切 り に、 三 十 三 年 十 二 月 に 第 二 期、
三十五年十月に第三期を完了し、そして三十七年十二月の第四期の完成を機に、終戦直後から今日の発展
の礎となった柳町工場からすべての機能が石切橋に移ったのである。
当時は、
八〇万部(三十三年十一月)を誇った「少年画報」や小学館、旺文社の学習誌などの大部数の付録、
創刊と同時に受注した「週刊大衆」
、さらに中央公論社の『折口信夫全集』(全三一巻)、そして三十五年
十二月から刊行された同社の『世界の歴史』に始まるホームライブラリー・シリーズなどその大量の受注
に応えるためにも、業務の効率化、大型化する活版輪転印刷機の増設などを可能にする本社新社屋、工場
の建設・整備が不可欠になっていたのである。
実際にこの時期の業容の拡大には目覚ましいものがあり、従業員数をみても、三十年に一五五名だった
ものが、三十九年には四三五名とこの一〇年間におよそ三倍にもふくれあがっており、折からの日本の高
度経済成長と歩調を合わせるかのように、わが三晃印刷も成長発展のさなかにあった。そして、三十年代
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の日本の社会経済の発展を象徴するかのように、三十九年十月には、アジアで初めて世界のアスリートの
祭典、東京オリンピックが開催されたのである。
そして、四十年代に入ると、印刷業界では、平版技術の進歩と社会の印刷物への需要が活字からビジュ
アル要素の重視へ、特に多色化への指向が顕著になり始め、オフセット印刷への流れは時代の要請となっ
て進展を続けていた。
そうした中で、わが社の発展はさらに加速していて、四十二年にはオフセット印刷への対応拠点として
習志野工場を新設、三晃印刷は二大生産拠点体制を敷き、中堅企業としての確かな業態を確立したのであ
る。そして、四十三年には五七九人というわが社史上における最高の従業員数を記録している。売上実
績を見ても、三十一年度に初めて一億円台を記録しているが、四十三年には一〇億六、〇〇〇万円と遂に
一〇億円台に突入、そして四十九年度には、三一億円強とうなぎ上りに上昇していったのである。
四十年代の日本経済も四十五年まではまさに高度成長のいざなぎ景気の波にのっており、その後一年ほ
どの低迷はあったが、四十八年十月のオイル・ショックまでは成長を続けていた。そして四十年代の好況
を象徴するのが、四十五年に大阪で開催された万国博覧会である。この万博が、コンピューター技術を駆
使した世界初の大イベントという側面もあり、日進月歩と言われたエレクトロニクス技術の急成長に伴う
その後のIT・OA時代の先駆をなしたものといえよう。
さて、五十年代に入って、日本経済は、前にも触れたように四十八年のオイル・ショックを一つの契機
として低成長時代が到来するのであるが、わが社の受注の中心となっている出版界に目を移してみると、
173 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
四十六年に総売上五、
〇〇〇億円を超え、遂に五、〇〇〇億円産業に到達しその高度成長ぶりに注目が集ま
り、五年後の五十一年には倍増の一兆円産業になった。しかし、この年、売上額が一兆円になったとはい
え、冷静に見てみると三十五年から続けていた一〇%以上の前年比伸び率が八・八%と一桁台に落ち込ん
だ(
『出版データブック』出版ニュース社刊)。つまり、不況に強いといわれた出版界が低成長時代に転じ
た年でもあったのである。そして、五十三年の筑摩書房の倒産、さらには公正取引委員会による出版物の
再販制度廃止検討などのショッキングな事件などが続き、年とともに出版界は活字離れといった時代がも
たらす難問を根底に抱えつつ、不況をベースとした浮沈を続けることとなった。
前置きがながくなったが、わが社にとっても出版界不況は直接、間接に業績に影響を与え、五十二年に
習志野工場にオフセット多色刷(4×4)輪転機を導入しチラシなどの制作を支えに商業印刷への拡充を
図っているが、やはり出版不況の影響は大きく、五十四年までの二桁成長から五十五年以降は、この年が
九・二%、五十六年が二・五%、五十七年が一%と成長率においてしばらくは低落傾向が続くこととなった。
時 代 は 多 少 前 後 す る が、 こ う し た 現 状 を 踏 ま え る ま で も な く、 オ フ セ ッ ト 分 野 の 拡 充 は 急 務 で あ り、
三十年代に「オフ輪は、電話帳印刷、雑誌本文など文字主体としたものでスタートした」(「ザ・オフ輪」
日本オフセット輪転機印刷協議会)の指摘から始まり、本来、枚葉印刷機が主体だったオフセット印刷も
四十年代後半からは輪転機時代へと移っていき、五十年代に入ってその傾向はますます加速し、莫大な投
資を必要としながらも、将来を展望する時、その流れの中で出版・商業両方の需要に応え、成長を続けて
いくためにもオフセット関連への設備投資は、必須の条件となっていたのである。
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五十六年の新年のあいさつでも、山元悟社長は、
「 置 か れ た 状 況 の 中 で い か に 売 上 げ を 伸 ば し て い く か を 考 え る と き、 や は り オ フ セ ッ ト 部 門 を 拡 充 し て
いく以外にないと思います。特にオフセット製版をより強化する必要を感じ、昨年暮れはレザー装置を導
入しましたが、まだまだ充実を図るべきだと考えております。そうはいっても、いま本社工場にそういう
施設をこれ以上収容できるスペースがありません。そこで、現在の輪転発送場の所に、地下一階、地上八
階程度の建物を建て、そこへ事務部門を移し、これをもって、オフセット部門を充実する目的を一気に達
成させたいと考えます。建物の設計図を年内にまとめ、来年から建設にかかりたいと思います」
と、現在の、すなわち平成十九年の三晃印刷の業容につながる具体的な構想を披露している。そして、当
時の売上規模は、五十周年記念の五十三年目標が五三億円であったのに対し、五十六年の目標は六五億円
であった。
山元悟社長のあいさつにあるオフセット部門の拡充への指向は、急速な印刷技術上の進展、それに伴う
受注内容の多量化、多様化などといった変化への対応、さらには経営基盤をより確かなものにする目標額
を上回る売上の増大、成長率、利益率の向上のための生命線であり、それは先代社長時代からの悲願でも
あった。
今回の新社屋建設に至る時点でのわが社が抱えていた課題を、もう少し視野を広げて記してみると、新
社屋建設についての社長の見解は、
「我々の携わっている『印刷』という業界でのここ数年の技術的変化
には、まことに目をみはるものがあります。わが三晃印刷においてもそのような激しい時代の流れが、活
175 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
版印刷部門の衰退とオフセット部門の台頭という形で表れてきているのは、明確な事実です。今後、活版
部門が完全になくなってしまうとは思われないが、その相当の部分がオフセット化していくことは明白で
す。このような現状下で、三晃印刷が今後さらなる発展への活路を見いだすとすれば、的確に時代の流れ
に対応し、わが社に見合った分野を検討、開拓していくことにつきます。その中で、拡大していく部門と
縮小していかざるを得ない部門のバランスが極めて大切になります。特に、オフセット製版の拡充、拡大
のスペースを確保することは、従来からの課題であった自家製版の比率を高めての利益拡大体質を構築す
る意味でも大きなメリットをもたらすと考えられます。また、事務、現業を問わず、社内すべての部門に
ついても、人員数、仕事量及びそれらに関連する設備等のバランスの合理性・効率性についての、検討、
チェックが不可欠です。そして、今後、導入すべき設備、機械のほとんどが大規模な仕様をもっており、
さらに、全社的な仕事量の増加に伴う印刷物の発送や用紙受け入れ体勢等の煩雑化なども含めて、これら
の諸問題を解決し、将来を展望するには最新設備を備えた新社屋による対応に踏み切らざるをえないとい
うことです。そして、それはわが社にとってまさに新たな時代のスタートともいえる出来事とも言えます」
ということであった。
そして、地上八階、地下一階という石切橋の町並にそびえ立つ三晃印刷の業容の拡大を示すシンボルタ
ワーとしての建築計画は、近隣住民との話し合いも無事に了解に達し、昭和五十六年十二月十四日に盛大
な地鎮祭が行われた。設計は古賀建築事務所、施工は清水建設株式会社に決定し、工期は約一年となった。
工事は順調に進み、五十七年七月中旬には建物のコンクリート打ちが終了し、八階建の外郭の姿が整い、
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いよいよ十一月の完成に向けて内装及び諸設備等の工事が工
事関係者の気忙しい出入りとともに本格的に始まった。
当 時 の 日 本 の 企 業 の 設 備 事 情 を 見 て み る と、 い わ ゆ る O A
時代に入っており、五十七年にはOA機器を導入する会社が
177 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
急増、NHKの「マイコン入門講座」をはじめ、OA関係の
入門書が注目を集めていた。そして、コピー機、ファクシミリ、
ワープロ、パソコンが「OA四種の神器」とされ、「OA革命」
の言葉が流行語となった年でもある。当然、わが社も社屋の
新築に伴い、OA化がこれからの業務形態として強く意識さ
れていたのは言うまでもない。
八階
会議室・会長室・総務部・管理部(資材、用紙課)
れたが、新社屋の仕様区分は次のとおりであった。
事務部門の移転が開始された。その後、逐次移転作業が行わ
完成披露を兼ねた修祓式が催され、十一月二十日からはまず
そして十一月半ばには、念願の新社屋の完成の日を迎えて
本社全景
七階
営業部(社長、商業関係)
・経理部(コンピューター室)
六階
営業部(出版関係)
五階、四階
空室(四階の一部に電話交換室)
三階
応接室(第一から第四まで)
二階
スタジオ関係(三階の一部にもスタジオ設備)
一階
受付・輪転発送場
この中で、特に二階、三階のスタジオは、自社運営のスタジオとして出版社に撮影の場を提供するなど
の営業管理をし、わが社の営業活動の守備範囲を広げるとともに、印刷会社としての受注の付加価値を高
める意味でも期待の大きい新セクションであった。そしてスタジオ課が、渡来正八課長代理、西村裕一技
手補を営業、技術の中心スタッフとして新設されたのである。
そして、このプロジェクトを資材部管理課課長として担当した新井彰(現・専務取締役)は、新設のス
タジオで家族そろっての撮影を行った山元正宜会長の喜びの表情を今でも忘れられないとその思い出を
語っている。
また、これを機会に、新社屋を新館、これまでの建物を本館と呼ぶことに統一された。
完成間もない新館は、茶系のシックなたたずまいで、石切橋の町並の中でも一際目立つ存在であり、社
員それぞれも気持ちを新たにして業務に取り組み、五十八年の新年を迎えることとなった。
そして、山元悟社長を始めとする経営に携わる人たちにとって、新社屋の建設は決して好況とはいえな
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い中で、投資額も莫大であり極めて勇気のいる決断ではあったが、将来を見据え確かな成長発展への手応
えを得て、次代の三晃印刷像を具体化する希望に満ちた一つの大きな形であった。
そうした中で、山元悟社長はこの年の年頭にあたり、受注の中心になっている出版はもちろんであるが、
新たなビジネスモデルとして企画力の充実による提案型の商業印刷の拡大を視野に入れての経営戦略、事
業計画などの構想を披露しているが、その課題として次のポイントを重点施策として挙げている。当時の
三晃印刷にとって極めて重要なことなので、残されている記録から、具体的な部分を要約引用しておきた
い。
一、オフセット部門の充実・強化
活版部門にかわるオフセット部門は、その重要性が日を追って強まっ
ているが、各種設備あるいは人の面でなかなか思うようにいかないのが実情である。設備機器は財務な
いし導入にさいしての場所等の問題があり一朝一夕にはいかない。人については、新規従業員の採用、
適材適所の配置転換などの方策によって充実・強化を図っていくことになる。
二、エレクトロニクスの活用を中心とする技術革新の急速な進展
特に製版部門の技術革新はこれまで
の生産構造を大きく変えようとしている。わが社もこの部門の発展、効率化のためには、こうした技術
革新の遅れをとることはできない。この変化に適切に対応してこそ従業員の労働条件の向上、生産性の
増大に直結することになる。そうした意味で、本館の旧経理部室にワープロを導入、年内にも諸設備、
作業体勢を整える。
179 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
三、従業員と組織の活性化
社 内 の 高 齢 化 が 急 速 に 進 展 し て い る。 こ の よ う な 高 齢 化 の も と で い か に 活
力ある組織を作り上げてゆくか、これは従業員全体で取り組んでいかなければならない重要な課題であ
る。会社としても、そうした課題に対して、従業員それぞれが活き活きと働ける職場作りに向けての施
策を立案し推進していく。
四、相互理解と信頼の強化
低経済成長下、いまわが社には、オフセット部門の強化、ワープロの導入、
組織の活性化と具現化しなければならない急務の課題が迫っている。こうしたことの実現を可能にし、
発展へと導く鍵は、従業員と会社との相互理解と信頼である。少なくとも従業員が、その技量と能力に
応じて正当に評価されるシステム作りなどをすすめ、相互理解の深化を導く業務環境作りに努力してい
く。
以上の四点である。
オフセット部門の充実・強化については、四十年代から五十年代に入っての記述でたびたび触れてきた
が、それだけ印刷業界の潮流として劇的な変化であり、特にわが社にとっては、中堅企業の特徴でもある
書籍・雑誌の印刷をはじめ活版輪転を中心にして成長・発展してきたのであるが、書籍など文字ものの印
刷物もオフセットで対応する時代の到来とあれば、事業展開の根底に関わる課題だったと言えよう。一年
先 の 五 十 九 年 に 全 日 本 印 刷 工 業 組 合 連 合 会 の 近 代 化 政 策 審 議 会 か ら 答 申 さ れ た「 中 小 印 刷 業 界 の 中 期 ビ
ジョン」の中でも、
「オフ輪は、新聞、雑誌、教科書、学参書、各種情報紙誌、チラシなどに独占的なマー
180
ケットを持ち」とされ、年々一五%以上の伸びを続けていたという確かな背景もあった。
そして、従業員と組織の活性化については、退潮を続ける活版関連を中心とした業務の効率化とスタッ
フの高齢化やシフトの問題が浮上しており、その改善に向けて本社においては、第一作業部、第二作業部
を中心に各職場の作業改善委員会が設けられ、技師長であり安全衛生委員会委員長代行の海老原昭雄など
をリーダーに熱心な取り組みもなされていたのである。
この項の最後に、新館の建設が行われた五十七年当時(五月末)のわが社の従業員数、業務態勢などの
全体像を概況として示しておくこととしよう。
総従業員数四八二名であったが、その内訳は、事務部・一〇六名(総務一〇、経理一〇、管理二五、営
業六一)
、第一作業部・五四名(整版二九、機械整版二一、管理四)、第二作業部・一〇六名(鉛版一五、
印刷二〇、輪転五一、丸版一一、輪倉七、管理二)、第三作業部・六六名(オフ製版四四、管理二二)、第
四作業部一五名、習志野一三五名(作業一二三、管理一二)である。
山元正宜会長の突然の逝去
本当に突然のことであった。わが社が今日ある歴史そのものであった山元正宜会長が、昭和五十八年一
月三十一日午前〇時四二分に脳梗塞という不測の病に倒れ、逝去したのである。享年八〇であった。
通夜は、同日の午後六時から上野寛永寺津梁院で、翌二月一日には午後二時から密葬が同院でそれぞれ
しめやかにとり行われた。会長の悲報を関係各方面にお知らせした。社外の方々には、通夜、密葬はごく
181 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
近親者のみで行う旨をお伝えしたのだが、通夜が始まるころには、次から次へとお悔やみの方が列をなし、
焼香者は会長の生前の人柄が偲ばれるおよそ七〇〇人にも及んだ。
さらに翌日の密葬では焼香開始の午後二時前より、待合室から参道まで長い列が終了予定の午後三時ま
で続き、各界からの会葬者はおよそ一〇〇〇人にもなった。そしてその間、各職場からは従業員約八〇名
が集い、会長の逝去という悲しみを胸に、懸命の手伝いとなった。
本葬儀・告別式は、社葬として二月七日正午から青山葬儀所にてとり行われた。当日は、あいにくのみ
ぞれまじりの雨模様だったが、葬儀開始の正午前には薄日もさす曇り空となり、午前一一時頃から参列の
会葬者で場内は埋め尽くされたのだった。
正午からの葬儀は厳粛のうちに営まれ、白菊、白百合に囲まれた清浄な遺影の左右には急逝をいたみ政
府から追贈された従五位の遺記、そして叙勲による勲四等瑞宝章の勲記が飾られる中、読経に続いて弔辞
に移り、お得意様を代表して中央公論社の嶋中鵬二社長は、「新社屋完成の折にお会いしたのが最後にな
りましたが、後継者の方々が会長の遺志をついで、われわれの期待に応えてくれると思います」と述べら
れ、業界の代表として松島義明・全日本印刷工業組合連合会会長から、「すぐれた業界の指導者を失った
ことは痛恨の極みであるが、故人の遺志をついで業界発展のため努力したい」との哀悼の言葉をいただい
た。そして、従業員を代表して主藤敏郎副社長は、「従業員を言葉ではなく態度で、子育てをするように
導いていただいた。会長のご逝去は全従業員を悲しみのふちに立たせることになりましたが、われわれは
この悲しみを乗りこえ社長を中心に一丸となって会社の発展に努力するものです」とその決意を述べた。
182
焼香のあとには喪主の山元悟社長があいさつに立ち、「会長が生前に言っていたことは会社の存続のこ
とで、
『一代でなくしてほしくない。長く存続するように』ということでした。今後は全従業員が仲よく
心を一つにして頑張る覚悟です。どうか故人同様のご指導ご鞭撻をお願いしたい」と会長亡き後のこれか
らを語った。そして、午後一時に葬儀はとどこおりなく終了となった。
ひき続いて告別式となったのだが、葬儀に参加される会葬者とほぼ同時刻から告別式に参列される会葬
の方々も並びはじめ、開始直前には受付から三列で数百メートルの長い列ができたのだった。そしてこの
焼香の人波は絶えることなくおよそ一七〇〇人にもなった。
この間、当社内外から選出された一三〇人余りの葬儀実行委員は、受付、案内、配車、クロークその他
で奉仕、告別式終了直前には交代で焼香し、育ての親である会長に最後の別れを告げた。
この日の会長との別れを惜しむ会葬者は二〇〇〇人余りにものぼり、一連の葬儀を通して、改めて故・
山元正宜会長の偉大さを知ると同時に、従業員一同新しい時代を迎えることになった三晃印刷のこれから
に向かっての決意を新たにしたのである。山元正宜会長の生涯は、まさにこれまで記述してきた三晃印刷
の歴史そのものであるのだが、ここで、再度その経歴、業績を凝縮して記し、生前の活動ぶりを偲ぶよす
がとしたい。
故・山元正宜会長は、明治三十五年四月十日、鹿児島県大島郡喜界町に生まれた。昭和三年、山元鉛版
所を開業、十六年、三晃社印刷所と改名する。二十一年、三晃印刷株式会社に改組、その商号は現在に至っ
ている。
183 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
戦後の混乱の中で苦労を重ね、不屈の闘志と人徳を礎に企業経営に優れた手腕を発揮。二十八年には大
手にも数台といわれ、しかも当社の年間売上げの三倍という活版輪転機を中小印刷会社としては最初に導
入したのをはじめ、四十二年にはオフ化を目指して千葉県船橋市に習志野工場を新設。その後、四十七年
にはオフセット輪転機を導入するなど、常に出版印刷の生産動向を先取りして業務体質の改善、生産体制
を確立して総合印刷工場として業界をリードしてきた。一方、業界にあっては、まだ戦後の統制下にあっ
た昭和二十四年、東京印刷工業協同組合の設立に参画し、理事に就任したのをはじめ、三十年には東京都
印刷工業調整組合常務理事、三十三年、東京都印刷工業組合常務理事、四十三年に同組合の副理事長、そ
して同年、全日本印刷工業組合連合会常務理事・経営委員長を歴任する。さらに、四十九年九月には、全
日本印刷工業組合連合会会長、東京都印刷工業組合理事長、十月に日本印刷工業会副会長に就任し、広い
視野に立って印刷業界の発展に尽力したのである。
こうした業界発展への貢献により昭和五十二年の春の叙勲で勲四等瑞宝章を授与されたのだが、その詳
細については、五十二年当時の項で述べたとおりである。
五十九年一月三十一日には、帝国ホテル・富士の間で一周忌の法要が盛大に行われた。お得意先、同業
者、印刷組合、金融、協力工場、友人の方々を中心に約四五〇人もの人々が改めてその遺徳を忍び冥福を
祈ったのであった。
印刷業界の現場では、研究開発の重要性はもちろんであるが、受注、設備産業の要素が極めて高い。そ
うした中で山元正宜会長は、総合印刷業を手掛けて以来、常に将来における受注動向を先見し、必要と判
184
断したときには、自社の業容からすればまさに大胆とも言える設備投資を行い、その的確さがその後の成
長発展を可能にし、現在の三晃印刷を築いてきたのである。
そうしたことを受けて、次の項では、印刷機械関連の技術開発が急速に進展し、印刷業にとってIT化
も時代の急務となってきた五十三年以降のオフセット関連を中心とした設備投資について述べていくこと
とする。
オフセット印刷機、関連機器の導入相次ぐ
わが社は、すでに一〇年以上も前からオフセット印刷の将来を予見し、習志野工場の建設などによる対
応策を行ってきたことはすでに述べたが、以前にも増して印刷機の技術的な進歩発展は著しくなり、そう
した状況への迅速な対応は、受注をも大きく左右することとなっていた。
印刷業界について記述した『印刷業界』
(教育社・一九九〇年刊)にも、
「昭和五十三年頃からは平版印刷機がいちじるしく進歩発展し、それとともに従来主流であった活版印
刷が衰退の一途をたどる。そして、活版印刷機メーカーは次第に平版印刷機の生産に力を注いでいく。
社会や経済が成熟化していくにつれ、印刷需要物は多様化する傾向にあった。多品種少量化と印刷機械
の大型化、自動化とともに印刷業のサービス化もすすんだ。企画、編集、デザインの仕事が増えはじめた
が、逆にこれらの仕事をとり入れて、これによって受注の拡大をはかることの必要性も、中小規模印刷業
に自覚されてきた」
185 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
とある。
また同書で述べているオフセット輪転機をメインとした印刷業の特徴と課題を概略すると、
「オフ輪印刷の体質は、大量生産型、時間節約型、長時間稼動型である。その結果は需給アンバランス
が常態として発生する。そこでは受注競争が激しく、物量としての受注が大切である。そこで、オフ輪を
効率的に運営するためには、作業量の確保がまず大切なことで、つまり、オフ輪を中心とする印刷業者は
コスト指向、競争指向、大量生産指向、設備指向であり、オフ輪をさらに増設し、大型化、高速化し、新
しい印刷形態をつくろうとして経営を変化させていく」
とも記している。
こうしたオフ輪の持つ特徴と課題は、わが社の独自性はあるとしても、その後の設備投資、経営手法、
業務形態などと多くの部分で共通している。
さて、わが社のオフセット印刷機関連を中心とした設備について、ここでは五十三年頃から平成三年頃
まで、すなわちバブル景気の崩壊を一つの区切りとして年代を追って記しておきたい。この時期は技術革
新が目覚ましく、印刷機に加えて前工程のほとんどに関わるさまざまな周辺機器も導入されており、印刷
機など項目別に述べるよりは、年代の流れに沿って印刷機を含めた導入機器を同時に記述することのほう
が、当時の設備投資の全体像と印刷現場での業務状況の把握がより明確になると思うからである。
この時期の最も大きな設備投資といえば、五十二年五月に習志野工場に導入し、五十三年に本格的な生
産体制に入った東芝機械のオフセット四色輪転機(FBR)である。印刷品質も枚葉機に劣らないまでに
186
進み、チラシ、カタログ、ポスター、カラー頁物などにも十分に耐えられ、わが社でも四色オフ輪のメイ
ンの仕事ともいえるチラシの受注を順調に得て、予期以上の成果につながったのである。
オフ輪四色機はわが社にとって初の導入であり、当時の習志野作業部・秋月和平は、
「社長をはじめ皆さんの期待が大きかったこともあり、一時はその重みで逃げ出したい時もありました。
稼動から半年ほどたって、数ある操作ボタンにも、自然に手がでるようになりました。こうなればしめた
もの、体が機械を覚えた証拠だ。これからは思った通りの仕事もできるかと思います。
正直いって今までは、品質のことより、機械を回すことだけで精いっぱいでした。従って営業さんにも
大変ご迷惑をかけたことと思いますが、なにしろ四色機については、未知の世界ということで、現在、汗
とインクにまみれて猛勉強し期待に添うべく努力中です。われわれへの評価は、営業が受注し、もたらさ
れる仕事の量で判断したいと思います。今年(五十三年)はわがオフ輪四色が大いに頑張り三晃印刷の新
しい時代を担うべく、活力ある仕事をしてゆきたいと思います」
と、その苦闘ぶりと期待に応えるべく行った努力を述懐している。
こうして、わが社にもオフ輪四色時代が到来したのであり、これは、商業部門の受注をさらに拡大して
いく戦略的な対応でもあった。
五十三年の最大の設備投資は、
何といっても最新技術を駆使したDC300(西ドイツ製)カラースキャ
ナの導入(十月)である。年とともに増設されていくオフセット印刷機に伴い、外注に依存せざるを得な
い製版部門では、自社製版比率の向上は大きな課題の一つであった。その課題克服のためにDC300を
187 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
導入したのである。
このときのDC300の特徴と技術について、オフセット製版課・松村広治は、専門的な視点から、
「この機械は連続諧調でセパレーションをとり、製版カメラのコンタクトスクリーンで網かけをして作
業する二工程方式です。
この機械を使い色分解をする技術面において、製版者はカメラ技術者のカメラワーク的色修整分解を、
レタッチ技術によって部分的色補整分解するのが最善と思われます。よりよいセパレーションを作り、網
点を生み出すことが印刷物としての品質を向上させる決め手であり、お客様のご要望に応えることにもな
ります」
と述べている。また、第三作業部の剣持悦毅製版課長は 、
「習志野工場でオフセット印刷が開始されて十年余り、製版部門は、それよりさらに歴史の浅い部門で
はあるが、DC300の威力を生かすことにより、社内製版が、また一歩前進する転換期でもある。
それには、高価な機械を有効に働かせるためにも、より付加価値のある仕事の受注を希望したい 」
とその期待感を語っている。
また、この年には、前年から続けていた活版整版部門の効率化をより進展させるために二台目のモノタ
イプ(小池製作所製)が三月から稼動した。これにより、文庫や雑誌関係などの組版はより充実すること
となった。
五十四年にも印刷機の積極的な設備投資が行われている。それは、活版からオフセットへ、枚葉から輪
188
転化へと進行しているが、現在及び将来の受注傾向などの変化に向けての対応であった。と同時に、こう
した対応は、高速印刷機の導入によるコスト割れを吸収し、効率アップによる合理化の推進を行うための
施策でもある。
まず一月末に東芝オフ輪二色機(BOR)が習志野工場に導入され、二月初旬には稼動となった。すで
に習志野工場には3号機までのBORが導入されていたが、今回の新鋭機は、四十二年に稼動していた1
号機に代わるものとして計画された。しかし当時の出版界は、書籍の停滞を雑誌の創刊によって補う傾向
が顕著になっており、この年は「雑誌の年」ともいわれ、「ヤングジャンプ」(集英社)、「ホットドッグプ
レス」
(講談社)など一九四もの雑誌が創刊されていて、
1号機もそうした状況の中で活用することになり、
新機は4号機として増設されることとなった。
この新鋭機は、従来のBORにはない最新の設備を備えたものだった。今までには見られなかったテン
ション・コントロール(折り精度の調整)と高性能の乾燥機が付帯していることが大きな特徴で、品質の
向上に大きな期待が持てるものだった。つまり、高品質が求められていた新創刊の雑誌、マンガなどの印
刷物に幅広く対応できる性能を備えた、まさに最新鋭機だったのである。
当時の山岸習志野工場次長は、
「オフ輪四色機(FBR)に続き、その責務の重大さを痛感いたしますが、お得意から最近とくにうる
さく言われています“品質向上”の問題も、すばらしい性能をもつこれらの機械によってその要求に応え
られるものと信じておりますし、とにかくがんばります」
189 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
とその抱負を語っている。
また三月には、本社・第二作業部印刷課にやはり新鋭機である小森A倍判両面一色機が導入されて稼動。
受注が増加し続けているマンガ、
文庫本の印刷をこなしていく新戦力として大いに力を発揮し始めている。
独特の構造で設計され、両面同時一色刷で操作も簡単、安全性が高く、菊倍判まで印刷可能という特徴を
備え、毎時六、
五〇〇枚という印刷速度を誇る優れた性能を有していた。
そして、九月には習志野工場に最新型のB半裁四色オフセット輪転機(カラーキング)を導入、稼動を
開始している。これは、受注競争に勝ち残るための商業印刷部門を拡充していくための切り札的存在であ
り、中堅印刷企業における商業印刷の半分はチラシ、ポスター、カタログ、POPであり、特にチラシに
対する比重が増していた状況への設備投資であった。と同時に、当社の商業印刷物の九〇%以上を外注に
頼っていた現状を打開しつつ、自社における処理能力の強化による確かな利益体質を育む意味もあったの
である。もちろん、この印刷機は、単に商業印刷物のみならず、出版印刷物にも十分活用できるものでも
あった。
また、この時期は印刷機以外のさまざまな関連機器も開発され、各社の現場に取り入れられており、わ
が社もその波に乗り遅れることなく業務の合理化、効率化を目指しての取り組みがなされている。
そうした取り組みの一つとして、作業の省力化をもたらすスタッカーバンドラー(自動結束機)の導入
があった。第二作業部においては活版部門の減量化、省力化、設備の合理化を積極的に推進していたが、
五十四年九月以降、
スタッカーバンドラーを設備することにより、三台の稼動で労働軽減(外注加工費八%
190
と梱包要員四名減)及び梱包要員の欠員からくる機械の停止を防ぎ、さらに従来外注に出していた一か月
の通数約二〇〇万部を社内生産で消化できる見通しがたった。その結果、輪転機の平均回転数が上がった
ことなども特筆できる。さらに、技師長である海老原昭雄は、このスタッカーバンドラーの機能について、
「現在、三台の自動結束機(日魯工業製)を導入し、輪転課の人員不足を補っているが、今年中(五十五
年)には八台にする予定である。
この機械の用途は、活版輪転機から毎分五〇〇回転、五〇〇部(三二頁)〜一〇〇〇部(一六頁)の速
さで排出される折丁(B5判)を二〇〇〜二五〇部(三二頁)、四〇〇〜五〇〇部(一六頁)に員数区分
け集積した後にプレスをし、ポリプロピレンバンドで二か所結束する自動機械で、これを使用することに
より、輪転課の合理化が一歩前進したことになる」
と業務の効率化へのメリットを指摘している。
また、当時は、全社を挙げて業務の合理化を図っており、五十五年には第一作業部でも作業の機械化を
進めるために、和欧混植機(鑽孔機と鋳植機、小池製作所製)を新規導入し、整版の効率化を進展させて
いる。さらに、第二作業部の倉庫課でもトラックの手積み輸送からパレット輸送に切り替え、発送部門の
スピード化とともに材料費の削減へと合理化が進んだのも忘れてはならないだろう。輪転倉庫では、ホイ
スト・クレーンの改修を行い、用紙管理の向上にもつとめている。
第四作業部は、営業部と各作業部間の調整とそれに伴う設備の効率的な運用で、特に営業を支える生産
体制づくりに全力を尽くすこととなった。第四作業部の青野伸輝は、
191 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
「設備の効率的運用と外注管理の徹底、同業他社との受注・発注体制等の形などを整備することができ、
数字的にも一歩前進できた。
印刷部門へ流れるまでの工程管理は、先が読めないとできないので、営業、各作業部とさらにパイプを
太くし、強力な生産体制を築かなければ……」
と今後に向けての課題を述べている。
また、この年の九月には、本社にA倍判両面オフセット印刷機(LP‐四九Aパーフェクト)が加わり、
大幅な受注増への対応の見通しがたった。加えて、十一月にはDC300レーザー装置(色分解網掛け装
置=製版カメラの一工程削減)の導入も行われている。
このように、わが社では、時代の潮流、受注傾向を先取りしながらも、先走りすることなく慎重に検討
を重ねて、印刷機の増設、関連機器の新設、生産体制の効率化などさまざまな施策を行い、着実な発展へ
の歩みを続けていたのである。
そして、五十六年には、かねてから営業部より強い要望のあったB6判折機(東芝機械)が習志野工場
に導入された。これは、五十一年導入のBOR3号機(B横全判二色両面刷)にB5、B6の折丁を一列
及び二列に排紙できるダブルチョッパー折機で、四月初旬に工事が完成している。
この折機は、B5、B6の両方の折り出しができ、その他にミシン入り装置(縦横ミシン)、と特別付
属品としてアジロ装置もつき、営業部門の新しい戦力としての期待も大きかった。
その辺の期待感について、営業四課・溝口早苗課長は、
192
「一昨年以来の“ドラえもん”ブームは、わが社の両面機印刷部門の売り上げに大きく貢献してきた。
しかし、あまりの部数の急激な増大はわが社での対応が難しく、“ドラえもん”、さらには昨秋より刊行
の“怪物くん”といった大部数の新刊書は他社へ流れ、悔しい思いの連続だった。このような時期に習志
野工場BOR3号機へB6判折機が導入されたことは、コミック新刊誌の受注はもとより、わが社の新機
種として、今後の商域拡大に大いに役立ってくれると思う」
と、悔しさと期待感、さらには、受注、設備産業としての印刷企業の難しさをはからずも語っている。
またこの年には、菊全判四色オフセット印刷機も設置され、オフセット強化の流れは、さらにその勢い
を増すこととなった。
ちなみに、当時の活版とオフセットの受注状況を見てみると、昭和四十九年のおよその比率は、活版六
に対してオフセット四であったが、五十二年には両者は拮抗しているもののややオフセット優勢となり、
初めてその比率が逆転している。五十三年にはさらにオフセット優勢に傾き、五十四年にはわが社の伝統
である活版が営業努力と業務努力、顧客の皆さんからの大量受注もあって六対四と盛り返したが、五十五
年には、五十二年頃から導入を強化したFBR、BORなどの四色、二色の最新鋭オフセット輪転印刷機
がその威力を発揮し始め、活版三、オフセット七となった。この五十五年を期に実績からしても大きな節
目としてわが社はまさにオフセット時代へと移行したといっていいだろう。それはとりもなおさず、活版
における整版・刷版などの分野において、後に述べるような時代とともに急速な進展を続ける技術革新へ
の対応と、積年の設備・業務態勢に大きな改革が求められていることを意味していた。
193 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
五十七年はすでに記したように、わが社における歴史的な設備投資である地上八階、地下一階の新館建
設があり、IT時代の事務機等の整備はあったものの、印刷機械関係への設備投資は、結果としてその完
成を待ってということになり、特筆するべきものはない。
そして五十八年に入ると活版の整版にワープロ、コンバーター(変換機)の導入があり、オフセット製
版の暗室も明室に改装されている。
このワープロの導入は活版の整版におけるコンピューター化の端緒となる対応といってよいだろう。ま
たこの年、習志野工場には、A倍判二色オフセット輪転機(AOR)が増設されている。1号機は四十七
年に導入されており、これは2号機ということになる。
活版からオフセットへ、この流れは印刷業界及び出版界の抗しがたい潮流であることは、すでに折に触
れて記してきたが、五十九年から六十一年にかけても活版部門に大きな変革があった。輪転における樹脂
版の導入と整版におけるコンピューター化、すなわち電算写植の採用である。
まず、活版輪転における樹脂版の導入である。わが社は、鉛版所からスタートしたという歴史的経緯が
あり、鉛版へのこだわりには強いものがあった。しかし、時代の潮流と技術的進展はそうしたこだわりを
許してはくれなかった。五十九年十二月から樹脂版の導入が始まったのであるが、六十年の年頭のあいさ
つで山元社長は、
「わが社の活版輪転においては従来から樹脂版はやらないといってきたのだが、ここにきて同業他社の
多くが樹脂版に切り替えて良い製品を印刷しているにもかかわらず、わが社だけが活版に固執してあまり
194
にも差のある製品を出すということには、少なからず問題がありはしないかということと、もう一つはわ
が社の活版輪転の主たる得意先数社から〝樹脂版でなくては困る〟という要望を受けて、昨年十二月から
樹脂版に取り組んでいる。今春三月いっぱいを目処に全機樹脂版ということも考え、現在進行中である。
ただ、問題は、コストであり、樹脂版自体が高くこのコスト高をどこでカバーするかといえば、印刷現場
ですることになる。すなわち、組付けから機械の回りはじめまでの時間がかからないことや、より回転数
を上げることなどしかないだろうと思われる」
と、こだわりの活版から樹脂版への移行の事情を述べている。
今まで、熟練の技術で業界に確固たる地位を築いてきた活版現場にとってみれば、それぞれのセクショ
ンで戸惑いは隠せなかったが、新たな変革もまた企業の発展にとって不可欠のことである。『三晃ファミ
リー新報』
(五十九年十二月二十五日号)にはその辺に関する現場責任者の寄稿があり、ここでその所感
を抜粋しておきたい。
第四作業部長の青野伸輝は、専門的な原理、工程の解説の後に、
「大手新聞社、大手印刷の脱亜鉛版・脱硝酸という長年の夢を叶える版材として脚光を浴び、かつ高品質・
高再現・高能率な版材としても注目され、すでに樹脂版は新聞社、印刷業界にほとんど定着してしまった
昨今である。わが社も樹脂版列車の最終便に乗った訳ですが、感光樹脂版も総合的に見て決定的な版に乏
しくそれぞれ一長一短というのが現状である」
と述べている。
195 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
樹脂版室
樹脂版の洗出し
196
また、第二作業部・丸版課長の川口衛は、活版、樹脂版の違いを具体的に比較しながら、次のように記
している。
「樹脂版にも色々あるが、わが社で使用するのは、検討の結果、水溶性感光樹脂版(ミラクロン)で、
これはスチールに樹脂を貼ったものである。まず工程の違いから比較すると、活版は、紙型→うら貼り→
鋳造→ルーチング→メッキ→印刷となり、樹脂版は、フィルム→露光→洗出し→水切り→乾燥→後露光→
印刷となる。
両者の特徴からの比較では 、 0
0
0
①
公害が無くなる ――
今までメッキ作業でシアン・クローム酸等を使っていたので処理物を通し中和
していたが、樹脂版では使った水を中和する必要がない。
②
平らな版ができる ――
今まで三五〇度の鉛を水で急冷していたため、ス、ソリなどができやすかっ
たが、樹脂版ではアルミニウムの土台に約一ミリの樹脂を貼るので平らな版ができ、ムラ取り時間が
なくなるか、大幅に短縮される。
③
重さが違う ――
鉛版は一七キロ位あり、一日二トンほどの移動が必要だが、樹脂版ではゼロに近く
なる。
などが挙げられる。
いずれにせよ後にはひけないので、職場の活力源にしたい」
さらに、第二作業部の鉛版課長・中山宏は、実際の作業の実態について、
197 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
「いよいよ我々の手(鉛版課、丸版課のスタッフ)で樹脂版の整版をすることになった。鉛の版を作ら
せたら二十数年というベテランたちが今までとはまるで違う樹脂版製造の前工程をするわけで、出版社か
ら来る紙焼き(今までの凸版)や整版課より下版になった原版を印刷課で清刷りをとって、専用の品名別
台紙に貼り込んでいく。したがって、第三作業部の版下の仕事と同じようなもので、この部門が従来の紙
型取りと共通している関係から、紙型取りのスタッフが主力になって取り組んでいる。
この後、カメラ→樹脂版焼きの工程に入っていくが、樹脂版の印刷物は鉛版よりきれいというのが業界
の常識のようなので、新設された樹脂版室スタッフ全員で頑張り、常識を上回る品質に挑戦していく」
と述べている。
いずれにしても、樹脂版への移行は、ここ数年、赤字体質に落ち込んだ活版輪転部門の業務改善への大
きな足がかりであると同時に、わが社にとって、退潮を続ける活版輪転の命脈を延長させ、さらには、全
日本印刷工業組合連合会を中心にして、当時、印刷業界が推進していた近代化、構造改革事業の流れに沿っ
た施策の意味合いもあったように思う。それは、後に述べる電算植字システム(CTS)、いわゆる電算
写植も同様である。
そして、樹脂版への移行に伴い、六十年三月には、紙型、丸版、メッキの部門が廃止となった。わが社
の成長発展の礎ともなってきた鉛版が、この時点で平台鉛版を残すのみとなり、山元社長は、
「時代の流れをつくづく感じるとともに、技術革新の波がひたひたとわれわれの身近な所にまで迫って
きているのを実感している。そんな状況の中で、どうしてもやらなければならないのは、活版整版の電算
198
写植への移行。それとオフセット製版の電算機を伴った機械化あるいはネットワーク化といった問題であ
る」
と、その感慨と今後の課題を、六十一年の初頭に述べている。
実際に、主力の得意先である中央公論社の文庫なども、活版清刷から電算写植へと移行すること、そし
て単行本もごく近い将来、部数によっては電算に移行することなどを告げられており、こうした出版各社
の実情からしても、整版の電算化は急務となっていたのである。
全日本印刷工業組合連合会の構造改善調査によれば、電算写植システムは五十八年三一〇台、五十九年
三七八台、六十年五〇二台、六十一年五九九台と急速に増加し、多くの印刷会社が先行投資として組版の
コンピューター化、その中核としての電算写植に注目し、そのシステムの進歩を見据えながら次々に導入
していったことがわかる。
わが社の電算写植設備は、五十九年八月に入力機のみであったがそれを備えたことに始まる。そして、
出力機までを含めたトータルシステムの導入は六十一年十月であり、これを機会に第三作業部に電算写植
課が新設され、第一作業部機械整版課が廃止されている。
この電算写植のシステムを概略すると外字補充登録装置「MONOR」(モノール)による作字の登録、
電算写植サザンナSV304及びワープロなどの入力機、サザンナSP313などの組版編集機でデータ
作成、そして、出力機としては、いわば組版コンピューターともいうべき、文章データを印画紙あるいは
普通紙に組処理出力するためのページ組処理装置「RETTON」(レットン)、この「RETTON」で
199 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
組 処 理 さ れ た デ ー タ の フ ロ ッ ピ ー デ ィ ス ク を 入 力 す る こ と で、 写 植 機 か ら 出 力 さ れ る 印 字 物 と 同 じ 書 体 、
文字、組体裁で普通紙に出力するプリンター「SAGOMES‐TL601(サゴメス‐TL601)」、
RETTONによって組処理されたフロッピーディスクを入力すれば印画紙に印字出力する装置「SAP
TRON‐Gimmy SS1040(サプトロン‐ジミーSS1040)」で構成されている。
このシステムによって、文字修正の簡便化、さらにデータ保存、大量消化、スピード化がはかれると共
に、ページアップで出力できるため、後工程の版下は大貼りのみで済み、消化能力は飛躍的に向上する。
そして、わが社における電算写植のスタートを統括し、その育成を手掛けたのが、先に述べた新設の電
算課課長・川勝勲、課長代理・千葉忠孝・鈴木祐治、係長・高落眞吾をリーダーとしたスタッフであった。
川勝課長は、現場責任者の立場から、
「印刷方式が活版からオフセットやグラビアに変わり、写真が主体の見る雑誌が増えたとはいえ、やは
り文字は印刷に欠かせない、紙面の大半を占める印刷技術の重要な分野の一つに変わりない。
その文字処理において当社の活版部門は伝統があり、技術・品質は他社にひけをとらず当社の看板となっ
ており、現在もその実績でお得意先に高く評価され信頼されている。
一方、オフ部門の文字処理技術については情報化時代に合わせ、ますますスピード化と大量処理を要求
されており、ワープロによる文字入力がOA化によってすでに一般化し、パソコンを利用した情報処理や、
通信回線を使って文字情報を送受信することも印刷技術の一部として確立しつつある。
それらの急速な変化に対応し、電算写植の新しい技術を利用しながら、当社の看板の一つである文字処
200
理技術の名を汚さないように引き継げればと思っている。
技術・経験・課員とも若い職場ではあるが、新設した有力なシステムを十分に活用すれば、未知な部分
はあるが期待がもてる分野であり、人的、技術的にも蓄積に努め、当社の有力な武器に育ててゆきたい」
と、印刷界の現状と将来に向かっての期待感を述べている。
そして、文字入力については、ワープロが普及し大活躍した時代で、社宅の一室が入力室として使われ、
201 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
ワープロの得意な主婦の方々などを時間勤務で採用し作業にあたっていただいた。いま振り返れば、職人
的な技を要した整版作業も新しい機器の出現によって大きくかわりつつあったということで、懐かしい思
い出になっている。
本社における活版整版分野では、今まで記してきたように大きな変革があったのだが、習志野工場では、
オフ輪のさらなる充実がはかられ、同工場にあった活版輪転 号機が五月に解体撤去され、代わって九月
さらに、翌六十二年には、本社に四六四裁一色機(リョービ印刷機)が導入されている。
めれば、六十一年の投資額は約六億五、
〇〇〇万円にものぼっている。
ちなみに、AOR3号機とスタッカーバンドラー二台で約四億であり、これに電算写植システム等を含
電話帳などであった。
ク」
(小学館)
、
「平凡」本誌(マガジンハウス)、「ピットイン」(芸文社)、「中二時代」(旺文社)、その他
カーバンドラーも導入され、
売り上げの増大に寄与することとなった。主な受注としては、「コロコロコミッ
にはオフ輪二色両面機(東芝機械製)
、すなわち、AOR3号機が増設されている。と同時に二台のスタッ
10
こうして五十年代に入ってから六十年代の初頭にかけて、折しもIT時代の技術革新が想像を超えるス
ピードで進展し、それに伴う技術革新の大波が、印刷機械、印刷技術にも押し寄せていて、それへの対応
がわが社のような中堅企業にとっても急務だったことがわかる。
そして、平成時代に入り、わが社にとって現在に直結する総仕上げともいえる設備投資が行われること
となった。習志野工場における増設である。
既述のように、習志野工場はオフセット印刷への期待のもとに昭和四十二年に建設されているが、その
後、業容の拡大とともに必要に応じて継ぎ足す形で増設してきており、建物の老朽化もさることながら、
大型化し多機能を有する新鋭機等の設置には対応が難しく、将来を見通した抜本的な対策として近代的な
工場の建設が避けられない課題として浮上していたのである。また、それは、当時山元社長が掲げていた
経営の安定と従業員の待遇改善をより確かなものにするための目標であった、「年商一〇〇億円企業への
成長」にも欠かせないことであったといえよう。ちなみに、平成元年の年商は約八〇億円である。
実際、社内からは現状の印刷機の稼動状況を勘案した上で、新鋭機の導入が要望されていた。より高速
で一気に大量に刷れ、スピーディーな納品が求められるチラシを始めさまざまな受注を可能にする大型高
性能オフセット輪転機の新規導入が、年商の大幅な増大のためには必要だとされていたのである。
そして、
「タイミングをはかる必要はあるが、設備投資はやるときにはやる」という山元社長の経営に
おける信念に基づいて、新工場の増設が決定され、平成元年九月二十七日には、同二年八月の稼動に向け
て地鎮祭が行われた。
202
建設計画によれば、建築面積一、
九九八・六二五平方メートル、延床面積三、一九四・二五六平方メートル
である。工事は、設計から施工まで清水建設株式会社によって行われたが、建設作業は順調に進み、二年
三月には本社から忠岡義敬専務、土方清宏総務本部長をはじめ役員五名、習志野工場からは、山岸保男工
場長ほか各課長など関係者六名が参加して、鉄骨が組み上がった新工場の見学会があり、それから四か月
余、七月二十七日には既設工場に隣接しての工事が完了し、新工場の竣工となった。
竣工式は、午後二時三〇分から、地元の二宮神社の神官による神事が関係者出席のもとに厳かに執り行
われた。その後、引き続いて、同工場の建設とともに新設された高速オフセット輪転機(FBR3 号機)
の始動式となった。
超高速六〇〇回転(分速)で印刷された刷物が自動結束され、さらにロボットによって自動発送されて
いくさまは、まさに最新技術の粋を集めた印刷機で、時代の先端はここまできていたのである。
続いての祝賀会は、会社幹部並びに建設関係者、そして工事にご理解をいただいた近隣の方々など約
一〇〇人ほどが集う内々の祝いとなった。というのも、あいさつに立った山元社長によれば、
「今日は竣工といっても、長期的な視野に立てば、建物の一部が完成したということで」
と述べ、今後、印刷機械設備等の更新に伴う新築、増改築の必要性を示唆している。
こうして平成二年七月の新工場の完成を一つの契機として、習志野工場はさらなる売り上げの増大に向
けての活動を開始した。竣工式の記述でも簡単にはふれたが、あらためて主力印刷機として導入したF
BR3号機関連についてもう少し詳しく記しておきたいと思う。
203 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
習志野・FBR
積み込みロボット
204
こ の 機 械 は 東 芝 機 械 製 の 最 新 型( O A‐ 4 B 2 T 6 0 0) B 判 四 色 高 速 オ フ セ ッ ト 輪 転 機 で、 分 速
六〇〇回転という超高速機であることは既述のとおりであるが、何といってもそれに伴い導入された周辺
機器の自動化に大きな特徴があり、省力化に威力を発揮している。
その周辺機器を列挙すると、自動巻紙装着装置、オートペースター(連続紙繫ぎ)、インキ供給装置、
ブランケットウォッシャー(ブランケット内の汚れを自動洗浄する)、プレートスキャナ及び自動インキ
色合わせ装置、CCR(自動見当合わせ)
、カットオフコントロール(自動折合わせ装置)、スタッカーバ
ンドラー(自動結束機)
、積み込みロボット、無人搬送車等である。
特に積み込みロボットと無人搬送システムは、工場の単純作業、重労働部分の合理化、省力化を推進す
る上での役割は大きい。具体的には、積み込みロボットは、オフ輪から梱包されてくる重い刷本を一個ず
つパレット上に積み込み、一方、搬送ロボットは積み終えた刷本を所定の場所まで運んで整然と並べ、元
の定位置に戻っていくのである。
かつては、手作業が多く労働集約産業といわれ、実際、地方からの多くの季節労働者が作業に従事した
という。以前は3K職場ともいわれた印刷業であるが、IT技術の日進月歩の進展によって、印刷現場の
人とイメージをそうしたしがらみから解放しつつある。
そのほか、二年五月にはカラースキャナ・SG618 及びモノクロ平面スキャナ・スキャニカ323、
カメラ・ファインズーム880をそれぞれ設置、さらにオプチコピーインポーザカメラシステムを新設し
てきめ細かな設備を加え、業務態勢の整備が進捗したことも忘れてはなるまい。
205 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
なお、この年の設備投資は、二〇億円以上にのぼり、年商の四分の一にも相当する巨額なものとなった
が、それは将来に向けての業態、受注展望への確信と、経営者としての山元社長、及び経営陣による決断
力の賜物であったし、社内に今後に対しての期待と活気をもたらすものでもあった。
三年の設備投資は、二月の電子編集システム・スミエディアン三台設置が主な事項で、一休みというと
ころであったが、組織面では、オプチ製版課の新設が三月にあった。これは前年のオプチカメラの導入に
伴い、樹脂版課の一部を分離し鉛版課と合わせてオプチ製版課としたもので、その名のとおりオプチカメ
ラによる製版作業を主たる業務とし、この結果、伝統の鉛版課は発展的とはいえ、ついにわが社から姿を
消すこととなった。
組織に関連したもう一つのトピックスとして、八月の計算部の新設がある。これまで計算業務は経理部
のコンピューター室で行ってきたが、計算機のバージョンアップによる新機種導入により、計算事務の改
善とデータ管理の充実を主な目的として、コンピューター室を経理部から分離・独立させ計算部として新
設したのであった。
出版を支えに、商業部門の営業を推進
営業的な視点からすると、わが社は先人たちの努力によって恵まれた道を歩んできたといえるのではな
いだろうか。昭和三十年代、四十年代と、大手有名出版社の書籍、雑誌を中心にその優れた活版技術によっ
て大量の受注を得て、わが社の仕事への信頼が必然的に営業成果に連動していたし、活版からオフセット
206
への印刷方式のシフトには、先見性をもって対応し、各大手出版社からの受注を確かなものにすることが
できていたからである。
そうした中で、もう一方の有力な印刷分野である商業部門の強化についても、四十年代には、今後のわ
が社の発展へのキーポイントになるとして意識されていた。当時の山元正宜社長が折に触れて商業部門の
拡大を営業課題の一つとして提示し、
いち早くオフセット四色印刷機への設備投資を拡充していったのも、
出版物におけるオフセット指向のみならず商業印刷への対応を意識してのことであった。
そして五十年代に入り、五十二年五月に稼動した四色オフセット輪転機(東芝機械製)、いわゆるFB
R1号機などは、チラシ、ポスターなどの商業印刷物にも大きな威力を発揮し実績を積み重ねる決め手と
もなったのである。続いての五十四年九月搬入のB半裁四色オフセット輪転機(通称カラーキング)は、「受
注競争に勝ち残るため、特に商業部門をのばすための切り札に」という営業部の強い要望が導入の決め手
になってのことであった。当時、商業印刷物受注量の九〇%は外注依存であり、その後の商業部門の受注
拡大、利益の確保にとっても社内での印刷対応が不可欠であり、印刷機を含めての本格的な取り組みが軌
道に乗り始めたといっていいだろう。
そうしたことを受けて、五十四年末に主藤泰郎営業部長は、新年度に向けての抱負として、「得意先開
拓としてまだ可能性を大きく残している商業印刷に力を入れたい」と、語っている。そして、忠岡義敬専
務取締役(営業担当)は、五十五年度の売上努力目標の内訳として出版印刷七四%、商業印刷二六%とし
ている。
207 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
ちなみに当時の売上年次推移を見てみると、
五十三年/出版六八・〇%、商業二四・九%、工務その他七・一%
五十四年/出版六八・四%、商業二五・四%、工務その他六・二%
五十五年/出版六五・二%、商業二八・八%、工務その他六・〇%
五十六年/出版六八・二%、商業二七・〇%、工務その他四・八%
五十七年/出版六三・〇%、商業三一・九%、工務その他五・一%
となっており、カラーキングが導入され本格稼動を始めた五十五年以降、商業部門の売上比率が着実に上
昇しているのがわかる。
また、五十年代後半から六十年代にかけて、新しい営業活動の育成にも取り組みを開始している。その
一つが、すでに述べた五十七年竣工の新館建設と同時に発足したスタジオ課であり、続く代表的な取り組
みとしては、六十年一月からの企画開発課の新設がある。
山元社長はその目的について、
「お得意の新規開発はもとより、わが社の商業印刷のあり方についてのノウハウの開発をもしていこう
ということである。本来、商業印刷は、企画やデザインのようなソフト部門がらみの仕事を受注すること
にあると思うが、わが社の場合は、版下渡しというような代理店の下請け的な仕事が主だったわけで、こ
の際そういう仕事から脱却・脱皮したいと考えており、その意味でもお得意先の内容を少しずつかえてい
きたい」
208
と語り、営業・顧問としてその内容の検討と組織化にあたった山田義朗は、
「営業部の中に企画開発課を設けたのは、社内にソフト機能(印刷物の計画立案など)を持つことであ
るが、今回の場合は、デザイナーその他ソフト技術者を社内に置くということではなく、ソフト機能が理
解できて、それを運営できる人材を養成していくということである。当社の出版部門は、優秀な得意先に
支えられて着実に伸びている。その出版部門が安定した売上げを確保している間に、商業印刷部門が安定
した事業として売上げを拡大していく必要がある」
と述べている。
商業印刷と言えば、宣伝、販売促進、広報用の素材であるポスター、チラシ、小冊子などが一般的だが、
印刷物による物販(通販カタログ、商品カタログ、ダイレクトメール、パンフレットなど)が成長期にあ
り、この分野の将来にわたっての可能性は大きなものがあった。わが社でもこの分野のお得意先の開発に
注力したのはもちろんであるが、同時に、企画開発課では、第一作業部、第三作業部と協力して、わが社
の得意とする分野である書籍製作をベースにした自費出版事業を立ち上げ、パンフレットの配布、新聞広
告を打つなどを始め、積極的な社内キャンペーンも展開した。そして、六十一年十一月から六十二年四月
にかけて『折々の記』
(町田道雄著)を始めとして五冊の製作を手掛けている。
また、企画開発課の内部業務として、自費出版のような営業開発的業務の他に、調査企画、企画開発が
あった。これはプランに基づいた十分な調査、資料収集によって企画を練り、お得意あるいは新規企業に
向けての提案営業の支援を任務とすることでもあった。
209 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
このように、企業の将来を考慮して、新たな商材を求めてさまざまな取り組みが行われた。企業は生き
物であり、その活性化のためには、すこしの停滞も許されないし、対応策の遅れは後に大きな禍根を残す
ことにもなりかねないからである。
また、こうした取り組みは、つねに効率的な運営を目指しての組織改革を伴ってくる。組織を動かすの
は人であるが、効率よく組織を運営し狙いどおりの成果を挙げるためには、その形にも関わってくるから
である。
わが社でも、各部、各課の横の連携がうまく作動して、それが会社全体のチームワークとなり業績の向
上に繫がることを十分に考慮し、さらに人材の適材適所の配置を狙いとしての組織・機構改革が随時行わ
れてきたが、六十年には、九月二十一日付で営業部の新編成が行われている。
従来の営業部第一課から第五課(出版印刷)を営業一部とし、第六課から第八課(商業印刷)及び企画
開発課とスタジオ課を営業第二部とし、第六課から第八課の名称を廃止して、第一課、第二課、第三課に
改めたのである。それに伴い昇格を含む人事異動も行われた。この営業部新体制の主な陣容は、専務取締
役・忠岡義敬、取締役営業担当・主藤泰郎、営業第一部次長・新井彰、営業第二部長・千葉征毅、そして
営業管理部部長は、稲益桂一郎であった。
また、六十二年の二月には、作業部でも、受注内容の変化、仕事量などを考慮しての機構改革が行われ
ている。すなわち、活版整版の第一作業部を廃止し、活版整版課は、オフセット製版、電算写植の第三作
業部に統合されたのである。かつて作業部のメインの一つであり、わが社の発展を支えた活版整版である
210
が、ここにも時代の流れがもたらした業務内容の消長があり、感慨を持たざるにはいられない。そして、
外注についても従来、外注を必要とする受注を得たところが個々に発注していたものを、第四作業部に作
業統括課が新設され、外注窓口の一本化による業務の流れの掌握と効率化がはかられたのであった。
この機構改革による各作業部の業務内容について、当時の営業状況を含めて、わが社の全体像を示す意
味もあるので記しておきたい。
・第二作業部 第
―二作業管理室、輪転課(工務、機械室、梱包)、印刷課(四色機、両面機、ローランド、
オフセット製版課(スキャナ、カメラ、レタッチ、焼付、校正刷)、電算写植課(手動
―
八色機)
、樹脂版課、鉛版課(紙型取、平台鉛版)、輪倉課(用紙、発送)
・ 第三 作業部
写植、フィニッシュ、電算写植、ワープロ)、活版整版課(整備、タイプ、キャスター、鋳造、工務、
第一課(外注オフセット、習志野進行)、第二課(外注活版)、第三課(外注製本)、オ
―
文選、植字、差替、校正刷)
・ 第四作業部
フセット製版管理課(オフセット外注の製版管理)、作業統括課(外注進行管理の統括)、部長付(庶
務、部長付業務)
以上である。
こうした機構改革を実施したことには理由があった。材料諸経費の高騰ならびに人件費の伸びが突出し
てきていて、効率的な組織運営とあらゆる部署での人員の削減、業務量に見合った人員の配置等による赤
字基調からの脱却という経営的な配慮が必要であったからである。
211 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
また、昭和から平成へと年号が変わった年に人事異動が行われているが、その当時の役員構成は、次の
とおりである。
代表取締役社長
山元
悟
専務取締役
忠岡義敬(営業部門担当)
常務取締役
大塚眞彦(財務部門担当、経理部長)
常務取締役
星野尚義(本社、習志野工場担当、第三作業部長)
取締役
主藤泰郎(営業部門担当、営業本部長)
取締役
土方清宏(総務管理部門担当、総務本部長)
取締役
山岸保男(習志野工場担当、工場長 )
さて、この項の最後になるが、今まで見てきたように時代の推移、業界の技術革新、受注の変容などを
勘案しさまざまな対応策、施策が行われてきたのであるが、そうした中、わが社の売上げ目標の設定の仕
方の変更について触れておくこととする。
具体的にいうならば、従来、会社及び営業幹部が受注状況などを勘案してトップ・ダウンで決定してい
た売上げ目標を、六十年から営業各課の課長がそれぞれの実態に即した売上げ目標を設定して積み上げて
いくボトム・アップ方式に変更したのである。その背景には、わが社の売上げ成長率の停滞がある。
わが社が初めて売上げ成長率一〇%を切ったのは、不況、低成長時代という社会経済の状況に歩調を合
わせるかのように五十五年の九・二%で、その後急落し、五十八年が二・九%、そして五十九年には五%の
212
伸び率の設定に対して実際には一%増で、四%もの差が生じたのである。
当時の年間総売上げは七〇億円を前後していたのであるが、仮に七〇億円として四%は二億八、〇〇〇万
円であり、この目標と結果の差額が大きくなると、その対応に経営的にも大きな問題と間違いを起こしか
ねない要素を含むからであった。
活力ある社内づくり、安全・福利厚生の充実を目指して
企業にとって優れた人材の確保・育成は、発展・存続にとっての生命線であることは言うを待たない
が、わが社もつねにその点に留意して求人活動を行ってきている。四十年代の業容の急激な拡大期には、
四十一年に見られるように七〇名を超える新入社員を採用したこともあったが、五十年代に入って、業務
の機械化などもあって、四〇名を一つの目安としての求人で推移している。
五十三年度・四〇名、五十四年度・四〇名、五十五年度・三一名、五十六年度・一五名、五十七年度・
四〇名、その後は二〇名内外に終始した。しかし六十一年には、二七名の新入社員があり、その内の二名
の女子は短大のデザイン科卒で、営業第二部の商業印刷部門に配属された。前年には企画開発課が新設さ
れていたこともあって、求人における新しい息吹としてとらえることができよう。
六十二年には再び四〇名の採用があり、この年の配属先をみると、習志野工場・一八名、第三作業部・
一五名となっており、オフセット部門のさらなる強化の意図が読み取れる。平成に入っての二、三年は、
今になってみれば、バブルと総括できるような好景気が続き、他業種の求人も多く、学生の売手市場になっ
213 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
ていたこともあって、わが社にとっては求人難で、全国を東奔西走しての求人活動となった。平成三年に
は、二〇名入社しているが、出身地をみても北海道から九州に至るまで多彩であったことからも、その苦
戦ぶりがうかがえる。
こうして入社した新入社員が、会社に貢献し、また本人も充実した日々を送っていくためには、導入教
育、研修、実習などの教育・育成が極めて大切なのはいうまでもない。導入教育について、五十五年を例
にとってその概略を示すと、一週間余の日程で行われているが、入社式、健康診断に続いて、社員として
のさまざまな適応の説明、続いて他社及び習志野工場の見学、そして、一週間の研修の後には、わが社の
首脳よりの講話が行われた。そのテーマは、「三晃印刷のすべて」(主藤副社長)、「営業活動一般」(忠岡
専務取締役)
、
「活版、
オフセット関係の現場事情」(星野習志野工場長)、「社会人第一歩」(丸茂監査役)、
「職場の安全衛生」
(小泉顧問)
、そして、クラブ活動のフィッシング、囲碁、将棋、華道、野球などの説
明も行われている。最終日の配属式の後は、配属先での実習となる。これが、年によって多少の変更はあ
るものの、導入教育のあらましである。
加えて、平成二年には新たな試みとして、東京都印刷工業組合主催の「新入社員養成講座」に初めて参
加して、より一層の新人育成教育の充実をはかっている。
また、五十年代からは、従来のように箱根などにおける国内研修も行って人材の育成に努めているが、
中堅幹部を始めとしての海外視察、スタッフの洋上大学への参加など
視野を世界に向けての研修、教育
に力をいれていることが目立ってきている。平成三年までのものについて、年代を追って海外視察の主な
214
ものを列記してみよう。
昭和四十九年十一月、米国印刷事情研修〈総合印刷機材展、於シカゴ〉(星野尚義部長・山岸保男課長)
昭和五十年八月、米国印刷事情研修〈総合印刷機材展、於シカゴ〉(畑野州彦課長・犬養俊輔係長 )
昭和五十一年十月、
米国印刷事情研修〈総合印刷機材展、於ニューヨーク〉
(主藤泰郎部長・海和房男課長)
昭和五十二年六月、印刷関連機材展〈ドルッパ、於西ドイツ・デュセルドルフ〉(千葉征毅・川勝勲・
、於西ドイツ・デュッセルドルフ〉(長井一義・寄
平成元年五月、第四回世界印刷会議〈於ブラジル・リオデジャネイロ〉(星野尚義習志野工場長)
平成元年八月、米国印刷産業研修〈 印刷機械展・於シカゴ〉(浅原信夫・中山宏課長)
215 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
堀田和也・吉田清)
五十三年十月、米国印刷事情研修〈総合印刷機材展、於ニューヨーク〉(新井彰・剣持悦毅・尾田勝課長)
、於西ドイツ・デュッセルドルフ〉(赤星征夫・溝
五十五年四月、米国印刷産業研修〈 印刷機械展、於シカゴ〉(土方清宏部長、松元徳男・志村康昭課長)、
徳間書店徳親会友好訪中団(主藤敏郎副社長)
五十七年六月、印刷関連機材展〈第八回ドルッパ
口早苗課長、阿部淳課長代理)
六十一年五月、印刷関連機材展〈第九回ドルッパ
六十二年十一月、米国印刷産業研修〈 印刷機械展・於シカゴ〉(山口文三・山中弘一課長)
立勝明課長、秋月和平課長代理)
'82
'86
'80
六十三年九月、IPEX印刷機材展視察〈於英国・バーミンガム〉(斉藤鷹郎課長)
'87
'89
平成二年五月、印刷関連機材展〈第一〇回ドルッパ
渡来正八課長)
平成三年九月、米国印刷事情研修〈PRINT
、於西ドイツ・デュッセンドルフ〉(山本雅俊・
、国際グラフィックアート展・於シカゴ〉(川口衛・
'90
労働災害が発生し、残念なことに五十六年度(五十六年四月~五十七年三月)には、東京労働基準局から
しかし、災害ゼロの実現はなかなか難しく、五十五年には不休と休業日数八以上を併せると一二件もの
示、チラシの配布などによる安全、健康意識の向上をはかる運動を展開している。
全国労働安全週間、七月一日からの全国安全週間には、社長による社内放送での呼びかけ、ポスターの掲
員会を開催しゼロ災害と従業員の健康促進を目指しての活動を行ってきたが、特に、秋、十月一日からの
三晃印刷安全衛生委員会では、毎年の年初に年間を通しての安全衛生活動推進計画を立案し、毎月、委
安全で明るく健康的な職場づくりに寄与してきた。
ような印刷業にとってその業務の性格上、常に意識されるべき問題であり、実際にそうした対応が行われ、
企業にとって人材の確保、育成と同時に従業員の安全・健康への留意も不可欠の事項である。わが社の
広めて帰国した後に、それぞれの部門における業務に生かされていったのはいうまでもない。
また同時に、訪れた国の印刷会社の現場を訪ねての研修も行われ、世界の印刷事情を肌で感じ、見聞を
であり、その実際をつぶさに見ての研修は、極めて意義深いものとなった。
となっている。ここに記したのは、いずれも世界の最先端の印刷機械、機材、技術の代表的な展示会など
小林栄治課長)
。
'91
216
「 安 全 管 理 特 別 指 導 事 業 所 」 の 指 定 を 受 け て い る。 そ し て
飯田橋労働基準監督署の担当官からの指導により改善に向
かったのではあるが、五十九年には再び指定を受けて、副
社長であった主藤敏郎安全衛生委員長の陣頭指揮のもとに
山元悟社長、小泉二郎顧問などによる社内パトロールなど
217 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
も実施、安全対策の徹底をはかった。その結果、五十九年
九月から六十年七月までゼロ災害を実現し、六十年には正
式に「安全管理特別指導事業所」の指定をとかれることと
なった。その後も安全衛生委員会の活動は着実な歩みを続
け、平成元年度には、十月の全国労働衛生週間の記念行事
の一環として行われる表彰事業の折に、「着実な安全委員
会の活動」が評価され、新宿労働基準監督署の署長賞を受
賞、日頃の努力が報いられたうれしい成果であった。
会(牛込消防署主催)では、六十三年に女子三位、男子六
衛消防隊も日頃の訓練の成果がみのり、自衛消防訓練審査
防署の指導のもとの防災訓練を行っているが、三晃印刷自
また、毎年、九月一日には防災の日にちなんで、牛込消
防災訓練(昭和 41 年)
位、平成二年には男子三位、女子優秀賞などを獲得している。
この他、従業員の活動関係では、五十三年に労働組合が結成されている。この組合結成について、当時
の山元正宜社長は、
「いろいろな経緯があったなかで、
現在の三晃印刷労組の運営の形は、私がこれまで、機会あるたびに言っ
てきた、会社と従業員は運命共同体であり、従業員の多くが理解してくれたからだと感謝しております」
と述べ、さらに、
「従業員諸君の自覚によって、穏健な組合ができて労資協調の第一歩が踏み出されることは、会社とし
ても喜ばしい次第であり、今後とも、従業員と会社との信頼関係をより確立させていく必要を、痛感して
おります」
と、労使協調の大切さを説いている。
その後の組合活動には紆余曲折があったが、その経過を示すと、五十八年にスト権確立、六十二年七〇
名脱退、六十三年三〇数名脱退、平成元年二〇数名脱退と脱退者が相次ぎ、十一年には三六名によるスト
ライキがあったものの、この年をもって労働組合の定期大会議案書は配布されなくなった。
また、この間に労働条件などの変更も行われている。まず定年制についてであるが、企業の大半がそう
であったようにわが社の定年も五五歳であり、この時点で退職金の清算はするが、ほとんどの従業員は賃
金を変更したりしてその後も勤務を続けることが多く、その取り扱いは生涯雇用ともいえるものであり、
それがわが社の美風でもあった。五十年代後半になると、社会全体の高齢化や年金問題もあって関係省庁
218
は定年延長を推奨し、わが社でも六十三年四月に五六歳に定年を延長している。
そして、労働条件等では、平成元年に相次ぐ受注増に対応するため、輪転課員の新勤務体制の実施、二
年には休日(祝日・日曜・土休)出勤取扱規定の実施、労働時間の短縮(週四四時間)の実施、時給者制
の廃止、固定残業者の時間外取扱いの変更、さらには、長年続いてきた皆勤者表彰制度も休日の増加、時
間短縮の推進にあたり現実にそぐわなくなったので終止符を打っている。そして三年には、第二作業部の
ベタ勤務を廃止した。これは、交代勤務にあたっては常時作業員が待機する勤務体制としてきたのを止め
て、今後は昼夜勤とも毎週日曜、月曜を休日と定めいっせい休業する勤務体制にしたものである。また、
一日八時間とする所定内労働時間を七時間とし、事務系ブロック男子従業員の一部に導入していた固定残
業制度も廃止している。
こうした一連の改革は、労働時間の短縮に向かっており、勤務体制にも時代の流れが浸透してきている
ことを意味していた。また、この年の九月には、障害者雇用優良事業所として印刷会社としては唯一東京
都知事表彰を受賞していることを記しておこう。
次に、厚生面を含めたトピックスにも触れておきたい。クラブ活動には、フィッシング、囲碁、将棋、
華道などがあり同好の士が集まって勤務後の余暇を楽しみ、社員同士の融和に役割を果たしていたのであ
るが、その中で何といっても、わが社の社技ともいえる野球部の活躍は、対外的にも評価の高いすばらし
いものであった。
前半部分で四十四年の長崎国体出場(東京都代表)などの輝かしい実績を報告したが、五十五年には、
219 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
わが国の産業別代表が覇を競う軟式野球の祭典である白竜旗争奪実業団野球東京大会(後楽園球場)で念
願の優勝を飾り、社内に明るい話題を提供している。
その後、しばらくの低迷期はあったが、六十三年には陣容も整い、明治神宮崇敬野球大会で二度目の優
勝を手にしているのも特筆されるべき快挙だろう。
この他の厚生関係のトピックスとしては、平成元年の「海の家」廃止がある。昭和三十六年に千葉県の
鴨川市に開設し以来二八年にわたって従業員の夏の保養所として親しまれてきた「海の家」だが、社員ア
ンケートの結果、近くにレジャーセンターやスポーツ施設があったほうがよいなどさまざまな意見が出さ
れていた。そうしたことを踏まえて、海の家を発展的に解消し、印刷保険組合や厚生年金などの施設を利
用する際に申請によって補助金を支給する「従業員の施設利用の補助制度」という形で新たなスタートを
することになった。
また、習志野工場では、昭和六十二年から夜中も食堂を開くことにした。夜勤者へ温かい食事を提供す
るためである。本社でも平成二年に二部制夜勤者の便宜をはかるため、最新の温蔵庫を設けている。そし
て三年には、習志野工場近くにある青雲寮の全室にクーラー(三六台)を設置し、快適な寮生活の一助と
した。
これは、厚生施設とは異なるが、平成三年には、第四作業部のオフセット製版関係の業務を消化する目
的で、水道プロセス(株)が創業、二月から二号館三階の旧製版室を改修して業務を開始した。経験豊富
なベテラン揃いで、仕事量も日ごとに増加していることもあって、二号館四階の旧寮室を改造して分室と
220
しての作業室を増設している。
この章の最後になってしまったが、ここで訃報をお知らせしなければならない。
平成元年九月五日、主藤敏郎副社長がくも膜下出血のために急逝されたのである。まだ六六歳の働き盛
りであり、あまりに突然であったので従業員の誰もが言葉を失ってしまった。
主藤副社長は、昭和二十三年三月に入社以来、終始、先代の山元正宜社長の補佐役として会社運営にあ
たり、戦後の混乱期から急成長期を支え数々の功績をのこしてきたのは、衆目の一致するところであった。
七日通夜、八日の告別式は新宿区の田中寺で厳かに営まれたが、生前の威徳を偲んでおよそ一二〇〇人が
お送りをした。告別式では、友人代表である杜陵印刷株式会社社長の大野菊蔵氏より弔辞をいただき、社
員を代表して忠岡義敬専務取締役が弔辞を読み上げ、その業績への感謝と心からの哀悼の意を捧げた。
221 第五章 昭和から平成へ、経営体制も次世代へ
222
第六章
バブル崩壊後の長引く不況に抗して
バブルとはいったい何であったのだろうか。その内容については後に概略するとして、過ぎ去ってみれ
ば日本の社会・経済に大きな後遺症を残した。このバブル崩壊後の長い不況のなかで印刷、出版業界は低
迷を余儀なくされ、そうした中でわが社も決して影響を受けなかったわけではないが、その年度はもとよ
り中長期の展望をもとに慎重な対応をしつつ歩みを続けてきた。本章では、バブル崩壊後の影響がはっき
りと表れ始めた平成四年から、二十世紀の最後の年である平成十二年までを一つの区切りとして、わが社
のさまざまな施策を中心に述べていくこととする。
印刷、出版業界も長期不況への対応に苦慮
日本経済のバブル化は、昭和六十二年二月、パリで行われた先進国蔵相・中央銀行総裁会議での「ルー
ブル合意」に基づいて日銀がとった超低金利政策などが発端となった。企業や個人資金が株式や土地へと
223 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
向かい、高い収益を上げて消費や投資をさらに刺激したのである。
そして、地価、株価の「右肩上がりの神話」を前提とした投機的取引はさらに拡大し、これに金融機関
の積極的な融資姿勢も加わって、投機が投機を生むスパイラル状態で狂騒した。社会全体が過剰な消費を
行い、企業は資産価格の急騰を前提に潤沢な資金を手に入れ、投機的な取引を活発化させたのである。そ
の象徴の一つが株価であった。
六十二年六月には日経平均株価が二万五、〇〇〇円台に乗せ、六十三年十月、
米・欧の株価暴落、いわゆるブラックマンデーの影響で、東証株価も暴落したが、平成元年十二月二十九
日には史上最高値三万八、
九一五円を記録したのである。そうした中で、新たな税制として竹下内閣によっ
て消費税の導入があったのも、
この年の四月一日である。そして、二年十月には原油価格の高騰などもあっ
て株価は二万円割れ、四年八月にはピーク時より約六割も低下したのである。株価の下落と歩調を合わせ
るように地価も急激に下がり、過剰な消費や投資を行ってきた個人や企業は資産デフレの状態に陥り、銀
行は大量の不良債権を抱えることにもなった。そして、バブル後遺症としての八方ふさがりの長期平成不
況へと突入したのである。
不況に強いといわれていた印刷業界もこの影響に抗すことはできず、四年からはマイナス成長に転じた。
八年になってようやく対前年比三%ほどのプラス成長を記録したが、しかし、業界としてはカラー印刷物
のオフ輪支配が強まり、それに対応しきれない中小企業も多く、昭和六十三年をピークに企業数の減少が
常態化した。つまり、バブルとともに印刷産業は、成熟期から、淘汰を伴う厳しい競争時代へと入っていっ
たのである。
224
一方、出版界はどうだったのだろう。バブル崩壊後の不況のもとで、購買力の低下、雑誌の広告収入減
などの影響を受け、四年には、
「朝日ジャーナル」を始め、一二二誌が休刊となったが、それでも売上げ
は前年比四・九%増を記録している。そして、六年には、前年比二・三%増に低下し、戦後で最も低いと言
われた昭和五十六年の一・九%増以来一二年ぶりの低水準となった。その後九年には、対前年比マイナス
〇・九%と初めてマイナス成長を記録し、十二年まで出版界の売上げは四年連続の前年割れが続くことに
なる。
こうした出版界の不況は、出版印刷が大きなウエイトを占めるわが社に対しても少なからず負の圧力と
なり、慎重かつ着実な対応を迫るものであった。
いずれにしても、わが社が関連する印刷、出版のみならず、他の産業分野でもバブル後遺症による先の
見えない不況下でその対応に追われるのであるが、日本経済は、比喩的にいえば、暴飲暴食がたたって内
臓に大きな疾患を抱えた状態になったのである。政府は総需要の喚起を目指してたびたびの大型の景気刺
激策をとったが、それで快方に向かうほど単純な不況ではなかった。マネーゲームのうまみに酔いしれ、
将来必要となる技術開発投資を怠ってきたこと、だぶついた設備、実態をはるかに超えた価格で購入した
土地などの価格低下による債務の増大、健全でない成長を続けてきたツケと毒が一気にまわってきたわけ
で、平成不況はこれまでの不況と違って複雑きわまりないものであった。
こうした激変期にあったわが国であるが、社会はどのように動いていたのであろうか。四年には、天
皇・皇后両陛下が初の中国訪問、毛利衛さんの宇宙飛行、学校の週五日制実施などがあった。五年は皇太
225 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
子ご成婚の儀、プロサッカーJ リーグの開幕、新党躍進で「五五年体制」の崩壊、宮沢喜一内閣総辞職・
細川護熙内閣誕生、六年には細川内閣から羽田孜内閣そして村山富市内閣誕生と政治の世界もめまぐるし
く政権が変わる激動の時代を迎えていた。大江健三郎がノーベル文学賞を受賞するという明るいニュース
はあったが、長引く不況下、大学卒業者の就職難をさして就職氷河期の言葉が生まれたのもこの年である。
そして、七年は、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件という未曾有の不幸な出来事が国民を震撼させた。
また、円高が急進し八〇円を突破するという戦後最高値を記録、統一地方選挙では、青島幸男・横山ノッ
ク両氏それぞれが東京・大阪の知事になった。九年には橋本龍太郎内閣が誕生し、消費税を五%に引き上
げ、不況からの回復意欲を冷やしてしまう結果を生んだ。さらに山一證券の自主廃業、北海道拓殖銀行破
綻などによる金融不安も高まり、十年には金融ビッグバンが始動した。七月に発足した小渕恵三内閣の目
玉として入閣した堺屋太一経済企画庁長官は、従来の「景気停滞」から「低迷」に切り替え、全体動向を「日
本列島総不況」と明快に言い切った。十一年には、自自公連立第二次小渕内閣成立、そして二十世紀の最
終年である十二年には、三宅島噴火で全島民避難、そごうデパート経営破綻、沖縄サミット開催などがあっ
た。
こうして見てみると、およそこの一〇年は、不況への対応に明けくれ、金融界の大激震、予想ができな
いほどの大災害、大事件の勃発、まさにそれは世紀末と悲観的に語らざるをえない歳月であり、わが国の
社会・経済の大きな分岐点の一端を示していることでもあった。
226
長期不況、印刷業務の変容時代における課題への対応
さて、バブル崩壊後の不況下にあった平成四年から、二十世紀末頃までのわが社はどうだったのだろう
か。
二年七月に習志野新工場が竣工し、最新のオフセット四色印刷機の導入もあり、前途への明るい話題も
あったが、長引く不況は、出版、商業分野に少なからず影響を与え、わが社の経営も難しい舵取りを余儀
なくされることともなった。すなわち、五年、六年と売上げが前年比で下落し、七年、八年と売上げは上
昇に転じてはいるが、この四年間は残念ながら赤字決算が続いた。
しかし、九年には郵便番号簿の変更による大型受注の特需もあって、売上げは念願の一〇〇億を超えて
大幅な黒字、続く十年は約一〇億の売上げ減ではあったが、黒字計上となった。そして、十一年はさらな
る売上げ減があり赤字決算となったが、十二年は売上げ減にも関わらず、黒字を計上している。
このように、時代の大波にもまれるかのような業績上の浮沈を繰り返していたのであるが、その背景に
は、不況下、印刷業界の受注競争をめぐっての価格破壊、用紙の値上りなど、仕事量が増えても売上げ、
利益増に結びつかないという構造的な問題もあった。
同時に、中堅といわれる多くの印刷企業が抱えていた印刷方式の変化や、ITの急速な進展に伴う技術、
人材を含めた対応への戸惑いやジレンマが避けられない課題として横たわっていたといえよう。
その辺について、山元悟社長は、四年の年初にあたって、
227 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
「活版整版部門は、
昨年も大きな赤字を出している。それではすぐに止めればいいのでは、となりますが、
その受け皿となる電算がすべて受けられるかというとそうはいかない。活版輪転にも同様のことがいえる。
印刷機を減らしつつ対応はしてきたが、その受け皿となるオフセット輪転機での対応もすべてをこなすに
は無理がある。たとえ赤字部門であってもそれをすぐにまったくなくすことは、受け皿が確実にならない
限り商圏を狭めることになるし、同時にそこに働く従業員の問題も生起してくることになる。しかし、現
実は変えていかなければならない時にきているし、それは存続の基本にもかかわることでもある。
習志野の新工場にしても、オフ輪転四色機をあと二台導入するのが限界である。それにオフセット平台
の老朽化という問題もある。今後更新する場合に、平台の五色機か六色機といった機械の導入によって活
性化をはかったほうがいいのか、オフ輪ですべてまかなうのか、時代の趨勢、わが社の受注状況、そして
今後の受注見通しなどを踏まえての決断の時期にきている」
と、これからのさまざまな対応を予感させる発言をしている。
平成以前は、納期を守り、印刷機のフル稼動を中心に据えたビジネスモデルがあり、それが印刷業成功
の一つの秘訣だった。また、かつては、企業によって印刷の前処理は多様であり、製作期間、品質にもお
のずと格差がでて、それがお得意の需要に対応していた。しかし、コンピューターを駆使したDTPなど
の普及は前処理を定型化させているし、各社導入の印刷機の性能もほぼ同様で、品質の均一化という現実
がある。したがって製造費用の高低が発注を左右する傾向も強くなってきており、結果的に印刷会社間の
猛烈な価格競争を生じさせているのはいなめない。そして、顧客の価格引下げ要求に対してより生産性の
228
高い高速な印刷機の導入などによってコストダウンをはかっていくことになるが、それがさらに印刷会社
間の価格競争を激化させ、利益を圧縮させる負のスパイラルを招いてきているともいえよう。
また、人材についても状況は大きく変わりつつある。かつては、印刷機の音をきいただけでその調子が
わかるといった熟練工の職人的な技の世界でもあり、その技は、見て、聞いて、覚えることを基本とする
面があった。しかし、コンピューター時代に対応する若いスタッフは、つねに先端技術の速い進展の嵐に
さらされている。一人ひとりが、自分で自分を訓練するしかないことも多いのである。その辺に、経営幹
部、熟練工と中堅・若手間との意識のギャップも生じてきているようにも思う。
こうした時代の印刷ビジネスは、生産性の低い設備は売却ないし廃棄し、人材についても削減、合理的
な配置等でスリム化しつつ高度な専門的スタッフと技術の養成を行い、顧客ニーズを確実に把握し実現し
て、しかも利益の出るビジネスモデルを再構築してゆく戦略と戦術が、特にこうした技術革新・不況時代
には不可欠になってこよう。
少し一般論になりすぎたが、これから述べていくそれぞれの施策はわが社固有のものも多いが、こうし
た背景を抜きにしては語れない側面をもっているのである。
さて、わが社は、何と言っても活版の三晃印刷という高い評価を得て急成長してきた歴史がある。しか
し時代とともに、まさに時代の要請を先取りしつつ、オフセットの充実をはかってきたのであるが、その
過程で縮小の一途をたどってきた活版の分野で、五年一月には、活版製版課が解散となった。これにより、
創業の「山元鉛版所」時代から続いてきた「鉛」を使用した業務が、技術変革の中で六五年に及ぶその役
229 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
活版植字台
活版文選室
230
割を終えたことになる。一方、三年三月に新設された
オプチ製版課は、中央公論社の文庫・新書・単行本を
始めとして、新潮社、小学館などの一色製版を担当し
て業務を拡大し、この年一月には業務スペースの拡張
工事が完成してさらなる発展への足がかりを作ってい
る。ここにも、時代の流れ・変化が現れている。
代 初 頭 に か け て 導 入 さ れ た ハ イ デ ル ベ ル グ( 活 版 平
台 印 刷 機 ) が 撤 去 さ れ て い る。 わ が 社 に お け る ハ イ
デルベルグ印刷機の歴史をもう一度ひもとけば、昭和
三十八年中央公論社から出版された『世界の文学』全
五四巻を始め、翌年の『日本の文学』全八〇巻、続く
四十年の『日本の歴史』全二六巻と矢継ぎ早にヒット
を飛ばしたホームライブラリー・シリーズ、わが社は
これらの印刷を一括受注し、その業務に合わせてハイ
デルベルグを次々に増設、多い時には一四台が昼夜兼
行で稼動していたのである。四十年代も半ばになると
231 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
さらに、七年春には、昭和三十年代後半から四十年
ハイデルベルグ印刷機の解体(平成 7 年)
オフセット化時代になり、中央公論社の文庫関連の受注が増えていく中で、ハイデルベルグは徐々に撤去
され、ついに最後の一台が撤去されたことで、昭和二十三年「四六全判ミーレー二回転印刷機」に始まっ
た活版印刷の歴史に幕を下ろすこととなった。
次に人材の問題について記すことにしよう。どんな設備を整えてもそれを活用、管理するのは人であり、
企業にとってまず人材ありきなのは当然である。と同時に人件費は固定費であり、経営にとってその適正
な従業員数の確保は、極めて重要な課題となる。
わが社の場合、活版フル稼動の昭和四十三年の五七九人をピークに、自動化、オフセット印刷に注力す
る中で従業員数は減少に転じた。
山元社長が従業員の高齢化問題への対応を指摘した五十七年は四八二人、
そして、印刷前工程の自動化、電算写植の採用、印刷機のコンピューター管理化などが進展した平成四年
十二月の従業員数は、三七五人体制であった。
こうした中、五年にマッキントッシュが導入されたように、IT技術を核にしたDTPなどへの対応は
必須の事項となり、将来に向けての若い人材の確保、育成をめざしての人事施策もとられ、二〇名から
三〇名で推移していた新卒の採用を五年には四九名と大幅に増加させている。また、こうした大量採用が
可能になったのは、先の見えない不況下で就職氷河期といわれていた社会的背景があったことも見逃せな
い。
一方、長年にわたって会社に貢献してきたベテラン技術者、営業、事務関連の従業員への対応も重要な
課題であった。従来五五歳の定年でいったんすべてを清算し、その後は雇用条件を変更して貴重な技術
232
を生かして働き続けるケースが多かったのであるが、定年延長が時代の趨勢であり、わが社でも、昭和
六十三年に五五歳から五六歳に、平成四年に五七歳、翌五年には五八歳に延長している。
しかし、すでに触れた五年から八年にかけての赤字決算、累積赤字も約八億におよび、固定費の削減を
含めた合理化対策を余儀なくされていたのである。その一つが、定年を六〇歳とし、それをもって雇い止
めとすることであった。この合理化によって従業員四〇〇名の約一割が対象となり三五〇人体制を敷くこ
とになったのである。そして、同時にこの年から定年退職後の生活を充実したものにしていただくための
「生活設計セミナー」が実施されることになった。こうしたところにも、従業員とともに歩むというわが
社の伝統と社風が生かされているように思う。さらに、十二年には、新卒採用を一人に限り、三二〇人体
制で業務を開始、詳しくは後述するが組織の一部見直し、部署の統廃合、新設を含めた合理化によって、
三〇〇人でも対応できる業務体制を作り上げていくことを目指すこととなった。
こうした施策と並行して、新しい業務分野の育成にも力を注ぎ、DTPなどへの投資が増えていったの
であるが、総合印刷企業としての製本の内製化、出版、商業印刷のさらなる受注拡大に向けての着実な設
備投資も行われ続けていた。
六色機導入などでオフセット充実、さらにきめ細かな設備投資の継続
平成に入ってしばらくは、設備投資としてのオフセット化はほぼ終えており、周辺機器の整備や組織の
合理化、DTPなど新たな分野への技術投資を中心にした取り組みがなされていたように思う。ここでは
233 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
両面機(本社)
六色機(習志野)
234
まず、平成七年ごろから受注状況に対応しつつ、再び始められた印刷機の設備投資の進展について年代を
追って見てみよう。
七年には、本社の第二作業部印刷課に、中公文庫等の印刷増に対応するため昭和五十四年に設置された
小森二号機の代わりに、A倍判オフセット平台両面機(三菱重工)が設置され九月後半より稼動を開始し
た。本社に印刷機が導入されたのは、
昭和六十二年のリョービ印刷機(四六四裁一色機)以来のことであっ
た。この当時、第二作業部は、菊全判四色機とローランドA倍判二色機が地下に、本館二階にリョービ印
刷機、昭和五十五年設置の小森一号機、そして今回導入のいわゆる三号機の平台五台の陣容だった。
新台の三号機は、一万回転が可能で、写真、文字の再現性に優れ、しめし水の自動給水装置を備えるな
ど作業性に改善が加えられていて、中央公論社の中公文庫、小学館のコロコロ文庫、双葉社のマンガ文庫
などの印刷に使用されることとなった。
創業七十周年を迎える平成十年は、品質、スピード面での競争力強化に向けた印刷機の見直し、新規導
入の年となった。二月には、習志野工場オフセット課に四六全判六色機(小森コーポレーション)が導入
されて稼動、初仕事は発行部数二〇〇万部に達しようとする小学館の「コロコロコミック」三月号の表紙
六色面であった。この印刷機はまさに最新鋭機であって、給紙関連センサー、インキ供給の調整最適化シ
ステム、印刷部関連の調整遠隔装置用システム、刷版自動交換装置などを備え、品質の向上及び時間・経
費の節減などの面で、その期待は極めて大きいものがあった。この際に老朽化した平台、オフ輪各一台が
撤去されている。
235 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
一方、本社工場でも、平台、活版輪転機を各一台撤去し、新たに、四月にB横全判活版(凸版)輪転機
及びこの輪転機に対応するAPR樹脂版機、同時にコンピューター制御による刷本のパレットへの積み上
げ作業用パレタイジング・ロボットを設置している。
この活版輪転機の導入について山元悟社長は、
「活版輪転機については、
廃止の方向で縮小してきたが、時代が変わってきて、高品質の印刷物はオフセッ
ト輪転機で、それ以外のものは活版輪転機でというように二極分化してきて、活版にも道が開けてきた」
と、その見解を示している。
そして十二月には、中央公論社の中公文庫の表紙印刷を主な目的とした菊半裁単色機が導入され、一方、
菊全判四色機、リョービ機は年内に撤去されることとなった。
また十一年七月には、習志野工場に、A判四色オフセット輪転機を導入。昨年の六色機に続いての導入
で、従来外注していた「コロコロコミック」の表紙、カラー頁の社内生産が可能になったのである。年代
は前後するが、九年四月号で、
「コロコロコミック」は発行部数が過去最高の一三八万部を達成、創刊号
より携わっているわが社へ編集部より感謝の言葉がよせられるという嬉しいできごとがあった。担当させ
ていただいている製品が部数を伸ばし成長していくことは、現場で作業に当るスタッフにとっても大きな
喜びであり、印刷にたずさわるものの醍醐味といえよう。
ここで、当時の習志野工場の印刷機、及び関連設備の設置状況についても触れておこう。
十一年の新台導入に併せて、平台一台、FBR1 号機を撤収し、平台印刷機一台(四六全判六色機)、
236
輪転機七台(今回導入のAT四色機一台、A倍判二色機二台、B判一色機一台、B判二色機二台、B判四
色機一台)での作業となっている。
そして、
刷版を始め、
印刷の高速化、
精密化に対応するための機械化も急テンポで進められ、五月には、「全
自動堅型殖版システム」を導入、
原稿フィルムの自動交換装置を搭載しているためスピードと精度に優れ、
刷版業務の操作性と汎用性に貢献している。また、「全自動見当合わせ機」も設置、殖版時に最も熟練を
要し効率化が難しかった作業の合理化を実現した。さらに、自動トンボ描画及び自動見当装置レジスター
マーク瞬時焼込光源装置「ニューオートデバイダー・スーパーライト」の設置により、作業効率、経済効
果が大幅にアップしている。
こうしてみると、この時期は、老朽化や受注状況によって撤去された印刷機も多く、まさに印刷機の見
直し、入れ替え時期であったことがわかる。
この他にこの当時に設置された業務の効率化等に向けての主な設備として、第三作業部には、三年二月、
三台設置された電子編集システム・スミエディアンが四年四月に三台増設され、そして、六年三月、オフセッ
ト製版課に平面スキャナ「ラックス四五〇〇」(フジフイルム社製)、七年六月、電算写植課に写研の出力
機「サプルス三一〇」
、習志野工場には十二年三月、ポーラ一三七E型デジタル高速裁断機等の導入があっ
た。
237 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
DTPの導入と業務の進展、設備投資も急増
DTPの登場は、印刷界にとって技術革新という意味では、革命的な出来事だったのではないだろうか。
印刷のプリプレス(前工程)をパソコンとその周辺機器によって行ってしまうことは、写植などの分野を
浸食し、不要にすらしてしまうからである。
DTPの歴史はそれほど古くなく、昭和六十年、アメリカのアルダス社社長、ポール・ブレナードによっ
て「パソコンで出版物の作成」が提唱されたことに始まる。そしてその中核になったマッキントッシュの
登場は昭和五十九年のことで、日本でDTPが注目され普及し始めたのは平成に入ってからである。
わが社でもその動向にはつねにアンテナを張り、DTP とプリプレスの新しい関係を模索、対応のタ
Quadra
イミングをはかっていた。営業第二部企画開発課制作室(平成六年、営業部製作支援室に名称変更)に
マッキントッシュが導入されたのは、平成五年九月のことで、機種はその年に発売された最新鋭
二台であり、周辺機器としてスキャナ、モノクロプリンター、そしてソフトウェアは、クォークエ
800
クスプレス(DTPソフト)
、イラストレーター(画像作成ソフト)、フォトショップ(画像処理ソフト)
であった。その後、技術習得の研修に入ったのであるが、印刷業界の流れとしてもDTPへの対応はもは
や不可欠のものとなっていた。
七年十月には、約二〇時間にわたって外部からトレーナーを招き、第三作業部部長・川勝勲、電算写植
課課長・千葉忠孝、オフセット製版課課長・大滝力を中心に他五名が参加して、ソフトの操作、使用技術
238
についての研修を行った。研修の目的は、
「営業の受注拡大のための準備トレーニング」と「前工程(特
にオフセット製版)におけるデジタル化の推進」の二点に絞られた。当時、すでに文字情報はフロッピー
ディスク(以下FD)原稿、画像(写真等も含んだ情報)についても、マックを中心としたDTPの活用
を大手出版社を始めさまざまな得意先がいろいろな形で取り組み始めており、それらのデジタルデータ処
理の工程がまだ社内に十分には整備されておらず、営業の受注に支障をきたす状況も生まれつつあって、
緊急の対応が迫られていたのである。
このデジタル化がさらに進展すれば、印刷の前工程のみならず、デジタルのノウハウは、印刷現場に直
接影響を及ぼすのは確実なことであった。アメリカでは、すでに九五%の写植会社がなくなっているとい
うデータもあった。
そして、本格的なDTPスタートに向けて、マック関連システムを新館四階に新設するのに併せて、他
の階に設置されていたワークステーション・エディアン、平面スキャナなど必要設備を新館四階に集結、
入力から出力まで一貫したデジタル処理を可能にする措置がとられ、さらに、本館三階の旧活版整版課の
一部もOAフロアーに改装、加えて、本館三階と新館三階を結ぶ通路も設置された。
こうして、設備の導入、引っ越し、それに伴う改修工事も終了し、八年一月にDTPの本格的な業務が
を設置、画像入力装置として
PC9821
を本館より移動。これにより、画像データ・
LuxScan
一気にスタートしたのである。システム構成は、パワーマッキントッシュ八台、文字データのFD入稿・
加工装置として
編集済みデータのMO入稿、カラー分解原稿入稿、文章データのFD入稿が同じフロアーで同時進行での
239 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
処理が可能になった。
出力装置は、モノクロプリンターのマイクロラインと、カラープリンターは
カ ラ ー( カ
FUJIXEROX/A
が導入設置されて
DT-R2065
ラーコピー兼用)を設置し、デジタル化された情報を紙面上で確認するための出力用として活用、加えて、
完成した情報を印刷用のフィルムとして出力するためのイメージセッター
一貫したDTPラインとなり、従来の写植・版下・レタッチの工程を、マックを中心としたコンピューター
でデジタル情報として処理する体制が確立した。スタート時のスタッフは六人、対応する業務は、デジタ
ルデータの受注、デジタルデータのカラー及びモノクロ出力、画像データのMO提供、画像データの貼り
込み、画像の切抜き、完成データのフィルム出力及び印画紙出力等であった。
以上がDTPスタートの概要であるが、この平成八年は、第三作業部にとって、まさにデジタル元年で
あったといえよう。この間には営業部・生産業務部など関連部署のスタッフへの説明会が行われ、全社共
通の認識とノウハウの習得に努めている。その後も同様であった。
そして、最初の製品が三月二十日発行の双葉社『スーパーファミスタ5必勝攻略法』であり、続いて小
学館のファミコン攻略本、学習研究社の「トップラン」、商業印刷部門のカタログ、パンフレット類、創
刊された中央公論社の『中公PC 新書』などである。さらに七月十五日発行のセガサターンのゲームソ
フト対応本『ナイツ攻略ガイド』の受注制作では、奥付に印刷所・三晃印刷株式会社に加えて、「 Digital
」とあるように、従来の製版・印刷とは別の業務のクレジットが記
Prepress SANKOU PRINTING CO.,Ltd
されている。印刷業務における新しい時代の到来であった。
240
時とともに受注が増える中でマック二台を増設、以前は外注に頼っていたデジタル入稿もほぼ社内で対
応できるようになった。しかし、増加を続ける受注量と得意先の多様なニーズに応えるには現状では限界
があり、増設、新設を含めてのシステム増強が急ピッチで進められることとなる。
ゲーム攻略本シリーズを中心にスタートしたわが社のDTPであるが、九年には、雑誌、書籍、写真集、
カレンダー、パンフレット等の受注が増加、特にカラー印刷物の増加が目覚ましかった。十年には、創刊
以来担当させていただいている「週刊大衆」が十一月十六日号より全頁デジタル化されている。
十二年時点での設備は、スキャナ六台、編集用マック二一台、エディアン・プラス六台、B4ワイド及
びA3 ワイドカラーレーザープリンタ各一台、A0(A倍判)ワイドカラーインジェクトプリンタ二台、
B4ワイドモノクロレザープリンタ三台、A1ワイドモノクロレーザープリンタ一台、A2、B2、B1
ワイドフィルムセッター各一台、B2ワイドデジタルコンセンサス一台であった。そして六月には新館四
階に加えて、新館二階(出力室)
、三階(オペレーションルーム)にDTP フロアーの拡張工事が完了。
工事完了に合わせてプレートセッター(校正刷・本機刷兼用の刷版出力機)及びデータエラーをチェック
するデジタル検版機が新たに加わり、これによりデジタルの機械設備は一応すべて整ったことになる。プ
レートセッターを使用すると、従来DTPデータをフィルム出力してから校正刷、あるいは本機刷の刷版
に焼き付けていたのであるが、DTP データからフィルム出力せずに直接刷版を出力すれば(CTP )、
作業工程が一つ削減され、納期の短縮、トータルコストの削減につながる。
また、二月にはDDCP(デジタルコンセンサス)が導入されているが、八月にグレードアップして、
241 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
242
刷り物と区別がつかないほどになっている。さらに、八月
には、本館二階の営業部と三階生産業務部に基幹系のネッ
トワークを敷設した。
DTPの推進とその展開は、現在のデジタル化に繫がる
大きな意味を持った。このDTPの立ち上げに当時の第三
作業部長であった川勝勲(現・取締役習志野工場長)とオ
フセット製版課課長として参加し、十年以後はデジタル化
推進の責任者の大滝力(現・取締役)は、
人材的にもパソコンが一般にも普及し、パソコンに強い
によいタイミングであったと思う。
一波が去り、第二波の直前でスタートした形になり、非常
になったのだが、今にして思えば、マッキントッシュの第
時を同じくして大きな受注があり、一気に推し進めること
ミングをはかっていた。幸い、パワーマックが出るとほぼ
トッシュの情報を見据えながら、導入に見合う仕事のタイ
という思いはあったが、準備におこたりはなく、マッキン
「DTP の導入については、業界状況からして遅れ気味
CTP
理工科の大卒者を容易にスタッフに加えられる状況にあった」
と導入の事情について語っている。
このように、わが社においても、時代の技術革新の進展を視野に入れつつDTPからCTPの導入、社
内ネットワークの敷設などを含めて堅実な取り組みを行い、対応していったのである。そして、十二月に
は社内LANもスタートしている。
組織の合理化、内製化などによる経営基盤の整備に向けて
長引く平成不況下にあって、産業界、出版業界の低迷と商品価格低下の圧力は、印刷業界にも及び、前
述もしたようにわが社も売上げの前年割れに見舞われたり、当期損失の計上を余儀なくされることなどが
生じてきていた。そうした中で、新設を含めた部署の統廃合を軸にした組織改革による合理化、スリム化
や、製品の内製化などによる安定経営への基盤づくりが行われている。
まず、組織の改革についてであるが、その具体的な内容について、年次を追って見てみよう。
四年四月には、第二、第三作業、習志野工場の生産進行及び協力工場を統括管理していた第四作業部に
ついて、作業の効率化と人員配置を見直し、六課制から三課体制へと統合している。また、輪転課設備機
械の減少に伴い、第二作業部作業管理室を廃止し、同室を輪転課に統合した。さらにこの年十月、これま
で十一月三十日だった決算期を十二月三十一日に変更している。
五年七月には、上記の第四作業部の名称が生産業務部に変更され、併せて第四作業部の検版係と営業第
243 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
一部校正係の合併によって校正課が新設され、四課体制となった。これは、他の印刷会社では業務統括、
生産管理と呼称されている部門で、対外的に誤解を招くことがあったための措置であった。同時に各課の
名称も変更され、製版課、印刷製本課、業務課、校正課となった。このように、組織は生き物であり、技
術革新に伴う業務内容、環境の変化により形を変え、人員構成も変わっていく。そして同年十月には、主
藤泰郎営業本部長を責任者に新しい部署としてセールスプロモーショングループ(SPグループ)が誕生
している。これは役員直結のセクションで、新たな営業展開の可能性などを研究実践し、情報産業の担い
手として、将来への道を拓くことを目指してのことであった。
七年四月にも社内機構の改革が行われている。管理部資材課並びに用紙課を統合して購買課とし、第二
作業部輪転倉庫課は廃止、輪転課に統合された。また、習志野工場刷版課も廃止されてオフセット課に統
合されている。そして八年十一月には、管理部と総務部の統合が行われて総務部となり、その組織構成は
総務課、人事課、購買課の三課となった。
九年は会社組織、諸制度の見直しの年となった。組織変更としては、三月に計算部を経理部計算課とし、
作業部関係では、第二作業部と第三作業部を統合して作業部という大きなくくりとなり、その下に輪転課
と樹脂版課の統合による輪転樹脂版課、オプチ製版課とオフセット製版課の統合によるプロセス技術課、
それに印刷課、CTS課(旧電算写植課)の四課体制となり、生産業務部の業務課も廃止されている。
そして十年七月、
前年の売上げ一〇〇億円を踏まえて、同様の実績を目指して、営業部の改革が行われた。
すなわち、従来の第一部出版印刷、第二部商業印刷の体制から、出版印刷へのきめ細かな営業体制を敷い
244
てサービスの向上と受注の拡大をはかるために、第一部を
二部制とし、商業印刷を第三部とする営業三部制が実施さ
れた。また、習志野工場は、この年、管理課、刷版課、印
刷課、輪転課の四課体制で業務の遂行にあたることになっ
た。
好況から不況へ、度重なる部署の統廃合、新設は、この時
代が旧秩序から新秩序への変換期であったことを示してい
るといえよう。これは、わが社のみならず、社会全体にも
いえることであった。
また、機構改革と並行して、経営的視野からの施策もい
ろいろ行われている。七年には、前二年の損失計上もあっ
て、営業体制の見直し、業務の効率化、適正な人員配置な
どを骨子とした経営再建三か年計画がスタートしている。
具体的には、これらの措置を通して、初年度四%の成長を
目標にし、三年目には単年度での黒字を確実にすることを
目指すものであった。そして、九年一月、合同課長会議に
245 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
以上が主な機構改革であるが、昭和から平成へ、そして
郵便局への給与振込手続き(平成 10 年)
246
て、「三晃印刷経営計画」が確認され、全従業員にその内
容を配布、全社一丸となっての取り組みの徹底が求められ
た。その内容は、①平成九年赤字ゼロ、②売上目標四%増、
③三五〇人体制の確立、④品質管理の徹底、⑤経費・残業
の削減、⑥コスト意識の徹底、であった。と同時に、経営
計画の一環として、品質管理の徹底を目指した業務改善委
員会を畑野州彦生産業務部長(現・常務取締役)を委員長
として発足させ、それぞれの部署における十分な注意を喚
起している。さらに十一年一月には、本社会議室にて、全
管理職に対して平成十一年度経営計画が発表され、スロー
ガンとポスターを社内各所に掲示した。その内容は、「無
駄 を 省 く!
信 頼 を 得 る!
利 益 を 出 す!
今年が正念
場!」であり、全従業員の努力で実績向上を実現していこ
うという強い呼びかけであった。
いる。八年五月には、主に営業部、生産業務部の若手従業
のにするための管理職、従業員研修、も並行して行われて
一方、こうした機構、経営計画の策定をより効果的なも
スローガン
員を中心に「用紙・印刷・製版」をテーマにフォローアップ研修実施、同年八月には、当時の山岸保男習
志野工場長、新井彰営業本部長を始めとした全管理職三一名が二班に分かれ幕張の海外職業訓練協会(O
VTA)にて橋本喜博氏を講師に、
「管理職とはなにか」というテーマで宿泊しての管理職研修を行った。
この研修は九年一月、二月にも「リーダーシップと人材育成」「意識改革」をテーマに同場所、同講師に
より二泊三日のスケジュールで行われ、十年十月にも「利益・成果を上げる」のテーマで引き続き実施さ
れている。
また、十一年五月、六月には、冬季賞与の新たな考課制度の導入に伴い、査定にあたる管理職の考課者
研修訓練が行われた。
業績アップ、利益体質への施策として、この時期には他に製品の内製化の問題がある。DTPへの取り
組みもその一環であるが、六年六月には懸案であった製本工場が本稼動を始めている。五月から製本機設
備一式が設置され、調整、テストを経ての業務開始であった。運営はグループ会社、水道プロセスで行う
が、これでわが社は、企画・印刷・製本まで一貫して社内で生産できる総合印刷会社として、さらに一歩
前進したことになる。
一方、期待をもって新設された部署も、時代の経過とともにその役割を終えて閉鎖されていくものもあ
る。昭和五十七年の新社屋建設時に作られ、翌五十八年から営業を開始していたスタジオが、平成十年
十一月末をもって閉鎖されすべての設備が撤去されDTPの部屋として生まれかわった。これなども時代
の流れがもたらした一つの象徴であろう。
247 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
製本工場(平成 6 年)
DTP への取り組み(平成 8 年)
248
そして、十一年十二月に、川勝勲が取締役習志野工場長に昇格、また、十二年四月には、山元正宜(初
代の孫にあたる)が入社、常務取締役に就任し、若い感性と実行力をもって、わが社の将来に向けて経営
陣の一翼を担うこととなった。
ゆとりある業務体制や安全で健康的な環境整備にも格別の努力
この時期、社会一般の企業でも、労働時間の短縮、フレックスタイム制、休日の増加など勤務条件の緩
和が時代の潮流であった。印刷業は納期がきっちり決められており、入稿の遅延などへの対応などさまざ
まな難しい条件がつきまとうが、わが社でもできる限り時代の流れに沿った働きやすい職場づくりの措置
がとられている。
平成四年四月には、大きな休日取扱い変更があった。土曜日の休日が月三回となり、現業部門は祝日を
休日へ。さらに夏休み制度の導入、年末休暇も一日繰り上げて二十七日からとなり、一月四日までの九日
間となった。また、二部制夜勤は四日出勤制に変更された。これに先立つ二月九日には、NHKの「イブ
ニングネットワーク」の中で、労働時間の短縮に取り組んでいる企業として過去二年間の経過とその実績
が紹介されたりしたが、五年後の九年一月には、所定内労働時間は七時間から七時間三〇分に、そして同
年七月には八時間へと一般企業並みの労働時間に改訂された。
従業員の事故防止と健康的な職場作りを目指す安全衛生委員会の活動も、毎年七月の「全国安全週間」
の標語、ポスター募集と表彰をピークにふだんから地道な活動を続けており、その成果もあってわが社で
249 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
250
の事故は減少傾向をたどり、四年には一年間ゼロ災害
が達成された。その後も努力を続け、十一年七月には、
日頃からの労働災害防止活動に対して、新宿労働基準
監督署から「継続事業場賞」を授与されている。
総合防災訓練は毎年行われているが、自衛消防隊も
着実に訓練を積み重ね、四年には、牛込防火管理研究
会主催による「自衛消防隊訓練大会」で男子隊が念願
の初優勝を飾った。牛込地区には、大日本印刷市ヶ谷
工場、フジテレビジョン、トーハンなどがあり、そう
した中での優勝は高く評価されていい。
事完了、七年六月、社宅一号棟の給水管本管取替え工
てみると、六年二月、習志野社宅五号棟の外壁補修工
着実に進められていた。いくつかのトピックスを拾っ
また、従業員が快適に業務に専念できる環境作りも
かつてない快挙も成し遂げている。
隊準優勝、九年にも男子隊優勝、女子隊準優勝という
七年、女子隊が準優勝、八年には女子隊優勝、男子
自衛消防隊優勝
事、八年五月、本社本館三、四号館の外壁工事・空調
機薬品洗浄工事・営業第二部改修工事・絶縁油入替工
事等を完了。七年七月と十年一月には食堂設備の改善・
施設等の補修改修工事、本社食堂リニューアル(委託
先の変更)などがあった。
野 球 部 は 最 後 の 公 式 戦、 文 京 区 大 会 の 優 勝 を 花 道 に
五一年間の活動に終止符を打った。野球部の活躍につ
いては、その都度、報告してきたが、昭和四十四年の
東京都代表での長崎国体出場、六十年の白竜旗争奪実
業団野球東京大会二回目の優勝、最近でも平成八年か
ら十年までの全国印刷工業健康保険組合主催の全印健
野球大会(略称)三連覇など、その歴史は輝かしいも
ので、全国に三晃印刷の名を喧伝する役割を十分に果
たしてくれたのである。諸般の事情による活動中止で
はあったが、ライバルからもその活動の終了を惜しむ
メッセージと感謝の言葉が寄せられたのであった。
251 第六章 バブル崩壊後の長引く不況に抗して
そして、極めて残念なニュースだが、十一年十月、
明治神宮崇敬会優勝(昭和 44 年 8 月 6 日)
第 33 回実業団野球東京大会優勝(昭和 60 年 5 月 23 日)
最後の胴上げ
252
第七章
デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
平成十三年(二〇〇一年)
、いよいよ二十一世紀を迎えた。この章では、IT革命とも言われた技術革
新とメディア多様化の中で、プリントメディアとしてわが社が八十周年を迎えるまでの足跡をさまざまな
施策、措置を通して物語っていくことになる。インターネットの隆盛などプリントメディアにとっては負
の影響が大きいとされる環境に抗しての歩みである。
出版の低迷、印刷価格に下落圧力の逆風
平成十三年は、プリントメディアにとって、難しい時代を予感させる出来事が年初からあった。一月に
は国家の施策として、IT戦略本部の始動があり、四月に小泉純一郎内閣が誕生しているが、すぐさま「小
泉メールマガジン」を創刊したのである。
こうしたことに象徴されるように、時代はさらにIT化の速度と広がりを増していた。そうした中、
「平
253 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
成十三年工業統計産業編」によれば、印刷業は同年、それまで八兆円台で推移していた出荷額がついに
七兆円台に下落し、十五年には日本経済の実質GDPが三%近い伸びを示したにもかかわらず、印刷業は
前年比四・五%減で、六年連続マイナス成長となった。
わが社がメインにしている出版物の販売額も、同年に七年連続のマイナス成長となり、印刷業各社には、
不況下ということもあっておしなべて顧客からの値下げ圧力が強まり続けていた。
こうした値下げ圧力に対して、中堅企業の多くはDTPの導入によるプリプレスのコストダウン、新鋭
機への入れ替えなどによる設備の更新、人件費を含む製造原価低減などによる対応の努力を続けてきたの
である。すなわち、プリプレスにおける工程短縮、印刷・後加工における準備時間の短縮や省人化などが、
印刷物生産のスピードアップ、生産性向上に大いに貢献し、低価格、短納期化への対応を可能にしたといっ
ていい。
しかし、DTPなどによるデジタル化がスタンダードになり、印刷機などの自動化もほぼ到達点にきて
いる現在、受注競争などによるこれ以上の値下げ圧力への対応は、極めて難しい課題となってきていると
いえよう。
さて、ここで、こうした業界事情の背景になっている社会経済事情についてもその概略を記しておきた
い。
日本経済は、バブル崩壊の後遺症ともいえる長引く不況の谷からなかなか這い出せない状態が続いてい
た。年による多少の景況の浮沈はあったものの企業の業績悪化によるリストラが常態化し、賃金カット、
254
倒産も多く、消費は冷え込み、十三年には、失業率が初の五・三% を記録した。そして、十五年四月に産
業再生機構が発足し、六月には、大手金融機関、りそなグループへの一兆九、六〇〇億円にも及ぶ公的資
金の注入を政府が正式に決定している。消費者物価は四年連続下落し、デフレスパイラルに陥ったとも
いわれた。十六年には、カネボウが産業再生機構により再建開始、ダイエーが産業再生機構に支援を要請
しているが、好調な輸出などもあって企業収益は上向きの動きが明らかになってきていた。この上向きの
動きが雇用や消費マインドに波及し、民需が拡大するなど不況脱出、景気は回復へと向かったのである。
この流れは十七年になってさらに鮮明になり、業績好調な企業による設備投資の拡大、個人消費の伸長、
株価も着実に上昇カーブを描き、つづく十八年もほぼ同様だった。また、この年の一月には携帯電話が
九、
〇〇〇万台を突破するといったトピックスもあった。
企業体質の強化に一層の注力
今、印刷各企業は、大きな転換期にある。プリントメディアに肩を並べるように、IT技術を駆使した
さまざまな情報発信手段が進化し、印刷という技術産業は社会の中でその比重を相対的に低下させつつあ
るとされているからである。こうした背景のもと、顧客企業の発展に伴う情報量の増大が、そのまま印刷
物の伸長につながり、売上げ、利益の拡大へと連動していくパターンは崩れてしまってきているのである。
特にすでに触れたようにDTPを始めとした生産プロセスのデジタル化、コンピューター化は、それぞれ
企業の印刷工程における独自性と品質の優位性などを均質化し、受注の持続性、価格の安定性すら保証さ
255 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
れなくなった。そうした中で生き残っていくためには、激しさを増す価格競争に打ち勝つための自助努力
しかない。もちろんわが社も例外ではない。
わが社は、平成八年のDTPの導入や、生産性の高い印刷機を始めとした最新設備の増強、それに伴う
組織改革による合理化、適材適所の人材のシフト、そして経費削減への努力などによって対応してきた。
年度経営計画に基づき、売上げの拡大を目指すのは当然として、たとえ、それが十分にかなわなくても利
益を計上できる経営体質への転換がはかられている。
十二年度から十六年度まで、十四年度前年比プラスはあったが、売上げは明らかな低落傾向にありなが
ら、着実に利益は計上している。その間に組織はスリム化され、従業員数も十二年の三〇〇名体制から、
十七年には二六〇名弱に減少している。しかし、十七年度、十八年度には、残念ながら売上げの減少とと
もに損失決算となった。
こうした過程をみてみると、縮小均衡、利益重視のバランス指向には限界があり、それなりの売上げの
拡大がなければ利益の確保も難しくなっている、というのが現実である。
売上げの低落傾向を踏まえて、山元悟社長は、十六年一月一日付で主藤泰郎常務が専務取締役、新井彰
取締役営業本部長が筆頭常務(営業担当)に昇格した際に、
「会社のナンバー2とナンバー3 が営業出身ということは、売上げ確保が至上命題であるということで
す」
と述べていることでも、その意とするところが汲み取れる。
256
こうした過程で、わが社では、新たな企業体質の強化という視点での措置を講じてきた。
その一つが、以前からつねに行われてきたことではあるが、従業員の研修の強化である。特に八年から
は、現在に至るまで、全管理職、及び中堅従業員への徹底した研修による業務における意識改革、レベル
アップなどが指向されている。印刷そのものに関しては、課題である平均的受注量に合わせた機械設備の
効率的な活用と人員シフトのための専門的な技術とリーダーシップの養成、それと営業部、生産業務部な
どの業務における営業生産性の向上と無駄を出さない管理能力の養成、さらには、顧客のパートナーとし
て、最も有益な印刷とデジタル技術などをパッケージにして企画、提案できるだけの知識とノウハウ、ス
キルの育成である。つまり、従業員の働きがい、豊かさにも繫がる企業の成長発展は人材にかかっている
という基本にかえっての取り組みといえよう。
また、十五年には、営業部が一部から三部まで本館三階に引っ越して、同フロアに統合、業務を開始し
ている。これによって営業部間のコミュニケーションも円滑になり、連絡事項などにおける時間の無駄が
はぶけ、スムーズな情報交換による営業活動の活性化も期待できる体制となった。そして、十七年には、
生産管理システムを更新し、営業担当者が直接パソコンによる予定表、発注書、発注伝票などのデータを
入力、作成することが実施され、これにより原価管理システムの導入に向けての態勢が整った。
情報施設面では、六章で、十二年十二月から社内LANがスタートとのみ触れたが、十三年に入って本
格的な活用が始まっている。すなわち、総務・経理・営業・生産業務・習志野工場に設置したパソコンを
通信回線で接続し、メールやインターネットを通して社内外との情報交換が瞬時に行えるようになったの
257 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
である。また、これを契機にホームページを立ち上げ、人事採用、企業PRなどへの活用の道が拓かれて
いる。
このLANの設置によって、
「メールによるスムーズな営業活動の推進」「パソコンの表計算機能を使っ
た管理資料・見積書等の作成(事務の効率化)」「将来に向けた高度な情報技術の習得・蓄積・活用」が可
能になった。
さらに、これまで培った知識、技術を生かし、デジタル関連の新たな業態の開発、導入も行っている。
十三年四月の漫画システムの設置である。
は本来アナログ製版の電子化用に作られたモノクロからカラー物
AVANAS
でゴミ取りをし、柱・ノンブルをセット位置に貼り込みアミフセ、白ヌキ等の
AVANAS
これは、アナログ製版で使用する印画紙、漫画の原画等の反射原稿をスキャナで読み込みデジタル化し
て、電子編集機
製版編集をするシステムで、
にまで対応できる高性能編集機なので、線画や在版及びマック等での重いデジタルデータの作業の処理が
可能なのである。スタートしてしばらくは、コミックやオプチ製版課からの書籍が主体だったが、その後、
漫画のネーム入力からのフルデジタル化も完成、完成データをフィルム、またはCTP等で出力し印刷に
渡すのがその工程である。
( ア バ ナ ス、 ソ フ ト・ マ ル チ ス
AVANAS
一台、モアレ軽減・倍率可変ソフトにコピードットツールキッ
NP-S600
スタートしてから営業努力により徐々に軌道にのり、およそ二年後の十五年六月時点でのシステムをみ
ると、一色線画平面入力スキャナ
ト一台、データを保存しておくサーバー(584GB)、編集機
258
吹き出し内に文字を組み込んでいた活版時代の版づくり
ディスプレイ上で版下作成ができる DTP
259 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
タジオ
)七台、
普通紙出力用レザープリンター一台、フィルム出力用セッター( FT-R5055
)を設備し、
v2.2
スタッフも社員四名、アルバイト四名(平成二十年現在)であり、その成長ぶりがうかがえる。
主な受注としては、漫画の定期物として「六年の学習」(一折)、「漫画大衆」「漫画大衆DX」「漫画大
衆スペシャル」
「スロマンガコミックV7」
「スーパーロボットマガジン」「MFBドラえもん」「アクショ
ンコミックス」四コママンガ等に加えて、
『日本の中世』(中央公論新社)の一色、四色の雑誌・書籍類等
で、その仕事は多岐にわたっている。
既述のように、時代とともに変転する技術、受注構造にわが社も変わり続けて対応してきた。近年のI
T技術を始めとした激しい時代の変転、それは、新たな業態を生み出していくものでもある。変わり続け
ようと努力し、それを実現している限り企業の生命力は継続していくものだと思う。
わが社ではこうしたことを踏まえ、創業者・山元正宜先代社長の経営理念のベースの一つになっていた
「全員経営」の精神と企業としての原点を見つめ直しつつ、心を一つにして次代に向かっての発展を期そ
うと、十六年に会社の指針となる「社是」を発表した。
【社是】
従業員の物心両面に亘る幸せを追求し
併せて
世のため人のためとなる企業でありたい
260
活版輪転五〇年の歴史に幕、印刷機も世代交代へ
わが社ではつねに印刷にかかわる時代の潮流と受注内容の先を見通し、着実な設備投資を行い、業容の
拡大をはかってきている。過去に発展を支えてくれた活版印刷機が徐々に退場し、最新鋭のオフセット印
刷機がそれに入れ替わって今を支えているのである。ここでは、この時期の印刷機等の設備投資とその役
割について年代を追って記しておきたい。
まず、
十三年の年末から翌一月には、
十年に本社に単色刷専用機として導入された活版輪転機( BY-1000
)
を習志野工場に移設、キーレスに改造して二月から本格稼動させた。このキーレス機は「週刊大衆」を始
め「漫画大衆」
「パパラッチ」などの印刷に使われることとなった。それに伴い、昭和四十年代から「週
刊大衆」や「週刊漫画アクション」の印刷で活躍していた本社本館一階の活版輪転機一台がその役割を終
えて撤去された。そして、十三年十月には、本社に菊半裁二色オフセット印刷機が導入されている。
十五年八月、習志野工場では、最新機能を備えた一色専用機、B横オフセット輪転機(略称BYS、東
京機械製作所製)が稼動した。初仕事は、
学習研究社の「パスライン」であった。この新機の導入に伴い、
昭和四十四年十月にわが社にとって最初のオフセット二色輪転機だったBOR1号機が撤去されている。
このBOR1号機はスタート間もない習志野工場で、オフセット輪転機の経験者が一人もいない中で苦労
して稼動させたものであり、当時を知る人たちにとって思い出深い機械であったが、こうして役割を終え
たのであった。
261 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
そして、十四年九月末日をもって、
「週刊漫画アクション」の休刊もあり、本社に残っていた二台の活
版輪転機は廃棄となった。昭和二十八年に活版輪転機が初めて導入されてから五〇年、ついに活版印刷の
歴史の幕を閉じたのである。同時に、輪転樹脂版課の業務もこれで終了となった。
印刷機の世代交代に長い間かかわってきた当時の山岸保男取締役作業部本部長は、
「活版輪転機で培われた折機の修理・調整・技術・電気設備などの管理技術は、オフセット輪転機へと
受け継がれしっかりと根付いています。時の流れは致し方ありませんが、最後まで活版輪転機・樹脂版の
業務に携わられた皆様に心より感謝し、ご苦労様を申し上げます」
とその労苦へのねぎらいの言葉を述べている。
十七年九月にも習志野工場で新台への更新があった。ATW2号機、BOR4号機が撤去され、A倍判
オフセット輪転機(一色機、東京機械製作所製)が同月より本格稼動となった。印刷速度毎分五〇〇回転
で従来より約四〇%の能力アップである。
さらに十九年四月には、習志野工場でB判四色オフセット輪転機を更新、五色機を導入した。これによ
り、一〇〇万部を誇る小学館の少女雑誌「チャオ」などの五色刷りの口絵の印刷も可能になり、今まで外
注していた仕事の内製化を実現し、売上げ、利益の向上に直結することが期待でき、今後の新たな受注に
も結びつく積極的な設備投資であった。
業務の拡大に伴いデジタル関連への設備投資加速
262
今まで触れてきたように、近年の印刷企業の技術的な側面を揺るがし続けているのは、何と言っても印
刷工程のデジタル化である。特にプリプレスにおける技術とその機器の進展は、まさに日進月歩であり、
それへの対応には、情報収集を含めてつねに配慮していなければならないのが現実である。
わが社が、デジタル対応としてDTPをスタートさせたのは平成八年であるが、今や出版、商業部門と
も入稿データは、ほとんどすべてがデジタルデータである。したがって、DTP部門の業務は拡大を続け
ている。そして、技術はさらに進んで、従来、印刷機にかける刷版を作るには、製版フィルムを出力して
刷版に焼き付けていたのだが、その工程すら省いて、DTPで作られたデータからCTPという出力機を
用いて、直接、刷版を出力できるようにすらなったのである。もっとも、わが社を含めCTP対応を行っ
ている各社とも、ハード、ソフトの対応能力などさまざまな理由から、現段階では製作工程の中ですべて
の製版フィルム出力がなくなったわけではない。
いずれにしても、DTPに使われるPCマックの新バージョンは次々に発売されており、業務の拡大も
あって、わが社においてもその増設、更新が相次いでいる。スキャナ、プリンター、セッターなどの周辺
機器も同様である。
そ の 主 な 物 を 列 記 し て み る と、 十 三 年 六 月 に パ ワ ー マ ッ クG4‐73 3 を 六 台 増 設、 十 一 月、G4‐
867を三台増設、十四年三月と五月、G4‐933を三台ずつ増設、そして七月までにG4‐933を
一〇台更新、十五年三月、G4‐デュアル1・25Gを三台増設、十八年一月には、パワーマックG5デュ
アル2・0Gを二台、2・3Gを二台、十九年三月マックプロ六台を増設している。
263 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
)一台増設、サーバー・
PM10000C
EDIAN
六基)増設、九月、平面スキャナ(ラノビア・クワトロ)二台増設、カラーレザー
WGS36GB
この他、十三年六月、カラーインクジェットプリンター(
用(
WING
プリンター( 9055CV
)二台増設、十月、 EDIAN WING
‐V1・6を七台設置、十四年八月、平面スキャナ(ラ
に交換、プレートセッター
FT-R5055
を
DT-R8000
に更新、青焼き機
DT-R8600
PD-188
ノビア・クワトロ)一台増設、十月、 DoCu Color 1255CP
を二台増設、十五年三月、フィルムセッター
を
DT-R2065
Ⅱ
を一台更新、十七年八月、新館二階にデジタルコンセンサス・プロ更新、新館三階に測色機設置、九月、
新館五階と習志野工場にバックアップサーバーを設置、十八年七月、在版ポジをデジタル化するためにス
キャナ(ルネッサンス)を設置、十九年、習志野工場にプレートセッター設置、などとなっている。
そして、十五年十二月には、新館二階から六階まで光ファイバーを設置、それまで営業一部と三部が使
用していた六階を業務の拡大、設備の増設に伴い、DTP室として活用することになった。さらに、十八
配信を開始しているほか、携帯漫画部門は、十八年三月に発足したセクショ
Web
年六月にはOAフロア化され、入力、版下、スキャナ、携帯漫画、デザインの各部門が業務を開始している。
この間、
インターネットの
ンで、携帯上で見る漫画データの作成を主な業務としている。
業務効率を配慮しての社内態勢の整備
すでに記したように、五年頃からは、組織の統廃合、新設などによって、時代によって変わり続ける業
務内容に合わせた社内態勢の整備を行い、
受注への速やかなで効率的な対応、管理経費などの節減をはかっ
264
てきたわけであるが、その後もこうした努力はつねに継続されてきている。
十五年七月には、浦滝秀夫課長をリーダーに、営業部内に営業支援課がスタートしているが、これは、
多品種・小ロット・短納期でありながら高度な品質を求められる受注が増加していることもあり、営業手
離れ時点での校了紙の精度を高めることで、後工程のロスを最小限に抑え、品質を保証することを目的と
したものであった。そして、この機能が十分に発揮されることにより、作業の効率化はもとより、有償の
ミスなどを減らすことができ、生産コストの低減にも直結することが期待できるのである。
さらに十六年九月には、蓄積が続くデジタルデータの保管と活用を目的とした新会社、水道デジタル
倉庫が発足し、十八年四月には、生産業務部内に品質管理課が設けられている。これは、それぞれのセ
クションがそれぞれに品質を保証すること、そして、それぞれに共通したルールがあって作業が進められ
ていること、そうしたポイントに目配り、気配りしてチェックする部署の誕生であった。印刷の品質に関
する代表的な認証制度としては「ISO9000」があるが、品質管理課は、いわば三晃印刷の「ISO
9000」という役割が期待されるのである。
また、もう一つ効率化、生産コスト・管理コスト低減に向けて見逃せないのが、各部署内部のスムーズ
な連携を可能にする配置の問題である。一つの工程の流れにある部署が階を異にしていれば、そこにさま
ざまなロスが生じる。そうした視点から、改善、整備も着実に行われてきたのである。例えば、管理部門
では、十八年五月に、七階の経理部と八階の総務部、それに営業管理部門が七階のワンフロアにまとめら
れている。一方、生産管理部門では、印刷業務課の用紙係と印刷進行が別の階にあったのだが、用紙の手
265 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
配、運送関連にしても同一フロアで連携することがベストであり、そうしたこともあって、生産業務部の
生産実働部隊は、本館三階に集結することとなった。こうした措置による業務の効率化は、情報交換や作
業の円滑な進行のみならず、従業員一人当りの時間単価を向上させることにもつながる。
このように年々歳々、企業はさまざまな面で、留まることなく変容を繰り返し続けている。それが企業
として生命力を維持していくエネルギーでもあるからである。昭和から平成へとかわって約二〇年たった。
すでに過去に記した組織関連の事項に比較してずいぶんスリム化され、名称も変わっている。それは、時
代がもたらした業容の変化を示すものでもある。
この間に、経営幹部人事にも移り変わりがあった。十五年十二月には、習志野工場長就任を始めとして、
作業部門を統括して支え発展させてきた星野尚義専務取締役、やはり習志野工場長に就任、作業本部長と
して功績を残した山岸保男取締役が勇退、十六年一月には、主藤泰郎常務取締役が専務取締役に、新井彰
取締役営業本部長が筆頭常務取締役にそれぞれ昇格した。また、四月には、岡信英、大滝力が取締役に昇
格している。
そして、十八年三月には、主藤泰郎専務取締役、経理担当の松本英征常務取締役が勇退し、四月には、
十二年四月から常務取締役を務めていた山元正宜が取締役副社長に就任、筆頭常務取締役新井彰が専務取
締役に、
生産管理を担当し十二年一月から取締役だった畑野州彦が常務取締役に昇格している。こうして、
二十年四月の創業八十周年に向けての、あるいはそれ以後の経営幹部の新体制が整えられたのである。
わが社の将来を担う新入社員については、十三年から十九年まで、毎年一〇名内で推移し、業務の状況
266
に応じて中途採用、契約社員、アルバイトなどの人事が行われているのも近年の特徴といえよう。また、
十八年八月には、大学からの要望も多く、わが社としては初のインターンシップ制度を受け入れ、大学三
年生三名が、作業部のDTPを中心に実習体験を行っている。
勤務態勢、社内管理などにも時代を反映
「安全で、衛生的な職場、そして心身の健康があってこそ、仕事に打ち込める」。こうした視点に立って、
安全衛生委員会を中心にさまざまな活動を行ってきた。その活動ぶりについては、これまでにも折に触れ
て報告してきたが、ここで、安全、防災、健康に関して、ほぼ毎年行われている講習会、訓練等について
整理しておきたい。
平成十八年の例で見てみると、そのスケジュールは、二月の体力測定、全印健主催の健康相談会、三月、
特殊検診(有機溶剤扱い者など)
、四月、交通安全講習会、七月、全国安全週間(一日より)に合わせた
安全標語募集、発表、八月、総合防災訓練、九月、自衛消防隊訓練審査会への出場、十月、総合健康診断
となっている。この他に、安全衛生委員会主催による救命・救護講習会も随時行われている。
こうした活動の成果の一つとして、この年、牛込消防署主催の自衛消防審査会において、わが三晃印刷
自衛消防隊は、牛込消防署管内では初の三年連続優勝を成し遂げるという明るいトピックスもあった。
その快挙について、営業部第一部第一課の馬場野武隊長は、
「先輩方に続き優勝、今回で三連覇となりましたが、これは自分たちだけの力ではなく、職場の方々の
267 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
協力があったからこその成果だとおもいます。深く感謝しています。私は、訓練を通して、人と人の助け
合いこそが最善の道だということを再確認しました」
と職場の先輩、仲間たちへの感謝を述べている。
この他に、当時の職場のトピックスとしては、十六年五月、本社では夜間十二時から午前五時まで施錠、
インターホンを設置したことがあげられる。これは、活版輪転課廃止に伴う夜間勤務者減少による保安上
の措置であった。九月には、保安上の問題とコミュニケーションの向上を目的に従業員の名札着用が義務
化された。そして、十七年七月には、初のクールビズ、十一月にはウォームビズが実施された。これは国
の課題であるエネルギー消費削減に向けて、
職場でもできることからやっていこうという取り組みである。
また、十八年七月には、オフコンシステムからLANシステムを利用した就業システムを導入した。タ
イ ム カ ー ド か ら I C カ ー ド に よ る 出 退 勤 の 記 録 シ ス テ ム へ の 移 行 で あ り、 食 券 も I C カ ー ド で の 発 券 に
なった。これにより、入退時間、食事回数がデータ化され、就業時間の入力・修正・集計及び休暇・振出
振休の一元管理が可能になり、毎月の給与計算・賞与・年末調整・社会保険等の事務処理の効率化がはか
れることとなった。
一方、十六年十月には、昭和四十三年より使用されていた、習志野工場近くの社宅一号棟が老朽化のた
めに解体され、その役割を終えた。
厚生面では、定年を迎えることに備えた生活設計について、講師を招いての熟年セミナーが例年行われ、
参加者も多く好評を得ている。また、毎年のこととして、創立記念日にはお祝い金、春秋の旅行旅費支給
268
もあり、従業員とともに歩むという理念の一端が今に生かされ続けている。
クラブ、
同好会活動としては、
十一年に社技ともいえた野球部の活動休止という残念なトピックスはあっ
たが、同好会としてのチームはその後もさまざまな大会に参加しており、伝統を引き継いでいる。
野球の他にスポーツでは、サッカー、バスケット、テニス、ハイキングなどの同好会があり、趣味と健
康作りを兼ねてその活動を楽しんでいる。また、文化面では、囲碁、将棋、そして、昭和三十六年発足と
いう伝統の華道部があり、当時と同じ草月流の木村美光先生の指導のもとに定期的に活動を続けており、
毎年十一月には、その作品が展覧会として本館三階の廊下に展示され、社内に潤いを与えるとともに、従
業員の目をなごませてくれている。
269 第七章 デジタル化のさらなる進展への対応を目指して
270
終章
三晃印刷の豊かな未来に向けて
今を踏まえて未来を拓く
わが三晃印刷は、平成二十年四月に創立八十周年という、企業としてはまさに記念すべき節目を迎える
ことになった。三晃印刷の長い歴史をひもとけば、戦前、戦後の混乱期を克服し、その後の高度成長期、
さらに社会経済の成熟とともに訪れた低成長期、激しい技術革新の進展など時代のさまざまな要請に応え
ながら今日の業容を築くことができたことがわかる。その発展への道程は決して平坦な一本道ではなく、
業績の浮沈などの紆余曲折を経てのことであった。
そうした過程を乗り越え、八十周年を迎えられるのは、創業者である山元正宜初代社長の時代の先を見
据えた的確な経営手腕、設備投資に負うところが大きいが、それを支えた先人たち関係者すべてによる努
力の集積の結果でもあり、それを引き継いだ山元悟社長を始めとしたすべての関係者たちの力でもある。
271 終章 三晃印刷の豊かな未来に向けて
印刷企業としての今日までのわが社の歩みをたどれば、昭和二十三年頃から四十年代にかけての活版平
台の黄金時代があり、三十年代には活版輪転のフル創業、そして、四十年代から後は、オフセット輪転全
盛時代への経過をたどったことがわかる。
その間、活版平台時代は、数々のベストセラーを手掛け、活版輪転では、週刊誌ブームへの対応の先駆
けとなり、その流れはオフセット輪転によってさらに加速することとなった。
そして、五十年代半ばからは、急速な技術開発によるIT時代に突入し、まさに革命と呼ぶにふさわし
い印刷技術上の変革への対応を迫られることになったのである。
それは、印刷機械の更新などの設備投資、組織改革、人材の育成など印刷企業の在り方を根本から見直
し、再構築を余儀なくされることでもあった。
すなわち、大量生産、大量消費型社会の時代に大いに機能を発揮し業績の向上へと導いた組織、印刷工
程のシステムを、情報技術を使ってIT時代型に変更、改革していくことであった。わが社ではそうした
ことを踏まえて、平成時代に入るころから組織の統廃合、新設などの措置をとり、印刷機及びその周辺機
器の更新を行うという対応を続けてきたが、近未来もその方針に変わりはないであろう。
平成八年には、それまで慎重にテストを繰り返してきたDTPシステムを導入し、プリプレスにおける
効率化とコスト削減への道を拓いた。その後もCTPなどを始めとした最新技術への挑戦と対応を続け、
そして、後工程についても、印刷機を始めとした最新機器の導入によって自動化による合理化を進めてい
る。
272
今や、印刷工程の自動化、コンピューター管理は、印刷工程のすべてに及んでいる。そしてデジタル化
に伴う技術革新は、目を見張るばかりである。それへの対応も慎重な検討を通し、長期的な展望に立って
着実に行ってきた。それは導入機器のスクラップなどの無駄をできる限り抑えるためでもあった。
そして何より、こうしたハード面を有効に生かし、生産性を向上させ、企業の発展へと導くのは、人、
すなわち人材である。これまでも人材の育成には、研修、実務訓練等を通じて格別の注力をしてきたが、
これでよいということはなく、将来への展望を拓く上での永遠の課題である。
これからのビジネスチャンスを生かすのは、営業から始まって生産工程、管理部門にたずさわるすべて
において、ベンチャーのこころ意気を持って創意工夫する人材による連携、パートナーシップであろう。
具体的には、営業においてもつねに最新の専門知識をベースにした提案力が不可欠になるが、そのために
は、技術、管理、それぞれの部門を超えた横断的な連携による戦略的な営業企画の作成と実践へのシステ
ムを社内に持つことが決め手になる。すなわち、顧客の印刷データをWEBを始めとした多様なメディア
に生かしていく汎用性を含めて、顧客の媒体戦略をパッケージとして提案・提供できるその技術とプロ
デュース力の育成である。これは、出版、商業部門ともにいえることである。
顧客がパートナーとしてよせてくれるであろう信頼とは、こうした提案力で創られるものであり、それ
があってこそ大きな受注とその永続性を確保することができることになろう。
それにしても、今のデジタル分野における変化のスピードは速く、行き先が見通しがたいほどであるか
ら、設備産業としての印刷企業は厳しい環境におかれているといえる。しかし、このような変革の激しい
273 終章 三晃印刷の豊かな未来に向けて
時こそチャンスも多いといえよう。八十周年を一つの大きなステップとして、わが三晃印刷は従業員すべ
ての力を結集し、将来へのさらなる発展への確かな展望を拓いていきたい。わが社は先人そして現役の人
たちの努力によって、たくさんの優れた得意先に恵まれており、生産業務部などの機能が生かされ、営業
と作業現場とのスムーズな連携が社内に活気をもたらしている現在、それは充分に可能であり、展望も開
けている。
経営理念の実現に向けて
平成十六年に「社是」が発表されているが、それは従来からの経営理念の根本にある精神を形にしたも
のであった。立場の違いはあっても、同じ企業で苦楽をともにするすべての人たちが、物心ともに豊かな
幸せを追求しようというヒューマニズムに裏打ちされた企業像、経営指針は、同時に社会との日常の交流
の中で、確かな貢献を目指すものでもある。
今、わが社は、印刷企業として多種多量の製品にかかわっている。書店の売り場には、わが社が手掛け
た書籍、雑誌等を目にする機会も多い。激しい競争という厳しいビジネスの側面を持ちながらも、文化の
基本的な部分の一端を担っている自負とロマンを持ち続けることが、印刷人として自らを活性化させ、ひ
いては、会社の発展を確かなものにするベースだといえよう。
時代はかわっても、プリントメディアの可読性のよさ、一覧性のよさという優位性は変わらない。また、
デザイン、印刷精度、色彩という品質三要素をより優れたものに極めていくことによって、今後も、印刷
274
物の価値は評価され続けていこう。
そして何より、印刷企業としてこうした優位性を十分に備えることによって得られる確かな経営基盤が
支えとなり、三晃印刷で働く日々が活力に満ちた個人の自己実現へとつながっていって欲しいと願わざる
をえない。それが、社是の精神に沿うことでもあると思うからである。
社是
巻末になったが、ここにあらためて社是を提示し、胸に刻んでおきたい。
従業員の物心両面に亘る幸せを追求し
併せて
世のため人のためとなる企業でありたい 275 終章 三晃印刷の豊かな未来に向けて
276
年表
277
三月
二月購入の柳町工場を売却。
二 五 日 夜 半 ~ 二 六 日 早 暁 戸 崎 町 自 宅 及 び 工 場、 戦 災 に よ り 焼 失。 長 野 県
長野市在の古里村に疎開する。
一〇日より東京に対する本格的大空襲はじまる。長男悟、岐阜に疎開。
一月、「中央公論」「改造」復刊。「人
間」「世界」「新生」その他、創刊。
この年、印刷業界の全国的統制機
関、「日本印刷文化協会」創立さる。
この年、印刷インキ、全面的統制
実 施。 印 刷 業 企 業 整 備 要 綱 発 表。
企業整備を行い、出版社一九五社
に整理さる。
七月、日本印刷インキ工業組合連
合会解散。
「中央公論」「改造」廃刊。
年
月
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
明治三五年
四月 山元正宜(創業者・初代三晃印刷社長)、鹿児島県大島郡喜界町小野津に
生まれる。
大正一〇年
五月 山元正宜、蛭沼鉛版所に入社。
大正一一年
五月 山元正宜、大阪天王寺所在の鉛版所に入社。
大正一一年一〇月 山元正宜、大阪より東京に帰り、京華印社刷所に入社。
昭和
三年
四月 山元正宜、小石川区戸崎町三七(現・文京区小石川)で山元鉛版所創業。
昭和一〇年
夏、 戸 崎 町 一 三 に 住 宅、 工 場 を 含 め た 二 六 坪 の 二 階 建 新 築。 戸 崎 町 五 〇 秀英社と日清印刷合併、大日本印
に第二工場設置。
刷となる。
山元鉛版所従業員一六~一七名となる。
山元鉛版所、紙型圧搾機購入。
山元悟(三晃印刷二代目社長)生まれる。
山元正宜、文京区柳町二九の柳文堂印刷所を買収。十一月に営業開始(商
号三晃社印刷所)。
昭和一一年一二月
昭和一二年
七月
昭和一五年
七月
昭和一六年
六月
昭和一八年
五月
柳町工場を九月に買い戻し、工場再開。
岐阜に疎開。
七月
山元悟、疎開先より帰る。整版部創設。
昭和一九年
一月
一〇月
柳町の元本社工場建物(得意先の昭文堂の工場)を購入。
一一月
B全印刷機一台、菊版一台入れる。
鋳造機を購入、自家鋳造を始める。
昭和二〇年
二月
一二月
昭和二一年
二月
278
柳町工場倉庫を建築。
二一日
資本金一九五、〇〇〇円にて三晃印刷株式会社を設立(文京区柳
町)、山元正宜代表取締役に就任。
文京区小石川四ノ六ノ四に住宅を新築、移転。
昭和二一年
六月
八月
四六全判ミーレー二回転印刷機を購入。活字鋳造機一台購入。
この年、出版ブーム起こる。
この年、当用漢字中、いわゆる教
育漢字および音訓整理発表。
昭和二三年
六月
一一月
昭和二二年
昭和二四年
九月
一〇月
昭和二五年
九月
東京都印刷健康保険組合設立。
この年、東京印刷工業会創立。
山元正宜の弟速雄退社、鉛版所創設。
この年、東京印刷工業協同組合設
立。 日 本 印 刷 工 業 会 発 足。 日 販、
四 六 全 判 二 回 転 印 刷 機 購 入。 菊 全 判 一 台、 四 六 全 判 停 止 円 筒 式 一 台( 佐 東販、日本教科書、図書販売など
賀機械)を購入。野球部創設。
取
次所九社創業。
山元正宜、東京印刷工業協同組合理事文京支部長に就任。
この年、印刷業が戦後最大の不況
に陥る。書店の倒産でゾッキ本氾
菊半裁テープ(中馬、佐賀)各二台、四六全判停止円筒式(佐賀)一台導入。 濫。戦後初の世界美術全集刊行
(平
凡社)開始。
印刷用紙全面統制解除。
独身寮制度を設ける。
四六全判印刷機(中馬)四台を購入。
文京区白山御殿町三五に第二工場を建設。
昭和二六年
五月
九月
印 刷 部 開 設( 三 晃 社 印 刷 所 ) 十 周 年 記 念 と し て 塩 原 温 泉 に 全 従 業 員 を 招
待。
一〇月
一一月
石切橋工場建設用地決まる。
印刷機合計九台全部最新鋭機に入替完了。
三晃互助会発足。
七月
昭和二七年
六月
八月
六月
昭和二八年
四月
東 京 印 刷 工 業 協 同 組 合 技 能 コ ン ク ー ル 審 査 員、 活 版 コ ン ク ー ル 委 員、 巡
回指導員。
資 本 金 を 四 五 〇 万 円 に 増 資、 新 宿 区 水 道 町 二 九( 現 在、 新 宿 区 水 道 町 四
番一三号に住居表示変更)に活版輪転工場を設置、高速印刷に着手。
輪 転 印 刷 部 新 設。 山 元 正 宜、 東 京 都 印 刷 健 康 保 険 組 合 理 事 就 任。 前 年 購
入の新宿区水道町二九の敷地四五〇坪に工場七二坪、倉庫四八坪を建築。
A倍判書籍輪転印刷機(東京機械)二台購入。
輪転部門の組版のため整版部室増築。
一〇月
昭和二九年
九月
279
九月
七月
五月
四月
三五〇Ⅱ型輪転機一台完成。仮住いの独身寮三階に移転。
台風により江戸川氾濫、石切橋工場浸水、床上一m 弱位。千川暗渠の氾濫、
本社(柳町)工場も床上六〇㎝ 強の冠水。
石切橋工場第二期工事完成。
熱海温泉にて創業三十周年記念式典を行う。
山元正宜、東京都印刷工業組合常務理事に就任。石切橋工場第二期工事、
建設にかかる。
東京都印刷健康保険組合、全国印
刷工業健康保険組合と改称。
この年、出版文化国際交流会発足。
年
月
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
昭和二九年一一月 モ ノ タ イ プ 四 台( 東 京 機 械、T K 型 ) を 設 備。 石 切 橋 敷 地 に 木 造 モ ル タ この年、カッパブックス刊行。雑
ル瓦葺二階建四八坪の寮を建築。
誌「平凡」一二○万部突破。
山元正宜、東京都印刷工業調整組合常務理事に就任。
東京印刷工業調整組合創立。
モノタイプ二台を購入、「少年画報」受注(発行部数二〇万部)。
B倍判雑誌輪転機(東京機械)購入。
昭和三〇年
四月
五月
二台目のB判輪転機購入。
石切橋工場第一期第一次工事完成。
七月
九月
昭和三一年
六月
同右輪転機(東京機械)の二台目完成。
資本金を九〇〇万円に増資。
B判高速雑誌輪転機購入。
一〇月
新宿区水道町に一、五〇八 ㎡の鉄筋コンクリート造三階建工場を建築。石
切橋工場第一期第二次工事完成、整版部移転す。
七月
一二月
八月
昭和三二年
四月
母 型 の 改 善 を 図 り、 九P・ 八P・ 五 号 と 続 い て 発 注 す る。 電 胎 母 型 か ら
ベントン母型に切り替え、欧文も新しいスタイルのものの作成にかかる。
活字鋳造機購入。
山元正宜、全国印刷工業健康保険組合理事に就任。
一〇月
七月
昭和三三年
一月
一二月
自動給紙機付菊全判二回転印刷機購入。活字鋳造機(小池)購入。
水道町に鉄筋コンクリート造地下一階、地上三階建一、〇四四 ㎡の建物完
成(石切橋工場)。
従業員食堂開設。
昭和三四年
四月
八月
280
一〇月
昭和三五年
三月
第 三 期 工 事 完 成。 新 社 屋 完 成 と 共 に 私 設 電 話 交 換 機 設 置。 経 理 部、 柳 町
本社より石切橋工場に移る。
華道部発足。
石切橋工場に鉄筋コンクリート造、地下一階、地上四階計一、五六八 ㎡の
工場建築に着手。
八月
七月
五月
グラビヤ印刷開始(ウェーベンドルファー枚葉機使用)。
水道町二八の土地(工場隣接地)二〇三坪購入。
浜田式高速輪転機増設。輪転課二部制実施。千葉県鴨川に「海の家」開設。
山元正宜、ヨーロッパ各地の印刷事情を視察。
昭和三六年
四月
九月
一二月
九月
八月
七月
五月
一二月
昭和三八年
四月
九月
七月
四月
三月
オ リ ジ ナ ル ハ イ デ ル ベ ル グ 印 刷 機 を 購 入、 活 版 印 刷 に 使 用。 バ ス 通 り 土
地九〇坪購入。
全印健保関東支部主催、第一〇回陸上体育大会総合優勝。
浜田精機、A四変型出し可能A倍判横通し輪転印刷機(H・D・R)購入。
活字鋳造機(小池)購入。
グラビヤ印刷、ウェベンドルファー設置(旧機廃棄)。
第四期工事完成。文京区柳町の社・工場は発展的に解消。
創 業 三 五 周 年・ 社 屋 新 築 落 成 の 記 念 式 典、 祝 賀 会、 椿 山 荘 に て 挙 行。 茶
道クラブ誕生。印刷技術室開設。
東京都中小企業従業員野球大会にて初優勝(後楽園)。
大原「海の家」開設。活字鋳造機購入。
水道町二九で第四期工事(地下一階、地上四階建二、二〇七 ㎡の別館社屋)
開始。三晃奨学制度生る。
活字鋳造機購入。社歌成る。
三 晃 社 内 預 金 制 度 発 足。 第 一 回 奥 様 昼 食 会( 会 社 見 学 ) 開 催。 清 掃 整 頓
に関する規定制定。
清風運動始まる。
一〇月
資 本 金 一、六 〇 〇 万 円 増 資、 二、五 〇 〇 万 円 と な る。 幹 部・ 勤 続 一 〇 年 以
上の従業員に株配分。従業員提案制度実施。
昭和三七年
一月
一一月
この年、カラースキャナ登場、オ
フ印刷技術進む。
281
昭和四〇年
二月
三月
ハイデル印刷機二台購入。第二期建設建物屋上に寮増築工事完成。
ハイデル印刷機一台購入。活字鋳造機(小池)購入。企業年金実施。
四月、東京印刷工業協同組合、東
京都印刷工業組合に統合解散。
断裁機・写植機・特別償却制度対
象機種となる(大蔵省追加告示)。
こ の 年、「 日 本 の 歴 史 」 ベ ス ト セ
ラーとなる。
大蔵省令、印刷設備の耐用年数短
縮、一三年となる。
四 月、 近 代 化 促 進 法 施 行 令 公 布。
印刷(写真製版を含む)業種指定。
年
月
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
昭和三九年
一月 ハイデル印刷機二台購入。第一回寮生テーブルマナー講習会実施。
四月、印刷業、中小企業近代化促
五月 第一期建設社屋上に図書室兼会議室・紙型倉庫・寮の増築完成。創立三六 進法の業種指定を受ける。
周年記念式典・祝賀会開催(以後、毎年開く)。新型ウェベンドルファー・
グラビア輪転機購入。
七月 外部の有力講師陣による職制教育講座開催。ハイデルベルグ機二枚通し、
針違い防止装置完成。
八月 別館隣接地九六坪に駐車場兼発送場完成。
九月 「明るい職場作り」運動実施。B判書籍輪転機(東京機械製)購入。
一〇月 第一線監督者講習会実施。
こ の 年、「 日 本 の 文 学 」 ベ ス ト セ
一一月 提案制度実施(グラビヤ刷本結束補助機できる)。
ラーに入る。
五月
七月
九月
一〇月
一一月
牛込消防署員の指導で救助袋による避難訓練初実施。
平台鉛版自動鋳型装置完成。機械室誕生。石神井女子寮できる。
電子会計機導入。寮管理委員制度できる。
創 立 三 八 周 年 記 念 式 典・ 社 員 慰 労 パ ー テ ィ 椿 山 荘 に て 開 催。 華 道 部 主 催
第一回生花展覧会開催。歩行禁煙運動始まる。皆勤賞表彰制できる。
創 立 三 七 周 年 記 念 式 典、 社 員 慰 労 パ ー テ ィ 椿 山 荘 に て 開 催、 冷 房 装 置 設
置試運転。
従来のリコピーに代わり富士ゼロックスを営業室に設置。「山の家」山中
湖畔に開設。
明るい職場作り運動実施。丸版の自動鍍金装置(東京加工K・K)据付完了。
油槽タンク設置。東京機械製、B全判高速書籍輪転機購入。長時間(七〇
日間)無事故確立運動実施。
小 池 製 作 所 イ ン テ ル 鋳 造 機・ イ ン テ ル 切 機 購 入。 変 電 設 備、 丸 版 排 気 設
備なる。
四六全判ネビオロ印刷機購入。
一月
二月
三月
五月
一二月
昭和四一年
282
六月
七月
八 月
一〇月
昭和四二年
一月
三月
四月
五月
六月
七月
八月
一一月
昭和四三年
三月
五月
八月
九月
山 元 悟、 取 締 役 副 社 長 に、 主 藤 敏 郎、 専 務 取 締 役 に、 山 本 章 正、 常 務 取
締役にそれぞれ就任。地下・会議室、三階印刷室、冷房設備。
飯田橋労基署長より優良事業所の表彰を受ける。
A倍判輪転機(東京機械)購入。
輪転工場増築鉄骨設備。
全印健野球大会にて初優勝を遂げる。
インゴット鋳造機購入(小池製作所)。目白通第一倉庫完成、輪転機械場
への通路開通。
インテル鋳造機(小池製作所)購入。屋上に卓球室できる。
相
「 談室」開設。
変 電 所 設 備 増 強。 創 立 三 九 周 年 記 念 式 典。 社 員・ 家 族・ 協 力 工 場 関 係 者
慰 労 の 集 い( 於 文 京 公 会 堂 )。 船 橋 市 習 志 野 町 に 工 場 用 土 地 三、六 〇 〇 坪
を購入。千葉県船橋市習志野に土地一一、八八〇 ㎡を購入。
ボイラ設備、冷房設備(暗室)ダイクリル設備できる。
千葉県岩井海岸に 海
「 の 家 」 開 設。 習 志 野 工 場 建 設 地 鎮 祭 行 わ れ る。 習
志野台社員住宅の建設が日本住宅公団の手によって進められる。
本社工場にオフセット製版設備一式を設置し、オフセット製版課を新設。
習 志 野 工 場、 ロ ー ラ ン ド A 倍 判 二 色 印 刷 機( 二 台 ) 稼 動。 第 一 六 回 印 刷
文 化 典 駅 伝 競 争( 静 岡 市 ) 初 参 加。 従 業 員 退 職 手 当 支 給 規 定・ 三 晃 互 助
会 規 約 一 部 改 正。 習 志 野 変 電 所 設 備・ 芯 棒 倉 庫( 本 社 ) 建 設。 目 白 通 第
一倉庫荷揚場(鉄骨)整備。習志野工場付属建物(鉄骨)できる。
習志野工場、給水設備・動力設備・冷暖房設備、逐次整う。
初めて習志野工場連絡会行われる。ハイデル印刷機二台購入。
習志野工場落成披露(得意先その他招待、一一日)。習志野工場において
創 立 四 十 周 年 記 念 式 典、 同 工 場 並 び に 社 宅 完 成 記 念 の 集 い を 開 催( 一 二
日)。山元正宜、全日本印刷工業組合連合会常務理事に就任。
輪転課職制資格試験実施。鑽孔機(東京機械)二台購入。
鑽孔機二台購入。印刷課資格試験を行い資格制度実施。
この年、婦人雑誌、児童雑誌のワ
イド化ひろまる。大型世界文学全
集、児童文学全集ブーム。
鉛中毒予防規則施行。
全日本印刷工業組合連合会東日本
大会開催(以後毎年東西両大会を
開く)。
この年、新聞のカラー印刷の版材
としてプラスチック版登場。新聞、
オフセット輪転によるカラー印刷
ふえる。図書の月賦販売盛んとな
る。
四月、厚生省、東京印刷工業厚生
年金基金認可。
283
安全衛生委員会発足。
年
月
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
昭和四三年一〇月 山元正宜(現副社長)生まれる。
B判輪転機(東京機械)購入。鋳植機(東京機械)購入。リライター室誕生。
日本印刷技術協会通信教育受講(一〇名)。
一一月 八社野球連続五年優勝(通算六回)。
昭和四四年
三月 外部より講師を招き職制教育・新入社員教育実施。鑽孔機三台入る。近代
化促進法による印刷業に対する国の特別な助成終わる。囲碁クラブ誕生。
四月 変電所移設。
近代化促進法指定期間終了。
五月 創 立 四 一 周 年 記 念 式 典 及 び 観 劇 会 を 新 橋 演 舞 場 で 催 す。 地 下・ 一 寮・ 四
寮に冷房設備増設。
七月 インテル鋳造機(小池)購入。
九月 活 字 鋳 造 機( 小 池 ) 購 入。B 判 輪 転 機( 東 京 機 械 ) 増 設。 習 志 野 工 場 第
二期鉄骨建物建築。
一〇月 BOR二色印刷機を導入、習志野工場に設置。オフセット輪転印刷に着手。 日本出版学会創立。
習 志 野 工 場 に 鉄 骨 倉 庫 を つ く る。 野 球 部 長 崎 国 体 に 東 京 都 代 表 と し て 出
場。
一一月 鋳植機購入。資本金を五、〇〇〇万円に増資。
一二月 鑽孔機三台購入。
昭和四五年
三月 大 阪 府 千 里 の 丘 に、 社 員、 家 族、 得 意 先 な ど の 万 博 見 学 団 宿 舎 開 設( 九
月まで)。
四月 習志野工場の建物二、〇二〇 ㎡を増築。
五月 習 志 野 工 場 第 二 期 工 事、 第 三 期 増 設 工 事 完 成 落 成 式。 野 球 部、 東 京 都 選 印刷業および関連業、五〇% 資本
自由化第一業種に指定。
抜大会優勝。創立四二周年記念式典・懇親会、椿山荘にて開催。
八月 第二倉庫用地購入。
この年、東京印刷工業会の名称を
「印刷工業会」に改め全国組織に。
凸版対平版の比率五〇対五〇とな
る(東印工組発表の前項調査)。
昭和四六年
三月 鑽孔機四台購入。
近代化審議会推進部会、印刷業の
近代化基本計画承認公示。
大 蔵 省 令、 印 刷 設 備 の 耐 用 年 数
一二年とする。
四月
284
五月
六月
七月
一〇月
昭和四七年
一月
二月
三月
四月
五月
六月
八月
九月
一〇月
一一月
一二月
昭和四八年
二月
習 志 野 工 場 にB O R 二 色 印 刷 機 を 増 設。 鋳 植 機 購 入。 地 下 冷 房 設 備。 創
立四三周年記念式典並びに懇親会、椿山荘にて開催。
鋳植機購入。
第二倉庫建造。
九月、ドルショックの影響で洋紙・
版紙輸入減少。通産省、PCB使
鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 社 宅 第 二 棟 完 成。 土 屋 大 陸、 常 務 取 締 役・ 経 理 部 長 に 用禁止通達。
就任。
この年、「文庫本ブーム」「原色百
科ブーム」起こる。
「整版ファミリー新報」
「三晃ファミリー新報」へと発展。「整版課・鉛版課・
丸版課の環境測定」実施。三晃互助会規約一部改正。
社員食堂、完全食券制となる。
公正取引委員会、段ボール・原紙
の不況カルテル認可。
作業部、品質管理月間始まる。鑽孔機二台購入。
第 一 回 フ ォ ト コ ン テ ス ト 開 催。 習 志 野 工 場 従 業 員 を 主 体 に「 習 志 野 自 衛
隊体験入隊」実施。商業部門の設置。
創 立 四 四 周 年 記 念 旅 行( 熱 海 宿 泊 ) 実 施。 主 藤 敏 郎、 七 二 ド ル ッ パ 展 公
式視察団に参加、欧州出張。
山元正宜、全国印刷工業健康保険組合理事。昼休み一時間とする。
習志野工場にATF(東芝機械)を設置。鑽孔機購入。習志野工場倉庫完成。
習志野工場第一回フォトコンテスト。アトミックス(整版課野球チーム)、
新宿区大会にて初優勝。ダンス同好会スタート。
ファミリー新報主催第一回職場対抗ボーリング大会開催。習志野工場「社
員研修会」箱根荘で開く。
全印健野球大会、五年連続優勝。
輪 転 課 に イ ン キ 自 動 供 給 装 置 で き る。 習 志 野 野 球 部 南 習 志 野 工 業 団 地 野
球大会にて初優勝。
電話自動交換機開通。三井信託と提携、「財産形成貯蓄制度」実施。
中小企業庁・公正取引委員会、下
請代金支払適正化を通達。
男 子 寮 商 業 印 刷 業 務 室 と な る。 本 社 女 子 寮、 石 神 井 寮 へ 全 面 移 転。 習 志
野青雲寮移転(鉄筋四階建三七室)。習志野工場、第四回自衛隊体験入隊
実施。
285
創立四六周年記念式典・演芸開催(椿山荘)。習志野工場に四六判四色刷
オフ平台(小森印刷機械)設置。活字鋳植機(林栄社)購入。
資本金を一億円に増資。
社長山元正宜は東京都印刷工業組合理事長並びに全日本印刷工業組合連
合会会長に就任。
八社親睦ソフト大会初優勝。
習志野工場中堅社員研修会(箱根荘)。第二年度週休二日制導入計画実施。
管理部に用紙課新設。平台鉛版に全自動鋳込機(西研工業)入る。写植機・
パ ボ ジ ャ ッ ク 入 る。 牛 込 消 防 署 指 導 の 下 に、 当 社 自 衛 消 防 隊 員 の 特 訓 が
行 わ れ る。 日 本 印 刷 工 業 会 副 会 長 就 任( 五 一・五 ま で )。 小 石 川 法 人 会 会
員増強推進委員。
丸版全自動メッキ装置(プログラマート)完成。星野尚義・山岸保男、プ
リント七四国際印刷機材展(シカゴ)視察その他、アメリカの印刷研究の
ため渡米。この年、S&B計画に基づき、旧輪転機・ハイデル機など廃棄。
第三作業部スタート。
プリントショップ各地に誕生。
印 刷・ 写 真 製 版・ 印 刷 製 本 機 械、
不況業種に指定。
グラビヤ課廃止。活字鋳造機(林栄社)購入。
こ の 年、 出 版 物 定 価 高 騰( 平 均
一、四二五円)。
出張校正室、大改装始まる。
電気使用制限により昨年二月分に対し、一五% の大幅供給カットされる。 オイルショックで印刷業界に資材
A倍判両面オフセット印刷機を設置。
不足広がる。通産省、上質紙・段
ボール原紙等の価格凍結、事前届
出制実施。
初の国際総合印刷機材展、晴海で
開催。
年
月
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
昭和四八年
三月 マ リ ノ ニ、 習 志 野 工 場 よ り 本 社 工 場 へ 移 設。 習 志 野 工 場 第 二 回 フ ォ ト コ
ンテスト開催。
四月 最新鋭B判輪転機(東京機械)購入。外注窓口一本化(オフ・活版平台関係)
のため第四作業部設置。
五月 創立四五周年記念式典・演芸開催(豊島公会堂)。習志野工場安全衛生委
員会誕生。鋳植機増設。
週休二日制導入計画初年度実施案発表。
海の家、千葉県勝浦市鵜原に開設。
習志野テニスコート開き行われる。習志野中堅社員研修会(箱根荘)。週
五日制導入計画(初年度)実施。
六月
七月
九月
一〇月
一一月
昭和四九年
一月
五月
七月
九月
八月
九月
一〇月
一一月
昭和五〇年
一月
286
習志野工場に東芝BOR二色両面機を設置。習志野独身寮(男子新築、女
子増築)完成。社員食堂に逐次、各種の自動販売機・自動給茶機を整備。
印刷設備の耐用年数一一年に。
四月
五月
六月
賃金制度改正。
創立四七周年記念式典・演芸開催(九段会館)。
雇 用 保 険・ 労 災 保 険 関 係 本 社 と 習 志 野 工 場 に 分 離。 全 国 印 刷 工 業 健 康 保
険組合顧問習志野親睦職場対抗ソフトボール大会。
三月
一 〇 月、 印 刷 関 連 一 五 団 体、
「日
本印刷産業団体協議会」設立総会
開催。
印刷五一年度(最終年度)構造改
善計画、通産大臣承認を取得。
中小企業近代化促進法の一部改正
に伴う一般印刷業の新しい「近代
化計画」まとまる。
全印総連・出版労連・東京印労三
団 体、 最 低 賃 金 八 三、〇 〇 〇 円 を
共通要求としてアピール。
全国印刷工業組合連合会共催制度
ス タ ー ト( 当 社 契 約 高 二 億、一 企
業で最高)。
Q プリント北海道第一号店、営業
開始。印刷業の不況業種指定三か
月延長。
七月
九月
一一月
八月
鵜 原 海 岸 に 海 の 家。 防 火 対 策 委 員 会 誕 生。 活 字 鋳 造 機 購 入。 自 衛 消 防 隊 近代化促進法一部改正、公布。
員講習。
輪 倉 課、 ピ ッ ト タ イ プ・ コ ー ハ ン ボ ー ド 方 式 採 用、 回 転 ク ラ ン プ で 巻 取
紙の縦積み実施。習志野工場にサイクロン(集塵機)装置完成。
全印健保野球大会に優勝(通算八回)。事故防止委員会発足。
習志野工場にA四色オフ平台(小森、コスモA倍判四色オフセット印刷機)
設置。歩行禁煙運動強化。
山元正宜、通産省中小企業近代化審議会専門委員就任。
四六四裁全自動印刷機(桜井機械)購入。
四月
山 元 正 宜、 東 京 都 印 刷 工 業 組 合 理 事 長 退 任、 顧 問 に 就 任。B 判 輪 転 印 刷
機(東京機械)入る。
一二月
昭和五一年
二月
五月
六月
七月
鉛検診実施。
山 元 正 宜、 全 日 本 印 刷 工 業 組 合 連 合 会 会 長 退 任、 理 事・ 顧 問 に 就 任。 日
本印刷工業会副会長退任。創立四八周年記念式典、演芸開催(九段会館)。
習志野オフ輪用冷水機工事完成。
営 業 部 研 修 旅 行 実 施。 本 社 安 全 衛 生 委 員 会 改 組、 下 部 組 織 と し て 第 一・
第二の二部会を設ける。
八社親睦野球七年ぶりに優勝。
全印健保野球九回目の優勝なる。
牛込消防署主催、屋内消火栓操法審査会で本社自衛消防隊二位に入る。
八月
九月
一二月
昭和五二年
二月
287
288
六月
四月
習志野工場より活輪移転。
山元正宜、叙勲記念パーティ(ニューオータニ)。習志野工場オフセット
多色刷(四×四)輪転機試運転開始。
B半裁四色オフセット輪転機を導入。
入社式。新入社員教育を習志野工場でも実施。昼休みに社歌放送開始。
七月
昭和五二年
三月
八月
八 社 親 睦 野 球 大 会 優 勝。 全 印 健 野 球 大 会 優 勝。 国 体、 東 京 都 予 選 に て 準
優勝。ナイジェリアより見学団来社習志野工場見学。
山元悟副社長本社へ。
五月
三月
習志野工場長に星野尚義部長。
一 四 日、 創 立 五 十 周 年 式 典 従 業 員 の 集 い、 於 椿 山 荘。 二 六 日、 創 立 五 十
周年式典、得意先関係者招待、於ホテル・オークラ。労働組合結成。
小池製作所モノタイプ二号機稼動。一五日、新入社員四〇名(高卒男二四
名女六名短大卒男一名女二名大卒男七名)。
昭和五三年
一月
八月
製本業の構造改善昭和五二年度計
画が通産大臣の認可を受けスター
ト。
円高不況。
七月、筑摩書房、会社更生法を申
請。
昭和五四年
二月
本 社 に 小 森 A 倍 判 両 面 一 色 機 導 入。 新 入 社 員 四 〇 名( 高 卒 男 二 一 名 女 四
名専門卒男一名女五名大卒男九名)。
習志野、東芝機械B判オフセット二色輪転機(BOR)一台増設。二〇日、
山元正宜代表取締役会長就任、山元悟代表取締役社長に就任。
九 月、 全 印 工 連、「 く ら し の 中 の
(諸設備一式)を設置(色分解・ 印刷」をキャチフレーズに印刷週
DC300
間を全国で展開。
三月
五一周年記念行事、椿山荘。
スキャナ/西ドイツ製クロマグラフ
製版作業の機械化)。
五月
習志野、B半裁四色オフセット輪転機(カラーキング)導入。山元会長、
全日本印刷工業組合連合会より印刷産業功労者顕彰される。
一〇月
九月
四月、印刷業および写真製版業の
不況業種指定、五回目の延長決定。
一一月
昭和五五年
三月
289
野球部東総協大会優勝。この年の売上比率、オフ四、活版六。
新 入 社 員 三 一 名( 高 卒 男 二 一 名 女 三 名 専 門 卒 男 三 名 大 卒 男 三 名 女 一 名 )。 全印工連、「印刷生産技術士制度」
断裁機 POLAR-MOHE
( 155CE
)を導入。
を制定。
創立記念日行事をお祝い金支給へ。
四月
「八〇年代の印刷経営を展望する」
をテーマにジャパン・プリンティ
ング・フェア 開催。
80
六月
白竜旗野球大会優勝。
日本オフセット輪転印刷協議会が
発足。
A倍判両面オフセット印刷機を増設。
レーザー装置(写真色分解網掛け装置)導入。
DC300
売上比率、オフ七、活版三。活版輪転機にスタバン(自動結束機)導入。
自動現像機付属一式コダック四二〇A増設。
新 入 社 員 一 五 名( 高 卒 男 四 名 女 一 名 専 門 卒 男 二 名 女 三 名 大 卒 男 四 名 女 一 四月、国産レイアウトスキャナシ
名)。
ステム発売。
菊全判四色オフセット印刷機を設置。
新入社員四〇名(高卒男二五名女五名専門卒男一名女四名大卒男五名)。
移転作業開始。本社輪転発送場跡に、地下一階・地上八階計二、二一八 ㎡ (社)日本電子製版工業会が発足。
の新社屋ビル完成。撮影スタジオ(一一七 ㎡)、及びスタジオ付属設備(七七
㎡)の営業開始。
一二月、全印工連、印刷生産士制
習志野、BY二色機にB6判折り機導入。自動鋳植機、鑽孔機各一台増設。 度を正式に発足。
ワ ー プ ロ、 オ ア シ ス 一 〇 〇 導 入。 ス タ ジ オ 営 業 開 始。 三 一 日、 山 元 正 宜
会長没、享年八〇。
一日、上野寛永寺津梁院にて会長の密葬。七日、青山葬儀所にて社葬。
新入社員一四名(高卒男八名女二名専門卒男一名女一名大卒男二名)。
神田川氾濫。
ワープロ二台、コンバーター一台導入。
この年、写真週刊誌『フォーカス』、
A倍判二色オフセット輪転機を増設。
一七〇万部を発行、雑誌の細分化
レタッチ室の明室化。
が進行。
昭和五八年
一月
七月
昭和五七年
三月
一一月
昭和五六年
三月
九月
一一月
二月
三月
六月
七月
八月
一二月
山元会長一周忌。
新入社員一七名(高卒男九名専門卒男一名女五名大卒男二名)。
丸版鉛版メッキ装置を廃棄、樹脂版製版設備一式を導入。
業
界
関
連
事
項
「キャプテンシステム」、首都圏と
京阪神地区でスタート。
昭和五九年
一月
四月
一一月
営業部に企画開発課設置。
紙型、丸版、メッキ部門廃止。
新入社員一八名(高卒男八名女三名専門卒男一名女三名大卒男三名)。
当
社
関
連
事
項
昭和六〇年
一月
三月
四月
年
月
290
昭和六〇年
五月
本社火災、二名犠牲者。
日本電子出版協会設立。
三月、東印工組、入力・編集・組
版・情報処理・校正オンラインシ
ステム「コンパート」発表。
六月、『婦人生活』八月号で休刊。
平凡社、労働組合に対し会社再建
案提示。
電算用編集校正機一台設置。自費出版パンフレット作成、社内キャンペー ( 社 ) 日 本 印 刷 産 業 連 合 会、 設 立
ン実施。
総会、六月に通産大臣による正式
認可。
日本印刷産業連合会、初の新年交
歓会、一一〇〇名参加(帝国ホテ
ル)。
新入社員二七名(高卒男九名女七名専門卒男二名女三名大卒男六名)。
昭和六一年
一月 「活版から電算写植への年」と社内意識を高める。第一作業部機械製版課
廃止へ。
二月
第 三 作 業 部 に 電 算 写 植 課 新 設( オ フ セ ッ ト 製 版 課・ 作 業 管 理 課 の 三 課 体
制へ)。習志野工場に、東芝機械A縦倍判二色オフセット輪転機AOR3
号機導入。スタバン二台設置。
四月
九月
一〇月
本社、四六判四裁一色機導入(リョービ)。
日書連「売上税粉砕全国書店総決
起大会」、九段会館で開催。
新入社員四〇名(高卒男二一名女八名専門卒男一名女六名大卒男四名)。
こ の 年、『 サ ラ ダ 記 念 日 』、『 塀 の
中 の 懲 り な い 面 々』 ミ リ オ ン セ
NHKTVにて当社紹介(身体障害者の社会進出)。
ラーに。
新 入 社 員 三 一 名( 高 卒 男 一 五 名 女 三 名 専 門 卒 男 一 名 女 五 名 大 卒 男 七 名 )。 七月、全印工連、印刷営業技能審
定年五五歳から五六歳へ。
査スタート。
明治神宮崇敬会野球大会優勝。
新入社員二三名(高卒男一二名女二名専門卒男五名女一名大卒男三名)。
電 算 写 植 導 入( レ ッ ト ン・ サ ゴ メ ス・ サ プ ト ロ ン・ ジ ミ ー・ モ ノ ー ル )、
電算写植課を新設。
第三作業部、第一作業部を統合する。第四作業部、作業統括課を新設。
本社活版輪転課の勤務体制変更。
昭和六二年
二月
平成
元年
四月
主藤敏郎副社長急逝。習志野工場、工場増設地鎮祭。
三月
七月
水道プロセス株式会社設立。
昭和六三年
四月
四月
一二月
九月
三月、日印産連、臨時総会で消費
税カルテル結成を決定。全印工連、
消費税カルテルに一九五一社が参
加。
一〇月
291
一一月
一週間所定内労働時間四四時間。
新入社員三二名(高卒男一八名女四名専門卒男五名女一名大卒男四名)。
スキャナ/ SG618
及び平面スキャナ
スキャニカ 323
を設置。カメラ/
ファインズーム 880
を設置。オプチコピーインポーザカメラシステムを
新設。
皆勤賞表彰制度廃止。
習志野工場敷地内に近代的新工場(三、二四〇 ㎡)を増築、搬送用ロボッ
トシステムを導入し、B半裁四色オフセット輪転機一台増設。
水道プロセス株式会社作業室増設。
電子編集システム/スミエディアン三台を設置。
本社住所表示、新宿区水道町二九から水道町四番一三号に変更。
新宿労働基準監督署より全国労働衛生週間署長賞受賞。
八月
平成
三年
二月
オプチ製版課設置。鉛版課閉鎖。
平成
二年
三月
四月
五月
三月
新入社員二〇名(高卒男八名女二名専門卒男五名女四名大卒男一名)。
六月
七月
四月
全印工連、統一週休日を提唱。
この年、印刷企業の数、減少始ま
る。
国産ドットジェネレータ式カラー
スキャナ発売。
東印工組、東京の印刷組合百年史
を完成。
六月 活輪ベタ勤廃止、昼夜とも日月休務。
七月 所定内労働時間八時間から七時間へ、併せて、固定残業制度廃止。
八月 計算部新設。
トータルスキャナ、全国で九七七
台が稼動(日本印刷新聞社調べ)。
一二月 従 業 員 = 事 務 男 八 三 人 女 二 二 人 計 一 〇 五 人、 作 業 部・ 工 場 男 二 五 六 人 女 この年、
「少年ジャンプ」(集英社)
一七人計二七三人、総合計三七八人。
六〇〇万部突破。
平成
四年
四月 新入社員二六名(高卒男一一名女五名専門卒男三名女七名)。電子編集シ
ス テ ム / ス ミ エ デ ィ ア ン 三 台 を 増 設。 定 年 五 六 歳 か ら 五 七 歳 へ。 休 日 の
取 扱 変 更。 土 曜 日 休 日 月 三 回 へ、 夏 休 一 日、 祝 日 を 休 日 へ( 現 業 部 門 )。
第四作業部六課から三課体制へ。
七月 牛込地区自衛消防大会男子隊優勝。
一一月 年末休暇一二月二八日からを二七日からへ。
印刷工業会、研究報告書「 世紀
印刷産業への提言」を完成。
一二月 従 業 員 = 事 務 男 七 六 人 女 二 八 人 計 一 〇 四 人、 作 業 部・ 工 場 男 二 四 九 人 女
二二人計二七一人、総合計三七五人。
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
年
月
21
292
平成
五年
一月
四月
こ の 年、 日 本 の 印 刷 産 業 四 年 連
続 マ イ ナ ス 成 長。 他 産 業 に 属 す
る企業の印刷事業、金額で全体の
一〇%程度に。
この年、第一八回全国印刷メディ
ア 協 議 会 開 催、 テ ー マ は、「 電 子
化元年、出版印刷の将来を占う」。
一月、阪神淡路大震災、印刷業界
にも大きな被害。
三菱重工業、オンデマンド・フル
カラーのデジタルプレス商品化。
全印工連、理事会、第四次構造改
善の目標「電子化と高付加価値の
推進」を決議。
活版製版課閉鎖。オプチ製版課の部屋拡大。オフセット製版の部屋拡大、 主婦と生活社「主婦と生活」四月
活版の部屋整理へ。
号で休刊発表。
新 入 社 員 四 九 名( 高 卒 男 一 三 名 女 九 名 専 門 卒 男 一 三 名 女 九 名 大 卒 男 四 名
女一名)。
第四作業部の名称を生産業務部に変更。併せて、校正課を新設。
企画開発課制作室にデザイン用マッキントッシュ Quadra800
を二台設置。
営業部にセールス・プロモーション・グループ(SPG)新設。
社宅補修工事、三二部屋中二二部屋社員が住居に、二部屋社用にて使用。 住友金属工業、カラーDTPシス
テム SMI/EDICOLOR
の販売発表。
三月
四月
平面スキャナ/ LUXSCAN4500Ⅱ一式設置。
新 入 社 員 三 〇 名( 高 卒 男 七 名 女 四 名 専 門 卒 男 三 名 女 八 名 大 卒 男 七 名 女 一
名)。
七月
九月
一〇月
平成
六年
一月
五月
六月
を設置。
DAIYA5D-P
新入社員一一名(高卒男二名専門卒男一名女三名大卒男三名女二名)。本
社、 管 理 部 用 紙 課・ 資 材 課 を 廃 止 し 購 買 課 へ。 第 二 作 業 部 輪 転 倉 庫 を 倉
庫係に。習志野
刷版課をオフセット課刷版係に変更。
夏休一日増二日へ。
本 社 三 菱 A 倍 判 両 面 オ フ セ ッ ト 平 台 印 刷 機 導 入。 ハ イ デ ル ベ ル グ 活 版 平
台印刷機撤去、活版平台印刷機なくなる。
パワーマッキントッシュを八台設置、周辺機器として、イメージセッター
、 Fuji Xerox A-Color
、 MICROLINE
を各一台設置。
DT-R2065
従 業 員 = 事 務 男 八 一 人 女 三 一 人 計 一 一 二 人、 作 業 部・ 工 場 男 二 五 八 人 女
三四人計二九二人、総合計四〇四人。
A倍判両面オフセット印刷機
/ 24
インチ/ 18
型(マルチニ)駒無線綴製本機設備一式設置。
NBIS
製本工場新設。
従 業 員 = 事 務 男 七 四 人 女 三 二 人 計 一 〇 六 人、 作 業 部・ 工 場 男 二 五 四 人 女
二七人計二八一人、総合計三八七人。
平成七年
三月
四月
六月
九月
一〇月
一二月
293
平成
八年
二月
四月
九月
一〇月
平成
九年
一月
三月
新 館 四 階 に てMa c D T P ス タ ー ト
マ ッ キ ン ト ッ シ ュ 七 台、 モ ノ ク ロ
プリンター・マイクロライン・イメージセッター( DT-R2065
)
新 入 社 員 八 名( 高 卒 男 二 名 専 門 卒 女 三 名 大 卒 男 三 名 ) こ の 年 よ り 理 系 の
学生を定期採用へ、DTP対応のため。
D T P 組 版 四 色 対 応 へ エ デ ィ ア ン プ ラ ス 導 入。 全 管 理 職、 幕 張 に て 二 泊
三日の研修実施。全印健野球大会四年ぶり優勝。自衛消防大会女子隊優勝、
男子隊準優勝。
野球部、自衛消防隊合同感謝の集いを椿山荘にて。
パ ワ ー マ ッ キ ン ト ッ シ ュ 四 台 増 設。 平 面 ス キ ャ ナ / ベ ル ス キ ャ ッ ト 一 台
設置、 FTS-250
(モノクロスキャナ)一台設置。電子編集システム/スミ
エディアンプラス三台増設、イメージセッター DT-R3075
一台増設。本
館新館をつなぐ通路が三階に完成。
経 営 計 画 発 表。 定 年 を 五 八 歳 か ら 六 〇 歳 へ。 所 定 内 労 働 時 間 七 時 間 か ら
七・五時間へ。定年後のライフプランセミナー実施、以後毎年実施。スキャ
ナ/ SG8060
設置、パワーマッキントッシュ三台増設。
組 織 変 更、 計 算 部 を 計 算 課 へ。 輪 転 課 と 樹 脂 版 課 を 統 合 し、 輪 転 樹 脂 版
課 へ。 オ フ セ ッ ト 製 版 課 と オ プ チ 製 版 課 を 統 合 し プ ロ セ ス 技 術 課 へ。 第
二作業部と第三作業部を統合し作業部とする。
四月 新 入 社 員 四 名( 専 門 卒 女 一 名 大 卒 男 三 名 ) 中 途 採 用 四 名 男 性。 従 業 員 =
事 務 男 一 一 八 人 女 三 一 人 計 一 四 九 人、 作 業 部・ 工 場 男 一 九 五 人 女 二 〇 人
五月、富士ゼロックス、DTP用
計二一五人、総合計三六四人。
デジタルカメラ発売。
六月 全印健野球大会二連覇。
七月 パワーマッキントッシュ三台増設。
九月 小学館コロコロコミック編集部より、最高部数達成に感謝の言葉。 NEWS
増設(二台目)、 EDIANPLUS
一台増設。自衛消防大会男子隊優勝、
Server
女子隊準優勝。
一一月 野球部・自衛消防隊、合同感謝の集いを椿山荘にて。
この年、非印刷産業の印刷出荷額、
一二月 郵便番号簿の受注により、単年度の売上高初めて一〇〇億円を突破する。 印刷産業出荷額の一四%に。
平成一〇年
一月 前 年 の 郵 便 番 号 簿 受 注 の 縁 で、 ポ ス タ ル フ ォ ー ラ ム 参 加。 本 社 食 堂 の リ
ニューアル。
二月 習志野工場に四六全判六色オフセット印刷機設置。FBR1号機撤去。
年
月
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
294
平成一〇年
四月
五月
六月
七月
八月
一〇月
一一月
一二月
平成一一年
一月
三月
四月
五月
六月
七月
一〇月
一二月
平成一二年
一月
新 入 社 員 一 六 名( 高 卒 男 五 名 専 門 卒 男 一 名 女 二 名 大 卒 男 五 名 女 三 名 )。 日本でのCTP設置台数六五台程
一 台 増 設、 APR-ALX
製 版 装 置 一 式、 B Y T -1000
高 速 書 籍 度になる。
EDIANPLUS
輪転機設置。パレタイジング・ロボット導入。
本社、BY全判凸版輪転機、旭化成 APR
樹脂版システム導入。
郵便局給与振込み手続き開始。
富 士 フ イ ル ム、「 シ ョ ー ト ラ ン C
営業部三部体制へ。全印健野球大会一部二部とも優勝。
TPシステム」発表。
習志野工場に自動現像機(富士 PS-1300X
)設置。
一台増設。
EDIANPLUS
(大河)一台設置。スタジオ閉鎖。
RENATUS Rip on Server
本社、菊半裁単色機導入。菊全判四色機・リョービ撤去。年末休暇一二月 上 場 印 刷 企 業 一 〇 社 の 上 期 決 算、
二六日からに変更。従業員=事務男一一八人女二九人計一四七人、作業部・ 全 社 で 売 上 が 前 年 割 れ。 出 版 物
工 場 男 一 八 四 人 女 一 五 人 計 一 九 九 人、 総 合 計 三 四 六 人。 こ の 年 ス タ ジ オ 販売金額、二年連続のマイナス成
廃止。
長。 印 刷 価 格、 前 年 比 マ イ ナ ス
三・五%。
ポジ整理棚設置、収納整理業務を開始。
習志野工場に描画機設置。小学館「ハイパーコロコロ」創刊(当社受注)。
新入社員一一名(高卒男二名女二名専門卒男一名大卒男四名女二名)。社
内LANスタート。
管 理 職 を 対 象 に 考 課 者 訓 練 実 施。 評 価 制 度 見 直 し の た め。 フ ィ ル ム
セ ッ タ ー / DT-R5120
一 台 設 置。 カ ラ ー プ リ ン タ ー / Color Laser
一台設置。習志野工場に殖版機(大床製作所 FA-V77LL
)設置。
Wind3320PS
パ ワ ー マ ッ キ ン ト ッ シ ュ 五 台 等 周 辺 機 器 増 設。 画 像 処 理 の 効 率 化 を 図 る
ため得意先等との交流を促進し技術開発に着手。
平面スキャナ/ LANOVIA MAX
一台設置。習志野工場にて、A判四色オ 全 印 工 連、「 全 日 本 印 刷 産 業 政 治
連盟」が発足。
フセット輪転機稼動開始。全印健野球大会四連覇。
ク ラ イ ア ン ト 一 台 増 設。 MICROLINE903PS
Ⅲ+ 一
EDIAN PLUS NT
F 台
増設。野球部最後の公式戦。同部五一年間の活動に幕。
従 業 員 = 事 務 男 一 一 九 人 女 二 七 人 計 一 四 六 人、 作 業 部・ 工 場 男 一 六 六 人 印 刷 価 格、 前 年 比 マ イ ナ ス
七・二%。
女一四人計一八〇人、総合計三二六人。
三〇〇名体制と組織の見直しへ。
295
二月 ポスタルフェア開催、参加。新館二階にデジタルコンセンサス(DDCP)
設置。
二台設置。モノクロレーザー
印刷総合機材展(インテッ
三月 カラーインクジェットプリンタ/ PM9000C
JP2000
プリンタ/ LP2160
一台設置。
クス大阪)。
四月
二台設置。 RENATUS Server
一台設置。 Flat Worker3.0
一台
True fow RiP
設置。山元正宜常務入社。新入社員一名(大卒女一名)。
五月 デジタル検版機/
一台設置。
第一二回国際総合機材展「ドルッ
DD-i500TF
パ 2000
」開幕。五〇年の記念展(ド
イツ・デュッセルドルフ)。
六月 新館二階、三階DTPフロア拡張工事完了。新館二階にプレートセッター
( DT-R8000
)設置。
七月 本社CTP導入。バーコード出力開始。
一〇月 独身寮建物撤去。
一一月 三晃クラブ契約終了へ。
一二月 社 内L AN ス タ ー ト。 従 業 員 = 事 務 男 一 〇 七 人 女 二 五 人 計 一 三 二 人、 作 印刷産業全体の出荷額、前年比プ
業部・工場男一五五人女一二人計一六七人、総合計二九九人。
ラ ス 一・四 %。 C T P 導 入 企 業 増
加、プレートセッター台数五〇〇
を超える。東京都、印刷物の入札
に お い てI S O 認 証 登 録 企 業 を 有
利に取り扱うと発表。
平成一三年
四月 新入社員八名(高卒男二名大卒男五名女一名)。職能資格制度導入、給与
体 系 な ど 改 定。 中 堅 社 員 研 修 を 土 曜 日 に 実 施。 漫 画 シ ス テ ム、 NPS600
ド キ ュ メ ン ト ス キ ャ ナ 一 台、 リ サ イ ズ ソ フ ト / Copydot Toolkit V3
一
台、 Wl-X Prime9904MK3 Host
サ ー バ ー 一 台、 編 集 機 / AVANAS Multi
三 台、 面 付 RiP
/ True fow PX-11000S
標準プラットホー
Studio V2.2
ム 一 台、 平 面 フ イ ル ム 出 力 機 / FT-R5055
一 台、 モ ノ ク ロ ブ リ ン タ ー /
( 1200dpiA-3
ノビ)一台などを設置。漫画システム(ア
MICROLINElO55PS
バナス)導入。
一台増設。パワーマッキン
六月 カラーインクジェットプリンタ/ PMlOOOOC
トッシュG4六台増設。サーバー/ EDIAN WING
用。
九月 平 面 ス キ ャ ナ / ラ ノ ビ ア ク ワ ト ロ を 二 台 設 置。 カ ラ ー レ ー ザ ー プ リ ン タ
/ 9055CV
を二台増設。
一〇月 菊半裁二色オフセット印刷機設置。 EDIAN WING-V1.6
を七台設置。
年
月
当
社
関
連
事
項
業
界
関
連
事
項
296
平成一三年一一月
一二月
平成一四年
一月
二月
三月
四月
五月
八月
一〇月
平成一五年
三月
四月
パワーマッキントッシュG4三台増設。
本社の活版輪転機を習志野工場に移設。従業員=事務男一〇一人女二二人 〇 一 年 度 の 印 刷 産 業 全 体 の 出 荷
計一二三人、作業部・工場男一五二人女一二人計一六四人、総合計二八七 額、 七 兆 九、七 〇 九 億 円 と 八 兆 円
の大台割り込む。
人。
本 社 か ら 移 設 さ れ た 活 版 輪 転 機 をB Y 全 判 キ ー レ ス オ フ セ ッ ト 印 刷 機 に
第二六回地球環境と
ENEX2002
改造稼動。(「週刊大衆」のオフ化に伴う処置)。 AVANAS Multi Studio-V3 エネルギーの調和展(東京ビッグ
を一台設置。
サイト)。
を一台増設。オプチ閉鎖。
AVANAS Multi Studio-V3
パワーマッキントッシュG4三台増設。漫画システム用に導入。
新 入 社 員 四 名( 高 卒 男 二 名 大 卒 男 一 名 女 一 名 ) の 入 社 式。 そ の 後、 夏 ま
でに中途採用を七名。習志野配属四名、営業配属三名。七月までにパワー
マッキントッシュG4一〇台更新。
パワーマッキントッシュG4三台増設。
平面スキャナ/ラノビア・クワトロ一台増設。 AVANAS Multi Studio-V3.1
を一台増設。 AVANAS Multi Studio
支援パソコン二台設置。
二台設置。
DoCu Color 1255CP
出 版 物 販 売 金 額 二 兆 三、一 〇 五 億
円、 前 年 比 〇・六 % 減 と 六 年 連
続 マ イ ナ ス 成 長。 印 刷 産 業 全 体
の 出 荷 額、 前 年 比 四・五 % 減 の
七兆六、〇六八億円。
日 印 産 連「 シ ー ル 印 刷 サ ー ビ ス 」
などのグリーン基準策定。
297
七月
八月
九月
パ ワ ー マ ッ キ ン ト ッ シ ュ G 4 デ ュ ア ル 三 台 増 設。 フ ィ ル ム セ ッ タ ー
を FT-R5055
に 交 換。 プ レ ー ト セ ッ タ ー DT-R8000
を
DT-R2065
に交換。青焼き機 PD-188一台更新。
DT-R8600
新入社員一〇名(高卒男三名大卒男六名女一名)。二月にも大卒新入社員
(男)一名あり。 AVANAS Multi Studio-V3.1
を増設。従業員=事務男九一
人女二〇人計一一一人、作業部・工場男一四八人女一三人計一六一人、総
合計二七二人。
営業部支援課スタート。
習志野工場に東京機械BY全判一色オフセット輪転機(BYS)導入、稼
動開始。BOR1号機撤去。
本社の活版輪転機二台廃棄(「週刊漫画アクション」休刊に伴う処置)、樹
脂 版 の 業 務 終 了。 活 版 輪 転 五 〇 年 の 歴 史 に 幕。 自 衛 消 防 審 査 会 で 自 衛 消
防男子隊優勝。We b配信データ作成。
Ⅱ
一二月
四月
五月
六月
九月
平成一六年
一月
三月
四月
七月
八月
九月
一〇月
平成一七年
一月
一〇月
平成一八年
一月
四月
五月
六月
七月
D T P 部 門 拡 充 の た め 光 フ ァ イ バ ー 設 置。 営 業 部 が 本 館 三 階 の 一 室 に 引 イ ン タ ー ネ ッ ト 普 及 率 が 六 割 超
越し統合。旧営業部の部屋、新館六階はDTP使用へ。
す。
社 是「 従 業 員 の 物 心 両 面 に 亘 る 幸 せ を 追 求 し 併 せ て 世 の た め 人 の た め と
な る 企 業 で あ り た い 」 を 発 表。 主 藤 常 務 が 専 務 に、 新 井 営 業 本 部 長 が 筆
頭常務に昇格。新館六階をDTPの部屋として活用(設備の増設と光ファ
イバー設備を利用するため)。これに伴い、営業一~三部が本館三階に引
越し。従業員=事務男九四人女二〇人計一一四人、作業部・工場男一三八
人女一三人計一五一人、総合計二六五人。
新入社員八名(高卒男三名大卒男四名女一名)。
本社夜間完全施錠実施(輪転課廃止に伴う処置)。
SPグループ、営業三部に統合される。
水 道 デ ジ タ ル 倉 庫( デ ジ タ ル デ ー タ 保 管 活 用 の た め の 新 会 社 ) 発 足。 従 日印産連、個人情報保護法対応研
業員全員名札着用。自衛消防審査会で自衛消防男子隊優勝(二連覇)。
究会立ち上げ。
社宅一号棟解体へ。
従 業 員 = 事 務 男 九 五 人 女 二 〇 人 計 一 一 五 人、 作 業 部・ 工 場 男 一 三 三 人 女
九人計一四二人、総合計二五七人。
漫画の携帯電話配信データ作成。
新入社員六名(高卒男二名大卒男二名女二名)。
クールビズ導入。
新館二階デジタルコンセンサス・プロを設置。新館三階測色機を設置。
生産管理システムの更新。営業担当者が直接データを入力へ。バックアッ
プ サ ー バ を 設 置。 習 志 野 工 場 AT 倍 判 一 色 オ フ セ ッ ト 輪 転 機 更 新、 稼 動
開始。自衛消防審査会で自衛消防男子隊優勝(三連覇)。
この年、日印産連、VOC排出抑
本社習志野DTPデータ、四重化バックアップシステム導入。
制自主行動計画を策定。
パワーマッキントッシュG5デュアルなど四台増設。
山 元 正 宜 副 社 長 就 任。 品 質 業 務 課 発 足。 新 入 社 員 九 名( 高 卒 男 三 名 専 門 日印産業連、
「グリーンプリンティ
卒男一名大卒男二名女三名)。従業員=事務男九五人女二五人計一二〇人、 ング認定制度」創設。
作業部・工場男一二三人女八人計一三一人、総合計二五一人。
ルネサンス3000導入。
CTP出力に高精彩FMスクリーン導入。
タイムカード廃止、ICカード導入へ。
298
八十年の歩み
三
―晃印刷創立八十周年記念
三晃印刷株式会社
平成二十年十月二十日発行
〈非売品〉
発行 者
〒一六二‐八五三〇
東京都新宿区水道町四番十三号
電話 〇三
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(代
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印刷・製本
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編集協力
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