『存在と時間』 第21節 「世界」のデカルト的存在論についての解釈学的議論 :要約 第19節、第20節、では主にデカルトの『哲学原理』に即して、デカルト哲学の基本性格が取 りだされた。それを受けて第21節では、デカルトが暗黙のうちに前提としている存在了解を取 り出そうとする。その試みは、デカルトの書いたテキストに必ずしも忠実ではないが、デカルト の存在理解の根本を言い当てるという意味で解釈学的議論となっていく。 さてデカルトの哲学における存在論的根本動向とはどのようなことか。それは、「世界の飛び越 し」(Überspringen der Welt)という事態である。デカルトは、確実ではないすべてを徹底的に疑う 過程(方法的懐疑)で知覚されている事物や自らの身体の実在までを疑い、その懐疑の究極で 「我(コギト)思う、我あり」という基本命題に突き当たり、思考する我(コギト)を絶対確実 な知の基盤ととらえ、ここから絶対確実な知を紡ぎ出していこうとする。この作業は反面で、懐 疑の坩堝で生きることとなり、この懐疑から離れない限り現実の生活が困難になる。そこで要請 されるのが、暫定的道徳である。これは、懐疑は懐疑として保持しつつ、日常生活の問題は、と りあえずこれまでの常識にしたがって生活しようという生活方針である。デカルトがこの生活方 針を必要としたことが、はからずも語っているのは、コギトにまで遡ってそこから絶対確実な知 を求めて思考することは、暫定的道徳が機能する世界、すなわち、さしあたってたいてい手元に あるものが出会ってくる世界の飛び越しを伴っているということである。「世界の飛び越し」と はおよそ以上のようなことである。 ハイデッガーは、世界の世界性を「有意義性の全体」と捉え、デカルトが、この「有意義性の全 体」を飛び越え、世界を実体としての物の根本特性である延長(広がり)と同一視していると、 見ている。どうしてこのようなことが起こるのか。それは、デカルトが、理想的な知をガリレイ によってはじめられた数学的物理学の内に見て取り、これをモデルにして知を組み立てようとす るからである。ここでは真理は、「確実性」(Gewissheit)となる。この確実性が、存在するものと は何かを決定する。存在するものとは、数学的な認識によって確実に知られるものである。この 数学的認識の網の目からこぼれて行くものは、もはや存在するとは言い難いものとなるのである。 このような数学的認識への定位は、 「存在は恒常的目の前性である」(Sein=ständige Vorhandenheit) というデカルトの思索の根底にある存在了解と連動している。 このような存在了解から物を層構造として説明する動向が生じてくる。物を説明する場合にまず 基底層としての純粋な思考の対象、延長(広がり)、形態、が語られる。次にその上の層として、 感覚によって知覚されるもの、色、匂い、硬さなどが語れる。さらにその上の層として、美しい、 役立つ、などの物に付着している価値について語られる。このような形で、層を積み上げる形で 論じていけば我々が体験している物の世界に到達するというわけである。しかし、ハイデッガー はこんな形で論じても我々が体験している物の世界に到達することはないと考える。ハイデッガ ーは思索を我々が体験している物の世界から直接はじめるのである。すなわち、さしあたってた いてい手元にあるものが出会ってくる世界から事をはじめるのである。その場合にのみ、事柄を 事柄として論ずることが可能になる。思索は、目の前にあるもの(Vorhandensein)からはじめて手 元にあるもの(Zuhandensein)に至りつくことはない。我々は、世界を論じる場合に手元にあるも の(Zuhandensein)から、すなわち我々が現にここに生きているこの日常性からはじめなければな らないのである。 しかしこのようなデカルトの思想の分析は、デカルトに彼に係わりのない課題が押しつけられ、 それが出来ていないと主張しているのではないか。デカルトのテキストそのものには、世界や存 在そのものについての議論は展開されていないが、この節の議論は、デカルトのテキストをその テキストに添って論ずるのではなく、その背後にある隠されたデカルトの存在了解を暴きだそう とする解釈学的議論なのである。この節で中心のテーマとなっている世界の飛び越えという現象 は、現存在が単に世界を誤って理解しているというようなことではない。これは、現存在(人 間)はこの世界のただ中に確かに生きてはいるが、何かを対象として論じようとすると世界を飛 び越えてしまうという現存在の根本性向を語っているのである。
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