樋口ヨシノ展ギャラリートーク

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樋口ヨシノ展ギャラリートーク
平成25年4月20日(土)
エイブル2階交流プラザ
「鹿島錦と歩んだ半生」と題して、樋口ヨシノさんに「鹿島錦への思い」をインタビュー形式で語っていただ
きました。
(司会)
まず、樋口さんは鹿島錦と「運命的な出会い」をされたそう
ですが、どのような「出会い」だったのですか?
(樋口)
私も96歳になりましたが、私にとって、鹿島は第二の故郷
なんです。生まれは台湾ですが、日本に
来た後、戦争のために帰れなくなり、こ
ちらの方にお世話になってもう70年近
くになります。今では鹿島が一番自分の
樋口ヨシノさん
故郷のようになっております。
私は、昭和 19 年の 3 月末に塩田の叔父の所に来ましたが、叔父が、ここには
有名な三大稲荷のお稲荷さんがあるからお参りに行こうと、4 月 3 日に祐徳稲
荷神社に連れて行ってくれました。その頃は今のお稲荷さんではなくて、前の
たていと
よこいと
建物でした。その奥の方に、何かきれいなものが飾ってありました。経糸も緯糸
も違う何かきれいなものが飾ってあることに気付き、聞けば鹿島錦だと、こう
下げ額「波頭」
台湾の壮大な海をイメージ
かしわおか
いう伝統的なものがあると初めて知りました。それが第九代藩主夫人柏岡様が
はこせこ
織られた筥迫だったのです。
(司会)
初めて鹿島錦を見られた時、どう思われましたか。
(樋口)
自分も手先の仕事が好きなものですから、こんなきれいなものを自分でも織ってみたい、こんなこ
とが手でできるならしてみたいと第一に思いましたね。
そして、教えてくれる人はいないかと聞くと、当時は戦争中でしたから、今頃
そんなことする人はいないということで、そのままになっておりました。
(司会)
「運命的な出会い」をされてから、その後はちょっと間が空くのですね。
(樋口)
太平洋戦争の真っただ中でしたからね。戦争が終わり、時代が変わって、やっ
ぱり私の思いが届いたのか、市の方から後継者養成の講習会をするからと通知
をいただいて、真っ先に申し込みました。昭和43年のことです。
(司会)
(樋口)
茶碗仕服・深もの「初春」
樋口さんは続けるうちに、だんだんのめり込んでいったということですか。
私は講習会を受けた段階で、自分では最初から後継者になったつもりで
いるのですが、認めてもらうには、やはり続けていった方がよいだろう
なべしま ま さ こ
と思いましたね。また、一つには、鹿島鍋島家第14代夫人の鍋島政子さ
んから、終戦後に城内の鍋島邸で何度もお会いして、
「保存会の方で末永
く鹿島錦を残してほしい」と言われました。それにお答えするにはどう
したら良いかなと思いましたが、今のところ、鹿島錦保存会で一緒にお
勉強する方がたくさんできて、続いています。
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(司会)
ここで、ご参加の皆様に鹿島錦の歴史をちょっとご説明します。鹿島錦
なおのり
あ つ こ
は、
今からおよそ200年前、
鹿島鍋島家第九代藩主直彛公夫人の篤子様
かしわおか
なお なが
あ じ ろ
(柏岡公)が天井の網代模様にヒントを得て考案され、第十代直永公夫
と も こ
やなぎおか
なおよし
あ い こ
なおただ
ま さ こ
人の朝子様(柳岡公)がそれを発展させ、第十三代直彬公夫人の藹子様
が完成させたと言われています。そして、第十四代直縄公夫人の政子様
が保存継承されたけれども、その後が鹿島鍋島家は続かなかったのです
ね。そこで樋口さんたちが登場するわけですね。
(樋口)
政子さんの言葉にお答えするためには、会員とともに研究して残してい
かなければいけないと、いつも頭にあります。
(司会)
茶入れ仕服・古袱紗・楊枝入れ
(網代文様)
鹿島錦がここまで残ってきたというのは、やはり鍋島家の奥様方が継承してこられたのと、あと一
つは昭和初期に学校教育に取り入れられたことが大きいのではないかと、樋口さんは思っておられ
るのですよね?
(樋口)
昭和3年に、鹿島立教実業学校の当時の桜井校長が鹿島錦を教科に
取り入れてくださったらしいですね。そこの生徒さんの一人が、後
に後継者育成講習会で私が教わった山浦先生でした。そんなふうで
秋」
戦時中も基礎的なことはおうちでなさっていたのではないでしょう
か。やっぱりそういう教育の現場で取り入れていただくのが一番い
いのではないかと思います。
今のところ高校(鹿島実業高等学校)は保存会員が後を引き受けて、クラブ活動(手芸部)でお世
話になっております。だいたい学校で取り入れてもらえれば大丈夫じゃないですかね。
(司会)
鹿島錦が長続きしている秘訣は何だと思われますか。
(樋口)
私もこんなふうにしていますが私個人の力では絶対出来ることではありません。やはり市の方で後
継者を養成してくださったり、大勢のお力があってできているんだろうなと思っています。口だけ
じゃダメなんです。ここまで来たのも会員達の力もありますが、やっぱり実習の場所を鹿島市が最
初から無料で提供してくださったおかげで一つは続いているのだと思います。いろんな方の指導や
助言を受けてここまできたと思います。
こういうふうに年を取ってくると行動が鈍くなったり、いや
なことを言っているかもわかりませんが、まあ会員の方たち
に辛抱していただいて、私についてきてもらっているという
形で続いています。まあ大変ですけど楽しんでするというの
が鹿島錦が長続きする秘訣だと思います。
(司会)
佐賀錦と鹿島錦の違いはどこにありますか?
(樋口)
鹿島市が、鍋島家から続いた伝統を後世に残すためにと、昭和43年に保存会をつくって、そこの
鹿島錦保存会の教室風景(エイブル 3 階)
後継者養成の講習会に私は行ったのです。一年とちょっとですけど。
ところが講習に行ってる方たち自体がもう鹿島錦というより佐賀錦
という認識でしたね。
鹿島錦を明治の終わりに大隈重信さんのはからいで佐賀錦として出
仕舞扇入れ「舞姿」
しましたでしょ(明治43年にロンドンで開催された日英大博覧会
に「佐賀錦」の名で出品)。それから佐賀錦ができたんです。全く元は鹿島錦がルーツなんです。
戦争も終わり高度成長期になると機械織りになり、ホテルや小さな旅館でも、バッグとか草履とか、
3
ペアで2000円、3000円で出してあるんですよ。それが不思議なことに、機械織りなのに「佐
賀錦手織り」として出してあるんですよ。皆さんお若いからご存知の方はあまりおられないでしょ
うけど。
ここに持ってきている財布は、まだ講習を受けている時代、山浦
先生の時代に織って作品にしたものです。もうそろそろ鹿島錦も
何か作品ができているだろうから世間に出そ
うと、鈴田滋人先生のお父さん、照次先生が
鹿島錦にも興味を持っていただきましてね。
ちょうど昭和45年に大阪万国博覧会があり
大阪万博出品作品(二つ折り財布)
ましたから、鈴田先生が万博に出品しようと言われて出したのがこの2品です。
私も自分の作品が出たから2回も見に行きましたけどね(笑)。
万博がすんで県知事さんから感謝状がわたるということでもらいに行きまし
たよ。でも、鹿島錦じゃなく佐賀錦としての感謝状だったので、当時の市長さ
んに、
「私、佐賀錦じゃなく鹿島錦として出したのですけど、佐賀錦と書いてあ
りました。」と申しました。まあ随分前のことだからこういうこと言ってもいい
でしょうけどね。全く同じものがうまく二つに分かれたのだろうなあと今では
帯「波の譜」
思っております。
佐賀市のガイドブックに私の作品が載せてあった時も、佐賀錦と紹介してあり
春の静かな有明海。模様は
鈴田照次先生から助言あり。
ました。そんなふうなときがありましたよ、初めはね。
(司会)
鹿島錦はどういう材料を使われているのですか。
(保存会:相浦)
よこいと
たていと
緯糸は全部絹糸ですけど、経糸は和紙に金箔・銀箔・漆
うるし
箔などを置いたものです。これはピンクの 漆 ですね。これは本
きんぱく
金箔、ちょっと光が違いますね、この漆のところに少し本金がち
す な ご
らばせてあります。これは私たち砂子っていいますけど、こんな
たていと
たていと
経糸があるんですよ。基本的には、金銀の和紙や漆箔の経糸を使
い、漆のところに本金を貼っていって、こんな細い40割とか5
0割とか、大きいのは35割とかに裁断して作っていただくんで
鹿島錦保存会の相浦さんによる説明
す。
(司会)
そういう材料を作る会社が京都にあるんですね?
(樋口)
材料は、初めのうちは講師の先生から分けてもらいましたが、やっぱり自分たちがする様になった
ら材料からなにから困るわけです。そしたら私だけ京都の方に何回かやらされたこともあります。
糸屋さんとかお願いにあがりました。今もそれがずっと続いているわけです
から、鹿島錦はこういうものだっていうのもご存知ですものね。5年ほど前
に私の個展を博物館でさせていただいた時には、業者の方にも見に来ていた
たていと
だきました。こんな大々的にしてるとはびっくりしたとおっしゃって、経糸も
鹿島錦さんには出来るだけ良いのをあげますと言われたから、それを今のと
ころ、信用してるわけです(笑)。
雅袋「春の装い」
(司会)
はこせこ
樋口さんが最初に出会われた筥迫は今も祐徳博物館に飾ってありますが、時にはご覧になられます
か?
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(樋口)
はい、今日でもその筥迫のことを考えて、当時こういうふうに考えてなさっ
たねと、自分の研究する中の一つに入れておりますから、今でも祐徳博物館
じゅう
に行って、現物を見る度に、初心に帰っています。ものごとは、「十 を知っ
いち
て一に帰りなさい」
「ある程度知ったら、基礎に帰ってまた研究しなさい」と
私たちお習いする時に言われたものですから、今もそういうふうにしていま
す。
「初心に帰る」というのは何の仕事も同じだと思います。鍋島家代々、基
礎になる織物から続けていらっしゃるようですね。自分で研究したこともあ
りますが、本筋は、鍋島家が残してくださったものが基本になりますね。
(司会)
樋口さんが目指しておられることは、どういうことですか?
(樋口)
やっぱり会員が途切れなくいて、鍋島様がおっしゃったように、先々まで鹿
下げ額「千波万波」
島の伝統工芸として続いてほしいなあと思います。それにはやっぱりこれに
携わる者の研究とか研修とかいろんなことしなくちゃいけないですよね。
(司会)
鹿島錦は樋口さんにとって何ですか?
(樋口)
私の一生を楽しく過ごさせてもらったものだと思います。私の宝ですもの。会員も宝、市も宝、宝
物は沢山あるけどね。本当の宝はその人の体の中に持ったものが、その人、その人のもった宝では
ないでしょうか。だから錦についても自分が体験したことは次の人に譲ってやりたい。自分が持っ
ていっても何にもならんでしょ。私はいつ向こうに行くかわかりませんけどね。まあ、今のところ
はまだ行きたいとも思わないし、まだまだ会員と一緒にしたいという気持ちが強いですが。
(司会)
もう一つ、樋口さんの健康の秘訣は何でしょうか?
(樋口)
健康の秘訣は、鹿島錦をしているからじゃないでしょうか?
皆さんと沢山
会って、皆さん、私より若い方ばかりでしょうが。私のひ孫ぐらいの方も一
人います。あとは二回りもみまわりも若い方ばかりで、自分の兄弟よりも子
とか孫とかいう感じだもの。だから、可愛いんですよ。なんかあってぐずぐ
ず言わないといけない時でも、可愛いって言うとおかしいかもしれないけど、
やっぱり年とるとそんな気持ちになるんですかね。だから少し疲れたという
人が出てきたら、「あんた?年幾つ?」って聞くん
ちゃんちゃんこ「米寿」
ですよ。若い方ばかりですもの、こんなにしていても(笑)。私より上い
ないの(笑)。この年まで自分の好いたことを、会員の若い方たちとお付
き合いができるということは、私は良い人生だったなあと思いますよ。
いろんなことに遭遇してきていますけど。私の独りよがりですけど、楽
しくしないと続かないですよ。おしゃべりもしてみたり、一所懸命する
時はする。休む時は休む。先ほども健康の秘訣を聞かれたけれど、動く
こと。動いたら食事もおいしいし、しゃべってもいいし、どこかにでか
けてもいいし、私は錦をすることが一番楽しい。もうこれ以上の人生は
ないでしょう。
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<質疑応答>
【質問】佐賀城本丸歴史館でボランティアをしております。3、4年前、佐賀城本丸歴史館に天皇皇后両陛下
が来られた際に、
先生が実技をしてごらんになられたと伺いました。その時のことをお話しください。
【回答】平成18年でしたか、
「全国豊かな海づくり大会」で
天皇皇后両陛下が佐賀に来られた時があって、頭が
つかえそうなくらい間近で私の織るのをご覧になっ
て、中腰になってニコニコして、その時県展に入選
した尺八袋を置いていたら、
「きれいですねー」とた
め息ついておっしゃったですよ、優しいお声で。昔
左:尺八袋「雅」
右:七五三バッグ「よろこび」
は天皇・皇后さんといったら雲の上の人で絶対会うことはなかったですけどね。その時ちょうど七五
三のバッグを織っておりましたので、いろいろ質問してくださいました。後から聞いたら、どこに出
かけるにもその土地のいろんなお勉強なさって来られるそうですね。
私の一番の思い出です。
また、これは別の話ですけれど、アメリカのカリフォルニアに移民として行
かれた佐賀県人の方の100周年記念として、鹿島錦を出してくれと言われ
たことがありました。なぜ鹿島錦かというと、鹿島錦が発祥の地として伝統
を守っているからということでした。そしてアメリカにも連れていってもら
いました、佐賀空港からチャーター機で飛びましたので、楽に行ってきまし
た。これも良い思い出の一つです。
チェーン付き提げバッグ
鹿島錦の作品を織るということは難しくはありませんが、どんなにしたら続けてもら
えるかなということが心配なところがあります。今のところ、相浦さんとか栗原さん、
山口さんという指導者が頑張ってくれていますし、また山口さんには現在も鹿島実高
の方に指導に行ってもらっており、保存会も高校とつながってしていますから、大丈
夫かなと思います。
でも、会員も40名からおりますが、自分たちの力だけでは残していけません。市と
か県とかのお力添えが必要ですし、皆様方も何かありましたら、お力をお貸しくださ
い。よろしくお願いします。
タペストリー「むら雲」
今日は、ありがとうございました。
◇協
力:鹿島錦保存会(相浦、栗原、山口)
◇聞き手:かしま市民立楽修大学(小野原)
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ギャラリートーク風景
前期展示風景
後期展示風景