非定型的な経過をたどった 妊娠高血圧症候群(PIH)並びに PIH 類似の

第 24 巻第 1 号,2009 年
症 例
非定型的な経過をたどった
妊娠高血圧症候群(PIH)並びに PIH 類似の 2 症例
―妊娠性アンチトロンビン欠乏症との関連について―
弘前大学大学院医学研究科産科婦人科学講座
山 本 善 光・飯 野 香 理・福 山 麻 美
田 中 幹 二・尾 崎 浩 士・水 沼 英 樹
Cases of PIH and similar to PIH with atypical clinical course
— relevance to pregnancy-induced antithrombin deficiency(PIATD)—
Yoshimitsu YAMAMOTO, Kaori IINO, Asami FUKUYAMA
Kanji TANAKA, Takashi OZAKI, Hideki MIZUNUMA
Department of Obstetrics & Gynecology, Hirosaki University School of Medicine
症例 1
は じ め に
患者:39 歳
妊娠中は,分娩時の出血に備えて凝固能が
妊娠分娩歴:1 経妊 0 経産(化学流産)
亢進状態にあると古くから指摘されている。
既往歴,家族歴:特記事項なし
その凝固亢進状態の中で,アンチトロンビ
現病歴:卵管因子による続発不妊のために
ン(AT)はヘパリンと共に作用してトロン
他院で体外受精・胚移植を行い妊娠が成立
ビン・アンチトロンビン複合体(TAT)を
し,妊娠 8 週で転居のために当院に紹介と
形成することによりトロンビンの不活性化を
なった。外来での妊娠経過は順調であった
行っており,血液の流動性を維持する上で重
が,妊娠 34 週頃より尿蛋白が出現し,体重
要な役割を果たしている。Minakami らは,
は 1 週間で 2 kg 増加(非妊時から 10 kg の
妊娠後半にかけてこの AT 活性低下を示す
増加)
。下腿浮腫も著明となったため,妊娠
妊婦の存在に着目し,この状態を妊娠性アン
35 週で入院管理とした。この間,
血圧は 110∼
チトロンビン欠乏症(PIATD)と呼ぶこと
120/70∼80 台で安定し上昇傾向はなかった。
を提唱し,これらの患者では急性妊娠脂肪肝
入 院 時 現 症( 妊 娠 35 週 )
: 身 長 163.5 cm,
や HELLP 症候群の発症リスクが大きくなる
体 重 69.9 kg( 非 妊 時 59 kg)
, 血 圧 126/75
1)
と述べている 。
mmHg,尿蛋白は陰性。末梢血検査は異常
今回我々は,急激な体重増加から始まり,
なく,生化学検査では総蛋白(TP)5.1 g/dl,
血液データ上,アンチトロンビン(ATⅢ)
アルブミン(Alb)3.0 g/dl と低下が見られ
の低下を認め,最終的に妊娠終了の選択を
たが,腎機能異常などはなかった。凝固機能
行った 2 症例を経験したので報告する。
系検査では ATⅢ活性のみが 65%と低下し
ていた。胎児の推定体重は週数相当で発育良
好 で あ り,NST で も reassuring pattern で
― 13 ―
(13)
青森臨産婦誌
Ht(%)
Plt(/μl)
Fib(mg/dl)
FDP(ug/ml)
ATIII(%)
TP(g/dl)
LDH(g/dl)
HE(mg/dl)
37.4
21.2
383
5.3
72
6.1
185
50
32.5
19.2
363
3.1
65
5.1
200
ー
33.6
18.9
349
5.4
70
4.9
203
20
30.4
182
320
6.9
60
4.7
193
ー
図 1 症例 1 の主要データの推移
あった。
ず発熱と著明な CRP の上昇(7.1 mg/dl)が
入院後経過:食事療法(1840 kcal,塩分 10 g
あったため,妊娠 37 週 4 日子宮内感染疑い
以下)と安静で経過観察を行ったが,体重は
で,緊急帝王切開術を施行した。児は 3430 g
当初 1 週間に 4 ∼ 5 kg のペースで増加した。
の男児で Apgar スコアは 1 分後 7 点,5 分
1 日の尿量も 500∼800 ml と減少傾向となっ
後 9 点であった。レチウス窩や子宮漿膜など
た。妊娠 36 週には ATⅢ活性が 60% とさら
に著明な炎症所見が見られたが,羊水に混濁
に低下した。TP は 4.7 g/dl,Alb 2.8 g/dl と
はなく,また児にも全く感染徴候はなく,分
こちらもさらなる低下を示したが,蛋白尿は
娩前の急激な炎症反応上昇の原因は不明で
出現せず,また尿酸値 4.2 mg/dl,尿素窒素
あった。分娩後も尿量が少なく,補液と利尿
8 mg/dl, クレアチニン 0.6 mg/dl 等明らかな
剤の持続投与で何とか時間尿量 30 ml を確保
腎機能の悪化を思わせるデータもなかった。
する状態であった。術翌日には ATⅢは 43%
妊娠 37 週に至り,血圧が 148/97 mmHg と
とさらに低下し,ATⅢ製剤 1500 単位の補
初めて妊娠高血圧症候群(PIH)の基準を満
充を行った。CRP は 23.5 mg/dl とさらに高
たすレベルにまで上昇し,これ以上の待機的
値となったが,抗生剤投与にて徐々に改善し
療法は危険と考え分娩誘発の方針となった。
た。術後一時的な血圧上昇があったものの降
分娩前体重は 79.7 kg となり,入院後 3 週間
圧剤を使用することもなく,AT 活性も徐々
で 10 kg,非妊娠時からは 20 kg 以上の増加
に上昇し,術後 4 日目からは利尿も順調とな
であった(図 1)。
り 11 日目に退院となった。退院時の体重は
分娩経過・産褥後経過:妊娠 37 週 1 日,子
63.1 kg で,分娩時に比較して 16.6 kg の減少
宮頸管が未開大であったためラミナリアを
であった。
用いた頸管拡張を行い,翌日(妊娠 37 週 2
日)よりプロスタグランジ F2α,オキシトシ
症例 2
ンを用いて分娩誘発を行ったが有効陣痛は得
患者:24 歳
られなかった。その後,未破水にもかかわら
妊娠分娩歴:0 経妊 0 経産
― 14 ―
(14)
第 24 巻第 1 号,2009 年
Plt(/μl)
Fib(mg/dl)
FDP(ug/ml)
ATIII(%)
UA(mg/dl)
LDH(U/l)
HE(mg/dl)
19
341
85
5.1
148
ー
16.7
312
4.1
74
5.5
179
ー
16.8
341
16
293
4.5
71
6.3
196
ー
6
175
ー
14.8
329
5.6
71
7.1
215
50
11.6
323
6.5
63
7.7
238
300
8.1
334
5.9
84
7.8
250
200
図 2 症例 2 の主要データの推移
既往歴:特記事項なし。
体重差の原因としては,Ⅱ児の臍帯の辺縁付
家族歴:祖母,祖父が糖尿病。
着が疑われた。妊娠 30 週から下肢の浮腫と
現病歴:自然妊娠による 1 絨毛膜 2 羊膜性妊
急激な体重増加(4 週間で 8 kg の増加)が
娠(MD 双胎)として,妊娠 10 週に当科に
見られたが,
血圧の上昇や蛋白尿はなかった。
紹介となった。妊娠 20 週頃から両児の体重
妊娠 33 週より ATⅢ活性が 71% と低下し,
差が出現し,妊娠 26 週にはさらに体重差が
血小板も少しずつ減少傾向となり,尿酸値も
拡大(第Ⅱ児の発育不良)し,羊水量の差も
6.0 mg/dl と上昇傾向となった。妊娠 34 週
大きくなってきたため,selective IUGR とし
6 日に至り ATⅢ活性 63%,血小板数 11.6×
て入院管理とした。
103/μl と減少し,一方,尿酸値は 7.7 mg/dl,
入院時現症(妊娠 26 週)
:身長 159 cm,体重
蛋白尿も 2.6 g/日と急激な増悪が見られた。
70 kg( 非 妊 時 58 kg)
, 血 圧 120/70 mmHg。
ATⅢ製剤 1500 単位の補充を行うことによ
尿蛋白は陰性で,浮腫は見られなかった。末
り翌日には ATⅢ活性 84%と改善したもの
梢血検査では血小板数は 19.2 × 103/μl で低下
の,血小板数は 8.1 × 103/μl とさらに減少し
なく,生化学検査でも異常はなかった。凝固
たことから,
急速遂娩を要すると考えられた。
機能検査でも異常なく,ATⅢ活性は 93%で
しかし,この時点で血圧は 137/85 mmHg と
あった。
PIH の基準は満たしていなかった(図 2)
。
第Ⅰ児(頭位)の推定体重は 773 g(-0.9
分娩・産褥経過:子宮頸管が未熟であり,第
SD)
,羊水最大深度は 8 cm であり,第Ⅱ児
Ⅱ児が骨盤位で発育遅延もあることも考慮
(骨盤位)の推定体重は 539 g(-2.8 SD),羊
して,妊娠 34 週 5 日選択的帝王切開術を施
水最大深度は 3 cm であった。
行した。Ⅰ児は 2430 g の男児で Apgar スコ
入院後経過:入院後は両児とも発育良好とな
アは 1 分後 5 点,5 分後 6 点。Ⅱ児は 2007 g
り,羊水量も両児とも正常範囲内となった。
の 男 児 で Apgar ス コ ア 1 分 後 7 点,5 分
― 15 ―
(15)
青森臨産婦誌
表 1 PIATD について 1,2,4)
定義:妊娠中の AT 活性減少が確認されており、分娩前あるいは産褥 2 日以
内の AT 活性が 65%以下
発症頻度:単胎で 1 ∼ 2 %、双胎で 10∼15%(決して稀ではない)
原因:AT の血管外漏出、消費、肝機能障害による産生低下
病態:血液濃縮(循環血液量の減少)、凝固線溶亢進
PIH との関連:単胎では患者の 23%、非 PIH 患者の 2.3% で発症。多胎では
PIH 患者の 23%、非 PIH 患者の 18.5% で発症(多胎妊娠では非 PIH 患
者でも多く発症する)
治療:妊娠終了(AT 製剤使用は今後検討)
予後:HELLP 症候群や急性妊娠脂肪肝に移行するリスクあり
後 9 点であった。術中出血量は羊水を含ん
どから細胞外液の血管外への漏出が起こり,
で 1783 g であった。術翌日には ATⅢ活性
さらには血管内脱水,尿量減少に至ったもの
4
は 60%と再び低下し,血小板 8.5 × 10 /μl,
と予想される。血管内脱水となればヘマトク
GOT 51 U/l,LDH 416 U/l と HELLP 症候群
リットは上昇するが,本症例では異常は指摘
に準ずる値となったが,術後 2 日目には AT
できなかった。後に確認したところ相当量の
Ⅲ 64%,血小板 9.7 × 104/μl,GOT 49 U/l,
飲水があったことから,それによってヘマト
LDH 339 U/l と改善傾向に転じ,その後急速
クリット値が是正されていた可能性はある。
に血液データは改善した。尿蛋白も消失し,
2004 年に改訂された PIH の診断基準では,
術後 7 日目には経過良好にて退院となった。
妊娠時に通常見られる浮腫には病的意義はな
また,両児とも早産低出生体重児として入院
く妊娠結果にも悪影響を及ぼさないこと,ま
管理を行ったが,経過順調にて第Ⅰ児は 11
た国際的にも普遍性のある診断基準に改正す
生日目に,第Ⅱ児は 19 日目に退院となった。
る必要があるとの考えから,浮腫を除外して
いる。しかし,現実の日常診療の中では当初
考 察
浮腫以外の症状のなかった妊婦が,後に PIH
表 1 に PIATD の特徴を示す。Minakami
を発症するというのはしばしば経験するとこ
らは,「妊娠中にアンチトロンビン活性が
ろである。また,妊娠 28 週未満に発症する
徐々に減少し,その活性が 65%以下になっ
浮腫は,その後約 30% の症例で高血圧を発
たもの」を妊娠性アンチトロンビン欠乏症
症するという報告もある3)。従って,早期に
1)
(PIATD)と呼ぶことを提唱している 。本
発症するタイプや急激に増悪する浮腫を認め
症の原因としては,過凝固状態改善のための
る症例では,少なくともヘマトクリット値や
ATⅢの消費,アルブミンと同程度の分子量
AT Ⅲ活性を計測して,異常値を示した場合
である ATⅢの血管外漏出などが考えられて
には厳重な経過観察が必要である。
いる。また PIATD の病態として重要なこと
症例 2 では,血液データ上 ATⅢの低下か
としては,同症の患者では PIH 患者に比べ
ら始まり,遅れて血小板減少となり結局,最
て,血管透過性の亢進により血液の濃縮が進
後まで PIH の診断基準を満たすことなく,
んでいて脱水状態にあること,また線溶凝固
HELLP 症候群に近い病態へと進行している。
2)
系が亢進していることがある 。
本症例で特に着目すべき点は,PIH の診断
症例 1 は,急激な体重増加から始まりその
基準を満たさなくとも PIATD は発症するこ
後 ATⅢ活性が低下し,PIH の診断基準を満
と,ひとたび血液データが悪化傾向を示した
たす血圧上昇は急激な体重増加から 3 週間後
場合にその後の進行が速いことであろう。
であった。本症例では全身浮腫,体重増加な
PIATD は正常単胎妊婦では約 1 %,PIH
― 16 ―
(16)
第 24 巻第 1 号,2009 年
を合併した単胎妊婦では約 23%に合併する
例 2 でも,分娩翌日には ATⅢ活性の低下や
と報告されており,PIH 合併妊娠での発症が
肝機能障害,LDH の上昇が見られている。
多い。しかしながら多胎妊娠の場合には PIH
PIATD 症例において,ATⅢ活性の減少傾
合併のない妊婦でも 18.5%に発症(PIH 合併
向は分娩翌日まで継続すると報告されてお
4)
妊娠では 23%)すると報告 されていること
り1),我々の経験した症例でも同様であった。
から,特に多胎妊娠では PIH 合併のない症
また HELLP 症候群についても,血小板数は
例でも高頻度で発症することを充分認識して
分娩後 2 日まで減少することが多いこと6),
おく必要がある。従って多胎妊娠においては,
また産褥に発症する症例が 30% は存在する
PIH 症状がなくても,妊娠後半期にはルーチ
(ほとんどが 48 時間以内)ということ7)を認
ンで AT 活性測定を行い(浮腫などの症状
識しておく必要がある。したがって分娩終了
があればもちろん,それ以前からでも),減
後も安心することなく,特に 2 日間は血液
少傾向を示した場合には頻回に凝固系,生化
データが改善してくるか否かを厳重に観察し
学,末梢血検査を施行することが必要である。
続けることが重要である。
そして増悪傾向がある場合には,その進行の
早さを認識して妊娠終了の時期を逸すること
のないよう十分留意しなければならない。本
結 語
症例では,連日の血液検査によって急速な血
PIATD は,単胎妊娠では PIH 合併症例で,
小板数減少を確認し,速やかに termination
多胎妊娠では PIH 合併の有無にかかわらず
を行うことができた。分娩後の肝機能障害や
出現することがあり,決して稀な疾患ではな
LDH 上昇等を考慮すると,万が一,妊娠終
いことを強調したい。
了時期が遅れていれば,完全な HELLP 症候
必要時にはルーチンの採血だけではなく
群へと移行していたことは想像に難くない。
ATⅢ活性の測定も行い,低下傾向を認めた
本症例の分娩様式に関しては,子宮頸管の
場合には妊娠終了のタイミングを逸すること
未熟性や双胎妊娠(第Ⅱ児が骨盤位)などを
のないよう厳重な管理を行うことが重要であ
考慮して帝王切開を選択したが,PIATD が
る。
増悪した場合の分娩様式に関しては今のとこ
ろ一定のコンセンサスは得られておらず,妊
文 献
娠週数や病態の状況(進行度),子宮頚管の
1)
Minakami H, Watanabe T, Izumi A, Matsubara
S, Koike T, Sayama M, Morikawa I, Sato I.
Association of a decrease in antithrombin
Ⅲ activity with a perinatal elevation in
aspartate aminiotransferase in women with
twin pregnancies; relevance to the HELLP
syndrome. J Hepatol 1999; 30: 603-611.
状態(予想される分娩終了までに要する時
間)
,胎児の状態等を総合的に勘案して決定
すべきであると考える。
AT Ⅲ製剤の使用の投与により,重症 PIH
患者においては母体の血圧低下,胎児胎盤系
の機能の改善,胎児発育の促進が得られたと
いう報告がある5)。PIATD 患者での AT Ⅲ
2 )森川 守 . 妊娠性アンチトロンビン欠乏症の臨
床的意義 . 第 56 回日産婦学会北日本連合地方部
会学術講演会抄録集 2008; 41-47.
製剤使用に関するデータはないが,血管内皮
障害をも惹き起こすトロンビンの不活化をも
3 )黒川達郎 , 宮本新吾 , 内海善夫 , 東原潤一郎 , 下
川 浩 , 中野仁雄 . 妊娠浮腫が母児の予後に与え
る影響 . 日産婦誌 1988; 40: 9-13.
たらす ATⅢ製剤の使用は,分娩後の血栓症
の予防という観点から考えても(特に帝王切
開術施行例で)考慮に値する方法と思われる。
症例 1 では,分娩翌日に ATⅢ活性が更に
低下し,術後の尿量確保にも苦労した。症
― 17 ―
(17)
4 )森川 守 , 山田 俊 , 水上尚典 . 凝固・線溶系と
妊娠高血圧症候群―特に多胎妊娠に注目して―.
産婦実際 2008; 57: 47-54.
青森臨産婦誌
5 )Maki M, Kobayashi T, et al. Antithrombin
therapy for sever preeclampsia: Results of
double blind, randomized, placebo-controlled
trial. Thromb Haemost 2000; 84: 463-466.
Obstet Gynecol 1999; 42: 532-550.
7)
Barton JR, Sibai BM. Diagnosis and management of hemolysis, elevated liver enzymes, and
low platelets syndrome. Clin Perinatol 2004; 31:
807-33.
6 )Magann EF, Martin JN Jr. Twelve steps to
optimal management of HELLP syndrome. Clin
― 18 ―
(18)