新 丙午生まれって? 旭川市医師会 高 橋 美有生 中 澤 清 平 山 美人と酒と二日酔 深川医師会 午と美味(ウマ)と馬 函館市医師会 拓 也 春 随 想 新年を迎えて~私の愛車「ギャランVR4」 金 上 宣 夫 飽 津 泰 史 旭川市医師会 浜 口 英 寿 千歳医師会 津 村 宣 彦 胆振西部医師会 武 智 室蘭市医師会 今までそしてこれから 岩見沢市医師会 紹介状を書くにあたり 千歳に赴任して 思うこと 茂 新たな発見と今後の課題-育児支援の必要性- 札幌医科大学医師会 新飯田 裕 一 大 堀 克 己 上 舜 友 一 郎 待ったなしの認知症対策 札幌市医師会 老人医療の現場で考えたこと 釧路市医師会 井 北海道医師会館・大通公園を想う 札幌医科大学医師会 黒 川 9・11同時多発テロとアメリカ一人旅 秋 田 治 邦 十勝医師会 藤 沢 明 徳 羊蹄医師会 木 原 光 昭 函館市医師会 水 関 清 札幌市医師会 鈴 木 ひとみ 滝川市医師会 放射能汚染と共存する人類 シーザー一考 富士は、日本一の山 山 風のまにまに-走り抜けた人々- 帯広市医師会 新 井 三 郎 崎 裕 子 田 純 一 人生終盤もワクワクドキドキで 江別医師会 岡 2015年へ向けての抱負「3 0 7 6 」 札幌市医師会 岡 (順不同・敬称略) 49 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 そそのかされて放火をし続け、お咎めを受けること になりますが、そのお七が1666年の丙午生まれだっ たというのです。 そこから丙午生まれの女性は気性が激しく、夫を 殺すという伝説になったようですが、私に限ってい えば、丙午生まれだからと言われて、自分でも納得 してしまうほど「気が強いこと」は当たっています。 この性格が災いしたことは数知れず。 火災に因縁があるかといえば、これも、大ありで す。形成外科ではヤケドの治療を行いますが、急性 期病院で勤務していたころは、どこにいても消防車 のサイレンが聞こえると、自分のポケベルがいつ鳴 るのかとひやひやしていたものでした。 今、上の子が12歳です。育児に忙殺されたこの12 年間でした。次の午年(還暦)までの12年間は、ど んな人生を送ることになるのでしょう。はてさて、 私はこの後、夫を食い殺してしまうようなことにな るのでしょうか? どちらにせよ、自分自身がとて も充実していくのではないかと楽観的に想像してお ります。 丙午生まれって? 旭川市医師会 回生会大西病院 高 橋 美有生 今年が午年だと認識したのは昨年の10月初旬、わ が子らが通っている牧場で「年賀状用の写真を撮ら なくては…」という声を聞いた時でした。そうか、 とうとう年女なのだなあと思っていたころ、この原 稿の依頼が舞い込んできてしまいました。 昭和41年生まれの私たちは、60年に一回の丙午(ひ のえうま)生まれです。日本の人口変化のグラフを 見ると(図)、自分たちの年代がどこにあるのかが一 目瞭然です。何故なら、男性・女性とも、そこだけ がガクンと人数が少なく、棒グラフが凹んでいるか らです。 小さいころ、母から丙午にまつわる話を聞きまし た。と言っても「丙午の女は夫を食い殺す。迷信で はあるけれど、だから、その年に世の中の母親はな るべく子どもを生まないようにしていたのだ」とい う簡単なものでした。私の母は特別気にもしない で、私が生まれた時即座に「これは将来受験も有利 だわ」と思ったとのことでした。 そうです。高校受験は本当に楽でした。大抵の高 校の受験倍率は前年より少なく1.0や、せいぜい1.1 倍という数字でした。大学受験ともなると、浪人生 も含まれてくるので、丙午生まれの恩恵は少し軽減 したかもしれませんが、それでも、人数が少ないと いうのは、学校生活全般で余裕があったのではない かと思われます。 その迷信とやらをネットから探してみると… 1681年、江戸時代の火災の避難所で、八百屋お七が ある男性と出会い、恋に落ちます。その後、再び会 いたければまた火事になればよいと、火事場泥棒に 図 総務省統計局ホームページ 「人口ピラミッド 平成2 2 年(2 0 1 0 年) 」より 蛎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎劃 嚇 嚇 本会では、例年新年号に「新春随想」を 嚇 (名) 嚇 嚇 企画し、年男・年女に当たられます会員諸 嚇 男性 女性 合計 嚇 氏より無作為に選定させていただき、執筆 嚇 36歳 43 17 60 嚇 嚇 嚇 をご依頼申し上げております。 48歳 176 19 195 嚇 時節がら、ご多忙にもかかわらず、ご寄 嚇 嚇 60歳 233 23 256 嚇 稿いただき感謝申し上げます。 嚇 72歳 94 5 99 嚇 嚇 北海道医師会会員数は、男性7,450 名・女 嚇 84歳 65 4 69 嚇 性8 4 9 名の合計8 , 2 9 9 名 (1 2 月1 0 日現在) 。 その 嚇 嚇 96歳 3 2 5 嚇 嚇 うち午年生まれの会員は別表のとおりです。 嚇 合計 614 70 684 嚇 ◇情報広報部◇ 嚇 嚇 各鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎鈎廓 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 50 学反応が起こるわけではなく、酒の種類を変えると 新鮮な味との出合いに弱いため、そこが改めて飲酒 のスタートラインになってしまうので飲み過ぎにな りやすいのだ。 もともと日本人はアルコールに弱い人種と言われ ている。アセトアルデヒドを肝臓で分解するときに 使われる脱水酵素は2種類あるのだが、日本人の半 数以上はこの酵素を1種類しか持っておらず、しか も少ないので体質遺伝ともいうのであろうか、酔い も早く一定量を超えると座を乱しかねない。 さて話は変わる。美人と言えば昔から秋田美人と 京美人に代表されるが、よく考えてみると、この二 つの地方はいずれも酒の名産地でもある。つまり酒 の名産地は美人の産地でもあることになるが、酒が 美人を生産しているとは考えにくい。酒造りに適し た水は雑菌が少なく、ミネラルの多い硬水だが、硬 水は便秘を防ぎ、新陳代謝を促して余分な脂肪を残 さず、メラニン色素の皮膚への蓄積を防ぐので、毎 日硬水を使っている女性は太らず色白の美人になる のだろう。つまり美人との関わりは酒ではなく水な のだと思われる。さりとて酒の名産地以外の地方の 女性が色白美人になるため毎日ミネラルウォーター を買って飲み水から料理まですべて賄うのは家計上 ちょっと大変である。 ところでわが家には愛飲家がいないので、用意さ れた酒の大半は私の胃袋に収まるので「百薬の長」 が百害とならぬように自重している。やはり飲むな ら楽しい酒でありたいもので、心身共に癒される楽 しい酒にするには量が問題で、アルコールに弱い日 本人の場合、アルコール血中濃度0.1%の限界を超え ないことだが、具体的にはビールなら大瓶2本、日 本酒で2合、水割りなら5杯程度であろうか。 わが家の子どもたちはアルコールにはほとんど関 心を示さず、それぞれ将来に向けてそれなりの大き な望みや夢を描いているが、われわれ老夫婦にはも はや年齢的にも時間的にも大きな夢は無理である。 せいぜい当たったこともない宝くじの当選を夢みる ことぐらいだが、これもほとんど叶わぬ夢とあれば、 せめて今年の初夢では美人のお酌で程よい酔い心地 を楽しみたいものである。それにしても新春早々あ りきたりの酒談義の手記になってしまい誠に申し訳 ないが、楽しみも少なく、この先短い老馬への憐情 をもってご寛容いただければ幸いである。 美人と酒と二日酔 深川医師会 中澤歯科整形外科医院 中 澤 清 昔は輓馬、駄馬、農馬など、いつもわれわれの身 近なところで見られたし、往診も患家から馬ぞりで 迎えにきたものである。今は穀倉地帯の深川でも農 耕馬さえ姿を消し、代わって食用馬の登場するご時 世になってからも既に久しい。 4人家族のわが家は3人まで午年生まれで、それ ぞれに新しい年への期待に胸膨らませているのだ が、妻とともに私は80歳を超え、複数の病を抱えな がらいまだに喘ぎ喘ぎ診療を続けている後期高齢者 で、食用はおろかスープの出し汁にもならない老馬 である。易疲労性も強く、疲れを癒すためと称して 酒杯を傾けることも少なくない。加齢とともに酒量 は減ってはいるが、酒を飲む機会の多い年末年始、 特に正月3日間の休日は気の緩みもあって普段の酒 量を超えて深酔いになりがちである。今思えば、若 いころは随分無茶な飲み方をしたもので、出張先で のいわゆる一気飲みで腰が抜けたようになって雪道 で四足歩行(四つん這い)になったり、飲んでハイ ヤーで帰宅し、車から降りて目の前数メートルのわ が家の玄関にたどり着くのに数十分を要して醜態を 晒したことも恥ずかしい思い出であるが、二日酔い で些少なりとも診察に支障をきたしたことも正直一 度や二度ではない。 二日酔いの元凶は言うまでもなく「アセトアルデ ヒド」で飲んだ後、これが最終的に水と炭酸ガスに 変化できないと、血液を介して脳まで行き、地獄の 二日酔いの幕開けとなる。昔から、二日酔いに「迎 え酒」が効果的と言われていた。確かに頭痛も気持 ち悪さも和らいでくるが、アセトアルデヒドを追加 製造するわけだからあくまでも一時的なもので、数 時間も経てばもっと悲惨な酔いがやってくる。つま り二日酔いの二日酔いという訳である。それに肝臓 はアルコールの分解を最優先してしまうので、本来 の仕事である脂肪の分解ができなくなるので脂肪肝 の心配もある。二日酔いを治すには結論から言えば 残念ながら時が過ぎるのを待つしかないが、果糖や ブドウ糖がアセトアルデヒドの分解を促進するとい う説もあるので、果物を食べながらしばし耐えるか、 ぬるめの風呂で代謝を早めるか、いずれにしろおと なしく寝ているよりない。宴会の席で数種類のアル コールをいわゆるチャンポン飲みして悪酔いするこ ともあるが、2種類以上の酒を混合しても特別な化 51 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 いうスタイルで、お風呂も浴槽には浸からずにシャ ワーだけでまったく寒さを感じなかったのです。し かし去年あたりからめっぽう寒がりになり、この自 分の身体の変化に戸惑っています。 また酔い醒めも悪くなっています。そんなに量は 飲んでいない時でも(家ではほとんどお酒は飲みま せん)、翌朝は特に二日酔いの状態という自覚はない のですが、看護師さん曰く、そのような時の診療中 は、多弁でかすれ声になっているそうです。きっと 朝には前日に飲んだお酒が抜け切れてなく、少し 酔った状態なのでしょう。昼食時あたりから、よう やく二日酔いっぽいだるさを感じることもここ数年 見られ、明らかに代謝が悪くなってきていることを 実感しています。 しかし、お酒に関して言えば年齢を重ねて、よう やく美味しさが分かってきたのかとも思っていま す。僕の最近のこだわりは、スコッチ・ウイスキー です。これについては一家言おありの諸兄も多くい らしゃるかと思いますので、ウンチクは申しません。 機会がある毎にいろいろな銘柄を試飲することが、 このところのお酒を飲む時の楽しみとなっていま す。血圧も高めなので、これからは肝臓と相談しな がら、やっぱり健康には注意をしておかなければい けないと、自分を律しております。 午年生まれだからという理由からではありません が(午から馬への強引な話の流れですが、馬に関し てはちょっとした思い入れがあります)、僕は馬が大 好きです。特に人が創りだした最高の芸術品とも呼 ばれるサラブレッドが大好きです。馬が描かれてい る絵や写真、馬蹄の飾りや小物なんかを知らず知ら ずに買ってしまいます。今でも馬のエンブレムが付 いているフォード・マスタングやフェラーリのミニ カーなどは大事に持っています。 最初は小学生の時、西部劇が大好きでよく映画を 観ていて、馬は自動車と違い、どうやって曲がった り止まったりするのだろうか?スピードはどれくら い出るのだろうか?乗ってみたいな?と興味を持ち 出したのがきっかけでした。それから僕の叔父が馬 主だったこともあり、学生時代からよく競馬場へ連 れて行ってもらい、そのうち勝ち馬を予想する楽し さと払い戻しの快感(落ち込むことが多いですが) を知り、言うまでもなく競馬にのめり込んでいった わけであります。 サラブレットは品種改良によって生み出された品 種で、現在のすべてのサラブレットは、父系を遡る とゴドルフィンアラビアン、バイアリーターク、ダー レーアラビアンのいずれかにたどり着くらしいで す。 競馬場で初めてレースを観に行った時、十数頭の 馬が一団となって走ってくる地響きに圧倒されまし た。おそらく戦国時代、戦で数百頭の騎馬隊が攻め 入る地響きなんかは、きっと想像以上の大爆音で、 午と美味(ウマ)と馬 函館市医師会 平山医院 平 山 拓 也 僕は昭和41年の午年の生まれです。もう少し付け 加えると、昭和41年生まれ(西暦1966年)は丙午 (ひのえうま)の生まれで、西暦年を60で割って46 が余る年をいうようです。自分ではあまり意識をし たことはありませんが、この年の生まれは出生率が 低く、受験などでは有利だとか言われてたように思 います。実際に高校・大学受験でその恩恵を受けら れたかは定かではありませんが…。 なぜ、そのようなことになっているかを調べてみ ると、一説には江戸時代からの迷信が原因らしいの です。江戸の町は火事が多く、それも丙午の年に多 かったそうですが、当時八百屋のお七という少女が、 恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、火刑に処 されてしまいます。その八百屋お七を、井原西鶴が 「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られ るようになり、文学や歌舞伎、文楽などの文芸・演 芸において後世まで語り継がれているそうです。そ のお七が1666年丙午生まれだとされて、丙午生まれ の女性は気性が激しく夫の命を縮めるという風に伝 えられているそうです。この迷信が原因なのかは定 かではありませんが、僕が生まれる1966年までは丙 午の出生率が明らかに低いそうです。 そんな午年生まれの僕も4回目の年男となり、健 康には注意しようと思っています。なぜかと言いま すと、ここ数年、原因不明の高熱が1年に1~2度 出るようになりました。考えてみると4 0歳までは38 ℃以上の高熱が出た記憶はありません。風邪を引い たりインフルエンザにかかり、熱が出ることはあっ ても、38℃以上の熱が出て、ガタガタと震え、身体 中が痛くなり眠れない状態になるというつらい経験 をしたことはなかったのです。幸か不幸か、熱が出 るのは土曜日のことが多く、残念ながら月曜朝には 熱は下がり、仕事にはまったく支障はないのですが …。 人からは「疲れじゃない?ストレスじゃない?」 なんて言われますが、その時は別に特段疲れている わけでもなく、これといってストレスを感じている こともないのです。 また、体感温度も年齢とともに変化してきていま す。若いころはどちらかというと暑がりで、夏はエ アコンの設定温度を目一杯下げて、一晩中つけっぱ なしでしたし、また冬でも室内では裸足にTシャツと 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 52 す。なかでも最も印象に残っている話は、 「今現在、 人間が関与していない本当の野生の馬というのはど こにもいない。馬は人間に頼って生きる動物なんだ よ。毎日愛情を込めて身の回りの世話をしてくれる 人には、従順な態度をとり、可愛がってくれる人の 顔を生涯忘れないんだよ」と。馬自身が物事を理解 しているとは思いませんが、僕の大好きな7冠馬・ 皇帝シンボリルドルフは天皇賞秋で初めて負けて涙 を流したとか、やはり天覧競馬の秋の天皇賞でヘブ ンリーロマンスが勝って、騎手が帽子を取り天皇皇 后両陛下に一礼した時に、馬もお辞儀をしたりとか、 ほろっとする話がたくさんあります。やっぱり馬が 好きです。 丙午の話からウマつながりで競走馬の話を長々と してきましたが、年男である僕は、結局はこう考え ているのです。 健康に注意し末永く仕事が “ウマ” くできて、 かかわらせていただく人たちと “ウマ” が合いま すように! 相手にはかなり脅威に感じたに違いありません。 競馬場で観る馬は、ピカピカに磨きをかけて、ど の馬も速く強そうに見えてしまいます。そしてなん といっても、その走っている時の姿にほれぼれしま す。細い足に筋骨隆々としたスタイル。2頭が併せ る形となると闘争本能をむき出しにし競い合う、そ の様を観るのが好きです。もちろんそこには自分が 念入りに調べ上げたレースの展開や勝ち馬予想も 入ってくるので、当然熱くなり興奮する。これがま た楽しいのです。 血統、逃げ・先行・差し馬などの脚質、距離、タ イム、調教状態、右・左回り、小回りや坂道、馬の 陣営がどのレースに焦点を合わせているか?などな ど、予想のファクターはキリがなく、特に自分の予 想通りの展開と結果になると、そりゃあ感慨無量っ てもんです。まあ、馬自身がレースやタイムのこと など、分かっているとは思いませんけど、一時期は ハマりにハマりました。今はほどほどにしてますが …。 一度、ある知り合いの騎手に聞いてみたことがあ ります。 「君たちが馬をコントロールして勝ち負けを つけているのかい?」と。するとその騎手は「いえ、 ぶっちゃけ第4コーナーまではまったく分からない んですよ」と、返事が返ってきました。要するに第 4コーナーからが本当の意味での競争で、腕の見せ どころらしいのです。それまでは馬の性格に合わせ て気持ちよく、ただ真っすぐにロスのないように走 らせることに専念をしていると。第4コーナーでの 自分が騎乗している馬の位置によって、もしかして 勝てるかも?と思うらしいです。それでも記憶に新 しいディープインパクトのような次元が違う馬が一 緒のレースに出ていると、なるべく邪魔にならない ようにあくまでも一生懸命走らせるのだそうです (笑) あとこんなことも言っていました。競馬場の観覧 席やテレビでは絶対分からないでしょうけど、結構 騎手同士、大声を張り上げてるとか。 「前開けて~、 遅い馬はどいて~」とか「ごめんなさーい」とか。 先輩騎手に怒鳴られることもしばしばあるようで す。 競馬場だけではなく牧場にも足を運んだことがあ ります。競馬場で馬を観ると、ピリピリとして興奮 している状態の時のことが多いのですが、牧場では のんびりと草を食べて、時々首を上げて遠くを見る 仕草や目は、僕の心を癒してもくれます。そして、 馬の背に跨がった高さが、目線がなんとも形容しが たい見晴しで、さらには自分の姿勢も自然と良くな るのが分かるのです。また、一頭一頭違った髪型で、 さすがに七三分けの馬はいませんが、真正面から見 る馬面はなんとも愛くるしいのです。 昔学生のころ、ある競走馬の調教師さんから馬の ことをいろいろと教えていただいたことがありま 整形診察室にて 53 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 ない。他人の責任は取れないし、後からも取れない のである。責任が取れるのは「今でしょ!」じゃな く、 「今」なのだ。今の政治家に責任を取るプロがい ないようである。他人のせいにしないで、今自分が できることをしてくれると良いのだが!? 登別に通勤するようになってから、よく歩くよう になった。歩くのが楽しくなった。一昨年の6月初 め、 「北海道を歩く会」に久しぶりに出てみた。地下 鉄の真駒内駅から支笏湖のポロピナイまでの33k m。 両下肢に置鍼して、漢方薬の芍薬甘草湯を飲んで歩 いたが、最後の下り6k mの手前、2 7k m地点で両下肢 が痙ってしまい、ギブアップした。その年の暮れご ろから腰が苦しくなり、これも歳のせいかと思った ら、右の鼠径にヘルニアが出て、昨年の3月にまた 入院して手術をした。70歳を超えるとこの「先」入 院が多くなるんだろうなぁと思いながら過ごした。 そして、懲りずに再度「北海道を歩く会」に挑戦 した。完歩した。9月には「2 4時間1 00k mウォーキ ング」で札幌大通から小樽まで33 k m歩いた。マメが できて、1 00k mは歩けなかった。しかし足腰の調子 は良かった。体重を5~6k g 減らしたらまだ良くな るんだろうなぁと思っている。 平成元年に「ギャランVR-4」を買った。亡く なった私の父のアッシーのために。日本カー・オブ・ ザ・イヤーに選ばれた車で、直列4気筒ネット値 205ps の4G63ターボエンジン(インタークーラー付 き)を搭載したスポーツセダンだった。やはり燃費 は7~8k m/Lと悪いがアクセルの反応が良く、長 距離や高速道路のドライブは本当に楽しく、マニュ アル車だが手放し難く、25年間乗った。あと5年 乗ってクラシックカーに?と冗談にも考えていた が、この2~3年急にタイヤのベアリングが壊れて、 ハンドルを切る時にカラカラと音がしたり、ウイン カーのランプがつかなくなり、店に行くとか、その 都度部品がディーラーに在庫がなく、全国を調べて 中古でも、と取り寄せてつないできた。昨年の暮れ にブレーキランプが消えず、調べたらABSのブレー キオイルが漏れていたとか、ディスクブレーキ盤が 減っているとかで、私の身体と同じように車の寿命 のサインを見せつけられて、四半世紀乗った愛車を 手放すことにした。 決めた途端に気持ちがすっきりした。これから は、車が必要な時はタクシーかレンタカーを借りる ことにする。鬼も呆れているだろうが、好きな「歩 き」で7度目の歳男に挑戦しようと思っている。 うちの奥さんに感謝。 新年を迎えて ~私の愛車 「ギャランVR4」 室蘭市医師会 三愛病院 金 上 宣 夫 今年は、6度目の歳男である。60歳の時はまだ開 業していて産婦人科を現役で働いていたので、忙し さにかまけてそう深く考えずに迎えたが、やはりつ つがなく還暦を迎えてほっとした覚えがある。 その後の12年間は、色々なことがあった。63歳の 時に老健の施設長の話があり、定年より2年早く札 幌東豊病院を退職したが、4年後にY先生から声が 掛かり、新札幌の総合病院の産婦人科に勤務するこ とになった。お産の数は手足の指で数えるくらいし かなかったが、日曜・休日関係のない仕事に戻った。 夜中にお産で起こされることも冬道を車で運転して 病院へ行くことも苦ではなかった。 1年経った1月の職場の定期検診で前立腺がんが 見つかり、4月の末に手術をした。術後入院中、60 半ば過ぎて、お産にも手術にも今の若い先生にまだ 負けないという自負はあったが、自分の人生「先」 に限りがあることに気付かされて、産婦人科を2年 でリタイアすることにした。今年の4月で、術後満 4年になる。今のところ経過は異常なく、何もして いない。 その後、声を掛けてくれる人がいて、今の登別の 三愛病院に平成23年4月から勤務することになっ た。69歳の時である。月曜から金曜まで札幌から特 急で通勤している。1時間10分の通勤は本を読んだ り、音楽を聴いたり、車窓の飛行機や樽前山を見た り、毎日が旅行気分で、日本海側から太平洋岸へ北 海道を横断。一昨年の4月からは、車窓からの風景 を定点観測のように比べながら写真を写すようにな り、本を読む時間が減っている。それでも完読した 本は120冊弱になる。 完読した本は、記録もしている。 「坂の上の雲」 (司 馬遼太郎)、 「落日燃ゆ」 (城山三郎) 「永遠の0(ゼ 、 ロ)」 (百田尚樹)を読んで今の政情の混乱につながる ことが分かり、暗澹とする。武士から政治家、官僚 が中心になり日本を動かしてきたが、だんだん無責 任になってきている。 「責任」。辞書をみると意味が 二つある。その一つは「自分が引き受けて行わなけ ればならない任務、義務」 。もう一つは「自分が関 わった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務 や償い」。私がここで述べたい「責任」は前者の方で ある。責任は個人の立場によってすることがいろい ろあるが、責任は自分のことであり、自分しか取れ 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 54 回「大きくなりましたね」 (太りましたねの穏やかな 表現です)と言われています。後ろ足が脱臼しやす いので減量中ですが、食事の時にじっと見つめられ るとアスパラ、ブロッコリー、きゅうり、そして大 好物のヨーグルトをこっそりあげてしまいます。今 もお座り・伏せ・待ての三つしか芸ができない、し つけのできていない犬ですが、そばにいるだけで家 族中癒されます。その大きな瞳で見つめられ、フワ フワの体を押し付けてきて、仰向けになって“なで て”のポーズをされるともうメロメロです。先月は ニセコのペットも一緒に泊まれるコテージに一泊し てきました。完全に家族の一員状態です。超小型犬 は上手に育てると犬年齢で15歳まで生きられるそう です。ヒトの干支であと一回りした12年後に家族+ 一匹+α?みんな元気であればと思います。あと何 年一緒にいられるか分かりませんが、いつまでもい つまでもと願っています。 新年早々軽いお話で申し訳ありませんでした。子 ども二人がまだすねかじり状態ですので、仕事も数 年は続ける予定です。それまで皆さまにはいろいろ お世話になると思いますが、これからもよろしくお 願いいたします。最後に皆さまのより幸せな一年を お祈りいたします。 今までそしてこれから 岩見沢市医師会 あくつこどもクリニック 飽 津 泰 史 現在、大雪で災害指定地域として全国区になった 岩見沢市で小児科を開業し、毎年夫婦で雪かきに励 んでおります。新春随想の依頼が来て、嗚呼、自分 もついに赤いチャンチャンコの歳になるのだなあと 改めて感じさせられました。今まで特に自慢できる こともなく生きてきて、つい先日人生50年と思って いたら、いつの間にか60歳手前。体の丸みが進んだ せいかころころ転がって、どんどん加速して月日が あっという間に過ぎていきます。今までのことを少 し振り返って、今のささやかな楽しみについてお話 ししたいと思います。 私は埼玉生まれの埼玉育ちで、大学から北海道で す。人生の三分の二以上が北海道で、当然体質も寒 冷地仕様になり、寒さに強く暑さに弱い、そのため に脂肪を皮下にたくさん貯蓄している状態です。15 年前に妻の実家がある岩見沢市に移り住み、労災病 院勤務を経て10年前に開業、多くの方々にいろいろ ご指導、ご支援いただき今日まで何とかやっており ます。 これからは最近の楽しみ?癒し?についてです。 興味のない方には申し訳ありません。夜になって私 が部屋を暗くし布団に入るとヒタヒタと近寄ってき て、枕元に来るといきなり前足で私の顔を押さえつ けてペシャペシャと顔中舐めまくる生物の話です。 小さなフワフワがハフハフ言いながら夢中になって 舐めまくりです。そう、犬です。最初は妻の布団の 上で丸くなっていて、私が寝るとこちらに来てこれ らの前戯を行ってからこちらの布団の上で寝て、夜 の間両方の布団を行ったり来たりで、夫婦でその滞 在時間を競い合っています。 現在3歳のオスのチワワです。3年前札幌で買い 物の合間に、時間つぶしでペットショップに入った のが運命の出会いでした。それまで子どもも大きく なってじゃれてくれないし、犬でも飼ってみようか くらいの気持ちだったのですが、ガラス越しにじっ とこちらを見つめられお互いアイコンタクト。抱か せてもらうと両手の平に乗っかってしまう小さな生 後2ヵ月の生き物で、夫婦そろってもう一目ぼれ。 心構えも部屋も何も準備できていないのに、飼うこ とを即決でした。現在は体重が3kgを超えて、かか りつけの獣医さん(ワクチンから病気まですべてを お世話になっているホームドクター!です)から毎 左上:初めての出会い。一目ぼれの瞬間です。 右上:おやつもっと頂戴です。 左下:今年の犬の保険証の写真です。おすまししてちょっ と賢そう。 右下:初めてニセコでわが家の一員としてお泊りしました。 55 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 合っているか、失礼はないか、などかなりの緊張感 をもって書いているつもりですが、どうも稚拙です。 普段のムンテラでもそうです。大事なことを伝えた いためにいろんな例を出して、かえって回りくどく なって分かりづらくなっていることに気付きます。 話している最中に自分も「ああ、まずい、これは聞 いてる方も飽きてるわ」と感じます。お話が上手な 人は起承転結の図式が頭にあり、それを最短距離で 伝えることができるのだと思います。その最短距離 は相手の理解力で変化するのでしょうが、それを素 早く感じ取り、いかに相手の心に言葉を残せるか。 友人同士の馬鹿話でもこの会話力が上手な人を感じ ます。学会の発表もしかりです。そういえば、私の 論文は題からしてすべて垢抜けない。長い。ぱっと 見てときめかない。くどい。そのときはすごく考え て苦しんだのに。そして中身はどうか…やっぱりく どい。 「人に伝える部分」の脳の回路が面倒にできて いるようです。 そのためか、いろいろ心配事が出てきます。他科 へ向けて細かく書けば書くほど要点をまとめられ ず、かえって何を言いたいのか伝わらないかもとい う不安。他科のこととはいえ、医学の基本知識とし て知っていて当然のことを自分が分かっていないで あろう後ろめたさ。例えば医師として何科であろう とも、心臓の基礎知識は知っていないと医師失格で す(が、膝のことは知らなくても医師としてセーフ なところがちょっとくやしい)。そんな浅はかさが ばれないように、あえて内容は詳しく書かずにその 前後を定型挨拶文で盛るといいのではないか、いや、 これでは医療情報として本末転倒だ。このままでは 自分の外界との接触能力の低さがバレてしまう。な どと。 話すこと、書くこと、伝えること、は人そのもの が出るようです。簡潔に、嫌みなく、分かりやすく、 相手に伝えるには能力と努力が必要ですが、その前 にどうにもならない持って生まれたキャラクターが 立ちはだかっているようです。50歳を目前とした年 男が書き方、話し方に迷っているようではいけませ んが、このような逡巡をご理解いただき、大目に見 ていただければ幸いです。今年もご指導よろしくお 願い申し上げます。 紹介状を 書くにあたり 旭川市医師会 豊岡中央病院 浜 口 英 寿 あけましておめでとうございます。年男、という ことで北海道医報編集部さまより無作為の白羽の矢 が立ちました。旭川で人工膝関節を中心とした診療 をしている卒後24年目の整形外科医です。1年半前 にも無作為の白羽の矢が立ち、拙文を掲載していた だきました。宝くじや職場の忘年会の抽選などは当 たったためしがないのですが「北海道医報」とのご 縁はあるようです。 多くの手術患者さんとお付き合いしています。高 齢の患者さんが大部分を占めるので、皆さんそれだ け合併症もたくさん持っておられます。周術期の対 応では、さまざまな基礎疾患やお薬や個人のご性格 や家庭環境など含めて対処していくことになります が、なんといっても命に関わる循環器系の合併症が 心配になります。当院には常勤の循環器内科医がお らず、私自身も循環器の知識は皆無ですので、もし 術中・術後の患者さんの心臓に何かあったら大変な ことになります。ですから、大変なことにならない ように事前にいろいろと準備することが大変になり ます。外来の時点でかかりつけの内科の先生にお手 紙を書き、周術期の注意点やご指示を仰ぎます。し かしながら、そのかかりつけ内科の先生にしてみれ ば、忙しい中に自分の診療とは無関係なタイミング で問われること自体がストレスでしょうし、循環器 の知識が乏しいであろう整形外科医に、病状の説明 や周術期の指示をくれと言われても、果たしてその 整形外科医は書いたことを理解してくれるのか心配 でしょう。 「できるだけ専門用語を使わず平易な言葉 で時間をかけて返信を書いたけど、大丈夫かいな」 と思われているのだろうな、と想像します。 そんな紹介状と返信のやりとりに、先方の先生の お人柄がにじみます。ややこしい歴史のある患者さ んの病状を、データ値、その意味、だからこの対処 …の積み重ねで見事に解説してくださる場合。感動 します。時間通りに終わる見事な講義や研修講演を 聴いたときのよう。整形外科医の急なお願いに真摯 に答えていただくなんて、この先生に診ていただく 患者さんは幸せだわぁ、この先生の患者さんはしっ かりお返ししなければ、と必要以上の気合いも入る というものです。 では振り返って、自分の紹介状や返信はどうか。 伝えるべき情報は書いているか、文のつじつまは 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 56 ていくからなんです。しかし、小規模な町だからこ そ良いところは、大都市とは違い、隣近所の住民と のあいさつや、買い物や食事などで出掛けた時にも 気軽に立ち話ができるといった、人間関係が比較的 作りやすいのは大きなメリットだと思います。 昨今のニュースで、産婦人科医師の減少が話題に あがっています。医師の大都市への偏在、女性医師 の割合の増加、過重労働、医療訴訟、産婦人科医の 高齢化などプラスの話題が少ないわれわれの世界で すが、出産というおめでたい場面に立ち合えること、 女性の一生に何らかの形で携われることなどなど、 素晴らしい仕事を誇りに、あと数年千歳で産婦人科 医師として頑張っていく所存ですので、どうぞよろ しくお願いいたします。 ただ今後の産婦人科医療は、サブスペシャリティ の保持、ロボット支援など医療水準の高度化もあり、 私のような古い医師には理解不能な先進技術の習得 が当たり前の時代になっていくようで、自分の引き 際をそろそろ考えることが多くなっているのも事実 です。 新聞、雑誌などを見ていると、なぜかよく目に付 く文字が「認知症」 「徘徊」 「寝たきり」 「車イス」なん です。きっと自分的にも老いを意識しているんで しょうね。将来必ず訪れる老いの恐ろしさ。避けて は通れない道。自分の人生はあと何年あるか分かり ませんが、年を取るとそういう自分にきっと納得し て、楽しいシルバーライフを送れるのであろうと思 うこのごろでした。 千歳に赴任して 千歳医師会 市立千歳市民病院 津 村 宣 彦 私も、ついに来年還暦を迎えます。北海道医師会 より執筆依頼がありました。この際ですので、私の 千歳での仕事・生活を独断的に述べたいと思います。 産婦人科医になって35年になりますが、昔は仕事 を楽しんでやっていた部分が多々ありました。しか し、残念ながら最近の産婦人科医療の過酷さに、徐々 に根を上げつつあります。私は平成17年4月より市 立千歳市民病院に勤務しております。自ら志願して 勤務したのではなく、当時の北大産婦人科(現在は 法人化されWI ND)の医局会議で市立千歳市民病院の 産婦人科の固定医がいなくなるとのことで、後任を どうするかとの議題が出ました。医局の構想では、 産婦人科医の不足している状況では、後任人事はな かなか難しいとの判断で、病院の集約化を推し進め、 千歳には常勤医を置かずに出張医体制で繋いでいく 方向で意見が決まっていきかけました。そこで、私 が「北海道の玄関口でもある千歳に産婦人科の固定 医を置かないのは、ちょっといかがなものか」的な 発言をした訳であります。その発言が発端となっ て、何の縁もゆかりもない千歳に赴任したのだと考 えております。 千歳市は人口がおよそ9万5千人の町で、対人口 割りの出生数は道内一であります。自衛隊、空港を 含めた流通産業、支笏湖などの観光、農業などが主 な基幹産業となっています。当院では分娩制限をし ているものの年間およそ4 00例前後の分娩と、300件 近くの手術をこなしております。本年の4月より増 員になり2名で分娩を扱っており、それまでは北大 から応援をもらってはいましたが、ほぼ一人で外来・ 手術・分娩などをしていたものですから、精神的な 負担はかなりあったものと思います。それだけに私 の頭の白髪化にも輪をかけたものと思います。 楽しみというと、同僚の産婦人科医と定期的に海 外視察と称した観光や、いまだ訪れたことのない国 内への旅行をして見聞を高めること、それから千歳 からは比較的近郊である歓楽街のすすきの方面に出 没して飲み明かすことくらいです。なぜ地元で飲ま ないのかとの質問を受けますが、千歳の飲み屋街で ウロウロしていると、必ずといっていいほど顔見知 りの患者さんに出くわします。またスナックにしけ 込んでいると、そこのカウンターの女性が患者さん だったりで、はめを外せずストレスが徐々にたまっ 57 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 する余裕も機会もないのが現実かと思いますが、 テーマを決めて皆で共同研究をして、海外の学会で 発表してこようというコンセプトを打ち立てまし た。つまり、それを理由に海外旅行をしましょうと いうことです。このプロジェクト(?)が始まった のが、1998年のオランダ・アムステルダムでの国際 高血圧学会からです。この時はうちの病院でカテー テルを用いてc or on a r yf l owr e s e r ve を測定したデータ を発表し、後に論文にもなっています。それからは まず、どこに行くかを考えて、それからネタ探しと いう、順番が逆ではありますが毎年のお務めとなり、 2013年はサンフランシスコにまで、と毎年海外発表 を続けています。この間ブラジル、アメリカ、イギ リス、ヨーロッパ諸国を回り、多くの思い出を作る ことができました。 こんなことをしていく中で、一つ思うことがあり ます。現在大学の医局制度は、昔に比べると崩壊し ており、同門の先輩・後輩の関係がなくなりつつあ るように聞いております。しかし私自身の経験から 考えますと、医師に限らず、人は決して一人では生 きていけない存在であり、このような関係を構築で きていない今の若い先生たちは、ある意味不幸なと ころがあるように思われるのです。病院に勤務して 仕事をしていく中で、仲間意識が希薄になることが 結果的に診療の質にも反映されるような気がしま す。誰も助けてくれなくなるようなこともあるかも しれません。そのことが孤立につながる。昔は誰か が声をかけてくれました。それで救われることが 多々あったように記憶しております。今そこそこに 経験を重ねてきたわれわれ位の年齢の医師は、昔ほ どの馬力もなくなってきましたが、これからの医療 を背負っていく希望のある若い医師を育てるために も、彼らの良い意味の同僚・先輩となって、仕事が しやすい職場環境を作っていってあげなければなら ないのではないでしょうか。最近研修医へのサポー トについて、いろいろな機会で話題となっているこ とが多くみられ、ますますこの感を強くしておりま す。そう思うのもやはり歳をとったということで しょうか。 何だかとりとめのないことを書いているようです が、私の医師としての仕事はまだしばらくは続くも のと思います。今年はどんなことが待ち受けている か楽しみでも、また不安でもありますが、自分で納 得できる年にしたいと思っております。 思うこと 胆振西部医師会 伊達赤十字病院 武 智 茂 ある日、道医師会広報部から、道医報に掲載する ための新春随想を、という依頼がありました。なん でも、新年の年男というのが選ばれた理由とのこと で、改めて今年は還暦かと認識させられた次第です。 さてどのような内容で書きましょうかと考えたので すが、これといって皆さまにお話できることもあま りありません。新年の抱負・趣味・文芸・紀行等々 というヒントを頂いておりますが、すぐには思い浮 かばず、改めて自分の60年間を考えてみました。 医師という仕事について考えますと、私は大学を 出てから循環器内科の医局に入局した後、大学での 研修、三度の出張を経て、現在の伊達赤十字病院に 派遣されてきました。平成4年のことです。 この病院には内科系では一般の内科診療科しかな く、当時の院長が「循環器科の診療がこの高齢化の 地域には必要」とお考えになって、循環器科を立ち 上げることになり、私が一人で赴任して参りました。 今でこそ血管造影装置、心エコー、MRI 、心臓CT、 RI 、MRI など、充実した機材はそろっておりますが、当 時はこれらの機材はそろっておらず、戸惑ったこと を覚えています。で、一人で外来、病棟の入院患者 さんを診ていて、確かに忙しく大変で毎日が緊張の 連続だったのですが、それでも今思うと充実した毎 日のように思います。若かったためかもしれません が、ひたすら突っ走ったという感じがしました。 その後、医局のバックアップも頂き、出張医が増 えて、一時期私を含めて4人体制にもなりましたが、 新医師臨床研修制度の影響か医局への入局者が減っ てきて、また医局員の意識も昔ほど医局への帰属意 識がなくなってきたためか、医局を辞めて開業した り、自分の意志で就職する病院を決める医師が増え てきた結果、出張関連病院にとっては医師不足の状 態に陥りました。この件については地方の病院が一 番影響を受け、派遣医減員ということになり、何と 当院では、現在は私一人の状況で循環器科をやって います。さすがにこの歳になりますと一般診療以外 に病院内外の仕事が増えて、毎日がつらいなあと 思っていた矢先の、この原稿依頼でした。 しかしそのような毎日の中にも、楽しいこともあ ります。私の恵まれたところは、大学で指導してい ただいた先輩と、今でも一緒に仕事ができるという ことでしょうか。地方におりますとなかなか学問を 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 58 注入するだけの生活よりはるかに精神発達に寄与し て表情が豊かになるということは、私にとって目か ら鱗でありました。 育児問題については、健康で生まれた児を養育し ている一般家庭においても育児不安が渦巻いていま す。連日のように新聞紙上に現れる虐待の記事は氷 山の一角に過ぎないことは明白です。私どもの新生 児病棟で扱う児に対しても、医療、療育以外に退院 後の養育環境を整備することが重要であることを思 い知らされます。このような状況が発生する背景に は恐らく、一つには近年の出生数減少(1947年約270 万人に対して2012年約100万人)により、幼少期に赤 ん坊に触れたり、育児をしている親と一緒にオムツ 換えを手伝ったり、抱っこやおんぶをして子守をし たりする機会が減少したこと(育児体験の不足)が あります。もう一つは、職業としてサラリーマンが 増加したため、核家族化が進み(祖父母の育児支援 が受けられない)、父は会社人間のため(夜間の飲み 会も含めて)育児協力ができない、多くのサラリー マンは転勤族であるため近所付き合いが深まらない こと。これらの結果、都会のマンションやアパート で母親一人が訳分からず泣き続ける乳児の対応に悩 む日々を過ごしている、という状況が多く発生する ようになりました。つまり、育児体験のない女性が、 育児協力者もいない状況での育児生活を強いられて いることになります。加えて近年においては、就職 難による経済的貧困や結婚形態の多様化による一人 親家庭、シングルペアレントなども増加しておりま す。このような社会状況の家庭に病児が生まれた場 合には養育環境は最悪となり、虐待発生(育児怠慢・ 育児放棄などのネグレクトも含む)の温床となりう ることは容易に想像できます。 コドモックルからの退院後も、障害児を抱えなが ら通常の育児以外に在宅医療と専門施設への定期的 通院、通園施設での訓練を継続してくためには多く の支援が必要です。最も考慮すべきことは、養育の ・・ 主体となることが多い母親ががんばりすぎて、ばて ・・・・ てしまうことです。肉体的のみならず精神的に疲弊 するとネグレクトに陥りやすくなることを考えなけ ればなりません。一番身近な支援としては父親や祖 父母が最適ですが、期待できないときには訪問看護 ステーションやショートステイを利用して、定期的 に骨休めと気休めをするように指導しております。 実際には乳幼児も扱える訪問看護師やショートステ イ施設が不足しているのが現状のようです。行政の 目が老人のみならず、乳幼児にも向けられることを ぜひ期待したいものです。何よりも養育者の育児意 欲が維持されることが重要です。がんばりすぎず、 あきらめず 。 新たな発見と 今後の課題 ―育児支援の必要性― 札幌医科大学医師会 北海道立子ども総合医 療・療育センター(施設愛称:コドモックル) 新飯田 裕 一 私は33年間の医師活動のうち、26年間は新生児医 療に携わってきました。しかしそのうちの20年間 は、小樽市銭函にあった「北海道立小児総合保健セ ンター」において、医療主体の生活に身を置いた活 動でした。時代の流れの中で6年前に札幌市手稲区 金山にあった札幌肢体不自由児総合療育センターと の統合がなされ、医療と療育が一体化した施設で新 たな出発をすることとなりました。 新生児医療は1990年以降に目覚ましい進歩があり ました。例えば超低出生体重児と言われる「出生体 重が1,000g未満児」は、1990年以前にはその死亡率 が50%を超えていたのが、現在は10~20%程度まで 改善しました。しかし超低出生体重児について就学 前の全国調査による障害発生については、脳性麻痺 (運動障害)10~20%、精神発達障害2 0~30%とい う数値も示されました。障害を発生させうる疾患と しては、分娩時仮死による低酸素性虚血性脳症が現 在も出生1,000 人のうち2~4名程度に発生してい ます。さらに染色体異常も含めた先天奇形症候群の 多くは、医療の進歩にもかかわらず何らかの運動障 害、精神発達障害が発生します。 療育についての知識は、20年間過ごした小樽の地 においては、手稲にある療育センターに紹介状を書 いて、私の外来受診時に両親から療育の様子を聴く 程度でした。6年前からは、新生児病棟での早期療 育も含めて、身近で療育の世界を知ることができま した。療育の現場に足を運んで新たに知ったこと は、障害児が療育士と一緒に和やかな雰囲気の中で 理学療法や作業療法が行われていることでした。成 人の訓練を考えると、運動機能を少しでも回復させ るために、歯をくいしばって、根性を出してがんば るというイメージが強いのですが、乳幼児の場合に は、楽しみながら、遊びも交えながら行うことが療 育効果を上げるためには必須であることがようやく 理解できました。障害のため運動機能がお座りまで ・・・・ しか到達していなくとも、何とかずりばいしておも ちゃに向かって行き、手に取って遊ばせることが運 動機能のみならず精神発達にも寄与すること、さら に養育者の育児意欲を高めることにつながるという 事実。さらに仮死児で摂食障害が発生した場合にも 早期療育により、少量のミルクやおやつ程度であっ ても経口摂食させることが、胃管などから栄養剤を 59 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 付かれるようであれば、既に認知症になっていると 考えるべきである。物忘れを家族が気付く程度に なったり、聞き返しが多くなったことに家族が違和 感を覚えて近隣の医師を受診しても、大抵の場合は 年のせいにしたり、疲労のためなどと判断されてし まうようである。今後はわれわれ一般の臨床医も一 層、中年の受診者の場合、認知症の可能性にも留意 して診療すべきであろう。特に家族が付き添ってき た場合は要注意である。本人よりも同居する家族か ら日常生活の様子を注意深く聞き出すことが大切で あり、医師は認知機能の低下を見逃すことのないよ うに注意すべきである。 私の経験からすると、家族が本人の変化に違和感 を覚えて一緒に受診してきた場合は、認知機能の低 下を伴っていると考えて間違いはない。多くの場 合、患者は既に加齢とともに意欲を失い、外出の機 会が少なくなっており、友人・知人との交流は減少 しているか、まったくなくなっている。 認知症と診断された場合は、まず、介護認定の申 請を勧めることである。主治医意見書は積極的に引 き受け、日常生活の支障となっている認知機能の低 下の内容について詳細に記載すべきである。 認知機能の低下への対応としては、不活発な日常 生活を改善させることである。散歩やラジオ体操な ど、簡単にできる運動を勧めることも大切である。 自発性が少ない場合は、早くから通所リハビリテー ションを利用するよう家族を指導する。いわゆる抗 認知症薬の投与は早期から積極的に行うべきと考え るが、MCI に対する有効性の評価はまだ定まっては いない。投薬とともに脳リハビリテーションを行う ことが認知機能の低下の進行を遅らせることに有効 であるとする報告が多い。 いまや多種多様な脳リハビリテーションが推奨さ れ実施されているが、要は他人との交流を積極的に 行わせ、脳の前頭前野の活性を促すものと考えられ る。囲碁・麻雀・花札・トランプなどのゲーム類や、 音楽療法・芸術療法・回想法などが主として挙げら れる。屋内でのゲートボールやゴルフなども工夫さ れているが、いずれも楽しさが感じられ、またやり たいと思えるものでなければならない。 一方、忘れてならないことは、認知症の患者に対 応している家族への心遣いである。家族の精神的・ 肉体的な負担をよく聞き取り、軽減すべき方法につ いて共に考える心構えが必要である。介護支援専門 員や社会福祉士などの活用も考慮すべきである。 もはや認知症対策は、医師ばかりでなく各分野の 人々が協力し合い、行政がもっと積極的に関与して いかなければ手遅れとなり、経済よりも日本の破綻 の原因となるような気がしてならない。医師会が主 導し、専門医も含めた医師のネットワークを構築す るとともに、われわれ医師は市民に対して適切な認 知症予防対策を普及させるべきである。 待ったなしの 認知症対策 札幌市医師会 北海道循環器病院 大 堀 克 己 わが国の高齢化率(人口に占める65歳以上の人の 割合)は23.1%となっている(平成2 3年版高齢社会 白書)。また、65歳以上の人口に占める認知症患者は 約15%(約4 62万人)で、軽度認知障害(MCI )の人 は約400万人と考えられており、65歳以上の4人に1 人が認知症か、その予備軍と報告されている(平成 25年厚労省研究班推計)。これらの報告に基づくと、 札幌市の人口が約190万人として、既に6万6 ,000人 の市民が認知症に罹っているものと推定される。小 さな都市の市民全員に匹敵する人数が認知症になっ ていることになり、恐ろしい現状と言わざるを得な い。冬のある朝、目覚めて外を見ると家の周囲には たくさんの雪が積もっており、慌てて市の担当者に 電話を掛けて除雪を要請したところ「市としては既 に認知症対策のために今年度の除雪費用はすべて使 い切っております。除雪は市民各自で行ってくださ い」と言われることが近い将来に起こり得るのでは ないだろうか。 中年になって独居していたり、家族とは暮らして いても日中は一人ぼっちになってしまう人は要注意 である。最近は高齢者同士の家庭や一人暮らしの市 民が増える一方で、都市では地域における人々の結 びつきが極めて希薄となり、互いの交流も少なく なっている。家の中に閉じこもりがちになると気付 かぬ内に認知機能が低下し、その内、運動不足も手 伝って下肢筋力が低下し、転倒や骨折の危険性が大 きくなってしまう。どのような疾患もそうである が、認知症に関しても早期発見、早期治療が肝要な ので、MCI や認知症が軽度の内に診断し対応すべき である。 われわれは「かなひろいテスト」とMMSEを用い て、MCI からさらに認知症を「軽度」 「中等度」 「重度」 に分類し、対策を講じている。また日常生活におけ る行動から特徴的な態度を選び出し、それを評価す ることによって認知症の重症度を分類している。 あくまでも経験的な診断ではあるが、患者の経過 を注意深く観察することによって、妥当な診断にた どり着くことができる。残念ながら外来の簡単な問 診程度ではMCI に気付くことは難しい。家族の注意 深い観察により、以前の本人とは相違していること に気付かれることが多い。覇気がなくぼんやりして いる、笑顔が少なくなった、口数が少ないなどに気 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 60 を読ませていただきました。中には少々過激に過ぎ るのでは、と思われる記述も散見されますが、私自 身が大いに賛意を表したいのは[多薬の戒め]を説 いた記述です。元来が愁訴の多い高齢者が受診し、 その症状に合わせた多種類の薬物を処方された場 合、高齢者の低下した代謝機能が付いていけるのだ ろうか、と心配せざるを得ない場面が最近増えてき たように感じております。 大事な生理機能である睡眠につきましても、高齢 者の施設ではいろいろと問題を抱えております。不 眠に悩まされて、深夜にナースコールを連打する方 がいる一方で、朝食後からデイルームのテーブルに 向かったまま長時間の居眠りに陥る方もいて、採血 の結果、低ナトリウム血症状態が見つかることも珍 しくありません。 「老人医療」は本当に難しい一面を 持っております。 1930年生まれの私は、まさに馬齢を重ねて今年84 歳を迎え、7回目の年男になりました。気力体力の 衰えを身に染みて感じている今日このごろですが、 わが身の老化現象を参考にしながら、もう少し老人 医療の現場で頑張り、同じ症状に悩む人生の先輩・ 後輩の相談役を務めていきたい、と考えております。 老人医療の現場で 考えたこと 釧路市医師会 南幌介護老人保健施設ゆう 井 上 舜 友 釧路市で続けていた約27年間の開業医生活にケジ メをつけて、私が江別市に転居してきたのは、平成 9年、67歳の時でした。転居して2年あまりが経っ たころ、知人を通じて江別市近郊にある老人保健施 設への勤務を紹介され、お受けすることにいたしま した。 私が専攻していた外科の分野でも、高齢者への手 術適応が次第に拡大されてきており、高齢者の病態 生理学的変化につきましても少々興味を持っており ましたし、このところ年々顕在化してくる自分自身 の老化現象を納得する端緒にもなるのでは、という 多少功利的な気持ちも潜んでおりました。 そして毎週平均3日間を施設での診療で過ごすよ うになり、14年を経た今、一口に老人医療とはいう ものの、関連する領域は大変広く、決して安易に考 える問題ではない、とつくづく感じてきております。 私が老健勤務を始めたころ、入居者の平均年齢は 80歳台前半で、90歳を超える方は珍しかったように 記憶しておりますが、現在平均年齢は約5歳上昇し、 100歳を超える方も以前ほど珍しくはなくなってま いりました。そして、入居者が訴えるさまざまな愁 訴の大部分は老化、換言すれば形態的、機能的な退 行変性に起因するものと捉えることができますが、 その内容や程度は、過去の生活環境によって大きく 異なり、また個々人の生活態度によっても千差万別 であると感じております。 江別市は、豊饒な田園地帯が広がる石狩平野の中 央に位置し、壮年期を通して農業に従事してこられ た方々も数多く入居しておられます。この方々はま た、戦後の十分な栄養源にも事欠いた時代を切り抜 けてこられた方々でもあります。そしてほとんど例 外なく腰部痛、膝関節痛の持病を持っており、特に 女性の場合、X-P上、著名な骨粗しょう症の所見が 認められます。 私は、入居者の診察に先立って、施設の生活相談 員が集めた入居者個人の生活環境や既往症等の情報 を入念にチェックするよう心掛けておりますが、 時々その中から入所後の対応に大事なヒントを見つ けております。 最近、高齢者医療を含めて、医療に関するさまざ まなエピソードを項目別に並べ、軽妙な解説を付し た新書版の本が数多く出版されており、私も何冊か 61 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 かったが、敗戦になってやっと意味が分かった。い まだに取り壊されていないのが不思議である。昭和 18年くらいだろうか、食物不足が深刻になり、芝生 が剥がされ、ジャガイモなどが一面に白い花を咲か せていた。敗戦後数年にして元の芝生になり、街頭 演説会として戦後田中知事などが民選知事として登 場し、民衆と一問一答を繰り返していたり、憲法記 念日には副知事が民主的憲法の価値を延々と述べる かと思えば、昭和26年ごろであろうか、自治体労働 者(ニコヨン)が賃金引き上げを掲げてデモ行進を 行い、警官隊が指導者を大衆の目の前で拿捕するな どの椿事もあった。さらに労働組合の決起集会・野 外音楽堂での音楽会、夏のビアホールなどいろいろ な会場になったのは大方の市民の知るところであ る。私は、憲法記念日に医療者9条の会の代表とし て八紘一宇の塔に向かって短い演説をしたことがあ る。今も“八紘一宇”と威張りくさったように立っ ているのが何か不思議である。 ③医学生そして医師になってからの医師会館の存 在は“ああ祖母がやっていた店があった敷地に建立 されたのだな”という感想だけだったが、たまたま 昭和55年から平成7年3月まで札医大から派遣さ れ、常任理事として北海道医師会に執務したので、 “昔の祖母の店と同じ場所で働いているのだ”と不 思議な感慨に包まれながら、会務に従っていた。そ の当時の印象といえば、武見太郎会長という会長の 存在感と、健康保険本人10割負担の行政からの攻撃 への反感であった。ちょうど山﨑武夫会長が日医の 副会長併任当時で、刀折れ矢尽きるというような感 じで、健康保険10割負担が終末を告げられた。山﨑 会長の無念さは今も思い出すことができる。今の健 保制度から考えるとまだ甘いものだったが、その当 時のショックは大きく、役員として何をすべきか考 えたが、日医が羽田会長になってから「医師生涯教 育制度」と提唱しておられたので、その線に沿って、 1.生涯教育制度を立ち上げよう。2.国家試験問題 の実地医家への応用方法を考えよう。の二つの課題 に取り組んだ。1は医学・医療・医療制度などに関 する講演会を大小を問わず、会誌にことごとく掲載 するもので、この制度は全国に先駆けたものである。 月日とともに、記載方法がより詳細になり、多くの 会員が利用されていると思う。また、XP(主に心・ 肺)・心電図・エコー・臨床検査値などの集団学習を 三大学の助けを借りて実施した。2は私一人では国 試問題の解説資料の作成は自分の学力からして最初 心細い限りだったが、自分の学習・学生のポリクリ の一助として7年間退職まで続けた。 また何回か会長代理として道南医学大会の祝辞を 述べに赴いた。学界は質量共に高度な内容で、何と たたえるべきか考えて“学閥なくして学風ある貴学 会”と申し上げ、それが今日まで続いており感慨に 打たれる。 北海道医師会館・ 大通公園を想う 札幌医科大学医師会 黒 川 一 郎 今年の年男として執筆を依頼された。私は昭和5 年3月の早生まれの男である。 ①まず私は、今の北海道医師会の敷地付近を思い 出す。学齢になる前の話である。 私の母方の親戚は当時、今の医師会のある場所か ら南へ50メートルぐらい離れている中通りで、小さ な活版印刷所を営んでいた。そしてちょうど今医師 会の存在している(南大通の東角)の一角に、祖母 が家計の一助にと小さな食べ物屋を営んでいた。昼 は麺類・丼物、夜は一杯屋という風に賑やか好きの 祖母は結構こなしていたが、親戚がどんどんただ食 いに押し寄せ、半年ぐらいで暖簾を下ろしてしまっ たような気がする。 店のちょうど筋向かい側に、南大通の西4丁目か ら11丁目の裁判所の辺りまで、撒水するトラックが 水を補給するための給水塔があった。当時はもちろ んアスファルトが敷かれているわけではなく、石を 砕いてそれを敷き詰めた簡易舗装で、夏になり車が 通るともうもうと車麈が立ち込め、ソレット散水車 が夏季になると大活躍したものだった。私たち子ど も(孫)たちは車が吐き出すガソリンの匂いが何と も言えずエキゾチックで、 “あの運転手さんの助手席 に乗って心ゆくまで匂いを嗅ぎながら、撒水する通 りを眺めたいものだなぁ…”と日ごろ思っていた。 それを察した祖母は運転手に頼み込み、氷水とか ラーメンとかを彼におごって時々助手席に乗せても らった。どうしてガソリンはあのようにエキゾチッ クな香りを漂わせるのだろうか? そう思いながら 助手席からの眺めを祖母のお陰で堪能できたので あった。 ②小学校では副読本という教科書があって、北海 道の諸所の地方の特色やアイヌ・コロポックルなど の歴史を学習した。札幌の大通は“さすがに北海道 一の広さを持って設営された都市だけあって、市の 中央を横切っている大通りは幅百メートルの広い道 路からなっている”と書かれており、教師は“これ は大通公園のことであろう”という解説をしてくれ たのが記憶に残っている。 学齢に達してからも、親戚を頼って大通公園で遊 ぶ習慣は続いた。昭和13年ごろ、5丁目の中央に「八 紘一宇」という大きな石の塔が建立された。今でも 残る石の塔で、子ども心に何という意味か分からな 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 62 ④今日、道医師会誌の内容を見ても、会長をはじ め、役員の方々の理性的な論文は堂々としており、 とうかい 過去の自己韜晦めいた陰りもなく、時勢の進歩を伺 わせる。また職員の方々の能率的な働きはいささか の変わりもない。これからも時代の趨勢を先取りし た発展の歩みを続けていただきたいと願っている。 時々使用している。 それ以後、毎年のようにアメリカを旅する。東部 は体力的にもつらいので、中西部がほとんどである。 当時のブッシュ大統領の判断が正しいか否か、分か らないが、カリフォルニア州だけでも、エネルギー 資源、農業、湾港、そしてIT産業(頭脳)など、 日本を大きくしのぐと言われている。 こんなアメリカの自然、風土がいつも魅了してく れる。近々ニューヨークの新しい顔を観たいと考え ている。 2013. NOV 9・1 1同時多発テロと アメリカ一人旅 滝川市医師会 佐藤病院 秋 田 治 邦 NI H (アメリカ国立衛生研究所)留学から帰国後、 3年半ぶりの2001年9月10日、当時お世話になった NI Hのボスに会うため、ワシントンD. C. に着いた。 翌日、 NI H留学中の友人と、朝の便でニューヨー クに行く予定にしていた。しかし、時差ぼけが強く、 つらいのでニューヨーク行きは取り止め、ボスに 会った後、ウェストバージニアの保養地に向かった。 9月11日、いつも利用していたドラッグストアに 立ち寄ったが、すぐに追い返され、すべてのストア はシャットダウンになった。さっぱり理解できず、 車のラジオを入れたら、ペンタゴンが爆撃されたと のニュース。さらに、ニューヨークのツインタワー も破壊されたとのニュース。保養地でテレビを観る と、まるでアクション映画「ダイハード」の一場面 を観ている印象であった。私の家族や勤務先の同僚 も、てっきり私がテロに巻き込まれたと思ったらし い。すぐにTELをと考えたがなかなか繋がらないの で諦め、ウェストバージニアの紅葉を楽しむことに した。 翌日の新聞に、パールハーバーの再来とも報じら れていた。複雑な思いもしたが、そう報じられても やむを得ないかもしれない。 帰国には、長時間の空港のシャットダウンで大変 であったが、まったく幸運だったのかもしれない。 翌年、改めてニューヨークを訪れた。グランド・ ゼロはモニュメントになっており、周囲のビルも壁 が焼け焦げて、当時のすさまじさを物語っていた。 犠牲になられた方々の慰霊碑があり、もしかしたら 私もここに名が刻まれていたかもしれなかったと思 いながら、そっと手を合わせた。留学中に家族で訪 れたツインタワーの姿はなく、近くの露店では故ウ サマ・ビン・ラディンやフセインの絵葉書が売られ ていた。日本では考えられないが、まったくたくま しいものだ。絵葉書は目立つし、具合よくないと考 え、そっとフセインのトランプを購入した。今でも 63 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 とであった。そしてその思いは、後生の子どもたち に大きな負の遺産を残してしまったとの後悔の念に つながっていった。 今年の3月11日で福島第一原子力発電所の事故発 生から3年が経過することになるのだが、事故は まったく収束していないし、被爆により子どもたち のがんが頻発するようになるのはこれからである。 また放射能汚染地域から避難して暮らす人々は出口 の見えない避難生活を続けている。こうした状況を 尻目に日本政府は原発推進政策を執り続け、さらに は東南アジアの国々に原発を売り込もうとまでして いることは、非常に残念でならない。原子力発電は ひとたび事故が起こった際のコスト、放射性核廃棄 物(核のゴミ)の管理にかかるコストなどの問題か ら、まったく割に合わないエネルギー源であること はハッキリとしている。できる限り早く日本が原子 力発電から脱却していくように、エネルギー政策の 転換をはかることを願ってやまない。そして今年も 引き続き福島第一原子力発電所の事故後の状況を注 視していかなければならないと思う。 放射能汚染と 共存する人類 十勝医師会 ほんべつ循環器内科クリニック 藤 沢 明 徳 北海道医報新年号の「新春随想」の原稿依頼が昨 年10月末に郵送されてきたときに、どうして私に? と思ったのだが、 「新年の年男・年女に当たられます 会員各位の中より…」という行を読んで、自分が年 男になるのかとハッとさせられた。年月が過ぎてい くのは、本当に早いものである。 これまでの私の人生の中で「転機」と言える出来 事がいくつかあるが、その中でも私の人生に大きな 影響を与えた出来事は、1986年4月に当時のソ連で 起きたチェルノブイリ原子力発電所での事故であっ た。私は当時、京都大学工学部原子核工学科の2回 生で、 「核分裂の次は核融合の時代が来るに違いな い」という無邪気な夢を抱いていた。チェルノブイ リで事故が起き、核分裂でエネルギーを得る原子力 発電所の事故の悲惨さと放射能汚染の深刻さを目の 当たりにしたことは、将来その世界で生きていくか もしれないと考えていた私には非常に大きな衝撃で あった。その後3回生になり、 「核融合の商業化は不 可能」という話を授業で聞かされた。そして私は「原 子核・原子力」に関係して生きていくという考えを 捨てるに至った。 その後、知り合いの勧めもあって医学部へ受験し 直し、医者として生きていくという選択をした。 それから四半世紀たった2011年3月11日に、東日 本大震災が起き、福島第一原子力発電所で大事故が 引き起こされたことは記憶に新しい。この事故では 人類がチェルノブイリ原発事故で経験した原子炉内 核燃料の「メルトスルー」がまたしても起きた。簡 単に言えば、メルトダウン(炉心溶融)を起こした 核燃料物質が容器の底に溜まり、その高熱によって 圧力容器や格納容器の壁を溶かし貫通して放射性物 質が外に溢れ出す状態に至ったのである。 さらに福島第一原発ではメルトスルーした核燃料 物質が地下水脈に接触する「メルトアウト」という 事態にまで至っている。この結果、周辺の土壌や海 域に大量の放射性物質がまき散らされ続けている。 そして現在も環境への放射能汚染は拡大の一途をた どっている。 原子力や核についてわずかながらではあるが学問 的にかじりついたことのある私が、こうした事故の 実態に直面して真っ先に思ったことは、放射能汚染 との共存を人類は余儀なくされてしまったというこ 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 64 の言葉を具現化している一例と言えるか。われわれ はすべての事物を自分を通してのみ観察することが できる。この制約の中でいかに判断を過たずに正確 に物を見、判断することができるか、またはこの制 約を越えて物を見ることができるか。これはこの世 で最も困難なことのように思える。ニーチェいわ く、 「認識者として、しきりに目を凝らしたりする者 が、どうして物事の前景以上のものを見抜くことが できようか!」と。詩人ランボオは“千里眼”とい う言葉で表現しているようだ。 シーザー、シェイクスピア共に空前絶後の政治家、 劇作家であることは疑う余地のないところかと思う が、真の意味でのその偉大さを理解するにはもちろ んわれわれはまだまだ遠く、一生を費やしてもとう ていたどり着くことはできないのかもしれない。こ れは神の仕業か、はたまた悪魔のいたずらか。想い は尽きることがない。 シーザー一考 羊蹄医師会 ニセコ脳神経外科 木 原 光 昭 「お前もか、ブルータス?」という有名な言葉は、 シェイクスピアが書いた『ジュリアス・シーザー』 という歴史劇中のシーザー絶命時の言葉であるとい うことはよく知られるところである。現在、この言 葉は信頼していた腹心に裏切られることの例えとし てよく用いられているが、実際にシェイクスピアの ジュリアス・シーザーを読んでみると、 「お前もか、 ブルータス? それなら、死ね、シーザー!」となっ ている。私は最初にこの文を読んだ時、シーザーの 吐いた言葉の意味が理解できなかった。 「それなら、 死ね、シーザー!」???…本当にシーザーの台詞 か?と。しかし、しばらくするとこの言葉の(恐ら くは)真意が浮かび上がって来、 「お前もか、ブルー タス? それなら、死ね、シーザー!」という台詞 は、腹心のブルータスに裏切られて悔しい、という 意味ではなく、信頼している(?)ブルータスに殺 されるのあれば、このシーザーの役目(?)は終わっ たのであり、私は死ぬべきである、とたぶんそうい う意味であろうと理解された。しかし、死に際にこ ういう言葉が吐けたシーザーとは一体どれほど偉大 な人間なのか、またこういう言葉を吐かせたシェイ クスピアとはいかなる巨人か?と思いを馳せざるを 得なかった。 19世紀の哲学者ニーチェは著書『この人を見よ』 の中で、 「―もしも私がシェイクスピアとは何である かを表わす最も適切な言い方を探すなら、彼がシー ザーというタイプを構想したことに尽きる、とつね に思っている。ああいうタイプの人間は当て推量で 創り出せるものではない。―作者自らがそのタイプ であるか、ないか、それによって決まるのである。こ の偉大な詩人はただ自分自身の現実の中から汲み出 して書いているだけである―」と書いている。見事 な洞察である。そう、このジュリアス・シーザーと いう作品の中の「シーザー」はシェイクスピアであ り、 「お前もか、ブルータス? それなら、死ね、シー ザー!」という言葉はシェイクスピア自身の言葉な のである。 しかし、残念ながらこの言葉の真意は人々には汲 み取られず、 「お前もか、ブルータス?」のみが残り、 遺恨の意味でしか用いられていない。ガリア戦記の 中に「多くの人は、見たいと欲する現実しか見てい ない」というシーザーの言葉があるが、皮肉にもこ 65 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 (6)形は似ていないが、際立って屹立している点が本 家の富士山に似ている山(7)どう見ても本家の富士 山と似ているとは言い難い山―の7型であるが、(7) の項を設けた心意気には、ほほ笑ましいものがある。 この分類に基づいて北海道のふるさと富士を考え てみたい。まず、最も姿かたちが本家の富士山に近 いとされる(1)に該当する山は⑮羊蹄山(蝦夷富士) であることに異論はないと思われる。次いで④北見 富士(留辺蕊)⑤羅臼岳(知床富士)⑧阿寒富士と ⑨ウペペサンケ山(糠平富士)があがる。①利尻山 (利尻富士)と⑰駒ケ岳(渡島富士)は、雄大さで は文句なしに(1)に該当すると思われるが、(5)も捨 て難い。(2)に該当するのは⑬黄金山、(3)は、⑦温 泉富士と⑲釜谷富士、(4)は、⑩美瑛富士、(5)は、 ②音威富士⑪富士形山⑭藤野富士⑯母恋富士と⑱不 二山だろうか。(6)は、⑥斜里富士(斜里岳)と⑫暑 寒別岳(増毛富士)で問題ないであろう。 明治期の文人・大町桂月によると、富士山の特徴 は「孤立峰であること、円錐形に見えること、山麓 を一周できること、噴火口のあること、頂上を一周 出来ること」の各項に要約されるという。また、日 本百名山の祖・深田久弥は、利尻山をして「何年見 続けても同じ表情はない」と表現したが、山の周囲 で天候が常に変化することを深田一流の鋭い観察眼 で捕らえた表現であろう。このことは、山の姿から 天候の変化を予測することにつながる。利尻山は今 も、北の海で漁業を生業とする人々にとって、観天 望気の揺るぎない拠り所となっている。 富士は、日本一の山 函館市医師会 函館渡辺病院 水 関 清 初夢に見ると縁起がよいことで知られているもの に、 「一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなす び)」がある。これには続きがあり、 「四扇五煙草(し せんごたばこ)」と続く。もてはやされた理由の解釈 には種々あるが、あえてまとめてみると、 「富士」は 日本一の山、 「鷹」は威厳のある百鳥の王、 「茄子」は “生す” “成す”で物事の生成発展するさまを言い表 わし、 「扇」は涼をとるだけではなく、祭礼や舞踊の 小道具となり、 「煙草」は酒とともに、祭りや祝い事 など、人々が集う席には欠かせないことに集約され るようだ。 そのめでたい「富士」にあやかって、地元から見上 げる山岳を「○○富士」と称する動きは古くからあ り、すでに江戸時代には16の「富士」が称揚されてい る。 「ふるさと富士」「郷土富士」「おらが富士」「見做 し富士」とも呼ばれる山々は、 「富士学会」という団 体のまとめでは、全国に372 峰(2010年現在)を数え るという。 北海道にも19峰のふるさと富士があり、北海道一 円に広がっている。北から順に①利尻富士②音威富 士③北見富士(紋別)④北見富士(留辺蕊)⑤知床富 士⑥斜里富士⑦温泉富士⑧阿寒富士⑨糠平富士⑩美 瑛富士⑪富士形山⑫増毛富士⑬黄金富士⑭藤野富士 ⑮蝦夷富士⑯母恋富士⑰渡島富士⑱不二山⑲釜谷富 士―である。正式山名を持つものを再掲すると①利 尻山⑤羅臼岳⑥斜里岳⑨ウペペサンケ山⑫暑寒別岳 ⑬黄金山⑮羊蹄山⑰駒ケ岳―となり、いずれ劣らぬ 名山が並んでいる。 19峰のうち11の山が千メートル峰で、高い順に羊 蹄山(蝦夷富士)・1,898m、美瑛富士・1,888m、ウ ペペサンケ山(糠平富士)・1,848m、利尻山(利尻 富士)・1,721m、羅臼岳(知床富士)・1,660m、と 並ぶ。低いほうは道南の山に多く、母恋富士・141m、 釜谷富士・2 43m、音威富士・489m、不二山・497 m、富士形山・638mと続く。 先の「富士学会」の一員である竹林征三(富士常 葉大)は、 「ふるさと富士」を、静岡・山梨にまたが る、本来の富士山の姿と比較して、以下の7型に分類 している。それによると、(1)本家の富士山同様に、 孤立して雄大な山( 2)規模は小さいが全体に似てい る山(3)ある方向からのみ似て見える山(4)頂上の形 が似て見える山( 5)裾野の引き具合が似て見える山 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 写真1. 噴火湾から望む渡島富士・駒ヶ岳 プノンペンで開催された国連教育科学文化機関 (ユネスコ)世界遺産委員会において、 「富士山」 (山 梨、静岡両県)が世界文化遺産に登録されたことは、 記憶に新しい。2013年6月22日のことであり、正式 名称は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」と決め られた。その登録理由は、古来から富士山が日本の 象徴として日本人の山岳信仰や葛飾北斎らの浮世絵 の題材にもなってきた、文化的意義の評価にあると いう。 66 ために、関東各地の富士山が望まれる地には、本家 を擬した富士塚が設けられ、人々の信仰を支援した。 「芸術の源泉」としての認定にあたっては、絵画や 文芸作品などの中に描かれた富士山の姿について、 歴史的に通覧されている。和歌・俳諧の分野で富士 を題材にとりあげた作品は、万葉集に計11首、古今 和歌集に計5首詠まれているほか、松尾芭蕉には少 なくとも7句あるとされている。近代では、太宰治 の『富嶽百景』が有名で「富士には、月見草がよく 似合ふ」の一節で知られる。眼下に河口湖と富士山 を一望する御坂峠の茶屋に滞在中だった「私」が、 麓の郵便局に留め置きとなっていた郵便物をとりに 行った帰りのバスの中での出来事を記したものであ る。この小説の中で「私」は、土地の老婆が指さす 月見草を見て、 「三七七六米(メートル)の富士の山 と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言 ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげに すつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた」と語っ た後、 「富士には、月見草がよく似合ふ」と、漏らす のである。 この委員会前の4月に、ユネスコの諮問機関「国 際記念物遺跡会議(イコモス)」が富士山の世界遺産 登録を勧告した際には除かれていた「三保松原」が、 最終的には登録されたことでも話題を呼んだ。この ことは、富士山の登録理由を吟味すると、自然な決 定であったと思われる。当初、三保松原が富士山か ら45キロ離れていることを問題視されたが、富士山 の美は、45キロ離れた地の白砂青松と組み合わせて こそ、至高の域まで高まる。そして、富士山を駿河 湾越しに望むことでその景観美が一層際立つという ことを発見するという鑑賞行為そのものが、高度な 美的センスに裏打ちされたものであり、浮世絵をは じめとした創作活動への強い刺激となり得てきたこ とに、文化的価値が認められたのである。 対象となった「構成資産」は山頂の信仰遺跡群や 富士五湖などを含む25件あり、富士山域・山中湖・ 河口湖・忍野八海・船津と吉田の二つの胎内樹型・ 白糸ノ滝・三保松原・山麓に点在する、富士山本宮、 山宮、村山、須山、富士、河口、富士御室の各浅間 神社・富士講遺跡、そして旧外川家と小佐野家の二 つの御師住宅からなる。 「信仰の対象」としての富士山は、独特の信仰登山 の様式で特徴付けられる。富士山は麓から山頂に向 かって、俗界を表す「草山」、俗界から神の世界への 過渡部分である森林限界までの「木山」、火山礫で覆 われた山頂までの神仏の世界である「焼山」に区分 される。富士登拝とは、俗界から神仏の世界を往復 することによって、この世の罪と穢れを消すことを 意味する行為であった。 その観点から構成資産を考えてみると、人々の信 仰を側面から支援した「御師住宅」の存在は興味深 い。富士吉田口登山道には、往時86軒もの「御師住 宅」という名の宿坊が階段状に軒を連ね、関東一円 から富士山の頂を目指す人々を迎え入れたという。 登山者は「富士講」という集団を作ってここ富士吉 田を目指し、富士登拝する人々は道者と呼ばれてい た。 関東各地から数週間に及ぶ甲州街道の旅路を経 て、大月宿から富士山北面に位置する吉田口に至っ た道者は、この御師住宅にて宿泊し、翌日には水垢 離をして浅間神社に詣で、山頂を目指して歩いたと いう。登山道は、草山・木山と呼ばれる樹林帯を過 ぎると、森林限界を過ぎて焼山と呼ばれる砂礫の多 い地帯を貫いて走っている。その途中で1泊し、山 頂で御来光を拝んで噴火口を巡った後、下山し、御 師住宅で疲れを癒したという。現存する御師住宅に は、道者がスムーズに参詣登山をするためにこらさ れた、さまざまな工夫をしのばせる博物資料が今も 残されている。 登山シーズンは、当時も今も約2ヵ月間。往復の 旅程を考慮すると、そうたびたび登れるものではな い。さまざまな事情で富士登山を果たせない人々の 写真2. 太宰も眺めた、御坂峠から望む河口湖と富士山 また絵画の分野では、 『冨嶽三十六景』の中で葛飾 北斎が、 『不二三十六景』の中で歌川広重が、それぞ れ、さまざまな場所から見た富士山を描いた浮世絵 が、印象派の大家であるゴッホやモネの構図ならび に空間表現に大きな影響を与えたことが知られてい る。ゴッホは、その代表作の一つ『タンギー爺さん』 の背景に富士山や花魁などの浮世絵を配し、モネは、 浮世絵の「立美人画」を意識した作品『ラ・ジャポ ネーズ』を描いている。 「芸術の源泉」としての「富士山」には、直感的に 多くの同意が得られると思われる。 たとえば、 れ時の 田空 一ター ル。 行きの 行機を つ、 ウンター近くの 向きの に、 もうとする 日を背景とした富士の 々としたシル ットが浮かび上がる。一見しただ けでは りにくいそのシル ットが、富士山のそれ であることに か一人が気付いて、 帯 話なり メラを りだして 影すると、それに続こうとして 67 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 たちまちのうちに窓には人だかりができる。富士の 姿を収めようとする人のなんと多いことか。 そして、たとえば、東海道を快走する新幹線の車 窓、または羽田から南行きの飛行機の機窓。 「富士が 視界に入っています」というアナウンスがあっても なくても、人々の眼はその姿に魅きつけられる。 山 札幌市医師会 勤務協伏古10条クリニック ふるさとの山に本家の富士山の姿を重ねて見る心 情が、多くの人々に受け入れられるのはなぜだろう か。この問題について考えてみたい。一般に、富士 山型の山のことを「成層火山」という。成層火山の 内部には、火山弾や火山礫などの粘り気の多い火山 からの破片状の噴出物と、粘り気の少ない溶岩流と が交互に堆積する。火砕物はきつい傾斜を、溶岩流 はゆるやかな傾斜をそれぞれ作り、その微妙な均衡 の中で、円錐形の山体が形成される。円錐形ゆえに、 山の周囲のどの方角からもその均整の取れた優美な 姿が望まれる。その一方で実際に山に足を踏み入れ てみると、火山礫がいたるところにあって登りにく く、自然の中で侵食が進んでいることにも気付く。 足元の石ころだらけの斜面に気を配りつつ、傾斜の 先にのぞく青空をのみ見つめて、一歩一歩を刻んだ 後に山頂に達する。そこからの眺望は四方に届く。 それまでの山登りの労苦をねぎらって余りある眼福 である。 遠くからは性質の異なる成分の調和した姿を望 み、近くからは山登りに人生の心構えを学び、山頂 に至って四方の眺望を得るという喜びを味わう山、 それが富士山であり、ふるさと富士なのであろう。 北海道のふるさと富士は、いずれも自然の厳しい土 地柄にある。その立地は特に冬季に、周囲と隔絶さ れる。厳しい環境の中でふるさと富士と向かい合う 時、個性が磨かれ、独自性が培われ、生き抜くため に人々は、協働する。そういう土地に暮らすことは、 人々を包み込む思想をも育む。思想が日常生活の中 に息づき、安定した習俗がもたらす安息。ふるさと 富士が常にそこにあるように、ある日必要とされた 時に、あるべきものが、あるべき場所にいつもある という安心感。 威厳と寛容。ふるさと富士が、人をその虜にする 秘密は、気付かぬうちに身近にあるのかもしれない。 北海道医報 第1 1 4 4 号 木 ひとみ 私は山の中で生まれました。標高3 00 mの占冠村 です。四方を山に囲まれ、熊、キツネ、鹿、ウサギ が身近な存在でした。 初めての登山は、長女が小学1年生で学童保育の 登山『ニセコアンヌプリ』でした。25年前です。と てもつらかったですが、6年生の男子が「雲を持っ て帰るんだ」とビニール袋に霧を入れていたのを覚 えています。 『大雪山』に入れ込んでいます。ほとんどは単独で す。始めのうちは、夏山でした。白雲小屋が気に 入って毎週のように通った年や、小屋に荷物を置い て間宮岳方面に花を見に行ったり、忠別岳の方に散 歩に行ったり、日帰りのつもりで登ったのに急に泊 まりたくなって、山で知り合った本州からのご常連 の女性から服を借り泊まってしまったり、赤岳から 登りはじめたら土砂降りの雨になって引き返し、層 雲峡に一泊して、翌朝に登り直したりと、 『白雲』に 恋をしているような時期がありました。 そして縦走。始めはトムラウシ温泉に下りるコー スを、起点をいろいろ変えて登っていました。ヒサ ゴ沼の朝、巨岩帯、天沼、北沼はいつも感動を与え てくれます。念願は『大雪-十勝全山縦走』でした。 1回目は、大雪の南端のトムラウシ山を超え、三川 台(さんせんだい)を通り、十勝連峰に入る予定で した。小雨の中、南沼でちょっと迷って数時間後、 三川台のテント場を見つけました。その日行き合っ たのは3人だけでした。当然テント場にも誰もいま せん。1人用テントを張って、夕食です。6時、あ たりは薄暗く、もう寝るだけです。明日、雨が上が ればいいなと思いました。静かです。寂しい、たま らなく。ラジオに助けられました。夏場所の千秋楽 で優勝力士の表彰式の様子が、懐かしい拍子木の音 とアナウンサーの声で届きました。翌日、十勝連峰 入り口のオプタテシケ山は、残雪が多く登山道が消 えていました。迷いながら登り、美瑛避難小屋には 私を含め2名の宿泊者のみ、結局天候は悪化したの で、雲ノ平を経て吹上温泉に下りました。 51歳になり、 『十勝―大雪縦走』を再び計画しまし た。今度は反対側ならと思い、一人でニングル小屋 に泊まり、翌朝、原始ヶ原から富良野岳に登りまし た。すごく暑い日で、りんごをかじったらよけい喉 が渇いてしまいました。上ホロカメットク山(避難 写真3. 羽田空港から遠望する夕暮れの富士山 平成2 6 年1 月1 日 鈴 68 と書いてある。京都奈良では三百円なのに、天に近 くなると高値になるのかしら。お店の人にも早く降 りたほうがいいよと言われたので、須走口・新5合 目まで駆け下り、バスに揺られて御殿場に着きまし た。結局、富士山では、酸素の薄い感じなどなく、 人がいっぱいで、トイレはすごくきれいだけど1回 百円であったということです。 「富士登山 一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」と 言うらしいですが、3年後の6月、海外雪山登山ツ アーの練習があるというので参加しました(私は海 外登山組ではありません)。4時、白い月が昇ってい ました。アイゼンをつけて登っていくと、スキーを かついでいる人もいます。直登なので9合目以上は かなりきつかったです(写真:頂上の鳥居)。羊蹄山 のように頂上に火口があり、たくさんのスキーヤー がその中で滑っていました。私たちは雪山の練習な ので、ザイルにつながったり、すべった時のピッケ ル操作などの実技をしながら楽しく降りてきまし た。でも、内心、私はスキーがうらやましかった。 夢は、今度生まれてきたら、若いうちから山登り を始めることです。もっと高い山に行けるようにな りたいから。命が尽きるのは山の中がいいけど。 現実的な夢は、やっぱり富士山の山スキーでしょ う。 昨年は札幌市内でケガをしたので、2 014年は、注 意深い日常生活をしたいと思っています。 小屋泊)を経て、十勝岳→美瑛岳→オプタテシケ山 (双子沼テント泊)→三川台(テント泊)→トムラ ウシ山→ヒサゴ沼(テント泊)→忠別岳→白雲小屋 →黒岳で下山帰宅しました。白雲小屋で一泊するよ う勧められましたが、もう風呂に入りたくてたまら なく、ビールだけご馳走になり、黒岳を駆け下り、 ロープーウェイに間に合いました。この山で泊まっ ていた人は、外国人か本州人でした。北海道人には 暑すぎるんだなとなんとなく納得して帰ってきまし た。翌日、顔は真っ黒、鼻は真っ赤、体中がむくん でいました。病棟に行くと同僚が吹き出しました。 山スキーをかじり始めた最近は、春山の大雪を楽 しんでいます(もちろんお盆にふらっと登ることも あります)。白雲頂上直下の『幻の湖』を見たくて行 きますが、既に水が引いています。短い山スキーで 緑岳を登ります。夏と違って、ただ直進です。クレ バスのように雪が割れているところをのぞくと青色 で、すごくきれいで吸い込まれそうですが、これが 割れたら雪崩になると思うと怖くなり離れます。春 の雪山は本当に素晴らしい。 大雪の沢登りも少し経験しました。さすがに単独 行動は無理で、仲間に連れて行ってもらいます。夏 の沢の美しさ、水に映る陽のきらめき、しぶき、時 折現れる滝。予想のできない展開と緊張です。次の 一歩はどの石の上に乗せるか、ここは渡るか、登れ るか、常に次を判断しながら進みます。途中で戻る 羽目になっても悔いは残りません。私にとっては沢 を行くことが目的なっているのだと思います。白水 川から黒岳石室に登る沢では、大雪の雄大さを実感 しました。この仲間は日高の沢にも連れて行ってく れました。エサオマントッタベツ岳では、雨の中の 川を這いながら登ってテント場に着きました。翌 朝、頂上に登る途中『ブロッケンの妖怪』が見られ たのも素晴らしい思い出です。 エベレストに関する本を読むとわくわくするので すが、実際どんなところか分からない。勤続20年の 休みを取って、エベレストを見るトレッキングツ アーを申し込みました。54歳の時です。4,000 m以 上の高地に行くのだから富士山くらいには登ってお こうと思い、その夏初めて登りました。朝10時過ぎ 富士吉田駅に降り、歩いて北口本元宮浅間神社まで 行き、そこから馬返し(昔の登山者が馬で乗りつけ てきた場所)までは遊歩道で2時間あまり。山梨県 の名産品の桃を頂き、神社の裏の森のような道が5 合目まで続きます(標高差1,000余m)。古くからの 富士山信仰の旧跡を見ながらの興味深い登りでし た。逢う人はほとんどなく、5合目に着いたとたん、 観光地になって、人だらけ。渋滞登山の始まりです。 予約していた宿で夕食と仮眠をとり、9合目で御来 光(雨雲でした)。頂上は土砂降り。急いで久須志神 社へ。ご朱印を並んで買い、千円札を出してお釣り をしばらく待った。横を見ると、驚くことに「千円」 富士山頂上の鳥居の半分が雪に埋もれていました 69 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 あったのだろうか。私はといえば、第一内科の村尾 教授の「結核」が、小さい脳に残っていたらしい。 ある時、研究室長の上司から二人一緒にこっぴど く叱られた。医学は科学なんだぞ。何だお前らの答 えは。ハッタリばっかりかけやがって。ということ だ。上司の眼がドスになっていた。その後も彼の胆 石は治らなかった。私はといえば、それから少し方 針を変えた。まれらしい病名を挙げるように心掛 け、理屈に細心の工夫をした。私とその上司の師弟 関係はそれから成立した。上司と私の専門とすると ころがまったく異なるのに師弟になってしまった。 学問以外でもスケールが大きかった。常に国家、国 民が視野にあった。若い才能を世に出そうとしてい た。まったく無私の精神で、何の見返りも望まな かった。大学紛争で権威を信じなくなり、すべてに たてつくようになっていた私だったが、この上司に 心酔し、喜んでカバン持ちになった。 胆石の友人は、その後産業大学に教師として赴任 したが、50歳とわずかで白血病に倒れた。あっけな い最期だった。尊敬する上司は有名病院をいくつも 作っては総長や院長となり、腕をふるった。それが 突然2年前に亡くなられた。信じられなかった。79 歳。自宅で死んだ。家族や主治医が入院を勧めた が、決して入院をしようとはしなかった。 先生は現代の若者に大変失望していた。これから の日本を背負う若者がこれでいいのかと心配してい た。医学教育に対しても、医療制度にしてもしかり。 今の日本人は昔の日本人とは違うと常々おっしゃっ ていて嘆いた。憤死。切腹したとしか思えない。 偲ぶ会出席の折、師が総長や院長をされていた病 院を見て回った。いずれも主を失った悲しみで暗 く、深く沈んでいた。 先生は私に、お前は故郷に帰れとおっしゃった。 この先見込みがないということだ。カエデのアーク の入ったセーターを餞別としてくださった。北海道 は寒いからと。出来の悪い弟子が心配でならなかっ たようだ。本人は決して何も言わないが、その後も 人を通じ何かと私を支えてくれていた。言わないが 何となく分かった。 根無し草。風のまにまにさまよった。いろいろな 人との出会いがあるが、友人と恩師のお二人のこと は生涯忘れられない。 大学の構内は今も変わらず木立が深い陰影を作 り、陽光のきらめきと葉のざわめきがあり、新しい 住人の大学人が歩いている。しかしこの人たちも、 いつか私と同じ位置に立つことになる。むんずとつ かんで離したくない「時」がある。そうできないこ とに、ほろ苦い悲しみと悔恨に呆然とする。孤独な 寂しさに、胸にさざ波が立つ。 新しい年が来る。でも宝石のような時期の人々へ の思いは、逆に刃のように鮮烈となる。午年。 風のまにまに ―走り抜けた人々― 帯広市医師会 新井病院 新 井 三 郎 卒業して4 0年。白壁の漆喰の校舎はそのままだ。 近代的ビルの合間に古い影を残している。壁は塗ら れて真新しい。中は机の代わりに展示物や土産物が 陳列されている。外に出てもう一度建物をじっと眺 める。昔校舎だった建物は、久しぶりの外来者に対 し真冬の隙間風のようによそよそしい。お前のこと はもう誰も覚えていないんだよ、と。少し陽が陰り、 よそよそしく、ひんやりした風がどこへともなく吹 き抜けていく。 40年前、私は重いカバンを手に提げ、教室から教 室へと移動した。冬。雪の中をゴム長靴は指の先か ら冷えてくる。人生はあくまでも不確実で心もとな い。勤勉にすることで何とか心のバランスが取れ た。少しでもそれから逸脱すると、すべてが瓦解し てしまう気がした。いつも後から追い立てられてい るようで、立ち止まることができない。苦しかった。 しかし自分以外は頼れるものは何もなかった。6年 続いた。私の青春はそれがすべてだ。苦しかった が、しかし闇の向こうにはわずかながらも希望と夢 があった。平凡な学生で先が見えない私は、大学紛 争の大波にあらわれることになる。何の定見もなく ただ風の吹くままに動くことになる。いつも一兵 卒。今も。その道程で多くの人が通り過ぎた。とて もとても大きな人たちであった。 九州から来た男は大男だった。山賊。九大柔道部 の主将。全学連の委員長。でもどこか壊れていた。 体の大きさと試験管の小ささに違和感を覚えた。武 勇伝に事欠かない。麻雀に狂って落第しそうになっ た。夜雀荘で警察に踏み込まれ、雀荘のお嬢さんの 寝ている布団に潜り込んで難を逃れた。九大病院時 代、受け持ちの老婆に逃げられた。主治医が恐いと 言って、真夜中に大学病院の塀をよじ登って逃走し ようとした。主治医の彼は何ばしちょるかと婆さん の足をつかんで引きずり下ろした。婆さんのワンワ ン泣きが大学病院中響いたというのは有名な話らし い。私の替わりに胃カメラのバイトに行き、ここで も婆さんで、胃カメラを入れようとした途端ヒィー と叫んだのでポカリと殴ってしまった。私が院長に 叱られた。散々に。 CPCでは私と二人で前もって答え合わせをした。 彼はいつも胆石。私はいつも結核だ。どうやら彼の いた医局はすべてが胆石と関係づけて考える習慣が 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 70 仕事の上では、緑内障を中心とした診断手術をは じめ、専門の講演や研究会を行っている。緑内障に よる失明を防ぎ、患者さんが生涯視機能を保全でき るように少しでも努めることが、私の使命ではない かと考えている。社会保険の審査員も始めてから15 年が過ぎた。さらに、女性医師の働きやすい環境を 整えることを目的とした、日本眼科医会の男女共同 参画委員として、年2回の会議に出ている。女性医 師の意見を聞くために、北海道で会合も持った。若 い女性医師の悩みを聞いて、先輩として、どうやっ てきたかを聞かせることで、女性医師が働く手助け になればと考えている。安倍首相の提唱する「ウー マノミクス」 (女性の登用が、社会の発展に役立つこ と)の動きに沿って、ますます女性の社会進出がし やすい環境が整っていくと良いと願っている。 Howy oul ooki swh a ty oua r e . 40歳過ぎからは、内 面が外見に影響するのだそうだ。美術館巡りをし て、多くの絵画を見たり、映画を見たりして、ます ますワクワクドキドキを重ねていきたい。時間を見 つけて、語学の勉強をしたり、書道をしたり、若い ころやっていたピアノを弾いたり、楽しく元気な老 後を送りたいと考えている。超高齢社会の到来に備 えて、健康であれば、次の年女までマイペースで仕 事を続けて、趣味も続けたい。医師を続けていくこ とは、時間的にも精神的にもまた体力的にも厳しい と思う。そのため仕事と趣味のバランスをとりなが ら、心身のバランスをとることが必要だと思う。自 分勝手な忙しい日常を支えてくれている、家族と同 僚、友人たちに感謝の気持ちでいっぱいである。 人生終盤も ワクワクドキドキで 江別医師会 おかざき眼科 岡 崎 裕 子 ~~~~年女によせて~~~~ 生まれた年と同じ干支が巡ってくる還暦。そんな 年回りになったのか、と月日の早さにわれながら驚 いている。前回の年女の時は、何となくこのまま老 後?になるのだろうと考えていた。しかし3年前、 公務員を辞めて開業医となった。そのまま定年を迎 えるだろうと思っていた。勤務医として体力の衰え を感じ、さらに、自分らしい診療ができそうな場所 が見つかって、頃合いと思って21年勤務した市立病 院を退職した。公務員は職場環境も安定していて、 楽なんだろうと漠然と考えていた。しかし今になっ て思えば、当直や、土日の回診、毎年の業績目標設定・ 機器選定など勤務医はそれなりに忙しく、精神的に もけっこう厳しい。 「公務員のようなわけにはいかな いぞ」という開業医の先輩である主人の心配をよそ に、今は、マイペースで順調に仕事している。自分 の体調を考えて、昼休みを長く取ったりと、勤務時 間も工夫している。 年配になれば、毎日を淡々と送るのだろうと考え ていた。しかし年齢を重ねても、いろいろなことで ワクワクドキドキの連続である。開業医は、すべて 自己責任。大変なこともあるが、頑張った分だけ、 医師としても個人としても、得るものも大きい。経 営やさまざまな困難は、顧問契約している税理士・ 公認会計士・社会保険労務士・弁護士の先生たちの 助言を得て対処し、本当に助かっている。 母親の役割も一段落して、自分のために使える時 間も増えた。週1回のピラティスの個人レッスン。 体幹筋を鍛えて、身体のゆがみを矯正する。週1回の ゴルフレッスン。さっぱり上達しないが、友人と緑 の中で思いっきりプレーする気持ち良さを知った。 時間があれば、水中ウォーキングをして、身体を動 かすことを心掛けている。老後の旅行に備え、足腰 を鍛えておく狙いもある。メタボ、ロコモを防ぎ、 いつまでも元気でいたい。 年1回は、海外学会や海外旅行に行っている。視 野が広がって、良い勉強になる。日常診療のモチ ベーションにもなる。非日常の中で、自分を見つめ 直すと、日ごろの悩みも小さく感じ、ストレス解消 になる。同期のサポートを得て、比較的長い休みも 取ることができる。仲間のありがたさを痛感してい る。 71 平成2 6 年1 月1 日 北 海 道 医 報 第1 1 4 4 号 す。私が日々学び、目指す理想は「(少なくとも医療 面で)世の中を、より便利なものとする、より安心 できるものとする」という姿です。仕事そのものが 自分自身であると考え、その役割を最大限発揮でき るように2014年も淡々と頑張っていきます。 一つ、お詫び致します。 「3,076回目の連続外来」に 嘘はありませんが、実は、この場で告白しますと、 私はそのうちの3回を休んで友人に外来を任せた経 緯があります。何の足場もないところから突飛な診 療所を開始したため、開院から数年間は大して忙し い感じではありませんでした(開院初月レセプトは 65枚)。当初は暇だったこともあり、また、当時の職 員から休みなく働いていることを心配され、 「先生が 休まないと私たちも気楽に夏休みを取れません」と 言われたため、開院から3年目まで、毎年1日、夏 休みをいただいて釣りに行きました。案の定、4年目 にいろいろなトラブルなどを経験し、自身の甘さを 反省する機会を得ました。 「決めたからには10年は しっかりやる」という初志のもと、それ以降、現在 まで年中無休の緊張感を維持しています。 2005年8月1日開院ですが、2015年8月1日まで を上述サイトで計算したら、3,653日でした。ちょう どよかったと思いました。閏年のおかげです。その 日の外来を無事に終えたならば、私の初期計画の中 期目標である「10 年(3,650日)はしっかりやる」に 叶うような気がします。つまり、私の新年の抱負は 「2015 年8月1日の外来をいつも通り終えること」 です。 たびたび話を変えてすみません。私は野球ファン ではありませんが、イチローさんを尊敬しています。 イチローさんは既に、ある意味で伝説になりかけて いる人物と思いますが、彼の語る言葉は、一つ一つ がc ool 過ぎると思います。最後に、私の心に響いた イチローさんの言葉を紹介させてください。拙文の 御高覧誠にありがとうございました。 2 0 1 5 年へ向けての抱負 「3 0 7 6」 札幌市医師会 クリニック・イン・ザ・モーニング 岡 田 純 一 北海道医師会会員の皆さま、新年あけましておめ でとうございます。札幌市医師会中央西支部の岡田 純一です。 「年男・年女に当たられます会員各位の中 より無作為に(執筆分担を)選ばせて……」いただ いたところ、選ばれたようでございます。世の中に 偶然はない、と私は考えておりますので、これは私 個人に何らかのメッセージなり所感を発信せよ、と いう機会をお与えくださったものと思います。 私は2005年8月1日より、地域のための一次医療 機関(無床診療所 内科・小児科)を「年中無休」 「平日早朝診療」として札幌市中央区で継続してい ます。夜間急病センター終了後、各医療機関が始動 するまでの医療空白の補填、そして地域医療の一貫 性を時間的に担保する必要性を勝手に自覚し、個人 的な「実験」として始めました。私個人の意志で始 めた仕事ですので、とりあえず自分自身に命じた通 りに守ることとし、孤独ながら私独り、そして当院 スタッフたちの力をいただきながら今日に至りま す。地域の基幹病院の皆さまをはじめ、多くの医療 関係者皆さまのご理解とご協力をいただいたおかげ で、今年もまた無事に新年を迎えることができたと 思います。最近ネット上で、ある期間の日数計算を 自動で行ってくれるサイトの存在を知りました。当 院は年中無休外来を継続していますので、計算が容 易です。開院日から2014年1月1日までの日数を計 算したところ、新年元旦の外来を無事に終えたなら ば、当院は3,076回目の連続外来を行ったことになる ようです。 先ほど「実験」という言葉を使ってしまいました が、正直に申し上げますと「社会実験」としてはそ の通りです。ただ、一つの試みを継続させるために はさまざまな日々の反省と工夫が必要であり、それ を通して私自身は、大きな社会の中で、毎日成長さ せていただいている喜びと感謝を実感しています。 しかし、実験が実験だけで終わってしまってはいけ ない、と私は考えています。ここまで語ってしまっ ては、既にお気付きになられた方もいらっしゃるか もしれませんが、私は、より発展的な実験を今後も どんどん進めていくつもりです。新年早々、大言壮 語ばかりではいけないので、これ以上この場では語 れませんが、私の努力に天意が叶うならば、やがて 皆さまの目に見える形が何か他に出てくると思いま 平成2 6 年1 月1 日 北海道医報 第1 1 4 4 号 「夢を掴むことというのは、一気には出来ません。 小さなことを積み重ねることでいつの日か、信じら れないような力を出せるようになっていきます」 「日頃の訓練通りにやって、訓練通りに終わってい く、そういう仕事を続けている」 「どんな状況でも、一定ラインをクリアするのが、 プロです」 「苦悩というものは、前進したいって思いがあって、 それを乗り越えられる可能性のある人にしか、訪れ ない。だから苦悩とは飛躍なんです」 「夢や目標を達成するには1つしか方法がない。小 さなことを積み重ねること」 72
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