第10章 邪馬台国は近江だ!

第10章 邪馬台国は近江だ!
第3節 物部氏と台与
私は先に、「台与と前ヤマトとの関係についての認識だ。私は、台与を擁立した陰の権力
者が大和にいて、邪馬台国と狗奴国との和平を実現した実力者がいたと考えているのだ
が、その実力者ははたして誰か、ということを考えねばならない。私のそういう考えと台
与と前ヤマトとの関係については、のちほど縷々説明をしたいと思う。」と述べた。これ
らのことについて、以下においていろいろと考えていきたい。
まず、台与のことであるが、卑弥呼の宗女であるという。卑弥呼には夫というべき人はい
なかったようなので、宗女とは同族の娘ということになる。台与を擁立した陰の実力者は
誰だ?
私は、大和朝廷の成り立ちについては、記紀やいろんな伝承にもとづく理解も必要だが、
それだけでは正しい認識に立てないと思う。記紀やいろんな伝承にもとづく理解として
は、今のところ、谷川健一が「四天王寺の鷹」で述べている認識がいちばん信用できる論
考である。しかし、それだけではもちろん不十分で、やはり魏志倭人伝との繋がりを考え
ねばならない。 台与と前ヤマトとの関係についての認識だ。私は、台与を擁立した陰の
権力者が大和にいて、邪馬台国と狗奴国との和平を実現した実力者がいたと考えているの
だが、その実力者ははたして誰か、ということを考えねばならない。私は、台与を擁立し
た陰の権力者を物部氏だと考えている。谷川健一の「四天王寺の鷹」についてはのちほど
述べるとして、まず物部氏について述べる事とする。
1、大和盆地の遺跡について(概要)
台与が擁立された年代は、魏志倭人伝には記載がないのではっきりしないが、卑弥呼が古
墳に埋葬されたという魏志倭人伝の記事によって、台与が擁立された年代もすでに古墳時
代に入っていたと考えてよい。しかし、弥生時代が終わってそれほど経っていないので、
台与が擁立された頃の状況は、弥生時代の遺跡を調べる事によって、推察する事とする。
まず、大和盆地の遺跡について概観してみよう。
二上山北麓遺跡群は大阪との府県境に沿って連なる、二上山から寺山にかけての北東側と
南西側山麓に分布する、旧石器時代から弥生時代にかけての遺跡を総称している。石器時
代の代表的な石材・サヌカイトの一大産地で、その加工技術とともに、ここから全国に石
器文化が波及していった。すなわち、旧石器時代から縄文時代にかけて、二上山を中心と
した人びとの往来が盛んだったと思われる。石器文化については、次を是非参照してほし
い。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekkibunka.pdf
縄文時代は、関東・中部地方を境にして、南西日本細石刃文化と北東細石刃文化が対峙す
ることになるのである。
北東細石刃文化の文化圏として、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏というものがあり、
旧石器時代と縄文時代というものを理解する上で欠くことのできない要素であるので、こ
れも紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enayana.html
歴史の連続性というものを十分認識する事は、正しい歴史観を持つ上で大事な事である。
この文化圏に関連して、私の「黒曜石の七不思議」という論考があるので、これも紹介し
ておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/7husigi2.html
さて、これから大和盆地の縄文時代の遺跡と弥生時代の遺跡を概観するのだが、まず最初
に申し上げておきたい事は、この時代から人びとの往来、それは交易によるものだが、人
びとの往来は全国的な広がりをすでに見せていたという事である。
下の図を見て判るように、大和盆地にも数多くの縄文遺跡と弥生遺跡がある。そのなか
で、縄文時代の代表的な遺跡として布留遺跡と橿原遺跡を紹介しておきたい。また弥生時
代の遺跡については、大和弥生文化の会のホームページを紹介した上で、弥生時代から古
墳時代へと時代が移り変わる時期の特に注目すべき遺跡として、纒向学研究センター作成
のホームページを、それぞれ紹介しておきたい。
布留遺跡: http://inoues.net/club/karakokagi_new23.html
橿原遺跡: http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/
joumon_shousai.html
弥生時代の主な遺跡: http://www.yayoi.sakuraweb.com/cyber-mizuho/iseki/Index.html
纒向遺跡: http://www.city.sakurai.nara.jp/maki_c/info/iseki.html
2、物部氏に関わる遺跡について
平成24年10月28日に天理文化センターで、『国宝「七支刀」の
ポジュームが開かれた。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_10_28.htm
』と題して、シン
そのシンポジュームにおいて、天理大学付属参考館の日野宏先生が、次のように述べられ
た。すなわち、
『 布留遺跡は天理市周辺では最大の遺跡で、旧石器時代から現在まで連綿と続いてきた
複合遺跡である。天理参考館は1976年から78年にかけて布留遺跡の範囲確認調査を
実施した。その結果、遺跡は布留川を挟んで、現在の天理教本部を中心に東西2キロ、南
北1.5キロの規模を持つ広大な範囲を占めることが判明した。旧石器時代から人が住ん
でいた痕跡があるが、5世紀から6世紀の古墳時代に大きく発展した様子が伺える。
遺跡の南側には杣之内(そまのうち)古墳群が あり、全国でトップクラスの首長墓が築
かれていて、布留遺跡に大豪族がいたことが分かる。布留遺跡と石上神宮との位置関係か
ら、布留遺跡は物部氏の拠点集 落だったと考えられている。そのことを裏付けるように発
掘調査では、住居跡以外に多数の祭りに関わる遺物や、玉工房や武器工房との関連を示す
遺物などが見つかっている。
天理教本部近くの
の下・ドウドウ地区では、幅が15m、深さ12m規模の人工の大
溝が 築かれている。『日本書紀』には履中天皇のとき溝を掘るという記述があり、その
溝に相当すると考えられている。しかし、付近の岩盤は固く、高度な技術を 持った渡来工
人の関与が指摘されている。その大溝の近くで、碁盤の目のように整然と配列された2棟
の建物跡が見つかった。高床の倉庫跡と推測されているが、その規模は東西9.1m、南
北6.6mもあり、5世紀の総柱建物である南郷遺跡や法円坂遺跡、鳴滝遺跡の倉庫跡の
規模に比べても、そん色がない。
また、布留川の両岸の石敷きの上から祭祀跡が見つかっており、そこから祭祀用土器や
祭祀用玉、滑石で造られた剣形石製品などが多く出土している。特に注目すべきは、円筒
埴輪10個分、朝顔型埴輪15∼16 個分の破片が見つかっている。通常、これらの埴
輪は古墳の墳丘部に設けられて聖域を画すためのものだが、布留遺跡の中には古墳はな
い。そのため、祭祀の場 所を囲うために用いられたようだ。しかも、この時期の埴輪と
しては穴が多いのが特徴で、段だらに赤とか白を色分けてしている。
物部氏が軍事氏族であったことを示す遺品としては、1500年前の皮の中から
や柄
など多くの木製の刀装具が60個出土している。その数は全国最多である。また、布留遺
跡は、大量の管玉や滑石製の玉、ガラス製玉鋳型やかなさしを出土しており、玉造り遺跡
としても有名である。さらに鉄滓や鞴(ふいご)の破片なども見つかっていて、鍛冶集団
がいたことが分かる。
鍛冶は当時の最先端の技術であり、物部氏が半島の百済や加耶から最先端技術を携えて
やってきた渡来人を配下に抱えていたようだ。そのことは、百済の地域に特徴的な鳥の足
を形をした鳥足文の土器や、高坏の下の部分にオタマジャクシの形の透かしし穴を持つ咸
安地方独自の土器が発見されていることからも明らかである。』・・・と。
物部氏も大勢の渡来系技術集団を配下に擁していた事は注目すべき点であり、大陸との交
流があった事は明らかだ。しかし、その時期がはっきりしない。私は、邪馬台国近江説の
立場であり、物部氏が近江の邪馬台国から台与を大和に引っ張ってきて、台与の祭祀を引
き継いだと考えている。そして、その大和に入ってきた時期を三世紀の終わり頃と見てい
るが、実は、時期が問題なのである。もし、台与が女王に擁立されてしばらく経ってから
大和に来たのであれば、邪馬台国は近江だという可能性が高くなる。その点については、
今後のさらなる発掘調査と研究が必要である。それを期待したい。
したがって、現時点では、物部氏が女王台与を大和に引っ張ってきたと私が主張するから
には、私なりに、その動機を推察しなければならない。あくまで推察に過ぎないけれど、
私は、邪馬台国の時代に宗教革命が起こって、いわゆる銅鏡祭祀が銅鐸祭祀に取って代
わった。そして、それにともなって石上神宮の神が三輪山の神に取って代わった。私は、
石上神宮の祭祀は台与の祭祀を引き継いだと考えている。 物部神道の誕生である。 その
後、
城氏と物部氏が政治的に対立するようになり、
城氏と物部氏との勢力争いは
城
地方で蘇我氏が大きな勢力を持つまで続くのである。そして、遂に、蘇我蝦夷と入鹿に
よって、物部守屋は殺されてしまうのである。蘇我氏と物部氏との争いは、谷川健一が言
うように、宗教上の争いではなくて、単なる権力闘争なのである。その権力闘争は、
城
山麓における蘇我稲目の時代に始まった。私は、以上のように考えている。そのことはす
でに***の
城王朝のところで説明した。蘇我氏と物部氏の権力争いは、宗教上の争い
から始まった。したがって、神道、当時は物部神道であるが、その始まりは、台与の祭祀
である。台与の祭祀こそ、わが国が世界に誇る「神道」の源流は台与の祭祀である。
3、台与の祭祀について
私は先に、「台与の祭祀こそ、わが国が世界に誇る「神道」の源流は台与の祭祀であ
る。」と述べた。わが国の「神道」は、台与の祭祀から始まって、物部神道、そして中臣
神道を経て、現在に至っている。台与の祭祀について考える前に、まず、神道についての
大筋的な流れを見ておこう。
台与の祭祀と伊勢神宮を中心とする現在の神道とは、基本的な断絶はないのだが、藤原不
比等によって、伊勢神宮が建立され、天照大神が誕生した。これは大改革と言って良いほ
どの素晴らしい変革であり、日本の国是がここに定まった。では、不比等によって誕生し
た天照大神について、その神格を説明したい。
天照大神とは、そもそもどのような神か? その神格を明らかにしなければならない。こ
れはもう哲学の問題だ。記紀における神話をもとに、哲学的思考を重ねなければならな
い。それは、どうもヒルコとの対比の中で、考えねばならないようだ。その点について
は、河合隼雄がいちばん核心部分に迫っているようだ。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-f2d4.html
それにしても、藤原不比等は、何と奥深い戦略を考えたものだと思う。彼は、自分の氏神
としての鹿島神宮を物部氏から奪い取ると同時に、天照大神を祀る伊勢神宮を作った。そ
して、それと同時に、記紀において天照大神を中心に神々の物語を作った。いわゆる日本
神話の誕生である。ということで、私は,河合隼雄のヒルコ論を念頭において、天照大神
の神格について、重要な点を語らねばならない。神の存在について語ること、神というも
のはどこにいるのか、また神は、人間に対してどういう働きをするのか、それはもう哲学
の問題である。天照大神は伊勢神宮にいる。何故伊勢にいるのか、そして、その天照大神
は、私達日本人に対して、どういう働きをするのか、それを考えねばならない。
日本にはさまざまな神がいる。不比等の頃の豪族は、それぞれにおのれの祖神を祀ってい
た。それらの神々を大事にしながら、かつ、天皇を中心に全体の秩序立てを図る神、それ
が天照大神である。女性の太陽神、天照大神でなければならないのである。河合隼雄が言
うように、男性の太陽神ではダメなのである。
本音と建前、それをうまく使い分けるのが日本人独特の知恵である。今ここでの脈絡から
言えば、本音は各豪族の祖神。各豪族は本音で祖神に祈りを捧げながらも、建前として
は、天皇の祖神、天照大神に祈りを捧げ、天皇に忠誠を誓うのである。これによって、朝
廷の権威は揺るぎないものになる。不比等は、何と巧妙な社会構造を考え出したものであ
ろうか。これが、河合隼雄の言う中空均衡構造である。
中空均衡構造については、私の論考があるので、それを紹介しておきたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-8dca.html
日本の歴史と文化の心髄は、違いを認めるところにある。そこが一神教の国と違うところ
である。その源流には中臣神道があり、さらに
れば、台与の祭祀に
り着く。台与の祭
祀のいちばんの特徴は、祭祀道具が銅鏡であるということだ。少し銅鏡について考えて見
たい。
奴国との争いが生じた時、魏の皇帝は、親魏倭王卑弥呼に黄幢を授与した。邪馬台国は、
それを旗印に、多分、狗奴国の周辺の豪族を糾合し、狗奴国を降伏せしめることができ
た。魏の権威は、絶大であったと思う。したがって、魏の皇帝から下賜された銅鏡も権威
の象徴であったと思う。台与が祭祀の際に使った銅鏡は、威信財としての性格も持ってい
たのではなかろうか。
台与は、狗奴国も含めて、倭国のクニグニに威信財としての銅鏡を積極的に配ったと思
う。
銅鏡のもう一つの用途は、いうまでもなく本来の用途、すなわち祭祀である。では、これ
から、台与は銅鏡を使って何を祈ったか、それを考えてみよう。
台与の祭祀の道具は鏡。卑弥呼の祭祀の道具は銅鐸。しかし、道具が異なるとはいえ、そ
れを使って祈る対象としての神や祈る内容は、卑弥呼との場合も台与の場合も同じであっ
た思われる。まず、何を祈ったか? 私は、豊穣を祈ったのだと思う。これは旧石器時代
や縄文時代における祈りと断絶はない。特に弥生時代に稲作が行われるようになってから
は、富をもたらすものは稲作であり、富の蓄積によってクニグニができていった。した
がって、各豪族が豊穣を祈るのは当然であって、私は、卑弥呼も台与も豊穣を祈りなが
ら、クニグニの繁栄を祈ったのだと思う。だとすれば、卑弥呼や台与の祈った神は、大地
の神・地母神であり、天にまします神・太陽神であったと考えられる。これを旧石器時代
や縄文時代でいえば、前者は「炉」すなわち「ホト神さま」であり、後者は「石棒」すな
わち「柱」である。である。私は、日本伝来の神をそのように捉えているので、神に対す
る断絶はなく、今に続いていると考えている。祭祀の道具は変化してきている。しかし、
基本的に神道の祭祀道具な「鏡」である。その源流に台与の祭祀がある。伊勢神宮も、基
本的には、「ホト神さま」と「柱」に対する信仰に支えられている。このことについて
は、かって、少し書いたことがあるので、ここに紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/maramyo02.html
中国でも祭祀道具として使われていたようであるが、日本に銅鏡が伝わると、それが権威
の象徴として使われ始めるとともに、太陽信仰のための祭祀道具となった。太陽信仰は日
本の旧石器時代からの祭祀と同じである。そういう大きな流れの中で、台与の祭祀では、
太陽神という具象的な神が作り出された。それがやがて天照大神という皇祖神に変身する
のであるが、その源流に台与の祭祀があることの歴史的意義は大きい。