-1- 「聖書と科学の関係について」 聖書の神は,無から有の創造をされ

「聖書と科学の関係について」
聖書の神は,無から有の創造をされ(創世記 1 章 1 節,ヘブル 11 章 3 節),自然法則を
創り(ヨブ記 38 章 33 節,エレミヤ 33 章 25 節),被造物を保持しておられる(ヨブ記 38
章~ 42 章など参照)。聖書の神の御手の中に,全ての被造物(時間や空間や自然法則も含
む)は存在する(出エジプト記 19 章 5 節,申命記 10 章 14 節,ヨブ記 12 章 10 節,41 章 11
節,詩篇 24 篇 1 節,50 篇 12 節,エゼキエル 18 章 4 節,第一コリント 10 章 26 節など参
照)。ということは,聖書の神はみこころのままに時間や空間や自然法則を保持すること
も超越することもできる,まさしく全能の神である(創世記 17 章 1 節,18 章 14 節など
参照)。このような聖書の神を受け入れている人と受け入れていない人では,世界観が異
なるので,必然的に科学観も異なる。
以下,説明のしやすさから,聖書の神を受け入れている人とそうでない人の 2 つの立場
に分けて考えてみた。聖書については,「原典において全く誤りのない神の言葉」という
立場で述べた。なぜなら,主イエスがそのことを保証しておられるからである。保証とな
る聖句:マタイ 5 章 17 ~ 18 節,ヨハネ 14 章 26 節,15 章 26 節,16 章 13 節。また,説
明の途中で,補足説明をするために括弧を多用した。読みにくい点はご容赦いただきたい。
科学については,現代の科学を念頭に置いて考えた。
・聖書の神を受け入れていない人の科学観と神観
科学は,日常的な言葉で言うと,単に,人間が観察した自然界の現象を自分にとって都
合の良いように解釈して記述するだけのものである。「自分にとって都合の良いように解
釈」するとは,自分勝手な解釈をするという意味ではない。必要に応じて他者の意見を取
り入れ,結果として自分が正しいと考える解釈(自分が納得できる解釈)をするという意
味である。
その理論の中や背後に,観測不可能な超自然的存在を考慮しないのが特徴的である。
(近
代科学が飛躍的に進歩した理由の一つに,それまでは哲学的思想や魔術的自然観が入り込
んでいたことが挙げられる。それらの怪しい考えを取り除き,自然を一つの機械のように
見ることによって近代科学が発展した。)当然,聖書の神もその理論の中や背後には存在
しない。そして,そのような科学を「真理(本当のこと,絶対不変のもの)を探究するも
の」と信じてしまうと,必然的に,聖書に書かれているような被造物の創造や奇蹟(自然
法則を超越した現象)はあり得ないこととして片付けられる。故に,聖書は非科学的なこ
とが書かれている本として見られる。なので,聖書は信じる価値がない,という結論に至
る。そして,必然的帰結として,聖書の神を否定する。
2001 年にノーベル化学賞を受賞した野依良治氏も「科学は真理追求の営みだ。」と言っ
ている(2013 年 1 月 28 日月曜日の中日新聞夕刊の「紙つぶて」というコラムより)が,
その「真理」には変更される可能性があることを知っておかなくてはならない。その「真
理」という言葉は「科学的事実」という言葉で表現されることもあるが,やはり変更され
る可能性があることを知っておくべきである。そのようなことは,科学史を学ぶと理解で
きる。
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また,この科学観では常に「反証可能性」
(Popper, 1934)があるので,ある時点で,
「こ
れは全てを説明できる都合の良い理論だ。合理的にも心情的にも十分納得できる。」と考
えても,それが絶対的な不変の真理であることは証明できない。このことは,ゲーデルの
不完全性定理から導かれる(参考文献:高橋昌一郎著『ゲーデルの哲学』講談社現代新書,
1999)。したがって,「科学は真理(本当のこと,絶対不変のもの)を探究するもの」とい
う科学観は間違っているのである。(この場合,「真理」という言葉を「本当のこと」と
か「絶対不変のもの」と理解してしまっている点で,間違いなのである。
「科学とは何か?」
という問いに答えるために「真理」という言葉を使うと,多くの人が誤解してしまうので,
私は「真理」という言葉を使って説明するのはやめるべきだと考えている。誤解されない
ように,もっと分かりやすい言葉を使って説明するのが良いだろう。そもそも「科学は真
理追究の営みだ。」というような考えは,その人が勝手にそう信じているだけである。実
際には科学をすることで(絶対的な)真理から遠ざかってしまう場合もある。例えば進化
論の出現。科学に対する人間の信念と科学自体が一致しているとは限らない。この区別が
できていない人がとても多いように感じるので,よくよく注意すべきである。)
「科学は真理を探究するもの」と言われる場合に,その「真理」の意味を正しく理解し
ていないと,科学万能のような考え(「科学的に何でも説明できる」という考え)を持ち,
「神など信じる必要性がない」と勘違いしてしまう。この科学観では,ある仮説や理論が
せいぜい論理的に真であることを証明するだけに留まる。(先に挙げた同日付のコラムで
野依良治氏は「無限に広がる自然界を知り尽くすことは永遠にあり得ない。」と述べてい
る。この見解はゲーデルの不完全性定理からも導かれる。そして,この見解は聖書の記述
とも一致すると思う。根拠となる聖句:詩篇 139 篇 1 ~ 6 節,イザヤ 40 章 12 ~ 14 節,28
節,ローマ 11 章 33 節など。)
また,科学をすることで,時代と共により正確な理論を作っていると信じてしまう傲慢
さを抱く。このような科学者は,神ではなく人間の力で成したと思っているので,間違い
があればその都度理論を修正し,より正確な理論を作り上げる人間を,すばらしいと思っ
ている。まさに,「人間礼讃思想」とでも言うべき考えであろう。(例えば,理学博士で
名古屋大学名誉教授の熊澤峰夫氏がそう思っている。放送大学の面接授業で本人から直接
聞いた。彼は「人間は神より偉いんですよ。」という言葉で表現された。この言葉は,「神
は間違いがあっても修正できないが,人間は間違いがあれば修正し,より良いものを作る
ことができる」ということを簡単に表現したもの。彼は聖書の神のご性質を理解していな
いから,こんなことを言ったのだろう。)
つまり,聖書の神のような超自然的存在を考慮しなくても自然界の現象を(いずれ)全
て説明できると信じている(このような「信条」を持った人間を見て,ある人は「科学は
宗教だ」と考えるが,それは,その人を見てそう感じただけである。ある科学理論を「絶
対間違いない」というように信じているのは人間であり,科学ではない。科学の本質は,
「どのような前提にも反証可能性があること」である。しかし,宗教はその教えの大前提
に反証可能性がない。もし宗教の教えの大前提に反証可能性があったら,何を信仰すれば
よいのか分からなくなる。これが科学と宗教の大きな違いである。また,宗教は,生き方
の指針を与えるものだが,科学は生き方については何も言わない。これも科学と宗教の根
本的な違いである。ある人は,科学の知識を根拠にして生き方を論じたりするが,それ自
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体は哲学であり,科学ではない。科学と哲学は別物である。また,「全て説明できる」こ
とと「知り尽くせる」ことは別の問題である。例えば,カオス理論により,決定論的カオ
スの短期予測は可能であっても,長期予測は原理的に不可能であることが分かっている。
このように,非線形システムを科学的に説明できても,知り尽くすことはできない。分か
り易い例:バタフライ効果。カオスに関する参考文献:合原一幸著『カオスの数理と技術』
放送大学教育振興会,1997)ので,そのような人たちは聖書の神を信じる者を,頭の悪い
者と思い込んだり,理解できない。例えば,前者はスティーブン・ホーキング博士(無神
論者)。先に挙げた熊澤峰夫氏は後者で,「クリスチャンの中にも科学者がいるが,何故
科学をしているのかが分からない」と言っていた。「実際に質問をしたことがあったが,
何と答えてくれたか忘れた。理解できなかった」と言っていた。
・聖書の神を受け入れている人の科学観と神観
科学の定義や方法(やり方)は,聖書の神を受け入れていない人と同じ(この科学観に
おける科学の定義は次のようになる。「科学とは,日常的な言葉で言うと,人間が観察し
た自然界の現象を自分にとって都合の良いように解釈して記述するもの」である。「自分
にとって都合の良いように解釈」するとは,自分勝手な解釈をするという意味ではない。
必要に応じて他者の意見を取り入れ,結果として自分が正しいと考える解釈(自分が納得
できる解釈)をするという意味である。この部分は共通していると思う。)だが,自然界
の現象を見る時に,聖書の記述を絶対的な真理だと信じながら見るので,聖書の記述と合
致するような理論を考える。もし聖書の記述と一致したら,それは反証可能性のない絶対
的な真理だと考えるだろう。あるいは,より正確な理論を考え続ける慎重な科学者もいる
だろう。なぜなら,聖書は科学の教科書ではないので,細かいことは書いてないから。あ
るいは,間違った聖書解釈と作られた科学理論が一致してしまう可能性もあるので,その
点は慎重な判断をすべきであろう。
このように,聖書の記述(特に創世記の創造の記述など)をベースにし,科学的な方法
を使って作られた理論が「創造論」と呼ばれ,そのような科学観を持つ科学者は「創造論
者」と呼ばれる。
創造論者は,このように科学をすることで,神の栄光を現し(第一コリント 10 章 31 節),
人知を超えた神の偉大さを知り(これは聖書全体を理解すれば分かるが,まず人間にとっ
て必要な条件は,神を畏れることである。聖句は,詩篇 111 篇 10 節,箴言 1 章 7 節,9
章 10 節),神をほめたたえる(詩篇 19 篇 1 ~ 6 節,ヨブ記 12 章 7 ~ 9 節,ローマ 1 章 20
節参照)。
イギリスの科学者ロバート・ボイル(1627-1691)は,機械論的自然観に基づく科学を
「機械論哲学(mechanical philosophy)」と呼んだが,彼はクリスチャンでもあった。自然
を機械と考えることは無神論に結びつきそうだが,彼は次のように答えた。「宇宙という
完成された機械時計は,それ自身で動き続けることができる。しかしそれを設計し製作し
たのは神である。だから自然や宇宙の探求は,その設計者である神のすばらしい能力と栄
光を確認する行為なのである。」(参考文献:橋本毅彦著『物理・化学通史』放送大学教
育振興会,1999)
聖書の神を受け入れていない人から見たら,このような科学観はまともではないし,創
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造論は科学ではないと主張する。なぜなら,彼らの考える科学(反証可能性があるもの)
とは別物だから。彼らにとって創造論はあくまで非科学的な考え方なので,科学を教育す
る学校においては創造論は教えたくないし,創造論という考え方が世の中に存在すること
すら教えたくない。なぜなら,彼らにとって創造論は科学ではなく,宗教(のようなもの)
だから。(熊澤峰夫氏は,科学史の中で創造論を教えるのが良いと考えている。しかし,
彼は,創造論は約 2000 年前の学説だと勘違いしている。創造論は,アダムまで遡ること
を知らない。)
彼らの問題点は,第一に,聖書を理解していないことにある。第二に,不都合なデータ
を無視したり,無理のある解釈をする場合がある。例えば,進化論(進化生物学)に大幅
な変更を強いるデータが出てくると,それを無視するか,無理矢理,進化論を否定せずに
済むような解釈をする。例えば,中立説や断続平衡説。不都合なデータの例:あまりにも
できすぎた擬態をする生物(周囲の環境に完全に溶け込んでいるような生物)が存在して
いること,交配して子孫を作ることが不可能な種への進化を直接目撃した科学者がいまだ
に一人もいないこと。
私が科学について考えるきっかけを与えてくれたのは,放送大学での熊澤峰夫氏の面接
授業であった。この授業で,私の科学観は大きく変わっていくこととなった。彼の文献は
とても参考になるので,以下にその文献を記しておく。
・熊澤峰夫「新しい地球観を求めて」,
「地球史上の大事件が始まっている」-第 13 回「大
学と科学」公開シンポジウム組織委員会編『生きている地球の新しい見方』(第 1 版,ク
バプロ,1999)所収-
・熊澤峰夫「1.1 全地球史解読の考え方」,
「第 7 章
むすび―われわれはどこへ行くのか」
-熊澤峰夫・伊藤孝士・吉田茂生編『全地球史解読』(初版,東京大学出版会,2002)所
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創造論については,「クリエーション・リサーチ・ジャパン」の Web サイトなどを参照
すると良い。
以上の内容を予備知識として理解できていれば,聖書と科学についてのほとんどの質問
に十分な解答ができると思う。中には理解するのに難しい内容もあるが,できれば紹介し
た参考文献などを読んで,重要なポイントだけでも理解できるように努力してもらいたい。
以上の私の考えを,自分の考えとしてしっかり身につけるための叩き台にしていただけれ
ば幸いである。
平成 28 年 4 月 21 日
加藤
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