主日集会 2015.6.28 人類に対する三種類のさばき この世においては多くの矛盾がある。つとめて正しいことをしようとしている人が、必ずしも良い報いを受けて いるとは限らず、またその反面、悪いことの限りを尽くし、多くの人々を悲しませたり、苦しめたりしている人た ちが、結構、人々から称賛を受けたり、良い報いを受けていることがある。特別悪いことをしたわけでもないのに、 人も忌み嫌うような病気にかかったり、また、耐えがたい苦しみを味わったりすることがある。 こうしたこの世の現実を見ると、はたしてこの世のことがすべてなのかと疑問を抱かざるを得なくなる。この世 においてはあまりにも不公平であり、悲惨ではないかと思わざるを得ない。この世の生の後にこの世における総精 算ともいうべきものが必ずあるはずである。そのことを、聖書では、 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。 (ヘブル9:27) 認を受け、聖化の過程を経て、聖化の完成である「栄化された時」のことである。 救いの三段階(義認・聖化・栄化)で言えば、救いの完成された時のことである。 「卑しい肉のからだ」を脱ぎ捨て、 「朽ち ることのない栄光のからだ」を着せられている。 その時私たちはどこにいるのか。空中に引き上げられ、主と共に、主の御座のそばにいる。ここは天における神の御国であ る。すでに天の御国に栄化された状態で入れて頂き、 「キリストのさばきの座の前に立つ」というのである。 そして「善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」とある が、ここで「救いに関わるさばき」が繰り返されるのではない。誤解してはいけない。報い、ご褒美というさばきがなされる。 この報いを受けた後、キリストの花嫁とされている私たちキリスト者は「キリストと教会の婚姻」 (黙19:6-9)に入れて頂く ことになる。 と記している。この神のさばきこそ、私たちがこの世において不当な報いしか受けられなかったと思われる事柄が、 すべて精算され、だれひとりとして、不公平な取り扱いを受けることがなくなる。 (1)救いに関わるさばき 人祖アダムにあって罪人となった私たち人類を救うために、神様は驚くべき方法 で、罪人を裁かれた。それは、神の御子キリストが「世の罪を取り除く神の小羊」 以下に関連の聖句を列挙する。黙示録を読むと、一般の信者が入れられるパラダイスと殉教者が入れられるパラダイスにも 違いがあることがわかる(黙6:9) 。これは報酬の違いである。 Ⅱテモ 4:7-8 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄 冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けて くださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 として、天から遣わされカルバリの十字架に上げられた。 このキリストに全人類の罪を担わせ、神は義と公正をもって「人間の不義に対す るのろい」を下された。このキリストにおいて、私たち人間の罪(過去・現在・未 来すべての罪)はさばかれた。 Ⅰコリ9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそ うするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 Ⅱテモ2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。 この身代わりのさばきによって、このキリストを信じ受け入れた者の罪は赦され、 神の御前に義とされ、「アダムにある罪人」から「キリストにある義人」とされました(ロマ5:19) 。 「救いに関わるさばき」は二千年前、キリストの十字架において完了した。イエス・キリストを救い主と信じる 者は二度とこの種のさばき(救いに関わるさばき)を受けることはない。その救いが確かなことの保証としてイエ スを信じる者には、聖霊の証印が押された(エペソ1:13-14) 。 コロ1:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、 すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。 Ⅰペテ1:4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださ いました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 (問題提起)「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのか らだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだ Ⅰコリ3:12-15 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人 の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現 とは、教会のことです。」(コロサイ1:24) (2)報いに関わるさばき(キリストのさばきの座) この「報いに関わるさばき」は、 れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その 人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、 火の中をくぐるようにして助かります。 わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。それで、わたしたちは一人一人、 自分のことについ て神に申し述べることになるのです。 (ロマ14:10,12) わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたと きに行ったことに応じて、報いを受けねばならない。 (Ⅱコリント5:10) (3)不信者(キリストの救いを否んだ者)に対するさばき このさばきの座は、大いなる白い御座である。白い御座は義なるキリストがすべての不信仰者の上に最後のさば きを行うところである。神が人を救うためにお与えになった救い主キリストを否んだ者たちに対するさばきである。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書 物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これ と記されているさばきである。 このさばきは「救いに関わるさばき」ではない。救いに関するものは上記(1)の通り、キリストが身代わりにさばきを受 らの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。 (黙示録20:12) 。 けてくださり、終了している。 ではこの「報いに関わるさばき」というのは何か。これは信者になってから、私たちがどれほど神の恵みによって神に従順 であったかの裁きであり、 「行いに対する報い」 、言うなれば「ご褒美を受けるさばき」と言える。 この「キリストの裁きの座」は、いつの時点で開かれるのか。 「人の死後のさばきの説明図」に記されている通り、キリス トの再臨後のことである。 この時、私たちキリスト信者の状態は、どうであるかと言うと、主の空中再臨の時のことであるから、キリストを信じて義 -1- 彼らはすでに、道徳的にも不道徳的にも、宗教的にも非宗教的にも罪に死んだ者で、神の御子に関する神の救い のあかしを拒んで軽んじた者である。いまや、数々の書物に従って「彼らの行いに応じて」さばかれる。 彼らは火の池に投げ入れられ、神とキリストがあがなわれた者とすべての祝福から締め出される。そして彼らは、 火の池で、悪魔とその使いたちと共に、永遠にのろわれる(黙示録20:11-15)。 -2- -3-
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