第三章

第三章 「先住民」
「本省人」
「外省人」
、そして「新台湾人」へ―中国政権の渡台と土着化
本章では、日本植民政府に代わって統治を行った蒋氏政権から台湾総統民選期を扱い、
「外省人」と「本省人」の関係を「台湾人意識」と絡めながら見る。
第1節 蒋氏政権1
蒋介石政権による統治を概観し、この時期に発生した「本省人」と「外省人」という二
つの出自別集団の関係性を見る。
0)
「本省人」と「外省人」とは
ここでは本節の本題に入る前に、この時期に発生した「本省人」と「外省人」という二
つの出自別集団がどのような人々を指すのかを述べる。
まず、
「本省人」とは、1945 年までに台湾に居住し、台湾に戸籍を持つ漢人・客家・台
湾先住民とその子孫を指す。しかし、日常的には先住民を意識せずに用いる。
「本省」とは
台湾省を指しており、この場合、台湾は中国の一部という前提がある。
次に、
「外省人」とは、第二次世界大戦後の中国国民党政権による台湾接収やその後の同
政権の中国における内戦の敗北により台湾へ逃げ込んだ、あるいは台湾に移住した中国大
陸各省人の総称であり、
「本省人」と社会的相互作用に入ったエスニック・グループとして
存在している。
1)蒋介石期―「大陸反攻」を目指した独裁統治
1945 年 8 月 15 日に日本がポツダム宣言を受諾すると、翌月 9 月 2 日に中華民国もポツ
ダム宣言に調印し、この調印を以て、第二次世界大戦における「日帝」の敗戦と中華民国
の勝利が決まった。10 月 15 日に GHQ の命令に基づき、国民革命軍が台湾に進駐すると、
同月 24 日には台湾省行政長官兼同省警備総司令の陳儀が台湾に到着し、翌日に台湾受降式
典を開いた。この式典で、台湾島と膨湖諸島の中華民国編入を宣言し、台湾省行政長官公
署を発足した。また、
「台湾省行政長官公署組織大網」
(1945 年)によって、中央政府が行
政長官を任命する「特殊制度」を打ち出した。その内容は、行政長官は行政、立法、司法
権を持ち、台湾省に所在する中央政府機関に対して指導監督権も持ち、陳誠が行政長官と
兼任した台湾省警備総司令は、直属の特殊部隊や通信部隊、台湾進駐の陸海空軍、憲兵隊
の指揮権を持ち、独裁的権限を所持したものだった。
1946 年 1 月に国府行政院訓令で「1945 年 10 月 25 日より中華民国の国籍を回復した」者
が台湾の住民と発表し、この発表を以て「本省人」と「外省人」区別の法的根拠が誕生し
た。1947 年 2 月 28 日には「本省人」と「外省人」の対立から二・二八事件が発生した。
1947 年 12 月 25 日に陳儀政府は中華民国憲法を台湾で施行し、一方、大陸では翌年1月
に八路軍が北京に入城した。蒋介石は 1948 年 4 月に中華民国の初代総統に就任し、台湾へ
の撤退準備を進めた。陳誠を台湾省政府主席に任命し、台湾掌握を一任した。同年 12 月に
陳誠は台湾主席に就任、1949 年 2 月には、台湾警備総司令、3 月には国民党台湾省党部主
任に就任した。しかし、1949 年 1 月に蒋介石は党内から反発を受けて中華民国の初代総統
を辞任した。
1949 年 4 月に共産党が首都南京を獲得し、同月 18 日には台湾で陳誠が動員戡乱時期臨
時条款を施行した。この条款の施行に伴い、翌月に陳誠は台湾に戒厳令を実施し、以後 87
年 7 月まで 38 年続く戒厳令となった。同年 10 月に共産党が首都を北京とする中華人民共
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和国成立を宣言するが、共産党が南京を獲得してから共和国成立を宣言するまでの間に、
国民政府は陳誠統括の下、大陸と台湾の民間の移動を封鎖し、敗走する国府軍の受け入れ
や故宮宝物の台湾移送の他、各種政府機関の台湾移転を行った。12 月に入ると、国府中央
政府が台北に移転し、8 日には総統府と行政院の官員が台北に到着した。10 日には蒋介石
が台湾入りし、翌日に国民党の中央党部が移転した。
1950 年 3 月に蒋介石は総統に復位し、
「われわれの闘争は終わっていない。私は新しい
神聖な任務、大陸の回復を行う責任をとる。私はこの場所を去らない。私がこの任務を遂
行する時、われわれ自身の土地に諸君と帰ることになる2」と宣言し、
「大陸反攻」を掲げ、
部下を鼓舞した。
しかし、
それから 25 年後の 1975 年 4 月 5 日に蒋介石総統が死去すると、
外省人第一世代の高齢化による支配基盤の変化に伴い、経済的発展と民主政治の追求が唱
えられるようになった。
1978 年に、蒋経国が中華民国第 6 期総統に就任すると、桃園国際空港の建設、北廻線の
建設、台中港の建設など十大建設と呼ばれるインフラの整備や本省人の登用など斬新な改
革を行い、中華民国の経済を発展させた。一方で、1979 年元旦に中国人民共和国が「台湾
同胞に告げる書」を発表し、両国間で「通商、通航、通郵」の三通を速やかに実行するこ
を提案したが、蒋経国は「不接触」
「不談判」
「不妥協」の三不政策を掲げ、提案に応じな
かった。また、1979 年 12 月の世界人権デーに高雄市で行われた雑誌『美麗島』主催の「独
裁反対・民主自由化の実現」を要求するデモが警官と衝突し、主催者らが投獄されるなど
の弾圧に遭った美麗島事件も発生した。
美麗島事件を機に民主化運動が活発化し、米国の圧力のもとで国民党政権はついに 1987
年 7 月に戒厳令を解除し、政党結成とメディアの規制を撤廃した。戒厳令解除後まもなく
台湾住民の中国への観光及び親族訪問も解禁したが、中華人民共和国との三通方式は拒否
し、香港を経由する方式が採用された。1988 年 1 月 13 日の蒋経国総統の死去と共に蒋氏
政権は終焉する。
万年国会
内戦敗退により渡台した国民党政府は、国家制度を「内戦モード」においた。アメリカ
の援助が再開されても依然として戒厳令を施行し続け、台湾住民への台湾警備総司令部の
圧迫も続いた。また、
「反乱鎮定動員時期」に開催された国会は「大陸の回復」まで改選を
延期した。事実上不可能な「大陸反攻」により改選延期は修身任期をもたらし、台湾住民
からは「万年国会」と揶揄され、非改選議員は「老賊」
「老法統」と非難された。この「万
年国会」の形成は、長期戒厳令下の政治的自由の抑圧と相まって、台湾住民の国政レベル
の政治参加の道を抹殺した。
「奴隷化論争」
1944 年に台湾調査委員会主任委員の陳儀は、教育政策に関する協議において、本省人が
「日帝」によって「奴隷化」されたと発言した。
「日本化」された本省人は精神面、文化面
の改造が達成されない限り、国家の主人になる資格は与えられなかった。そこで、台湾知
識人らは新聞雑誌にて「奴隷化政策は受けたが奴隷化はしていない」と反論を発表し、
「台
湾人奴隷化」論争は政治問題化していった。更に、1946 年 4 月 29 日に教育所長である范
壽康が台湾省訓練団にむけての演説の中で、
「本省人はすでに奴隷化されている、本省人は
外省人を排斥する傾向がある、多くの本省人が独立の思考を持っており、本省人は新台湾
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の建設に協力的ではない」と発言し、奴隷化論争は勢いを増した。
「本省人」にとって、
「奴隷化論」というのは、
「日帝」期に否定された自己を「祖国」
の下で再度自己否定を強制されるものであった。文学者の呉濁流3は、「奴隷化論」の政治
的意味について、
「台湾人奴隷化論は言語政策、奴隷化論争を含む統治者の政治的意図と絡
んでいる」とし、
「不均等な権力分配が『台湾人』の下に「先住民」
「本省人」
「外省人」と
いったエスニシティの政治化を促進する」要因になったと指摘した。
「祖国化」政策
祖国化の目標は、半世紀にわたる日本による植民統治を受けた「台湾人」への「中国国
民」への統合であり、本省人エリートも「祖国」への期待 から「光復4」を歓呼し、
「祖国
化」を受け入れていた。期待の表れは、軍・政府人員の歓迎アーチ(資料1)や街中にあ
ふれる漢族的色彩に見られ、本省人の
インテリは「国語」
(中国標準語)の勉
強を進んで行った。
人口上少数者である外省人が多数者
である本省人に確実に社会的接触をす
ることは困難であった。そのため、社
会的接触を通じた同化と制度による同
化が学校教育やテレビを中心とするマ
ス・メディアを中心に行われた。
資料1
台湾の生徒が国軍の来台を歓迎する様子
この同化の目標は言語的同化(国語普及)によるアイデンティティの同化(中国意識の注
入)の達成であった。以下に、
「祖国化」政策の具体例をあげていく。
まず、
「台湾省各県市街道名称改正辧法」
(1945 年)を通して社会的な同化が行われ、
「日
帝」の人物を記念する名称、
「日帝」の国威を宣揚する名称、などを改正の対象とした。次
に「台湾省人民回復原有姓名辧法」
(1946 年)で、皇民化運動で日本名に変更した者の名
前の「祖国化」が行われ、先住民は中国名を自身で選び届け出ることとし、
「高砂族」は「高
山族」に改名した。また、差別用語であった「土蕃、蕃族、蛮族」は使用禁止になった。
次に陳儀政府は、台湾文化について、高度な「世界性」を有するものの、
「国家性」
「民
族性」は極めて低いとして、日本植民政府による「皇民化」の遺毒を払拭し、「中国意識」
を注入する必要性を唱え、そのための学制や課程・教材の変更を行った。1953 年には教室
用語を「国語」
(北京語)のみとし、
「修身5」を「公民」に変え、専科学校以上は思想教育
として三民主義を追加した。
以上、政府は国語能力を国民精神や国家観念の基礎として捉えていたことがわかる。し
かし、本省人エリートにとって、この言語政策は政治的・文化的・経済的価値の略奪とな
った。
二・二八事件と「省籍矛盾」
陳儀政府は「訓政6独裁」の専制統治の形態にあった。戦時下において「日本人」であっ
た「台湾人」の祖国への忠誠心に警戒感を持っていたためか、陳儀政府は「台湾人」の政
治参加に対して難色を示し、
「中国人」として再教育されないうちは「台湾人」が政治参加
することを拒んだ。重要な行政ポストはほとんど「外省人」によって占められ、
「本省人」
を排除した身内びいきな人事政策がとられた。政府は「半山」とよばれた大陸帰りの「本
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省人」の登用はしても、中国経験の少ない「本省人」の登用はごくわずかであった。更に、
文武官員による汚職の曼延や「内地」出身の軍人や警官による不正、伝染病の再発、ハイ
パーインフレによる高失業率が立て続けに起きた。
陳儀政府に関する台湾社会の流言に
「犬
(日本人)が去って豚(外省人)が来た」がある。その他の流言には、近代文明に対する
無知、汚職官吏の噂、台湾住民抵抗に関する伝説がある。これらの流言に信憑性はないが、
陳儀政府の威信に打撃を与えたと考えられる。
このように、
「本省人」に「外省人が台湾の法治社会を破壊した」というイメージが二・
二八事件前から定着しつつありエスニックな感情対立が深刻化していた。
1947 年 2 月 27 日夕刻に、台北市内で街頭のヤミ煙草売りの女性を省購買局職員が殴打
し、それを見た民衆と衝突した。翌 28 日に行政長官公署に抗議に赴いた民衆に対し、警備
兵が発砲し、死傷者が出たことで全台北
市が暴動状態になった(資料2)
。
「本省人」が台北放送局を占拠し、放送
で全島に呼びかけた。3 月 1 日には全島
の主な都市で住民が警察を押さえ、駐屯
地に立てこもり、軍と対峙した。事件を
受けて本省人インテリと参議会員などの
有力者が台北市で二・二八事件処理委員
会を発足した。委員会は、貪官汚吏の処
罰、
「特殊制度」である行政長官公署の廃
止、省自治の実施、行政・司法・軍事各面に
資料2
二・二八事件の暴動の様子
おける台湾人の登用などの要求を陳儀に提出した。
対する陳儀は、戒厳令の解除など表面的譲歩で時間かせぎを行い、蒋介石に援軍を要求し
た。3 月 8 日の援軍到着後は、徹底的な弾圧をもって応戦し、事件は国家に対する反乱と
して鎮圧された。多くの本省人インテリや有識者が、逮捕状なしに連行され、裁判なしに
処刑が執行され、弾圧の犠牲者が1万 8 千人から2万 8 千人と推定される。
2)蒋経国期―独裁の退化と民主化の兆し
「万年国会」の解消と「台湾化」政策
蒋経国は、父の代に問題視された「万年国会」の解決策として定期部分改選を実施した。
国会としては「部分改選」を行い、地域としては「総選挙」を行ったことで、本省人の登
用を増加しただけでなく、
「台湾化」政策と相まって二重構造が緩和された。
そして、本省人エリートの登用を増加するために「台湾化」政策を実施した。政策の目
的は、国家エリート予備軍の整備と本省人の抜擢敢行であった。国家エリート予備軍整備
のスローガンは「青年才俊」で、本省人を中央党部幹部や地方党部主任クラスに登用した。
次に、本省人の抜擢を敢行するために、1972 年に閣僚中の本省人を3名から7名に増やし、
重要地方首長の本省人を台湾省主席に起用した。
これら斬新な改革の目的は、
「大陸反攻」から台湾重視に転換し、米国との国交断絶や国
連の議席を失うという対外危機のショックを吸収することだった。
対「先住民」政策
国府は先住民族への対応として、
その土地に対する権利を保護するために
「山地保留地」
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政策を行った。政治的待遇では、地方議会に先住民族の枠を設け、学校教育では漢人と変
わらない「中国化」教育を遂行した(資料3)
。1960 年
代からは経済発展に伴い山地にも教育が普及したが、社
会的、経済的競争においては平地人と比べて常に不利で
あったことから平地漢族の経済的勢力に山地の青年たち
が吸収されたことで経済的、文化的に崩壊の淵に立つ先
住民の村が続出した。
第2節 台湾総統民選期7
李登輝政権から
「民主化」
の展開に注目し、
「新台湾人」
がどのような人々を指し、将来へ展開するのかを見てい
く。
1)李登輝期―「新台湾人」概念の誕生
1988 年 1 月 13 日に蒋経国総統が死去した。副総統 資料3(右)タイヤル新光国民小学校
であった李登輝が主席代行に就任した。総統戦況を目 の様子。標語には「私は中国語を話しま
前にして 、1990 年 3 月 16 日に「三月学運」が退職
す、方言は話しません」とある。
と引き換えに高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員に対して発生した。代理
総統の任期が同年 5 月で切れることを受け、1990 年 3 月 21 日の総統選挙を行い、李登輝
は信任投票により総統に選出された。そして先の「三月学運」への対応として、学生運動
の代表者や黄信介民進党主席らと会談し、彼らが要求した国是会議の開催と憲法改正への
努力を約束した。同年6月に朝野の各党派の代表者を招き「国是会議」を開催し、各界の
憲政改革に対する意見を求めた。
そして、1991 年 5 月に戒厳令解除以降初となる中華民国憲法を改正した。これにより、
国民大会と立法院の解散を決定し、この 2 つの民意代表機関の改選を実施することで「万
年議員」は全員退職した。また 1991 年 12 月に国民大会の全面改選、1992 年 12 月に立法
議員を全面改選したことで、「万年国会」問題は解決した。
1991 年 6 月に李登輝は、郝柏村を行政院長に指名するが、シビリアン・コントロールの
原則に従って郝を軍から除役すると、軍に対する影響力が弱まり、軍の主導権も李登輝が
握った。1993 年には郝が行政院長を辞任し、連戦が就任したことで、李登輝は行政院の主
導権も握り、民主化を一層推進した。翌 1994 年 7 月に台湾省・台北市・高雄市での首長選
挙を決定し、同年 12 月に選挙を実施した。また、国民大会において第 9 期総統より、直接
選挙を実施することが賛成多数で決定され、同時に総統に「1 期 4 年・連続 2 期」の制限
を付し、独裁政権の発生を防止する規定を定めた。
1996 年 3 月 23 日に初めて総統直接選挙において 54.0%の得票率で李登輝が当選し、
初の
民選総統として第 9 期総統に就任した。1996 年 12 月に「国家発展会議」(
「国是会議」か
ら改称)を開催し、この会議の議論に基づいて、1997 年に憲法を改正し、台湾省を凍結す
ることを決定し、台湾省政府は事実上廃止となった。2000 年には民主進歩党候補の陳水扁
が当選し、第 10 期中華民国総統に就任した。
「新台湾人」宣言
「台湾人」の起源は、日本統治期の 1920 年代初期に漢人知識人の抗日民族運動において
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「台湾は台湾人の台湾なり」といったスローガンが用いられた時である。これは、日本人
による民族差別や台湾総督府への反発と第一次世界大戦後の世界的な「民族自決」の思潮
の影響を受けた。
80 年代以降の政治の民主化とそれに付随する台湾化と「台湾ナショナリズム」の台頭と
ともに改め、80 年代後半以降の台湾化の本格的進展とともに准公定呼称化した。そして、
1990 年代前半の李登輝総統時代に本格化した中華民国の民主化の結果、外省人に対する本
省人の政治的地位が向上し、
「中国人」ではなく「台湾人」と認識する「台湾人意識」が高
まった。
「新台湾人」は、李登輝が 1998 年 11 月 2 日に開かれた台湾省議会第八回定期大会後の
省政質疑の場で、
「長期にわたってともにこの台湾島嶼で生活し働くことを通して、台湾人
であれ外省人であれ、みな次第に一つの全体を形成」と発言したことをきっかけに誕生し
た。そして、1998 年 10 月 24 日の光復節8前夜に李登輝は『「新しい台湾人」は、先住民で
あり、4000 年前に渡台を始めた大陸からの移民であり、50 年前に渡台を始めた新移民であ
る。つまり、台湾に住んで、心が台湾に根ざし、台湾のために犠牲を払い奮闘することも
厭わない者は、みな「新しい台湾人」に他ならない』と発言した。つまり、
「新台湾人」と
は、先住民、閩南人、客家、外省人などの歴史上異なる時期に台湾島に移り住んだ人々を
指し、
「台湾」を大陸と相対化した一つの全体と見なした。
2)陳水扁期―「正名」にみる台湾の本土化
陳水扁は 2000 年から 2008 年まで政権をつとめた。2000 年の総統選挙に民主進歩党の陳
水扁が選出し、中国国民党が初めて野党になった。水扁は「台湾人意識」を強調し、台湾
政治の本土化を進めたが、立法院では与野党の勢力が均衡し政局運営が不安定な状態であ
ったため、
「中国統一」か「台湾独立」かで国論の二分化が深刻化していった。そのため、
水扁は公民投票(国民投票)により台湾の将来を決定する政策を発表し、2003 年 11 月 27
日に立法院は『公民投票法案』を審議採択した。この法案の採決は全 38 条について逐条形
式で行なわれ、法の適用範囲に関する条項に注目が置かれた。民進党案は国名、国旗、領
土の変更も提議出来るとするもので独立色が強いものであった。一方、国民党・親民党案
は、これらの問題に明言を避けるもので、賛成多数で国民党・民進党案が採択された。こ
の採択に対して中華人民共和国の態度は、
「一つの中国」政策を堅持した。2004 年に最初
の公民投票を実施したが、政局の混乱や台湾経済の停滞などにより国民党と親民党の支持
率は拮抗した。しかしながら、投票直前の銃撃事件などから水扁勢は同情票を獲得し、過
半数を獲得して再選した。2008 年の総統選挙では民進党党勢の立て直しを図ったが、両岸
問題について断固独立を目指す右派と、現状維持をよしとする左派との対立が表面化し、
党運営は難しい局面を迎えた。総統選の結果は、中国国民党主席の馬英九が当選し、8 年
ぶりに国民党が政権を掌握した。
台湾正名政策
台湾正名政策は、公的機関などで使用されている「中国」
「中華 (China) 」という呼称
を「台湾 (Taiwan) 」へ置き換えるように動いた。2007 年 2 月 12 日には、台湾の郵便事
業を行う「中華郵政」の名称を「台湾郵政」に変更した。しかし、この変更は、馬英九政
権時の 2008 年 8 月に「中華郵政」に戻された。続いて、
「中国造船」は「台湾国際造船」、
「中国石油」は「台湾中油」と改称が行われた。また、「脱蒋介石化」も推進され、2006
29
年 9 月 6 日に、蒋介石の名前である「中正」を冠した「中正国際空港」の名称を「台湾桃
園国際空港」に変更し、2007 年 5 月 19 日に「中正紀念堂」を「台湾民主紀念館」に改め
たが、これは立法院に否決され 6 月 7 日に元の名称に戻った。
3)馬英九期―中台接近と若者の反発
馬英九は、
2007 年 5 月 2 日に国民党中央常務委員会から総統候補として指名を受け、
2007
年 6 月 23 日の党大会で正式に国民党の総統候補として公認された。翌年 2008 年 1 月 12
日に行われた第七回中華民国立法委員選挙において、国民党が民進党に圧勝し、単独過半
数を確保した。3 月 22 日総統選挙を実施し、当選が決定した。そして、5 月 20 日に第 12
代中華民国総統に就任し、国民党は 8 年ぶりに政権を奪還した。民衆は中国共産党政権と
の協調と交流の拡大を政策方針とする施政転換が行われることを期待した。
2012 年の一度目の総統任期終了を踏まえて、馬は同年の総統選挙に再選を目指して出馬
する意向を表明し、総統に再選した。同日に開かれた第八回中華民国立法委員選挙でも、
僅かに議席を減らしたものの過半数を維持して国民党が勝利した。同年 1 月には現職の馬
総統が民進党の蔡氏を破り再選し、5 月 20 日第 13 代中華民国総統に就任した。2014 年 11
月 29 日に開かれた統一地方選挙は、国民党が 499 万票、民進党が 533 万票を獲得し国民党
は惨敗。この結果を受け、30 日に国民党主席の馬英九は辞任の意向を固めた。
中台接近
2008 年に国民党馬英九総統による政権返り咲き以来、中国との間の航空機直接運航と多
数の中国観光客の来訪、中国の対台湾関係機構トップの訪台、対中「経済協力枠組協定」
(ECFA)の締結、国共両党の頻繁な交流活動が見られた。また、
「三不」と言われる「台
中統一・台湾独立・武力行使のいずれも行わない」をスローガンに中立派の姿勢も見せた。
そして 2013 年初めの中台の担当閣僚の初会合の実現を達成し、
経済関係正常化から強化へ、
さらに経済関係から政治関係へと、中台関係が急速に発展してきた。そんな中、与党国民
党が 2013 年6月に調印した「サービス貿易協定」を内政委員会で審議終了・本会議送付を
強行したことに反発し、2014 年 3 月 17 日に学生の一団が立法院突入を敢行し、本会議場
を占拠した「ヒマワリ学生運動」がおきた。運動は、4 月 6 日に国民党籍の立法院院長が
「両岸協議監督法令制定前にサービス貿易協定審議について政党間協議を招集しない」と
譲歩し、
学生の一団は翌日夜に事実上の勝利宣言を発して 10 日夕刻に議場占拠を解除する
ことを決定した。
この運動は、台湾の若者が、
「サービス貿易協定」などを始めとした馬英九政権による中
台接近政策が社会的合意をとらない強行策であることに疑念や抵抗を感じており、政治の
民主的運営や要求についての意識が台湾社会に浸透していることを示した。また、若い世
代は、馬英九政権下で拡大が進んだ中国との経済関係と中国共産党政権との交流の中で、
中国共産党政権が政治と経済にわたって台湾の動向の決定権を握ろうとしている危惧性を
感じたために中国との交流強化に賛成していないことを示した。
本章では、日本植民政府に代わって統治を行った蒋氏政権から台湾総統民選期を扱い、
「外省人」と「本省人」の関係を「台湾人意識」と絡めながら見た。すると、蒋介石政権
は、
「本省人」を「日帝」によって「奴隷化」されたとみなした。しかし、
「本省人」にと
って「奴隷化」論は「日帝」期に否定された自己を「祖国」の下で再度自己否定を強制さ
30
れるものであった。政府は「奴隷化」された「本省人」に言語的同化と制度的同化によっ
て中国思想を注入する「祖国化」を図った。特に政府は言語政策において国語能力を国民
精神や国家観念の基礎として捉えていたが、
「国語」が第一言語ではない本省人エリートに
とって、この言語政策は政治的・文化的・経済的価値の剥奪となった。
しかし、蒋経国政権時に美麗島事件をきっかけに民主化を求める声が高まり、戒厳令が
解除されると、
「本省人」の雇用数を増やすなど省籍矛盾を緩和する改革を行い、
「大陸反
攻」から「台湾重視」に転換した。
やがて台湾総統民選期になり、一層民主化が進むと、台湾に対するアイデンティティが
確立し、
「台湾人」が自由意志によって自らの政府を作り、願いに合った政治体制を実行に
移し、省籍を問わずにすべての台湾人に属し台湾が繁栄する社会を建設することを理想と
する「新台湾人」意識が誕生した。また、中台関係も改善されつつあるが、大衆の意志を
無視した政府の態度や中国と交流を回復することで台湾の立場を危惧する若年層を中心と
した抗議活動も行われた。
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以下、第1節「蒋氏政権」については、殷允芃編、文献表(7) 、368 頁〜392 頁、及び若林正丈、文献
表(12)、59 頁〜116 頁、菅野敦志、文献表(33)、28 頁〜45 頁要約。
衛藤瀋吉他『中華民国を繞る国際関係』引用。
呉濁流:中国,台湾の作家。台北師範学校卒業後,教師,新聞記者などをするかたわら,創作に従事。
日本統治下の台湾に生きる知識人の苦難を描いた長編『アジアの孤児』(1943‐45)は、台湾のリアリズ
ム文学の代表作となった。
光復(guāng fù):中国語で自民族の土地・人民を取り戻すこと。
修身:教科の一つ。天皇への忠誠と心の涵養を軸に、孝行・柔順・勤勉などの徳目を教育。
訓政:軍事的統一から憲政実施 に至る過激的な段階として孫文により提示された統治形態。
以下、第2節「台湾総統民選期」については、若林正丈、文献表(12)、219 頁〜242 頁、及び若林正丈、
文献表(34)、3 頁〜19 頁要約。
光復節:中国戦区台湾省降服受諾式典」が行なわれた 10 月 25 日を「台湾光復節」と定めた。
《資料出典》
資料1:周婉窈『図説台湾の歴史』濱島敦俊、石川豪、中西美貴訳、平凡社、2007 年、205 頁
資料2:同上、215 頁
資料3:同上、237 頁
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