旧陸軍香里製造所煙突跡

2007.6 No.21
特集 「障害がある人とともに」
おおさか人権情報誌
まちを歩く
第17回
2007.6
京阪電車光善寺駅からバ
星ヶ丘駅
パス
バイ
枚方
アイス・
●スクエア
国
道
17
号0
線
京
阪
交
野
線
村野駅
松下電器体育館●
No.
すと、広々と整備された香
里団地がある。この団地の
●枚方宮神社
妙見山配水池に、高い煙突
光善寺駅
光善寺
京
阪
本
線
21
スに乗り、小高い丘をめざ
香里丘高●
があらわれる。19.9メー
香里製造所
煙突跡
●香里ヶ丘支所
●香里 丘支所
トルもあるこの煙突は、旧
税務大学校
大阪研修所●
陸軍香里製造所の跡である。
香里園駅
香里製造所は、京都の宇
治火薬製造所から運ばれて
きた湿った火薬をスチーム熱で乾燥させる工場で、一時は日本一の火薬工
場になったという。このあたりには、戦争当時、枚方製造所もあり、その
きん や
火薬を貯蔵する禁野火薬庫がおかれて、火薬を輸送する軍用鉄道の引き込
み線がつくられるなど、一大火薬工場地帯であった。
1939(昭和14)年3月1日に禁野火薬庫が大爆発をおこし、死者94名、
負傷者602人の大惨事になった(陸軍資料)。枚方市は、この3月1日を「枚
所跡を示す「陸軍用地」の石柱(香里ヶ丘2丁目)、禁野火薬庫跡の土塁(上
方市平和の日」と定めている。
野2丁目、中宮第4団地、表紙写真)、軍用鉄道をふりかえる中宮平和ロー
香里製造所は戦後に閉鎖されたが、朝鮮戦争の特需で再び火薬製造が復
ド(中宮本町から中宮西之町)などがある。
活されようとした。これに対して市民が反対運動を行い、市議会でも「火
今も残る高い煙突は、戦争に突き進む人間の姿とそれによる大きな犠牲
薬製造反対決議」がなされるに至った。これにより火薬工場は断念され、
を見てきた。また、再び戦争に協力しようとしたことを阻止した人間の姿
その跡地がニュータウン香里団地に生まれ変わった。
も見てきた。そして、今も人間を上からにらみつけている。煙突の下には
1982(昭和57)年に、枚方市は府内の自治体に先がけ「非核平和都
「煙突に寄せて平和を誓う」とのプレートがあり、「あらためて平和のモ
市宣言」を行い、1984(昭和59)年に、「不戦と平和」のシンボルと
ニュメントとして守り続ける」と結ばれている。(香里ヶ丘8丁目、京阪
して香里製造所の煙突を保存することにした。また、市内には、香里製造
バス「八丁目北」前)
︵ 2
大 0
阪 0
府 6
・
大 年
阪 度
府 人
教 権
育 啓
委 発
員 詩
会 ・
・ 読
愛 書
ネ 感
ッ 想
ト 文
大 募
阪 集
・
(財)事
大 業
阪
府
人
権
協
会
︶
の
入
選
作
品
よ
り
人
っ
て
大
せ
つ
だ
と
思
う
人
っ
て
す
ば
ら
し
い
と
思
う
た
の
し
い
し
う
れ
し
い
た
く
さ
ん
い
る
ほ
う
が
三
人
い
る
と
も
っ
と
う
れ
し
い
二
人
い
る
と
う
れ
し
い
一
人
で
は
さ
み
し
い
手
を
つ
な
い
で
も
ら
っ
て
い
た
よ
う
に
わ
た
し
も
小
さ
い
こ
ろ
は
手
を
つ
な
い
で
あ
げ
よ
う
と
思
う
お
年
よ
り
を
見
る
と
足
の
ふ
じ
ゆ
う
な
と
声
を
か
け
た
く
な
る
だ
い
じ
ょ
う
ぶ
?
し
ん
ど
そ
う
に
し
て
い
る
人
を
見
る
と
た
の
し
そ
う
わ
ら
っ
て
い
る
人
を
見
る
と
ど
う
し
た
の
?
な
い
て
い
る
人
を
見
る
と
わ
た
し
は
い
る
た
く
さ
ん
の
人
の
中
に
お 大 赤
年 人 ち
よ
ゃ
り
ん
ま
か
で
ら
﹁
赤
ち
藤
井 ゃ
寺 ん
市
小 か
学 ら
二
年 大
︵
当 人
時
︶ ま
で
塩 ﹂
尻
奈
海
枚方市に残る戦争当時の禁野火薬庫跡の土塁。火薬の爆発の被害を他に広げないためのもの。
(12ページ「まちを歩く」)
4
6
10
2007(平成19)年6月発行
7
12
12
人権尊重社会を実現するためには、
さまざまな偏見や差別を受けている人の状況・気持ちを「想像」することと、豊かな人権文化
を「創造」することが必要です。この情報誌がこれらの「そうぞう」につながるように−
−そんな思いが込められています。
8