神 籠 石 の 研 究

筑紫古代文化研究会講座《後期》2016.10.25(火) 福岡天神・光ビル2F
第2回
神 籠 石 の 研 究
―瀬戸内の神籠石山城がなぜ重要か―
第1
九州の神籠石 10 基
第2
瀬戸内の神籠石6基
第3
瀬戸内神籠石の《門礎の脇座石》
永井正範
瀬戸内の神籠石の戦略的意義
~九州王朝の前衛としての位置づけ~
第1
九州の神籠石
神籠石について話をします。
神籠石というのは日本の歴史では教科書にも載っていません。日
本の歴史に関するシリーズ本が戦後何冊か出ました。1965 年中
央公論社、1991 年集英社、2000 年に講談社、2008 年に小学館。
最近また岩波から出ているようです。
岩波は除き古代史の分冊を書いたのが、井上光貞、田中琢、吉村
武彦、寺沢薫、熊谷公男、松本武彦、平川南、鐘ヶ江宏行の 8 人
の方です。この 8 人は日本の古代史を概説するけれども、この全
員が神籠石について言及していません。日本の歴史では一切無視
されているんです。寺沢薫氏は、弥生時代から古墳時代にかけて
の考古学を専門に、弥生時代に「高地性集落」を詳しく研究して
います。ところが「神籠石」については一言も触れていません。
古墳についても研究されている、そして「高地性集落」の第一人
者と言われている寺沢氏が、神籠石を一切無視している。これお
かしいと思いませんか。
「高地性集落」というのは弥生時代の、高
さ 100mぐらいの、生産手段をもたない高地に、
「物見」のための
集落(施設)、烽火台の跡の研究をされている。小さな遺跡です。
住居跡だけ何十ヶ所研究されている。ところが神籠石など巨大な
施設については、全く無視している。
高地性集落をいくら辿ってもその背後に、たとえばヤマト朝廷と
いうような権力の存在というのは一切、窺えられません。単に近
所の村から見張りのために、高い所に交代で来たような住居跡が
あるだけです。これはいくら研究してもヤマト朝廷が大きな権力
の存在というのは全然窺われないんです。それ以前の段階だから
です。高地性集落は九州には無かった。東洋を研究していて日本
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の歴史シリーズに書いてるのに、神籠石の言葉が出てこない。私
から考えればこれは異常としか思えない。背後に意図的なものを
感じざる思えない。
九州王朝の防衛ライン
九州の神籠石 11 基の地図で平地や海や島の状況が判る。
筑紫平野の入り口、東は杷木、北は宮地岳、南は女山、西はおつ
ぼ山・帯隈山。おつぼ山は雲仙・長崎方面から侵入してくるのを
防ぐ意図があると思います。帯隈山というのは唐津から南に下が
る鉄道だと思いますが、それと多久を通ってくる道がある。この
道を通ってくるのはおつぼ山をすり抜けてしまうから、帯隈山が
必要だったんじゃないかと思っています。
これを見れば明らかに、九州の勢力を護るための城だというのが
判ります。
雷山は玄海灘の方から侵攻してくる軍船を監視できます。御所ケ
谷は行橋の方から回ってくるのを防ぐことができます。鹿毛馬は
遠賀川と英彦山川の合流点にあるので、響灘の方から回ってくる
敵を防ぐことができます。唐原は、山国川を遡って日田に抜けら
れる。
大分の方から、別府湾から回るというと非常に高い所まで上がら
なければなりません。距離もあります。それに比べて唐原から山
国川を遡ると高低差が殆どない。簡単に越えられます。
唐原というのは、ヤマト朝廷を念頭に置いた場合、四国、関西方
面から九州を目指すには島伝いに、石城山神籠石の南の方に突き
出ている半島を室津半島というけれども、こっちの方を通って本
州の沿岸伝いに、山口を通って九州に来ます。これが主な航路だ
ったようです。四国の佐多岬を経て佐賀関半島に抜けるというこ
の航路は、全く利用されていないんです。潮流がかなり激しいの
でここは、敬遠したんだと思います。
石城山の方を通って、沿岸の内の方を通って下関の方に抜けるコ
2
ースが殆どで、船が発達して大型になると、この室津半島から姫
島を通って国東半島に来て、沿岸を通って唐原へきて、山国川を
遡って来る。そういうコースを利用したのではないかと思います。
第2
瀬戸内の神籠石
石城山神籠石も瀬戸口ですから瀬戸内に含めてあります。この瀬
戸内の城は、神籠石と呼ばないんです。石城山は明治時代に発見
された時から神籠石と言われている。だからそのまま神籠石と呼
んでいます。
瀬戸内の城が結構皆新しい。昭和になってから発見されています。
この瀬戸内の城は神籠石系とか神籠石型あるいは神籠石式山城
という風に呼ばれています。もちろん歴史家は瀬戸内の城全部、
ヤマト朝廷がつくったというスタンスでいる。触れないようにし
ているけれども、触れる時には必ずそういうふうに言っています。
石城山は九州型だということがはっきりしています。他の城はヤ
マト朝廷がつくったのかと私は思っていた。そしていっぱいある
のかと思っていたんです。ところがこの石城山を入れて 6 基、岩
城山を除けば 5 基しかないんです。これ以外に神籠石に類似した
城というのは一切発見されていません。いろんな本が出ていて全
部調べて調べてみたけれども、この一覧表(別紙)に載せた、こ
れ以外の神籠石みたいな城というのは一切ありません。これだけ
なんです。
2、3 年前の話ですけどこれを全部調べてみた。結論を言うと、こ
れは全部神籠石と言っていいと私は今でも思っています。今日、
その話をしてみたいと思います。
3
瀬戸内の神籠石がなぜ重要か
これがなぜ大事かというと、年表(省略)200 年代半ばが卑弥呼
の時代。300 年代に古墳が出現します。古墳というのは 300 年~
500 年代まで続きます。500 年代(6 世紀)になると古墳は殆ど
造らなくなって、奈良の天皇陵とその関連する墓以下以外は、古
墳はもう造らなくなります。700 年から歴史時代に入ります。だ
からこれまでが面白いんです。この間は古墳が造られるから古墳
で研究できます。奈良時代からはいろんな遺跡が出現します。600
年代は古墳が造られなくなったので、突如として遺跡がなくなり
ます。その前は弥生時代だから弥生式土器など弥生遺跡がたくさ
ん出ます。古墳時代は古墳がたくさん出てきます。だけど古墳時
代は遺跡が少ない。古墳が無くなるから。
奈良時代には寺院の礎石や瓦が出てきます。600 年代は、それは
少ないんです。その時代に神籠石があるわけですよ。だからこれ
は絶好の研究材料になる筈です。しかも巨大な遺跡群。それまで
巨大な古墳はあるが、神籠石というのは古墳の中でも最大級の古
墳に匹敵する遺跡です。それなのに「日本歴史シリーズ」には神
籠石の名前すら出てこない。おかしいですね。
(考古学界の)姿勢
が間違っていると思います。結局、今の古代史・考古学者すべて
が「近畿王朝一元史観」に立っていますからこれには触れないで
すね。神籠石のことを持ち出すとそれが崩れてしまいます。
地図をみると九州に勢力の中心があったことが判ります。これら
の神籠石は九州王朝を護るための城以外に解釈しようがないで
しょう。だから触れないというのは、日本歴史の真実を見極めよ
うという気が、彼らにあるのかと私は言いたいわけです。ただ、
この話を持ち出すと、都合の悪い人がいるわけですよ。歴史なん
ていうのは本来飯のタネにならない代物です。だから国の機関な
どで飯食わしてもらわなければならないですよ。私はそう思って
います。文化庁の役人も、宮地岳、唐原の神籠石を外すというよ
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うな態度に出てくるわけでしょう。
《東部》播磨城ノ山城は奈良との位置をハッキリさせるために同
じ縮尺で作成しました。これで位置関係を確かめたうえで、島も
消えずに残っていますからこの島伝いというか沿岸というか、関
西と九州を昔は往復していたわけです。
鬼ノ城と大廻り・小廻り城、讃岐城山城、播磨城ノ山城。昔は城
(しろ)のことを「キ」と言ってたのでしょう。この時代の一般
的用語がそのまま残っているのじゃないかと思います。
播磨城ノ山近くの、たつの市ある山は「亀山」
(きのやま)といい
ます。ところが此処に城が発見されて、その城は「城山城」
(きの
やまじょう)と言われるようになった。
この鬼ノ城と大廻り・小廻り城と讃岐城山城は非常に近い位置に
あります。海を渡ればすぐ近くです。勢力的には近かったと思い
ます。
《西部》永納山城は、地元(西条市)の教育委員会から資料を貰
いました。地図によるとこの城は、大陸から船団が押し寄せたと
き、防ぐためにヤマト朝廷が造った城だと説明していました。皆
ヤマト朝廷と関連づけて説明するんです。
この地図から何を読み取るかという問題です。大陸から船団がや
ってき来る時、どっちの方向から来るでしょうか。当然西から来
ます。西から来るのであれば西が、これ高輪半島といいますが、
西側につくると思いませんか。敵から見えない所に城を造っても
仕方がないでしょう。防戦しなければならないわけですから。こ
れを聞いた瞬間おかしいと私は思いました。
敵は一体だれか。そもそも九州以外で神籠石と呼ばれるのは石城
山だけです。石城山は何のためにあるのかといえば、九州の勢力
からすれば、大陸軍を防ぐためとは言えません。当然、ヤマト朝
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廷を念頭に置いてるんじゃないかと私は思いました。そうすると
永納山城も同じです。
燧灘。四国というのは 4 箇所が飛び出した地形になっています。
南北に。そのうちの一つ西側が高輪半島です。大陸軍を迎え撃つ
のなら道後平野(南)のほうに造る筈です。その反対側が道前平
野といいます。ヤマト朝廷からみて名づけられた名称です。この
道前平野にあるということは向かい側の展らけた所からやって
来る船団を迎え撃つためということになりませんか。私はそう思
います。
今治は伊予の本拠です。現在は愛媛県の県庁所在地は松山市です。
昔は今治が愛媛県の中心です。今治の南に 100mぐらいの山地が
ちょっとあります。その山地のいちばん南側に永納山城があるわ
けです。ということは陸路から来たのを此処で防ぐことになりま
す。また海から来るのを防ぐ。これはヤマト朝廷からの侵略を防
ぐための城だと私は思います。
四国に讃岐城山城があります。律令時代まではこの讃岐は伊予の
領域だったというのはご存知ですか。伊予の方が強かったんです
よ。だから伊予が讃岐を支配したんです。律令時代になっても平
等にそれぞれの国として一律に扱われるようになったけれども
(次回、日本書紀の文章から説明することとします)。讃岐は伊予
の子分だったということです。
永納山城、今治に本拠がある伊予の勢力の、ヤマト朝廷に対する
出城が讃岐城山城だということになります。奈良時代今治に国衙
があります。国分寺・国分尼寺も全部今治にあります。讃岐城山
城から神籠石がすぐ近くに、讃岐の国衙、国分寺・国分尼寺があ
ります。要はそれぞれが中心だったということです。
鬼ノ城。備中の国の国衙・国分寺・国分尼寺がこの鬼ノ城の下に
あります。大廻り・小廻りは、中世に、此処に有名なお寺があり
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ました。お坊さんが出家、修行するのに峰の天辺がある。大廻り
というのは遠くの方まで行って帰るのが大廻りで近くの方で済
ませるのが小廻りということで、二つの峰をこれが含んでいるけ
れども、神籠石に囲われていますが、それぞれの山の天辺が大廻
り・小廻りと言われていることからこの名前がついているようで
す。
吉備の国は、『日本書紀』によればヤマト朝廷に反乱を起こすな
ど、かなり独立性をもったと所です。古墳で言えば、造山と作山。
前者は「読み」で後者は「旧意」です。どちらも鬼ノ城の近くに
あります。大廻り・小廻り山城は、備前の国衙、国分寺・国分尼
寺がすぐ近くにあります。そこに吉備国 4 番目の古墳が北の方に
見えます。それぞれ皆昔の勢力の中心のところにあります。その
勢力が逃げ込んで戦うための城だったわけです。これは中国大陸
軍とは関係なさそうです。近畿王朝が狙いだったと思われます。
東部の方に一つ離れてあるのは播磨城ノ山城です。これはどうい
う位置にあるかというと、下の方に本線が通ってます。そして細
い線がありますがこれは姫新線というJRの美作に行く支線で
す。要は備後・備中・備前・美作この 4 国が吉備だった。という
ことは、播磨城ノ山城は、東の方に眺望の展らけた断崖のように
なっている山の上にあります。要するに東から来る勢力を防ぐた
めに、断崖みたいなところにあるわけです。東の敵だから東の眺
望の展らけた所にあるわけです。播磨の国は吉備の国の領域だっ
た。美作もそうです。
瀬戸内の全部が九州王朝と連合している勢力の城だったという
ことじゃないかということになるわけです。
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《一覧表》の 6 基(朱枠)は近畿王朝がつくった城です。土塁が
主体ですけれども、中央右の「土塁下石列」欄ですが、切石か割
石か、加工の方法が「切石」ということは、かなりきれいに磨い
ているということです。
御所ケ谷だけが土塁の中に埋め込まれています。瀬戸内の城の二
つ(?印)は判らない。しかし他は 4 つとも「割石」があります。
割石も切石も要は土塁の下に石列の石なんかは埋め込んでいま
せん。
『史書が載せる』近畿王朝
がつくった城はこの石列
がないんですね。瀬戸内の
城もこれがある。?が二つ
ありますけれども。埋め込
み式が3つで露出してい
るのが1つ。鬼ノ城は露出
しています。
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以前私は総社市の教育委員会
に「鬼ノ城は神籠石説とそう
でない説とがあるがどっちで
すか」と聞いてみたことがあ
るんです。そしたら「神籠石だ
という人たちもいるけれども、
私らはそう思ってません」と
いう返事でした。それを質問
した時は、鬼ノ城の露出した
石列の写真(写真前頁)は知ら
なかった。あれを見たらもう迷うことなんか全然ないですね。神
籠石そのものです。だけどそれを神籠石と思いたくない人たちが、
教育委員会にはいるようです。
第3
瀬戸内の神籠石の《門礎と脇座石》
《石城山神籠石》
写真は「門礎の脇座石」と言われています。
石城山と播磨城ノ山全く同じです。讃岐城山城にはこの四角い所
だけを刳り貫いた石がある。
下にある柱は《門柱》です。(右は想像図)
吉備の鬼ノ城。真ん中の石が一体として残っています。
(写真左)
上の角、下の角が同じです。要するに技術を共用しているという
ことです。ということは瀬戸内も同一系列、同一勢力のものだと
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言っていいということにならないでしょうか。
神籠石の特徴である、一段一列がない二つが共用してます。そし
て土塁の中に石列を持っているのと、二つが一緒だということは、
同一系列に入れていいということになると思います。そこを指摘
している本はない。
神籠石について公的機関はどう見ているか
それぞれの教育委員会、あるいはそれぞれの山城のある当該の教
育機関(大学等)では、発掘研究を行っている。だけど中央の学
者らはこれを完全に無視しています。総括しなければならない立
場にある中央の学者らは、日本の歴史シリーズにも、一切神籠石
の名前すら載せないという姿勢で徹底しています。それぞれが発
掘した成果もまた、無視しています。
しかし何のことはない。瀬戸内の神籠石もこの山城も神籠石と言
っていいんだと私は結論づけています。
下図は石城山神籠石と
「からと水道」の地図で
す。これはどういう意味
かというと、石城山神籠
石の室津半島の根付に
なるんですが昔、室津半
島は奈良時代ぐらいま
では島だったようです。
満ち潮で、その潮に乗れ
ば真ん中の八幡という
所までくる。そして引き潮になると反対側に飛び抜けられる。ど
ちらからでも(航行が)出来たと言われます。
八幡というところが狭くなっていて、距離にして 200mぐらいで
す。この室津半島の先を廻るのに比べれば、この水路を通ればも
のすごく時間が短縮され、節約になります。
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石城山の周囲は 2.5kmぐらい。そしてこの水路まで 2、3kmで
すからもう城の真下と言っていいですね。山口県で石城山の下は
いちばん古墳が多いんだそうです。昔は結構中心になっていたと
いう。その理由は、此処が関所みたいになっていたということで
はないかと思う。此処を押えるということはものすごく大きかっ
たと思います。だから神籠石も石城山に造ったということだろう
と思います。此処に来てみると、完全に水平体積になっています
から。昔は炭があったということが一目でわかります。
八幡という所の左手に、田布施町の役場がある。そこで「からと
水道」の資料を求めたが誰も知らなかった。
「何のことですか」と
聞かれた。三人いたが皆知らなかった。
「この役場が昔、からと水
道の水底にあったんでしょ」と言ったら一人がパソコン室に行っ
て調べました。係員は当然のように「そこを出て 100m ぐらいの
所に郷土館があるから、其処に行って下さい」と言われました。
私もパソコンで調べているから郷土館があるのは知ってました。
市役所などにも行くんですが殆どの人が知らない。あまり関心が
ないようです。
「八幡八幡宮」が丘の上にあります。その辺がちょうど岬になっ
ていたんだろうと思って其処に登ってみました。試しに、そこで
3 人ばかりつかまえて「ここまで海が来てたのをご存知ですか」
と聞いたけど誰も知らなかった。
石城山は交通の要衝
山口県には長門の国と周防の国(東)とがあります。長門の国と
いうのは昔から九州と一体だったようです。長門は「長い門」と
書きますが、何故か。
中国山地は山陰側から山口市にかけてずっと地峡になっていま
す。長い門(戸)になっている。だから長門になったというわけ
です。それはそういう風に言われているのか知りませんが、私が
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実際其処を通ってみて、そこが地峡であることを実感しました。
「門」
(と)というのは、例えば瀬戸内海の音戸(門)、瀬戸の「と」
ですね。狭くなった処それが「津」です。
「やまと」は山と山の峡
になった処だと私は思っています。
「からと水道」があるのは東の方。周防(すおう)の国です。こ
れは suo 二重母音になっています。だから h 音加えて「すほう」
になるんです。現在は「すおう」と言います。昔は「すおう」が
言いにくいから h 音入れて「すほう」にしたんですね。「防府」
もそうです。これが h 音が漢字に充てられて「防府(ほうふ)」
になっていますね。
「府」のつくところは昔「国府」があった処で
す。
防府に「鯖川」という町があります。その河口が昔の中心だった
のです。
「からと水道」はそれから 30km以上離れています。要
はヤマト朝廷からこの本拠を護るために造られた城です。位置関
係から云って、それぞれの城がある場所から云って、防府が昔の
中心だった。此処は平野になっています。石城山に神籠石を造っ
た。それが「からと水道」という所で昔の交通の要衝になってい
た。そこを押さえる山の上から見張るというところで此処に神籠
石を造ったのであろう。
永納山城は、今治の本拠を護るために、陸路から海岸を廻り込ん
でくる外敵を、今治の手前で防ぐために、低い山ですがそこに造
られました。
4km か 5km ぐらいの今治の国衙の所まで、讃岐城山城の国衙が
すぐ近くにあります。鬼ノ城は備中の国衙がすぐ近くにあります。
大廻り・小廻り山城は備前の国衙と国分寺・国分尼寺がすぐ近く
にあります。
播磨城ノ山城(東部)は、姫路の東側に「市川」が流れている。
その川の東側に、国衙・国分寺跡があります。だから城ノ山城か
らはかなり離れています。それは国分寺・国分尼寺を護るためで
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はなくて、吉備の勢力地域に行くための 2 号線のほうと、この姫
新線の線路を通って美作に行く。
「美作道」と言ってますが、それ
と分ける山、断崖の上の天辺にある。これも吉備の勢力のもので
ある。これを調べたら判りました。
瀬戸内の城は、誰に対してつくったか
瀬戸内の城は、ヤマト朝廷に対して造ったと言えるんじゃないか
と思う。どういうことかというと、奈良時代以前の状況は、近畿
王朝(奈良)しか王朝はなかったということで『日本書紀』は作
られています。しかし実態は、吉備の勢力、伊予の勢力、周防の
勢力、この3つの大勢力は近畿王朝の配下じゃなくて九州王朝の
配下だったということを、これらが証明しているということです。
近畿王朝の配下だったんじゃないということです。その当時は九
州王朝の方が偉かったんだと、もちろん「大宝律令」つくるまで
は律令制国家じゃないです。中央集権国家じゃありません。連合
勢力による「連合国家」の段階です。それぞれを治める「王」が
いて、その王の中の一番強いのが全体をまとめたと考えればいい
と思います。まとめていたのは近畿王朝ではなくて九州王朝がま
とめていたということです。
はじめに私は、九州王朝の神籠石を調べた時には、そこまでは考
えてなかった。けれども瀬戸内の神籠石は、石城山を入れて 6 基
以外にはないんです。この 6 基は、近畿王朝の子分ではなくて九
州王朝の子分だったということです。しかも大陸軍の侵攻を防ぐ
ために、このような巨大な城を造ろうという時に、近畿王朝に対
しても瀬戸内の首長が造ったということです。それだけ、近畿王
朝を敵視していた、古墳どころではなかたということです。それ
が『日本書紀』にも現れています。吉備の勢力は「鶏を闘わせて
…」という逸話がありますね。
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古墳時代の関東に、横穴式石室の壁画古墳が、九州と同じととい
っていいようなのが、関東にもいっぱいある。そういうことを考
えれば、関東の「毛野の勢力」も九州王朝の同盟の中の一勢力だ
ったと、私は思っています。奈良の勢力も神武以来、奈良盆地に
しか勢力がなかったというんじゃなくて、当時は九州王朝の連合
勢力の一つが、奈良盆地の首長だった。それが古墳時代からどん
どん力を蓄えてきて、九州王朝が白村江で、唐・新羅連合軍と戦
って敗北する。その戦いの時に奈良盆地の首長はこの戦いを忌避
しています。これを「漁夫の利」というんです。彼らは白村江の
戦に加わらなかった。九州王朝は国家の力を全部つぎ込んで、700
艘の船が沈められて再起不能に陥った。それで日本列島の宗主国
の地位を奈良盆地の首長にとって代わられたわけです。奈良盆地
の首長が唯一の王朝だったというのが、当たり前のように言われ
てきました。しかし神籠石でこの疑問に気がついたわけです。
瀬戸内の神籠石をみると、周防と伊予と吉備この3つの大勢力も
九州王朝の味方だと、「奈良盆地の連中は自分たちに敵対するん
じゃないか」と考えたからこそ、あれだけの巨大な城を造ったわ
けですよ。
次回は、
周防と伊予と吉備の勢力が九州王朝の配下、同盟勢力であったと
いうことを『日本書紀』から窺い知るということが出来るという
話をいたします。了
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