2012.5.16 相州伝の大和伝との関係 伊藤 三平 相州行光について、新しい視点を提供したい。と言っても思いつきに過ぎないが、どな たか、あるいは後世の人がきちんと検討されることを願って。 <検討の視点> 「相州行光と当麻の作風が非常によく似ている」のは事実。それなら、そもそも相州行 光は、大和系の刀工ではないか?」 <検討の手がかり> ①行光の親とも、あるいは師匠と言われている新藤五国光には大和出身説もある。『日本 刀大百科事典』(福永酔剣著)の「国光」の項に「徳治二年(1307)の作に、「長谷部国 光」と切っているが、三人の息子、つまり国泰、国広、国重らも、銘に「長谷部」を切 っている(『校正古刀銘鑑』本阿弥長根 文政13年)。長谷部氏の発祥地は大和であ る。国光も大和に駐槌したことがあって、その時の作を”大和新藤五”と呼ぶ(『正銘 写物目録』竹屋喜参 慶長14年)。すると、国光は大和の長谷部氏と関係がありそう である。」と言う説も紹介されている。 ②長谷部国重は出自については大和説が圧倒的に多い。『日本刀大百科事典』の「国重」 の項に、のち鎌倉に下り相州正宗に入門、業成って京都にのぼり定住した。 以下、新 藤五との関係を書き、大和出身説では千手院重信の子とも、金王丸国吉の弟ともいうと ある。 ③行光の「行」の字を通字と考えると、大和千手院に多い字である。当麻では総帥の国行 にある。同時代、来の嫡流は「国」、備前長船の嫡流は「光」と通字がある方が自然(一 人鍛冶、アウトローの鍛冶ならば別だが)。 ④鎌倉時代の美術品で名高いのは運慶、快慶の仏像彫刻である。慶派の仏師が大きく勢力 を伸ばしたのは、鎌倉幕府との関係を密にしたことにあると言われている。運慶の作品 は関東地方に多いのである。 ⑤運慶は興福寺に所属していた仏師だが、平安、鎌倉、室町時代の興福寺は実質的には大 和一国の守護として大きな力を持っていた。そして當麻寺(当麻寺)は興福寺と関係が 深かった。 ⑥今は奈良から鎌倉と言うと、京都経由だが、往古は長谷寺の前から初瀬街道で伊勢の松 阪までいき、そこから伊勢街道を北上して四日市と石薬師の間の日永の追分に至ると東 海道である。 政治体制が公家政権から武家政権に変わったという非常に大きな変革があった時代であ る。仏師の主流も変化し、刀鍛冶にも大きな変革があったのではなかろうか。 なお、鎌倉鍛冶については沼間の鍛冶、山内の鍛冶などがいたようで、昔、間宮光治氏 がいくつか論文を発表されていたが、これら刀工の研究も必要だろう。 -1-
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