国内長距離人口移動の分析方法と留意点†

国内長距離人口移動の分析方法と留意点†
岐阜聖徳学園大学 伊藤 薫
1 はじめに
本研究の研究課題は、
「国内長距離人口移動を中心に、その分析方法と留意点を経済学的観点から概説す
ること」である。人口移動研究は、近年活発とは見受けられず残念であるが、経済学では取り分けそう感
ずる。日本人口の自然増加が 2006 年にほぼゼロとなったと推計されている(総務省統計局推計人口)が、
地域社会に与える社会動態の影響は、
量的あるいは質的な面で 21 世紀には大きな意味を持つと予想される。
筆者は、名古屋市役所在職中に名古屋市立大学の社会人大学院で学んだが、その修士論文のテーマは「地
域間経済力格差と広域人口移動」であった。それ以来、日本国内の長距離人口移動の研究を継続して行っ
てきたが、研究を実施する上で常に欲しいと感じてきたのが、経済学からの人口移動研究の分析方法と留
意点の概説である。人口移動研究へのアクセスが良くなかったのである。本論は、現時点におけるなお中
間報告であり、必ずしも十分なものではないと考えるので、この論考に是非、ご批評、ご批判をいただき
たい。
人口移動研究の対象となる人口移動の種類は、地域パターンに注目すると、以下の3種類となる。国内
短距離人口移動、国内長距離人口移動及び国際人口移動である。
国内短距離人口移動は、大都市圏内移動に代表される、勤務先を変更する必要のない移動である。移動
の決定因としては「職業的理由」より「住宅上の理由」が重要であり、住宅立地分析が主要な位置を占め
る。そこにおいては、住宅周辺環境、通勤・通学時間と地価とのバランスが重要であろう。
国内長距離人口移動は、地方間移動に代表される、自らの意思で移動する場合には勤務先を変更する必
要が生じやすい移動である。
「職業的理由」
が重要であって、
地域間の経済力格差が主要な決定因であるが、
所得水準の高い先進諸国ではアメニティも従たる決定因となりえよう。
国際人口移動は、移動コストが最も高く、一般的には高い所得を求めての「職業的理由」が主要な決定
因であろう。
本研究の説明は、国内長距離人口移動に焦点を当てており、このために住宅移動(住宅立地)の説明は
ほとんどない。また国際人口移動についての説明も省略されている。
以下では、第 8 節と結論(第 11 節)を紹介する。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
† 本研究は、
『戦後日本の長距離人口移動の決定因とその変化−所得とアメニティの作用を中心に−』
(名古屋大学 2006 年
度博士学位請求論文)の第1章を修正したものである。本研究に、多和田眞名古屋大学大学院教授、根本二郎同教授よ
りご教示をいただいた。記して感謝したい。なおいうまでもなく、本研究の誤りは、全て筆者に帰せられるものである。
* 筆者の連絡先:[email protected]
8 形式的モデルの導出
8.1 代表的個人の効用関数と双方向の移動
代表的個人の効用関数を想定すると、効用の高い地域へ一方向の移動が生ずることとなるが、現実には
転勤など様々な要因により双方向の移動が存在する。例えば、2000 年、15−19 歳、
「就職」の理由では、
福島県の場合は県外への転出 2,441 人、県外からの転入 335 人(福島県(2002)
)
、青森県の場合は県外へ
の転出 1,312 人、県外からの転入 118 人(青森県(2001)
)であった。
そこで、この双方向の移動の事実に対して、効用の差異は流入超過率(
(転入数−転出数)/人口)に作
用していると考える純移動率モデル(流入超過率モデル)
、あるいは双方向の移動を前提とする修正重力モ
デルの2種類を回帰分析に使用することができる。両モデルとも、代表的個人の効用関数に関連付けて導
出することができるという点が経済学による分析では重要である。
代表的個人の効用Uは、所得YとアメニティAで決定されると想定する。すなわち、
U=U(Y,A)
(8−1)
仮に、①住居移動の制限が制度的になく、②移動コストがゼロと仮定すれば、人々は自らの効用を高め
るために、所得とアメニティで決定される効用の高い地域へ移動するであろう。
なお、本研究の用語としては、原則として、純移動率とは国勢調査の年齢別人口から算出された純移動
率推定値を意味し、流入超過率とは転入数と転出数が既知で(転入数−転出数)/人口により計算された
データを意味する。これはデータ算出上の区分であり、本質的には相違はない。
8.2 純移動率モデル(流入超過率モデル)の導出
さて(8−1)式を、全国平均値(Y*,A*)のまわりでテーラー展開し、一次近似すると(8−2)式の
ように表される。
(Y−Y*)+UA(Y*,A*)
(A−A*) (8−2)
U=U(Y*,A*)+UY(Y*,A*)
ある地域の代表的個人の効用が全国平均値より高いほど純移動率(流入超過率)は高まると考えられる
ので、地域iの純移動率(流入超過率)
(NMi/Pi)は(8−3)式のように表すことができる。NMを
流入超過数(転入数−転出数)
、Pを人口とすれば、
NMi
=λ(Ui−U*)
Pi
(8−3)
ここで、λは効用の差異に対する人口移動を抑制(あるいは促進)する何らかの要因による調整率を表
す。抑制要因(0<λ<1)としては、①効用の差異に対する人々の反応は、時間のラグがあると考える
(富岡武志・佐々木公明(2003)
、p.35)
、②地域情報の流通が不完全なために人々が十分反応しないこと
がある、③効用関数に含まれていない要因(例えば「家族的理由」
)により移動が抑制される、などが考え
られる。
(8−2)式と(8−3)式から各地域の純移動率(流入超過率)は、
(8−4)式で表される。
NMi
=λ{
(UY(Y*,A*)
(Yi−Y*)+UA(Y*,A*)
(Ai−A*)}
Pi
=β(
Yi
A
−1)+γ( i −1)
Y*
A*
(8−4)
ここでβ,γは下記を表しており,所得やアメニティの全国との差異に対する純移動率(流入超過率)
の反応の強弱を示している。これらは(8−4)式の回帰分析で観測可能である。
・Y*
β=λ・UY(Y*,A*)
γ=λ・UA(Y*,A*)
・A*
(8−5)
以上のように純移動率(流入超過率)は,所得やアメニティの,各地域の全国倍率から1を減じた「上
回り倍率」あるいは「下回り倍率」との比例関係として表される。なお以上の純移動率モデルの導出には、
富岡武志・佐々木公明(2003)を参考にしたが、彼らは間接効用関数から導出しており、本節の導出方法
とはやや異なる。
8.3 修正重力モデルの導出
重力モデル gravity model から修正重力モデル modified gravity model への発展の経緯については、石
川義孝(1988)
、Greenwood(1997)
、Greenwood and Hunt(2003)に詳しい。またサーベイ論文として、David
and David (1986)と Sen and Tony (1996)がある。
Greenwood (1997、p.663)によれば重力モデルは、
(8−6)式のように表現されている。
Mij = G
β2
Piβ1Pj
α
Dij
(8−6)
すなわち、i地からj地への人口移動数 Mij は、i地の人口規模 Pi とj地の人口規模 Pj に比例的な関
係があり、i地とj地の距離Dij に反比例的な関係がある。β1、β2、αはそれぞれ弾力性であり、例え
ばPi が1%増加するとMij はβ1%増加し、
Dij が1%増加するとMij はα%減少すると想定されている。
この狭義の重力モデルは、
「単に集計量による統計的な関係を記述するのみで、
個人の行動に基礎を持た
ない」という批判を受けてきたという。これに対して、Niedercorn and Bechdolt (1969、1972)は、個人
の小旅行 trip を対象として、予算制約付効用最大化により重力モデルを導出し、また Isard (1975)など
の貢献もあって、石川義孝(1988、p.26)は「重力モデルの理論的基盤がまったく欠落しているという批
判は、現在では成立しないであろう」と述べている。しかし、人口移動に関しては、Greenwood and Hunt
(2003、p.27)は Niedercorn and Bechdolt (1969)によっても「救助されて salvaged いない」と評価し
ているが、その理由は、
「人口移動の行為は、それ自体で効用を生ずるのではなく、場所の変更の結果とし
て獲得されたより高い効用を通じて効用を生ずる投資行動である」
(訳は筆者)ためとしている。
(8−7)式で表される修正重力モデルは、重力モデルに修正項が加えられたものである。Greenwood and
Hunt(2003,p.27)によれば、欧米では 1960 年代に入って修正重力モデルの応用が活発になったが、重力
モデルの変数に行動的な内容が与えられ、移動の意思決定に強く影響すると期待される追加的な変数が推
定される関係に含まれるようになった、という。
lnMij = lnβ0+β1lnDij+β2lnPi+β3lnPj+β4ln(Yj/Yi)
+Σn =1 αnln(Xjn/Xin)
m
(8−7)
ここでi、jは地域、Dは地域間の距離、Pは人口、Yは所得を表す。Xには、失業率、都市化の程度、
各種の気候アメニティ変数、公共支出や税の測定値、多数の他の要因が含まれる、とされている。
次に効用関数が、
U=αYβAγ
(8−8)
で表されるとすると、地域iと地域jの効用格差は(8−9)式で表される。
Uj
Ui
=
β γ
Yj
Aj
β γ
Yi
Ai
(8−9)
(8−7)式は、修正重力モデルの修正項に(8−9)式の 2 地域間効用格差を使用していると考えること
ができる。
なお modified gravity model という用語は、重力モデルに経済的機会(より一般的には効用)を注入し
たことを示すために、Greenwood(1975)で使用されたという(Greenwood and Hunt(2003)
、p.33、
note 1)
。
8.4 純移動と総移動
分析対象の人口移動データに総移動(gross migration、転入者数と転出者数を別々に分析する、
「粗移
動」と訳すことがある)と純移動(net migration、転入者数から転出者数を控除した流入超過数を分析す
る)がある。その分析結果の相違について、Greenwood(1975)の重要な議論があるので紹介する。Greenwood
(1975)の結論は、
「総移動の分析の方が、情報量が豊かで望ましい」
、
「純移動は所得の説明力を増幅する
結果となる」である。
Greenwood (1975、pp.408-409)の指摘は以下のとおりである。
所与のi地からj地への移動数GMijが、i地からj地への距離Dijと他のある変数Xjの関数である
とする。ここでXjは、例えば所得、人口、失業率であるかもしれない。すると次式のように書ける。
GMij=β0+β1Dij+β2Xj
(8−10)
GMji=β0′+β1′Dij+β2′Xj
(8−11)
この(8−11)式でGMjiの説明変数がXiではなく、Xjであることに留意しておこう。Greenwood は、
(8−10)式ではj地域が pull する力を、
(8−11)式ではj地域が push する力を強調しているのである。
純移動数NMijは、次式で表される。
NMij=GMij−GMji
=(β0−β0′)+(β1−β1′)Dij+(β2−β2′)Xj
(8−12)
この(8−12)の関係式は、純人口移動数を人々が地域間を移動する純移動性向の関数として解釈するも
のである。距離や人口といった(8−10)式と(8−11)式で同じ符合を持つと期待される変数は、
(8−12)
式では「洗い流される(wash out)
」傾向がある。これに対して所得や失業率のように(8−10)式と(8
−11)式で違う符合を持つ諸変数は、その効果を大きくして現れる。このような考慮の結果として、純人
口移動のモデルでは、総人口移動を説明するモデルで登場する重要な変数を含まない。
但し、Xjの係数(β2−β2′)が正として、①β2>0かつβ2′=0、②β2=0かつβ2′<0、③
β2>0かつβ2′<0、のいずれなのかが分からない、という問題点がある、という。
8.5 モデルによって分析結果が相違する可能性
分析に使用するモデルによって、分析結果が相違することが考えられる(Goss and Chang(1983))
。純移
動率モデルと修正重力モデルの分析結果が同一の場合は問題ないが、相違する場合は、総合的な判断が必
要であろう。
11 結論と残された課題
11.1 結論
本研究の目的は、
国内長距離人口移動の分析方法と留意点を経済学的観点から概説する」
ことであった。
得られた結果を簡単にまとめると以下のようになる。
(1)第二次世界大戦後の日本においては、高度経済成長期に3大都市圏へ大量の流入超過があり、バブ
ル経済期と近年に東京圏へ大きな流入超過があった。石油危機以降とバブル崩壊後に2回の人口移動均衡
化期があった。
(2)人口移動は年齢選択的現象なので、人口総数の分析に加えて年齢別(加齢過程別)分析が重要であ
る。
(3)戦後の日本においては、所得増大、エンゲル係数低下などが急激に進行し、社会変化は大きかった。
(4)アメリカにおいては、経済学の膨大な先行研究が存在するが、日本においては高度経済成長期は多
かったものの、それ以降は先行研究の数は減少した。地域間分配所得格差を中心とする地域間経済力格差
の諸研究が多いが、近年は自然環境アメニティ(気候)や社会環境アメニティ、地価との関係など様々な
先行研究がある。
(5)経済学の研究課題は、Greenwood によれば「誰が移動するか」
「なぜ移動するか」
「どこからきてど
こに行くか」
「いつ移動するか」
「どんな帰結が生ずるか」がある。
「なぜ移動しないか」も重要な研究課題
と考える。
(6)経済学における人口移動研究の特徴は「効用」の重視である。ヒックス以来の地域間の賃金の差異
を重視する「不均衡論的方法」とその発展形態である「人的資本理論」が伝統的な経済理論の代表である。
アメリカの温暖で低所得の南部への移動が優勢となった事実があり、所得の他に気候のような地域特有ア
メニティを効用の要素とする「均衡論的方法」が開発された。
(7)人口移動の決定因を研究する方法として、回帰分析と移動理由調査がある。移動理由調査は「足に
よる投票」をした本人による異動理由の表明であり、適切に企画された調査は優れた結果を提供できるで
あろう。
(8)形式的モデルである純移動率モデル(流入超過率モデル)は、効用関数のテーラー展開より導出可
能である。また修正重力モデルは、効用関数と関連付けて導出することができる。
(9)純移動のモデルは wash out のために、距離や人口といった総移動で重要な変数を含まずに、所得や
失業率のような変数がその効果を大きくして現れる。
(10)地域区分を設定する場合には、住宅移動の影響をさけるために大都市圏を包摂する地域区分が重要
である。人々が高所得地へ移動する所得の作用を分析するためには、低所得地へ向かう大都市圏内の住宅
移動を混在させてはいけない。
(11)全国的な人口移動分析の基礎データとしては、住民基本台帳人口移動報告、国勢調査の人口移動調
査結果、学校基本調査の「卒業後の状況調査」のほかに、国勢調査の年齢別人口より算出された純移動率
推定値が利用可能である。
(12)県民所得には企業所得、政府や対家計民間非営利団体の財産所得が含まれるために、個人の人口移
動の説明変数としては人口1人当たり県民所得は相応しくない。それらを除いて消費者物価指数地域差指
数で実質化した実質個人所得が人口移動の説明変数として相応しい。
11.2 残された課題
本研究はなお中間報告である。ご指摘、ご批判をいただいて、改善を試みたい。
参考文献
Graves, Philip E., “A Life-Cycle Empirical Analysis of Migration and Climate, by Race,” Journal of Urban Economics,
No. 6, 1979, pp.135-147.
Greenwood, Michael J., “Human migration: Theory, Models, and Empirical Studies,” Journal of Regional Science,
Vol. 25, No. 4, 1985, pp.521-544.
伊藤薫、2004、
『戦後日本の長距離人口移動に対する経済力格差とアメニティ格差の影響に対する比較研究』
(平成13年度∼
平成15年度科学研究費補助金研究成果報告書(課題番号 13630035、基盤研究(C)
(2)
)
、383 ページ.
伊藤薫、2006、
『戦後日本の長距離人口移動の決定因における男女・年齢別の差異と変化の基礎研究』
(平成16年度∼平成1
7年度科学研究費補助金研究成果報告書(課題番号 16530143、基盤研究(C)
(2)
)
、217 ページ.
伊藤薫、2006、
『戦後日本の長距離人口移動の決定因とその変化−所得とアメニティの作用を中心に−』
(名古屋大学 2006 年
度博士学位請求論文)
』
、134 ページ.