死刑 小林 千晶 1.はじめに 最近、オウムの事件関係の裁判の判決も出始め、死刑判決が下ったというニュースを頻繁 に耳にするようになった。 私は死刑については、 高校時代から廃止すべきだと考えていた。 当時は特にこれといった理由もなく漠然とそう考えていたのである。そして当然に近い将 来、廃止されるものだと信じていた。しかし、私の予想に反し、死刑判決は下され続け、 また、何件かたて続きに執行されている。最近のこのような動きをうけ、今現在の存廃論 に興味を持つようになった。そしてもうひとつ、世論がかなり存置論に偏っているという ことには驚いた。そこで、特に国民の法意識を意識しながら、紙の上の議論にならぬよう に、存置論、廃止論、それぞれ何に根拠を置いているのかをみていきたい。そしてさらに、 今まで漠然と存置の立場をとっていた人たちに訴えることを目的とし、そして最終的には そのような人たちが、廃止論に傾くとまではいかないとしても、少しでも死刑について正 しい知識を持ち、興味を抱いてくれることを、目標としたい。 2.国民の法意識と死刑 はじめに、世論がどう死刑について考えているのかをみていくことにする。死刑制度に関 する公的な世論調査は、総理府により、過去五回、それぞれ全国の二十歳以上の男女 3 0 0 0 名を対象に実施された。 その結果を見てみると、1 9 5 6 年には存置が 6 5. 0 %、廃止が 1 8. 0 %、 1 9 6 7 年は存置 7 0. 5 %・廃止 1 6. 0 %、 1 9 7 5 年は存置 5 6. 9 %・廃止 2 0. 7 %、1 9 8 0 年は存置 6 2 . 3 %・廃止 1 4. 3 %、1 9 8 9 年は存置 6 6. 5 %・廃止 1 5 . 7 %という結果であった1。存置は常 に 5 0 %を上回り、一方廃止は多くても 2 0 %という結果である。総理府による世論調査の 結果としては、世論は存置である、ということになるわけだが、ここで問題なのは、この 結果を根拠に政府が死刑存置の立場をとることが妥当であるか、ということである。政府 が、いわゆる<死刑廃止条約>を批准しない理由として、世論が死刑廃止に消極的である ことを理由に挙げたことから、政府が存置の立場をとる根拠を世論においていることが分 かる。 世論に左右されるべきかどうかを考える前に、世論調査自体の問題点が指摘されているこ とにも留意しなくてはならない。たとえば、 1 9 6 7 年の場合、項目としては、 「人を殺した 者」 「内乱の首謀者」 「人のいる建物に火をつけた者」などがあり、以上に対する意見の選 択肢としては、 「死刑にすることができるようにしておいたほうがよい」「死刑にできない ようにしておいたほうがよい」 「一概に言えない、わからない」などがある。その後多少の 改善はなされたものの、やはり死刑についての情報をほとんど伝えていないことが指摘さ れる。死刑に関するすべての事柄を十分に理解させた上でアンケートをとらなければ正し い解答は望めない。たとえば、 「万一にも無実の者が処刑されるかもしれない可能性があっ ても仕方がないから、殺人を犯したとされる者には、死刑を残しておいたほうがよいと思 いますか2」などであればよいであろう。世論を形成する国民は、専門家ではないため、死 刑についての知識がほとんどないと考えられる。当局は、死刑判決後の死刑囚たちの様子 平川宗信「死刑の存廃は世論で決まる問題か」佐伯千仭ほか『死刑廃止を求める』57 頁(日本評論社、 初版、19 9 4 ) 2 団藤重光『死刑廃止論』13 頁(有斐閣、第五版、19 9 7 ) 。 1 65 さえも隠そうとするうえ、執行の情報においても、執行後、執行があったことを発表する のみである。 要するに国民が死刑について情報を得るとしたら、死刑の判決が下った時と、 事件を忘れたころ、執行があったと報道された時のみである。死刑がどんなものであるの かなどとは、日常囲まれている情報からは知ることは通常はないのである。さらに、国民 が犯罪に対して持っているイメージというのは、マスコミによる多大な影響を受けている ことが考えられる。つまり死刑について、非常に少ない、また非常に偏った情報の受け取 り方をしているのである。このような状況のもと、質問をする際に十分な情報を与えない ような世論調査をして、 「世論は死刑存置の立場をとる」と結論づけることが果たして正し いのであろうか。 次に、死刑を存置すべきか廃止すべきか、という問題を世論によって決めるべきなのかど うかを検討したい。まず、存置論者の意見からみてみることにする。 「刑事司法は国民の私 的報復行為を否定して、国家がこれを管理することを起源としたものである。法律専門家 がその理念のみに走って、国民感情から遊離する量刑作業をするとしたら、それは刑事司 法の本質に反する。一般国民の量刑評価は漠然とした印象以上のものではありえないかも しれないが、それが、国民の法意識・法感情を源泉とし、その枠内にとまっているのであ り、それでこそ実務の中に生きうるのである3」「国民の法的信念は、今のところ、死刑廃 止論者の手によるものを含め、何回アンケートを試みても死刑存置に傾いていることが示 されている。このような状況のもとでただちに死刑廃止に踏み切ることは、まさに民主的 でない。死刑廃止論者は、憲法改正などと異なり、死刑についてだけ国民の世論を無視す る傾向にあるが、それは国民を衆愚とみるものであって危険きわまりない。死刑について だけ国民が衆愚となるわけではないから、それは議会主義、民主主義全体の否定に通ずる ものである4。」この指摘を、すべてのケースにおいて否定することはできない。しかし、 死刑の問題に限っては同調することはできない。ここでは政治の実際問題として、死刑存 置を世論で決定してよいのかどうかについて論じているので、その範囲で述べることにす る。まず、考える際には、国民が死刑に対して正しい情報を得ていない、得ることができ ない、ということを前提に置かなければならない。廃止論者の言葉に次のようなものがあ る。 「民主主義と世論調査とを混同してはいけません。 民主主義は世論に追従することでは ありません。市民の意思を尊重することです。国会議員達は、自分達の政治的見解をはっ きりと打ち出し、選出されたうえで突き進むことが必要です。逆に自分の政治的見解を世 論に追従させるのは、デモクラシーではなくてデマゴジーです5。」すでに述べたように、 我が国では死刑の実態についての情報が極端に少なく、それが世論に影響を及ぼしている。 「当局が死刑廃止に踏み切らない理由として世論を持ち出すのは、知る機会を持ったこと のない大多数の人たちを巻き込むことによって、知っている人たちからの批判をかわした いという気持ちからである」という批判6さえされる。正しく選ばれた政治家たちが世の中 に正しい情報を十分に提供したうえで、世論を指導して正しい方向に持っていかなければ ならないし、場合によっては差しあたりの世論に反してさえも正しい政策を実行すること こそが大切である。つまりは「数」ではなく、根拠の「正当性」を尊重すべきなのである。 以上、世論について述べてきたわけだが、やはり死刑を廃止とするか、存置とするかは、 世論によって決せられるべきことではないように思う。つまり、世論とは別に、死刑の廃 止、存置の「正当性」について論じなければならないのである。したがって、以下、その 土本武司「実証的死刑論」研修第 55 2 号 3 頁以下(19 9 4 )。 西原春夫「死刑制度を考える」法学教室 38 号 8 7 頁以下(1 9 8 3 ) 。 5 バダンデールほか「死刑の廃止の流れ。どう受け止める日本」朝日新聞朝刊 19 9 2 年 [バダンデール発言] 。 6 団藤・前掲注(1) 4 2 頁。 3 4 66 3 月 16 日付 17 面 他個々の論点について、死刑の正当性について考えていくことにする。 3.死刑制度の犯罪抑止力 まずはじめに、 死刑の犯罪抑止力について考えていくことにする。 専門家でない、一般の国民にはやはり、死刑制度があるからこそ人は犯罪を思いとどまる ことができるものであると信じている部分があるのではないか。死刑について論じる際、 刑罰について論じるわけであるから、犯罪抑止力があるかどうかは重要な問題であるし、 また、死刑について十分な情報を得ることのできない人たちに訴えかけるためには、この 抑止力の問題は避けられないものであろう。 まず、犯罪抑止力とは何か。これには二つの種類がある。一般予防効果と特別抑止効果で ある。前者は犯罪者当人以外の一般人の犯罪を防止する効果を指し、後者は、犯罪者当人 が再犯に陥るのを防ぐ効果を指す。特別予防は、死刑によって当人は処刑されてしまうの だから、死刑の犯罪抑止力を考える際には必要ない。ここで扱う抑止力としては、もっぱ ら一般予防効果だけが問題となる。ここで問題なのは果たして死刑に一般予防効果がある のかどうかということである。これについてはさまざまな実証研究がなされている。 しかしそれらを見てみると、肯定的結論と共に、否定的結論が出ているし、また分析技法 や研究方法7に関わる問題点が存在することも指摘されている。またその他にも、無期拘禁 刑と比較した時の死刑の限界抑止力効果については、直接的証拠が示されていないなどの 問題点がある8。つまり結論としては死刑の犯罪抑止効果について科学的に確たる証拠は今 のところないのである。この点については、廃止論者、存置論者ともに認めるところであ る。 以上述べてきた一般予防とは、死刑を法律に規定しておくこと自体の威嚇によるものであ る。しかしもう一つ、執行による威嚇によるものも考えられよう。昔はこちらの効果を重 要視していた。為政者は、いかにすれば民衆に少しでも余計の恐怖感を植え付けることが できるかに苦心した位であったという。ギロチン、磔刑、曝し首などかつてさまざまな残 酷な刑罰があった。 しかし現在においては野蛮なものはなくなり、反対に、死刑をいかに 苦痛の少ない人道的なものにするかということで、ガス刑、電気椅子、注射による死刑な ど、さまざまな工夫がされている。アメリカでは、執行の様子を見ることができる場合が あるが、日本においては、執行のそのものが公開されていないばかりか、死刑執行の様子 も一般には知らされてない。極秘にされているといってもよいくらいである。つまり日本 においては執行による威嚇はないといえよう。 また、このように執行について極秘にする理由について、 「受刑者の名誉などのためとい うよりも、それによって公序良俗を害することになるからであろう」という指摘するもの9 もある。実際、 それをマスコミで生々しく報道すれば社会にショックを与えるであろうし、 社会に暴力的な、悪い風潮を誘発助長するものになるであろう。抑止の問題から多少発展 してしまうが、「このように公序良俗を害することにもなりかねないような実質をもった ものを、国家が法律制度として置いておくことは大きな矛盾だというべきではないか10」 という指摘には強く同調するところである。 分析方法、研究方法については以下の論文に詳しく示されている。葛野尋之「科学的証明がない死刑の 犯罪抑止効果」佐伯千仭ほか『死刑廃止を求める』47 頁(日本評論社、初版、19 9 4 ) 。 8 所一彦「犯罪の抑止と死刑」法律時報 69 巻 1 0 号 8 頁以下( 19 9 7 ) 。 9 団藤・前掲注(1) 1 9 3 頁。 10 団藤・前掲注(1) 1 9 3 頁。 7 67 4.死刑制度と誤判 世論調査などで死刑について考える際、真先に出てくる問題で、誤判の問題を挙げる人は 一体どれくらいいるだろうか。おそらく、ほとんどいないであろう。何度も繰り返してい るように死刑についての情報は国民に十分伝わっていないのであるから、そのような結果 になったとしても不思議なことではないのである。誤判の問題というのは、別に死刑に限 った問題ではなく、その他すべての裁判において問題となるものである。「判決は絶対であ る」 「真実を見つけ出すのが裁判官の仕事である」というのが国民の法意識ではないだろう か。そこでまず始めに、誤判がそもそも存在するのかどうか、考えていく必要がある。 日本において、誤判があった死刑事件で有名なものといえば、免田事件、財田川事件、 松山事件、島田事件の四件が挙げられよう。これらは死刑が確定した後、再審によって無 罪が証明されたものである。再審というのは窓口が非常に狭く、請求が認められることは 非常に困難であった。その再審の道を開いたとされるのが「白鳥決定」である。これは昭 和 5 0 年 5 月 2 0 日最高裁判所小法廷で出されたもの11である。再審事由を従来の基準より も緩やかにしたのがこの決定である。この判決がその後の実務に及ぼした影響は大きく、 再審の門戸が広げられたために、従来の実務慣行では救済はされなかったであろう事件が 次々に再審無罪になって救済されることとなったのである。先に挙げた四件がその例であ る。 「白鳥決定」の主旨は以下のとおりである。 「刑事訴訟法四三五条六号にいう『無罪を 言い渡すべき明らかな証拠』とは、確定判決後における事実認定につき合理的な疑いを抱 かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいう。右の明らかな証拠であるかどう かは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、 はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかとい う観点から、当の証拠と他の全証拠とを、総合的に評価して判断すべきである。この判断 に際しても、再審開始のためには、確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜ しめれば足りるという意味において『疑わしい時は被告人の利益に』という刑事裁判にお ける鉄則が適用される」 。さらにこの「白鳥決定」の翌年、財田川事件の抗告事件について 「白鳥決定」を補充するような判例12が出た。判旨の要点は以下のとおりである。「この原 則を具体的に適用するに当たっては、確定判決が認定した犯罪事実の不存在が確実である ことの心証を得ることを必要とするものではなく、確定判決における事実認定の正当性に ついての疑いが合理的な理由に基づくものであることを必要とし、かつ、これをもって足 りると解すべきである。そのことは、単なる思考上の推理による可能性とどまることをも って足れるとするものでもなく、また、再審請求を受けた裁判所が、特段の事情もないの に、みだりに判決裁判所の心証形成に介入することを是とするものでもないことは勿論で ある」 。以上、 「白鳥決定」についてみてきたわけだが、先に述べた四件はこの判決があっ たからこそ、再審請求が認められ、無罪となった。言い換えれば、それ以前、数々の事件 が有罪のまま処刑されていたと予想される、ということになるのである。この四件は戦後 のやや特殊な時代に起こったものであり、当時に比べれば、警察や検察の捜査方法など、 今はずっと良くなったかもしれない。しかし、絶対に誤判がなくなるとは言いきれないの であるなぜなら裁判官というのは人間であり、絶対に誤りを犯さないとは言えないのであ る。 参考までに日本以外の国について、ここではイギリスの例を挙げておくことにする。イギ リスでは、死刑を(一時的に試験的に)廃止する法案が 1 9 3 0 年、1 9 4 8 年、1 9 5 5 年、1 9 5 6 年というように何度も出たがすべて否決されるという結果であった。しかし、とうとう 1 9 6 9 年に「殺人(死刑廃止)法( M u r d e r [ A b oli tio n of D e a t h P e n a l t y ] A c t ) 」が両議院 11 12 最決昭和 50 年 最決昭和 51 年 5 月 2 0 日 刑集 29 巻 5 号 1 7 7 頁。 月 1 2 日第一小法廷決定・刑集 30 巻 10 68 9 号 16 7 3 頁。 の決議によって恒久的なものにされたのである。これには次のような背景があったという。 1 9 5 6 年の法案が議会に提出されたとき、 無実のものが処刑されてしまうリスクの有無の問 題について詳しい討論がなされた。そのとき、ホーム・シークレタリー(内相)のグィリ ム・ロイド・ジョージ氏が、自信たっぷりな態度で「近時においては、無実のものが絞首 刑を執行されたというようなケースがあるとは、自分は信じません」という答弁をしたた めに法案は葬られたという。しかし、それから 1 0 年近くたって、以前 1 9 5 0 年に処刑され ていたティモシー。エヴァンスという男が、その後真犯人が現れてじつは無罪であること が判明して、死後恩赦が与えられたという事件が起こった。このことで事態は一変して、 1 9 6 5 年の法案が一気に通過したという。 以上、過去において誤判が存在したこと、また、この先もそれを完全に防ぐことが不可能 であることを述べてきたわけだが、このことはすべての裁判においてありうる話である。 しかし、今論じなければならないのは、死刑廃止の根拠になりうるか、ということである。 この点については、次のような指摘がある。「もし誤った裁判によって犯人でないものを犯 人と誤認し、 その生命を奪ったとすれば、かげないの無い生命をとり戻すことはできない。 それは自明のことである。 けれども誤判の害悪がその受刑者にとって回復し得ないことは、 死刑だけに限られたことではない。例えば 1 0 年の懲役であっても、犯罪人として拘禁生 活を送らされたことにより失われた人生の損傷は終生回復しうるものではない。その受刑 を余儀なくされたものは、それにより人生行路は激変の厄に遇うのが当然で、再び回復し えないことは、生命剥奪の場合と同様である。死刑より刑が軽いだけ、その者の生物学的 生命が保持されているという違いはあるが、誤判のもとに過ぎ去ってしまった人生が回復 できるものでないことは、死刑の場合と同様である。要するに、誤判の問題は死刑の存廃 とは別次元のことである13。 」これについては、以下の反論14がある。例えば死刑と懲役刑 を比べてみると、誤判によって失われるものは、死刑の場合「生命」であり、懲役刑にお いては「時間」 、 「青春」である。どちらも取り返しのつかない性質のものである。しかし、 両者の間には決定的な違いがあるのである。後者の利益というのは、いくら重要でしかも 人格的な利益であろうとも、人間が自分の持ち物として持っている利益であるが、一方、 生命はすべての利益の帰属する主体の存在そのものである。死刑はすべての利益の帰属主 体そのものの存在を滅却するものである。この点において、同じ取り返しがつかないとい っても、本質的にまったく違うのである。また存置論者のなかには、死刑の存廃の議論に は、誤判の問題は括弧の中に入れて、およそ「人を殺したもの」に対して死刑を科する道 を残しておくべきかどうか、という純粋な形で問いと答えを出さなければ議論に夾雑物が 入ってくるという意見を持つ人もいる。この点についてはこれは制度というものを忘れた 議論であるとの指摘ができよう。法律の議論については常に制度としての法を考えなけれ ばならない。死刑が制度として存在している以上、無実のものが処刑される可能性という のは拭い去ることはできないのである。 以上、死刑の正当性についての個別的な論点を二つ挙げて論じてきたわけだが、この二 つの問題、特に誤判の問題というのは重要なものではあるが、これのみを根拠に廃止を訴 えるのは十分ではないかもしれない。以下では刑事政策や制度の問題からのみではなく、 国家の手によって行われる「殺人」が許されるべきものかどうかという根本的な観点から も、死刑制度を見ていくことにする。 13 14 植松正『刑法の話題』24 6 頁(信山社、初版、19 9 5 ) 。 団藤・前掲注(1) 1 4 5 頁。 69 5 .生命の尊重と死刑 死刑の議論の原点に戻って、まず考えなければならないことは、いかに人権、生命が尊 いものであるかということであろう。この点について、まず人権とはいかなるものである のか見ていきたい。 1 9 4 8 年 1 2 月 1 0 日、国連総会において<世界人権宣言>が採択された。この宣言の第 3 条によれば、 「全て人間は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とされる。 「生命・・・・・・に対する権利」はすなわち「生命権」である。この宣言は格別な法的効果を もつものではなく、むしろ思想的・啓蒙的な効果を狙ったものといえる。19 6 6 年 1 2 月 1 6 日、国連総会はさらに一歩進めて、法的効果をもつれっきとした条約として「市民的及び 政治的権利に関する国際規約」を採択した。これは、<自由権規約>ともよばれる。日本 においても、 1 9 7 8 年に署名し、翌年批准した15ことにより、重要な国内法となっている。 その内容を見てみると、6条に「すべて人間は、生命に対する固有の権利を有する」 「この 権利は法律によって保護される。何人も恣意的にその生命を奪われない」と、されている。 この国際規約は死刑廃止とまでは言っていないが、死刑廃止を強く望んでいることは明白 である。そこで、本来の目的を達成するために、 19 8 9 年 1 2 月 1 5 日、国連総会がこの< 自由権規約>の「第二選択議定書」として採択したのがいわゆる<死刑廃止条約16>で、 1 9 9 1 年 7 月 1 日に発行している。残念ながら日本は署名・批准していない。こうした各 人の生命権を含む人権は、 <自由権規約>の前文にも明示されているように、 「人間の固有 の尊厳に由来する」ものである。そして、 「人間の尊厳」から「生命の尊重」を導き出すこ とができるのである。 また、国内の判例にも目を向けてみると、死刑の合憲性に関するリ−ディング・ケース とされる昭和 2 3 年 3 月 1 2 日大法廷判決17には次のようにある。 「生命は尊貴である。一 人の生命は、全地球よりも重い。 」これを文字通りに解釈すれば死刑は当然に廃止されるべ きものである。しかし、この判決は結論的に、13条と31条を理由に死刑を合憲とした。 この結論には矛盾を感じずにはいられない。結論はともかく、生命は絶対的なものとして いるところに注目したい。 「生命の尊重」 、これこそが廃止論の原点である。前章で誤判の 問題について、たった一人であっても無実のものが処刑される可能性があってはならない と強調したのも、出発点はここにあるのである。 人の生命が尊重すべきものであり、むやみに奪うものではないという点について、反論 を試みる人はおそらくいないであろう。死刑というのはその尊い生命を奪うものである。 それにもかかわらず、 肯定する理由としては、 「他人の命を奪ったのだから命を奪われて当 然だ」という考えが根底にあるからであろう。死刑存置論の立場からは、一般的に次のよ うに論じられているようである。他人の生命を奪いながら、殺した本人の生命だけを尊重 するというのでは、犯人の生命だけを尊重し、被害者の生命を無視する店で一貫性が欠け るばかりでなく、このようなことは被害者や遺族はもとより、一般の応報感情が許さない というのである。この論に対しては反論を試みる場合、まず次のことが指摘できよう。犯 人を死刑にしないのは、もちろん生命の尊重を重視するからであるが、しかし、そのこと が、被害者の生命を無視することにつながると考えるのは論が飛躍しすぎてはいないか、 という指摘である。そしてもう一つ、応報感情の面からも反論する必要があるが、ここで は、応報感情と死刑との関係ついて、独立して論じていくことにする。 15 昭和 5 4 年条約 7 号。 16 S e c o n d O p ti o n al P r o t o c ol To I n t e r n a ti o n al C o v e n a n t O n C i vil A n d P olitic al Ri g h t s A im i n g A t T h e A b o litio n O f T h e D e a t h P e n a lt y (訳)死刑の廃止を目的とする「市民的及び政治的権利に関する国際規 約」の第二選択議定書、団藤・前掲注(1) 3 2 3 頁。 17 最大判昭和 22 年 3 月 1 2 日 刑集 2 巻 3 号 1 9 1 頁。 70 6 .応報観念と死刑 応報観念というのは、昔からの素朴な民衆感情で、「目には目を、歯には歯を」といった 考えは旧約聖書やコーランに出てくる。また仏教においても因果応報といった観念がある。 このような「目には目を、歯には歯を」という法を「タリオの法」または「同害報復の法」 という。このような古代の人たちの正義感情は、現代人にも通じるところである。応報観 念は現代の法や裁判の上でも軽視することのできない重要な現代的意味をもつ。つまり、 刑法の大原則である、罪刑法定主義の一要素、刑罰が重くなりすぎないようにするという 罪刑の均衡は、この応報観念が基礎となっているのである。 このようなタリオの法を貫徹すると、やはり人を殺したものは命を奪われて当然だ、と いう結果になる。しかし、そもそもタリオの法は刑法の考えに沿うものなのであろうか。 民事の損害賠償であったら被害額を賠償させる、つまり被害額と賠償額をつりあうように するものである。 しかし刑事裁判においては、例えば10万円相当の物を盗んだとしても、 10万円の罰金を支払ったり、盗品を返しさえすればよいというものでもない。現行法で も、窃盗罪に罰金刑は存在しないし、また、起訴猶予、執行猶予もあるのである。つまり 現行法はタリオの法を基礎にしているわけではないのである。民事では、個人対個人の関 係で、誰かの行為によってできた凸凹を地ならしする正義、平均的正義が支配をする。一 方刑事では、国家の刑罰権の問題であるから国家対個人の関係で、犯罪に対して全体的見 地から適正な処置をすることを考えるところの配分的正義である。罪刑の均衡も、民事で の均衡と刑事での均衡は違うものなのである。つまり、殺人罪に対して、死刑が当然に唯 一の刑罰であるという結果にはならないのである。 タリオの法が刑法において適切でないとしても、古代からの純粋な人間の感情である応 報観念は、やはり軽視してはならない。この点を考えるに際し、民事的ではなく刑事的に 考えるよう注意しなければならない。 ここでは廃止論者の言葉を借りることにする。「われ われは、ここで二つの平面を区別して考えなければなりません。それは、犯罪の行われる 事実の面と刑罰を科する規範の面との区別です。理論的に厳密にいうと、非常に難しい議 論になりますが、ここではごく常識的な意味でいうのです。国家ないし法が殺人犯人を死 刑にするというのは、規範面のことです。犯罪の事実面は不合理の世界、不正の世界です が、刑罰を科するという規範面は合理性の世界、正の世界でなくてはなりません。不正に 対するに正をもってする刑罰でなければなりません。犯人が被害者を殺すのは不合理の世 界であって、これと同じレベルで国が死刑によって犯人を殺すことを考えることは許され ません。もし同じレベルで考えるならば、それは法が個人対個人の間の犯罪のレベルに自 己を低める、貶めることになります。犯人が人を殺したのだから法はその犯人を殺す、死 刑にするのだ、という議論は、法を堕落させる議論ではないでしょうか。殺人犯人を死刑 にするのには、単に人を殺したからという以上の十分な合理的根拠がなければならないは ずであります。果たしてどれだけの根拠があるというのでしょうか。18」その根拠とされ るものには、まず政策面として死刑の犯罪を予防する効果があるということが挙げられる が、これについては、すでに 3 章で述べたとおりである。ここでは、存置論が根拠とする ものとして、正義論についても十分検討されなければならない。ここで被害者の問題につ いて考えてみる。被害者の問題は、死刑廃止を訴える者にとっても重要なものであると思 う。被害者のケアをせずに一方的に廃止を唱えても、それは説得力に欠けるであろう。そ こで詳しく考察していくことにする。 「被害者は応報感情を持つものだ」と一般の人は考える傾向にあるように思う。もし肉 親が殺されたら、 私もおそらく犯人に対して応報感情を抱くであろう。 上に述べたように、 応報感情は古代から純粋な人間の感情なのである。しかし、一般的にそう考えるだろうと 18 団藤・前掲注(1) 1 8 7 頁。 71 いう推測をもとに、つまり、被害者は応報感情を持つのだという推測で、死刑存置を唱え るのは果たして妥当であるのか。実際問題として、果たして全ての人が等しく応報感情を 持っているのであろうか。いくつかの例を挙げてみる。まず、存置論者の論文19が引用す る例を見てみる。9歳の息子が身代金目的で誘拐され殺害された広島の森田さんという方 の発言――「犯人が処刑されても確かに殺された息子が生き返るわけではない。しかし、 何年か経って犯人か出所して、平然と生きていることを知ったら平静ではいられなく、言 いようのない虚しいうつろな気持ちを持つと思う。 」「自分の子供を殺されても犯人を死刑 にしないでくれと主張しているアメリカ人がいることは知っている。人の親として、例外 中の例外であるその人のような心境になれるように自分にも修養する努力をせよというの か。そのアメリカ人が応報感情の昇華といわれるような心境に変わったとしても、その親 の心境の変化は殺された子供自身の思いとどういう関係にあるのか。子供が『わたしを殺 した犯人を許してくれてありがとう』と言うとはとうてい思えない。わたしがもし死刑廃 止に賛成し、その気持ちの変化が息子に聞こえ『じゃあお父さんあいつを許すのか』と責 められたときに、わたしは実際理由がつかない。 」生の被害者の遺族の声である。この方の 気持ちは、本人にしかわからないものではあるが、このような気持ちを持つことは当然の ことであると思う。こういう声を議論の外において死刑廃止を唱えても説得力などない。 被害者問題は重要な問題である。それではほかの遺族の例20を見てみよう。19歳の長男 を強盗に殺されたドロセア・モアフィールド夫人の例である。彼女の息子は大学生で近く のスーパーでアルバイトをしていて強盗にあったのだが、犯人は、カウンターにいる店員 だけでなく、顔を見られたとたというので店内にいる人たち全員を殺したという、きわめ て残虐な事件で、彼女は、長い間、犯人をどんな酷い目にあわせてでも殺してやりたいと 思って夜も眠れないくらいの年月を過ごしたという。が、そのうちにそんなことで果たし て本当に自分の気持ちが救われるのか、と翻然と悟るようになり、今度は熱心な死刑廃止 論者になって世界中を講演してまわるようになったという。この彼女の例は、応報観念が 昇華された例である。前述の森田さんの言葉にあるように、けっして被害者の遺族に対し て、この夫人のようになれというつもりは、まったくない。ここでこの二つの例を挙げた のは、すべての被害者遺族が応報観念を持っているという前提そのものが、疑うべきもの であるということを指摘するためである。この点については被害者調査も行われており、 それによれば、確かに、応報的感情は比較的多いかもしれないが、被害者感情というのは 事件ごとによってきわめて複雑でかつ多種多様であることが明らかとなっているのである 21。つまり先に述べたような存置論はその理由そのものが根拠のないものとなるのである。 もちろん、被害者の立場を考えるためには、被害者感情を裁判の上でも考慮しなければな らないことは、裁判が正義を実現するためのものだという見地から当然のことである。し かし、生の被害者の感情をそのまま裁判に反映させるのは決して望ましいことではない。 刑事裁判においては、あくまで国家対個人のものである。被害者対被告人という裁判は刑 事のものではない。被害者の復讐感情は、その人の性格、心情などによって、千差万別で ある。時間ととも気持ちが変化するものである。そういう個人差が量刑のうえにそのまま 出てしまうことは、裁判を恣意的なものにしてしまうことになる。死刑を廃止することが 被害者感情を無視することになるとは決して思わない。死刑が廃止された際には、無期刑 が極刑になるわけだが、無期刑であれ、極刑になったならば被害者の復讐的な気持ちもあ る程度は満足させられるのではないか。もちろん満足するかも千差万別ではあるが。とに かく被害者の応報感情を理由に死刑存置を唱えるのは、以上の理由により妥当ではないと 19 20 21 土本・前掲注(2) 3 頁。 団藤重光「死刑廃止論の出発点」佐伯千仭ほか『死刑廃止を求める』11 頁(日本評論社、初版、1 9 9 4 )。 宮澤浩一ほか『犯罪被害者の研究』28 4 頁(成分堂、初版、19 9 6 ) 。 72 の結論になる。 それでは、被害者、被害者の遺族は心のケアはどうするのか。まず考えられることは、 国による補償・補助である。また、もっと精神的な面のケアも必要であろう。そのために は、民間の力、ボランティアの人たちの力が必要であろう。アメリカにおいては、このよ うな民間のボランティアが活発に活動をしている。またその運営資金は、国であったり、 州であったりするようである。日本においても、近年被害者の問題が注目され始め、いく つかのボランティア団体が誕生しているが、まだアメリカのようには浸透していないのが 事実であるようである。日本において芽生え始めた被害者救済のこの動きには、まことに 期待するところである。 以上、5.6章では、死刑廃止を述べる根底にあるものについて論じた。ここでは、4章 で挙げた誤判の可能性というものを一切考慮せずに述べてきた。やはり、死刑についての イメージと「被害者は当然応報観念をもっている」という意識をもった一般の人たちにと っては、5.6章で述べてきたことは、消化しにくいものであるかもしれない。学会におい ても5.6章で述べた点について、根本的に考えが分かれるため、死刑の論争も水掛け論に 終わるといった状態になっているようである。そこで決定打として、やはり誤判の問題は 忘れてはならないであろう。誤判の可能性は死刑廃止を訴える第一の理由ではありえない が、無実のものが殺される可能性がある限り、死刑は廃止されるべきものなのである。 しかし現在、死刑制度は残りつづけ、機能しつづけている。一刻も早く死刑は廃止すべ きであるが、水掛け論の状態では、また政府が世論を理由に存置の立場をとっている状態 では、なかなか廃止へと進まない。そこで、妥協策も必要であろう。死刑が廃止された際 に極刑が無期懲役では死刑と比べ軽すぎないか、という意見も考慮するために、代替制に ついて考えてみることにする。 7.死刑の代替制 死刑の代替制となるようなものには、どの様なものが考えられるか。次の三つが挙げら れるであろう。まず、絶対的終身刑である。これは仮釈放を認めない無期刑で現在の日本 には存在しない。次に相対的無期刑である。これは仮釈放を認める無期刑であり、現在、 死刑の次に重い刑として規定されている。そして最後にもう一つ、不定期刑が挙げられよ う。相対的無期刑だが、先ほども述べたように、これでは軽すぎるとの声があがっている。 ここでは妥協策を考えるので、これについては省くことにする。それでは不定期刑はどう か。これは、刑種・刑量を定めないという点で、刑法の絶対的原則である、罪刑法定主義 に反する。よって採用が難しい。そこで、残る最後の可能性である、絶対的終身刑につい て考えていくことにする。絶対的終身刑は、生涯二度と外へは出られないのであるから、 ある意味では死刑よりも残酷であるかもしれない。もし死刑が廃止されて、終身刑がその 代替制とされるならば軽すぎるとの声ももはやあがらなくなるであろう。しかし、やはり 二度と外に出られないとなれば、受刑者も自暴自棄になってしまう恐れがある。また、現 在の無期刑であれば、仮釈放を前提としているため現場の職員も「教育」を基本理念とし、 受刑者に対し接しているようであるが、終身刑の場合は、一体どうやって彼らに接すれば よいというのか。 冒頭で述べたとおり、私は今まで漠然と死刑は廃止されるべきであると思っていた訳だ が、今思うと、それは、人間の生命は尊重されるべきであると思っていたこと、また人間 の人格形成は無限であると信じていたことが基礎になっていたように思う。その基礎は今 現在も変わるところはない。そして、代替制を考える際にも、後者の人格形成の点が重要 になってくると思うのである。つまり教育刑論によって行われるべきだと考える。教育刑 論とはいっても、 「行為者の社会的危険性を基礎にした教育刑論」ではなく、 「受刑者の主 73 体性を認めるところの教育刑論22」である。この考えによれば、「主体性を認めるため、国 家権力によって受刑者の性格――社会的危険性――矯め直すというのではなく、本人を助 けて自発的な人格形成によって社会に復帰できるように仕向けてやる」 ことになる。「この 立場に立つ限り、精神病などによる殺人者などは、精神医学的な処置の対象になるだけで 刑罰の対象にはならず、また正常人であれば、よほど性格の偏った人でも、人格形成の可 能性は無限であると信じたいのである。 」死刑囚に関する本が何冊か出ている23が、それを 読んでいてもやはり人格形成の可能性を信じずにはいられないのである。 以上の様な考えに基づくと、やはり絶対的終身刑は認めることはできないのである。そ こで、二つの方法が考えられるのである。まず一つは、死刑廃止後もとくに終身刑など新 たに設けることはしないが、無期刑の現行法の運用を変えることで解決する方法である。 死刑が廃止された際に問題となるのは、無期刑では比較的早期に、やや安易に仮釈放が認 められているという点である。例えば、判決の中で当の事件について仮釈放についての希 望的な注文をつけるというようなことは、実務上の事例にも現れている24。またもう一つ の方法として考えられるのは、終身刑は設けるが恩赦による無期刑への減刑の可能性を認 めるという方法である。そこで恩赦について少し詳しく見ていくことにする。憲法を見て みると、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定することを内閣の職務とし(7 3条) 、それらを承認することを天皇の国事行為としている(7条6号)。恩赦は二種類あ り、一般恩赦と個別恩赦に分けられる。前者は、大赦、減刑、復権を指し、制令で大赦は 罪の種類を、減刑は罪もしくは刑の種類を、復権は要件を定めて行われるものである。ま た後者は特赦、減刑、刑の執行の免除、復権を指し、特赦は有罪の言い渡しを受けた特定 の者に、減刑及び刑の執行の免除は刑の言い渡しを受けた特定の者に、復権は有罪言い渡 しによって資格を喪失またはまたは停止された特定の者に対して行われる。恩赦は、啓蒙 思想では君主の恣意による司法権の侵害というように位置づけられていたが、現在ではそ の意味がずっと積極的な刑事政策的なものとして考えられるようになってきている。また、 <自由権規約>の6条にも、恩赦が登場する。その6条は、すべての人間の「生命の対す る固有の権利」を保障し(1項) 、 「死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦または減刑を 求める権利を有する。死刑に対する大赦、特赦または減刑は、すべての場合に与えること ができる」(4項 )という規定を置いている。しかし、我が国においては、このような<自 由権規約>のもとにおける恩赦の制度の認識が一般世間ではきわめて乏しようであるし、 また当局もその運用を正面から考えていないように見うけられるとの指摘がなされている 25。 廃止後終身刑の制度を導入するに当たっては、同時に恩赦の運用が見直されない限り、 私は終身刑には反対である。逆を言えば、恩赦の運用が見直されすべての人に恩赦を受け る可能性を与えることができるのならば、終身刑を認めることも考えられなくはないので ある。 人格形成論の立場をとりながら、終身刑を認めることもやむ終えないとするのは少々矛 盾するかもしれない。実際そのような指摘がある26。しかし、なかなか死刑が廃止されな い今、このような手段をとってまでも、ただちに廃止すべきなのである。存置論者と廃止 論者の意見が交じり合わない限り、何の解決にもならない。前者の仮釈放の運用を見直す 団藤・前掲注(1) 3 0 2 頁。 例えば、中山義秀「少年死刑囚」 (19 9 6 年)玉井策郎「死と壁」 (19 5 3 年)。 24 広島地裁平成 6 年 9 月 3 0 日判決(判例集未登載) これは死刑の量刑を回避するための工夫であった 点でも注目される。 25 団藤・前掲注(1) 5 1 頁。 26 土本武司「存置論は廃止論にどこまで歩み寄れるか」年報、死刑廃止編集委員会編『死刑―存置と廃 止の出会い 年報・死刑廃止 97 』 5 2 頁(インパクト出版、19 9 7 )。 22 23 74 仮釈放にしろ、後者の恩赦の運用を最大限活用する終身刑にしろ、結果的には人格形成の 無限の可能性を否定しないような運用が必要であると主張している点で、決して矛盾して はいない。一つの立法的妥協点として終身刑を認めることも十分考えてよいのではないか。 8.最後に 死刑に関する様々な論文などを見てみてみても、大体どれも同じようなことを問題として 挙げ、また廃止論、存置論ともに、お互いの問題点を指摘しているのだが、どれも一方的 なもので終わっているように思う。つまりある論文について指摘がなされてもさらに、そ の指摘に対する反論がみあたらない。 「すれ違い論、水掛け論で終わっている」というよう な評価がなされているようだが、まさにそのとおりであると思った。やはり代替制のとこ ろで述べたように、妥協も必要なのではないだろうか。しかも、世論は常に存置で、政府 はそれを理由に廃止に踏み切ろうとしない。すでに論じたように確かに死刑を廃止するか どうかについては世論によって決められるべきものではない。しかし、ただちに廃止論が 過半数を超えなくとも、死刑について興味を持ち、死刑について正しい情報を得る人々が 増え、下からの動きが少しでも大きくなっていけば、それが、裁判所や法務省当局を動か し、支えていくことになるのではないであろうか。冒頭で述べたように、死刑について十 分な情報を得ることのなかった人々に訴えることをこの論文の一つの目的としてきたのも、 このような趣旨からである。今まで様々な論点について述べてきたわけだが、長い間培っ てきた考え、思想を根本的に変えることはなかなかできることではない。応報観念につい て述べた部分については特にそうであろう。しかし、この点についてただちに消化するこ とが困難であっても、忘れてはいけないのは、無実のものが死刑に処せられる可能性が常 に存在しているということである。この誤判の問題については何度も繰り返して強調して おきたい。死刑制度が存在する限り、この可能性というのは決して消えることはないので ある。無実のものが殺されることこそ、まさに不正義というべきではないだろうか。 75
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