神の子とされる特権 - church.ne.jp

2016/6/12
門戸聖書教会礼拝説教
ヨハネ 1:9-13
神の子とされる特権
1.親子の絆とは
今日は、花 の日・子どもの日です。キリスト教会 ではこの日を、子どものことを覚え、祈る時としてい
ます。メッセージでも、子どもについて、また、子育てについてなどをテーマに語らせていただいてお
ります。
少 し前 ですが、真 夜 中 にやっているドキュメンタリー番 組 で、特 別 養 子 縁 組 のことが取 り上 げられ
ておりました。 1 「特別養子縁組」と言いますのは、産みの親が何等かの事情で子どもを育てられな
い時に、養い親 がその子を自 分 の子 として育てるという制 度です。普 通 の養 子 の場 合、産みの親、
育ての親のそれぞれが戸籍 に記 されるのとは異 なって、育ての親との関 係だけが戸 籍に記されるこ
とになります。
そのドキュメンタリーに 56 歳の婦人が出ておられました。彼女 は年老いた両親を看取って、葬儀
を済 ませたところ、親 族 から驚 くべきことを聞 かされるわけです。「あんたは、ご両 親 の本 当 の子 ども
ではないんよ。もらい子 なんよ」と。「まさか!」と思 い、色 々聞 いてまわると、どうやら本 当 らしい。彼
女は足もとが崩れるような、ものすごいショックを受けるのですね。
そこからこの婦 人 の「親探 し」の旅 が始 まる。高齢 の親 戚 を訪 ねたり、産婦 人 科 を訪 ねたり。でも、
何せ昔のことなので分からない。でも、おぼろげながら分かってきたことは、当時はまだ「特別養子縁
組」などという制度もなかったけれども(1987 年 民法改正)、産婦人科の医師などが、子どもを育て
られない親 が生 んだ子を、内 緒 で、子どもを求めても与えられない方に紹介 していたことがあったと
いうことでした。育ての親には感謝しているけれども、でも、彼女は自分が望まれて生まれてきたので
はなかったのだということに深く傷つくのです。
でも、その番 組では別 のケースも紹 介されていました。そこには小 さな男の子 がでていたのですが、
その子も実は、両親の実の子ではない。子どもを育てられないお母さんから、特別養子縁組で、この
新 しい両 親 のもとに来 た子 どもでした。でも、この両 親 は、男 の子 を紹 介してくれた団 体 の方 針もあ
って、その子に、産みのお母さんのこともちゃんと伝えていたのです。「Aくんは、Bちゃんのおなかか
ら生まれてきて、それでお父さんとお母さんのところに来たのよ。Bちゃんにもありがとうって言おうね」。
そうして、実際に、産みの親に家 に来てもらって、面会の時を持っておられました。それはもう、涙涙
の時なんですね。A君もまだ 3 か、4 つくらいだと思うのですが、産みの親にも抱きしめられて、その
お母さんにもしっかり、「ぼくをうんでくれてありがとう」と伝えていました。小さな子でも、産みの親と育
ての親の関係をしっかり受け止めて、感謝できるということに、本当に感動させられました。
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NNNドキュメント 「マザーズ 産 みの親 は誰 ですか?」(2016 年 4 月 24 日 )
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本 当 に、親 子 関 係 って何 なんでしょう。血 のつながり-それももちろん、大 切 なことでしょう。でも、
それが全てではない。というよりも、血のつながりよりも、もっと大切なものがある。
キリスト教 会関 連でも、特別養 子縁組 をしている「ちいさないのちを守る会」という団体があります。
そのホームページに、こんな小学生 5 年生の作文が載っておりました。
「家族
私は弟と血がつながっていません。私が 5 歳の時、ちいさないのちを守る会の辻岡先生に連れら
れて、弟がやってきたのです。『そんなのいやだ』と思う人もいるでしょう。ですが、周りの人は兄弟 が
いる中、一人っ子だった私は、弟が来るのがすごく嬉しかったのです。来たときに、とてもかわいかっ
た赤ちゃんが、もう来年 は小 学 生です。よくケンカもしますが、特 別 仲が悪いわけでもありません。ど
うしてだろうか。それは血がつながっていなくても、心がつながっているからではないでしょうか。血の
つながりよりも心の絆の方がつよいからではないでしょうか。心の絆によって、私と弟は本物の『きょう
だい』になれたのではないでしょうか。血 のつながりのある人 とはもちろん家 族 ・親 戚 です。ですが、
血ではなく、心のつながり、心の絆のある人とも家族となれたのです。心のつながった大切な家族で
す。」
2.神の子どもとされること
信仰を持ってクリスチャンになるということの豊かさを、聖書は色々な言葉で表しています。「救われ
る」「罪赦される」「和解する」等々。そういう中で、私が特別に好きな言葉は、「神の子どもとされる」と
いう表現です。『ヨハネの福音書』にもこうあります。
ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもと
される特権をお与えになった。
イエス・キリストを救い主として受け入れた人、イエス様を信じた人を、神様はご自身の子どもとして
くださる。そして、天の御国を受け継ぎ、永遠のいのちをお与えくださるとお約束してくださるのです。
しかし、聖 書の注 解 書などを調 べてみますと、この「神 の子 どもとされ る」という時 に使われる「子ど
も」という言葉は、自分の息子や娘を指して使う言葉ではないのですね。いわば「血のつながり」のな
い者を、養 子として迎えるような時 に使う言葉であると解 説されています。言い替えますと、「神の子
どもとされる特権」というのは、「神様の養子としていただく特権」ということになります。
私は、最 初、こういう解 説を読みました時 に、何 となくですけれども、ちょっと何かグレードが下がっ
たとでもいいましょうか。何か少しだけがっかりするような気持ちがありました。「ああ、実子じゃないん
だ。実 の子ではないんだ」と。「養 子 」にまつわるイメージが、そもそも日 本 ではそこまで良 くないのも
その原 因なのかもしれませんね。最初 にご紹 介した特 別養 子縁 組の制 度 も、中 絶を避けたり、子ど
もを願いながら与えられないご夫妻には素晴らしい制度だと思うのですけれども、日本ではなかなか
広まっていかないということがあります。私はそういうことはなかったのですが、友だちの中には、親か
ら怒られる時に、「そんなに言うことを聞かないなら、橋の下に捨てに行くよ!」と言われて、恐れおの
のいていた子もいました。「自分が親に可愛がられないのは、橋の下で拾われた子どもだからではな
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いか」。「捨て子」ということが、まだ、何となくリアルなこととして残っていた最後の時代だったように思
います。
だからでしょうか。「神 様の養子 」とされると言 われても、何か、自分はどうせ、おなさけで拾ってもら
った捨て子のような者なのではないのかというような、ひがんだ思いが心のどこかにひっかかっており
ました。
3.隣る人
けれども、神 様 は、そうではないと言 われるのですね。『イザヤ書 』にこのようなみことばがございま
す。
イザヤ 49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。【主】がご自分の民を
慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。
49:14 しかし、シオンは言った。「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
49:15 「女 が自 分 の乳 飲 み子 を忘 れようか。自 分 の胎 の子 をあわれまないだろうか。たとい、女た
ちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
シオンというのは、神 の民イスラエルのことです。イスラエルの民は苦 難 に遭っている。苦しみの中
にある。それゆえに、「主 は私 を見 捨てた。主は私 を忘れた」と、捨て子 のような絶 望を深 く感じてい
るのです。しかし、主は、たとえ女 が自 分 のお腹を痛 めて産んだ我 が子を忘 れ、あわれまなくなって
も、「このわたしはあなたを忘れない」と断言され、力づけられるのです。わたしはあなたがたをあわれ
むと。
私が最近読んで、心揺すぶられた本の一冊に、『隣る人』という本があります。 2
この本 は、埼 玉 県 にあります児 童 養 護 施 設 ・「光 の子 どもの家 」理 事 長 の菅 原 哲 男 先 生 と、設 立
当 初 からその施 設で働いておられる保 育 士 の岩 崎 まり子 さんが書 かれたものです。 『隣 る人 』とは、
かわったタイトルだなあと思われるでしょうが、これは菅原 先生 たちが考えられた造 語です。ルカ 10
章の「良きサマリヤ人のたとえ」から発想を得たものだそうです。
「良 きサマリヤ人 のたとえ」はご存じの方も多いでしょう。ある人 が旅の途 中で強 盗に襲われ、半 殺
しの目にあって、道 に倒 れていた。たまたま、祭 司やレビ人といった宗 教 者 たちが横を通りかかった
けれども、見て見ぬふりをした。しかし、「あるサマリヤ人」-彼は仲の悪 い隣国の民でありましたが、
この行き倒れになった人を見てかわいそうに思い。声をかけた。声をかけるだけではなく、介抱して、
宿に運び、費用もすべて払ってやった。いわば徹 底的 に、この行き倒れの旅人 に関わるわけです。
イエス様は、このたとえ話をなさった後で、「いったいだれが、この強盗に襲われた人の隣人になった
と思いますか」と尋ねられました。「その人 にあわれみをかけてやった人です」-そう答えると、イエス
様は「あなたも行って同じようにしなさい」と言われたのです。
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『隣 る人 』(菅 原 哲 男 、岩 崎 まり子 著 、いのちのことば社 )
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この「隣 人となる」ということ。徹 底して、その人 の傍 らに寄 り添い、共 に歩む人 。そういう人を「隣 る
人」と呼ぶ。
児 童 養 護 施 設 は、昔は孤 児 院 と言われて、両親 のいない身 よりのない孤 児 が行 くところというイメ
ージがあるかもしれません。しかし、今は両親はいるけれども、養育できない、むしろ親から虐待を受
けてくる子が多いのだそうです。児童虐待は児童相談所に処理されているだけでも 9 万件弱。調査
開始から 20 数年で 88 倍と激増している。
ですから、光の子の家に来る子どもたちも、何も持たないでやってくるわけだけれども、ゼロというよ
りは、むしろ、心に深刻なダメージとマイナスを抱えてやってくるわけです。誰からも喜ばれたり、祝わ
れたことのない孤独な状 態でやってくる。そういう子たちを、入所 の日を新 しく生まれた日として祝い、
歓迎して迎えるのです。「生まれた日なのだから、子どもは何もできなかったとし ても、泣いたり、わめ
いたりしても当然のことだと考え、その言動をすべて受け入れる」そういう態度を「絶対受容」という。 3
それは、口でいうのは簡単ですが、生 半可なことではないわけです。光の子の家ではスタッフが親
代わりをする家族のようなスタイルで暮らすのです。子どもと一緒に食事 をし、子どもに添い寝し、お
弁 当を作ってあげ、学 校 に送 り出す。学 校でトラブルがあったり、ぐれて非 行に走った時には、真っ
先に頭を下げに行く。菅原先生がアメリカで講演をされた時、「それではスタッフのプライバシーはど
うなるんだ」という質問があったそうです。それに対して菅原先生はこう答えられた。
「あなたにはお子 さんがいますか」「あなたがお子 さんを育てるときに、すべてギブアンドテイクな関
係でやってきたしたか?そうではないでしょう。子 どもの・・・ために力 と思 いを尽 くしてきたことと思 い
ます。子どもは、人は、だれかの献身的なはたらきを受けなければ、まっすぐに育たないと考えていま
す。」 4
「隣る人は逃げない人です」。菅原先生はそう言われます。この本の中には、色々な子どもたちとの
壮絶な関わりも書いてあるのですが、そういう、ひとつひとつの関わりの背後に、この「逃げない」-絶
対受容への不退転の覚悟がある。それをスタッフにも求めている。それは実に厳しいことです。
自分たちは、血のつながった親ではない。そのような、いわば赤の他人が、かつて実の親に捨てら
れた子どもたちに関わるわけですね。
「きみと出会えてよかった!」「きみが生まれてきたことを、みんなこんなに喜んでいる!」「きみがい
なかったら、ここはどんなに寂しく、意味 のない場 所になってしまうだろう。」 存 在を肉親から否定 さ
れた子たちが、本当 に自 分の生を、「ああ、生きていてよかった」と言えるようになるまで、繰り返し 語
り続ける。関わり続ける。それが「隣る人」なのだと。
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同上 P.10
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4.隣る人となってくださる神
私は、こういうことばを読んで、ああ、神様こそが、主イエス・キリストこそが、本当の「隣る人」なのだ
と、改めて、教えられたのです。
神様 は、私たちに対して、決して逃 げない、不 退 転 の愛で臨 んでくださっている。 行き倒れになっ
ている旅人 のような私 たちに対し、良 きサマリヤ人のように、どこまでも関 わり、「隣 る人」となってくだ
さる。十字 架 にはりつけにされたキリストの姿というのは、私 たちの罪 のすべてを償い、背 負って、私
たちを、どこまでも「子」として受け入れようとしてくださった、神の究極の愛の姿です。
その愛に、私たちは、気づいているでしょうか。その愛をむげにしてはいないでしょうか。
少し前に読んだ、ある方のお証しです。 5
もう 20 年くらい前の話だそうです。その方は、小さい頃に両親を亡くされて、3 歳であるご夫妻の養
子となられたそうです。でも、そのことを知らないまま育ったそうです。ところが、中学 2 年生の時、お
父 さんが急 に亡 くなられた。その葬 儀 の時 に、親 戚 から、自 分 が養 女 であったことを知 らされたそう
です。タイミングも最悪で、ショックであった。その事実を受けとめきれなかった。それで、事あるごとに、
お母さんに反抗していたそうです。
お母 さんは、働きに行 かなければならなくなりました。早朝 には市 場で働 き、昼 間 はスーパーで働
いた。ボロボロだったそうです。市場の仕事の帰りに、そんなボロボロの姿のお母さんと学校に行く通
学の途 中ですれ違うことがあったそうです。「いってらっしゃい」というお母さんに対して、友だちの手
前、お母さんと知 られたくなくて、「誰 あれ、気持 ち悪いんだけど」と他人のふりをした。それからお母
さんはすれ違っても、何も言われなくなった。
そんなことがひと月 くらい続いた、ある雨 の日 、カッパを羽 織って帰っていくお母 さんの後 ろ姿 が、
途轍もなく寂しそうであった。いったい自分は何をしているんだろう。自分のために、ここまでボロボロ
になってくれている人 に何 てことをしているんだろう。すさまじい後悔 に襲 われた。それで、友 だちの
目も顧みず、お母さんのところに駆け寄った。でも何て言ってよいのか分からなかった。その時、口を
ついて出た言葉が「いってきます」であった。お母さんは驚きながらも、涙を流し、何度も「いってらっ
しゃい」と手を振ってくれた。
「血 のつながりはどうあっても、彼 女こそ、私 の本当 の母です。「それが親の務めだよ」と言ってくれ
る母のようになりたい。自分も子どもをそんな愛で愛したい」この方はそう言っておられます。
49:15 「女 が自 分 の乳飲 み子を忘れようか。自分 の胎 の子をあわれまないだろうか。たとい、女 た
ちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
神の愛は、この地上のどんな親の愛にもまさります。神はあなたを見捨てない。忘れない。あなたが
たとえ、その愛に気付かなくても、無言で愛を注ぎ続けられる。十字架に祈り続けられる。
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同上 P.75
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そのような方の、子としていただく。それが、キリスト者となるということ。そのような愛を心一杯受ける
こと、それが、クリスチャンであるということです。
この愛を受け入れてください。神はあなたをご自身のかけがえのない子としてくださいます。
祈ります。
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YouTube 素 敵 な話 「養 子 である私 に本 当 の愛 を注 いでくれた母 」より
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