主イエスの弟子であり、主イエスのことを宣べ伝

使徒言行録4章1~22節
「確固たる人」
主イエスの弟子であり、主イエスのことを宣べ伝えていたペトロとヨハネは、今朝の御
言葉の中で、突然、とても過酷な場所に立たされました。そこは、当時の議会、サンヘド
リンと呼ばれていた、ユダヤの最高法院です。ペトロとヨハネの伝道活動が、当局からの
おとがめを受けたのです。彼らのもとに、当時の権力者階級であったサドカイ派の一派が
押し寄せ、議会に立たせて、彼らを尋問するために、彼らを牢屋に入れました。当時、日
が沈んでからの裁判は、通常は行われなかったようです。ですから、恐らく夕方に捕まえ
られた二人を、当局者たちは牢屋に入れて、次の日まで待ったのです。そしてこれは、こ
の日から、わずか 2 か月前に、主イエスが、十字架の前夜に経験したのと同じ尋問でした。
けれども主イエスが引っ張り出されて、十字架刑へと向かわせられたあの尋問は、夜明け
前の、暗い夜の闇の中で行われた、異例の死刑裁判でした。
そして 5 節にありますように、次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集ま
った。と書かれています。これによれば、権力者たちが地方の町々からぞろぞろと首都エ
ルサレムに集まって来たような様子です。そしてそこには、主イエスを自らの邸宅で裁い
た、大祭司カイアファとそれに連なる複数の大祭司たちも集合しました。そしてペトロと
ヨハネは、その真ん中に立たせられて、尋問を受けました。「お前たちは何の権威によっ
て、だれの名によってああいうことをしたのか。」
足のすくむような、大変に危機的な場面です。そしてこれは、この時から二ヵ月前に、
主イエスがそこを通られた局面です。しかもその時よりも、大祭司たち、議員たち、当局
者たちの取り巻きは多かったと考えられます。主イエスが大祭司の邸宅で裁かれていたあ
の夜、このペトロは、その中庭に居て、息をひそめていました。怯えながらも、その場を
立ち去るに立ち去れなかったペトロは、その怪しい様子を感づかれて、近くにいた女中か
ら、主イエスの関係者かと問われ際、彼は血相を変えるようにして、それを必死に打ち消
しました。
あの二ヵ月前に主イエスを裁いた権力者たちに、ペトロはここで、がっちりと囲まれて
しまった。主イエスのたどられた足取りを自分に当てはめるならば、この尋問の先にある
のは、十字架であり、死です。けれども、つい先日、中庭で、短い時間に三度も主イエス
を否み、怖さと恐ろしさのあまり、主イエスと自分との関係を否定してはばからなかった
ペトロが、ここでは全く変わりました。
ペトロも、二ヵ月前のあの夜のことを、この時、昨日のことようにありありと思い出し
ていたに違いありません。あの時のあの恐怖、それと同じ場面に今向き合おうとしている
その緊張、自分も捕まるかもしれないという恐ろしさから来る手足の震え、胸の動悸の高
まり。けれども、あの裏切りのあとに起こったことのすべてが、ペトロを変えました。そ
して、この時ペトロは改めて、あの裏切りのあとに起こったことを、反芻したのだと思い
ます。
ペトロが裏切った直後、主イエスはペトロをじっと見つめられました。その時の主イエ
スの目。そして、その目を見て泣き崩れた、あの時の燃えるような熱い涙。でも主イエス
の十字架に、近づいて行けなかった自分。とにかく逃げて、アジトに閉じ籠って、息を殺
していた三日間。けれども三日目の朝、主イエスの復活の知らせを聞いて、墓まで走って
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いったこと。そしてアジトの部屋の中に生き返った主イエスが現れてくださり、そのあと
にも何度も、
主イエスが自分の前に現れてくださったこと。
「ペトロよ、わたしを愛するか?」
と問われ、
「私はお前を愛しているから、お前も私を愛して欲しい」「一方通行ではない、
私とあなたの、互いに愛し合う関係に、入って来てくれるのかペトロよ」と、主イエスに
尋ねていただいた、あの言葉。世の終わりまで、わたしはあなたがたと共にいるという約
束。
「主イエスはまたおいでになる」という御使いの語りと共に、天に昇って行かれた主イ
エスの後ろ姿。それらのすべてを、ペトロはもう一度、自分の心の真ん中に、据え直しま
した。そしてペトロは、まっすぐに目を見開いて、息を大きく吸い込みました。
8 節以降をお読みします。
「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。
『民の議員、
また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、
その人が何によって癒されたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエ
ルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、
あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イ
エス・キリストの名によるものです。』
」
あの、生まれつき足の不自由だった男性を立ちあがらせたのは、イエス・キリストです。
イエス・キリストとは、あなたがたが裁判にかけ、十字架に架けて殺した、あのナザレ出
身のイエスです。けれどもあのイエスは、死から立ち上がり、復活しました。あの方こそ
キリストです。旧約聖書がずっとその到来を予告してきた、救い主です。あの方が、この
病人を癒し、立ち上がらせたのです。そして主イエスは、同じようにして、この私のこと
も立ち上がらせてくださったのです。
ペトロは続けて語ります。11 節。
「この方こそ、
『あなたがた、家を建てる者に捨てられ
たが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたし
たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
親石とは、その石を取ってしまうと、石で組んだ建物全体が壊れて崩壊してしまうよう
な、重要なコーナーストーン、キーストーンのことです。アーチで言えば、そのアーチの
真ん中に、最後に置かれるような、重要なかなめ石のことです。
イエス・キリストは、家を建てる者に捨てられた石だった。かつては、まさにこのペト
ロ自身もそうでした。彼もその石を捨てた者の中の一人です。けれども、今となっては、
ペトロは、イエス・キリストに拠らなければ、間違いなく立ち上がることのできなかった
人間です。キリストに支えていただかなければ、今の自分はない。
「ほかのだれによっても
救いは得られません」との、このペトロの言葉は、まさにペトロ自身の実感と経験からく
る言葉です。
もし主イエスに出会っていなかったら、
主イエスに支えられていなかったら、
主イエスに愛されていなかったら、自分は決して立ち直れなかった。ユダのように死んで
しまっていても、全くおかしくはなかった。そのままだったら、勇気を持つことができず、
怯えたままで、この最高法院に立つことはおろか、外に出ることさえできなかった。失敗
に打ちひしがれて、罪の意識にさいなまれたまま、弱い罪人のまま、死で終わる人生を見
つめているほかなかった。
けれども、復活したイエス・キリスト、私のことを愛してくれる、イエスを捨てた私の
ことも捨てないでいてくれるイエス・キリストによって、自分は立ち直ることができた。
罪人ではあっても、赦された罪人として、弱くはあっても、強い力で支えられ続けている
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弱い者として、その意味で、別の人間として、新しく立つことができた。この名前を口に
するだけで、ひとりでに力が出てくる。そして心が熱くなる。そのイエス・キリストが、
私を救い、立ち直らせて、傷を癒し、不信仰から回復させ、私を生まれ変わらせてくださ
ったのだと、ペトロはストレートに証しました。
この証しにたじろいだのは、逆に当局者たちの方でした。13 節。
「議員や他の者たちは、
ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、
また、イエスと一緒に居た者であるということも分かった。
」
無学な人と訳されている言葉は、字が読めないという意味の言葉です。教育を受けてい
ない、だからもちろん聖書も知らないはずの、そんな二人だということに、当局者たちは
この時になって気付いた。さらにこのペトロの証しを聞きながら、ああそうか、イエスの
そばにはたしか、すぐに怯えて逃げ去っていった、臆病な弟子たちがいたなと。そうか、
この二人がその弟子だったかと、この時に今更ながら気付いた様子です。つまり、それほ
どペトロたちは、以前とは見違えるような人になっていたということだと思います。二ヵ
月前には、主イエスの弟子の一人であることをあれほど隠し、隠し通して逃げ切ったペト
ロが、今では公に、私の救い主はあのお方なのだと言ってはばからない、確固たる信仰者
として立っている。そのペトロの自信と大胆さに、当時の社会に居た最高の指導者たち、
有力者たちはたじろいだ。ペトロとヨハネの二人に圧力をかけて押しつぶしてしまおうと
した権力者たちは、逆に、このたった二人の信仰者によって押し返され、ぐらつかされた
のです。ペトロとヨハネは確固として、引き下がりませんでした。逆に最高法院で、証し
をし、大胆に御名を宣べ伝えた。
中世のカトリック教会から命を狙われながらも、独りで、まさしく当時の議会の真ん中
に立ち、自らの信仰の確信に堅く立ち続けた宗教改革者マルティン・ルターや、あるいは、
明治天皇の真筆の著名に対して最敬礼をしなかった内村鑑三らの中にも、似たような大胆
さを見出すことができます。彼らは、稀に見る確固たる人のように思えますけれども、本
質的には、決してその人間そのものが確固としていて、揺らがなかったというわけではな
かったのだと思います。
有名な話ですが、ルターも、福音を発見する以前の修道院時代には、一種の不安症のよ
うな状態で、決して揺るぎない人物だというわけではありませんでした。いつも自分を罰
する神様の存在に怯え、罪を拭い去れず、そのため赦しと救いに至れない現実的な自分自
身に対して失望し、常に悩みと恐れの中に埋没するようにして生きていました。雷がそば
で激しく鳴り出した時に、
もう自分は罰を受ける、もう自分はこのまま死ぬのだと思って、
献身をするから赦してくださいと叫んだ、かつてのルターとは、そういう人物でした。
ペトロと同じ、キリストの使徒と呼ばれた、キリスト教の創立のために最大の貢献をし
た使徒パウロも、自分のことを土の器だと、欠けだらけで、ひび割れだらけの、朽ちてい
く器だと公言しています。けれどもその土の器の中に、神様の並はずれて偉大な力が働い
ている。神様の光が、この土のつたない器の内側で輝いている。だから、自分は落胆しな
い。たとえわたしたちの「外なる人」が衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々
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新たにされていくと、語っています。確固たる人は、実は、確固たる支えの中にいる人。
神様の確固たる愛の中にいる人だったのです。
愛とは、分裂することの反対ですから、それは、結び付ける力です。よって確固たる愛
の中にいる人とは、どんな時も、神様と離れない人のことです。どんな時も神様と離れな
い人は、決して一人になりません。ペトロとヨハネには、自分たちは確固として、キリス
トに寄り添われている。どんな人間の前に出る時にも、どんな議会の場に立たされても、
どんなに周りが四面楚歌の状況でも、
「わたしは決して、あなたをひとりにしない」という
主イエスの声が、その光と力、そしてその愛が、彼らの心の中には、いつも響いていた。
これがペトロとヨハネの大胆さの秘密、強さの秘密です。自分は、どこまでいっても、ひ
とりではない、ひとりにはならない。自分は確固として愛され続けていると知っている人
が、力に屈せずに立つことができる人であり、諦めないでいられる人です。自分が一人で
はないと知る人は、神様が与えてくださる新しい力を、心の奥底から、絶えず汲み上げて
くることができます。
8 節でペトロが話しだそうとしたとき、「そのときペトロは聖霊に満たされた。
」とあり
ます。これは、愛に満たされたと言い換えてよい言葉です。無学でも、律法学者のように
弁が立たなくても、それよりも大事なことは、愛を知っているということです。わたした
ちも無学です。ここは学者の集いとは違います。けれどもここに集う私たちは皆、イエス・
キリストの愛を知っている、キリストに愛されている弟子たちです。それぞれの歩みの中
で、私たちは皆、かつてはキリストを否みながらも、その拒絶を超えて愛し、赦していた
だいた。その愛を、私たちは知り、かつその中を、私たちは生きることができます。
今私たちは、独りで生きているのではありません。隣に、この内側に、並走者であり救
い主、主イエスが常におられます。ペトロたちは、ここで伝道を禁じられても、
「私たちは
見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と言いました。心臓がその動き
を止めないように、キリストの愛が、もう自分の中で動き出して熱を発している。それに
よって自分は今立っている。
だから生きている限り、この愛に突き動かされざるをえない。
今私が生きているということと、今私の中でキリストが生きているということは、ひとつ
のことです。その主イエスの力と愛に動かされて、私たちは、この一週間を確固として歩
む。主を知るこの私たちには、ペトロと同じように、それができます。
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