「 生焼津信用金庫 藤枝支店開設秘話」

「○
生 焼津信用金庫 藤枝支店開設秘話」
【焼津信用金庫の概要】
当金庫は、静岡県中部地区(旧志太郡)の焼津市に本店を置く。平成 23 年 12 月現在、店
舗数 29 店舗、会員数 34,974 名、志太地域におけるシェアは 35%と、志太地域における第
1位のシェアを占めている。
遡ること 60 余年、昭和 25 年 4 月、当金庫の藤枝地区最初の店舗として出店した。当時の
焼津信用金庫は創業から 40 余年が経過していたが、漁村の信用組合の信用部という規模の域
を出ず、新店舗の開設には慎重な姿勢をとらざるを得なかった。しかし、藤枝市(当時の藤枝
町)地域住民の強い誘致活動を受けて開設に至ったのである。
昨今の藤枝地域における経済拠点の変化を踏まえて当金庫の店舗網も見直しが迫られている
が、開店から 60 余年経った今でも地域住民から 1,673 名分の移転反対署名が瞬く間に集ま
るなど、この地区のシンボルとして地域住民から絶大な支持をいただいている。
【創業の経緯とその想い】
焼津信用金庫は、地元では『まるせい』という愛称で呼ばれている。これは前身である焼津
生 」が、金庫の呼び名として定着したものである。
生産組合の屋号「○
生 焼津生産組
明治 41 年(1908 年)
、漁業者による漁業者のための相互扶助組織として「○
合」が設立されたことを発端としている。初代組合長である山口平右衛門と2代組合長の服部
安次郎は、地域を熱心に回って少額の出資金を募り、当時としては画期的な石油発動機搭載の
漁船6隻を購入し、組合員に貸与した。
これを契機に焼津の漁業の近代化、機械化が一気に進み、漁業の安全性と漁民の生活が向上
した。漁船の利用料や利潤の分配に公平を期す一方、収入の安定しない漁師たちに貯蓄を促す
経営姿勢は、組合員の生活の安定に大きく寄与し、焼津の町に不可欠な存在になった。
しかし、金融機関としては、昭和 17 年まではその信用部として漁業者の預金業務と水産加
工業者の金融業務のみで、当時は営業地域も焼津地区に限定され、店舗も本店ただ一つで員外
生 焼津
預金も扱えない小さな金融機関であった。昭和 26 年 6 月の信用金庫法の施行に伴い、○
信用金庫に組織変更し、志太地域に本店をおく唯一の中小企業専門の金融機関として地域とと
もに歩んできた。
【藤枝支店の開設】
藤枝支店は、藤枝市の白子商店街にある。昭和 25 年 4 月、地域住民の強い要請を受けて藤
枝市(当時の藤枝町)に開店した。
藤枝は焼津の隣町に位置し、旧東海道五十三次の宿場町として古くから栄えた街。また、静
岡県中部の旧志太郡地域における政治・経済・文化の中心地として発展してきた。江戸時代か
らお茶の産地としても知られている。しかし、当時は静岡の府中や安倍に次ぐ二流処で、江戸
では商人に買い叩かれたそうである。そこで焼津の漁民と組んで江戸に独自の販路を持つこと
で、お茶のブランド化に成功。近代になると川根茶は藤枝商人によって取扱われることが多か
ったようで、戦後の藤枝は多くの茶商で賑わうお茶の集散地として発展した。
お茶以外にも、椎茸・みかん等農作物の集散地であった。これらの産物は、いずれも明治時
代以降に外貨を稼ぎ出すために海外へ輸出された特産物で、この恩恵を受けて藤枝地区は静岡
県内で有数の経済力を誇る地域に発展した。
当時から藤枝地区では銀行を中心にいくつかの金融機関が設立されていたが、当時の銀行は
一部の特権階級のためのものであり、大多数の民衆には無関係なものであった。戦後の経済発
展に伴い資金の需要が大きくなるとともに、地域の中小企業者にとっては円滑な資金調達に不
都合が生じた。当時の藤枝にも小さな信用組合があったが、経営不振に陥り中小企業者への円
生 焼津
滑な資金供給に対応できずにいた。そこで昭和 25 年に、焼津で存在感を増してきた「○
信用組合」に白羽の矢が立ったのである。
生 焼津信用金庫 50 年小史』によると、当時の店舗数は、焼津市 3 店舗、
昭和 33 年発行の『○
藤枝市 4 店舗となっている。25 年に旧志太郡経済圏の中心地であった藤枝町白子に藤枝支店
が開店してから昭和 32 年までのわずか 7 年の間に 4 店舗を出店したことは、地域からの強い
要請に応えたためである。
【藤枝支店の誘致経緯と誘致発起署名活動】
当時の新聞によれば、
「中小企業振興の目的で生まれた県信用保証協会の貸出が、地方小都市
の業者の期待を裏切り、ごく少額しか利用できない実情であった」とのこと。
戦後の経済が急速に発展し、モノとカネの需要が増大する環境下において、地域の中小商工
業者の資金難は想像以上のものがあったようだ。当時の藤枝商工会議所上層部の方々は、金融
難の打開策として庶民金融機関の設置を計画していたが、多くの難題が待ち受けていたため、
生 焼津信用組合の支店誘致に乗り出し、話し合いを重ねて
すでに金融機関としての実績がある○
いった。
検討の結果、町長や町議会議長、藤枝商工会議所会頭等の町の有力者に懇願し、誘致発起の
署名を開始。さらに、町議会議員・商工会役員等の賛成署名を集めたうえ、各地区において誘致
の説明会を開くなど一般町民の理解と協力を求め、世論を喚起することに努めた。
この誘致活動の努力の結果、支店開設の必要性が
生 焼津信用金庫藤枝支店が開設した。当
認められ、○
時の店舗は、初代支店長を務めた当金庫元専務理事
の故・佐藤政次の私邸を改造して店舗とし、職員も
新たに採用して陣容を整えた。その頃の店舗は非常
に簡素で、軒先に露店があり、今では到底考えられ
ないような営業形態であった。
当時は戦後 5 年が経過し、藤枝もまちが急激に
発展した時期である。志太地区経済圏の中心に位置
する藤枝町には多くの中小零細企業があったが、銀
行の対象圏外にあった方々やその他金融難の方々も多く、そのよき相談相手として、毎日訪問
活動をして回った。
「我々にも『まるせい』を呼ん
地域の皆さまからも甚大なご協力をいただき、事業者からは、
だ面子がある。」と売上を毎日持参いただくこともあった。
当金庫も藤枝支店の開設を契機に大きく発展した。故・佐藤政次専務理事のご子息で、今も
当金庫の総代を務めておられる佐藤安吉様は、当時を振り返って次のように語っておられる。
「地域と『まるせい』が一体になって町を盛り上げていった時代です。昔は人と人とのつなが
りが、今よりももっと強かったのかもしれませんね。金融機関とお客さまとの距離が近かった
のです。藤枝生まれで藤枝育ちの父の個人的な人間関係が強かったように思います。今思い出
しますと、店の奥で地元名士の皆さんが集まって、皆で食事をしながらいろいろな相談をして
いましたね。地域を応援したいと考える『まるせい』と、
『まるせい』を誘致したからにはなん
としても成功させようという地域の皆さまの気持ちが一体となり、だからこそ 7 年で 4 店舗の
出店となったのかもしれません」。
【「近くて深い人間関係」=「日掛け・月掛け・心掛け」の精神】
信用組合時代から、「日掛け・月掛け・心掛け」という標語が使われていた。地域と共に成長
するメッセージであるとともに、職員の行動規範になっていたと思われる。今日でも取引のき
っかけをお伺いすると、
「『まるせいさん』とは日掛けからのお付き合いだよ。』という声をよく
聞く。
自動車もバイクも貴重な存在であった昭和
20 年代は、自転車で訪問していた。当時はお
客さまのところへ毎日のように伺い、少額の
掛金を集めていたし、事業者の毎日の経営状
態を肌で感じ取っていたのである。地域が今
よりもコンパクトで、密度が濃かったので、
深い人間関係が構築され、コミュニティが成
立していたように思う。このような環境の中、
金庫とお客さまは相互に支え合うことで成長
してきたと考えている。
【現在の藤枝支店 ~1,673 名の署名活動~】
藤枝支店は現在も旧東海道白子商店街の一角にある。昭和 25 年の開設から 60 余年を得て
も地域を支えている金融機関として存在感を発揮している。
地域に根ざした信用金庫として、地域のお祭りやイベントにも積極的に参加している。現在
の油井藤枝支店長は話す。
「この街がより魅力的になるように、出来る限りのことをしていきた
い。今年1月には、老朽化した店舗の建て替え計画を耳にした地域の皆さまの移転に反対する
署名が 1,673 名分も集まった。地域の皆さまが、藤枝支店を本当に必要としてくださってい
ると肌で感じている。」
国内市場が縮小傾向の中で金融機関の競争が激化しているが、信用金庫は銀行とは違う成立
経緯がある。地域住民や中小企業者から必要とされ、懇願され進出したのである。創業の生い
生 焼津信用金庫」として
立ちや支店開設時の原点に立ち返り、その存在を明確にすることで、
「○
地域に何が出来るのかを職員一人ひとりが考えていく必要がある。
金庫 100 年の歴史の中で先輩方から受け継がれた「まるせいらしさ」という独自性は、地
域の皆さまとの関わりの中で培われたものだ。地場産業や地域の歴史、企業の生い立ちに詳し
い人材の育成に力を注ぎ、魚を起源とした創業という独自性を大切にして、地域のこと、地域
企業のことを一番知っている金融機関であり続けたい。
地域から必要とされて開設された店舗が、
「これまでも、これからも」地域になくてはならな
い存在としてあり続けるためには、
『まるせい』としての独自性の発揮を持続していく必要があ
り、役職員一丸となって日々努力していく。