日本の教育の歩み(3) SCE・Net 弓削 耕 6.明治時代の教育 明治政府の第一の目標は近代化、脱亜欧入で西欧列強に追いつくことであり、そのため 「富国強兵」、「殖産興業」の国策を実現するために教育に力を入れた。その中で、教育の 重要な課題は「国民としての自覚」 (廃藩置県後の一体感と伝統の遵守)と「知識と能力の 育成」(欧化)であった。 財政面から教育の普及は容易ではなかったが、近世からの教育 水準の高さから教育は迅速に行き渡った。一方で国家からの要請で、国家権力の統制もか なり強くなっていた。教育には国家権力の意向が強く反映されることがよく分かる。s (1)「学制」の頒布(1872 年/明治 5 年、全 213 章からなる) まず、教育は国民全員が一定の水準の教育を受けるべきとして、学制を採用し、教員の 養成、教科書の編纂・選定を行い、教育普及を図るため、 「学制」を頒布した。 おおぜいだされしょ 「学制」では序文として「学事奨励に関する被仰 出書 」 (被仰出書)を出し、理念として ① 立身出世主義的な教育観をあげ、教育が将来の立身出世を約束する有効な手段とし。 ② 教育は全ての国民に開かれたもので、全員が教育を受ける国民皆学が奨励された。 ③ 実学主義的な学問感とし、基礎学力の習得を基本に実学的な近代科学が重視された。 学制は「学区制」を採用し、全国を8大学区(後に7大学区、東京・愛知・大阪・広島・ 長崎・新潟・宮城)に分け、各大学区に大学を1校置き、32 中学区に分け、各中学区に中 学校1校を設置し(計 256 校)、210 小学区に分け、各小学区に小学校 1 校を設置する(計 53,7600 校)。就学期間は 6 歳から 13 歳までの 8 年間を原則とした。小学校は初等科(3 年)、 中等科(3 年)、高等科(2 年)に分けた。 一方で、当時の財政状況から、本学制の実現は難しく、小学校には寺子屋や私塾を集め て作ったりしたものもあったが、1877 年/明治 10 年には小学校の数は目標の半分の 25000 校に達した。江戸時代からの高い教育水準が、近代の学校制度を受け入れる強い基盤にな っていた。 しかし、期待される画一的な教育内容が当時の生活の実態から遊離しており、 教育費が受益者負担であったので、十分には受け入れられず、重い教育負担に反対して「学 校打ち壊し」などの暴動も起こった。 ④ 教員の養成が初めて実施され、東京に師範学校が開設された。アメリカ式の教授法 が取り入れられ、1 人の教師が大勢の生徒に教える、近代公教育の基である「一斉教授法」 が行なわれ、これは一対一による寺子屋式からの画期的な変化であった。さらに全国の教 員を養成するために各大学区に官立師範学校をおいた(1874 年/明治 7 年)。女子教員のた めには 1875 年/明治 8 年に東京女子師範学校が開校された。その後、財政窮乏で官立師範 学校は東京および女子師範学校を除き廃校され、府県立として運営されていくことになっ た。師範学校の教員養成だけでは教員は不足したので、寺子屋出身の現場教師に「伝習や 講習」を数ヶ月行ない促成した。このため各地に伝習所や講習所が設けられた。 ⑤ 明治初期には「西洋事情」(福沢諭吉)、 「西国立志編」(中村正直)、「輿地誌略」(内 日本の教育の歩み3 1 田正雄)の三書が啓蒙書として読まれていたが、学校教育を進めるには教科書が必要にな り、翻訳物を主として教科書が編纂された。 修身教科書は「民家童蒙解」(米ウェーランド/青木輔清)、「童蒙教草」(英チャンブル /福沢諭吉)、「修身論」(米ウェーランド/阿部泰蔵)、「泰西勧善訓蒙」(仏ボンヌ/箕作 麟祥)、「性法略」(蘭フィッセリング/津田真道・西周)と「伊蘇普物語」が使われた。 かなつかい てならい ことばの よみかた 国語教科書は、当時、国語教科はなく「 綴字 」 「習字」 「単語読方」 「読本読方」がこれに 相当し、文部省が発行した教科書「単語編」 (1872 年/明治 5 年)、 「小学教授書」 「小学読本」 (1873 年/明治 6 年、米ウイルソン・リーダーの直訳/田中義廉)が使われ、欧米志向が強 かった。 歴史教科書は「史略」 「五州紀事」 (1872 年/明治 5 年、寺内章明訳編)が使われ、世界特 に米英の歴史に詳しいものが使われた。 地理教科書は「西洋事情」「世界国尽」(福沢諭吉)、「輿地誌略」(内田正雄)など多くは 世界地理を学ぶものが教科書として指定された。 理科教科書は科学知識・技術を重視する政府にとって重要なものであり、 「訓蒙窮理図解」 (福沢諭吉) 、 「天変地異」 (小幡篤次郎)、 「物理階梯」 (片山淳吉)が代表的なものであり、 いずれも英米の教科書を手本としていた。 算術教科書は「筆算訓蒙」(塚本明毅)、「洋算例題」(佐々木綱親)が出版され、従来の 算盤から筆算を教えるようになった。 そして年を経るにつれ、初期の翻訳書から儒教主義的なものに変わっていった。 た い ふ (2)教育令の制定(1879 年/明治 12 年、田中不二麻呂文部大舗) 「学制」による学校設立の受益者負担や学費徴収は、国民に大きな負担を負わせ、学制 の理念と国民の教育実態との間に深刻な格差を齎したので、学費徴収方法は各地区の判断 にまかせ、多様性を持たせるように「学制」の修正が検討され、「教育令」が公布された。 ながざね 改正に当っては、道徳派・儒教派の元田永孚と開明派の伊藤博文・井上馨とが対立した。 主な改正点は政府主導の中央集権的なものから、アメリカ的な地方分権的なものとし、 理想主義的な制度から、生活の現実を見据えたもの教育内容にし、当時の自由民権運動に 対する民衆の同調を防止することであった。 ① 就学期間を 4 年に短縮できることにした。 ② 学区制を廃止し、町村ごと或いは数町村で公立小学校を作れるようにし、地方自治 体にも教育行政の責任を分担させた。 ③ 私立小学校の設置には認可が不要で、また公立小学校を代替することを認めた。 ④ 児童の就学、学校の設置・管理のために民選による学務委員をおいた。 ⑤ 授業料の徴収は学校の自主性に任せた。 ⑥ 教則編成の主体は学務委員においた。 明治維新以降の教育改革が十分に浸透していなかったので、「教育聖旨」(1879 年/明治 12 年、「教学大旨」と「小学条目 2 件」から成る)を起草し、「教学大旨」では「教育の根 日本の教育の歩み3 2 本精神は仁義忠孝を中心とする儒教精神である」とし、 「小学条目 2 件」では「小学校では 幼少より仁義忠孝の育成が大切である」とした。これらが、教育令の改正に反映された。 (3)改正教育令(1880 年/明治 13 年、河野敏鎌文部卿) た い ふ 田中文部大舗が辞任したことで、文部省の自由化路線は基本的な転換をし、次のような 改正が行なわれ、復古派の意見を入れ、近代学校制度を定着させる動きと共に、中央集権 化、国家統制が進んだ。 ① 就学の義務と公立小学校の町村の設置義務を強化した。 ② 学務委員を民選から府県知事県令の任命制とした。 ③ 各府県に師範学校の設置を義務付け、教員免許状の制度を明確にした。1881 年/明治 14 年には「小学校教員心得」「学校教員品行検定規則」を定め、尊王愛国の志気を振起し、 教員の政治活動を規制し、国家の統制を強化した。さらに 1882 年/明治 15 年には「幼学綱 要」を宮内省から出し、仁義忠孝を中心とする 20 の徳目をまとめ、全国の学校に配布した。 ④ 小学校教科で修身科を筆頭教科とした。1880 年/明治 13 年には修身教科書「小学修 身訓」(西村茂樹)を編纂し、仁義忠孝の精神を教育の中心においた。 ⑤ 教則は文部省頒布の綱領に基づいて府県知事が編成し、文部卿の許可が必要とした。 ⑥ 1881 年/明治 14 年に「小学校教則綱領」「中学校教則大綱」を定め、教科書編纂へ の国家基準を示し、ここで定められた教授要旨を基準にして教科書が編集されるようにな った。学年別の教科書が編集され、内容は翻訳物と伝統的な国風が統合されたものになっ て行った。1883 年/明治 16 年に教科書採用の方法を開申制から認可制へ変更し、教科書検 定制度への準備を進めた。 教え方も、子供の能力を開発する「開発主義教授法」が試みられたが、形式化したもの になり、改善として子供の認識過程と教授内容の統一的把握を目指したが、国家統制が強 まり、教育内容の定型化、画一化の方向に進んだ。 当時、板垣退助らによる自由民権運動が盛んになり、教師も多く参加したので、政府は これを制約するために「集会条例」(1880 年/明治 13 年)を出し、教師が政治結社や集会 に参加するのを禁止した。1881 年/明治 14 年には「小学校教員心得」「学校教員品行検定 規則」が制定され、知育よりも徳育に重点が置かれ、皇道主義の教育方針の貫徹が図られ、 教育政策が自由から統制に変換し、教師への国家管理が強化された。 (4)学校令の制定(1885 年/明治 18 年、森有礼文部大臣) 時代とともに国家主義教育の流れが強くなり、近代学校制度を「学校令」の制定でまと めた。本「学校令」を中心とし、その後 10~20 年の改正で、教育制度の骨格が定まり、戦 後の学制改革まで続いた。 「学校令」は「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師 範学校令」の総称で、学校種別に法規を定め国民教育としての各学校の役割を明確にし、 国家のために学校教育はどうあるべきかを重視した。 教育と学問を区別し、大部分の国 民に国民として必要な基礎的教育を受けさせ、一部の人間が国家の指導的立場に必要な学 問を身につけるために帝国大学に進学するようにし、指導層の養成を図った。 日本の教育の歩み3 3 ① 帝国大学令: 帝国大学は国家に必要な学術技芸を教授し、その蘊奥を考究し、分科 大学は学術技芸の理論、応用を教授するところと位置づけた。これにより帝国大学は東京 大学を母体に、法科、医科、文科、理科、工科、農科の分科大学から作られた。 ② 小学校令: 小学校は尋常小学校(4 年)、高等小学校(4 年)に再編され、尋常小学 校が義務教育とされた。しかし、授業料が徴収されたので、徴収しない小学簡易科(3 年) を設け、代替できるとした。 尋常小学校の教科目は修身、読書、作文、習字、算術、体 操、図画、唱歌とした。 ③ 中学校令: 中学校は実業に就く者、高等の学校に入学する者に教育をするところと 位置づけられ、尋常中学校(5 年)、高等中学校(2 年)に分けられ、1891 年/明治 24 年まで は公立中学校は1県1校とされた。高等中学校は文部大臣が所轄する官立学校で、第一(東 京)、第二(仙台)、第三(京都)、第四(金沢)、第五(熊本)、第六(岡山)、第七 (鹿児島)の7校を設け、実業と進学予備の両教育の役割を持っていたが、帝国大学の予 備教育機関としての性格が強かった。 ④ 師範学校令(1886 年/明治 19 年): 公立小学校長と小学校教員を養成する尋常師範 学校が各県に1校、尋常師範学校長と中等学校教員を養成する高等師範学校が東京に1校 設けられた。師範学校生徒の学費は公費とし、卒業後 10 年の服務義務を負い、そのうち 5 年間は府県知事指定の学校に勤務せねばならなかった。師範学校生徒には兵式体操を学科 課程にいれ、「順良」、「信愛」、「威重」の三気質を養うことが求められ、教師になる には「学力」よりも「人物」が重用され、教師により善良なる臣民を育成することが期待 された。これまでは、師範学校は最高学府で立身出世を望む学生など多士済々であったが、 師範学校令で統制が強化され、寄宿舎生活で軍隊式の教育も行なわれ、「真面目、着実、 親切、内向的、偽善的」という師範タイプができた。 ⑤ 教科用図書検定条例(1886 年/明治 19 年)が制定され、教科書の検定制が実施され、 1887 年/明治 20 年には、これが改訂され「教科用図書検定規則」が制定され検定制が実施 運営された。当初行政は教科書の内容について消極的関与であったが、1892 年/明治 25 年 の改訂で小・中・師範学校の教科書について積極的に関与するようになり、学年別、段階 的に編集していった。 (5)教育勅語の下賜(1890 年/明治 23 年、芳川顕正文部大臣) さらに国家意識を涵養することが進められ、ご真影の下付、紀元節・天長節・元日の拝 礼、紀元節・天長節の歌の演奏などが勧められ、1891 年/明治 24 年には「小学校祝日大祭 日儀式規定」で教育勅語を奉読することが指示された。 さらに徳育涵養・強化を進めることが各地の教育担当者から要請され、徳教に関する箴 言の編纂が進められ、国民道徳の面から国家体制を支える基本方向を示した教育に関する 勅語(教育勅語)が明治天皇から下賜された。勅語では国体が教育の源であることを示し、 天皇臣民である国民の守るべき徳目を列挙し、実践を通して皇運を扶翼するのが臣民の務 めであるとした。 日本の教育の歩み3 4 「小学校令」は行政命令である勅令として、1890 年/明治 23 年に新たに制定された。勅 令は国会審議で決められる法律ではなく、この方針は戦後まで堅持された。1891 年/明治 24 年制定の「小学校教則大綱」で修身教科書も検定され、授業時間も倍の 3 時間に増え、 徳目に重点が置かれた。 (6)学校教育の多様化と普及(1893 年/明治 26 年、井上毅文部大臣) 殖産興業の発展、それを支える職業人の養成のために「実業補習学校規定」「簡易農学 校規定」「徒弟学校規定」が制定され、中堅農民や下級職工の養成が目指された。 「高等学校令」(1894 年/明治 27 年)を制定し、高等中学校を高等学校に変更した。専 門教育を行う高等機関として、大学予備校としての性格を薄めようとしたが、逆に帝国大 学への進学希望者は増え、それに対応して京都(1897 年/明治 30 年)、東北(1907 年/明 治 40 年)、九州(1910 年/明治 43 年)に帝国大学を設置した。 一方で、専門教育を充実するために、「実業学校令」(1899 年/明治 32 年)を公布し、 高等教育機関として実業専門学校を規定し、さらに「専門学校令」を制定し、各種の専門 学校を高等専門学校として位置づけた(高等商業専門学校、高等工業専門学校など)。 実業学校には農業学校、商業学校、工業学校などがあった。 高等女学校は「中学校令」(1891 年/明治 34 年)改正で規定されたが、「高等女学校令」 (1899 年/明治 42 年)の制定で女子の中等教育機関としての高等女学校が確立された。し かし、高等女学校の修業年限は 4 年であり、良妻賢母のための家事や裁縫に重点が置かれ、 「高等女学校令」の改正(1910 年/明治 43 年)では家事・裁縫主体の実科高等女学校が設 置された。 1890 年代から児童の就学率は向上し、1900 年には 80%を超えた。 「小学校令」の改正(1900 年/明治 33 年)で就学猶予、免除の規定が明確化され、尋常小学校の義務就学期間は 4 年 に統一され、授業料は徴収しないことになった。1903 年/明治 36 年の「小学校令」改正で は教科書の国定制が実施され、国語読本、日本歴史、地理、修身教科書の国定化などで、 教育勅語の理念をさらに徹底した。さらに 1907 年/明治 40 年の「小学校令」の改正で義務 教育年限は 6 年に延長され(尋常小学校 6 年、高等小学校 2 年)、新たに第 2 期国定教科 書が作られた。日露戦争後の社会主義運動の高揚を危惧し、近代市民社会の倫理よりも家 族的国家倫理を重視するようになり、忠孝を一体で捉えるようになった。 明治初期の教師は聖職観が強かったが、資本主義の発達につれ、上級学校の整備も進み、 経済的に貧しい層が師範学校に進むようになり、教師の社会的地位も低下した。 教育制度が整備され、充実していくと、中央集権化、国家統制が進み、国民の役割を教 育を受ける学制の利用程度で分別されるようになり、教育を受ければ、能力のある人は社 会で大いに活躍することができた。この中で、女子については能力よりも性差別の方が優 先され、社会で活躍するよりは家庭での活動に制約されていた。また、国民は天皇の臣民 として、徳目を守り、実践を通して皇運を扶翼するのが務めであるという考えが進んでい った。 日本の教育の歩み3 5 120 100 80 60 40 20 0 男 女 総合 18 86 18 88 18 90 18 92 18 94 18 96 18 98 19 00 19 02 19 04 19 06 19 08 19 10 % 就学率 年 学制(明治 41 年/1908 年) 6歳 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 高等学校(予科) 中学校 21 22 帝国大学 高等専門学校 高等師範学校 尋常小学校 高等女学校 女子高等師範学校 高等 (予備科) 師範学校 小学校 実業学校(甲種) 実業学校(乙種) 教育勅語(教育に関する勅語、1890 年/明治 23 年) 朕惟フニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民 克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ国體ノ精華 ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友 相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學體ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳 器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレ ハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣 民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今 ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ擧々服膺シテ咸其徳ヲ 一ニセンコトヲ庶幾フ 参考文献 1)山田恵吾、貝塚茂樹編「教育史からみる学校・教師・人間像」梓出版社(2005.1.20) 以上 (2008.02.15 日本の教育の歩み3 SCE・Net 弓削 6 耕)
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