日本列島における中国鏡の 分配システムの変革と画期

国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
日本列島における中国鏡の
分配システムの変革と画期
Changes and Milestones of the Chinese Mirror Distribution System
in the Japanese Islands
上野祥史
UENO Yoshifumi
はじめに
❶中国鏡の生産と日本列島での動向
❷北部九州の分配システムの実態とその終焉
❸近畿地方の分配システムの形成過程と確立時期
おわりに
[論文要旨]
中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物で
ある。北部九州を中心とした弥生時代の鏡分配システムから,近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配シス
テムへの転換は,汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供
する。日本列島内における中国鏡の分配システムの変革という視点で評価を試みた。
北部九州を中心とする分配システムは,集積と形態という二つの指標から検討した。集積副葬は漢鏡 3
期鏡が流入する段階から漢鏡 5 期鏡が流入する段階,すなわち弥生時代中期後半から後期後半まで継続して
おり,配布主体と想定できる集積副葬墓が実在するこの期間を通じて分配システムは機能したと論じた。な
お,漢鏡 3 期鏡の序列の継続性を検討すべく,各段階の鏡の形態を検討した結果,早くも後期初頭の漢鏡 4
期鏡が流入する段階に,流入鏡に大きな変化が生じたことを指摘した。ここを起点に,弥生時代中期後半か
ら後期後半までの期間に日本列島に流入した鏡を中国世界の視点で評価した。この期間における漢鏡の流入
は安定性を以て形容されることが多いが,紀元前 1 世紀後葉に停滞期が介在するなど,決して一様ではない
ことを指摘したのである。
近畿地方を中心とする分配システムについては,その成立時期をめぐる議論を整理し,各地域社会にお
ける漢鏡 6・7 期鏡の保有状況を比較検討することが一つの視座を提供するがあることを主張し,瀬戸内海
沿岸・日本海沿岸・近畿地方・近畿地方以東に分けて各地域社会の様相を整理した。その結果,漢鏡 6・7
期鏡が流入する段階には,瀬戸内海沿岸地域の優位性を保ちつつ,北部九州から関東地方に至るネットワー
クが存在していたことを指摘した。そこに,卓越した配布主体は見出しにくく,後に卑弥呼を「共立」させ
る状況にも通ずる,「分有」された状況を想定したのである。
漢鏡 6・7 期鏡が流入する段階は,北部九州で分配システムが終焉を迎え,瀬戸内海ネットワークを中心
に汎日本列島規模の紐帯が形成された。2 世紀の庄内式期に生じた分配システムの変革を,列島内交易ルー
トの変質とも関連した一つの画期であることを改めて指摘した。
【キーワード】中国鏡,分配システム,地域社会,弥生時代,庄内式期
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国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
はじめに
舶載系文物の日本列島への流入は,日本列島の地域社会に大きな変化をもたらした。弥生時代か
ら古墳時代を通じて,受容した先進文物の分配は継続したのであり,新たな文物の受容は新たな分
配システムや国内生産を創出し,時代に画期をもたらしたのである。中国鏡は,弥生時代中期後半
から古墳時代前期前半を通じて,継続して日本列島に流入した舶載文物である。北部九州を中心と
した弥生時代の鏡分配システムから,
近畿地方を中心とした古墳時代の鏡分配システムへの転換は,
汎日本列島規模の政体が出現した古墳時代社会の成立過程を考える上で重要な視点を提供する。こ
こでは,弥生時代の終焉と古墳時代の黎明を,日本列島内における中国鏡の分配システムの変革と
いう視点から評価することにしたい。
❶……………中国鏡の生産と日本列島での動向
中国鏡は,弥生時代中期後半から古墳時代前期前半を通じて,日本列島に流入している。流入し
た中国鏡は,漢鏡と三国西晋期の模倣鏡である。漢代には,前漢・後漢 400 年を通じて,各時代の
思想を反映した新しい鏡が創出され続けた。特定の図像を指標とした鏡式の型式変遷を基礎としつ
つ,鏡式を越えて共有される要素によって様式段階を設定するものであり,7 期に区分されている
[岡村 1984・1993]
。漢鏡 7 期を鏡式の創出という視点で通覧すると,各期の特徴は以下のようにと
らえられよう。漢鏡 1 期は,戦国の伝統を引く龍文を主題とした蟠螭文鏡を創出した段階であり,
紀元前 2 世紀前半に相当する。漢鏡 2 期は,変形した龍文表現をもつ螭龍文鏡などが出現し,新た
に草葉文鏡が出現した段階であり,紀元前 2 世紀後半に相当する。漢鏡 3 期は,文字を主要な文様
とする異体字銘帯鏡を創出した段階であり,紀元前 1 世紀前葉から中葉に相当する。漢鏡 4 期は,
動物図像を細線で表現した方格規矩四神鏡や細線式獣帯鏡を創出した段階であり,紀元前 1 世紀後
葉から紀元 1 世紀前葉に相当する。漢鏡 5 期は,新たに内行花文鏡や盤龍鏡,画象鏡が出現した段
階であり,1 世紀中葉から後葉に相当する。漢鏡 6 期は,夔鳳鏡や神獣鏡が出現した段階であり,
2 世紀前半に相当する。漢鏡 7 期は,新たな鏡式を創出しないが,夔鳳鏡や神獣鏡などが新たな段
階を迎えた 2 世紀後半に相当する。3 世紀以後は,新しい鏡の創出をみず,方格規矩四神鏡や神獣
鏡など,漢鏡を模倣した生産が展開する[森下 1998a・車崎 2002]。
日本列島に漢鏡が流入するのは,弥生時代中期後半以後のことであり,以後漢鏡の流入は古墳時
代に至るまで継続する。初出という視点で,
漢鏡と出土する遺構の相対年代との関係を整理すれば,
漢鏡 3 期の鏡が弥生時代中期後半に,4 期の鏡が後期前半に,5 期の鏡が後期中頃から後半に,6
(1)
期の鏡と 7 期の鏡が庄内式期に,おおむね対応する。日本列島への流入は,漢鏡の製作順序を反映
したものといえよう。弥生時代中期以後の暦年代については,弥生時代中期と後期の境を紀元前後
に,後期と庄内式期との境を 2 世紀後半に,庄内式期と布留式期(古墳時代前期)の境を 3 世紀中
頃に求める見解が多い。鏡の製作年代と出土遺構との間には,若干の隔たりが生じているが,概ね
対応するものとみてよい。近年では,ウイグルマッチ法に基づく AMS 炭素 14 年代では,弥生時
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[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
代後期初頭が紀元前後に求められ,庄内式期の始まりが 2
世紀前半に遡る可能性が指摘されている[春成ほか 2011]。
また,土器様式の並行関係を基礎としつつ,石川県大友
西遺跡出土資料の年輪年代を参照した北陸地域での編年案
や[堀 2006],瑞龍寺山墳墓出土の内行花文鏡を位置づけ
た東海地域での編年案など[赤塚 2006],庄内式期の始ま
りを 2 世紀前半から中頃に求める暦年代体系が提示されて
いる。これらを踏まえると,庄内式期の始まりが 2 世紀前
半から中頃に遡る可能性は十分に考えうる。こうした年代
観は,先に指摘した漢鏡の製作年代とその流入時期の隔た
りを解消するものでもある(図 1)。同じ型式の鏡であれば,
中国出土鏡と日本列島出土鏡の間に,大幅な時間差を見積
もる必要がないことの指摘がある[岡村 2008]。それは弥
生時代を通じた漢鏡に広く適応されるものであり,中国鏡
の製作年代を以て遺構の年代を議論することが可能なとこ
(2)
ろにまで至っているのである。
さて,日本列島では,弥生時代から古墳時代にかけて,
中国鏡の分布の中心が北部九州から近畿地方へと転じる。
これは,出土遺構という視点で中国鏡を評価しても,流入
段階という視点で中国鏡を評価しても,等しく指摘できる
現象である[辻田 2007b,岡村 1999]。弥生時代中期後半か
ら後期後半まで,漢鏡 3 期から 6 期の鏡が流入する段階に
中
国
鏡
様
式
暦
年
代
漢
鏡
2
期
時
期
区
分
弥
B.C.100
生
漢
鏡
3
期
時
漢
鏡
4
期
期
代
中
A.D.1
後
漢
鏡
5
期
漢
鏡
6
期
漢
鏡
7
期
期
A.D.100
庄
A.D.200
に漢鏡 7 期が流入する段階には,北部九州は日本列島の鏡
式
期
創
作
模
倣
鏡
おいては,鏡保有の中心地は北部九州にあった。庄内式期
内
布
留
式
期
図1
保有の中心地ではない。古墳時代前期(布留式期)に三国西晋鏡が流入する段階には,鏡保有の中
心地は近畿地方へと移動する。外部より入手した鏡という器物を分配する論理には,同時代の社会
形態が反映されている。分布の中心に分配システムを運営した中枢があり,鏡の「分配システム」
の変容は,社会の統合原理の変革を最も端的に示している。ここでは,北部九州を中心とする分配
システムと近畿地方を中心とする分配システムについて,その実態を把握し,両システムの形成と
変容過程を重ねることにより,時代の変革とその位置づけを論ずることにしたい。
❷……………北部九州の分配システムの実態とその終焉
1)数量と形態という視点
弥生時代中期後半には,漢鏡 3 期の鏡を中心に多様な形態の中国鏡が流入した。異体字銘帯鏡Ⅲ
式には,16cm 以下の中型鏡と,10cm 以下の小型鏡が存在しており,多様な面径が存在する状況
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国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
を反映した序列が存在したのである。なお,漢鏡 2 期の古い鏡はいずれも面径が 20cm 前後あるい
はそれ以上の大型鏡であり,古い大型鏡を交えてより細かな序列が表現されていたのである。福岡
県須玖岡本 D 地点甕棺や同三雲南小路 1 号甕棺では,大型鏡を含みかつ中型鏡と小型鏡を大量に
保有しており,福岡県立岩 10 号甕棺では中型鏡を複数保有しており,山口県稗田地蔵堂遺跡や福
岡県立岩 35 号甕棺では中型鏡を単面保有しており,佐賀県柏崎田島 6 号甕棺や福岡県立岩 39 号甕
棺では小型鏡を単面保有していた。中期後半の北部九州社会には,漢鏡の形態と数量により表現さ
れる序列が存在していた。この序列は,中細形の武器形青銅器と鉄戈の保有や,ガラス璧や金銅製
四葉座金具などの漢系文物の保有とも対応関係をもち,様々な器物の保有を通じて表現される階層
構造の存在を想定する見解が一般的である[下條 1991,高倉 1993,岡村 1999]。この序列を特徴づけ
るのは,数量と形態という二つの指標である。北部九州の分配システムの変容と終焉を,この二つ
の指標で検討してみよう。
まず,漢鏡を多量副葬する墓についてであるが,現状では,福岡県須玖岡本 D 地点甕棺,同三
雲南小路 1 号甕棺・2 号甕棺,同立岩 10 号甕棺,同井原鑓溝遺跡,同平原 1 号墓が挙げられる。
いずれも甕棺墓地帯での副葬にかかり,中期後半から後期後半にかけての時期に継続するものであ
る。須玖岡本 D 地点甕棺出土鏡は,漢鏡 2 期の草葉文鏡と漢鏡 3 期の異体字銘帯鏡・星雲文鏡で
構成しており,三雲南小路 1 号甕棺出土鏡も,漢鏡 2 期以前の羽状地文鏡と彩画鏡と漢鏡 3 期の異
体字銘銘帯鏡で構成する。同 2 号甕棺出土鏡では,漢鏡 3 期の異体字銘帯鏡と星雲文鏡で構成して
おり,立岩 10 号甕棺出土鏡でも,漢鏡 3 期の異体字銘帯鏡で構成している。これらは,漢鏡 3 期
の鏡を多量に副葬する墳墓としての共通点をもつ。井原鑓溝遺跡出土鏡は,外区片など鏡式を判別
できないものも含むが,大半が漢鏡 4 期の方格規矩四神鏡で構成している[岡村 1999・2008]。平
原 1 号墓出土鏡は,評価が分かれる大型内行花文鏡を除けば,漢鏡 4 期の雲気禽獣文鏡と方格規矩
四神鏡,そして漢鏡 5 期の方格規矩四神鏡と内行花文鏡で構成しており,その中心は漢鏡 5 期の鏡
である。
北部九州では,
漢鏡 3 期鏡,
4 期鏡,
5 期鏡を対象にした漢鏡の多量副葬墓が存在しているのである。
細かくみれば,漢鏡 4 期前半の鏡を多量に副葬した墓が存在しないことには注意が必要であるが,
漢鏡様式のレベルでは平原 1 号墓まで漢鏡の多量副葬は切れ目なく継続する。その後は,北部九州
だけでなく日本列島では,古墳時代前期(布留式期)に三角縁神獣鏡の副葬が始まるまで,中国鏡
を多量に副葬する墓は存在しない。漢鏡の多量副葬という視点では,漢鏡 5 期鏡と 6 期鏡の間に大
きな変化が生じたといえよう。
これは,多量と呼べないまでも複数面副葬する墓でも同じ傾向が指摘できる。佐賀県桜馬場遺
跡では,漢鏡 4 期の方格規矩四神鏡 2 面と漢鏡 5 期の内行花文鏡を副葬していた。それに継続する
中原遺跡 ST13415 では,漢鏡 5 期の方格規矩四神鏡と内行花文鏡が各 1 面出土していた[小松編
2012]
。なお,中原遺跡 ST13415 は方形周溝墓であり,規模も構造・形態もともに平原 1 号墓とほ
ぼ同じである。中原遺跡 ST13415 と平原 1 号墓では,副葬する漢鏡の面数に大きな隔たりがある
ものの,鏡の様式段階は同じであり,出土遺構が類似する状況は重要である。なお,中原遺跡では,
ST13415 に継続して前方後円墳形の ST12032 を築造している。唐津地域(末盧)と糸島地域(伊都)
では,漢鏡を副葬する弥生時代の首長墓の終焉に共通した様相がみえるのである。
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[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
次に,形態の違いに着目してみよう。漢鏡 3 期鏡には,多様な面径が存在しており,形態の違い
は明確である。しかし,漢鏡 4 期鏡では,流入する漢鏡の形態が小さくなる。桜馬場遺跡で出土し
た漢鏡 4 期末の方格規矩四神鏡Ⅳ式を除けば,日本列島に流入した漢鏡 4 期鏡に大型鏡は不在であ
る。須玖岡本 B 地点出土鏡や,井原鑓溝遺跡出土鏡や佐賀県三津永田 104 号甕棺出土鏡などの中
型鏡と,福岡県宝満尾遺跡出土鏡や佐賀県二塚山 29 号土壙墓出土鏡などの小型鏡に限られる。漢
鏡を多量に副葬する井原鑓溝遺跡においてすら,大型鏡は欠如しているのである。なお,漢鏡 4 期
鏡が流入する段階には,鏡を破砕する行為が発生している[藤丸 1993,岡村 1999]。破砕が信仰や
観念に由来する側面をもつ一方で,ガラス璧など他の器物を分割する例も存在することから,鏡の
破砕が数量による分配が不可能な稀少性の高い器物を分割する,分配を目的とした一面があること
(3)
には注意しておきたい[岡村 1999]。そして,この時期には漢鏡 3 期の異体字銘帯鏡(Ⅲ式)を模倣
した小形仿製鏡の製作が始まっており[田尻 2004],漢鏡中型鏡―漢鏡小型鏡―小形仿製鏡という
形態の違いが存在していたことになる。小形仿製鏡には,10cm 以下の面径にこそ重要な意味があ
ると考える。日光鏡と通称される漢鏡 3 期鏡の小型鏡は,日本列島で最も序列の低い鏡であり,同
時に普及・受容する階層が最も広いものであった。小形仿製鏡は,内行花文表現を強く意識したこ
とが指摘されているが[田尻 2004・2010],それは異体字銘帯鏡Ⅲ式の小型鏡(いわゆる日光鏡)が
もつ 10cm 以下という形態を強く意識した結果ではないか。小形仿製鏡に 10cm を越えるものが数
少ないことも,その感を強くする。後期前半段階には,漢鏡 4 期鏡の流入状況に対応して,鏡の序
列を維持しようと志向した結果,破砕行為や小形仿製鏡を創出したと評価しておきたい。
そして,漢鏡 5 期鏡には大型鏡や中型鏡が存在するものの,破砕行為や小形仿製鏡の生産は継続
しており,漢鏡 4 期鏡の流入を契機とした新たな序列を継続する形で,形態の違いが存続すること
になる。漢鏡 6 期鏡と 7 期鏡には,北部九州で鏡片・破鏡の事例が増える。逆に破砕を受けない漢
鏡 6 期鏡,7 期鏡は皆無といってよい。漢鏡 6 期鏡では蝙蝠座内行花文鏡や画象鏡が,漢鏡 7 期鏡
では画文帯神獣鏡などが破砕の対象となり,三国西晋鏡では,三角縁神獣鏡や模倣神獣鏡(画文帯
四獣鏡)などが対象となっている。北部九州における破砕行為は,三国西晋鏡の創作模倣鏡が流入
(4)
する古墳時代前期まで継続するのである。
こうした実態をふまえて,漢鏡 3 期鏡が流入する中期後半に成立した分配システムについて,数
量と形態という二つの指標による評価をまとめてみよう。多量副葬は,漢鏡 3 期鏡から漢鏡 5 期鏡
を対象として継続するのである。一方,形態については,漢鏡 3 期鏡に面径の違いによる序列が存
在していたが,
漢鏡 4 期鏡では大型鏡の不在を遠因として破砕行為や小形仿製鏡が新たに創出され,
新たな序列が形成された。破砕行為は三国西晋鏡が流入する古墳時代前期まで継続し,小形仿製鏡
も弥生時代後期を通じて生産を継続するなど,漢鏡 4 期鏡の流入を契機として新たに形成した序列
は弥生時代後期を通じて継続したのである。かつて,漢鏡 3 期鏡の整然とした序列を一過的と指摘
したが[上野 2011],むしろ多様な形態の鏡が流入することを背景とした特異な状況として評価し
ておきたい。漢鏡を多量に保有する中核的存在は,分配システムを機能させた配布主体の存在を明
示するものでもある。漢鏡 6 期鏡が流入する段階における中核的存在の不在は,分配システムの終
焉を意味していよう。なお,破鏡の流通に配布主体が見出しにくいことは,その点を首肯する[辻
田 2007b]。漢鏡 6 期鏡を境にして,北部九州の分配システムは大きな画期を迎えたのである。
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国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
2)北部九州の分配システムを左右する中国世界の事情
日本列島への中国鏡の流入は,漢王朝への遣使という政治交渉を契機としている。漢鏡は中国世
(5)
界から直接もたらされたのであり,入手した鏡の形態は漢王朝による倭の評価を反映する。漢鏡 3
期鏡から 5 期鏡まで流入が継続しつつも,その形態に違いが生じた背景は,何なのであろうか。漢
鏡 4 期鏡に大型鏡が不在である背景について考えてみたい。漢鏡 4 期前半の鏡には,雲気禽獣文鏡
Ⅰ式や,異体字銘帯鏡Ⅴ式などに大型鏡が存在している。雲気禽獣文鏡では北京大葆台 1 号漢墓出
土鏡があり,異体字銘帯鏡には「
冶鉛華清且明」や「日有熹月有富」で始まる銘文をもつ鏡群が
あり,江蘇揚州宝女墩漢墓や山東五蓮張仲 漢墓をはじめ陝西西安など各地で大型鏡が出土してい
る。少なくとも,諸侯王墓やそれに類する墓を中心に大型鏡が出土しているのである。そして,楽
浪郡地域でも,王光墓から異体字銘帯鏡Ⅴ式の大型鏡が出土している。ところが,日本列島が入手
した漢鏡 4 期前半の鏡には大型鏡が存在せず,数そのものが少ない。さまざまな形態の鏡が流入し
た漢鏡 3 期とは対照的である。中国世界には大型鏡が存在しているので,日本列島への流入が限定
的であったということになる。
漢鏡 3 期鏡の流入状況は,外夷を厚遇する漢帝国の事情を反映したものであった。紀元前 1 世紀
前半は,漢帝国の周辺地域が安定し,外夷が帰属あるいは内附する時期にあたる。中でも象徴的な
のは,呼韓邪単于の率いる匈奴が漢に帰属したことである。外夷の朝貢や遣使は,辺境の安定とい
う実益をもたらすだけではなく,慶ぶべき祥瑞として認識され,中国世界では象徴的な意味を以て
取り扱われたのである[岡村 2008]。こうした漢帝国の事情を反映して,大型鏡を含む多様な形態
の漢鏡 3 期鏡が流入した。漢鏡 3 期鏡の流入は,漢帝国側にも起因した一種のバブル現象であった。
それに対して,紀元前 1 世紀後葉の漢鏡 4 期前半期は,その熱が冷めた状態にあったといえよう。
楽浪郡と三韓社会との相互交渉においても同じ様相がみえている。漢鏡 3 期の鏡が流入した三韓Ⅱ
期には漢系文物を積極的に受容するが,それ以後の三韓Ⅲ期やⅣ期にかけて,三韓社会への漢系文
物の流入は停滞する[高久 2000・2002]。こうした漢系文物の周辺社会への流通とも共通した現象が,
日本列島へ流入する漢鏡でも生じていたことになろう。日本列島に流入する漢鏡の変化は,中国世
界の外夷に対する評価が変化したことを反映する。それは,紀元前後に王莽が実権を握り,外夷を
冷遇する傾向を強めたことにも関連した動きでもあろう。
漢鏡 4 期鏡に大型鏡を欠く事態に対応して,北部九州を中心とする日本列島では,漢鏡 3 期鏡の
序列を改変したのである。小形仿製鏡や鏡の破砕行為の出現は上述の事情と整合的であり,大半が
異体字銘帯鏡Ⅲ式を模倣する小形仿製鏡に,創作当初は細線式獣帯鏡や雲気禽獣文鏡など漢鏡 4 期
の鏡の要素を抽出して取り込むあたりに,
この時期の様相が反映されていよう。早くに指摘された,
破鏡や小形仿製鏡の発生を漢鏡流入の不足に起因させた見解は,ある一面で正鵠を射たものといえ
よう[高倉 1972・1985・1995]。
一方,漢鏡 5 期鏡には,桜馬場甕棺や平原 1 号墓など,方格規矩四神鏡や内行花文鏡など大型鏡
が存在する。その流入の背景には,光武帝中元二年(A.D.57)や安帝永初元年(A.D.107)の遣使と
の関わりが想定できるが,大型鏡の入手は,倭への評価が旧態に復したことと関係するのであろう。
佐賀県三津永田 104 号甕棺で漢鏡 4 期末の鏡とともに最新鋭の武装である素環頭大刀を副葬するよ
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[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
うに,その端緒は漢鏡 5 期鏡よりも少しさかのぼる。ここで注意したいのは,弥生時代の日本列島
社会が殆ど鉄鏡を入手していないとことである。後漢時代には,中国世界では,諸侯王をはじめと
して鉄鏡を副葬する事例が増加してくる。その初例は,河北定県北荘漢墓であり,北荘漢墓は永元
二年(A.D.90)に没した中山簡王劉焉の墓である。後漢後期に比定される甘粛武威雷台漢墓では,
将軍章銀印とともに象嵌鉄鏡が出土した。また,河南洛陽でも,焼溝や西郊などの都市近郊墓地で
も後漢後期には鉄鏡を副葬する事例が多くなる。2 世紀を境として,鉄鏡を銅鏡よりも上位とする
価値が中国世界では定着したのである。北荘漢墓と平原 1 号墓はともに,漢鏡 5 期の鏡を中心に副
葬鏡を構成しており,その暦年代も大きな隔たりはないと考える。両者は保有する銅鏡に遜色はな
いものの,鉄鏡をめぐり大きな違いが存する。弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に流入した
鉄鏡は,大分県ダンワラ古墳出土の象嵌鉄鏡など,数例に限られる。政治交渉を背景に日本列島は
大型の銅鏡は入手しえても,
中国世界で高い価値をもつ鉄鏡を入手するには至らなかったのである。
それは,外夷としての評価の限界でもあったのだろう。
なお,2 世紀以後は漢王朝の内政事情や匈奴,鮮卑,羌など周辺諸民族との抗争により,外夷へ
の対処が受け身にまわる。直接境界を接さない外夷との関係は理念的・象徴的であり,消極的な関
与へと転換する。現実対応に追われた 2 世紀の漢王朝の実態が,日本列島への漢鏡 6 期鏡や 7 期鏡
の流入状況にも反映されているのであろう。その点で,紀元 100 年頃を前後する漢鏡 5 期鏡の流入
も,漢鏡 3 期鏡と同じく,一過性のバブル的な現象と評することもできよう。このように,北部九
州の多量副葬墓は,漢王朝の事情を反映したものであり,漢鏡の取り扱いには中国世界の事情に大
きく左右されるものであったと理解しておきたい。
❸……………近畿地方の分配システムの形成過程と確立時期
1)近畿の分配システムの成立時期をめぐる議論
(6)
古墳時代には,鏡の分布中心が北部九州から近畿地方へと転じる。三角縁神獣鏡に代表される三
国西晋鏡の流入は,近畿地方を中心とした分布を形成しており,前方後円墳の形勢と同じ様相を示
している。古墳時代の器物配布システムの一つとして,鏡の流通も理解できるのであり,三角縁神
獣鏡を配布する段階には近畿地方を中心とする鏡分配システムが成立していたという見解に異論は
ない。
近畿地方の鏡保有はどの段階まで遡れるのであろうか。姿のみえない伝世鏡をさておいて,実在
する資料に基づけば,漢鏡 3 期鏡や 4 期鏡の鏡片や小形仿製鏡が存在することと,漢鏡 3 期鏡を模
倣した非九州系の小形仿製鏡が存在することから,北部九州に漢鏡 3 期の鏡が流入する中期後半以
後,近畿地方にも中国鏡が存在していたことは確かである[上野 2011]。
近畿地方を中心とする鏡分配システムの成立時期に関しては,現状で 3 つの意見が並立してい
る。一つは,三角縁神獣鏡を以て成立したと考える見解であり[辻田 2007b],一つは漢鏡 7 期鏡を
以て成立したと考える見解である。漢鏡 7 期鏡に成立を求める場合にも,漢鏡 7 期を細分して画文
帯神獣鏡を以て成立したとする見解と[岡村 1999],細分をせずに漢鏡 7 期に成立したとする見解
355
国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
がある[福永 2005a・b]。ここでは,それぞれ三角縁説,画文帯説,漢鏡 7 期説と呼ぶことにしよう。
そこには,漢鏡 7 期鏡をめぐる取り扱いと,出土鏡をめぐる「遺物論」と「遺構論」という評価す
る視点の違いが見いだせる[上野 2011]。
まず,漢鏡 7 期鏡について,整理してみよう。現状の後漢鏡研究の成果は,近畿の分配システ
ムの議論に影響を及ぼす。画文帯説では,漢鏡 7 期の区分は,画象鏡や夔鳳鏡,上方作系浮彫
式獣帯鏡を第 1 段階とし,画文帯神獣鏡を第 2 段階として,斜縁神獣鏡を第 3 段階とする[岡村
1999]
。しかし,第 1 段階とした画象鏡は,製作年代が 1 世紀の漢鏡 5 期にまで遡り[上野 2001,岡
村 2010],その製作は漢鏡 7 期まで継続する。夔鳳鏡も,漢鏡 6 期と 7 期からの 3 世紀を通じて生
産が継続しているのである[秋山 1998]。画文帯神獣鏡についても,第 1 段階とした諸鏡に必ずし
も後出するとは限らず,斜縁神獣鏡も「吾作明鏡」で始まる四言句の定型銘文をもつものが大半で
あり,画象鏡や画文帯神獣鏡と同じ段階の製作が想定され,殊更三国時代に下げて考える必要はな
い。少なくとも,鏡の製作年代を考える上では,漢鏡 7 期を細分することは難しい。日本列島への
流入を考える上での便宜的な区分という断りを反映するように,漢鏡 7 期の細部は分布状況の違い
に注目した理論的な枠組みである色彩が強い。加えて,画象鏡や夔鳳鏡,あるいは神獣鏡のように,
漢鏡 6 期と漢鏡 7 期を通して生産が継続する鏡には,鏡式のみで漢鏡 6 期鏡と 7 期鏡を単純に区分
することは難しくなっているのが現状である。
そして,画文帯神獣鏡は漢鏡 7 期の諸鏡と比べて,必ずしも面径が大きいとは限らない。画文帯
神獣鏡も,上方作系浮彫式獣帯鏡も斜縁神獣鏡も,前章で指摘した北部九州の指標では,いずれも
中型鏡の範疇に収まる鏡が大半である。画象鏡も画文帯神獣鏡も斜縁神獣鏡も,その一部には面径
が 18cm を越える大型鏡を含んでいる。北部九州を中心とした弥生時代でも,古墳時代前期以降で
も,面径という形態の違いは,序列を決定する重要な指標である[辻田 2007b,下垣 2011]。弥生時
代から古墳時代を通じて,
「鏡式」よりも「大きさ」により意識が強く働いていたと考えるのが妥
当ではないだろうか。漢鏡 7 期説の見解が,近畿地方を中心とする分配システムの成立を考える上
では,比較的整合性をもつと考える。
さて,三角縁説と画文帯説・漢鏡 7 期説とでは,出土鏡の入手時期と副葬時期をめぐる認識が異
なっている。三角縁説では,出土鏡の入手時期を古墳への副葬時期に引きつけて考えるため,庄内
式期の分布状況を以て近畿を中核とする状況が成立していないと判断する。入手時期と副葬時期と
の関係をめぐる,この遺構論と遺物論ともいうべき見解の相違が三角縁説と漢鏡 7 期説・画文帯説
とを区分する。しかし,広島県石鎚山 2 号墳や奈良県池殿奥 4 号墳など,弥生時代に入手した破鏡
や小形仿製鏡を古墳に副葬する例がある[辻田 2005]。長期保有を経て副葬する事例の存在は,必
ずしも入手時期が副葬時期に近接するとは限らないことを示している。それは,古墳時代の三角縁
神獣鏡の配布と副葬に関する議論と共通した一面をもつ。三角縁神獣鏡は,大半が古墳時代前期
に副葬されるのであるが,一部には古墳時代中期に帯金式甲冑とともに副葬している。これに対し
て,入手時期を副葬時期に引きつけて,古墳時代中期に帯金式甲冑と三角縁神獣鏡を配布したとす
る見解に対して[田中 1993],帯金式甲冑と三角縁神獣鏡の配布時期が異なるとする見解が対立し
ていた[森下 1998b]。後者は,新たな器物を入手し創出する古墳時代にあって,同一の器物を長期
にわたり配布を継続することは,配布システムの本質と相容れないものとして,副葬時期と入手時
356
[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
期が必ずしも近接しないことを指摘したものである。入手から保有へそして副葬へという,鏡のラ
イフヒストリーに着目すれば,保有の継続か副葬に供するのかを決定するのは地域社会であり,地
域社会の事情が副葬時期を決定するという後者の見解は有力である[森下 1998b,下垣 2011,上野
2012a]
。そして,入手した鏡を地域社会で長期にわたり保有する行為は,弥生時代にも古墳時代に
も存在するのである。
古墳時代中期後半に分配された同型鏡でも,副葬時期は地域社会の事情によっ
て異なる[川西 2004,上野 2012b]。先に指摘した,石鎚山 2 号墳や池殿奥 4 号墳などの事例と併せ
れば,弥生時代から保有を継続した鏡を古墳に副葬に供する事例は,決して特殊な現象ではないの
である。弥生時代でも古墳時代でも地域社会において鏡の保有を継続することから,近畿地方を中
心とする分配システムの成立は,分布を集積して検討する画文帯説もしくは,漢鏡 7 期説の見解を
支持しておきたい。
このことは,古墳という視点ではなく地域社会という視点で鏡の入手や保有,副葬を検討するこ
との重要性を指摘するものである。古墳とは,保有された鏡にとっては,廃棄する場に過ぎない。
それは,鏡の保有が特定個人(首長)へと帰属するとは限らないことを示すものでもある。近畿シ
ステムの成立時期については,配布主体の確立に議論が集中しており,地域社会という視点での検
討は十分に進められていない。配布主体の視点ではなく,分配される側の比較検討を通じても,分
配システムの成立を議論する可能性は存する[辻田 2007a,下垣 2011,上野 2012a]。また,漢鏡 6 期
鏡と 7 期鏡を鏡式のみでは区分しがたい一面があることをふまえ,漢鏡 6・7 期鏡を一括した検討
も必要であると考える。それは,漢鏡 6 期鏡の取り扱いを以て,北部九州の分配システムが変容す
ることとの関係も議論しうるものである。ここでは,各地域社会が保有する漢鏡 6・7 期の鏡と三
国西晋期の創作模倣鏡を整理し,地域社会という視点から近畿の分配システムの成立時期について,
検討してみたい。地域社会とは,厳密な意味での集落との対応を検討したわけではない。河川や平
野など地理環境によって区分される一定の空間に漢鏡がどれだけ存在するのかを集積して検討した
結果である。汎日本列島規模で分布を集積し,分布の中心に配布主体を抽出して分配システムを論
じることが有効である以上,一地域に注目して入手した鏡を集積して検討する視点も有効である。
漢鏡 6・7 期の鏡が複数存在する地域を対象として,瀬戸内海沿岸及び日本海沿岸,近畿地方と近
(7)
畿地方以東に分けて,その保有状況を整理した。
2)地域社会が保有する漢鏡 6・7 期鏡
①瀬戸内海沿岸
広島県芦田川下流域 芦田川が下流域で東から南へと流れを変える付近に盆地を形成する福山
市駅家町や加茂町,神辺町周辺の地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 5 面出土している。蝙蝠座内行花文
鏡 1 面(石鎚山 2 号墳)と,飛禽鏡(破鏡)1 面(石鎚権現 5 号墳),上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(池
ノ坊古墳,伝福山市駅家町出土),斜縁神獣鏡 1 面(石鎚山 1 号墳) と斜縁四獣鏡 1 面(蔵王原古墳)
(8)
である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 1 面(掛迫 6 号墳)が出土している。
岡山県赤磐市周辺 赤磐市山陽町周辺の地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。画象
鏡 1 面(用木 1 号墳)と,上方作浮彫式獣帯鏡 1 面(吉原 6 号墳)である。三国西晋鏡では,模倣方
格規矩鏡 1 面(吉原 6 号墳)が出土している。なお,中国鏡とは異なるが,非九州系の小形仿製鏡
357
国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
3 面(便木山遺跡・用木 2 号墳・さくら山方形台状墓)が出土している。
愛媛県今治市周辺 今治平野とその縁辺部付近では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。上
方作浮彫式獣帯鏡 1 面(姫路山古墳)と,画象鏡 1 面(国分古墳)である。三国西晋鏡では,舶載三
角縁神獣鏡 1 面(国分古墳)が出土している。なお,当地域に近接する高縄半島部でも,漢鏡 6・7
期鏡の画象鏡 1 面(相の谷 1 号墳)と上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(妙見山 1 号墳)が出土している。
一つの地域としてまとめるのは困難であるが,漢鏡 7 期鏡がまとまって流入する広域圏として評価
することも可能であろう。
香川県石清尾山周辺 本津川・香東川の両岸にひろがる台地周辺地域では,漢鏡 6・7 期鏡が
4 面出土している。蝙蝠座内行花文鏡 1 面(猫塚古墳)と,上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(猫塚古墳・
今岡古墳),斜縁四獣鏡 1 面(猫塚古墳)である。三国西晋鏡では,倭製三角縁神獣鏡 1 面(猫塚古墳)
と模倣方格規矩鏡 1 面(石清尾山古墳群)が出土している。
香川県旧大川郡地域 さぬき市津田町,寒川町の雨滝山・火山周辺の地域では,漢鏡 6・7 期
鏡が 3 面出土している。画文帯神獣鏡が 2 面(奥 14 号墳),斜縁神獣鏡が 1 面(岩崎山 4 号墳)であ
る。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 1 面(奥 3 号墳)が出土している。なお,この地域から少
し離れたさぬき市長尾町の山間部にて,漢鏡の画文帯神獣鏡 1 面(丸井古墳)と三国西晋鏡の舶載
三角縁神獣鏡片と双頭龍文鏡(ともに是行谷古墳群)が出土している。これらも含めれば,漢鏡 6・
7 期鏡が集中する地域の一つとして評価することができよう。
徳島県吉野川下流域北岸 鳴門市大麻町と板野郡板野町に相当する吉野川下流域北岸では,漢
鏡 6・7 期鏡が 7 面出土している。上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(天河別神社 5 号墳・西山谷 2 号墳)と,
画文帯神獣鏡 3 面(萩原 1 号墓・阿王塚古墳)と,斜縁神獣鏡 2 面(天河別 4 号墳・5 号墳)である。
三国西晋鏡の出土は未見である。
②日本海沿岸
島根県東部地域 飯梨川西方の丘陵地周辺で安来市荒島と松江市揖屋周辺に相当する地域で
は,漢鏡 6・7 期鏡が 1 面出土している。画象鏡 1 面(寺床 1 号古墳)である。三国西晋鏡では,舶
載三角縁神獣鏡 1 面(大成古墳)と倭製三角縁神獣鏡 1 面,模倣方格規矩鏡 2 面,模倣神獣鏡 1 面
(9)
(いずれも造山 1 号墳)が出土している。なお,島根県出雲西部においても,漢鏡 7 期の上方作系浮
彫式獣帯鏡 1 面(松本 1 号墳)が出土し,三国鏡の景初三年銘三角縁神獣鏡 1 面(神原神社古墳)が
存在するなど,様相が共通している。漢鏡 6・7 期鏡の存在は 1 面であるが,両地域の類似性を参
照すべく取り上げた。
鳥取県西部地域 法勝川下流域にあたり,西伯郡会見町,淀江町,米子市に相当する地域では,
漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(石州府 19 号墳)と,画文帯神獣
鏡 1 面(浅井 11 号墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 2 面(普段寺 1 号墳)と模倣神
獣鏡 1 面(中西尾 6 号墳)が出土している。
鳥取県中部地域 倉吉市国府及び上神周辺の限定された地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 3 面出土
している。夒鳳鏡 1 面(国分寺古墳)と,画象鏡 1 面(国分寺古墳),画文帯神獣鏡 1 面(伝倉吉市上
神出土)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 3 面(国分寺古墳・伝倉吉上神出土)と倭製三
358
[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
角縁神獣鏡 1 面(上神大将塚古墳)が出土している。
③近畿地方
兵庫県六甲山麓海浜地域 神戸市灘区と東灘区に相当する六甲山南麓東部地域では,漢鏡 6・
7 期鏡が 9 面出土している。浮彫式獣帯鏡 2 面(西求女塚古墳),夒鳳鏡 1 面(ヘボソ塚古墳),上方
作系浮彫式獣帯鏡 1 面(ヘボソ塚古墳),画文帯神獣鏡 4 面(西求女塚古墳・東求女塚古墳・ヘボソ塚
古墳),斜縁神獣鏡 1 面(ヘボソ塚古墳)である。そして,三国西晋鏡は,舶載三角縁神獣鏡 13 面(西
求女塚古墳・東求女塚古墳・ヘボソ塚古墳),模倣画象鏡 1 面(西求女塚古墳)
,模倣唐草文鏡 1 面(一
王山十善寺古墳)が出土している。
大阪府淀川北岸地域 高槻市から茨木市域にかけての地域に相当する。やや広汎な範囲に及ぶ
ため,芥川安威川間地域と安威川西岸域にわけてみよう。芥川安威川間地域では,漢鏡 6・7 期鏡
は方格規矩四神鏡 1 面(弁天山 B2 号墳)のみである。三国西晋鏡では,倭製三角縁神獣鏡 3 面(弁
天山 C1 号墳・塚原古墳群)と模倣神獣鏡 1 面(弁天山 C1 号墳)が出土している。一方,安威川西岸
地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(安威 0 号墳)と,斜縁
四獣鏡 1 面(安威 0 号墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 1 面と倭製三角縁神獣鏡 9 面(い
ずれも紫金山古墳)が出土している。
京都府向日丘陵周辺 桂川西岸の向日丘陵周辺にあたり,向日市寺戸町から京都市西京区樫原
に相当する地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。浮彫式獣帯鏡 1 面(寺戸大塚古墳)と,
上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(百々池古墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡 6 面(北山古墳・
寺戸大塚古墳・百々池古墳)と倭製三角縁神獣鏡 5 面(寺戸大塚古墳・百々池古墳・妙見山古墳),そし
て模倣神獣鏡 2 面(百々池古墳・芝山古墳)と模倣獣帯鏡 1 面(一本松古墳)が出土している。
京都府木津川東岸地域 巨椋池と木津川に挟まれた地域であり,城陽市久世,平川に相当する
地域では,漢鏡 6・7 期鏡が 5 面出土している。盤龍鏡 1 面(伝西山古墳群)と,飛禽鏡 1 面(上大
谷 15 号墳),画文帯神獣鏡 3 面(西山 4 号墳,箱塚古墳,車塚古墳)である。三国西晋鏡では,舶載
三角縁神獣鏡 4 面(西山 2 号墳,箱塚,車塚)に倭製三角縁神獣鏡 1 面(伝車塚),模倣夒鳳鏡 1 面(上
大谷 6 号墳)が出土している。
京都府木津川西岸地域 木津川下流域西岸にあたり,八幡市域に相当する地域では,漢鏡 6・
7 期鏡が 4 面出土している。夒鳳鏡 1 面(美濃山王塚古墳)と,上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(西の口
古墳)
,画文帯神獣鏡 2 面(石不動古墳・西車塚古墳)である。三国西晋鏡では,舶載三角縁神獣鏡
3 面(西車塚古墳,東車塚古墳,内里古墳)と,模倣神獣鏡 1 面(伝石不動古墳),模倣内行花文鏡 1
面(美濃山王塚古墳),模倣方格規矩鏡 1 面(ヒル塚古墳)が出土している。
奈良盆地東南部地域 天理市から桜井市域にかけての地域であり,古墳時代前期には大型前方
後円墳が密集した大和古墳群が造営される地域をふくむ。ここでは,未調査の古墳が数多く存在し
ており,大和天神山古墳など数例に限られている。この地域の北半では,漢鏡 6・7 期鏡が 6 面と,
三国西晋鏡が 37 面出土している。漢鏡 6・7 期鏡は,上方作系浮彫式獣帯鏡 2 面(天神山古墳,中
山大塚古墳)と,画文帯神獣鏡 2 面・画像鏡 2 面(ともに天神山古墳)である。三国西晋鏡は,舶載
三角縁神獣鏡 33 面(黒塚古墳)と模倣神獣鏡 3 面(天神山古墳,黒塚古墳)と模倣獣帯鏡 2 面(天神
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国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
山古墳)である。南半では,画文帯神獣鏡 3 面(ホケノ山古墳,伝ホケノ山古墳,伝箸中出土)と模倣
神獣鏡 1 面(ホケノ山古墳)が出土しており,漢鏡 6・7 期鏡が 4 面は確認できる。なお,盆地南辺
の茶臼山古墳では,漢鏡 6・7 期鏡の縁神獣鏡,画像鏡,画文帯神獣鏡等の鏡片と,三国西晋鏡の
模倣神獣鏡や舶載三角縁神獣鏡の破片が出土している。
奈良盆地西部地域 馬見丘陵とその周辺地域にあたり,北葛城郡域に相当する。ここでは,漢
鏡 6・7 期鏡が 4 面出土している。画像鏡 2 面(黒石山古墳) と斜縁神獣鏡 2 面(佐味田宝塚古墳)
である。三国西晋鏡は 2 面出土しており,舶載三角縁神獣鏡 20 面と倭製三角縁神獣鏡 4 面(佐味
田宝塚古墳,新山古墳等)と模倣画像鏡 1 面と模倣方格規矩鏡 1 面(ともに佐味田宝塚古墳)である。
④近畿以東の地域
静岡県磐田原台地周辺 天龍川左岸に広がる磐田原台地の周縁地域は,比較的漢鏡が密集して
分布する地域である。地域社会としてはやや広範に及ぶが,広域の地域圏としてとらえた。この地
域では,漢鏡 6・7 期鏡が 3 面出土している。蝙蝠座内行花文鏡 1 面(寺谷銚子塚古墳付近)と,斜
縁神獣鏡 1 面(庚申塚古墳),画象鏡 1 面(堂山古墳)が出土している。三国西晋鏡では,舶載三角
縁神獣鏡 6 面(連福寺古墳・新豊院山 D2 号墳・連城寺古墳・松林山古墳・寺谷銚子山古墳)と模倣内行
花文鏡など創作模倣鏡 4 面(堂山古墳等)が出土している。
山梨県中道地域 甲府盆地南縁部に位置する笛吹川南岸の旧東八代郡中道町に相当する地域で
は,漢鏡 6・7 期鏡が 3 面出土している。画文帯神獣鏡 2 面(大丸山古墳・丸山塚古墳)と,斜縁神
獣鏡 1 面(小平沢古墳)である。三国西晋鏡では,
舶載三角縁神獣鏡 2 面(中道銚子塚古墳・大丸山古墳),
倭製三角縁神獣鏡 1 面(中道銚子塚古墳)が出土している。
千葉県木更津地域 木更津市域に相当する,小櫃川下流域の南方一帯では,漢鏡 6・7 期鏡が
3 面出土している。斜縁四獣鏡 1 面(手古塚古墳)と,上方作系浮彫式獣帯鏡 1 面(高部 32 号墳),
画象鏡 1 面(高部 30 号墳)である。三国西晋鏡では,倭製三角縁神獣鏡 1 面(手古塚古墳)が出土
している。
栃木県那珂川上流域 那珂川上流域では,漢鏡 6・7 期鏡が 2 面出土している。夒鳳鏡 1 面(那
須八幡塚古墳)と,斜縁神獣鏡 1 面(斜縁四獣鏡?:下侍塚古墳)である。三国西晋鏡では,模倣神
獣鏡である画文帯旋回式四獣鏡 1 面(駒形大塚古墳)が出土している。
3)漢鏡 6・7 期鏡の保有からみた地域社会の相互関係
瀬戸内海沿岸と日本海沿岸,そして近畿地方と近畿地方以東の地域に分けて,漢鏡 6・7 期鏡を
複数保有した地域を取り上げて整理した。まず第 1 に指摘できることは,漢鏡 6・7 期の鏡を保有
する地域が九州地方から近畿以東にまで存在しているということである。第 2 に,奈良盆地東南部,
京都府木津川両岸地域や兵庫県六甲南麓海浜地域や徳島県吉野川下流域北岸,あるいは香川県旧大
川郡地域や広島県芦田川下流域などの瀬戸内海沿岸と近畿地方に漢鏡が集積する地域が存在すると
いうことである。第 3 には,漢鏡が集積する地域以外では,概ね 2,3 面の漢鏡を保有する状況が
共通しており,比較的等質な保有状況がみえることである。その中には,京都府向日丘陵や大阪府
淀川北岸地域など近畿地方に所在の地域社会も含まれているのである。第 4 に,瀬戸内海沿岸と日
360
[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
本海沿岸では,漢鏡を複数保有する地域社会が相応の距離を保ちつつ点在しているということである。
地域社会が保有する漢鏡 6・7 鏡の様相を通じて指摘できる 4 つの特徴から,漢鏡 6・7 期鏡が流
入する段階には,北部九州から東国に至るネットワークが構築されており,それを介して漢鏡が流
通したということがわかる。漢鏡を集積する地域社会が瀬戸内海沿岸と近畿地方に存在しており,
その他の地域社会では概ね共通した保有状況がみえることは,漢鏡 6・7 期鏡を保有するという紐
帯が汎日本列島規模で形成されており,その中において瀬戸内海沿岸の特定地域が優位性を有して
いたことを示している。西日本の各地では,漢鏡を複数保有する地域社会が比較的等間隔に分散し
ているという状況は,こうした交通路の結節点あるいは拠点に漢鏡がもたらされることを意味して
いよう。東方でも同じであり,静岡県磐田原台地周辺や山梨県中道地域,千葉県木更津地域,栃木
県那珂川上流域など,漢鏡を複数保有する特定の拠点が形成されていることは重要である。東海地
方や関東地方の地域社会が,漢鏡を直接入手することは困難であり,近畿地方を介して入手したこ
とは確かである。この状況は,周辺には漢鏡を保有しない地域社会が存在するなか,漢鏡を入手す
る機会をもつ特定の地域社会が東方に存在していたことを示すものである。
一方,吉野川下流域北岸や六甲南麓海浜地域,木津川両岸地域の状況は,近畿地方の中枢地域と
の関係を想起させる。大和古墳群(大和天神山古墳や桜井茶臼山古墳等)や馬見古墳群(黒石山 5 号
墳や新山古墳や佐味田宝塚古墳等)の状況から,奈良盆地東南部や西南部などでは,漢鏡 6・7 期が
集積していた可能性は高い。漢鏡 6・7 期鏡の集積という視点を通じて,瀬戸内海沿岸地域の先に
近畿地方の諸地域が繋がるのである。瀬戸内海沿岸から大和へと通ずる主要ラインに沿って,漢鏡
6・7 期鏡は集積したものといえよう。
漢鏡 6・7 期鏡の保有には,紐帯と格差の二面性が見いだせるわけであるが,三角縁神獣鏡のよ
うに,極度の集中や極端な格差が生じているわけではない。明確な分布の核がみえず,特定の配布
主体による一元的な配布よりも,分有に近い状況を想定する方が実情に即している。その中で,瀬
戸内東部や近畿地方に,漢鏡 6・7 期鏡を他に比べて多量に保有する地域社会が点在していること
は,これらが漢鏡の「分配」を主導する中核的な地域社会であることを示すのである。
漢鏡 6・7 期鏡という「2 世紀の鏡」が流入する段階は,北部九州を中心とする分配システムが
終焉を迎えた時期である。北部九州を中心とする分配システムと近畿を中心とする分配システムの
狭間にあるこの時期に,瀬戸内海以東の地域では,東部瀬戸内海沿岸から近畿地方が優位性をもち
つつも,漢鏡を「分有」する紐帯が,関東地方に及ぶ広い範囲で形成されていたのであるが,それ
は列島内部の交易ルートの変化とも関連したものといえよう。庄内式期後半には,対外交易ルート
と列島内部の地域間交易ルートが連環した博多湾貿易が展開し始める[久住 2007]。庄内式期の暦
年代観によって,漢鏡流通の変化が,こうした列島世界内部のネットワークの再編に先行するのか,
同時並行するのか,その評価は違いを生じることになるが,庄内式期を前後する大きな動きの一つ
として漢鏡 6・7 期鏡の「分有」状況は評価できよう。また,漢鏡 6・7 期鏡の保有に東部瀬戸内海
沿岸から大和や河内を中心とする近畿地方が優位性をもつ状況は,庄内形甕の分布状況とも共通す
る一面があり[秋山 2006],瀬戸内海沿岸における漢鏡 6・7 期鏡を保有する地域社会の所在は,初
期布留形甕や吉備形甕の分布から指摘される瀬戸内海沿岸ルートの拠点のあり様とも類似している
[次山 2007]。
361
国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
なお,こうした漢鏡 6・7 期鏡の分有状況は,それ以前の交易ルートやネットワークを継承する
一面もある。広島県芦田川下流域や香川県石清尾山地域あるいは山梨県中道地域などでは,漢鏡 6・
7 期鏡のみならず,漢鏡 5 期以前の鏡をも保有している。愛知県高蔵遺跡のように,弥生時代後期
に漢鏡 4 期鏡片が東海地方まで及ぶ現象と同じ脈絡でとらえられる。また,岡山県赤磐地域では,
非九州系の小形仿製鏡が複数存在しており,多様な鏡を数多く保有する地域であったことを示して
いる。漢鏡 6・7 期鏡とそれ以外の諸鏡を保有する地域社会が複数存在するということは,早くか
ら鏡の保有を志向した地域社会に,漢鏡 6・7 期鏡が流入したと理解することができよう。弥生時
代中期以来,武器形青銅器や小形仿製鏡など,北部九州から東方への文物伝播は継続している。こ
れらの漢鏡も同じ東方伝播した文物として取り扱っても差支えない。こうした既存の交易ルートや
ネットワークを基礎として,新たな再編が図られた結果として,漢鏡 6・7 期鏡の変化は受け止め
られよう。
また,漢鏡 6・7 期鏡の流入以後,三国西晋鏡が流入する古墳時代には,三角縁神獣鏡の配布を
通じて,紐帯と序列を表現した分配システムが確立する。魏王朝との対外交渉において倭国を代表
する邪馬台国が,大量の規格品である三角縁神獣鏡の入手を独占できたことによってこそ,他を隔
絶する優位性を担保した分配システムを実現しえたのである。しかし,その配布戦略は,漢鏡 6・
7 期鏡を保有する拠点を均しく厚遇するものではなかった。漢鏡 6・7 期鏡を保有する地域社会でも,
舶載三角縁神獣鏡の流入が継続する場合と,倭製三角縁神獣鏡の流入まで空白が生じる場合と,三
角縁神獣鏡そのものが流入しない場合とが存在する。漢鏡 6・7 期鏡を保有した地域社会に対する
倭王権の評価は一様ではなかったのである。中国鏡を保有する地域社会の広がりや,巨視的な視点
での瀬戸内東部・近畿地方の優位性は,共通しているものの,漢鏡 6・7 期鏡の分有システムと三
国西晋鏡の分配システムには連続しない一面がある。地域社会における中国鏡の保有状況の違いは,
そのことを鮮明にする。
近畿地方を中心とする分配システムの成立をめぐる議論において,
「2 世紀の鏡」である漢鏡 6・
7 期鏡の流入段階を,東方世界にも及ぶ,漢鏡を保有する「紐帯」が形成された時期としてとらえ
ておきたい。画文帯神獣鏡という特定の鏡式に限定するのではなく,画文帯神獣鏡を含めた「2 世
紀の鏡」の在り方にこそ,以前とは異なる様相があることを評価したい。この段階には,特定の地
域社会に極度に集積することはないが,近畿地方には「2 世紀の鏡」を保有する地域社会が数多く
存在しており,その密度が高いことに注目しておくべきであろう。芦田川流域や吉野川下流域北岸
など,瀬戸内海沿岸にはそれらと比肩できる地域社会が存在するものの,広域圏における特定拠点
という様相がみえる。互いに隣接する地域社会が多くの漢鏡 6・7 期鏡を保有する近畿地方は,そ
の特異性が際立つ。
こうした漢鏡 6・7 期鏡の「分有」状況は,まさに「卑弥呼共立」前夜に相応しい状況を示して
いるといえよう。そこには卓越した配布主体がみえないものの,近畿地方を中心とする分配システ
ムの基礎となる紐帯を形成する段階であり,庄内式期を以て古墳時代の始まりを評価する視座を首
肯するものでもある[寺沢 2000,岸本 2011]。
362
[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
おわりに
北部九州を中心とする鏡の分配システムと,近畿地方を中心とする鏡の分配システムの実態をそ
れぞれの視点から整理してきた。鏡には,
「保有する」ことが表象する紐帯=共通性と,数量や形
態の違いによって表象される序列=差異性という二面性が共存している。漢鏡 6・7 期鏡が流入す
る時期には,北部九州では配布主体たる中核的存在が不在となり分配システムが終焉を迎えるのに
対して,汎日本列島に及ぶ紐帯の形成と瀬戸内海や近畿地方を中心とした地域社会の優越性が現出
しており,新たな分配システムの胎動がみえているのである。こうした日本列島における中国鏡流
通の変化は,庄内式期後半以後に生じた交易ルートや地域間ネットワークの変化とも前後する動き
であったと評価しておきたい。今後検討すべき課題は少なくないが,近畿地方を中心とした分配シ
ステムの成立時期とその位置づけについて素描を試みた次第である。
註
( 1 )――従来は庄内式併行期を弥生時代終末期ととらえ
いう行為は共通しており,外部より入手した器物を破砕
る視点が一般的であるが,庄内式期を以て古墳時代とみ
して保有するという行為の背景には同じ論理が潜在して
なす評価もある[寺沢 2000]。本稿では,あえて弥生時
いるように思える。
代と古墳時代に帰属させずに論を進めることとし,終章
においてその評価を論ずることにしたい。
( 4 )――破砕された鏡片に関しては,日本列島に鏡片
としてもたらされた可能性を想定する見解もある[森
( 2 )――鏡の製作年代を以て遺構の年代を議論すること
1985,高橋 1992]。本文で挙げた佐賀県二塚山遺跡や福
に対しては異論があるが[寺沢 2005],鏡の年代は,中
岡県平原遺跡のように,破砕行為そのものを確認できる
国での流通年代を議論する段階から,型式学的検討と出
事例があることと,中国世界では完形鏡として取り扱う
土傾向を対照した編年体系の確立によって,中国での製
ことが一般的であり,鏡片としての流通や存在を普遍化
作年代を議論とする段階へと変化している。中国鏡の型
するのは難しい。これらから,鏡片として日本列島へと
式編年と,日本列島での出土鏡の変遷が,概ねその前後
流入することは想定し難い。
関係が対応することは,中国における製作年代と日本列
( 5 )――大型鏡から小型鏡まですべて下賜品という視点
島への流入時期の間に大きな隔たりはないものと考える
で理解するのではない。中型鏡や小形鏡などは,交易を
べきである。中国での個別事例に拠り,出土遺構の年代
通じて入手したものと考える。ただ,外夷と中国世界と
を以て鏡の年代を推定することには慎重でありたい。
の交易そのものが,「関市」として認可を受けるべき対
( 3 )――なお,こうした鏡を破砕する行為は,日本列島
象となる事例があることから,交易そのものにも評価が
以外にも漢帝国の周縁でみられる。北方の鮮卑の墓葬で
反映されている可能性を指摘しておきたい。
も,漢鏡 4 期以降の鏡を対象として,破砕した鏡を副葬
( 6 )――いわゆる「伝世鏡」を除外しても,三国西晋鏡
する例が存在している。内蒙古呼倫貝爾盟扎来諾爾鮮
や古墳時代倭鏡の傾向として,近畿地方に分布の中心が
卑墓や同額爾古納右旗拉布達林鮮卑墓では破砕した漢
ある。
鏡 4 期の方格規矩四神鏡を副葬しており,同烏蘭察布盟
( 7 )――鏡に関する情報は国立歴史民俗博物館による出
察哈爾右旗や商都県の鮮卑墓でも破砕した漢鏡 6・7 期
土鏡データベースに基づいた[白石・設楽編 1994]。
の内行花文鏡や細線式獣帯鏡などを副葬している[鄭
( 8 )――筆者は,三角縁神獣鏡の変遷における連続性を
隆 1961,内蒙古文物考古研究所ほか 1994,魏堅主編
積極的に評価して,生産地や系譜において舶載と倭製と
2004]。漢帝国の周縁地域で,漢鏡を破砕し保有する風
の区別をしない立場に立つ[下垣 2010]。しかし,生産
習が存在したことがうかがえる。日本列島とは直接の関
段階を区別する視点で,いわゆる舶載鏡段階と倭製鏡段
係性はないものの,入手した漢鏡を破砕して保有すると
階との区分する表現として,舶載三角縁神獣鏡と倭製三
363
国立歴史民俗博物館研究報告
第 185 集 2014 年 2 月
角縁神獣鏡との表現を用いる。
鏡等)に多くみえる銘文であり,画文帯求心式神獣鏡を
( 9 )――「吾作明鏡自有紀 令人富貴宜孫子」に類似し
創作模倣鏡とする以上は,同じ特徴をもつ斜縁神獣鏡も
た銘文をもち,外区の鋸歯文帯では波長の長い複線波文
同じ範疇でとらえるべきと判断するからである。大阪府
をもつ一群は,三国西晋期の創作模倣鏡の範疇に含めて
弁天山 C1 号墳と同和泉黄金塚古墳出土鏡は,この範疇
考える。七言句の同銘文は,画文帯同向式神獣鏡の創作
に属する鏡として取り扱う。
模倣鏡である画文帯求心式神獣鏡(奈良県黒塚古墳出土
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364
[日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期]
……上野祥史
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(国立歴史民俗博物館研究部)
(2012 年 12 月 7 日受付,2013 年 9 月 18 日審査終了)
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Bulletin of the National Museum of Japanese History
Vol. 185 February 2014
Changes and Milestones of the Chinese Mirror Distribution System
in the Japanese Islands
UENO Yoshifumi
Chinese mirrors are cultural objects that were continuously shipped to the Japanese Islands from the
latter half of the Mid-Yayoi period through the first half of the Early Kofun period. The transition from
the mirror distribution system centered on northern Kyushu in the Yayoi period to the one centered
on the Kinki region in the Kofun period provides a significant viewpoint for investigating the process to
establish society in the Kofun period, when a government system covering the whole Japanese Islands
appeared. This paper evaluates changes in the distribution system of Chinese mirrors in the Japanese
Islands.
This article analyzes the distribution system centered on northern Kyushu based on two indicators:
accumulation and form. Mass graves with burial goods continued to be built from the time of the inflow
of third-generation Han mirrors to the time of the inflow of fifth-generation Han mirrors, namely from
the latter half of the Mid-Yayoi period to the latter half of the Late-Yayoi period. The article argues that
throughout those periods, when there were mass graves with burial goods that can be considered as
distribution centers, the distribution system had worked. Moreover, the paper investigates the form of
mirrors phase by phase to confirm the sequence of third-generation Han mirrors. The result discovers
that in the beginning of the Late-Yayoi period, when fourth-generation Han mirrors were shipped to
Japan, the form of imported mirrors changed significantly. The article uses this event as a foothold
to examine, from the viewpoint of the Chinese world, the mirrors imported to the Japanese Islands
from the latter half of the Mid-Yayoi period to the latter half of the Late-Yayoi period. The influx of
Han mirrors at that time is often described as stable. The article, however, points out that it was not
delivered coherently, citing the stagnation in the late first century B.C. as an example.
With regard to the distribution system centered on the Kinki region, the paper reviews arguments
about when it was established, suggests that a comparative study of the allocation of sixth- and seventhgeneration Han mirrors among communities can provide a perspective, and analyzes respective
communities after classifying the area into four communities: the Seto Inland Sea coast, the Japan
Sea coast, the Kinki region, and east of the Kinki region. The analysis result reveals that during the
influx of sixth- and seventh-generation Han mirrors, a network was expanding from northern Kyushu
throughout the Kanto region, centered on the Seto Inland Sea coast. Since prominent distributers is
366
unlikely to have existed there, this study indicates that there was a situation of “divided possession” that
also later led to the “coexistence” of Queen Himiko.
During the inflow of sixth- and seventh-generation Han mirrors, the distribution system in northern
Kyushu ended while a wide connection throughout the Japanese Islands was established centered on
the Seto Inland Sea network. This study reconfirms that the change of the distribution system that had
been established in the date of Shonai-type pottery, in the second century, marked a milestone that was
also related to changes in trade routes in the Japanese Islands.
key word: Chinese mirrors, Distribution systems, Communities, Yayoi period, Shonai-type pottery
period
367