2011年度報告書

2011 年度
南山大学人文学部人類文化学科
フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1・Ⅱ2
調査報告書
2011年度 「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ2・Ⅱ2」参加者
坂野
仁美
橋爪
悠
江口
泰美
今川
沙紀
中村
綾
佐伯
杏子
佐藤
友貴
市川
莉子
角井
美紀
前田
愛子
中本
智裕
小柳津
渡部
紗千
横井
美帆
理乃
授業担当者
吉田
竹也
教務助手
戸田
結子
近藤
安里紗
はじめに
本書は、2011 年度南山大学人文学部人類文化学科科目「フィールドワーク(文化人類学)
Ⅰ・Ⅱ」クラス 1 の報告書である。
「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ・Ⅱ」は、人類文化学科のカリキュラムを特色づ
ける重要な科目である。授業では、大学のキャンパスを離れて、実社会の中に生きる人々
に直接インタビューすることから、文化や社会のあり方を体験的に学習する。その場合、
予定通りに進まないことがままある調査活動――たとえば、インタビューしたい相手にな
かなか会えない、インタビューはしたが思ったようなデータが得られない、など――に携
わる中で、失敗を糧に学ぶこと、これが授業の隠れたねらいでもある。マニュアルの効か
ないところで自ら考え行動しつつ、文化の多様性と普遍性について考える文化人類学の視
野を実践的に養う。この授業の目的ないし趣旨はこうした点にある。
今年度の履修者は 14 人で、地域おこし、八重山上布・みんさーや青雁皮紙などの工芸文
化、エコツアーやバリアフリー・ダイビングなどの観光、サンゴ礁や赤土などの環境問題、
味噌・酒・菓子などの地域の食文化、沖縄の文化としてのハブ、そして方言といったテー
マを掲げていた。春学期の授業では、研究発表を通して各自の問題関心をより明確化しつ
つ、こうした研究テーマの探求に適切な調査地域を絞っていった。結果的に調査地は石垣
島となり、市街地からはやや離れているが、観光や伝統文化の面でも興味深い特徴をもっ
ている川平地区に拠点をおいて資料収集をおこなうことにした。
夏季の学外での調査実習は、9 月 1 日~9 月 7 日の1週間であった。直前に台風が来るな
ど、すべてが順調だったわけではないが、履修生は軌道修正をしたりテーマの再検討をし
たりしながら、臨機応変に対応していった。できるだけおおくの方々にインタビューしな
がら、地域の文化の特徴をその場においていわば肌でつかみとるという感覚を、履修者は
実感として理解してくれたと思う。
秋学期には、インタビューで得たデータを最大限生かしながら、これにさらなる肉づけ
をしつつ、報告書の作成作業を進めた。まだまだ議論に不十分なところや詰めの甘いとこ
ろは残っているが、学生たちの書いた各章からは、それぞれの努力のあとと、話をきかせ
ていただいた方々への謝意や共感が伝わってくるように思われる。フィールドワークの授
業を通して、人が人とともに人について学ぶ文化人類学の(苦労もあるがゆえの)楽しさ
をわかってくれたとすれば、それが授業担当者としては何よりの喜びである。
履修者にとって、今回の経験がかけがえのない財産となることを祈りたい。そして最後
に、あばさー汁とおばあ手作りのサーターアンダギーをふるまって、本当に居心地よい拠
点を提供してくださった「お宿かびら」の石垣様ご家族をはじめ、今年度のわれわれの調
査実習にご協力いただいた石垣島、そして川平の方々に、あらためて深甚の感謝を申し上
げ、授業担当者としてのご挨拶にかえさせていただきます。
人類文化学科教員・授業担当者 吉田 竹也
i
謝
辞
今回、本報告書を作成するにあたり、フィールドワークでのインタビューや、その他の
調査活動にご協力してくださった方々に対して、大変お世話になりましたことを深くお礼
申しあげます。
お世話になった全ての方々は親切で温かく、私たちを迎えてくださいました。そして調
査もスムーズにいくように応援してくださいました。そのおかげで、充実したフィールド
ワークを行うことができました。この貴重な経験をもとに、今後の1人1人の人生をより
豊かなものへと生かしていきたいと思っております。本当にありがとうございました。
お世話になった方々(50 音順 敬称略)
新城良博
石垣実佳
石垣セイ子
石垣卓也
石垣和淑
岡田 誠
佐川鉄平
佐藤大樹
砂川政美
高嶺善伸
野底文子
東大濱賢哲
宮里貞子
山下秀之
鷲尾雅久
青いさんご礁
石垣市観光協会
石垣市役所
糸数商店
お宿かびら
カビラガーデン
サンゴ礁モニタリングセンター
しらほサンゴ村
請福酒造所
高嶺酒造所
竹富町観光協会
DIVING SCHOOL 海講座
DiveCenter SeaBat
株式会社トムソーヤ
玉那覇酒造所
有限会社ブレニーダイビングサービス
星野共同売店
Me-ra-s’ company
八重泉酒造所
2011 年度「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ・Ⅱ」授業参加者一同
ii
目
次
はじめに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
i
謝
辞
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ⅱ
目
次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ⅲ
地
図
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ⅳ
1.ゆいまーる型の地域発展
(橋爪 悠) ・・・・・・・・・・・・・・
2.八重山上布と八重山みんさー
・・・・・・・・・・・
6
(市川 莉子) ・・・・・・・・・・・・・
11
3.八重山の紙――青雁皮紙
(坂野 仁美)
1
4.川平湾のグラスボート観光とエコツアー (今川
・・・・・・
16
・・・・・・・・
21
6.石垣島のサンゴ礁 (前田
愛子・小柳津 美帆) ・・・・・・・・・
26
7.石垣島の赤土問題 (中本
智裕)
・・・・・・・・・・・・・・・・
32
友貴) ・・・・・・・・・・・・・・
37
5.石垣島のバリアフリー・ダイビング
8.石垣島の味噌について
(佐藤
9.石垣島の泡盛の伝統と革新
沙紀)
泰美) ・・・・・・・・・・・・
42
・・・・・・・・・・・・・・・・・
47
紗千) ・・・・・・・・・・・・・・
52
12.石垣島の菓子 (横井 理乃) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
56
13.沖縄の方言教育の変容
61
10.石垣島の泡盛文化 (中村
11.石垣島のハブについて
(江口
(佐伯 杏子)
綾)
(渡部
(角井
美紀) ・・・・・・・・・・・・・・
表紙の写真は石垣島川平湾
iii
沖縄本島
宮古島
石垣島
地図1:沖縄県における石垣島の位置
平野
平久保
久宇良
明石
伊原間
野底
川平
伊土名
米原
大嵩
伊野田
吉原 山原
稃海
崎枝
星野
名蔵
嵩田
三和
冨崎
宮良 白保
大浜
地図2:石垣島地図
http://technocco.jp/n_map/n_map.html
(2012 年 1 月 25 日取得)
iv
1. ゆいまーる型の地域発展
橋爪 悠
1.はじめに
現代の日本社会は、都市以外の農村などのいわゆる「地方」地域は様々な問題を、それ
ぞれの場所で抱えている。特に若者世代の都市流出による過疎化、高齢化率の大幅な増加
によって労働力や後継者が不足し、地域の農業や産業の衰退を見せている。また政府によ
る地方自治体に対する改革によって、地方の財政状況は深刻さを増している。その中で、
沖縄県の石垣島では独自の考えと方法で、そのような地方の地盤沈下を食い止めようとい
くつかの活動の実践を進めている。本章ではまず、これまでの石垣島の経済発展と石垣市
の現状を示し、そして現在とこれからにむけて「ゆいまーる」という概念をもとに、住民
が主体となって、助け合いながら行う地域発展の具体的な活動について論じていく。
2.日本復帰以降の石垣島の発展
1972年に沖縄が日本に復帰後、本土との経済格差を是正するために「沖縄振興開発特別
措置法」という独自の法制度のもと、政府が主導して、経済自立を目指す振興開発が実施
された。この法律によって、2009年度までに全国一の高率補助である約8兆7885億円とい
う莫大な振興開発事業費が計上された(①)
。その結果、道路、空港、港湾、ダム開発など
社会資本の整備は急速に進み、それに伴う観光化によって沖縄の経済社会は着実に発展し
てきた。
その流れと同様に、石垣市も「
(昔に比べ)道路が良くなり、橋が良くなりました。また、
学校や病院などの建物や施設も復帰前に比べますと大変な進歩がありますし、整備拡充が
図られてきたわけです」
(②)という平成14年度の大濵長照石垣市長の言葉通り、積極的な
社会資本の整備を行ってきた。そしてそのインフラ整備に伴い、観光事業への積極的な取
り組みが図られてきた。サンゴ礁やマングローブといった自然と、独自の離島文化を活か
し、昭和47年は3万人、昭和60年は24万人であった観光客数は、平成22年度には72万人を
数える程に成長した。
3.現在の石垣市の状況
前述のような観光産業の大幅な発展によって、石垣市は「観光都市」として経済的に自
立したと思われがちであるが、現状は大きく異なる。平成21年度から本格的に公表された
財務 4 指標(実質赤字比率、連結実質赤字比率、実質公債費比率、将来負担比率)は、い
ずれも、県内都市の平均を大きく下回る水準にある。また市町村レベルでは75%以上を上
1
回らないことが望ましいとされている経常収支比率1は88%という高水準を維持、といった
ように石垣市は厳しい財政状況に直面している(③)。
図 1
石垣市経常収支比率の推移(③)
なぜこのような厳しい状況に直面してきるのか。その大きな要因の1つに挙げられるのは
日本政府の財政赤字に伴う補助金の大幅な削減である。平成16年度以降の地方交付税改革
により、沖縄県の財政歳入は約マイナス321億円の削減と、制度改正や少子高齢化に伴う社
会保障関係費の増などにより、歳出が大幅に増えている(④)。特に沖縄県は本土からの
莫大な補助金によって経済の自立を図ってきたため、大幅な税金の削減は直接財政に大き
な影響を及ぼし、現在の状況まで続いている。つまり、石垣市を含めた沖縄県は、これま
で本土に依存して経済自立、地域発展を行ってきたが、政府の財政悪化に伴い、現在では
その依存型の発展形態では限界を迎えているのである。
こうした市が「本土依存経済」に陥っている中で、しかしながら、石垣島各所、それぞ
れの地区の自治体では小規模ながらも住民主体の地域づくり、住民共同の地域体制、そし
てその地域づくりが実践されてきており、また、島興し活動をサポートする行政体制の実
践が始まっている(①)
。次章からはその具体的な活動について述べていく。
4.住民主体の地域づくり
4-1. 川平での土地買い占め
今回調査の拠点となった石垣市川平地区は日本百景に選ばれるなど、海と自然を活かし
た観光と農業によって産業形成をしている。その川平であるが、実は今から約 40 年前に土
地の買い占めによる地域存続の危機が起きている。1972 年の本土復帰に合わせて日本の農
地法が適用されたことにより、それまで農村集落の川平だったが、台風や干ばつも重なり、
農家が相次いで農地を売り、本土などに出稼ぎいく人が多発し、人口も減少してしまった。
それと同時に本土の企業が入り、川平の海岸線の農地を 20%近く買い占められるという事
態に陥った。その農地はリゾート化によってホテルや施設の建設の土地として利用された。
こうした状況に危機感を持ち、土地の買い戻し運動を行ったのが、当時、川平にある酒
造会社の経営者であり、現在、沖縄県議会議員として活動しているA氏である。A氏は「農
1
人件費などの義務的経費が一般財源に占める割合で財政の弾力性を示す。
2
業の衰退と人口流出によって村での祭りも出来ないなど、川平存続すらどうなるか分から
なかった」と当時を振り返って話す。
4-2. 土地買い戻し運動
A氏は、買い戻しに賛同する仲間とともに、現状について話しあい、土地を買い戻すた
めの活動をおこなったが、それは困難を極めた。「一度売った土地を返せとは言えないし、
お金を貰えた他の住民からは猛反発を受けた。これを説得するまでが大変だった」とA氏
は話す。そうした中、農業用の土地は農業でしか使用できないという農業振興法の成立や、
他の地区でも若い人達による島興し運動が活発化していたため、お互いに協力体制を整え
るなど、いくつかの要因によって「土地の買い戻し運動」から「島を守るための島興し運
動」へと発展し、より具体的な実現へ近づいた。観光と農業という対立軸の中で、精力的
な活動と住民のエネルギーによって最終的には約 20 ヘクタールの土地買い戻しに成功した。
その後は土地改良などを行い、農業生産法人を立ち上げ、また農村振興のための集落セ
ンター建設、公民館による農場経営など具体的な形として農業再生と雇用の創出に成功し
た。
5.住民共同の地域体制
5-1.共同売店について
住民が共同で行ってきた地域体制では、沖縄独特の共同売店というものが存在する。共
同売店とは、1906 年(明治 39)年に沖縄本島で誕生し、各自治体、集落の人たちがお金を
出し合って設立し、そこに住む地域住民によって運営しているお店である。日用品から、
その集落で取れた野菜などを売っているが、その店での利益は地域に還元される。沖縄県
では約 60 近くあり、石垣島では現在、4 つの共同売店が存在している。石垣島の北部は市
街地から離れ、昔は道も無く、物を手に入れることが非常に困難であったため、北部の人
たちにとって共同売店は必要不可欠であった。単に商品の売り買いだけではなく、地域の
人が必要とする様々な事業を行っていた所もある。精米、製材、発電をはじめ、教育資金
などの貸付け、さらに親子電話、酒造所、保育園、共同バスまで運営していた売店もあり、
その集落の文化、経済の中心に共同売店は存在していた。
5-2.星野共同売店
石垣島にある共同売店の中でも、特に連携し
て活動を行っているのが星野集落の星野共同売
店である。星野集落にはこの土地に伝わる人魚
の伝説が存在し、
「人魚の里」として農村地域の
特性を生かした循環型のライフスタイルの魅力
3
写真1
星野共同売店
を全国に発信し、さらに星野地域独自の人魚伝説を中心にコンテンツを活かし、活気ある
若者の多い村にしていくことを目指し、島興し運動を行っている(⑤)。その中で共同売店
の位置づけは、地域伝統の特産品開発を行うために、地元農家の女性を主体とした「共同
売店組合」を中心に、地元農産物のミニ道の駅での直売やまつりでの商品販売を行うこと
を目標にしている。共同売店からさらにミニ道の駅へと発展させていくことで地域資源を活
用したものを作成、提供する場として、島興し運動の一旦を担っている。
そして、2003 年には沖縄の共同店をお手本に、地域の人が出資してできた店「なんでも
や」が、東北・宮城県でオープンするなど、全国の過疎地や空洞化に悩む旧市街地からも
熱い注目を集めている。こうした動きにより結束しあうことで、住民どうしの新たな結び
つきや、地域の魅力の再発見にもつながっている。
6.行政の役割
一方、石垣市としても厳しい財政の現状を変えるべく、2002年に「第 6 次行政改革大綱」
を策定している。石垣市はこれまでにも事務事業の見直し、組織・機構の改革、給与の適
正化など、5次にわたる行政改革を断行し、効率的な行政システムの確立と市民サービスの
向上を図っていた。今回の第6次の行政改革でのテーマは「行政主体のまちづくりから、NPO、
自治公民館、事業者など、新たな参画と協働による自立した行政運営を進めるため、市民
との協働による自立した行政運営の実現」を基本理念としている。
市民協働を目指す石垣市であるが、その中の具体例としては、現在、石垣市の中で地域
活性化事業をボランティアや集落ごとに、いくつものグループが活動を行っている。そう
いった団体のために市から補助金として予算を出している。この補助金は農林水産省の「食
と地域の交流促進対策交付金」として、地域活性化事業に取り組む地方自治体に対して国
が支援するもので、石垣市は去年からスタートさせた。この補助金の特徴は、地域として
使いやすい交付金とするために、市に対する補助金ではなく、あくまでも地域活性化事業
に精力的に取り組んでいる団体に与えられるもので、市としてはその団体を推薦するとい
う役割のみになっている。ただし推薦できる団体は限られ、その事業に対する計画書の作
成と、内容の充実が義務づけられており、その条件を満たした団体のみに適用される。石
垣市役所職員によると、現在、推薦している団体は「八重山グリーンツーリズム研究会」
と、前述にも述べた「人魚の里」として知られる星野集落公民館の2団体である。また、こ
うした補助金の存在を知ってもらうべく、市としては事業所や自治体をまわって、こうし
た補助金の説明を行うことで、市民による地域活性化事業の拡大と、集落ごとのまちづく
りを間接的にサポートしている、と話す。
7.おわりに
これまで述べてきたように、政府の財政悪化による改革により、全国の地方自治体の取
り巻く環境は困難を極めている。そのため今後は行政だけでなく、地域住民が主体となり、
4
協力してまちづくりを行うことが求められてくる。その中で石垣島を含む沖縄の「ゆいま
ーる」という助け合いの精神の下、
「シマ」という独特の土地の自然や文化を生かし、その
「シマ」のために住民、または行政もが協力して地域発展を進めていく動きは、他の多く
の地方に対して良き参考例を示すことになると考える。特に、地域住民同士が助け合いな
がら作り、地域とともに発展してきた共同売店は、まさに沖縄独特の概念である「ゆいま
ーる」という助け合いの精神を象徴しているといえる。
まずは自分で行う、大変ならばお互いに助け合う。それでも大変ならば行政に助けても
らう、という「自助」「共助」「公助」をバランス良く実践していくことこそが、本土に発
展を依存してきた沖縄県も含め、日本の地方自治体の今後の地域発展につながっていくと
考える。
参考文献
① 松島泰勝・他 『島嶼沖縄の内発的発展―経済・社会・文化』2010 藤原書店
② 市長のおはようロマンメッセージ 平成 14 年 4 月 16 日
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/010000/romanmessage/romanback.htm (2011
年 11 月 8 日取得)
③ 第 6 次石垣市行政改革大綱
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/110000/110100/pdf/2011-3-17-b.pdf'
(2011 年
11 月 8 日取得)
④ 平成 20 年沖縄県総務部
http://www.pref.okinawa.jp/imu_kokuho/arikata/iryousinngikai-act1/6.pdf
( 2011
年 11 月 8 日取得)
⑤ 星野人魚の里
http://www.hoshino-ningyonosato.com/ (2011 年 11 月 8 日取得)
⑥ asahi.com
http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000119999991287
(2011 年
11 月 8 日取得)
⑦ 農林水産省ホームページ
http://www.maff.go.jp/j/nousin/kouryu/kouryu_koufukin.html (2011 年 11 月 8 日
取得)
⑧ 嶺善伸 『離島は訴える』2008 南山社(株)
5
2.八重山上布と八重山ミンサー
坂野 仁美
1. はじめに
沖縄県には伝統的工芸品が 13 品目ある。全国でも、これは京都に次いで多い数字である。
伝統的工芸品とは、
「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」に基づき、経済産業大臣が指
定したものである(②)。この 13 品目のうち、八重山上布と八重山ミンサーが石垣島でつく
られている。本章ではこの 2 つの染織の概要を述べ、現在のあり方を述べる。
2. 八重山上布
2-1. 歴史
八重山上布の起源については、他の琉球染織と同様にかならずしも定かではないが、薩摩
の琉球支配(1609 年)の前後ということが知られている。しかし、最も古い文献の記述とし
て、1477 年に朝鮮済州島の 3 名の人が与那国島に漂着した時の見聞録「朝鮮人漂流記」に
当時、すでに与那国の住民が自生の苧麻の藍染布を着用していたとある(②)。
上質の布として広く知られるようになったのは、その後のことである。人頭税の実施は
1637 年であり、それに伴い貢納布制度が確立した。
人頭税があまりにも過酷であったため、
生活が苦しく、自ら体に傷を付け、税を逃れようとしたり、村から脱出しようとする人が多
かったという。その半面、貢納布が厳しく検査されたことから、技術が向上し、精巧な布が
織られるようになった。絹のように非常に細かい糸で織られ、中には、現在では技術的に不
可能とされるものもある。いずれにしても、八重山上布の大部分が税であり、わずかな量が
自家用とされていたにすぎない(②,⑤:400)
。
人頭税廃止後の 1907 年、八重山織物組合が結成され、産業として発展するようになった
が、昭和に入り、他県産の安価な類似品が出まわるように
なると、業界は不振に陥った。1937 年には、組織の再編成
を図り、八重山上布工業組合が設立されたが、この組合は
第二次世界大戦で自然消滅となった。戦後 3~4 名の人が
細々と上布織りに携わるようになったが、後継者の問題が
懸念された。県や市の育成事業に伴い、1976 年、現在の石
垣市織物事業協同組合が発足し、20~40 代の若手の技術者
が根付くようになり、継承発展に努めている。1989 年に「伝
統的工芸品産業の振興に関する法律」の指定を受け、現在
に至っている(②)
。
6
写真 1
八重山上布(⑫)
2-2. 八重山上布の技法
八重山上布は清楚な白生地に黒焦茶の絣が織りだされた夏着で、別名「赤縞上布」
、ある
いは「白上布」とも呼ばれている。近年、原料の入手難から「混紡」と呼ばれる経糸に木
綿を、緯糸に苧麻を使う白地絣の交織布が気軽な夏の衣服として出回るようになった(③)
。
沖縄の織物の中で、摺り込み捺染を行っているのは八重山上布だけであり、この手法を
八重山の放言で「カシリチキー」と呼んでいる。
「絣」という語源は、この「カスル」仕事
から起こったという説もある(③)。
染料の紅露は、石垣島や西表島に自生しており、沖縄本島には見られない植物である。従
って、これを使用する染色は他に類がない。紅露の根元についた芋を細かく擦り下ろし、布
で包んで強く絞り、液を抽出する。それを太陽熱で濃縮し、刷毛で摺り込み捺染をして絣糸
を作る。緯糸は、絵図法によりできた種糸に合わせ、定規を当てながら丁寧に摺り込む。乾
燥させた絣糸は地糸を別々に巻き取って、織機の上部に経糸、下部に地糸を取りつけて製織
する。先に摺り込んだ染料の媒染は布の状態で織りあがってから薬品で処理され、日光に干
して堅牢なものになる。昔は、
「海晒し」と呼んで、塩水に石灰を入れ、約十分浸して色止
めを行い、そのまま海に浮かして媒染したという(③)
。
3. 八重山ミンサー
3-1. 八重山ミンサーとは
ミンサーはアフガニスタンから中国を経て伝わり、16
世紀初め頃には八重山地方で織られていたと考えられる
(⑦)。八重山では、戦後、竹富島を訪れた日本民芸協会
員一行の一人、外村吉之助氏の助言の下に、ミンサー帯が
復活した。その後、石垣市では、竹富島などの離島出身者
によって織られるようになった。従事者もかなり増え、観
光おみやげとして定着している。民間の工房では織子の養
成や客層に応じた商品開発、色彩の研究などの努力が行わ
れた結果、豊富な色合い、用途も細帯から広帯へ、インテ
写真 2
八重山ミンサー(⑦)
リア類や小物などの多種多様の製品を今日にみられるよ
うにした。昭和 50 年代からは八重山の産業界の大きな地位を占めるまでに成長した。1989
年には、八重山上布と共に国の伝統的工芸品に指定された(①:723)
。
3-2. 八重山ミンサーの技法
ミンサーとは、
「綿・狭い」の意味であり、木綿による細帯を示す言葉である。したがっ
て、ミンサーとは、織り方のことでも、模様の意味でもない。しかし、いつの間にか、模様
や織り方のように解釈されるようになった(⑥)。
絣は経絣、緯絣、経緯絣の三種類があり、作り方の基本は、防染箇所をビニール糸などで
7
強く括る手括りに特徴がある。ミンサーは木綿糸を素材にし、白い部分を残して染める括り
染めの経絣の技法を用いている(④)。
図柄の幾何学模様にも特徴がある。八重山ミンサーは 5 つの絣柄と 4 つの絣柄を交互に
配し、帯の両耳には、ヤシラミ織りを組み込んでいる。この、5 つ柄 4 つ柄は図柄のパター
ンだが、女性から男性へのひとつの綿布としての愛情表現として贈られたものだった。それ
が、ある種の解釈を生んだ。ミンサーの模様は 3 種類ある。まず、外側から内側に向かっ
て白と藍の折り返し模様が 2 列に続いているものがあり、ムカデの足を連想させることか
ら、ムカデ足と呼ばれている。次に 2 本の線があるが、これがタテスジと呼ばれる。主模
様は中央にある四方形を 5 つ合わせた形と 4 つ合わせた形が交互に並んだものだ。ムカデ
アシには、足繁く通ってほしいという願望が、タテスジは、足を踏み外すことなく愛を育て
てほしいという意味を有している。5 つ玉・4 つ玉は「いつの世までも」の語呂合わせにな
っている(④)
。
4. ふたつの織物の現在の在り方
4-1. 技法が復活した八重山上布
八重山上布といえば、白地に焦げ茶色の絣が特徴であると述べたが、現在では、その色だ
けに留まらない。
括染といわれる技法で他の色を入れることができるようになった。括染は、
大正期、機乗せまでに手間暇がかかるため、捺染上布を合理的、機能的に織ることができる
機が完成すると生産量が減少した。しかし、1973 年、括染上布が日本民芸館や県立博物館
に保存されている括染上布を参考にし、若い織子によって復活された(①:708)
。
また、海晒しも復活した。王府時代の捺染上布は海水を入れた石灰水に反物を浸した後、
日中は白浜で天日干しをし、夜には海中に漬け込むという海晒しが行われていた。人頭税が
廃止され、商品として量産化されるようになると、染み、汚れ、海晒し中に起きる赤さびな
どによる不良品や染色の堅牢の弱さなどが多発した。その解決策として 1917 年石灰水や海
晒しを必要としない重クロム酸カリウムによる色止めの方法が導入された。その結果、堅牢
度もよくなり、労力や時間の短縮、海晒しによる汚点なども少なくなった。だが、1974 年
頃から公害問題が重視されるようになり、劇薬品の重クロム酸カリウムを使用することに織
物を志す若い織子たちの間から不安の声があがった。そこで、1979 年織物組合の若い組合
員たちによって海晒しが復活された。その方法は、海水と石灰を混ぜ、沈殿させた上水を盥
に布が浸かる程度入れ、布を 30 分程度漬けた後、膝位の海中に約 5 時間程度漬け晒す(①:
715-717)。伝統的工芸品のホームページによると、海晒しを復活させたことで、捺染の品
質が良くなっているそうだ(⑧)
。
4-2. 変化する八重山ミンサー
八重山ミンサーは、工房等での体験や、テーブルセンターなどの商品開発だけではなく、
近年では、以下のような取り組みも行われている。
8
琉球新報の 2005 年の記事によると、石垣市のある高校の制服に、八重山ミンサーの柄が
取り入れられた。これは、生徒に地域への愛着を持たせようと高校側が検討委員会を設置し
て生徒にアンケートをし、協議を重ね作られたものだ。制服には男女共に胸元のポケットに
ミンサー柄が入り、式服用のネクタイにもミンサー柄が取り入れられている。同年には、フ
ランスで開催された世界有数のインテリア国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」にミンサー
のタペストリーなど十数点が出展された。2011 年には、ミンサー柄の EV タクシーも誕生
した。
「沖縄色」をアピールすることで、環境面だけではなく観光面での効果も期待されて
いる(⑨⑩⑪)
。
5. おわりに
八重山上布は貢納布であったことから技術が磨かれ、石垣の主な産業へと成長した。現在
は、失われた技法を復活させ、品質の向上に努めている。八重山ミンサーは、上布のように
歴史には登場せず、起源や、その歴史のはっきりしないところが多い。だが、ミンサーの柄
に「いつの世までも」などの語呂合わせがつけられたり、人々が参加する祭りの衣装に用い
られるなど、人々に親しみを持たれてきた。現在でも、新たなあり方を、模索しているよう
にみえる。
参考文献
①石垣市史編集委員会 1994 『石垣市史: 各論編. 民俗, 第 1 巻』石垣市
②石垣市伝統工芸館リーフレット 『草木染手織 八重山上布』
石垣市織物事業協同組合
③坪田五雄(編) 1981 『心のふるさともとめて日本発見⑲ 染めと織り』
暁教育図書株式会社
④通事孝作 2006 「八重山ミンサー」
『繊維学会誌』62(8) : 249-252 繊維学会
http://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber/62/8/P_249/_pdf/-char/ja/ (2012 年 1 月 16 日取
得)
⑤中江克巳(編) 1993 『染織辞典─日本の伝統染織のすべて』泰流社
⑥与那嶺一子 2009 『沖縄染織王国へ』新潮社
⑦全国伝統的工芸品センター
http://kougeihin.jp/crafts/introduction/weaving/2819 (2012 年 1 月 16 日取得)
⑧国伝統的工芸品センター
http://kougeihin.jp/crafts/introduction/weaving/2820?m=cu(2012 年 1 月 16 日取得)
⑨ 球新報ホームページ 2005 年 1 月 25 日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-120185-storytopic-86.html(2012 年 1 月 16 日取
得)
⑩ 球新報ホームページ 2005 年 4 月 9 日
9
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-1118-storytopic-7.html(2012 年 1 月 16 日取得)
⑪ 球新報ホームページ 2011 年 11 月 16 日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-184121-storytopic-4.html(2012 年 1 月 16 日取得)
⑫ 国伝統的工芸品センター
http://kougeihin.jp/crafts/introduction/weaving/2820(2012 年 1 月 16 日取得)
10
3.八重山の紙――青雁皮紙
市川 莉子
1.はじめに
今も昔も、紙は人の暮らしに欠かすことの出来ないものであり、世界中にその土地で生
まれた様々な紙が存在する。勿論、それは沖縄についても同様で、沖縄にも琉球紙と呼ば
れる手漉き和紙が存在する。しかし、沖縄における和紙とはあまり聞きなれない。それだ
けに私は新鮮さを感じ、琉球紙について知りたいと思うようになった。
そこで、私は石垣島における調査のテーマとして、八重山の和紙―青雁皮紙―を取り上
げることにした。今回の調査では、石垣島では唯一青雁皮紙を漉いている石垣実佳さんか
らお話しを伺うことが出来た。本稿では、沖縄の手漉き和紙と人との絆のひとつのかたち
として、現在石垣島で漉かれている青雁皮紙と石垣さんについて記述し、それを伝える活
動について述べ、その将来性について考察する。
2.青雁皮紙とは
青雁皮紙は、青雁皮(別名オキナワガンピ)というジンチ
ョウゲ科の植物を原料に、19 世紀中ごろから使用されてい
たと伝えられる琉球紙のひとつである(②)
。
繊細かつ強靭で耐久に優れた上質の紙であり、沖縄にお
ける博物館資料の修復などに用いられている。また、日本
画、版画、書などの繊細な作品作りにも向く紙である。
ここでは、青雁皮紙の原料である青雁皮について簡単に
触れ、青雁皮紙の歴史について述べる。
図1
青雁皮紙
2-1.八重山青雁皮
青雁皮紙の原料である青雁皮は、石垣島や西表島に自生するジンチョウゲ科の植物で、
海岸によくみられ、八重山から沖縄本島まで広く分布するとされる植物である。木の皮は
紙の原料となり、葉は紙漉きに必要なネリ(粘材)として使用された。八重山では、この
植物をカビギー(=紙の木)と呼んでいる(①②③)。しかし、今回の石垣島での調査では、
この名称を聞くことはなく、石垣さんも「青雁皮」或いは「八重山青雁皮」と呼んでいた。
そもそも雁皮とは、楮・三椏と同様に古くから日本で使用された和紙の代表的な原料の
ひとつである。雁皮を原料に作られる雁皮紙は「紙の王様」と称され、楮の繊維の強さと
三椏の光沢の両方を兼ね備え、虫害・退色に対して強く、永年性が最も高い和紙として名
高い。しかし、雁皮という植物は、上品で強靭な良質の和紙を生むが、成育が遅く栽培が
むずかしいため、主にやせた山地に生育する野生のものを採取して使用しなければならな
11
い。勿論、その一種である青雁皮も、自然に生えてい
るものを材料とするほかに手段はない。
そのため、安定した材料の調達が難しく商品化はで
きないため、紙づくりが困難な原料でもある。
2-2.青雁皮紙と青雁皮の歴史
沖縄における紙作りの歴史は 17 世紀末に始まる。
当時、琉球紙の主な原料といえば、カジノキや楮であ
図2
青雁皮
り、青雁皮は紙の原料として単独に使われることは非常に少なく、和紙の補助材料として
多用されていたようである。現存する古文書の芭蕉紙などに青雁皮の葉の小片が混入して、
未だに青々と残っているのが見られる(③)
。
青雁皮を原料にした製紙業は、かつて西表において盛んに行われ、製紙工場のような紙
屋があった。また、大正、昭和の一時期、石垣島でも行われ、上等な紙質をもつ青雁皮紙
は、かつては紙幣局からの文書などに用いられたという。さらに、終戦直後には、青雁皮
の木を切って、皮を剥いで、沖縄本島の業者に買い取ってもらうことで、食い扶持をつな
いでいたという話が残っている。また、本土の商人もこの植物の皮を宮古、八重山、本島
にかけて地元の人々に採らせ、買い上げていた。ドル紙幣を作るのに必要だからと、アル
バイトで採ったことがある、という人もいるようである(①⑧)
。
このようにして、沖縄の人達は金になるこの植物を根こそぎ採り、売った。八重山にお
いて青雁皮をカビギーと呼ぶようになったのは、地元の人が青雁皮の皮を売る際にこの植
物がカビ(紙)に使われるらしいということを知ったからである。
太平洋戦争の影響で、青雁皮紙を含む琉球紙や製紙家は消滅してしまったが、後に勝公
彦氏が芭蕉紙の復興活動をし、それと同時に西表の青雁皮紙を取り上げたことにより、西
表の青年たちとの協力のもと青雁皮紙が復活した(①)
。
現在は西表島や石垣島の学校の体験学習として漉かれ、石垣島では、石垣実佳さんとい
う方が趣味の水墨画の一環として一人で漉いている。
3.石垣実佳さんと青雁皮紙
雑誌『沖縄スタイル』において、
「幻の紙、青雁皮紙の復興に、力と心を注ぐ職人」と称
される石垣実佳さんから自身のライフヒストリーや青雁皮紙について話を聞くことができ
た。石垣さんは五十の手習いで始めた墨絵を趣味とし、墨絵の用紙として愛用している青
雁皮紙を漉く、石垣島ではただ一人の人物である。ここでは、石垣さんのライフヒストリ
ーと石垣島における青雁皮紙の現状を記述する。
3-1.石垣実佳さんのライフヒストリー
石垣さんは元教育委員会の行政職で、人事異動によって八重山博物館に勤務していた。
12
退所後は、親交のあった八重山青雁皮紙研究所所長の平山章さんのもとで和紙作りを学ん
だ。そして、2006 年に同研究所が閉館したのを機に、自ら工房で紙作りに従事し始めた。
その後は、宮良の公民館の館長をつとめられた。
現在は石垣牛を 40 頭ほど養っているので午前中は牛の世話をして過ごし、午後からアト
リエに行って好きな絵を描くのが石垣さんの日課だが、その中で、石垣市教育委員会主催
の民具アンツク作りや絵手紙教室の講師もされている。今年 10 月末にも、博物館体験講座
「民具・アンツク作り」の講師として招かれた(⑥)。
3-2.青雁皮紙との出会い
石垣さんが青雁皮紙に魅了され、漉くきっかけとなったのには、先述した平山章さん(東
京女子医科大学教授)の存在が大きい。平山章さんは、米原に八重山青雁皮紙研究所を開
設して東京から石垣島へ 15 年間ほど通い、青雁皮紙の研究をされていた。当時、博物館に
勤務していた石垣さんは平山さんと親交があった。
八重山博物館で平山さんの漉いた紙の展示会をしたことがあった。そのとき、石垣さん
の趣味が墨絵であることを知った平山さんは、青雁皮紙の墨のノリ具合をみてほしいと石
垣さんに数枚の青雁皮紙を渡して依頼した。このとき初めて石垣さんは青雁皮紙に墨絵を
描いて感嘆し、墨絵を描くための理想の紙に出会ったと感じたそうである。
しかし、平山さんは高齢で、84、5 歳のときに通うことが難しくなり、研究所を引き上げ
ることにした。その知らせを受け、石垣さんは退職願を職場に出して、一年間平山さんに
ついて一生懸命紙漉きを勉強したと話した。そして、紙を漉くための道具を少々分けても
らい、現在は自分に必要な分を漉いているという。
3-3.石垣さんの紙漉き
石垣さんが青雁皮紙を漉く理由は、商売をするためではなく、趣味の墨絵を描く理想の
紙を手にすることただ一つである。そのため、頻繁に紙漉きをするのではなく、年に一回、
5 月頃に自分に必要な分を漉くという。そうした意味でも、石垣さんは自らを紙漉きの職人
として漉いているのではなく、あくまでも自分が最も魅力を感じ、愛着のある和紙だから
という気持ちで漉いているのだと語ってくれた。
3-4. 原料「八重山青雁皮」の現状
青雁皮は八重山から沖縄本島まで広く分布するとされる植物であると先述した。石垣さ
んも、昔はあちらこちらにあったが、現在ではすっかり減ってしまったという。さらに、
石垣さんは「以前は沖縄本島にもあったが開発が進んでなくなってしまった。今はもう、
石垣島と西表島にしかないですね」と話す。
そして、唯一、石垣島において、以前のように沢山生えているのが牧場の中であるとい
う。
「あれ(青雁皮)は育てんでも牧場の中ではいっぱい生えている。でも畑の中で育てる
13
のは難しいね」と石垣さんは話す。牧場の中では牛が青雁皮の毒を嫌うせいか青雁皮を食
べないため、牧場の中で一際目立って生えている。
一方、畑の中ではいくら育てようとしても立ち枯れしてしまうようである。そのため、
今では青雁皮は容易に手に入れられる原料ではなく、採取も困難なので、紙漉きに魅力を
感じても実際に着手までは至らないことが多い。
3-5.石垣さんと青雁皮紙
石垣さんは青雁皮紙について、
「墨の濃淡と滲みがとても魅力的」で、「なんともいえな
い味わい」が生まれるところが他の紙と違うと話す。その青雁皮紙を一緒に漉きたいとい
う問い合わせも中にはある。ただ、紙漉きには様々な工程があるため数日間を要し、大変
難儀なので頻繁には紙漉きはできないが、石垣さんは青雁皮紙について知りたい人たちに
分け隔てなく接している。
前述したように、石垣さんは自分は職人ではないということから、後継者については視
野に入れていないようである。石垣さんは、青雁皮紙が好きだから漉き、そしてその紙に
好きな墨絵を描く。求めるもののために自分が主体的に動き、作り、手がけるこのような
関係こそ、人とものとを繋ぐ根本的な関係であると私は感じた。
4.青雁皮紙を後世へ伝える活動
石垣島における代表的な青雁皮紙に関する活動とし
て、石垣さん個人の紙漉きの他に、もう一つ、石垣島
全体で行われている活動がある。それは八重山博物館
の「こども博物館教室」である。こども博物館教室と
は、八重山の伝統文化や歴史、自然を学ぶことを目的
に、石垣市内小学校 5 年生の児童を対象に行われる体
験学習である。
現在 29 期と継続して行われており、
「文
化財・史跡めぐり」や「八重山の年中行事」、
「天文台
図3
こども博物館を終了した
5 年生の児童たち(⑦)
見学」など全 9 講座のプログラムが組まれている。
第 9 回講座「和紙作り」は毎年 2 月に行われる青雁皮紙の紙漉き体験で、こども博物館
教室の最終学習を飾る。
芭蕉紙や青雁皮紙を復興した勝公彦氏が 1985 年に開始した講座で、
現在は沖縄県最高の技術者であり、勝公彦氏の弟子である安慶名清さんを講師に迎えてい
る。こどもたちは、その講座において、紙の歴史や原料、和紙と洋紙の違いなどを学んだ
あと実習に移り、青雁皮の皮をゆでたあと、柔らかくなった繊維を木槌でたたく作業を行
い、青雁皮による紙漉きを体験する。そして 3 月に終了式を迎え、博物館特別陳列室で館
長から修了証を授与される。子どもたちは「学んだことを生かしたい」「いろいろ勉強でき
て良かった」
「自然や文化を知ることができた」とひとりひとり感想を話す(⑦)
。
自分で漉いた、世界にひとつの修了証は、子どもたちにとって学校や家庭では体験し難
14
いことを学んだ証であり、思い出の結晶である。こうした活動が青雁皮紙を知るきっかけ
となっており、子を通して家庭へと、さらなる広がりをみせているようである。
5.おわりに
今回の調査において、青雁皮紙が石垣島において八重山の紙として予想以上に受け入れ
られており、青雁皮紙は少しずつ八重山の人々にとって身近な存在になりつつあることが
分かった。
石垣さんは、
「木の皮はなんでも紙になるけれど、質が良いか悪いかなんですよ」と話す。
今残っている和紙には先人の知恵が込められている。すなわち、青雁皮紙を守り漉き続け
ることは、そうした石垣島の文化や自然環境を大切にすることでもある。こうした緩やか
でありながら力強い活動は、青雁皮紙を八重山の文化として新たに受け入れ誇りと感じて
いる子どもたちを動かすであろう。そして、八重山のかけがえのない文化として青雁皮紙
を守り継承していくに違いないと私は考える。
そして、自分に必要なものを自分の手で必要な分だけつくるという石垣さんの活動は、
自然に対して無駄がなく、無理のない、最も豊かな暮らしであるといえるのではないだろ
うか。石垣さんの活動に触れて、私は人がどう暮らしていくべきか、本当の意味で豊かで、
且つ持続可能な暮らしとは何かを考えるきっかけになったと感じている。
参考文献
① 安部栄四郎 1982 『沖縄の紙』 沖縄タイムス社
② 沖縄県立博物館・美術館 與那峰一子 2010 『ものづくりの知恵を学ぶ体験プログラ
ム』文化の杜共同企業体
③ 上江洲敏夫
1981
「沖縄の紙」
、仲程正吉 『図説郷土のくらしと文化 下巻』 pp.
140-151、新星図書出版
④ 竹富町立西表小中学校 1990 『和紙づくり-手すきアオガンピ紙』
⑤ 柳橋真 1978 『琉球紙』 pp.64~72 日本美術工芸社
⑥ 八重山博物館 HP「平成 23 年度博物館体験講座 民具・アンツク作り」
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/400000/410000/410500/11jigyo/event/
taikennkouzaantsuku.html(2011 年 11 月 27 日取得)
⑦ 八重山毎日新聞「2011 年 3 月 6 日 児童 44 人に終了証 こども博物館教室が終了式」
http://www.y-mainichi.co.jp/news/tb/17866/(2011 年 11 月 27 日取得)
⑧ 石垣島より「青雁皮の紙 その1」
http://frishigaki.exblog.jp/13942387/(2011 年 11 月 27 日取得)
15
4.川平湾のグラスボート観光とエコツアー
今川 沙紀
1.はじめに
石垣島の景勝地である川平湾は、白い砂浜や透き通った海、美しいサンゴや小島が織り
なす風景で古今東西、老若男女を魅了し続けている。そんな川平湾で行われているグラス
ボート観光に私は注目し、エコツアーとなるのではないかと考えた。
以下では、まず川平湾について説明してから、グラスボート観光がエコツアーとなりう
るのか、その可能性について考え、最後に一般に考えられているエコツーリズムの考えに
ついて記述する。
2.川平湾について
川平湾は、
「21 世紀に残したい日本の自然
100 選」
(1983 年 5 月)にも選ばれた石垣島
隋一の景勝地であり、全国に 8 か所しかない
国指定名勝地(1997 年 9 月指定)でもある。
また、ヨーロッパで発行された日本の旅行ガ
イド「ミシュラン・グリーン・ガイド・ジャ
ポン」
(2009 年 3 月刊)では、川平湾が「わ
ざわざ旅行する価値がある」として、最高評
価である「三ツ星」
(全国で 17 か所)に
写真 1
川平湾
格付けされている(⑤)
。
川平湾では、世界的に評価されているすばらしい自然を誰でも見ることができるように、
グラスボート観光が盛んに行われている。このあたりは流れが速いため遊泳禁止区域であ
るが、船底がガラス張りのグラスボートに乗れば、色鮮やかな熱帯魚やサンゴ礁をさまざ
まな年代の人が簡単にみることができる。
川平湾の特徴は海水の透明度が高く、そのうえ水深が深く、急流であることがあげられ
る。そのため太陽光線の照り具合や潮の干満などによって刻々と海の色が変化する。その
海の色と周辺の小島が織りなす風景は、南国の島独特のもので、
「いかなる画人のいかなる
詩情をもってしても、その表現が困難である」と岡本太郎が賛美をもって評している(⑤)
。
湾内には、枝状のミドリイシ属やコモンサンゴ属、塊状や指状のハマサンゴ属などのサ
ンゴが生育し(④)
、澄み切った水で育つクロチョウガイを利用した琉球真珠の養殖筏もあ
る。また、湾岸には、長い年月をかけて形づくられてきた琉球石灰岩がキノコ状になった
ノッチ(くぼみ)が見られ、干潟では、砂団子を作ることで知られるミナミコメツキガニ
が遊び、湾の奥にはマングローブも見られる(⑤)
。
16
このように自然豊かな川平湾だが、近年ではサンゴの白化・減少と海の汚染が進んでい
る。グラスボート観光を営む 40 代~50 代女性の A さんは、
「サンゴは温暖化や台風の影響
で少なくなったと思う。台風が来ることで、海水が混ぜられて海の掃除がされるが、最近
は台風があまり来なくて海の掃除もされないし、海水もあつい」という。また、川平でダ
イビングショップを営む 30 代男性の B さんは、「サンゴの白化は進んでいるし、グラスボ
ートがいっぱい走っているからオイルで海が汚くなっている。10 年前は水がきれいで、砂
浜から海の底が見えたが、今は砂浜から海を見ると黒く見える」という。
3.エコツアーとグラスボート観光
3-1.エコツアーとは
近年では、
“エコ”ブームが到来し、沖縄の
各地で行われているエコツアーも人気を集め
ている。エコツアーとは、地球に優しく、環
境について学びながら、ツアーを行う地域と
地域の観光を活性化させるものである。エコ
ツアーとしては、①バードウォッチング・ホ
エールウォッチング・フラワートレッキング
などを盛り込んだ自然観察ツアー、②修学旅
行先でごみ拾いなどの環境保全活動をする環
写真2
エコツアー
境学習ツアー、③ユネスコの世界遺産基金や自然保護団体などに対する寄付を盛り込んだ
寄付金付きツアーなど、さまざまな形態のツアーが挙げられる(①)
。
私は、川平湾で行われているグラスボート観光に注目し、エコツアーとなりうるのでは
ないかと考えた。次節でその可能性について探っていく。
3-2.グラスボート観光のエコツアーへの可能性
川平湾のグラスボート観光は、海の適切な保全と持続的な活用を行い、地域の活性化を
図る中で展開されている。川平湾をきれいに保つために何かしているのか A さんにきいた
ところ、
「1 ヶ月前(2011 年 8 月)に、グラスボート観光を経営する 3 つの会社の船長たち
が、午後みんな船を欠航してオニヒトデの退治をやった」
、また「お客さんがボートから海
を覗いていて、カンが落ちていたりしたら恥ずかしい。できるだけ海を汚さないように、
掃除をしたりもする」という。さらに A さんは川平湾のサンゴについて、
「潮が引きすぎて
いるときは、サンゴを傷つけないために欠航する。私たちは本当にサンゴがあるから仕事
がある。お金をかけなくても、飼ってエサをあげなくても、何もしなくても[サンゴは]
自然にあるから、海をきれいにするくらいはしなくてはいけない。本当に大事にしていき
たい」という。
また、グラスボート観光は地域の活性化にも大きく貢献している。石垣島は沖縄本島よ
17
りも近い台湾からの観光客が多く、グラスボート観光は台湾人観光客に大人気である。彼
らは川平へ訪れ、グラスボートを楽しむだけではなく、飲食や買い物もする。グラスボー
ト観光をきっかけに地域に人が集まり、お金が動くことで地域も観光産業も活性化する。
その中で、グラスボート観光は観光客が適切な案内を受けて、海やサンゴ礁に与える負荷
を最小限にしながら自然と触れ合うことができるため、私はエコツアーといえるのではな
いかと考える。
さらに、今までの話に関わらず、川平湾で行うことのできるエコツアーを考えてみると、
候補として筆頭に挙げられるのはやはりグラスボート観光ではないだろうか。川平湾の自
然条件を踏まえると、流れが速く遊泳禁止区域であるため、泳いだり、シュノーケリング
をしたり、カヌーを漕ぐことはできない。しかし、川平湾の有名な美しい海とサンゴ礁を
みてもらおうとすると、環境への負荷を最小限にしながら楽しむことができるグラスボー
ト観光が 1 番最適ではないかと考える。
3-3.石垣島の人びとのグラスボート観光への考え
今までは私の考えを述べたきたが、実際私より身近である石垣島の人たちはグラスボー
ト観光をエコツアーと考えているのだろうか。エコツアーに関わる人たちへインタビュー
を行い、エコツアーと考えているのかどうかきいた。
石垣市観光協会 50 代男性 C さんと石垣島トラベルセンター30 代女性の D さんはエコツ
アーだと思わないという。
「カヌーで行けばエコツアーになるかもしれないが、ボートにエ
ンジンがついているからエコではない。しかし、祖父母、父母、子どもの 3 世代で来るお
客さんもいるため、幅広い世代にやってもらうにはエンジンが必要になってくる」と石垣
市役所環境課 20 代男性の E さんはいう。
一方、石垣市役所観光交流推進課 20 代女性の F さんは次のようにいう。
「ボートに乗っ
て慣れない人が誤ってサンゴを傷つける心配もないし、老若男女だれでも乗れるからエコ
ツアーだと思う。観光のパンフレットの中でエコツアーの部門にもグラスボートは入って
いる。けれども、本来はカヌーで行ければ本当のエコツアーだと思うけど、エンジンがつ
いているからどうなんだろうね・・・」
。さらに、E さんは「知識を持った人から説明をき
くし、自然と触れ合っていればエコツアーなんじゃないかな」という。
エコツアーと思うかどうか 7 人にインタビューしたところ、5 人がエコツアーと思わない
と回答し、2 人はエコツアーと思うと答えた。このように、多くの人がグラスボートをエコ
ツアーとは考えていないことが分かった。やはりエンジンがついているから、という理由
が多く、動力をガソリンではなくソーラーにすればエコツアーになるのではという人もい
た。しかしながら、観光客がサンゴを傷つける危険性がないことや海の適切な保全と持続
的な活用をしていること、地域の活性化を図っていることなど、エコツアーだといえる要
素もたくさんあり、今後エコツアーとして広く認識される可能性は多分にあると思う。
18
4.エコツーリズムについて
最後に一般的に考えられているエコツーリズムの考えについて記述する。そもそも、エ
コツアーとはエコツーリズムの考え方を実践するためのツアーである。エコツーリズムと
いう考え方は、自然保護地域などでの自然保護・地域の活性化と自然志向の旅行者ニーズ
の増加に対応しようとする観光産業分野の要求が 1980 年代後半に結びついて発展してきた。
エコツーリズムの定義は統一されておらず、定義を論じる研究者あるいは機関の立場やス
タンスによって多様である。けれども、さまざまなところが示した定義から共通してみえ
てくるエコツーリズムの理念として、「環境保全」、「観光振興」、「地域振興」、「環境教育」
の 4 つが挙げられる(②③)
。
最初に「環境保全」について考える。エコツアーは貴重な当該地域の観光資源を保全し
つつ売りにするツアーである。それゆえ、観光資源の過剰な利用やそれによる環境の変化、
観光客による破壊などによって、従来の生態系を崩したり資源を消失させたりする危険性
がある。このような危険性を十分に考え、持続可能な観光にするため、エコツアーは観光
資源に与えるインパクトを最小限にして行われなければならない(②③)
。
次に「観光振興」、「地域振興」
、「環境教育」について考える。エコツアーを行う当該地
域はツアー内容の充実だけでなく、エコツアーのマーケティング戦略を練ったり、観光客
の受け入れ体制を整える必要がある。そのため、来訪した観光客の移動手段や道路、宿泊
先を、場合によっては建設する。このさまざまな整備は観光産業を活性化させるだけでな
く、地域振興にもつながる。また、エコツアーのために来訪した観光客がエコツアーだけ
でなく、地域で消費(飲食・宿泊)することによって、その地域に利益がもたらされる。
その利益によってさらに地域や観光産業が活性化し、より多くの人にその地域やエコツア
ーを知ってもらえるようになる。さらに、より充実したエコツアーガイドの養成や関係者
向けの学習プログラムも実施できるようになり、地域社会・経済および環境教育の発展に
寄与することができる。そして、しっかり育成されたガイドの説明を受けた観光客は観光
資源を十分に理解し、少なからず環境に対して問題意識を持つようになるだろう。このよ
うにしてエコや環境について考える姿勢は波及していくと思われる(②③)
。
エコツーリズムはこの 4 つの理念をもとに行われることが理想である。しかしエコツア
ーは環境保全や観光振興を観光資源とのバランスを考えながら行うことで初めてエコにな
るのであり、このバランスはエコツアーを行う各地域がそれぞれ考えていかなくてはなら
ない。このバランスの違いがその地域にしかないエコツアーになる 1 つの要素となるのだ
ろう。
5.おわりに
今回、私はグラスボート観光に注目し、エコツアーとなりうるのか、その可能性につい
て調べた。エコツアーであるかどうかは人によって意見が違い、
「これはエコツアーであり、
これはエコツアーではない」と判断するのはとても難しいと思った。あるツアーの 1 つの
19
側面だけをみたら、エコツアーといえるものはたくさんあり、ツアーを行っているガイド
とツアー客の考え方にもよるだろう。だからこそエコツーリズムの定義は統一されておら
ず、さまざまなものがあるのだと思い、エコツアーの曖昧さをひしひしと感じる調査であ
った。
また、川平湾について石垣島の方にインタビューを行っている中で、どの方からも石垣
島の自然を「誇りに思い、大切にしていきたい」という想いを私は感じ取った。だからこ
そ、このように川平湾が賞賛を得続けているのであり、石垣島の人びとの意識の高さによ
って、今後も川平湾の美しい海とサンゴ礁は保たれ続けるのだと感じた。そして、美しい
川平湾が保たれる限り、老若男女、国籍を問わず、グラスボート観光はこの先もグラスボ
ートでしかみることのできない風景で、人びとを魅了させ続けていくことだろう。
参考文献
① 市田飛鳥・林浩二・細谷夏実 2005 「エコツーリズムにおける地域環境保全の役割
――沖縄県・石垣島における WWF しらほサンゴ村体験ツアーを事例として――」 『大
妻女子大学紀要――社会情報系―― 社会情報学研究』14:141-155 大妻女子大学
② 環境省自然環境局総務課自然ふれあい推進室 2010 『さぁ、はじめよう、エコツーリ
ズム!――エコツーリズム推進法の仕組み――』 環境省
③ 敷田麻美 2010 「生物資源とエコツーリズム」 『季刊環境研究』157:81-90
日立環境財団
④ 目崎茂和
1991
「石垣島サンゴ礁環境調査の概要と総括」
『石垣島のサンゴ礁環
境』 目崎茂和(編) 財団法人 世界自然保護基金日本委員会
⑤ 石垣島の風景と歴史(周遊の旅・東回り編)
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/huukeirekisi/landscape/p1-p133
/p95.html
(2011 年 12 月 6 日取得)
20
5.石垣島のバリアフリー・ダイビング
佐伯 杏子
1.はじめに
スキューバ・ダイビングは、沖縄県への旅行者に大変人気のあるレジャーである。
観光のバリアフリー化が唱えられている現在、障がい者や高齢者であっても、スキュー
バ・ダイビングに挑戦したいと考える人は増えているのではないだろうか。しかし、さま
ざまな器具を身に付け、視覚や聴覚に制限がかかるスキューバ・ダイビングは危険が伴う
スポーツでもある。
本稿では、スキューバ・ダイビングとバリアフリー・ダイビングの概要について述べた
後、沖縄県・石垣島でのバリアフリー・ダイビングの取り組みについて述べる。
2.スキューバ・ダイビングの概要と歴史
スキューバ・ダイビングとは、水中で呼吸をするための潜水用具であるアクアラング(自
給式水中呼吸装置)を身に付け、潜水行為を行うマリン・スポーツやマリン・レジャーの
ことである。アクアラングは「水中の肺」を意味する。スキューバ・ダイビングは海中工
事、水難救助、軍事などでも行われるが、レジャー・ダイビングのことを指すことが多い
(①②)
。
日本におけるスキューバ・ダイビングの始まりは 1950 年、アクアラングが日本に輸入さ
れたことから始まる。日本で最初にスキューバ・ダイビングを行ったのは、当時日本を占
領していたアメリカの軍人であった。こののち、学術・軍事・レジャーの各分野でスキュ
ーバ・ダイビングは普及していった(②)
。
1957 年には日本ダイビング協会(1958 年に日本潜水科学協会に名称変更)が設立され、
スキューバ・ダイビングの講習が行われた。1969 年にはスキューバ・ダイビングの専門誌
『マリンダイビング』が創刊された。1972 年に刊行されたダイビング関連の本には、日本
のダイビング人口は 20 万人ほどと記されている(②)。
1980 年代後半から、ダイビングをテーマにした映画のヒットなどによりダイビング・ブ
ームが起こり、スキューバ・ダイビングの大衆化が進んだ。また、1990 年代後半にデジタ
ル・カメラが一般的になり、ダイバーの多くが防水ケースに入れたデジタル・カメラで水
中撮影を行うようになった。こうして、珍しい海洋生物や海底の地形を写真に収めたり、
浮遊感覚を楽しむ現在のファン・ダイビングが確立していった(①②)
。
3.沖縄県におけるスキューバ・ダイビング
宮内はダイビング・ショップを、一般的に都市部において講習や潜水器材の販売を中心
としている業者と、ダイビングポイントに近い場所でダイビングガイドや潜水器材のレン
21
タルを中心としている業者に分け、前者をダイビングプロショップ、後者をダイビングサ
ービスと呼んでいる。1997 年の調査では、全国に 1073 のダイビングプロショップと 750
のダイビングサービスが確認された。沖縄県では、ダイビングプロショップは 271 事業所
で東京都に次いで全国 2 位、ダイビングサービスは 270 事業所で全体の 36%を占め全国 1
位であり、ダイビング事業が盛んなことがわかる(④)
。
ウェブサイト『ダイビングサービス・ネット』には、全国で 886 のダイビングサービス
が登録されている。そのうち、沖縄県全体では 431 事業所の登録があり、石垣島では 92 の
登録がある。この数字によると、沖縄県のダイビングサービスは、全国の 48.6%を占める
ことになる(⑥)
。
4.バリアフリー・ダイビングの概要
バリアフリー・ダイビングとは、脳性麻痺や手足の障がい、視覚障がいを持つ人や手足
の一部を切断した人などが、バディーと呼ばれるパートナーと共に協力し合って楽しむダ
イビングである。障がいを持つ人とダイビングを行うためには、バディーは高い技術を持
っていなくてはならない。またバディーが障がい者同士の場合もあれば、健常者と障がい
者が組む場合もある。
三浦らは現在の障がい者スポーツは世界・日本ともに、記録に挑み、技を競い合う競技
スポーツに傾きすぎており、結果として軽度あるいは単純障がいを持つ人が中心となり、
重度障がい者には縁遠いものとなっていると指摘している。1993 年に出された総理府の方
針にも、レクリエーションや交流を楽しめるスポーツの振興の必要性が記されている(③)
。
スキューバ・ダイビングには、他人や自然と競ってはならない、安全と安心を確保する
ため、必ずバディーと一緒に潜水しなければならない(バディー・システム)というルー
ルがある。また水面や水中に滞在することで、浮遊感覚を楽しみ、海中の地形や魚、植物
を見て驚きや楽しみをバディーと共有するスポーツである(③)
。このようにスキューバ・
ダイビングは、レクリエーションという面があり、他者と協力することで連帯を図ること
ができ、障がいを持たない者(バディー)とともに参加できるスポーツであり、私は先に
述べた、これからの障がい者スポーツにふさわしいもののひとつであると思う。
また三浦らは、スキューバ・ダイビングは息継ぎをすることなく自給式水中呼吸装置に
よって呼吸を保ち、浮力調整器具を用いて水中に滞在するため、障がいの有無・程度・種
類を問わず実施しやすいスポーツであると述べている。しかし事例や報告が少なく、障が
い者ダイバーの数、年齢、実施可能な障がいが不明確であるとも述べている(③)。
吉野は、障がいを持つ若者たち、特に交通事故などで中途障がいを持つ人たちにとって
は、若者の間で人気のあるダイビングに挑戦し、成功するという「かっこよさ」が大切な
キーワードであると指摘する。若者にとって「かっこよさ」は障がいを認め、リハビリの
意欲を高めるものであるが、障がい者の福祉に携わる人たちが無視しがちなキーワードで
あると、吉野は述べている(⑤)
。
22
5.石垣島におけるバリアフリー・ダイビング
今回の調査では、石垣島川平地区のダイビングサービスを中心にインタビュー調査を行
い、バリアフリー・ダイビングについてどのような取り組みを行っているのか、利用者は
どの程度いるのかなどを質問した。調査の結果、ダイビングサービスが障がいを持つ利用
者を受け入れる場合、特別な資格や講習は必要ないようだった。以下は、調査を行ったな
かで、代表的なダイビングサービスの取り組みについて述べていく。
石垣島の市街地に拠点を置くダイビングサービスAでは、障がいを持つ利用者は多いと
いう。特に視覚障がいを持つ人が多く、常連客もいるそうだ。障がいを持つ利用者を受け
入れるかどうかは、障がいの程度によるという。手足の一部がない人や視覚障がいを持つ
人の受け入れについては問題はなく、水中では、ジェスチャーや肩をたたく回数などで意
志を伝え合うことができるという。視覚障がいを持つ人達の団体を受け入れたこともある
そうだ。しかし、バリアフリー・ダイビングのインストラクターがいるということは知っ
ているが、Aではバリアフリー・ダイビングの講習などを受講したインストラクターはい
ないという。そのため、知的障がいを持つ人が水中などでパニックを起こしたときの対処
などの訓練を受けていないため、知的障がいを持つ人の受け入れは難しいと考えている。
実際に障がいを持つ利用者にどのように対応しているのかというと、インストラクターに
は 20~30 年のキャリアがあり、海のいかなることにも対応できる人が就くそうだ。また利
用者1人につき最低 2 人のインストラクターをつけている。そのため他の観光客で混雑す
る夏などは断らざるを得ないという。
Aではバリアフリー・ダイビングについてどのように考えているのかと聞くと、
「皆さん
の海」だと考えているため、どのような人にも楽しんでもらいたいと考えているものの、
スタッフの中でもバリアフリー・ダイビングに積極的な人とそうではない人がいるため、
意見が対立することもあるという。また、スタッフの人数が少なく年齢層も若いため、旅
行会社などとの契約をこなすことに精一杯で余裕がなく、バリアフリー・ダイビングにま
でなかなか手が回らないという事情もあるそうだ。
川平地区にあるダイビングサービスBでは、店を出した十数年前から障がいを持つ利用
者が来ていたそうだ。さらに近年になって障がいを持つ人も自然の中で「癒し」や「ヒー
リング」を楽しむという風潮ができてきており、利用者が増えてきているという。障がい
の種類では、手足の一部がない人や、歩行が困難な人などがいるという。障がいを持つ利
用者に対しては、他の利用者とは別のスケジュールを組み、1 人につき 2~3 人のインスト
ラクターをつけている。バリアフリー・ダイビングのセミナーがあることは知っており、
店側もスキルを上げて対応の幅を広げたほうがよいと考えているが、そのようなセミナー
への参加はあまりしていないという。参加している店もあるが、参加しないダイビングサ
ービスがあるのは、時間の制約があることや、有料のセミナーもあることなどが原因では
ないかと考えているそうだ。また、軽度の障がいを持つ利用者は個人客としてくるが、重
23
度の障がいを持つ利用者が施設ごとなどの団体で来ることがあるという。そのような場合、
団体のリーダーの人に、港からダイビングポイントまで移動するボートへの乗り降りの仕
方など、障がいを持つ利用者へのサポートと店側のサポートの両方をしてもらうそうだ。
Bのオーナーは、バリアフリー・ダイビングを普及させ、ダイビングを誰でもできる遊
びにしたいと考えているという。しかし障がい者に対して、以前に比べるとタクシーや観
光施設などの受け入れ側のサポートは増えたものの、ダイビングサービスまで移動してく
るにも、街中に多くの段差があり、健常者が考えるほど、バリアフリー化は進んでいない
のではないかと感じており、観光地としてダイビング以外にも、地域全体のバリアフリー
化について考えなくてはいけないと感じているそうだ。
川平地区にあるダイビングサービスCには、日本バリアフリーダイビング協会の指導員
として登録されているインストラクターが 3 人在籍している。Cには、障がいを持つ利用
者が年間で 4~5 人来るそうだ。脚が動かない人や全盲の人、弱視の人なども利用するとい
う。目が不自由な利用客が来た場合、那覇にある協会の本部から水中で話すことができる
マイクを借りて使用することもあるという。しかしマイクが空いていないときもあるため、
事前の予約が必要だそうだ。弱視の利用者のなかには、川平地区で有名なマンタが泳いで
いる様子を見ることができない人もいる。そのため、赤色や黄色などの色鮮やかなサンゴ
を見せるという工夫もしている。Cでは障がいを持つ人には 1 人以上のインストラクター
をつけるという。そのため、混雑するシーズン中は障がいを持つ利用者を受け入れていな
い。設備面では、Cでは段差のある屋内に入らなくても外でシャワーを浴びることができ
る。しかし、トイレはバリアフリー対応のものではないため、できるだけ利用者は水を飲
まないようにしているという。また、シャワーもホテルに戻って浴びる人が多いそうだ。
Cでは、以前バリアフリー・ダイビングの講習を開いたそうだ。しかし、講習を受けた
のはCのインストラクターのみで、他の石垣島のダイビングサービスからは誰も参加しな
かったという。Cには日本バリアフリーダイビング協会の初級の指導員としての資格を持
つインストラクターが在籍している。初級コースの講習では、実際に車イスを使用したり、
障がいを持つ人を指導したりするという。Cのオーナーは初級を取得すれば十分に対応で
きると話した。
Cのオーナーは、石垣島の他のダイビングサービスがバリアフリー・ダイビングについ
てどのような活動をしているのか、あまり気にしていないと話す。できる範囲で、講習な
どを広めていきたいと考えているそうだ。また、口コミやインターネットなどで自ら情報
を集めることができると考えているため、障がいを持つ人への宣伝は必要ないと考えてい
るそうだ。
また、川平地区には港がないため、ダイビングを行う際にはビーチにボートを近づけ沖
へ出発する。そのため、自力で歩けない利用者はボートまで背負わなければならず大変だ
という。今後は、市街地のように港を整備し、バリアフリー対応にできたらいいと考えて
いるそうだ。
24
6.おわりに
調査の結果、石垣島でのバリアフリー・ダイビングの取り組みは、それぞれのダイビン
グサービスの工夫と姿勢に委ねられているということがわかった。また、ダイビングを行
ううえでの安全対策について質問したところ、多くのダイビングサービスで、本人が話さ
ない限り障がいについて根掘り葉掘り聞かないようにしていると話していた。障がいをも
つ人は自らの障がいや、ダイビングを行ううえでの危険性について、自らが一番理解して
いるからということだった。このように、ダイビングサービスと利用者が直接話し合い、
その上でダイビングが行えるのか、どのように行ったらよいのかをダイビングサービスが
判断するというやり方が多く採られていた。
あるダイビングサービスのオーナーは、
「障がいをもった人でも気を使いすぎず、腫れ物
を扱うようにはしない、背負って移動するときも荷物としてではなく、人として扱うこと
を心がけている」と話していた。調査のなかで、障がいとひとくくりにせず、その人ので
きることを個別に相談し、考えるようにしていると答えたダイビングサービスは多かった。
バリアフリー・ダイビングについて知識を深め、講習などを受けることも大切だ。しかし、
一人ひとりの利用者に向き合い、共に海を楽しむという姿勢が何よりも大切なことなのだ
と感じた。
参考文献
①圓田 浩二 2009
「日本におけるスクーバ・ダイビングの変容 : 1950 年代から 1990
年代まで」 『沖縄大学人文学部紀要』11: 1-12 沖縄大学
②圓田浩二 2007 「座間味村におけるスキューバ・ダイビングの歴史とその課題」 『沖
縄大学人文学部紀要』9: 33-42 沖縄大学
③三浦 孝仁、中川 法一、中塚 茂巳、案納 昭則、FABER MICHAEL G. 2001 「身体
障害者のスクーバ・ダイビング」 『研究集録』116: 65-73 岡山大学
④宮内久光
1998
「島嶼地域におけるダイビング観光地の形成と人口現象――沖縄県座
間味村を事例として――」
『人間科学 = Human Science』1: 299-335 琉球大学法
文学部
⑤吉野 由美子 1994 「障害をもつ人たちとスクーバーダイビング」 『月刊福祉』77(14):
100-103 全国社会福祉協議会
⑥ ダイビングサービス・ネット
http://www.diving-service.net/(2012 年 1 月 15 日取得)
25
6.石垣島のサンゴ礁
前田 愛子
小柳津 美帆
1.はじめに
沖縄は、美しい海で評判である。なかでも、石垣島の白保地区のサンゴ礁は、特に有名
である。美しいサンゴ礁は沖縄の観光の目玉とされている一方で、今、そのサンゴ礁が危
機に直面しているという話を耳にした。今回、フィールドワークが石垣島で行われること
になり、私たちは、環境を絡めたサンゴ礁と人々との関わりに興味を持ったので、このテ
ーマで調査をした。
本稿では、サンゴ礁の現状について述べた後、今、石垣島で起きているサンゴの問題や
地域の人々の保全活動について記述していく。
2.石垣島のサンゴ礁の現状
琉球列島には約 400 種のサンゴがみられ、これは全世界で知られているサンゴの種数の
ほぼ 30%に当たる。有名なグレートバリアリーフよりも数が多い。沖縄はサンゴ礁として
は北に位置するが、太平洋の西側にあり黒潮でサンゴ三角地帯と直結しているため、たい
へんにサンゴが豊富である。そのため、琉球列島は堂々世界第 3 位の豊富さを誇っている。
(1 位はフィリピン、2 位はスンダ列島)。固有種(その地方でだけみられる種)の数なら、琉球
は世界一と言われる。ちなみにハワイはサンゴの豊富な地域から遠く隔たっているため、
サンゴの種類は多くない。沖縄の日本返還後、南西諸島の各地では、環境に配慮しないさ
まざまな開発行為により、サンゴ礁が破壊され、失われてきた。また、サンゴを食べるオ
ニヒトデの大発生も、そこに追い討ちをかけ、壊滅的な打撃を与える大きな要因になった(④
⑤)。
そのような中で、まとまった広さで、きわめて良好なサンゴ礁の環境を保ちつづけてき
た、数少ない海の一つが、石垣島、白保の海である。石垣島の東海岸に位置する、南北 10km
ほどのこの白保のサンゴ礁は、サンゴはもちろん、多くの魚や貝、エビやカニ、水鳥やウ
ミガメなど、さまざまな生きものたちの生息場所であり、とりわけ、この海域に見られる
アオサンゴの大群落は、世界でも最大級といわれている。グレートバリアリーフのように、
海岸から数十 km も沖合に形成されるサンゴ礁とは異なり、白保のサンゴ礁は、海岸の目の
前に広がるサンゴ礁である。誰もが足を運び、その恵みを享受できる、そんな身近さこそ
が、白保の海の特長だ。この白保の海は、今も地元の人たちに、さまざまな恩恵をもたら
している(⑤)。
このように文献には書かれていたが、実際にインタビューしてみたところ、
「石垣のサン
ゴは、増えていたり減っていたりしている。減っているとよく聞くと思うが、そんなこと
26
もなく、小さなサンゴが出てきていたりする。2007 年にすごく減ったが、増えているとこ
ろもある。たとえば竹富島の北などが増えている」と国際サンゴ礁研究・モニタリングセ
ンターに勤務する環境省のAさんはいう。一方で、石垣の白保地区でサンゴの保護活動な
どを行なっているしらほサンゴ村のBさんは、「うちで取っているデータでいうと、ほとん
どのサンゴが減っている。原因としては台風で壊れたり、大規模な白化現象が 2007 年にあ
って、それ以外にも赤土が轟川から入っていたりすることがあげられると考えているが、
これが原因かはっきりとはわからない」という。これらの意見から、石垣島のサンゴ礁が
すべての地域で減っているわけではないが、白保のサンゴ礁は減っていると考えられる。
3.サンゴ礁の危機
3-1.サンゴの白化の問題
異常に海水温が高くなったときなどに、サンゴと共生している褐虫藻がサンゴから抜け
出ていくことにより、元々は褐虫藻の色を反映して褐色がかっていたサンゴが、ポリプの
下の骨格が透けて白っぽく見えるようになることを白化という。温度の上昇だけでなく、
低温になったり、強い光を与えたり、暗いところで飼育し続けたり、海水の塩分濃度を下
げても白化を引き起こすことがわかっている。近年、地球温暖化による海水温の上昇が原
因となって、世界的規模でサンゴの白化が大きな問題となっている。夏の異常高温時に起
こり、普段より 1〜2 度水温が高いと白化が見られ、白化するとサンゴは褐虫藻から栄養を
得られないため徐々に弱っていき、これが長期間(約 2 ヶ月)続くと死んでしまう。それ
ほど高温が長引かなければ、再び褐虫藻を獲得し、数週間から数ヶ月をかけて回復する。
1998 年には 1000 年に一度と言われる世界的に大規模な白化が起こった(④)。
また、BさんだけでなくAさんも、2007 年には八重山で大きな白化現象が起こったとい
う。そしてAさんは、
「白化は 2008、2009,2010 年には起こっていないから結構突発的な
ものなのではないか。本当に世界的な温暖化が白化に影響するのかは、何とも言えない」
ともいう。
3-2.赤土の問題
サンゴ礁の自然を脅かす大きな要因の一つに、赤土の流入がある。環境省のAさんも、
しらほサンゴ村のBさんもこれを問題視していた。赤土とは、琉球列島の島々に見られる、
粒子の細かい赤茶色の土のことだ。これが、沖縄では、亜熱帯特有の強い雨が降るたびに
地表から流れ出し、水路や川を伝って海へと流れ込む。赤土自体に毒性などはないが、粒
子が細かいため、一度水に混ざると、なかなか沈殿せず、水を長時間にわたって濁らせる。
すると、雨が止んだ後も日光が遮られ、 サンゴは体内に共生している藻類による光合成が
できなくなって、栄養不足になり、死んでしまう。また、直接赤土を被った場合も、サン
ゴは大きな打撃を受ける。現在、環境省の委託を受けた沖縄県により、轟川流域全体をモ
デル地域とした対策事業がはじめられている。対策を立てる上で欠かせないのが、赤土の
27
発生源である陸上と、流出先である海での調査である。「白保では轟川から赤土が流れて
くる。昔は工場や土地開発のせいで赤土が流れていたが、今はそれが条例で規制されたた
め減り、農地から赤土がたくさん流れてくる」という話もきく。
しらほサンゴ村が、4 節で後述する対策を含めた活動をしている。しらほサンゴ村では、
白保のサンゴ礁の健全度と、赤土被害の現状を把握する
ため、現在さまざまな調査活動を実施している(⑤)。簡
単にまとめると、まず、海域では、白保のサンゴ礁内に
堆積した赤土の調査を行なっている。そして、特に白保
海域への赤土の大きな流入源となっている轟川流域で、
土地の利用状況を調べている。調べるのは、農地の状況
変化と、季節による降雨、実際の赤土の流出などの関わ
りについてであり、現在は、年 4 回白保の海域で海底の
砂を採取し、赤土がどれくらい含まれているかなどを調
べている。その結果、白保の海域でも、轟川河口の北側
周辺の 4 ヵ所では、比較的たくさんの赤土の流入が確認
された。そこでの堆積量は、雨の多くなる夏から秋にか
けて増え、その後は徐々に減っていく季節的な傾向があ
ることが明らかになった。白保のサンゴ礁に流入した赤
土は、通常、リーフの切れ目から外洋へ、徐々に排出さ
図1
赤土調査ポイント(⑤)
れているが、天候や風の向きによっては、赤土がサンゴ
の群生地に広く拡散してしまうこともあり、赤土が原因と思われるサンゴの死亡も度々確
認されている。しらほサンゴ村は、現在取り組んでいる調査の結果を行政へ提供し、対策
に役立ててもらう一方、地域の方々にも積極的に情報を公開し、地域の視点から取り組む
赤土対策の実現に役立てたいと考えている。2011 年 8 月に行われた調査によると同年 6 月
上旬の調査と比較して轟川北部では大幅に赤土堆積量が減少したが、礁池南側では大きな
変化は見られなかった。今回、北側の堆積量が減少した最大の原因は、赤土流出につなが
るまとまった雨が降らなかったことが原因だと、しらほサンゴ村のBさんはいう。しかし、
台風が多く来たり、雨が頻繁に降ることがあったりすると、赤土が流出する危険性がある
ため、対策が必要だという。
3-3.オニヒトデの問題
2 章でも少し触れたが、オニヒトデは生きたサンゴを食いつくしサンゴ礁を破壊する、サ
ンゴの天敵である。そのオニヒトデの大発生が世界各地のサンゴ礁で問題となっている。
通常のヒトデは星型をして、腕を 5 本もつが、オニヒトデは丸い円盤から腕が約 15 本放射
状に突き出している。さらに、タンパク質性の毒がある 2〜3cm の長さの尖った棘で覆われ
ており、大きいもので全長 60cm にもなる。オニヒトデは、サンゴの上に乗り、胃から消化
28
酵素を分泌してサンゴの軟体部を溶かし、その溶けた液を
吸収する。オニヒトデが去った後には、真っ白いサンゴの
骨格が残るのである。サンゴも硬い殻と刺胞という毒針を
もっているが、サンゴしか食べないオニヒトデにはその防
衛手段は通用しないのである(④)。
沖縄本島では 1969 年からオニヒトデの大発生が始まっ
た。この大発生は、沖縄本島中部の西海岸より始まり、10
年をかけて島を一巡し、沖縄のサンゴを食いつくして終了
した。その後、オニヒトデの数は通常のレベルに戻り、サ
ンゴも回復してきたが 1996 年にまた大発生し、続いて起
こった 1998 年の大規模白化で沖縄本島のサンゴはひどい
図2 オニヒトデ(④)
ダメージを受けた(④)。
石垣島でのサンゴ礁の環境について、川平にあるグラスボート乗り場の 60 代の男性Cさ
んに尋ねてみると、白化とはまた別に、川平は今オニヒトデにやられている、オニヒトデ
がとても増えているという。また、駆除活動は行っているが追いつかないのだという。C
さんによると、昔のオニヒトデは座布団みたいに大きかったが、今のオニヒトデは小さく、
20cm くらいのものがエダサンゴにびっしり居て、昨日は綺麗だったサンゴが一晩のうちに
真白になっているのだと言う。
オニヒトデの大発生の原因には、①オニヒトデの天敵のホラガイを土産用に捕りすぎた
こと、②農薬やその他の化学物質が陸から海に流れ込んだり、港をつくったり埋め立て工
事によって、オニヒトデの幼生を食う動物が少なくなったこと、③地球温暖化の結果、海
水温が高くなり幼生の生存率が高くなったこと、などが挙げられる。このような世界各地
での大発生の原因はみんな同じではないかもしれないし、いくつかの原因が複合している
のかもしれない(④)。
4.サンゴの保全活動
この章では、各所でお話を伺ったサンゴ礁保全のための取り組みを述べていく。まず、
川平のCさんはオニヒトデの駆除について、
「タンクを背負って潜って一匹ずつ捕って浜に
埋める。駆除する薬もない。シーズンオフはダイビング屋さんが駆除をやっている。全部
取るのは無理だけど、場所を決めてそこを集中的に守ろうとしている。そこが残れば復活
できる」という。シーズン中は駆除活動をすることはできないようで、「一年通してずっと
やっていくのは無理。でもみんな一生懸命頑張ってやっています」という。
しらほサンゴ村のBさんは、先に述べた赤土流出調査の他に、赤土の流出を防ぐために
月桃を植えるグリーンベルトという対策や、オニヒトデの駆除を行っている。オニヒトデ
は基本的にはかぎ棒で船にあげて陸に埋めるというが、酢酸を何ヶ所かオニヒトデに注射
し組織をぼろぼろにして殺すという方法もあるという。捕るときに棘でケガするという理
29
由で考え出されたそうだ。
国際サンゴ礁研究・モニタリングセンターのAさんは、赤土対策はここではしていない
が県や市が中心となってやっているという。Aさんはモニタリングセンターではなく環境
省の中の事務所に所属している自然保護官である。自然保護官として国立公園の管理を行
っていて、外来生物の対策や八重山の生物の保護を行っており、その中の一つにサンゴの
保全も含まれている。サンゴの情報集めやオニヒトデの駆除、サンゴの移植を行っている
という。オニヒトデの駆除は、Aさんがボランティアで行うこともあるが、基本的には漁
業、ダイビングインストラクターの人に任せているそうだ。駆除方法はかぎ棒で引っ掛け
て捕り、捕ったオニヒトデは堆肥センターに持っていき、堆肥にするという。駆除するの
はオニヒトデが迷惑になるところだけでむやみやたらに駆除するわけではなく、重要なと
ころだけを駆除すると言っていた。そして、サンゴの移植とは、サンゴが多い海で着床具
を沈めて、そこにサンゴが産卵したら 1 年半後にそれをサンゴがいなくなってしまった海
へ植える、というものである。Aさんによれば、
「去年初めて卵を産んだ。これで少しずつ
増えるかなぁと思った」という。
また、Bさんに伺った酢酸によるオニヒトデの駆除について、Aさんにも尋ねてみると、
「それは四国で研究されていて、八重山でも実験しようかな、という段階。手間がかかる
からなかなか難しいかもしれない。あと酢酸を打った後の死骸がビーチに打ち上がるのが
怖い。海の中にそのまま捨てちゃうのはちょっとどうなのだろうと思う。確実に一匹一匹
捕って回収した方がいいのではないかと思っている」と言っていた。
さらに、しらほサンゴ村とモニタリングセンターでお話を聞いて、印象的だったのは、
どちらも地元の人々と関わり合っているところだ。しらほサンゴ村では、地元の人々との
関わりをすごく大事にしていて、活動を研究者だけでなく、なるべく地元の人と一緒にや
りたいと考えている。赤土の調査やサンゴの保全もボランティアを募ってやっているとい
う。モニタリングセンターでも、定期的に市民と行うことはないけれど、ボランティアの
人と協力してサンゴの観察会をしていて、手伝ってと言うと手伝ってくれる人もいるとA
さんはいう。地元の人が「オニヒトデあそこにいたよ」とか「ワシの雛拾ったよ」と何か
あれば教えてくれるともいう。
5.おわりに
ここまでに、サンゴ礁の現状と問題や対策について述べてきたが、すぐにできる明確な
解決方法はないのが現状である。しかし、多くの人々がサンゴ礁保全のための様々な取り
組みを積極的に行っていることを、現地でインタビューをして感じることができた。そし
て、専門の研究者と地元の人々とが協力し合ってサンゴ礁環境をこれ以上悪化させないよ
うに努力していることに感銘を受けた。また、「オニヒトデも昔からいる生き物なので、あ
まり悪者扱いしないでやって」とAさんもいっていたように、オニヒトデも生態系の一部
を担っているので、迷惑だからといって、オニヒトデを必要以上に駆除してはいけない。
30
そうしたことも含め、私たち人間はどうやって環境を保ち続けながら生活するべきか、こ
れからも考え続けなくてはいけないのだと思う。
参考文献
① 中村征夫 2000『沖縄珊瑚海道』アスペクト
② 目崎茂和(編)1991『石垣島のサンゴ礁環境』財団法人世界自然保護基金日本委員会
③ 目崎茂和 1988『石垣島・白保 サンゴの海 残された奇跡のサンゴ礁』高文研
④ 本川 達雄 2008『サンゴとサンゴ礁のはなし~南の海のふしぎな生態系』中公新書
⑤ WWFサンゴ礁保護研究センター
http://www.wwf.or.jp/shiraho/ (2011 年 10 月 12 日取得)
31
7.石垣島の赤土問題
中本 智裕
1.はじめに
沖縄県は多くの島々からなり、その周囲を取り巻く浅い海には、美しいサンゴ礁が発達
している。サンゴの枝と枝の間に、エビやカニなどの小動物が隠れ棲み、これを狙って魚
が集まるという、豊かなサンゴ礁生態系が成り立っている。また、サンゴ礁は自然の防波
堤として島を守るだけでなく、漁業の場や観光の資源として県民の生活に大きな恵みをも
たらしている。しかし、サンゴ礁に赤土が堆積すると、生きているサンゴが減少し、小動
物が隠れ棲む場がなくなり、魚たちも姿を消してしまう。また、海域への赤土の流入によ
って、美しい海や砂浜などが赤く染まり、景観が悪化して、ダイビングなどのマリンスポ
ーツを含めた観光レクリエーションへの影響が見られる。漁業・水産業では、濁りによる
養殖もずくの収穫減少や定置網への赤土の付着などの被害が見られ、水道水源池では、濁
りによる水質の悪化が懸念されている(①)
。
本稿では赤土問題について説明したあと、石垣島の各団体が行っている赤土対策につい
て、紹介していく。
2.赤土問題
2-1.赤土問題とは
赤土とは、琉球列島の島々に見られる、粒子の細かい赤茶色の土のことであり、国頭マ
ージや島尻マージ、ジャーガルなどのことを指す。赤土の流出は、人為的要因と自然的要
因が結びついて引き起こされる。人為的要因としては、リゾート開発、各種土木工事など
が挙げられ、自然的要因としては、土壌、地形的条件、降雨エネルギーの強さなどが挙げ
られる(②)
。
沖縄の分布面積の約 55 パーセントを占める国頭マージは、粒子が細かく、粘着力が弱く
て崩れやすいため、浸食されやすい土壌である。国頭マージは、沖縄本島の中部から北部、
石垣や西表の広い範囲に分布している。国頭マージが分布するところは、ほとんどが山地
である。山地地帯には川があるので、この川を通って浸食された土がサンゴ礁の海へと流
出する。国頭マージの分布する地域では、必ずといってよいほど赤土汚染が発生している
(③)
。
沖縄の雨の降り方は他県に比べ、激しい。降雨エネルギーの強さを表す指標を「降雨係
数」といい、沖縄の降雨係数は全国平均の約 3 倍である。つまり、雨だけでみても、全国
平均の約 3 倍も土壌が流出しやすいのである(①)
。
沖縄の沿岸には、サンゴが発達しており、沖合いのリーフと陸で囲まれた浅い海は礁池
と呼ばれ、閉鎖的になっている。礁池に流出した赤土は、沖合いのリーフの「クチ」と呼
32
ばれる切れ目から、引き潮時に細々と外洋に流れ出すが、大部分は礁池に堆積する。礁池
に堆積した赤土は、波が立つと舞い上がり、海が懸濁する。サンゴの体内には褐虫藻と言
う藻類が共生しており、この褐虫藻が光合成を行って、サンゴに必要な酸素や栄養分を供
給している。光合成が行われるためには、海水が透明でなくてはならないのだが、このよ
うに海が濁ると、光がさえぎられ褐虫藻は光合成ができなくなり、サンゴは死んでしまう
のである(②④)
。
2-2.取り組み
目立った赤土の流出は、昭和 30 年代ごろからの、パイナップル栽培が始まりとされてい
る。当時、沖縄の農業史上かつてない規模と早さで農地が開墾され、パイナップル畑が拡
大していった。1972 年の本土復帰以降は、河川改修工事・農地開発などの大規模な公共の
開発が実施されるようになった。
「本土並み」を目指して、もろもろの産業基盤の整備が、
国の施策として着手されたのである。これに加えて、民間による開発などが増加し、大規
模な土地改変が実施された。このため、沖縄県内の赤土の流出は加速度的に増大し、水産
業や自然環境などに影響を及ぼし、大きな問題となった(①④)
。
こうした中、赤土の流出防止にむけて全県的な取り組みが始まった。1976 年には「沖縄
県公害防止条例」の改正により、赤土流出防止対策について努力義務が課せられた。しか
し、その後も赤土の流出は止まらず、水産業や自然環境への影響は大きくなっていった。
1995 年には「沖縄県赤土等流出防止条例」が施行され、一定規模以上の開発に対して規制
を行うようになった。この条例は、工事を行う際の赤土流出防止のために、濁水が発生す
る状況をできるだけ少なくする「濁水の発生の抑制」、濁水の流れをコントロールする「表
流水のコントロール」
、濁水の濁りを排水基準以下にして放流する「濁水の処理」を行うよ
うに定めている。また 2000 年には、「沖縄県環境影響評価条例」が施行され、環境影響評
価の項目のひとつに「赤土による水の濁り」が定められ、大規模な開発に対し、赤土の流
出による影響を抑制する環境保全対策を求められることとなった(①)
。
農地における赤土流出対策の事例として、①マルチング(刈ったキビの葉などを畑の裸
地部に敷き詰めて、赤土の流出を防止する)
、②グリーンベルト(裸地や畑の周辺、斜面の
下側などに、樹木や草木などの植物を帯状に植えることにより、水の流れを弱めたり、濁
水中の土粒子を捕捉して赤土の流出を防いだりする対策方法)
、③緑肥(農作物を植えない
時期の畑地にクロタリアやヒマワリなどの植物を植えて畑の裸地化を防ぐ)
、④畦畔(畑地
と畑地の間にサトウキビの葉などをまとめたものを並べて置き、赤土の流出を防止する)、
⑤畑の傾斜修正(畑の傾斜を緩やかにすることで、水の流れを弱め、赤土の流出を防止す
る)
、⑥沈砂池(畑地から流れ出した濁水を一箇所に集め、赤土を池の底に沈めてから排水
する)
、⑦排水路(畑周辺からの水を畑に入れないための水路および畑からの濁水を集める
ための水路を設置する)が挙げられる(①)
。
グリーンベルトは、赤土流出量の 50~60 パーセント程度を軽減する効果があると言われ
33
ている。グリーンベルトとして植栽する植物を選ぶときの注意点として、①大きな植栽面
積を必要としないもの、②背丈が高すぎないもの、枝葉が大きくならないもの、③どんな
環境でも生育するもの、④簡単に増え、管理がしやすいもの、⑤1 年中生えていて、葉がな
くなったりしないもの、⑥有用性があるもの、などが挙げられる(①)。具体的には、月桃、
ヤブラン、リュウノヒゲなどである。
また、農地を含めた総合的な対策の一環として、地域と関係団体および行政とが一体と
なった「地域協議会」を設置し、赤土の流出防止対策の啓発、普及や支援のためのいろい
ろな活動を行っている(①)
。
サンゴが減っている原因は、オニヒトデ、赤土、温暖化など様々で、本当の理由がどれ
なのかは分からない。赤土もゼロにしなくても、100 分の 10 くらいはあってもいいのでは
ないか、と環境省の職員である B さんは話す。
3.赤土流出対策
赤土対策についてお話を聞いたところ、石垣市役所としらほサンゴ村では活動を行って
いるが、環境省としては石垣の赤土対策は行っていないそうだ。ここでは、石垣市役所と
しらほサンゴ村で行われている活動を紹介していく。
3-1.石垣市役所
石垣市役所では、赤土問題を農政経済課・村づくり課・環境課が担当している。今回は
農政経済課の方にお話を聞くことができた。
石垣では 2004 年(平成 16 年)から 2009 年までの 6 年間、国からの補助金を使って、
赤土対策を行っていた。補助金は、クロタリアやヒマワリの苗を買う、さとうきびの葉殻
で土手を作る、固い畑を耕す、赤土に関する標語や作文のコンクールを行う、月桃の苗を
自分の畑に植えた人を表彰するためなどに使われた。石垣の農業はパインが 20 パーセント
で、あとの大半はサトウキビである。サトウキビは夏植えを行う場合、収穫後から 8 月に
植えるまでの 4 ヶ月間、畑が裸地の状態になる。畑が裸地の状態のとき、梅雨の時期と重
なり、大量の雨が原因で、赤土が畑から流れ出る。それを防ぐために、クロタリアやヒマ
ワリを植えたり、サトウキビの葉殻で土手を作るのである。コンクールや表彰は、人々の
赤土に対する意識を高める役割を担っていた。
しかし、国からの補助金は事業仕分けにより、2009 年で打ち切られた。自分の畑は自分
で管理するべきだという意見があがったからである。
2011 年からはふるさと納税基金が始まった。これは、他府県に住んでいる人が、
「生まれ
育ったふるさと」や「心のふるさと」「応援したいまち」への想いを寄附というかたちで応
援するというものである(⑤)
。この基金の一部を、グリーンベルトを作るための、植物の
苗を買うために使っている。
また、ふるさと納税基金は、赤土対策以外に、地域活性化の目的でも使われている。石
34
垣出身の歌手である BEGIN を招待した歌の日コンサートや、11 月に行われた石垣牛 BBQ
などである。
大雨の日に農地をパトロールし、どのあたりから赤土が多く流れているのかを調査し、
農家の人々に指導するという活動も行っている。
3-2.しらほサンゴ村
しらほサンゴ村とは、白保のサンゴ礁を保全するために、WWF ジャパンが寄付や募金を
得て設立した施設である。現在では、地元の白保の人々と共に、サンゴ礁の保全活動と持
続的な海の資源利用に取り組んでいる(⑥)
。
白保では、轟川からの赤土の流出が激しい。昔は工場や土地開発が原因で赤土が流れて
いたが、それは条例で規制され減り、現在では農地からたくさんの赤土が流れている。し
らほサンゴ村では、赤土の現状調査を行っている。年に 4 回、特定の場所で土を採り、堆
積している赤土の量によって、①定量限界以下。極めてきれい、②水辺で砂をかき混ぜて
も、微粒子の舞い上がりが確認しにくい、③水辺で砂をかき混ぜると、微粒子の舞い上が
りが確認できる、④見た目では分からないが、水中で底質を掘り起こすと、微粒子で海が
汚れる、⑤注意して見ると、底質の汚れが分かる。生き生きとしたサンゴ礁の限界ランク、
⑥底質表層にホコリ状の懸濁物質がかぶさる。透明度が悪くなり、サンゴ被度に悪影響が
出始める、⑦一見して赤土による汚れが分かる、⑧歩くと泥の足型がくっきりできる。赤
土の堆積がよく分かるが、まだ砂を確認できる、⑨立っているだけで足がめり込む。見た
目は泥そのもの、という 9 つのランクに分けている。ランクの⑦から⑨は、人為的な汚染
が原因である。この調査は、地元のボランティアの人々と行っている。そして、その結果
を地元の人々に知らせている。
また月桃で、グリーンベルトを作るということも行っている。月桃を植えること自体は
簡単なことだが、月桃を植えることで畑の面積が減ってしまうため、農家の人にとっては
デメリットである。そのため、初めはうまくいかなかった。しかし今では、月桃を植えた
いと言ってくれる農家の人もいる、としらほサンゴ村の職員である A さんは話してくれた。
グリーンベルトを作る活動には、大学生や地元の小、中学生、WWF の会員なども参加して
いる。また、海でサンゴ礁の様子を見てから、月桃を植えるというツアーもあるそうだ。
グリーンベルトに月桃を使う理由は、月桃は餅やおにぎりを包むためや、虫除けとして昔
から使われてきたため、地元の人々になじみがあるからである。
「地元の人々も、月桃なら
自分の畑に植えてもいいと言ってくれる。しかし、月桃は育つのに時間がかかるうえに、
枯れてしまうことが多いので管理が必要である」と A さんはいう。
4.おわりに
沖縄以外に住む人で、赤土問題について知っている人は少ないと思う。私自身も、今回
のフィールドワークで石垣島に行ってみて、初めて知った。
35
赤土の流出を抑えるためには、行政や団体が努力するだけでは限界がある。畑を所有す
る人だけでなく所有しない人も、自分にできることは何かを考え、行動しなければならな
い。また、石垣から離れた場所に住んでいる私たち自身も、赤土問題にどのように関われ
るのかを考える必要がある。これからも、沖縄の美しい自然を守っていってほしい。
参考文献
① 沖縄県文化環境部環境保全課 2008 『沖縄県の赤土流出について――赤土等ガイドブ
ック』 沖縄県文化環境部環境保全課
② 鹿児島県大島支庁 1995 『沖縄県衛生境環研究所赤土研究室 大見謝辰男室長講演録
沖縄県における赤土汚染の現状と防止対策』
③ 野池元基
1990
『サンゴの海に生きる――石垣島・白保の暮らしと自然』
農山漁
村文化協会
④ 吉嶺全二 1999 『沖縄 海は泣いている――「赤土汚染」とサンゴの海』
⑤ 石垣市ふるさと納税まちづくり支援寄付
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/110000/110100/furusatonouzei/index.html
(2012 年 1 月 14 日取得)
⑥ WWF ジャパン サンゴ礁保護研究センターしらほサンゴ村
http://www.wwf.or.jp/shiraho/(2011 年 11 月 23 日取得)
36
高文研
8.石垣島の味噌について
佐藤 友貴
1.はじめに
昨年のフィールドワークで私は、宮古島の味噌について調べた。宮古島では、昔のよう
に各家庭で味噌をつくることは少なくなったけれど、今でも味噌は思い出の味として深く
根付いていることがわかった(④)
。
また、宮古島での調査では、話を伺う中で、「ユイマール」という表現をよく耳にした。
ユイマールとは、賃金の支払いをともなわない労働力の交換のことで、農繁期や家造りな
どの際に行われた。
今年の石垣島の調査でも、味噌とユイマールについて多くの方から話を伺う事ができた。
ここでは、前半で石垣島の味噌について伺った話を述べ、後半では味噌作りとユイマー
ルの関係性について考察を進めていきたい。
2.石垣島の味噌について
石垣島では、米味噌(マイヌミシュ)、赤味噌(アカミシュ)、粟味噌(アーヌミシュ)、
甘藷味噌(アッコンミシュ)、ソテツ味噌(シィティージィヌミシュ)、下味噌1(ギーミシ
ュ)などの味噌がつくられていた(②)
。
味噌の材料はトーフマミ(大豆)
、塩、酒(入れない事もある)、そしてそれぞれの味噌
の主になるもの(米味噌なら米)である。作り方は、まず、麹を作るところからはじまる。
味噌の主になるもので麹を作り、出来上がった麹を炊いてつぶした大豆に混ぜる。塩を加
え、甕にいれて寝かせておく。味噌によって異なるが、1 週間から 1 カ月ほどで食べられる
ようになる(②)
。
インタビュー調査は川平を中心に行った。川平は石垣島の西北部に位置し、川平湾を望
む位置にある。グラスボートなどの観光産業がある一方、稲作が行われる地域でもあり、
米味噌が作られている。
2-1.川平の米味噌について
川平では米味噌が作られている。60 代女性の A さん、B さんから味噌の作り方を教えて
もらう事ができた。
川平の米味噌の材料は大豆、米、塩、それに泡盛である。十分に水に浸した米を蒸し、
それに麹菌をまぶして、袋に入れ、発酵させる。毛布をかぶせたり、布団に包んだりして
麹の温度を一定に保つ。2~3 日くらいたつと、黄色の麹が発酵してくるので、袋から出し
て広げ、つぶした大豆、塩をいれる。だいたい、1~3 週間ほどで出来上がる。
1
甘藷やぬか、ウムカシィ(甘藷のデンプンを作るときに出るカス)、ふすま(小麦を粉に
ひく時に出る皮のクズ)
、トーフヌカシィ(豆腐のカス)
、ソテツなどを利用して作った。
37
分量は作り手によって微妙に異なるが、A さ
んは、
「大豆は枡で 3 合、米は 1~2 升入れる」
B さんは、
「大豆が 1 合、米が 1 升いれる」と
いった。米が全体の 9 割を占める、非常に大豆
の少ない味噌だということがわかる。
川平の味噌の特徴は、米の形が残っていてパ
ラパラしていることだと、川平に住む 50 代女
性 C さんはいう。写真 1 でもわかる通り、はっ
写真 1
きりと米の形をみてとれる。そのため、味噌汁や
川平の米味噌
すまし汁をつくるときは、ミキサーをつかって味噌をすりつぶしてから使う。「昔は味噌を
すり鉢ですった」と A さんは教えてくれた。そのまま味噌を使う場合は油味噌にして食べ
るそうだ。
石垣の米味噌も宮古島の味噌と同じように泡盛を入れる。泡盛を入れる理由を尋ねると、
A さんは、容器の消毒のためと、味噌がパラパラだから、湿らすために入れる、という。B
さんは、保存のためと消毒につかう、と答えてくれた。
米味噌は川平以外に白保、宮良でも作られているが、川平が一番多い。味噌を作るのは
60 代から 70 代の先輩である、と伊原間に住む 80 代女性の D さんはいう。
2-2.農協の味噌について
石垣市新栄町にある JA おきなわ八重山支店で E さんにお話を伺った。八重山支店は全
支部あわせて女性部は 275 名おり、参加対象は JA 組合員の関係者に限らず参加を希望する
人も受け入れている。女性部は地域ごとで支部をつくり、与那国島を除いた石垣市と竹富
町全体で 33 支部がある。前は年に 2 回、味噌を作っていたが、今は年に 1 回味噌をつくる
という。
女性部で作っている味噌は米味噌である。材料は、米が 30kg、豆が 30kg、塩と酒少々で
ある。米と豆が 1:1 になるように配分してあり、同じ米味噌といえども川平の米味噌とは
違うことがわかる。熟成期間が 6 カ月というのも川平の味噌とは異なっている。
基本は 5~6 名で作り、その中に地域の味噌作り
の先輩がいて指導する。昔は指導員がそれぞれの
地域に出向き、味噌作りの指導をしていた。現在
は、設備の整った八重山支店に女性部の部員が集
まって作っている。八重山支店へは離島の方から
も作りに集まっていた。しかし、自分たちのとこ
ろに味噌を作る施設ができたら、そこで作るよう
になったという。今は大豆など材料だけを送った
写真 2
りしている。
38
女性部でつくった味噌
昔の味噌作りに参加したことがあるという F さんによると、
「昔は農協の方で指導員がき
て公民館で作っていた。麹は指導員が持ってきたので、自分は御座、毛布を持って行った」
と話してくれた。指導員の役割は、味噌作りだけに止まらず、生活、文化、両方の面から
「農家のお母さんのサポートをすることである」と E さんはいう。
2-3.他の地域の味噌について
ところで D さんは宮古島出身である。D さんの作る味噌は宮古島の麦味噌に似ている。
麹は麦を発酵させた青麹(麦麹)を使い、炊いてから柔らかくなるまでつぶした大豆と混
ぜる。
「ミンチにする機械で豆をつぶせば、臼でつぶすようにカス(殻)は出ないが、味は
機械で作った時と臼で作った時とでは全然違う」と D さんは言う。
昔から麦麹を作ってきたという D さんは、米味噌は麹(米麹)をつくるのが専門じゃな
いから、米味噌はつくったことはない、と話してくれた。
3.ユイマールについて
はじめに、で説明したようにユイマールとはお互いに労力を供し合って助け合う共同作
業のことである。ユイまたはユイマーリィとも言う。親戚、友人、隣近所同士の間で行わ
れ、作業の質や量によって男女の構成をし、その構成人数をユイピィトゥ(結い人)また
はユイニンジュ(結い人数)と呼ぶ。
元をただすと、ユイマールは本家と分家、有力農民と小農民といった服属関係から発生
したものである。両者の間では、有力者に従属するような形のユイマールが行われていた
が、次第に親しい者同士の相互扶助関係(小農的ユイ)に発展していったようである。1609
年の薩摩の琉球征服後以降は、ユイマールの体制が崩れ、ユイマールは貢租納入の手段に
なっていった。1903 年の人頭税廃止後は相互扶助関係のユイマールの姿となり、戦前はど
こでも盛んにみられた(①②⑤)
。
昨年の調査では、宮古島の人はユイマールを、農繁期や家造り以外に味噌を作ること、
という意味でも使っているようだった。
今回石垣島では、ユイマールについて 6 人の方にお話を聞くことができた。そのうち、
ユイマールで味噌を作る、と答えたのは 2 人だった。
A さん(60 代女性)
、D さん(80 代女性)は、ともに、ユイマールで味噌を作った、と
答えたが、ユイマールに対する考えは異なっていた。A さんは昔、川平の婦人会に属してい
た時に、味噌は「次は誰々の家ね、といってかわりばんこに作り合った」という。ユイマ
ールは、味噌作り以外にも、米穫り、苗取り、祝いの時の手伝いなどにも行った、と話し
てくれた。A さんはユイマールに対して、宮古島の人たちと同じような考え方をしていた。
しかし、D さんは「みんなで味噌を作るところもあるが、それは味噌の作り方が分から
ない人に作り方を教えるためである。家族でつくるところは自分の味ができているところ」
だといった。さらに、「北部には米作りはあまりないので、ユイマールは田んぼにはない」
39
という。調査中、石垣島北部地域まで足を伸ばすことがあったが、確かに伊原間や明石の
あたりでは稲を見かけることはなかった。
D さんと同じような考えを持っているのは G さん(40 代女性)である。G さんは味噌を
作り、販売している。味噌の作り方は母親から教えてもらったそうだ。家庭で味噌をつく
る場合は、個人で好きな味などがあるので、味噌作りはユイマールとは言わない、と答え
た。
B さん(60 代女性)は味噌を作っているが、
「みんなで味噌を作ることはユイマールでは
ない」という。
「ユイマールは農作業とか家の修繕とかにつかう。親世代で返しきれないも
のを子供たちがかわりに返した」と、話してくれた。
H さん(50 代女性)
、I さん(50 代女性)は、味噌を作っていない。味噌作りもユイマー
ルとはいわない、と答えた。H さんは、
「ユイマールは何かあった時に、1人でできない事、
田植え、キビ刈り、農作業がメイン」だと教えてくれた。
インタビューから、ユイマールが農作業で使われることとして認識されていることがわ
かった。地域によって差はあるものの、田植え、稲刈り、サトウキビの収穫など農作業や、
人手を要すること、1 人ではできないようなことにユイマールを利用する。ユイマールの認
識は年代や住んでいる地域、婦人会への参加不参加などによって微妙に考え方が異なって
いる。そのため、ユイマール=○○だ、とは一概には言えないだろう。同じ地域に住んで
いてもユイマールの認識は個人で違っているのである。
その中で、ユイマールで味噌を作るということは派生的なものであり、大勢で味噌を作
るという経験があってはじめて認識されることだと思った。
4.おわりに
日本中いろいろな地域があり、作られている味噌が多様なように、石垣島内でも地域に
よって作られる味噌は違っていた。味噌は 1 種類だけではないのである。同じ米味噌でも
作る人や地域によって配分が違っていた。それはユイマールにもいえることだった。ユイ
マールの認識も 1 種類だけではない。年代、住んでいる地域、個人の行動などによって微
妙に考え方が異なっている。
味噌とユイマールについて、石垣島でこの 2 つのことを結びつけて考えることは難しく
なっていると思った。調査中には、
「今でもユイマールで味噌を作っている」という話を一
度も聞くことはなかったように、店へ出向けば簡単に味噌が買える今、味噌を作ること自
体が減っている。結果的に味噌は、集まって大勢でつくるものから個人の範囲で作るもの
へと姿を変えている。それでも、JA 女性部では限られた範囲ではあるが、集まって味噌を
つくっている。JA おきなわの E さんは、
「人は人と交わることで安心できる」ということ
を繰り返していた。
味噌やユイマールに対する認識が個人や地域間で違うように、時代によっても考えは変
わってきているのだと思う。けれど一つだけ確かなことは、根幹は同じであるということ
40
だ。表現の方法はいろいろあるけれど、ユイマールの根元部分、1 人では出来ない事をお互
いに労力を出し合って協力し合うということは変わってはいないだろう。
参考文献
① 有賀喜佐衛門 1957 「ユイの意味とその変化」 『民族学研究』21(4): 217-224。
② 石垣市史編集委員会(編)
1994 『石垣市史 各論編 民俗 上』 石垣市。
③ 沖縄大百科事典刊行事務局(編) 1983 『沖縄大百科事典』(下巻) 沖縄タイムス
社。
④ 佐藤友貴 2010 「宮古島の味噌について」 『フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1・
Ⅱ2』
、南山大学人文学部人類文化学科。
⑤ 名嘉真宣勝(編) 1965 『沖縄民俗』第 10 巻 第一書房。
41
9.石垣島の泡盛の伝統と革新
江口 泰美
1.はじめに
今日の酒屋には沢山のビールや発泡酒、焼酎、ワインなどがずらりと並んでいる。その
中でも私たちにとって泡盛は、非日常的な飲み物である。しかし、泡盛の高い度数、独特
な風味は一度口にすると人々を虜にする。そして、私もそのひとりである。
しかし、泡盛の生産・出荷量は焼酎ブームが起きた 2004 年をピークに減少傾向にあり、
歯止めがかからない状態である。
本稿では、消費者側ではなく生産者側の酒造所等に焦点を当て、泡盛の今後を考えてい
きたいと思う。
2.泡盛と現状
泡盛とは焼酎の一種であり、焼酎乙類に分類されるお酒である。泡盛と名乗るには、以
下 4 つの条件を満たさなければならない。1.黒麹を使用している。2.米麹だけでもろみ
を造る。3.米麹に水と酵母を加えたもろみを使う。4.もろみを単式蒸留機で蒸留する。泡
盛の特長はいくつかあるが、その中でも最大の特長と言われるのが、寝かせれば寝かせる
ほど味が熟成していくことである。これは古酒(クース)文化といわれており、泡盛独特の刺
激が熟成によって抑えられ、マイルドで優雅な味わいになるという。商品として古酒を売
り出す場合は、3 年以上熟成された泡盛がその商品の 50%以上を超えていなければならな
いという規定が、2004 年に定められた(①)。
流行り廃りと言うものは何事にもつきものであるが、泡盛もその例外とは言えない。米
軍統治時代の沖縄では、ビールやウィスキー、ブランデーなどの酒が多く出回り、外国産
の酒に比べ、臭くて強いと若者たちが泡盛を敬遠するようになったのである。このような
風潮に対して泡盛業界は、安くて度数の低い泡盛を新商品として売り出し、これを機に泡
盛の人気は盛り返してくる(②)。また記憶にも新しい沖縄ブーム、焼酎ブームが到来した際、
泡盛にも再度ブームが訪れた。酒造所でもこのブームを肌で感じることが出来たそうで、
「フル稼働で出荷量も増えた」と玉那覇酒造の A さんはいう。
しかし今、また泡盛業界にとって厳しい時代が到来しているのである。2011 年 3 月に発
表された、2010 年の琉球泡盛の生産・出荷量によると、度数 30 度換算で生産量は前年比
5.9%減の 2 万 3229 キロリットル、出荷量も 5.2%減の 2 万 2180 キロリットルで、いずれ
も 6 年連続で前年を下回っている。これらの減少の要因として、県酒造組合連合佐久本武
会長は、泡盛の消費を後押しした焼酎ブームの収束と、全国的な人口減少に加え、県内で
の本土焼酎の普及や若者のアルコール離れを指摘している(③)。
42
3.石垣の酒造
石垣にある酒造所は、伝統を重んじ続ける酒造、泡盛を斬新的にアピールしている酒造
など、味の他にも様々な個性を持っている。しかし、先述したように今日出荷量が減少し
続けており、泡盛業界は生産・出荷量減少の問題に直面している。
今回の調査では 4 つの酒造所でインタビューを行うことができ、出荷量減少に対する動
きなどを伺うことができた。以下はそのインタビューと各酒造所の特徴等である。
3-1.請福酒造所
出荷量減少の解決策として、若い人々に目を
向けているのが、この請福酒造有限会社(以下請
福酒造)である。解決案の代表例として挙げられ
るのが「あわもえ」という商品である。この商
品は、2010 年ごろに発売された若者を中心とし
た新たな泡盛ファンの開拓と、土産品の差別化
を図りたいということで作られたものである。
請福酒造の B さんによると、萌え酒を造らない
かという話に対し、即決でやろうと思った。お
写真 1
請福酒造のあわもえ
酒は見た目が古いため、違うジャンルの見せ方をして、泡盛に触れる一つの入り口として
企画した。見せ方を変えるということが、大切だという。
また請福酒造では、あわもえのほかにも、株式会社セガから発売されているゲーム「龍
が如く OF THE END」とのタイアップ商品であったり、株式会社ユニクロとコラボレー
ションした、企業コラボ T シャツを発売したりと、ジャンルに拘らず全国に泡盛や請福酒
造を広めようとしている(⑤)。
しかし、地元に愛される努力も惜しんでいないことも、インタビューから感じることが
出来る。まずは地元からと話す B さんは、こう続ける。
「泡盛が地元で飲まれているのは、
地元に合っているからである。味やラベルは、変化がわからない程度に少しずつ変え、常
に自分たちの生活に馴染んでいると思わせる。そして味の変化というより、これからも飲
んでねアピールをしたい」
。酒を伝統と考えていない B さんは、
「伝統のものは、伝統の売
り方がある」と話す。
3-2.八重泉酒造所
広大な敷地を持つ有限会社八重泉酒造所(以下八重泉酒造)は、製造を機械で行っている。
「機械化は、20 年ほど前からである」と八重泉酒造の C さんは話す。また、最新鋭の技術
を駆使したコンピュータで、徹底した品質管理が行われている(⑥)。しかし、C さんは、
「機
械化はしているものの目、鼻、口、耳など人の感覚も大切だ」という。また、味について
は、
「味の流行は、振子のように行ったり来たりしていて、一応努力はしている。最近の嗜
43
好は、だんだんヘビーなのが好まれていて、昔と違い個性的なのが人気である。そのため、
石垣の小さい所のお酒は今人気である」という。また、大々的に CM 活動を行っているわ
けではないが、C さんは「機会があれば、やってみたい。また今後地元のお米を使って泡盛
を造ってみたい」と話す。
八重泉酒造では、容器が紙パックの泡盛を売り出しており、地元の人に愛される努力を
している事が分かる。C さんは「量販店やスーパーで買うのは女性で、ビンだと割れたりす
る。様々な事情からパックを売り始めたが、女性の目線を意識して始めた」という。
3-3.玉那覇酒造所
創業約 90 年の株式会社玉那覇酒造所(以下玉那覇酒造)は、八重山最古の蔵元である。い
つの時代も「酒の味の決め手は、作り手の心」という 3 代目のモットーの下、今は 3 代目
主人と 4 代目後継者で、泡盛を造り続けている。
創業以来伝統の地釜を用いた「直釜式蒸留」にこだわり、今も昔ながらの技法で泡盛が
造られているが、現在はそれと平行してドラムでも製造されている(⑦)。機械導入の理由と
して、玉那覇酒造の A さんは「5 年ほど前から、息子が造るのに関わるようになった為、
今導入しなければ今後困ると思った。2 つでやると、出荷量が増える」と話す。現在のとこ
ろは、製造過程方法で泡盛を貯蔵するタンクを別々にしていて、機械導入に際しラベルに
書かれている「手造り」の表記は止めようとしている。
また玉の露は、玉那覇酒造唯一の銘柄であり、A さんは「うちのは古酒を前提として造っ
ている為、麹を沢山入れる」という。麹は、ほかの酒造所がさほど麹を生やさないのに対
し、玉那覇酒造所では黒麹をみっしりと生やす。この工程により出来上がった泡盛は、黒
麹らしい味わいになり、深いコクと香りが生まれる(①⑦)。
3-4.高嶺酒造所
川平にある有限会社高嶺酒造所(以下高嶺酒
造)は、今日でも手作業による製造で、伝統を
頑なに守ってきた。特に原料米を蒸す工程と、
蒸留する工程は、作業する人の熟練によって
仕上がりが変化すると言われていて、高嶺酒
造のDさんは「蒸しの加減が一番大切で、こ
れにより発酵の度合いなどが、変わってくる」
と話す。また機械化されたものではなく、昔
ながらの手作りの製法を見て欲しいという考
えと、工場内は歩くと危険という配慮のもと、
写真 2
高嶺酒造の製造
ガラス越しに製造過程の見学を行っている(①②)。
古酒になるということを念頭に置き製造している為、地釜に拘っている。また高嶺酒造
44
では 1980 年からボトルキープを行っていて、現在では 5500 組ほどである。年に 1 回は泡
盛祭りを開催し、ボトルキープしている人へ呼びかけ、参加者を募る。「ボトルキープを通
して一度きりの石垣ではなく、また交流の場として」と D さんはいう。
4.泡盛を広める活動
泡盛をより多くの人に知って欲しいという考え
は、酒造所だけではない。その代表例が、泡盛ゼ
リーである。この泡盛ゼリーは、石垣島の酒造所
の協力のもと生まれた、石垣島と与那国島で造ら
れた泡盛だけで作ったゼリーで、石垣市内のお土
産屋さんや、コンビニなど数多くの所に置いてあ
る。ゼリーを作っているのは、石垣島泡盛ゼリー
本舗で、4 年ほど前からつくり始めたと泡盛ゼリ
ー本舗のEさんは話す。
元々観光の仕事に携わっていたEさんは、その
事業の際に酒造所の社長と親しくなり、
「大分の焼
写真 3
泡盛ゼリー(⑧)
酎ゼリーを見て、思いついた。各酒造所に、ラベルを貸してほしいとお願いしたら、快く
貸してくれた」とEさんの人脈を活かしての事業スタートであった。
最近は、テレビや雑誌などに多数取り上げられ、反響を呼んでいる。泡盛は度数が高い
ため、お酒が弱い人などに馴染みのないお酒である。しかし、泡盛ゼリーはシークワーサ
ーの原液を入れてある為、食べやすいものとなっており、なおかつ各酒造所の泡盛ごとに
味が異なるため、お酒が強い弱いに関係なく、様々な人から愛されるものとなっている。
5.おわりに
泡盛の生産量・出荷量は、減少の一途を辿っている。しかし、各酒造所はこの現状に対
し焦るのではなく、泡盛の宣伝や機械導入など自分たちが出来ることを、着実に行ってい
るとインタビューを通して感じた。また、各酒造所で、生産量・出荷量について伺うと、
どの酒造所でも「ピークに比べると、落ち着いた」という表現をしていた。沖縄ブームに
よって起きた、偶然の泡盛ブームというように酒造所の人々は、考えているように思う。
沖縄以外の人々にとって泡盛は、まだまだ非日常的なものである。しかし、沖縄ブーム
によって、沖縄が身近になったのは事実で、また私たちの身近なスーパーや飲食店などに、
泡盛は僅かながらではあるが、置いてあるのも事実だ。要するに、泡盛も少しずつではあ
るが、私たちの日常に浸透していっているのである。泡盛の宣伝活動が行われている今、
生産量・出荷量増加の鍵は、泡盛が日常的にない人々の関心や概念の打破なのではないか
と、私は考える。
45
参考文献
①日本酒類研究会 2008 『知識ゼロからの泡盛入門』 幻冬社
②相場静子 2000 『決定版 泡盛大全』 主婦の友社
③沖縄タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-03-24_15799/ (2011 年 9 月 29 日取得)
④請福酒造有限会社 http://www.seifuku.co.jp/ (2011 年 9 月 29 日取得)
⑤有限会社 八重泉酒造 http://www.yaesen.com/ (2011 年 9 月 29 日取得)
⑥株式会社 玉那覇酒造 http://www.tamanotuyu.com/ (2011 年 11 月 1 日取得)
⑦泡盛・古酒専門店「泡盛屋」
http://www.awamoriya.net/index.htm(2011 年 11 月 1 日取得)
46
10.石垣島の泡盛文化
中村 綾
1. はじめに
それぞれの国や民族によって多種多様な酒があり、その飲み方、使われ方も違えば、ま
た酒に対する考え方も変わる。酒はひとつの文化なのである(①)。私は、沖縄独特の酒で
ある泡盛がもつ文化に興味をもった。
本稿では、泡盛を消費する側に焦点を当てて、まず沖縄の飲酒文化について触れてから、
実際にインタビューして聞くことができた石垣島の人々と泡盛の関わりについて記述して
いく。
2. 沖縄の酒文化
2-1. 歴史
もともと酒は、祭りや諸行事の始まる直前につくられるのが慣わしで、普段の日に各々
で飲むような日常生活にあるものではなく、祭りなどの特別な日のために醸して神に供え、
衆人相饗するものであった。沖縄も例外ではなく、酒が楽しみのために飲まれるようにな
ったのは比較的新しいことで、沖縄の方言で酒のことを一般に“サキ”というが、これも
本来は祭事のときだけつくられる神聖な飲み物だった。その理由のひとつとして、酒に酔
って普段と違う雰囲気に包まれることが、神との交流をはかる最良の方法であったことが
挙げられる。ムラの祭礼の中では、神酒や酒(泡盛)は神との媒介、神役と人々の仲立ち
に大きな役目をもっている(①)
。
沖縄に蒸留技術が伝わり普及する以前は口噛み酒が一般的で、沖縄諸島では近代まで祭
事をむかえるにあたって「口噛み酒」をつくっていた。
「口噛み酒」とは、人の唾液による
発酵作用を利用した酒である。身を清めた女性たちが生米を噛んだり、塩できれいに歯を
磨いたりしてから、炊き立ての米の飯を丹念に噛んで、容器に吐き出し、それに少しばか
りの水を混ぜ、石臼で挽いてどろどろにし、甕に入れて発酵させた(①④⑥)。沖縄本島で
はこのような酒をウンサク(ウンシャク)、ミキ、ミチ、宮古ではミキ(ンキイ)、八重山
ではミシャグ、ミシュ(ミス)などといい、これらはいずれも「神酒」としての意味合い
がある。沖縄では既に口噛み酒はつくられていないが、伊平屋島、宮古や八重山の一部で
は昭和 10 年代初めまでつくられていた。現在では、手作りの一夜酒や三日酒を「ウンサク」
として祭事に用いているところも多く、泡盛が神酒として用いられる場合は「ウグシイ(御
五水)
」と呼んで区別されてきた(①)。
泡盛は蒸留した酒のことをいう。紀元前 3000 年には西アジアで発達していた酒の蒸留の
技術は、13 世紀頃に中国に、そしてシャム(タイ)を経由して、南方の国々や中国などと
さかんに貿易をして栄えていた 15 世紀の琉球に伝わった。沖縄で蒸留酒(泡盛)が造られ
47
始められたのも、この時代と推定されている(①⑤)。
2-2. 飲酒文化
沖縄でよく知られる飲酒作法のひとつとして、宮古諸島の「オトーリ」がある。オトー
リとは、まず円陣を組んで座り、オトーリを始める人「親」が口上を述べて泡盛を飲み干
すと、参加者一人ひとりに泡盛をついで飲み回していく。一周すると「親」のもとへ杯を
返し、「親」はもう一度口上を述べ、また始めから空杯を回す。これが何回か回る頃には、
お互いの立場など関係なく、気持ちも打ち解けてくるので、島の人はオトーリのことを「平
等の酒盛り」とも表現する。一つの杯で飲み回すという行為は、酒宴の参加者の親近感を
生み出すもので、人びとは同じ酒を一つの杯で回し飲むことでコミュニケーションをとり、
つながりを深めた(①)
。
年中行事の節目節目においても酒が供されるが、婚礼においても酒が関係し、婚約に相
当するものに「サキムイ(酒盛り)
」がある。男女双方の両親の承諾が得られると、婚約の
儀式が行われ、これを一般にサキムイ、サカムイ、一合酒盛、二号ムイなどと呼ばれた。
多くの地域では、婿側より酒と料理を携えて嫁方を訪ね、火の神や仏壇に供えた後に、嫁
側の身内と盃を交わし、小宴を開く儀式である。この酒盛りによって婚約が確定するので
あり、双方の契りを結ぶのに酒の泡盛は大きな役割を果たしていた。また、葬送にも酒は
つきもので、墓前で飲酒する慣習がある。現在では、沖縄でも離島の一部地域を除いて火
葬が主流であるが、かつては墓に棺を納め、数年後に取り出して、洗骨し改葬する習俗が
あった。洗骨は一般に骨を水でもって洗い清めるが、地域によって海水を用いたり、単に
布きれで拭き清めたり、または拾い移しをするところもある。洗骨の最後に泡盛を使用す
る地域もあり、これは清めや死者への最後の饗応などの意味や悪臭を取り去る目的も含ん
でいた(①⑤)
。
泡盛には、長くねかせて熟成させることで酒の質が向上し、より味わい深くなるという
大きな特徴がある。この特徴を利用した、いくつかの甕を用意して年代順に酒を貯蔵する
「しつぎ」という手法がある。泡盛の古酒は、この古酒づくりには欠かせない「しつぎ」
の手法によって、古酒の風味を保ちつつ、熟成をはかることができるのである(①)
。
3. 石垣島の飲酒文化
石垣島では、どのような人がどのような泡盛を買ったり飲んだりするのか、どのような
飲み方をするのか。以下では、実際にインタビューして聞くことができた話を述べていく。
3-1. 泡盛を消費する人
市街地にあるAさんの酒販では、客層はばらばらで、地元の客もいるが観光客も多く、
性別や年代も特に関係ない、という。Aさんのお店で買っていく地元の人は常連で、また
観光客もリピーターが多い。観光客は古酒を買っていくことが多く、地元の人は安くて量
48
が多い酒を買っていく。他所の島で出回っているのは 4 合瓶が一般的であるのに対し、石
垣島では 3 合瓶が主流で回転がいい、という。女性も泡盛を嗜むのかと尋ねると、
「女性も
いっぱい飲む。居酒屋が増え始めた 20~30 年くらい前から、オープンになって遠慮がなく
なった」とAさんはいう。別の酒販の B さんによると、石垣島だと、そのお店の人気商品
は八重山限定のお酒で、また若い女性には梅酒の泡盛が人気だという。また、複数の人か
ら聞いた話によると、飲み屋では 3 合瓶が普通で、家で飲む分には割安であるため 1 升瓶
またはパックが人気である。
「地元の人は、古酒はお土産かお礼用くらいでしか買わないし、
普段あまり飲まない。飲むのはお祝い事があったときとか」という。
また、一般の消費者に話を聞くと、20 代の男性Cさんは地元の酒が一番好きだという。
Cさんの集落の人たちと飲むときはたいてい地元の酒で、集落によって飲む酒はある程度
決まっている。同級生など、格が自分と同じくらい人と飲むときは、多数決で決める、と
いう。60 代の男性は、
「自分の好きなメーカーがある」といい、60 代の女性は「好みもあ
るけど、地元のお酒はお付き合いがある」という。
3-2. 泡盛の嗜み方
インタビューでは多数の人から似たような話が聞くことができた。
石垣島では宴会や飲み会の開始時間が遅く、お開きの時間も遅いことが特徴としてある。
その理由は、家が近いために徒歩での帰宅が可能であること、タクシーを使用したとして
も安いこと、電車がないために終電を気にする必要がないことなどがあげられる。また、
開始時間が遅いことに関連して、石垣島では会社帰りにそのまま飲みにいくことは少ない
という。一度帰宅して、着替えたりシャワーを浴びたりしてから、再び待ち合わせて飲む
のである。お金をかけたくない人は、帰宅の際に夕食を食べてから、という場合も多い。
また、石垣島では共働きの家庭が多いので、女性が飲みにいく機会が多くなる。その場合、
一度帰宅した際に子どもたちのために夕飯を用意して飲みにいくということもあるという。
今でこそアルコール度数が低い酒類も多いが、最近までの泡盛は全体的に度数が高くきつ
い酒であった(⑤)
。空腹のままで少しのつまみだけを肴に飲んでいると、悪酔いしたりお
いしく飲めなかったりしたので、まず夕飯をしっかり食べてから泡盛を飲み始める人が多
いという。
泡盛の飲み方について話を聞くと、水割りが最も一般
的な飲み方で、泡盛と水の割合は個人の好みや強さによ
って人それぞれだという。私が調査の中で実際よく聞い
たのは、
泡盛と水の割合は半々から 3 対 7 くらいだった。
そうやって少ない酒を薄く割って、長くゆっくりそして
安く楽しむのだという。他の割り方については、柑橘系
(特にシークヮーサー)、コーヒー、さんぴん茶などで
割るというのをよく耳にした。他には、ウコン割りや牛
49
写真1
3 号瓶の泡盛と水と氷のセット
乳割りといった割り方もあり、飲み方は様々あるようであった。古酒に関しては、その風
味や香りを楽しむためにロックで飲んだ方がおいしいという。
石垣島泡盛ゼリー店舗のDさんによると、「石垣島では昔から、お酒を飲む場というのは
コミュニケーションの場」だという。「いちゃりばちょーでー」という方言があるが、これ
は一期一会と同じような意味で、
「1回あなたと酒をくみあかしたら友達だよ」という意味
もある、とDさんはいっている。石垣にも宮古島のオトーリのような文化はないかと聞く
と、もともとはないが、宮古島からの移住者が飲みの場に一人でもいるとオトーリをやる
ことがあるようである。空ピッチャーと水と泡盛を用意して、最初に割っておき、それを
回す。一緒に飲んで酔っ払うことで信頼関係が生まれる、という。地元の人と古酒の関わ
りについて尋ねると、Dさんが以前に沖縄の人から聞いた話をしてくれた。親戚が墓の前
で集まって飲み食いをする、十六日祭という行事がある。墓の中に大きな甕があってそこ
に余った酒を入れておき、次に集まったときにその酒を飲むということを繰り返す。何十
年も続けて古酒になっていてすごくおいしいが、地元の人じゃないと飲めない。また、祝
い事となると呼ばれた人は酒を各自で持ち寄るので、宴会では酒は余るという。昔は各家
庭にひとつはあるという甕にその酒を入れるため、
「一軒一軒古酒の味が違う。すごくおい
しい。これは昔の古酒のつくり方」とDさんはいう。
酒造会社のEさんの話では、地元の人は自分たちでつくってしまうので古酒を買うこと
はあまりない、という。例えば、子どもが生まれたら泡盛を買っておき、子どもが成人し
たらお祝いにその酒を出して飲むそうだ。「ちょこっと飲んで、ちょこっと足して」という
風に上手くしつぎをすることで、50 年、100 年古酒にもなるという。古酒にはそれぞれ「思
い入れがあって、それを語りながら飲むのがおいしい」とEさんはいう。
4. おわりに
「沖縄の酒といえば泡盛である」といたる文献にあるが、
私は実際のインタビュー調査を行ってみて、それを感じた。
「酒の場はコミュニケーションだ」
、
「お酒を飲んで、明日も
頑張ろうという気になる」と話す人が実に多かったことから
も、石垣島の人々にとってどれほど泡盛が生活と共にあるも
のかが分かった。
しかし今、人と泡盛の関係がまた変わりつつある。最近、
石垣島では飲酒運転などの酒に関する取締りが強化されて
いると聞いた。石垣島は夜遅くまで飲むことが多いために、
朝まで酒が残っていると、朝の検問に捕まる人が多い。最近
までは朝まで飲んでその辺で寝ている人はいっぱいだった
が、処罰が厳しくなってからは、例えばタクシー運転手は仕
事の前日は飲まなくなる、という。泡盛がお酒である限り、
50
写真 2
「飲酒運転根絶」ののぼり
こういったアルコール関連の問題は必ず浮上するだろう。お酒を楽しく飲むことももちろ
ん大切ではあるが、同時にその飲み方にも折り合いをつけて考えなければならない。こう
して石垣島の飲酒の文化が築き上げられていくのだ、と私は思う。
参考文献
① 萩尾俊章 2004 『泡盛の文化誌―沖縄の酒をめぐる歴史と民俗―』 ボーダーインク
② エイ出版社 2004 『泡盛大図鑑~沖縄のお酒「あわもり」を楽しむ本~エイムック
926』 エイ出版社
③ 国吉和子 1983 「沖縄における飲酒の実態とアルコール関連問題――復帰後の統計の
分析を中心に――」 『沖縄大学紀要』 3:99-114 沖縄大学教養部
④ 神崎宣武(編) 2007
『乾杯の文化史』 ドメス出版
⑤ 相場静子(編) 2000
『決定版 泡盛大全』(主婦の友生活シリーズ) 主婦の友社
⑥ 比嘉佑典 2001 「琉球の創造力(5)――泡盛の創造と泡盛文化考――」 『研究年
報』 36:38-59 アジア・アフリカ文化研究所
51
11.石垣島のハブについて
渡部 紗千
1. はじめに
沖縄には毒ヘビの一種であるハブが生息している。ハブは、咬まれたら死にいたる場合
もあるほど危険な動物である。そんなハブと石垣島の人たちが、どうやって共存している
のかについて知りたかったので、このテーマを選んだ。今回、実際に調査してみたところ、
1972 年から 1992 年まで行われた土地改良以降ハブは人里から激減してしまっていたので、
予想とは大幅に異なる調査になった。本稿では、土地改良以前のハブを用いた産業がハブ
の減少に伴いどう変化していったかについて記述していく。
2. ハブとは
はじめに、ハブについて簡単に説明しておく。ハブは、琉球列島が中国大陸と陸続きで
あった、約 150 万~170 万年前に、当時のハブ属のヘビが大陸から台湾を通って北上して
きたヘビで、海面の高低差の影響で宮古島など土地の低い島では生息していない。石垣島
にはサキシマハブしかいないが、本島や奄美大島などではホンハブ、ヒメハブなど複数の
種類が存在する(②)。本稿で述べる「ハブ」は、すべてサキシマハブのことである。
ハブに咬まれると、咬まれた部位が 3 倍程度膨れ上がる。ハブの神経毒は血液の循環と
ともに体中をまわり、体がしびれ、筋肉硬直を起こし、呼吸困難で死に至らしめるという
危険な毒だが、1904 年以降は血清が作られたので、死ぬことはまずない(①③)。40 年ほど
前に咬まれたことがある、という方にお話を伺った。その方は咬まれた時の痛みはあまり
なかったが、咬まれた箇所が腫れて、ひと月ほど歩けなかった。石垣島島内の 2000 年代の
年間咬傷被害者数は毎年 13 人から 23 人ほどで、死亡者は一人も出ていない(石垣市市役所
調べ)。
3. ハブと関わりのある産業
石垣島には、ハブに関係する仕事をしている人たちがいる。その方々にお話を伺ったの
で記述する。
3-1.ハブ取りキ
「ハブ取りキ」というハブを捕まえるための道具がある。細長い筒の先にフックのよう
なカギが 3 つ付いており、中央のカギだけ長く飛び出している。その状態で金具を固定し、
這っているハブを、飛び出している中央のカギに引っかけた状態で金具を弾く。すると、
中央のカギが勢いよく筒の中に戻り、ハブを筒の中に入れてしまうのだ。
そうしたハブ取りキを売っている小物屋兼占い師のAさんにお話を伺った。作っている
52
のはAさんの夫で、Aさん自身は作り方を知らなかった。ハブ取
りキの種類は、80 センチの物と 120 センチの物があり、ハブ取り
名人や、農協の人などが買っていく。ハブ取り名人とは、ハブを
捕まえて売る人のことである。自社製品の製作などのためにハブ
を買い取る会社があり、そこにハブを売って収入を得ている人た
ちであり、ハブハンターともいわれる。
昔は多くの家でハブ取りキを作っていたが、今石垣島で作って
いるのはAさんの夫の他に一人しかいない。Aさんの夫もハブ取
りキ作りが本業ではないので、石垣島のハブ取りキ製作技術はほ
とんど失われている。石垣島の街中にはまったくといっていいほ
どハブがいなくなってしまったためである。
写真 1
ハブ取りキ
しかし、今でもハブが出ると真っ先に連絡がいく警察や、保健所にはハブ取りキが常時
数本置いてある、と後述するカビラガーデンのハブ担当者Bさんはいっていた。
ハブ取りキ
3-2.ハブ酒
石垣島で唯一ハブ酒を造っている八重泉酒造のCさんに話を伺った。ハブ酒は民間薬と
して一部の間で伝承されてきたものだ。ハブは何も食べなくても二年ほど生きられること
から、長寿・薬用酒として飲まれていたという。ハブ酒を沖縄県内で一番初めに商品とし
て売り出したのは八重泉酒造で、現在でも石垣島内でハブ酒を造っている唯一の酒造であ
る。
ハブ酒造りの中心となった人物は八重泉の前会長であった。前会長が本州でマムシ酒が
あるならハブでもできるのではないか、と考えたのが造り始めたきっかけで、7、8 年前ま
では生きた状態のハブを購入していた。購入時の支払額は大きさなどによって決められる
が、高くて 5000 円くらいであり、前会長が直接見て判断していた。前述したハブ取り名人
がまとめて持ってくることもあったという。現在買い取りを行っていない理由は、ハブが
少なくなったため、前会長が亡くなられたため、在庫がたくさんあるため、需要が少ない
ためである。まだハブが大量に漬けてある泡盛の
タンクが二つあるので、ハブが入っていないハブ
酒を作るならば当分は困らない。ハブが入ってい
ないハブ酒の販売は現在でも行われている。
ハブ酒本来の味は生臭いので、梅、ウコンを漬
けた泡盛などを混ぜ、ブレンドし、砂糖も加えて
いる。買って行くのは主に観光客で、地元の人は
あまり飲まない。
写真 2
53
ハブ酒
3-3.ハブ対マングース
川平にあるレストラン兼お土産物屋であるカビラガーデ
ンでは、昔、ハブ対マングースのショーを行っていた。そ
こでは、現在も数匹ハブが飼われており、その世話をして
いるBさんに話を伺った。
カビラガーデンでは、1974 年から 2000 年までハブ対マ
ングースのショーが行われていた。14~5 年前までは川平
にハブが多くいたので、捕まえてきたり、買い取ったりし
て仕入れていた。1 メートルあたり 5000 円程度で、元気が
あるものほど高価で買い取っていた。ショーを始めたのは
Bさんの前任のハブ担当者であり、この担当者が責任者と
して直接見て値段を決めていた。
写真 3
ショーで死んだハブの慰霊碑
ある程度弱らせたハブと、マングースを戦わせ、
ハブが死ぬ場合(大抵の場合は死ぬ)も、死なない場合もあったが、マングースがやられそう
になると、人為的介入で引き離す。マングースは手に入れるのがハブより難しかったから
である。現在、ショーが行われていたスペースでは、ガラスケース越しに、何種類かの、
飼育されているハブの様子を見ることができる。また、ショーで死んだハブの慰霊碑があ
る。
4. 土地改良
インタビューの中で、
「土地改良」という言葉を多く聞いた。土地改良によって区画整理
され、ハブが好む石垣が少なくなったことが、ハブを見なくなった原因だという。
土地改良とは、1970 年に起こった干ばつを契機として 1971 年に八重山・宮古地域で始
まった土地整備事業である。1972 年の本土復帰と同時に宮良川流域の調査が開始され、
1992 年に事業が完了した。
概要は、石垣島中央部以南に広がる耕地に用水を敷くといものである。それまでの耕地
の大部分は、なだらかな丘陵地に発達した畑で、一部の水田を除いてかんがい施設は皆無
に等しく、大部分の農用地の用水は天水に依存していた。このため、毎年のごとく干ばつ
の被害を受けていて、恒久的な用水対策が必要だったのだ。宮良川流域土地改良事業では、
宮良川上流にダム及び堰を新設し、農業用水の安定的な確保、供給を図るとともに、併せ
て関連事業で区画整理、末端用水路の整備等の農業基盤整備事業を行い、農業経営の安定
と近代化を図るものであった。
この事業によって、新しく 3 つのダムと 1 つの堰、用水路など水資源に関する設備が整
えられた。また、畑の営農計画がたてられ、宮良川流域では、サトウキビを基幹とし、パ
イナップル、水稲、野菜、牧草等を合わせた複合形態となることが決まった(④)。そして、
区画整理によりコンクリートが敷かれ、古い家並みに多かった石垣が大幅に減少した。
54
この区画整理をきっかけに、ハブが都会から姿を消した。
5. おわりに
今回のフィールドワークで、石垣島のハブはめったに人里には出てこないので、都会で
生活している分にはまず遭遇しない生き物だということが分かった。私の予想では、ハブ
はもっと身近にいる恐ろしい生き物だったので意外だった。印象的だったのは、インタビ
ューした石垣島の方々に、ハブのような人に害を与えるヘビはいない方が良いか、という
質問をしたところ、
「いない方がいい」ときっぱりいった人はいなかったことだ。いない方
がいいかもしれないけれどハブも石垣島の生態系の一部を担っている、完全にいなくなっ
てしまっては寂しさを感じる、ハブは作物を荒らす動物を食べるから、といった人もいた。
遭遇することが少なくなった今でもハブは石垣島の生態系の一部なのだ。
写真 4
サキシマハブ
参考文献
①中本英一 1982 『蛇[ハブ]の民俗「ハブ捕り物語」』
日本民俗文化資料成
②ハブの館 http://www.geocities.jp/habuyakata/ (2011 年 10 月 30 日取得)
③朝沼クリニック
http://www2.synapse.ne.jp/hekizan/habu_kousyou.htm#7
(2011 年
10 月 30 日取得)
④土地改良総合事務所 http://ogb.go.jp/nousui/nns/totikairyou/p1.htm (2011 年 12 月 8
日取得)
55
12.石垣島の菓子
横井 理乃
1.はじめに
地域ごとに様々な菓子があるが、今回は沖縄の石垣島の菓子について調査した。
本稿では、主として人気のある土産菓子や、普段地元の人たちが食べている菓子につい
て述べていく。
2.土産菓子
石垣島の複数の土産店に人気のある土産菓子を聞いたところ、どのお店でも同じ答えで
あった。一番人気のある商品は、石垣島限定の菓子ではなく、沖縄本島で製造されている
お菓子御殿の「紅いもタルト」だ。次に人気のある商品は、石垣島で製造されている、石
垣の塩を使用した、宮城菓子店の「石垣の塩ちんすこう」。そのほかに人気のある商品は、
南風堂の「雪塩ちんすこう」だ。
「石垣の塩ちんすこう」と「雪塩ちんすこう」はよく似て
いるが、その違いは、
「雪塩ちんすこう」のほうが「石垣の塩ちんすこう」よりも少し甘い
ことである。なぜ石垣島限定ではない、お菓子御殿の「紅いもタルト」が一番人気だと思
うのか店員さんに聞いてみたところ、「会社や商品名がブランドというか、広く知られてい
るからではないか」と述べた。
石垣島限定の土産菓子の特徴を聞いてみると、どのお店の店員さんも、石垣島の塩など
地元のものを使っているところだと思う、という。石垣島限定のちんすこうが販売されて
いたので、本島のちんすこうとの違いを聞いてみると、石垣島で製造されているというだ
けで違いはないということだった。
3.家で作る菓子
地元の人が家で作る菓子は、サーターアンダギー、ちんぴん、ヒラヤーチー、ポーポー
などが代表的なものである。
3-1.サーターアンダギー
サーターアンダギーは、首里方言で「サーター」は砂糖、
「アンダーギー」は「アンダ(油)
」
+「アギー(揚げ)
」で「揚げる」
、揚げ物を意味する。その名の通り、砂糖を多めに使用し
た球状の揚げドーナツである。別名として、さとうてんぷら、サーターアンラギーともい
う。砂糖がふんだんに使われ、また気泡が小さくて密度が高いため、食べ応え、満腹感の
ある菓子であり、表面はサクサク、中はシットリもしくはモッソリとした食感である。時
間をかけて中まで揚げることから、日持ちする。主な材料は、小麦粉、卵、砂糖だ(①)。
サーターアンダギーを家で作ると答えた人全員が、サーターアンダギーは揚げるときに
56
油の加減がすごく難しく、火が強いと中は生焼けで表面は焦げるので、上手な人と下手の
人で差が出ると話してくれた。チューリップ型に割れるのが上手な揚げ方だが、必ずしも
割らなければならないというわけでもないと言う人もいた。
3-2.ちんぴん
ちんぴんとは、小麦粉を水で溶いて鉄板で薄く焼き、
黒糖を溶かした物を芯にして巻いた、クレープのような
菓子だ。主な材料は、小麦粉、餅粉、黒糖だ。旧暦 5 月
4 日に、子供たちの健やかに育つことを祈って神々や仏
壇に捧げられていたが、現在では普通の菓子として親し
まれている(①)。家で簡単に作ることができるように、
「ちんぴんミックス」という粉が販売されている。
話を聞いたほとんどの子どもがちんぴんが好物で、
写真 1
ちんぴん
今でもおやつとして作ることが多いという。
3-3.ヒラヤーチー
「ヒラヤーチー」の「ヒラ」は「平たく」、
「ヤーチー」は「焼き」の意味で、
「平ら焼き」
を琉球方言で読んだものである。お好み焼きやチヂミの沖縄版といった感じだが、お好み
焼きほどのボリュームはないので、おやつ感覚で楽しめる郷土食であり、簡便な家庭料理
としても有名で、特に台風や停電などで外出ができないときの非常食としてよく作られ食
べられていた。このため、沖縄では台風の時にはヒラヤ
ーチーを食べるという風習が現在も残っている。
ヒラヤーチーの作り方はいたってシンプルで、水で溶
いた小麦粉に味付けをし、ネギやニラなどの具材を混ぜ
た生地をフライパンに薄くのばして、両面を焼き上げる。
具にはツナを加えることが多く、醤油やポン酢のほか、
ソースにもよく合い、小腹がすいたときや、泡盛にもよ
く合う。水と具を入れるだけで、簡単にヒラヤーチーを
作ることができる便利な「ヒラヤーチーミックス」も販
写真 2
ヒラヤーチー
売されている(①②③)
。
3-4.ポーポー
ポーポーの主な材料は、小麦粉、ベーキングパウダー、豚肉、砂糖、味噌だ。小麦粉を
溶いて、薄く延ばして焼いたものにアンダンスという油味噌(豚を小さく切って鍋で炒め、
砂糖と味噌を入れて炒めたもの)を芯に巻いたものである。行事の時に作られることが多
いが、畑仕事の中休みの時などにも作られて、おいしくて腹もちがすると親しまれてきた
57
菓子である。ただし、たくさん食べすぎると便秘になる恐れもある(①)
。
4.行事の菓子
70 代の女性Aさんは、結婚式などの祝い事の行事では、売っている通常のサーターアン
ダギーの 3~4 倍の大きさものを自宅で作り、それを小麦粉で作った扇形の白い天ぷらに乗
せて出すと話した。扇形である理由を聞いてみると、末広がりという意味だという。通常
の 3~4 倍の大きさで、大きいままで揚げるが、きちんと中まで火が通るという。また 40
代の女性Bさんによれば、これとは反対に、法事の時には精進料理として、サーターアン
ダギーの小さいものをたくさん作るという。
Bさんは、ムーチーを作るとも話した。ムーチーとは、餅
粉に水を加えて練り、平たく長方形にして、月桃の葉に包ん
で蒸したものである。月桃の葉の独特な香りと餅のほのかな
甘みがうまく溶け合い、どこか素朴な味わいのもちもちとし
た食感のお餅だ。沖縄のお餅は、杵などでつかないで、粉を
練って蒸して作る。白糖味の白餅、黒糖味の黒糖餅、紅芋味
写真 3
の紅芋餅が主なムーチーだ。昔から沖縄では、ムーチーは、
ムーチー
縁起のよい食べ物として言い伝えられている。毎年、旧暦の 12 月 8 日(ムーチーの日)に
ムーチーをかまどや仏壇、神棚などに供え、家族の健康を祈り、厄払いをする。子供の歳
の数だけ天井からムーチーを吊るす「サギムーチー」や、初めて赤ちゃんとムーチーの日
を迎える家が親戚や近所にムーチーを配って歩く「初ムーチー」などの慣わしもある。ム
ーチーがお店や家庭に姿を見せる時期になると、沖縄もよう
やく寒さが厳しくなり始め、冬が訪れる。ムーチーは、沖縄
の人々にとっては、冬の到来を告げる風物詩でもある(⑦)。
他には、クーガーシという、魚や花の形をしたお盆に仏壇
に供えるお菓子があると、70 代女性Cさんはいう。本土で
いう落雁のことだという。
写真 4
クーガーシ
5.新琉球王朝菓子
沖縄県内の中小菓子製造業と菓子問屋の川平商会、珍品堂、沖縄製油、琉球黒糖の4社
は共同で、琉球王朝時代の菓子の知名度向上などを目的にし、琉球王朝時代の伝統菓子を
現代風にアレンジした「新琉球王朝菓子ブランド事業」の第1弾として、菓子 7 品を各 150
円で 2010 年 11 月 1 日に発売した。沖縄の伝統色や伝統デザインを基調とし、上質でしな
やかにトレンド感を醸し出す個性的パッケージデザインが特徴であり、伝統と現代の技術
を融合させ、懐かしくも新しい味わいを演出している。
種類として、島菜サーターアンダギー、クルザーターアンダギー、御冠船ちんすこう、
黒糖ジーマーミ、胡麻玉城、マース花林糖、スヌイ花林糖がある。
58
島菜サーターアンダギーとは、島菜(からし菜)
と沖縄伝統菓子サーターアンダギーのコンビネー
ションが生み出した、懐かしいのに新しい感覚で、
島菜には鉄分、カルシウム、カロテン、カリウム
などのミネラルが豊富に含まれていて体にも良い。
クルザーターアンダギーとは、沖縄産黒糖をた
っぷりと使用したサーターアンダギーである。
御冠船ちんすこうとは、中国皇帝が派遣した冊
封使を乗せた船「御冠船」の形になぞらえてある。
写真 5
新琉球王朝菓子
黒糖ジーマーミとは、直火焙煎したジーマーミ(ピーナッツ)を沖縄産黒糖蜜でコーテ
ィングしたものである。ジーマーミは琉球王朝時代から宮廷料理の食材として使われたと
されている。
胡麻玉城とは、香ばしい黒胡麻と黒糖、そして水飴ときな粉で作られている。
マース花林糖とは、沖縄のマースを花林糖にトッピングしたもので、沖縄の美ら海の恵
みをギュッと四角い形の花林糖に詰め込んである。
スヌイ花林糖とは、海と太陽の恵みをめいっぱい含んだスヌイ(もずく)を花林糖にト
ッピングしたもので、小さな四角い花林糖に沖縄のミネラルが詰まっている(④⑤⑥)。
6.子どもの食の変化
昔に比べて、最近の子どもは家で野菜をあまり食べなくなったという。40 代男性 D さん
によれば、給食では、伝統の食事をなくさない為に、1 週間のうち 1 日は郷土料理を出して
いる。例として、パパイヤやゴーヤーのあえ物、チャンプルー(島の野菜の炒め物)など
がある。親世代も若い人が多くなってきたので、郷土料理を作ることも少なくなり、居酒
屋ぐらいでしか郷土料理を食べられなくなっている。また、お菓子の変化としては、ヒラ
ヤーチーなどの昔ながらのものも、お菓子としてよく家で作って食べるが、最近ではポテ
トチップスなどのスナック菓子をコンビニで買って食べるという。
7.おわりに
石垣島の菓子の特徴としては、石垣の塩など、現地のものを使用した菓子を販売してい
ることがあげられる。沖縄本島と石垣島で、菓子に違いがあるのかと思い調査したが、ほ
とんど違いがないことが分かった。
参考文献
①高木凛 2009『大琉球料理帖』 株式会社新潮社
②ヒラヤーチー|九州地方|全国粉料理 MAP|こむぎ粉くらぶ|知る・楽しむ|日清製粉
グループ
59
http://www.nisshin.com/entertainment/komugiko_club/map/kyushu_009.html ( 2011
年 11 月 2 日取得)
③沖縄風お好み焼き「ヒラヤーチー」
http://www.ww1plugstreet.org/hirayati.html(2011 年 11 月 2 日取得)
④琉球新報 王朝ブランド菓子7品発売 素材も県産4社が来月
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-169331-storytopic-4.html(2011 年 11 月 2 日取得)
⑤沖縄タイムス|琉球伝統の菓子 現代風アレンジ 川平商会と製造3社
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-10-28_11531/(2011 年 11 月 2 日取得)
⑥株式会社川平商会|沖縄浦添のお菓子卸問屋、川平商会。沖縄に甘い夢を届けて半世紀
以上
http://www.kawahira-shoukai.jp/original.html(2011 年 11 月 2 日取得)
⑦ぐるなび沖縄版
http://www.gnavi.co.jp/okinawa/column/0701/(2011 年 11 月 2 日取得)
60
13.沖縄の方言教育の変容
角井 美紀
1. はじめに
沖縄方言にどういったものがあるのか、本土でも一度は耳にしたことがあると思う。沖
縄方言は、非常に興味深い沖縄のひとつの文化であるといえよう。では、沖縄方言には一
体どのような歴史があったのか。また、現代でも沖縄方言は使われているのだろうか。以
下では、まず過去の沖縄での方言の禁止について触れたあと、現在の沖縄での方言推進運
動や、方言教育について述べていく。
2.沖縄方言の矯正
琉球沖縄と日本語との関係は思いのほか深い。小説など書き言葉としての文字において
は、琉球沖縄では、琉球史における「古琉球」という時代(12 世紀~1609 年)から日本語
のひらがなが使用されていたが、日常的な話し言葉においては、日本語ではなく沖縄語が
使用され、日本国に併合された「近代沖縄」という時代でも変わりはなかった。当時の沖
縄にあっては、大人も子どもも、すべてが方言生活者だったので、標準語はまったく外国
語同様の言語でしかなかった(①)
。
そのような琉球沖縄社会における書き言葉(=日本語のひらがな)と話し言葉(=沖縄
語)の二重性を踏まえたうえで、近代沖縄における言語編成の歴史を考えてみた場合に、
その中心的なポイントは話し言葉としての沖縄語であったといえよう(①)
。
事実、沖縄が日本に併合された 1879 年の琉球処分以降、明治政府によるほとんど唯一の
近代化政策として施行されたのが言語教育に関わる施策であった。その最初の施策が、地
元沖縄の生徒たちに日本語を教えるための、沖縄人の日本語教師を養成する「会話伝習所」
の設置であった(①)
。
3.方言禁止のための学校の取組み
学校が先頭に立ち、方言禁止、標準語励行の運動は行われ、やがて挙県的精神運動と も
いうべき方向へ進んでいったという記録もあるのだが、ここでは、標準語励行の手段とし
ての一例の方言札について述べる。方言札とは、標準語励行の強行手段として沖縄各地の
学校で用いられた罰札のことであり、方言を使った生徒に、方言札と書かれた木札を渡し、
これを持った者は方言を話している他の生徒を見つけて手渡していくという決まりであっ
た。方言札にひもをとおして首にぶら下げさせるという方法もとられた(⑤)。方言札以外
の罰則、たとえば、掃除当番にされる、廊下に立たされるといったものが与えられること
もあったようである。
明治 40 年ごろから行われていたようであるが、1917 年(大正 6 年)
、県立第一中学校に
61
おいて、方言札による減点のために落第者が続出するという事態が起きて、生徒たちの反
発をかい、問題化した。昭和期にはいって、県当局による標準語励行運動が展開されたこ
ろは、各地の学校で広く用いられた。もともと標準語普及のための方便としてとられた方
法であったが、問題点もいくつかあったようである。教育を受けていた当時は方言札を苦
痛、重荷に感じる人が多かったようだが、方言札を鬼ごっこのようなゲーム感覚で回して
いた人もいた(④)
。
4.方言論争
方言論争とは、1940 年(昭和 15)、沖縄県学務部が標準語励行県民運動を展開していた
のにたいし、柳宗悦ら日本民芸協会の人々がこれを批判したことが発端となって、以後ほ
ぼ 1 年にわたっておこなわれた論争のことである。
論争の焦点は、標準語の奨励方法に急進主義、強行策をとるか、漸進主義、柔軟策で臨
むか、あるいは、方言を否定し消滅させるのか、愛護し温存するのかという点にあった。
日本民芸協会側は中央語である標準語の必要性を認めながらも、地方語である沖縄方言の
重要性を強調した、また、方言を過度に否定するような標準語励行運動を批判し、方言の
保護を訴えた。これに対して県側は、県民が軍隊に入ったときや本土に出たときに標準語
が話せず、不利益を被っていることなどの事例をあげ、県民にとって標準語励行運動は必
要であるとして日本民芸協会側の意見に反論した。さらに、沖縄の知識人たちの意見を交
えて議論されたが、論争は決着しないまま 1 年余り続いた。
ところで、県内においては、考え方に程度の差はあれ、県の方針を支持する意見が多か
った。新時代の生活に適応するには標準語の強制、方言の禁止はやむをえないという考え
方であった。中央では、文化人の多くが日本民芸協会側の見解を支持したが、沖縄の状況
を変えるにはいたらなかった(④⑤)。
5.方言の復活?
現在、かつての方言撲滅とは、まったく逆のベクトルに向かうような現象が存在する。
「本
土復帰」20 周年の 1992 年あたりから、観光客目線を内面化したいっそうの「沖縄ブーム」
が多様なメディアによって盛り上がりを見せるなか、沖縄の伝統文化の見直しや尊重とい
った主張が強く打ち出されるようになる。1978 年に方言の記録保存を目的とした沖縄言語
研究センターが設立されているが、とりわけ 90 年代に入ると「スリー語やびら沖縄口」
(93
年、読谷村)
、
「ウチナーグチ大会」
(93 年、南風原町)、
「なりとぅゆん みやーく方言大会」
(94 年、宮古平良市)
、
「島ぬくとぅば語やびら大会」(96 年、県文化協会)など、方言使
用を推奨するための弁論大会が、沖縄各地で催されるようになる。
そして 2006 年 3 月 18 日、沖縄県議会は、毎年 9 月 18 日を「しまくとぅば(島言葉)
の日」とする条例案を、全会一致で採択した。日本国内の他県と比べてみても、県民挙げ
ての方言普及促進を謳った条例などは例を見ない。2000 年 10 月に設立された沖縄方言普
62
及協議会は、すでに 2004 年の段階で「しまくとぅばに愛着を感じ、沖縄文化に誇りを持っ
た若者を育成する」という掛け声のもと、「しまくとぅばの日」制定運動を始めている。過
去に、沖縄方言を禁止するため使用されていた「方言札」は、いまや運動のシンボルとし
て配布されもした。
「ウチナーグチ」を使ったからといって日本兵にスパイ容疑で虐殺され
た出来事もあったのが、はるか遠い世の昔話であるかのようである(①)
。
6.石垣島での方言の現状
これまでの章では、沖縄県で、方言の復活のための活動が行われていることについて述
べた。そこで、八重山出身の石垣島の住民(特に子ども)は普段方言を使っているのか、
石垣島でのしまくとぅば大会の知名度はどれほどなのか、という二項目について調査した。
市街地のゆうぐれなもーるという市場のどの店でも、店員は標準語もしくは標準語に近
い言葉(少なくとも沖縄方言ではない)を話していたため、八重山(石垣島)出身の住民
は方言を普段使っているのかを調査した。石垣島の方言は、八重山方言といわれる。
八重山出身で、
市街地にある公設市場の店員の 70 代の女性 A さんにお話を伺ったところ、
普段八重山方言を使って話すということはないようである。理由は小学生のときに方言が
禁止されていたため。つまり、先に述べた標準語励行の運動が深く根付いているようであ
った。
また、那覇出身のゆうぐれなもーるの土産店の店員の 40 代の女性 B さんに、沖縄出身の
子どもが方言を使っているのかをきいたところ、最近の子どもはあまり方言を使わないと
いう。
次に、石垣島でのしまくとぅば大会の知名度についてだが、しまくとぅば大会のことを
知る住民はほとんどいなかった。この調査は、市街地(主にゆうぐれなもーる内)と川平
周辺でおこなったのだが、聞き取りを行った住民は、ほとんどがしまくとぅば大会の存在
を知らなかった。また、しまくとぅば大会の存在は知っていても、その内容までは知らな
かった。
そんななかで、川平在住の C さんに、川平においてのしまくとぅば大会について聞くこ
とができた。まず、川平においてのしまくとぅば大会のことを、シマムニ(スマムニ)大
会と呼ぶ。そして、この大会は 2011 年には 9 月上旬に川平で開催された。参加資格は幼稚
園の子どもからである。この大会には班長がいて、その班長や親や年配の方に頼りつつ方
言を話す大会のようである。
C さん曰く、シマムニ(スマムニ)大会の開催について、
「学校に通っている子どもがい
る家庭でしか知られていないのかもしれない。最近は子どもが少なくなってきたし…」と
語った。また、子どもに方言を教える方法については、
「幼稚園で劇をしたりする。台本を
子どもが好きに方言にかえていく。わからないところは親が手助けする。そのほかには、
絵本を読み聞かせる際、方言にかえて読み聞かせたりもする」と語った。
63
7. 現代での方言の教育
那覇市のある小学校では、方言クラブというクラブがあり、クラブ活動を通して方言を
学んでいる。地元の方を講師として児童たちに方言を教える。たとえば、演劇をしたりす
る。台詞はすべて琉球方言で演じるのである。また、顔のパーツの名称を標準語から方言
に変えて発音させる。何度も繰り返し、発音させ、単語と単語をつなぎ合わせて文を作ら
せている。また、琉球方言の子守歌を歌ったりもする(④)
。
このような方言の教育が、石垣島でも行われているのかを調査するため、石垣島市役所
の市史編集課の D さんと教育委員会の E さんにお話しを伺った。石垣島でも方言を教える
ようなクラブ活動が行われているのかと聞くと、D さんも E さんも「そのような活動があ
るとは、市内では聞いたことがない」と答えた。
また、学校教育の国語で方言を教えるような授業はあるかという質問に対しても同様で、
D さん、E さん双方が「そのような授業は聞いたことがない」と答えた。ただし、E さんは、
「国語教育で方言が教えられているというのは聞いたことがないが、学校の取組みとして、
シマムニ(スマムニ)大会という方言を使ったお話し大会はある。特に、竹富町の竹富小
中学校では方言大会が盛んであり、伝統的な行事となっている」と語った。
8.おわりに
方言撲滅・標準語励行という教育が国家や沖縄県によって強制的に行われていたのは、
そう遠い時代の話ではない。今でもなお、標準語励行が人びとに与えた影響は、根強く残
っているといってもよいであろう。
そんな中で、沖縄県の本島(那覇市)では、方言を教育するクラブ活動や授業が行われ、
また、石垣島でも、知名度は決して高いとは言えないが、シマムニ(スマムニ)大会が行
われているといった、方言使用を擁護あるいは奨励するような活動が増えつつある。
いまや方言は沖縄の重要な文化のひとつであるといえよう。その方言が忘れ去られるこ
とのないように、今後のさらなる方言奨励活動に期待したい。
参考文献
①古川ちかし、林珠雪、川口隆行編著 2007 『台湾・韓国・沖縄で日本語は何をしたの
か――言語支配のもたらすもの』 三元社
②石垣市史編集委員会(編) 2007 『石垣市史 各論編 民俗 下』
③記念誌作成委員会(編)
1981 『登野城小学校百年の歩み』 石垣市立登野城小学校
④猿田美穂子 出版年不詳 「標準語励行の実施と人々の意識――方言札に着目して――」
⑤沖縄大百科事典刊行事務局(編) 1983 『沖縄大百科事典 下巻』 沖縄タイムス社
64
2011 年度「フィールドワーク(文化人類学)Ⅰ1・Ⅱ1」調査報告書
2012 年 3 月 15 日
発行
吉田竹也・戸田結子・近藤安里紗 編集
南山大学人文学部人類文化学科
〒466-8673 名古屋市昭和区山里町 18
印刷
株式会社ウェルオン