「特別の教科 道徳」 の時代へ向けて 京都産業大学教授 元文部科学省教科調査官 柴原弘志 1.教科化の意義 (1)メリットと懸念される点 りやらなければならないという考え方の中で、 もしも道徳教育からみて誤った評価観で評価活 メリットを最大限に生かす 道徳の教科化については、私の教科調査官在 動が行われるとするならば、それはおそらく子 どもたちの道徳性の育みにとってマイナスにな 任中から議論されていたことで、このたび降っ てわいたような話ではありません。個人的には 当時、教科化について、道徳教育の充実に関連 して当然メリットもあるが懸念される点もある と考えていました。もちろん今は賛成の立場で、 メリットを最大限に生かして懸念される点を最 小限にとどめるというスタンスで、各界各層で 取組を進めていくことが必要だと思っています。 まず当時考えられた懸念される点とはどのよ うなことかというと、ひとつは不毛な生産性の ないイデオロギー論争を引き起こす可能性があ るという心配でした。教科化によって教科書が つくられ「修身の復活か」という声がまたぞろ 噴き出るのではないかという懸念がありました。 「国家主義思想で若い者や子どもたちを戦争に 行かせるのか」というような雰囲気が生まれ、 せっかく各学校で道徳教育の充実のため取り組 んでこられた先生方、あるいはこれからやって みようという意欲をもっておられる先生方の気 るかも知れない、という危惧もあったからです。 ですから私は、調査官在任期間中、教科化につ いては時期尚早ではないか、という立場をとっ てきました。せっかくここまで道徳教育の取組 が進みつつあるわけだから、それがまた逆戻り するようなことはいかがなものかという危惧が 強かったわけです。 しかし今回は、懸念される点はあるもののメ リットの部分を最大限生かすことで、わが国の 道徳教育を一層充実の方向にもっていくべきだ と考えています。私が教師になった30余年前 に比べると、この間に道徳教育に取り組む先生 が確実に増えてきましたし、学習指導要領もか なり読み込まれるものになってきました。例え ば大きな書店の道徳教育関係のコーナーに並べ られている書籍の冊数は当時の3倍以上に増え ています。書店は売れない本は置きませんから、 それだけ買う人、つまり確実に道徳の授業に取 り組もうとしている先生が増えている証左とい 持ちを削ぐようなことになってはならないとい う思いがありました。 もうひとつは、これは後でも触れますが評価 の問題です。教科となれば当然、評価について えるでしょう。こういう実態を後退させたくな いという、正直なところ切迫感が私にもあります。 もこれまで以上の取組を、という意識からでし ょうか、学校の先生方が道徳教育における評価 しかしながら、「道徳教育の充実に関する懇 談会」の報告書にあるように、わが国の学校現 活動に対して負担感や不安感を抱き、せっかく じわじわと充実してきたものが、元の木阿弥に なってしまうのではないかという思いからでし た。あるいは、教科になった故に評価をしっか 場で「本来の道徳教育」としての授業が行われ ているケースは、残念ながらまだまだ少ないわ けです。懇談会では、わが国の道徳教育の実情 に対するさまざまな厳しい意見が出ています。 16 道徳教育の実情 「特別の教科 道徳」の時代へ向けて それらの意見について、これまで道徳教育の充 実に必死に取り組んでこられた先生方は、ある 関する一定の知識とスキルを身につけなければ なりません。ここにひとつのメリットが潜んで 意味で怒りを覚える部分もあると思いますが、 います。現在の教員養成段階では2単位15時 それは全国における多くの学校現場の実情で 間というけっして十分とは言えない道徳教育に あるということを謙虚に受け止めなくてはな 関する学びで単位認定されているわけです。 らないでしょう。その上で、さらに道徳教育充 実のために取り組んでいかなければなりませ ん。その視点で教科化を捉えれば、非常に大き 教科には具体的な指導の仕方を学ぶ教科教育 法というものがあるわけですが、道徳におい ては十分為されていない。これは本来、教育職 なメリットがあるわけです。 員養成審議会で議論されるべき問題ですが、少 なくとも教職課程での道徳の講座は充実の方向 へ向かうことが考えられます。最低でも4単位 (2)教科化で変わること 免許の問題について 30時間程度は行われるべきだと思います。こ 教科になれば通常そこで問われるのは免許、 うなると、実際に指導できる大学の研究者を増 教科書、そして評価の問題です。 やさなければなりません。これまでは単に哲学 この3つすべてにおいて、わが国の道徳教育 あるいは心理学が専門であるといった先生方が の充実に資する方向にもっていけるであろう 道徳の講座をもっていることも多かったわけで というメリットがあると思います。 すが、いま小、中学校で熱心に道徳教育に取り 1つめ。免許の問題に関連して、審議の過程 組んでおられる先生方が、大学で学生に教える で道徳を「専科にしてはどうか」という意見が という機会が今後は増えてくることも期待でき ありました。国際的な状況では、専門性を要す ると思います。大学で道徳教育に関する研究の るということで中等教育以上での道徳教育に 場や研究される人が増えるとなれば、道徳指導 あたる教育では、ほとんどが専科の教師が担当 法の開発などにも反映されるわけですから、こ しています。結局この件は検討事項になり、当 のことが大きく道徳教育の充実に資するのは明 面は引き続き学級担任が担当するということ らかでしょう。 になりました。担任が行うということの意味合 いは、子どもたちのさまざまな面について理解 されているということで、揺るぎないところで す。しかし担任以外の者が行う授業にもメリッ トがある場合も考えられるので、中学校では 「原則」という言い方をしているわけです。 もうひとつ専科ということで危惧されるこ とは何かというと、道徳を特定の教師に任せっ ぱなしにするという状況が生じてしまうので はないかということです。道徳教育は教育活動 全体を通じて行うということの意義が理解さ れて取り組まれているのに、専科教師が生まれ 教科書への期待 ることで「あの先生に任せておこう」というよ 2つめは教科書の問題です。教科になれば教 うな風潮になったら困るという話です。 科書がつくられ、日本の場合は全員に無償配布 免許の問題に関しては、これまでと同様では されることになるのですから、これは大変あり ありますが、すべての教師が行うわけですか ら、大学での教員養成段階で全員が道徳教育に がたいことです。現在は副読本と呼ばれる教材 があり、行政機関が負担したり、保護者から徴 17 収したりして活用されています。あるいは、そ ことですが「目標を踏まえ指導の内容や目標に うしたものを採用しないような学校もあります。 照らして児童生徒一人一人のよさを伸ばしてい そういったまちまちの状況が、無償配布ですか ら、大きく改善されるわけです。これまでも 「心のノート」や「私たちの道徳」はありまし ける」評価でなくてはいけないということです。 子どもたち自身の道徳的成長を励まし、勇気づ けることができる評価でなくてはいけないとい たけれども、教科書は民間の出版社が編集しま す。私は、日本の教材や教科書を発行している 出版社は非常に優れたプロ集団だと前々から思 うことは、共通に認識されていることだと思い ます。ただしここで肝心なことは、純粋に学問 的な理論上の評価の可能性と、学校現場での評 っていました。文科省時代に他国の教科書を多 く見る機会があったのですが、日本の教科書は 群を抜いてうまくできていると感じました。そ 価活動の実現性というものは別問題として捉え ておくべきだということです。 例えば「こうすれば評価ができる」と言った の編集のプロ集団が競い合って、道徳科でしっ ところで、小学校で45分、中学校で50分の かり使える教科書をつくるわけですから、その 切磋琢磨の成果が楽しみです。また、教科書編 集には当然学校現場で道徳教育に熱心に取り組 んでこられた先生方が協力者として関わるとい うことで、より現場の意見が反映された教科書 が複数発行されるということでもあり、個人的 には非常にわくわくしているところです。 教科書が無償配布される一方で、もうひとつ 押さえておくべきことは、中教審でも指摘され ていたことですが、児童生徒の実態に則した 「他の多様な教材を活用すべし」ということで す。この考えが生きています。教科書は法的に 必ず使わなければなりません。しかし、道徳科 の授業で教科書しか使用しないというのはいか がなものかということです。長年にわたって地 域や学校等で子どもや地域の実態に即した教材 を開発してきたわけですから、そういったもの を併用していこう、ということです。このよう な状況になるわけですから、これまで以上に質 的にも量的にも充実した道徳教育が展開される 授業の中で、もちろん私たち教師は各教科の取 組でもそうですが、その中だけで評価している わけではありませんし、あれもこれもの評価は できないわけです。ましてや、学校現場で実現 性のない評価活動を期待すべきでないと思いま す。評価は当然のこととして妥当性、信頼性と いうものが問われるものです。しかし「特別の 教科」道徳という面から考えると、もちろん評 価として踏まえなければならないものは押さえ ますが、他教科とまったく同質の評価という考 え方ではなくてよいのではないでしょうか。そ こが「特別の教科」たる由縁です。道徳性その ものを評価するということは極めて困難なこと です。 しかし、ここで間違ってはいけないことは、 確かに難しいことではあるけれど、道徳性の育 みというものが「まったく見えないものではな い」ということです。 これまでも道徳教育に熱心に取り組んでこら れた先生方は子どもの内面にしっかり寄り添っ ことが期待できると思うのです。 て、その成長を見取ろうとしてきたわけです。 そうした実績が、実現可能な評価活動として整 えられ、今後全国の先生方に共有されることも 大事なことだと思います。 評価の課題 3つめは評価に関する問題です。評価につい ては今「道徳教育に係る評価等の在り方に関す 何よりも評価活動によって、子どもたちは自 る専門家会議」で協議をしていているところで、 分の道徳的な成長に気づきそのことをより意識 私も関わっていますが、いずれ一定の方向性が するようになり、一人一人が、自分のよさをよ 示されることになっています。これまでの議論 を集約していくと、中教審答申でも触れていた 18 り伸ばしていこうという意欲をもつ。つまり、 子どもたちが自分自身の道徳的成長を意識して 「特別の教科 道徳」の時代へ向けて 励んでいこうというような思いをもてるような 評価活動が求められるのです。 子ども自身の自覚とともに、この評価内容は 保護者とも共有されます。保護者と共に子ども の道徳的な成長を見取っていく機会にもなるわ けで、これも評価の大きなメリットといえるで しょう。 もうひとつ肝心なことは、評価について道徳 性ばかりに目がいくのですが、今回、学習指 導要領に示された評価では「児童生徒の学習状 況や道徳性に係る成長の様子を継続的に把握し、 指導に生かすよう努める必要がある」となって いることです。「学習状況」を継続的に把握す ることにも着目しなければなりません。つまり 道徳科の授業において、どういった学習活動が そこにあったのか、そこでどういった学びが成 立したのかということを観ていこうという、つ まり学習指導に関する授業評価であり、その評 価結果を生かして、授業改善に一層取り組んで いきましょうということです。 もちろん根底にあるものは子どもたちの道徳 性の育みであって、これが本丸なのですが、本 丸を見取るのは極めて困難です。そうなるとわ れわれは許される範囲で可能な推論に立つわけ です。 今回の学習指導要領の改訂では、これまで「道 徳的実践力」と言われてきたもの、つまり「道 徳的判断力、道徳的心情、道徳的実践意欲と態 度」を育むためには「こういう学習」が求めら れるということが、目標部分の前段に示された わけです。 そうした学習がしっかりと為されただろうか、 すなわち子どもたちは道徳的価値についての理 解を基に自己を見つめることができたのだろ うか、よりよく生きるために物事を広い視野か ら多面的・多角的に考え、自己の生き方や人間 としての生き方について考えを深めることが できただろうかといった学習状況は一定評価 できるわけです。 これをしっかり実践していくことは、必ず道 徳教育の充実につながる。つまりそういった学 習状況が、すべての学校のすべての道徳の時間 で成立しているならば、子どもたちの道徳性は 育まれるという推論に立つのです。だから、本 来の授業をしっかりやって、評価をしましょう ということになるわけです。まさに、これまで 言われてきた「指導と評価の一体化」です。 教育があれば評価があるのは当たり前です。 指導があれば評価しなくてはいけない。もちろ ん道徳教育の成果というか、どういう学びが成 立したのかということは瞬時には分からない、 2時間後に分かるものばかりでもない、1年後 に分かるというものでもない。長いスパンで継 続的に見取っていくことも必要であり、基本的 姿勢として大切なことです。 しかしながら、一方で45分、50分の道徳 の授業があったとしたら、その授業前に比べ授 業を受けた後に何らかの変容があるはずです。 そのことを期待し、意図して授業を行うわけで す。ただし、その時間にどんな変容があったの か、どのような成長があったのかを見取ること は、他の教科に比べて極めて難しい。それは何 故かといえば、 「道徳性」というものを対象とし ているからです。そこが「特別の教科」といわ れる由縁のひとつでもあるのではないでしょう か。 道徳の場合、極めて見えにくいといっても、 指導があれば、その授業の前と後では何らかの 変容はあるはずなのですから、その部分を見取 っていくというのが、今回大切にしたい評価で あり、そうした取組が次の授業への改善につな 19 がるものになっていくのではないでしょうか。 時に起こるものばかりではありません。道徳の 時間におけるビーカーの液体の温度上昇は、な 道徳性の評価は個人内評価 子どもの道徳的成長、あるいは道徳性の評価 は個人内評価を基本とすべきでしょう。だれか かなか見取ることはできないものです。もちろ ん、学校現場で活用可能な優れた水温計の開 発、すなわち評価方法の研究は進められるべき さんと比較するというのではなく、AちゃんB ちゃんCちゃん、それぞれの子どものその子な りの成長を見取っていくことが大切です。 です。 私はいつもビーカーに入っている液体のたと えでお話しします。道徳の授業の中でさまざま な教材等情報が提供され、意味のある問いが発 せられ、子どもは内省、自問しながら学びます。 そこでは自分とは異なる考えとも交流しながら 学びます。そうした指導を、子どもの人数分に あたるビーカーの中のすべて異なる物質である 液体に、共通した何カロリーかの熱量が加えら れている状況だとイメージするのです。その液 体を子どもの道徳性だとすると、その温度が上 昇する。与えられるカロリー、つまり学習指導 の内容や活動が一緒だったとしても、そこでの 学びは一人一人違うわけで、、水温上昇の度合 いも異なると考えることができます。それはな ぜなのか。ビーカーに入っている液体がすべて 違うからです。すべて比熱が異なるということ です。1カロリー与えれば水のように1度上昇 するということではない。比熱が異なり、しか もその液体の量自体も違うということであれ ば、同じカロリーを与えても、当然何度上昇す るかは個人個人で異なるわけです。 やがて沸点を越えると液体は気化します。当 然、それぞれの沸点も異なるので個人差がある のは当たり前です。そして、液体から気体にな れば、その変容はだれにでも分かります。これ これが数学の場合であればどうでしょう。因 数分解が分からなかったのが解けるようになる。 授業の前は解けなかった問題が、授業の後に解 けるようになった。それから1年たっても解け る状況がある。これは分かりやすいわけです。 しかし道徳の場合はそういった捉え方は困難 です。道徳教育では、道徳の授業、あるいは 教育活動全体の中で、その子の道徳性という液 体が、道徳的成長として1度でも2度でも上昇 していくということがあれば、それはそれでよ いではないかといった意識をもつことも大切で はないかと思うのです。そういったスタンスで、 評価については、できるところから、できるこ とを、できるだけ、着実にやっていく、そうい う姿勢で取り組み、検証していくべきだと思い ます。 は大きな変容です。気化するというたとえは、 いずれにしても教科化ということで現場の先 道徳でイメージすると、道徳的実践という行動 生方は意識の上でも変化が、ある意味求められ にまで至ったという段階といえるでしょう。例 ていると思うのです。いやが応でも、評価につ えば、いままで「思いやり」の素振りが少しも 見られなかった子が、他者を思いやるような行 動を常にとるようになったというのは、まさに いて改めて考えられることは意義あることと考 えます。これまで縷々述べてまいりましたよう に、評価は、あくまでも学校現場で可能な評価 液体が気体になった状況です。この変容はだれ でも分かります。しかし、こういった変容は瞬 であって、子どもたちの道徳的成長を認め勇気 づけ、保護者と共にその内容を共有していこう 20 「特別の教科 道徳」の時代へ向けて というものであります。そしてもうひとつ大事 なことは、授業の改善に生きる学習状況の把握 「効果的な」学習方法 また、この答申に「児童生徒一人一人がしっ をしっかりしていこうという姿勢を大切にして いきましょうということです。 このように道徳の教科化は、免許、教科書、 かりと課題に向き合い、教員や他の児童生徒と の対話や討論なども行いつつ、内省し、熟慮し、 自らの考えを深めていくプロセスが極めて重要 評価という3点において、大いなる意義が認め られるものと私は考えています。 である」とあります。また、「実際に現場での 体験活動を行うなど、行動を通して実感をもっ て学ぶことも重要である」とも言われています。 2.改訂学習指導要領について (1) 「読む道徳」から「考える道徳」とは何か 道徳教育の現状に対する懐疑 こうした教育活動全体での取組も生かしながら、 「児童生徒に考えさせる」道徳科の授業がこれ までと同様に求められています。しかしながら、 教科化についての報道をみると「読む道徳」 これらは「ねらいの達成に向け」てのプロセス から「考える道徳」ということが言われていま す。これは「大きく変わりますよ」ということ を伝える意味合いで使われているのだと思いま す。 確かに「考え、議論する道徳」へ転換をしよ うということが、改訂学習指導要領解説総則編 の冒頭の「改訂の経緯」の中にもしっかりと示 されています。検索ソフトで「考える」という 言葉の数を比較してみると、従前の学習指導要 領に比べ、いかに増えているかということが分 かります。「考える道徳」を強く意識している ということは、学習指導要領上もこれは間違い のないところだと思います。 では、それはどういうことかといえば、中教 審の答申の中で「例えば、道徳の時間において、 読み物の登場人物の心情理解のみに偏った形式 的な指導が行われる例があることや、発達の段 階などを十分に踏まえず、児童生徒に望ましい と思われる分かりきったことを言わせたり書か せたりする授業になっている例があることなど、 多くの課題が指摘されている」とあり、その課 であり、それはこれまでも言われてきたことで すが、あくまでもねらいから外れるような多様 な学習活動まで求めているものではありません。 そのことを忘れてはならないと考えます。 「多様な学習活動」ということもしきりに言 われますが、中教審の答申の中では「多様で効 果的な道徳教育の指導方法へと改善する」とな っています。これは「効果的な」という方が第 一義的なものとして捉えられるべきです。「多 様な学習活動」というのはあくまでも「効果的 な学習方法」というのが前提にあって、その中 で「多様な」もの、ひとつふたつではなく、目 の前の児童生徒の心に届き響くものとなるよう、 さまざま工夫していきましょう、ということで す。 このことは、これまでの学習指導要領でも、 また具体的な説明をしている解説の中でも「多 様な学習活動の工夫をしましょう」と述べられ てきたものです。これまでも、効果的であり、 本来の道徳の時間の特質を生かしてしっかりと した学びが成立するような多様な指導方法を考 題への対応であると考えることができます。 これまで熱心に取り組んでこられた先生方は ご不満かも知れませんし、確かにここで指摘さ えましょうと言われ続けてきたことなのです。 そのことが必ずしも十分には実践されていなか ったということについては、私も一時期その任 れている「心情」の捉え方については一部誤解 もあり、私自身異なった思いもありますが、全 体を見渡せば概して不十分な実態であることは にあった者として責任を感じているところです。 従来求められてきたものが十分には実践されて こなかったということを踏まえ、今回前述のよ 否定できません。私たちは、こういった実情を 真摯に受け止める必要があるのだと思います。 うな指摘が改めて示されたわけで、このことを センセーショナルに意識してもらおうという意 21 図で「読む道徳」から「考える道徳」という表 現が使われているのだろうと理解しています。 そうしたことから、これまでと同様に、児童生 徒に「考えさせる授業」を重視するということ が中教審答申にも述べられているわけです。そ こでは言語活動の充実ということも言われて います。このことも従来通りなのですが、改め て道徳科となって、移行期間ではあっても、し っかりと意識して実践していこうという姿勢 が必要でしょう。 (2)学校における道徳教育の基本的構造は変 わらない 道徳科を要として学校の教育活動全体を通じて 「道徳性」を養う 改正学習指導要領の第1章「総則」の第1「教 育課程編成の一般方針」の2に学校における道 徳教育は何をするものなのかという基本的なこ とが示されています。まず「学校における道徳 教育は、特別の教科である道徳を要として学校 の教育活動全体を通じて行うもの」とあり、道 徳の時間が「道徳科」になっただけで、基本的 な取組の全体的構造の継承が押さえられていま す。 これまでは、この少し後に「道徳教育は云々」 と子どもたちが身につけるべき道徳性の中身等 についての説明が長々とあり、その最後に「~ その基盤としての道徳性を養う」と、こういう 示し方でした。これは、文末決定性ということ から、行政文書ゆえに、その時代時代に要請さ れたものが次々に付け加えられていった結果で しょう。国語科ではとても使えないような一文 になっていました。それを今回の改正で、もう 少し分かりやすく示しましょうということにな りました。学校における道徳教育とは何ぞや、 それは「道徳性を養う」ことだという核心を少 しだけですがより端的に示したということです。 「判断」するとは「思考」すること このたび、「総則」のその「道徳性を養うこ とを目標とする」の直前に新しい文言が加えら 22 れました。小学校では「自己の生き方を考え」 であり、中学校では「人間としての生き方を考 え」とあります。ここに「考える」が新たに加 えられています。道徳教育を規定する一番基本 の部分に、この「考える」を入れてきているわ けです。さらに「主体的な判断の下に行動し」 とあります。 「判断」するということは「思考」している ということです。私たちは「道徳的判断力」と いう言葉はよく使いますが、「道徳的思考力」 とはあまり言わない。しかしながらこれは、当 たり前のことなのです。「判断」するというこ とは、その前に当然のこととして「思考」して います。「人間として(自己)の生き方を考え、 主体的な判断の下に行動し、自立した人間とし て他者と共によりよく生きるための基盤となる 道徳性を養うことを目標とする」と言うからに は、当然そこには「思考」がなくてはならない のです。 「思考」することへの意識 第3章「特別の教科 道徳」に、その目標が 従前と違った表現で示されています。私たちは これまでも「道徳的実践力って何ですか」と問 われたときに、「道徳的心情、判断力、実践意 欲と態度、これらを包括したものです」と答え てきました。「道徳的判断力」という以上、そ こには「道徳的思考」が含まれているのですか ら、従来から道徳の時間において「考える」力 も育てようとしてきていたわけです。しかしな 「特別の教科 道徳」の時代へ向けて 交渉な、理解にアンタッチャブルな道徳の時間 がら、「思考」という言葉がこの部分には示さ れていなかったためにとまでは言いませんが、 など、あろうはずもないことです。「道徳的価 値についての理解」を「道徳的価値の自覚」へ なかなか「思考させる」「考えさせる」という 向け、押さえられるべき事柄の一つとして取り ことについて、実際上は取り組んできているに ったのかもしれません。したがって今回、「考 える」という言葉を多用することで、改めて「思 考」ということへの強い意識付けがなされるの 組んできたことこそ、まさにその好事例です。 もちろん、道徳科での学習が道徳的価値につい ての「理解」だけでよしとする学習でもないこ とは、これまでと同様であり、このたびの目標 ではないかということです。 に示された規定からも言うまでもないことです。 (3)道徳的価値の理解 理解の前の理解 道徳的判断力を育てるということは、道徳的 価値についての理解を前提としています。人間 も関わらず、多くの先生方に意識されていなか 「道徳的諸価値についての理解を基に」 道徳科の目標に「道徳的諸価値についての理 解を基に」という文言が入りました。 これもいろいろと議論されているところで すが、要するに、それぞれの道徳的価値につい てのその子なりの理解を前提としつつ、さらに 子どもたちが道徳的価値についてより深く理 解できるような学習が為されなければならな いということです。当然そこでは、これまでも 説明されてきたように、価値理解はもとよりそ のことに関連した人間理解、他者理解と自己理 解が深められるようにすることが求められて きました。しかし、一部ではねらいの中で「理 解させる」とか「気づかせる」という言い回し をすべきではないという考え方がありました。 これはナンセンスなことで、理解のない道徳 の時間など、これまでもなかったと思います。 道徳的価値の側面から自己を見つめるには、道 徳的価値についての一定の理解がなければな りません。その子なりの友情観、生命観、すな わち友情とはこういうものだ、自分は生命をこ う捉えている、といった理解があるから、自分 を見つめたときに、自分のありようも捉えられ るわけです。さらに自分とは異なった理解に基 づく意見とも交流し、多面的・多角的な考察を 加え、自己や人間としての生き方についての考 えを深める学習を通して、道徳の内容たる道徳 的諸価値についての理解もより深いものとなっ ていくのです。 したがって、理解をともなわない、理解と没 は、一定の理解のもとに思考しているからです。 理解と理解を組み合わせていって思考し、考 察をするのです。その考察の結果、新たな理解 が生まれるわけです。そしてやがてそれが言葉 として、新たな知識として身につくのです。言 葉をただ知っているというだけでは、あまり意 味がありません。 言葉の意味するもの、その概念はどういうも のかを理解することが大切です。物事を理解す るときには、実はそれまでに獲得した言葉、知 識や理解を基にしています。今まで全く知らな かった知識を獲得するためには、多くの場合そ の前提となる知識が必要となります。これまで も、その時点でそれぞれの子どもがもっている 道徳的価値に対する理解を基に道徳の時間の取 組が進められてきたのだと思います。そこでの 学習の結果、その理解に変容が生じていくわけ です。授業以前にレディネスとして、自分なり の「友情とはこういうものだ」という理解があ り、それが教材によって、あるいは友だちの異 なった考え方によって、多面的・多角的な考察 等によって理解が変わる。「道徳的諸価値の理 解を基に」というのは、その子なりの一定の理 解を基に、教材などにより提示された道徳的問 題についてより深く考えていく学習を通じて、 児童生徒一人一人の理解が変容していくという ことであり、またそこで得られた新たな「理解 を基に」さらに深く学習していくことが求めら 23 れているということです。 (4)「多面的・多角的」とは何か 多面的・多角的に考える 「道徳的諸価値についての理解を基に、自己 を見つめ」に続く、「物事を(広い視野から) 多面的・多角的に考え」という部分についても さまざまな解釈がされているようですが、要す るに一面的な考察ではない、ということです。 小学校でも「多面的・多角的に」と示されて おり、中学校ではさらに「広い視野から」とい う、より多角的な観点からの考察を求める文言 が入っています。小学校1、2年生には難しい ように思えることでも、発達の段階に応じてよ り多面的・多角的な考察は可能となっていきま す。すなわち、発達の段階が上がるほど、ある ものや事柄がもっている多面性をみる力、ある 事象を捉える時の多角的な観点というものは増 すものです。 人間が生きていく上で遭遇する道徳的な場面、 すなわち善悪が問われる場面というのは、何が しかの「道徳的価値」が関わっている場面です。 道徳の内容に盛り込まれている、そうした「道 徳的価値」は、決して一面的なものではなくさ まざまな面(多面性)をもっています。例えば 友情であれば、その関係性において「仲よくす る」「助け合う」「信頼する」という側面、さ らには「高め合う」すなわち「切磋琢磨する」 といったような多様な側面があり、それぞれ の側面から友情というものを捉え理解するこ とができますし、友情を価値づけている根拠に ついて考えを深めることもできます。小学校1、 2年では「切磋琢磨」というのは少し難しいで しょうが、小学校5、6年あたりでは十分に理 解できる友情の側面だと考えられます。 そのように発達の段階という点を考慮して、 友情というものの中に本質的に含まれている 「切磋琢磨」という部分に焦点を当てて考察さ せようとすることが、これまでとは異なる側面 からも考えさせるということであり、すなわち 多面的に考えさせるということです。 24 生命尊重について考えるならば、生命(いの ち)が、有限であるということ、連綿とつなが ってきているということ、唯一無二であるとい うことなどは、生命それ自体が本質的にもって いる多面性です。それを多角的に考えるとはど ういうことでしょう。 例えば、それぞれの生命は社会的につながっ ているという社会的関係性から考えることであ ったり、そもそも生命そのものの本質とは異な る経済的な側面から考えるといったことです。 法的保障問題に関連させて「いのちに値段があ るか」と経済的な側面から生命を考えさせた授 業もありました。生命それ自体に経済性という ものは本質的にはありません。生命自体がもっ ている多面性、それは本質的には生物的な側面 でしょう。また、臓器移植などを題材にして、 自分の立場から考えたり、自分以外の立場だっ たらどうかと考えたりさせる。あるいは、過去 の時点だったら、未来のある時点だったらと、 その時々の学習対象である道徳的価値の本質的 な側面(多面性)からだけでなく、さらにさま ざまな角度、すなわち多角的な観点からも考察 させてみましょう、ということなのです。 そうした学びを通して、ある「道徳的価値」、 ここでは「生命」さらには「生命尊重」につい てより深く考えることができ、その時間のねら いの達成に効果的な学びとなることが期待でき るのです。 今回の改正で示された「目標」部分は、もち ろんこれまでの道徳の時間とは本質的に変わり ませんが、より具体的な授業イメージがわくよ 「特別の教科 道徳」の時代へ向けて うな表現になっていると思います。通常、教科 の時間は「どういう時間なのか」という目標設 するうえでも極めて重要な概念です。今回の学 習指導要領改訂の議論の過程では、より平明な 定をするときに、どういう学習状況をつくって、 表現にしましょうということになり、学習指導 どういう資質能力を育むのかという目標の立て 要領本文からは除かれました。 方をするわけです。今回の改正では、道徳科で 同じように「道徳的実践力」という重要な専 どういう具体的学習状況が必要なのかというこ とを、よりイメージできるものとして表現し、 そうした学習を通じてどういう資質能力を育も 門用語も除かれています。これは、より平明な 表現を心掛けようという要請もさることながら、 国民の多くの方々にしてみますと、「実践でき うとするのかということを示しています。 当然そこでは、そうした道徳科の授業を通じ て、小学校では児童が「自己の生き方」 、中学校 る力」なのだから、道徳の時間に具体的な実践 をさせて何が悪いのだ、という考えになられる のはごもっともなことであります。また、学校 では生徒が「人間としての生き方」についてよ 現場においても、 「道徳性」と「道徳的実践力」 り深く学んでいくことが求められているのです。 の異同を正確に理解されておられる先生は、そ れほど多くないのではないかと考えられます。 「道徳的価値の自覚」 そうした状況や実態による混乱を避けるとい 「道徳的価値の自覚」はどうしたのでしょう うこともあり、これまでから「道徳的実践力」 かとよく問われます。そこで、改訂された学習 の説明として用いてきました内容の一部順番を 指導要領の文言を改めてよく見てみましょう。 入れ替えてはいますが、 「道徳的な判断力、心情、 中学校であれば、道徳科での学習について、 「道 実践意欲と態度」を育てる時間として規定した 徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つ ものです。本質的には、これまでの「道徳的実 め、物事を広い視野から多面的・多角的に考え、 践力」育成を目指すということと同義でありま 人間としての生き方についての考えを深める学 す。 習」ということは、本質的には「道徳的価値の 自覚」を深める学習のことなのです。 (5)問題解決的な学習 これまでの解説では、3つの事柄を押さえる 道徳科における「問題解決的な学習」が具備す ことと説明してありました。すなわち、道徳的 べきこと 価値の自覚は、道徳的価値についての理解、自 道徳科における「問題解決的な学習」につい 分との関わりで道徳的価値が捉えられること、 ては、現在さまざまに論じられています。この 道徳的価値を自分なりに発展させていくことへ 点に関し、実践研究が深められることは有意義 の思いや課題が培われることです。これらは、 なことだと考えます。ただし、学習指導要領に 別の表現ではありますが、今回、道徳科におけ 規定されている道徳科の目標と齟齬をきたして る基本的な学習の姿として示されているものと はならないということは言うまでもありません。 考えられます。 そこで、これまでの関係する懇談会、中教審で これまで言ってきた「道徳的価値の自覚」へ つながる学習の姿を、より具体的にここに示し たといってよいでしょう。「自覚」という言葉 論議され答申にまとめられた内容を踏まえて策 定された学習指導要領及びその解説の内容から、 道徳科における「問題解決的な学習」が具備す は学習指導要領には入っていませんが、解説書 には「道徳的価値や人間としての生き方につい ての自覚を深め」と示されています。 べきこととして次の4点を考えます。 ①道徳的価値が介在している道徳的(道徳上 の)問題であること。 「道徳的価値の自覚」は、いわゆる道徳教育 上の専門用語であり、我が国の道徳教育を説明 ②自己の問題として捉え、考えられる問題で あること。 25 ③道徳的価値との関連から、その問題の解決 が目指される学習であること。 ④道徳科の目標の実現やその時間のねらいの 達成に資する学習であること。 ①についてですが、道徳科の時間に「解決」 すべき「問題」として取り上げられる「問題」 は、道徳的 ( 道徳上の ) 問題でなくてはなりま せん。すなわち、道徳的価値が介在していない 問題は、その対象とはならないということです。 仮に身近で日常的な問題が取り上げられたとし ても、そのことは基本的要件となります。 ②は、解決を図ろうとする問題が自分自身の 問題として捉えられ、考えられるものでなけれ ばならないということです。そこで提示された 問題は、時には読み物教材の登場人物の問題な のかもしれないし、もともとは教師から提示さ れた問題なのかもしれません。 内容的には環境やエネルギーの問題であった り、生命(いのち)の問題であったりしたとし ても、その問題が、終始他人事として取り上げ られ、自分自身の問題として考えられるという ことが全くないということであれば、それは道 徳科における「問題解決的な学習」とはなりえ ないということです。 ③については、特別活動の領域での「日常生 活における問題」の取り扱いとの異同について 考えておきたいと思います。このことに関連し ては、一部誤解もあるようです。 例えば、道徳科で取り扱われる問題は「日常 の問題であってはいけない」というようなこと が、さもまことしやかに言われているといった ことも聞きます。とっかかりとしての入り口的 な位置づけであれば、別に日常的な問題であっ てもいっこうにかまわないものと考えられま す。 ただ、道徳科での学びは、道徳上の問題とし て、道徳的価値の側面から解決される学習とな らなければいけません。例えば、 「教室が汚い」 という問題があったとします。何で汚いんだ という話になって、そのとき「みんなで使うも 26 のなのに公徳心に欠ける」とか「掃除当番がい い加減で自分の責任を果たしていないじゃない か」とか「私たちはやっているのにあの人たち が協力しない」といったような道徳的価値が含 まれる理由もあがってきますが、学級活動の中 では「ではどうしようか」と具体的な対応が話 し合われ、きれいな教室にしようという具体的 な活動やその方法が決められたり、確認された りして、時にはその時間内に実践されていきま す。 しかし、道徳科の時間での扱いということで あれば、問題の要因としてあげられたものの中 に含まれる道徳的価値に焦点が当てられていき ます。そこでは、「きれいに掃除をする」ため の具体的な方法についての学習が求められてい るのではありません。 「教室が汚い」という事象にはまず「掃除を しない」「掃除の仕方が分からない」といった 要因も考えられます。次に、「掃除の仕方は知 っているけれども自分の役目としてそれを果た すことができていない」「役目を果たそうとし ても協力しない人がいる」「みんなで使うもの なのにきれいにしておこうという意識がない」 等々、汚い教室をきれいにしようという問題場 面にはさまざまなファクターがあって、学級活 動では具体的かつ実践的に教室がきれいになる ところまで取り組まれます。その時間の学習と して、具体的、実践的な活動が求められます。 これは特別活動における問題解決的な学習です。 道徳科ではその問題となる事象に含まれる、 「特別の教科 道徳」の時代へ向けて 責任、協力、公徳心などの道徳的価値のいずれ かを引っ張り出し、それを学習対象とします。 での問題の態様としては以下のようなものが考 えられます。 つまり、「教室が汚い」という問題的事象から、 ①道徳的価値が実現されていないことに起因 「責任の自覚が足りないんじゃないか」という する問題 道徳的問題部分を引っ張り出してきます。そし ②道徳的価値についての理解の不十分さに起 て、責任を果たすということについて、その意 義についてはもとよりですが、なぜできないの かといった点などについても、価値理解ととも 因する問題 ③道徳的価値を実現しようとする自分とそう できない自分とが葛藤する問題 に人間理解や自己理解を深めながら学んでいく こととなります。 責任が自覚されていない、責任が果たされて ④複数の道徳的価値のどちらを優先すべきか という問題 いないというのは、教室が汚いという問題だけ このように整理してみると、これまでもこう に当てはまるものではありません。委員会活動 や部活動にもあるだろうし、家庭生活にもあり 得るし、他のさまざまな事象においてもあり得 るわけです。 「責任は果たすべきだ」と自分自身の問題と して自覚され、さまざまな事象に当てはめても 考えられるということができるようになるとい うのが道徳科の学習ということです。 したがって、学習の入り口は多様なものが考 えられるということです。そこから道徳的問題 であり自分の問題として捉えられ、自分自身に 対する問いが生じ、道徳的な解決が図られる学 習が行われるということです。 そして④ですが、このことも当然なこととし て意識されなければなりません。「問題解決的 な学習」は、あくまでも方法であって、そのこ と自体が目的化してはならないということです。 「道徳科の目標の実現」や「その時間のねらい の達成」に効果があると考えられるなら、そこ で初めて「問題解決的な学習」として計画すれ した問題状況を扱い、道徳的価値との関連から その解決について考えさせる学習活動は行って きていることがご理解いただけるでしょう。今 後もより効果的な学習を工夫したいものです。 ただし当然のことではありますが、道徳科での 学習がすべて問題解決的な学習になり得るわけ ではありません。 例えば「月明かりで見送った夜汽車」という 読み物教材があります(「中学生の道徳3年・ 自分をのばす」に掲載)。あれは道徳的価値が 実現されている状況が示されているわけで、問 題解決的な学習にはそぐわない教材です。では、 それが道徳科の時間の教材たり得ないかという とそうではない。道徳的価値の実現状況にふれ 「ああ、いいものだなあ」と感じることのでき る教材であり、 「道徳的心情を深める」ことや「道 徳的実践意欲を高める」ことのできる、道徳科 の時間のねらいの達成に十分資する教材と言え るのです。 ばよいということです。 学習指導要領に、この「問題解決的な学習」 や「道徳的行為に関する体験的な学習」などの 指導方法を工夫することが示されている趣旨を 3.これからの道徳教育に期待すること 道徳科の時間のねらいの明確化 それぞれの時間のねらいが、そこでの学習活 動とともに、これまで以上により明確化され具 正しく理解するとともに、その説明の前後に「指 体化される必要があると思っています。それぞ 導のねらいに即して」「適切に取り入れる」と れの時間の中で児童生徒がどういうことについ いう文言が附されていることの意図も汲み取り、 て学ぶのか、考えるのか、感じるのか、意見交 よりよい学習活動を計画したいものです。 なお、道徳科における「問題解決的な学習」 換するのか、そういう学習活動がより具体的に イメージできるようにするとともに、そうした 27 学習を通して、いったい何を「ねらい」として いるのか、より明確化・具体化される必要があ 教科化の話がマスコミ等で取り上げられる ようになった頃、ある中学校の校長先生が、生 ります。ねらいに含まれる道徳的価値が同じで あれば、どんな教材を扱おうが、すべてねらい が同じ文として示されているようではいけない 徒たちに興味深い質問をされています。 まず「(道徳以外の)教科の学習と道徳の時 間の学習の違いは何だろうか」と問われたそう でしょう。そうしないと、指導改善に資する評 価もできないことになってしまいます。具体的 な学習状況がイメージされていなければ、その です。 それに対して生徒たちは、 「教科の時間は頭をつかって考えているが、道 学習状況がどうだったかと評価することもでき ないわけで、このことは極めて重要なことであ ります。 徳の時間は頭より心をつかって考えている」 「教科の時間は問題集などで自分で学ぶこと ができるが、道徳の時間はみんなで話し合って 学んでいく」 「私たちの道徳」の積極的活用 教科書が実際に使われるのは、小学校が平成 30年からであり、中学校が平成31年からで す。それまでの間、これまでと同様、副読本な どの文字言語教材が中心に活用されるのでしょ うが、教科書の活用方法については、教科書が つくられてから考えるということでは遅いと思 います。移行措置期間から、道徳科教科書のモ デル的要素を有する『私たちの道徳』を各学校 で活用しながら、教科書使用による道徳科での 学習状況のイメージづくりをしていくことが必 要ではないかと考えています。これもできると ころから、できるときに、できることを、でき るだけやっていこうという姿勢が求められます。 そうした実践が蓄積され、交流、共有されてい くことが大切だと思います。 よりよい授業を目指す 最後に、道徳の教科化に関するちょっとした エピソードを紹介したいと思います。 28 「教科の時間は覚えることがたくさんあるが、 道徳の時間は一つのことを深く考える」 「教科の時間は多くのことを覚えるのが難しい が、道徳の時間では、いろいろなことを深く考 えることが難しい」 「教科の時間では、発言に正解か不正解かがは っきりするが、道徳の時間では発言で正解を求 められない」 「教科の時間は小テストやまとめテストがある が、道徳の時間にはない。でも日々の出来事な どでどう思うか、どう判断すべきかを考えるこ とがテストかもしれない」 というような意見を述べています。 これは、なるほどなあと思いました。 次に「(道徳以外の)教科の学習と道徳の時 間の学習に共通することがあるか」と問われる と、ある生徒がこう答えたそうです 「どちらも先生の教え方で授業が決まる」 われわれも肝に銘じ、よりよい授業を目指し、 日々研鑽に努めたいものです。◆
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