A u g 2003 ス タデ ィツ アー in SriLanka Special supported by OWOP Sarvodaya 東洋大学北脇研究室 BAJ 2.はじめに 「恩は受けた人に返すものではない。その恩をあなたの恩を必要としている人に返せば いい」このサルボダヤスタッフの言葉が今回のスタディツアーのきっかけになりました。 私は去年半年ほどスリランカでボランティアをしました。聞こえはいいし、確かに自分 はすごく成長できたと思います。しかし、何の専門も持たない自分ははっきり言って役に 立ちませんでした。しかし、スリランカの人は親切に対応してくれ、 「あなたは必要な存在 だ」と言ってくれる。悩んでいた私の心に、一筋の光明を差し込ませてくれたのが、この 言葉でした。 私は帰国後の目標を、国際協力に興味を持っている人といっしょにスリランカに再び行 くことと決めました。これが私にとってのスリランカへの恩返しだと思いました。そして 今夏、学生延べ 8 人(大学生 7 人、高校生1人)と共に再びスリランカに行くことが出来 ました。 今回のツアーは、 「みんなが主役」を合言葉に、計画段階からみんなで話し合い、自主的 に進められました。確かに、忙しい日程のためお互いコミュニケーションをとることは大 変でした。しかし、私たちにはこのツアーに対する1つのコンセンサスを共有することが 出来たと思います。それは、「現地の人たちと可能な限り近い関係で付き合う」ということ でした。スケジュールを見れば分かるとおり、今回のツアーのメインはホームステイです。 観光はほとんどしませんでした。 本記録は、私たちの熱い夏の余熱を‘少し’皆さんにお分けするものです。私たちに出 来ること、それはこの貴重な経験を一人でも多くの人にシェアすることだと思います。 3.メンバー紹介 米澤克己(ヨネザワカツミ) 明治大学2部政治経済学部経済学科 1年 上野友見(ウエノユミ) 東洋大学国際地域学部国際地域学科 3 年 北脇ゼミ 岸元早織(キシモトサオリ) 東洋大学国際地域学部国際地域学科 3 年 北脇ゼミ 奥州未歩子(オウシュウミホコ)東洋大学国際地域学部国際地域学科 3 年 北脇ゼミ 陰山智之(カゲヤマトモユキ) 東洋大学国際地域学部国際地域学科 3 年 北脇ゼミ 高市脩也(タカイチシュウヤ) 東洋大学国際地域学部国際地域学科 3 年 北脇ゼミ 左右木歩美(ソウキアユミ) 淑徳大学国際コミュニケーション学部 文化コミュニケーション学科 4 年 佐藤奈奈絵(サトウナナエ) 東海大学付属相模高校 3年 2 4.他己紹介 4.他己紹介 *米澤克己 *米澤克己* 克己* リーダー的存在で、とっても頼りがいがあります。今回のツアーの発起人でもあります。 気配りがあり、しっかりしていて、何事もまじめに深く考えていてかなりの語り派です。 人脈を大切にする人で、とても親しみやすいです。しっかりしているのですが、時々抜け ているときがあります。また、人並み以上に寂しがりで困ったものです。親しみがありす ぎる分、かなりオープンな人で・・・エロ男というみんなの意見。 *上野友見* ツアーの発起人の一人。常に周りに目を配り、よく気がつく。お母さん的存在です。時 間を守り、働き者でとても頼りになる働き者。時に大雑把過ぎたり、抜けるときがあった り何気に貧弱だけど、完璧ではない所もまた彼女のいい所。大きなリアクションとノリの よさでみんなを引っ張ります。 *奥州美歩子* テーマは、まさに“マシンガン!”。とってもオープンで、どこでもその場を盛り上げる 力を自然に持ち合わせています。スポーツ大好きな体育会系。嘘が大嫌いで、好き嫌いも はっきりしていて、なかなか自分の意見をずばずば言います。かなり大雑把で(ときに大 雑把すぎで困りもの・・・)、さっぱりしています。かなり自我が強く、何気色々考えてい ます。男から見ても惚れるくらいかっこいい女の子です。 *岸本早織* 彼女もまたスポーツ大好きな体育会系女の子。腕力がかなりあります!見かけはさばさ ばとさっぱりしているけど、実はかなりナイーブです。そんなナイーブな面を持ち合わせ ているからか、言うことははっきり言い、的確なアドバイスをくれるよき相談者になりま す。典型的血液型 A 型でかなりきっちりしていて、細かいことによく気がつきます。 *左右木歩* かなりの天然!!物事の観点が違い、独創的な考え方をしています。時に突拍子もない ことを言い出します。抜けているけど、何気に根はしっかりしていて、深く考えています。 周囲のことをよく考えていて、気遣いがよくでき、雰囲気を大切にします。持ちネタがた くさんあってみんなの笑いの中心です。頼れるような頼れないような・・・いろんな面を 見せてくれるお姉さんです。 3 *佐藤奈奈絵* まさに悩める女子高生。人見知りするけど、一度打ち解けたら・・・爆発!ノリがよく、 かなりはじけています。気性が激しく、好き嫌いも激しいです。その好き嫌いがそのまま 顔に出てしまう・・・時にプラスだけど、時にマイナス。このツアーで一番大きく成長し たのではないかと思います。 *高市脩也* 放浪家!この一言に尽きます。とっても人見知りをして多くを語らず、一匹狼的存在で す。自分にまっすぐでちょっと頑固者。自由気ままでとってもマイペースです。でも時に それが度を過ぎて、時間にルーズになったり突然姿がなくなったり・・・困りものです。 そんな感じだけど、なかなか気配りはあります。数少ない言葉で、気に掛けてくれます。 そこから、彼なりの優しさがにじみ出ています。 *蔭山智之* 優しい大男です!何にも熱くいつも自分と戦っている、負けず嫌いな勝負師です。正義 感が強く、物事を公平に扱える人。鍋奉行っぽいところがあります。熱い勝負心を持って はいるけど、物事に対して冷静で落ち着いています。とにかく動くのが大好きで、スポー ツ大大大好き・・・力がみなぎっていて、力が有り余っている感じです。 4 5.サポーター紹介 今回のツアーでは本当に多くの団体、人に協力に支えられました。特にスリランカ NGO サルボダヤ、日本の NGO 団体、ワンワールド・ワンピープル協会(OWOP) 、ブリッジ・ エーシア・ジャパン(BAJ)には大変お世話になりました。以下、各団体について簡単に 紹介します。 サルボダヤ 今回のスタディツアーでは現地 NGO のサルボダヤに大変お世話になりました。井戸を作 る村の選定から、スリランカでの生活全般に渡るまで、サルボダヤスタッフのスミスさん が全てコーディネートしてくれました。大変感謝しています。ここでは、サルボダヤにつ いて簡単にまとめてみたいと思います。 サルボダヤとは、スリランカで45年間農村開発を行っているNGOです。既に1万以 上の農村に入り活動を行っており、アジア最大のNGOと言われています。サルボダヤは、 1958年に当時高校の教師だったA.T.アリヤラトネ氏が生徒を連れてカーストが低 いためにさげすまれ、貧しい村に 2 週間ホームステイし、家や道路を建設したことからは じまりました。 サルボダヤという言葉は、語で「万人の目覚め」を意味していて、サルボダヤの思想を 表しています。つまり、各人が自分の周りの身近な人と協力し、その協力の輪が広がって いき、やがてその輪は社会全体を変えていくという考えです。アリヤラトネ氏は、サルボ ダヤスタッフだけでなく、サルボダヤ組織がある村やサルボダヤを支援している NGO も家 族の一員だといっています。 サルボダヤは何よりも村人達の自発的な共同作業を重視しています。この共同作業のこ とを、サルボダヤでは「シュラマダーナ」と呼んでいます。確かに建物を作るのは重要な ことですが、それ以上に村人達をその作業に参加してもらうことで、彼らの共同体意識を 高めることを重視しています。このように村人参加型の事業は現在では支援の王道として、 広く認められていることですが、サルボダヤが設立された当時はかなり革新的なことでし た。また、仏教を始めとする宗教を使っていることも、サルボダヤの特徴の 1 つです。 ここで、サルボダヤがどのようにして村の自立支援を行っているのかを、簡単に紹介し たいと思います。サルボダヤには自立に向けた 5 つのステージがあります。 第 1 ステージ:これはサルボダヤが入る前の段階です。村人達は今の生活をもっと改善 したいと考えています。そして、自分達で何らかの努力をしています。スリランカの大抵 の村には、レンガ職人や、大工などが住んでいます。また、今日行く水準も高いものがあ ります(スリランカの識字率は 90%をこえています)。つまり、材料や、人材は村にある場 合が多いのです。しかし、なかなか上手くいきません。そこで、そのように村人たちが自 発的に努力している村に対し、サルボダヤが自立に向けた支援をするのです。被支援者に 5 自発的要素があることは、支援の効果を大きく左右する、とても重要なことです。 第 2 ステージ:サルボダヤスタッフが村に入り、組織作りを始めます。まず、井戸やそ の他、村に不足している最低限のインフラをサルボダヤスタッフがリーダーになって作り ます。その過程で、村人達にも参加してもらい、共同作業を通して村内の共同体意識を高 めていきます。次に、村人の中からリーダーを決め、村内を組織化していきます。サルボ ダヤ共同体のリーダーとは、権力を持つ人ではなく村人を率先して引っ張り、村全体をま とめる役割を持つ人を言います。スリランカの村には大抵伝統的なリーダーがいます。例 えば、スリランカの場合僧侶がリーダー的な役割を果たしていることが多いです。また、 紅茶農園従事者の住む村では、その農園のオーナーが村を仕切っていることが多く、この 場合は何かと問題がよく起こります。そこで、新たにリーダーを選ぶ必要があるのです。 初期のサルボダヤ共同体はリーダーの他に、例えば女性や子供のグループ、幼稚園の先生、 会計、福利厚生担当などのグループが村を運営していきます。 第 3 ステージ:この段階では、サルボダヤ共同体はかなり発達しています。そのため、 幼稚園や、コミュニティーセンターなど村内の施設を自分達で運営するようになります。 例えば、幼稚園の場合生徒 1 人につき、1 ヶ月 100 ルピー徴収して、そこから施設の修復 や先生の給料(ほとんどないに等しい)が支払われます。 第 4 段階:この段階では、資金的な自立を目指します。村内で「シーズ」という小口金 融機関をつくり、村人達はそこに 1 ヶ月ごとに決められた金額を振り込むと、融資を受け ることができます。現在シーズの回収率は %です。 第 5 ステージ:経済的に自立してもまだ完全に自立しているとはいえません。経済的自 立に加え、外からの権力に対抗し得るような共同体にならなければなりません。これを政 治的自立といいます。さらにこの段階に到達した村は村内だけでなく、周辺の村の自立も 手助けすることが期待されます。以上のような過程を通してサルボダヤ共同体は広がって いきます。 現在サルボダヤでは、組織の経済的自立を目指しています。 「NGO の経済的自立」は NGO が本当の意味で「Non governmental organization」になるための必要条件でしょう。サル ボダヤは今も時代の先駆者の 1 つといえます。 OWOP(ワンワールド・ワンピープル協会) OWOP(ワンワールド・ワンピープル協会) http://www.owop.gr.jp ワンワールド・ワンピープル協会(以下、owop)は「ひとつの世界、ひとつの人類」を 理念に、 「世界中の全ての人々にとってうまくいく世の中」というビジョンを掲げ、その実 現に向けて活動している非営利団体です。 「全ての人が自立し、思い通りに生き、自分の大切さに気づき、まわりの全てを大切に し、全ての人が幸せになる。」そんな輪が広がっていくことを願い、国内外で自由な活動を 展開しています。 今までの具体的な成果としては、スリランカのサルボダヤ・シュラマダーナ運動との連 6 携が代表的なものです。イベントやフリーマーケットなどに参加して資金を集め、スリラ ンカに幼稚園と井戸を送ってきました。今までに 50 以上の幼稚園と、100 箇所以上の井戸 が出来上がりました。 <活動実績> 海外活動 1.スリランカへの幼稚園と井戸の建設、維持 2.ろう学校へのボランティア派遣 3.幼稚園へのボランティア派遣 4.農村開発プログラム 5.幼稚園教師のトレーニング 6.サルボダヤスタッフへのリーダーシップトレーニングの提供 7.スタディツアーの開催 等 国内活動 1.国際協力フェスティバルへの参加 2.チャリティーバザーの開催 3.京都橘高校の絵本翻訳プロジェクト 4.講演会 等 BAJ(ブリッジ・エーシア・ジャパン BAJ(ブリッジ・エーシア・ジャパン) ブリッジ・エーシア・ジャパン)http://www.jca.apc.org/baj/ 今回のツアーのきっかけとなったのが、BAJ(Bridge Asia Japan)で米澤くんと出会っ たことです。ここで、その BAJ についても紹介しておきたいと思います。 BAJ は 1993 年に設立され、主にミャンマーとベトナムで、そして 2002 年から新たにス リランカで国際協力をしている特定非営利活動法人です。その活動目標には、技術修得や 能力強化の機会を提供する、収入向上の支援をする、地域発展のため環境基盤整備を行う、 といったものがあります。 まず、ミャンマーでは、西部で職業訓練や技術訓練コース、小規模な橋梁の建設、中部 の乾燥地帯で井戸づくりなど生活用水供給事業を行っています。職業訓練では、女性の収 入向上のための裁縫訓練が行われています。 ベトナムでは、北部のカオバン省で植林活動、ホーチミン市とダナン市の盲学校で視覚 障害者を対象にしたマッサージセミナーを毎年開催すると共に、障害者学校の教師への支 援や職業教育も行っています。 そしてスリランカでは、北部地域の主にキリノッチ、ワウニア、マンナールで活動して います。技術訓練を兼ねた職業訓練センターの建設、青年向けの各種職業訓練(左官、大 工、機会整備、水産物加工など)、生活用水を確保するための既存井戸の修理、新規井戸の 掘削、学校校舎の再建および修繕を通した教育支援を行っています。 7 6.スリランカの基礎知識 地理: スリランカは、日本の西南約7500kmにあり、インド洋に浮かぶ島国である。 地理 インドの南東に位置し、その距離は50kmと非常に近い。スリランカの総面積は6 万5609k㎡で、北海道の約8割の大きさに値する。 気候: 気候 熱帯性モンスーン気候に属し、赤道付近から吹き付ける南西モンスーンと、南部 と西部はベンガル湾から吹きつける北東モンスーンの影響で、雨季と乾季が訪れる。 私たちが訪れた8月は乾季で、毎日とても暑かった。しかし、時々スコールにあう ことも…。 首都: 首都 スリー・ジャヤワルダナプラ。世界一長い首都名!!しかし、1985年まで首 都はコロンボであった。そして、今も多くの政府機関がコロンボにあり、街もとて も栄えているので、実質首都はコロンボであるといっても過言ではない。 通貨:ルピー 100円がおよそ78ルピー。 通貨 交通: 交通 主にバス。また、スリーウィラというモーターバイクに荷台をつけたような乗り 物もある。3、4人が定員だが、私たちのように6人という限界にチャレンジして みるのも面白い。 民族・宗教: 民族・宗教 スリランカの人口の約7割を占めるのが、インド北部のアーリア系を先祖 に持つシンハラ語族のシンハラ人。次いで、インド南部から移住してきたタミ ル語族のタミル人が人口の約2割を占める。そして、人口の7%を占めるのが タミル語を話すムーア人。シンハラ人のほとんどが仏教徒で、タミル人はヒン ドゥー教徒徒が多く、ムーア人はイスラム教徒である。ヒンドゥー教徒とイス ラム教徒の衝突が多く、私たちが旅をしていたときも、4名のイスラム教徒の 死者が出たらしい。 治安: 治安 スリランカ北部ではタミル人とムスリムの衝突があったが、私たちに直接の危険 はなかった。みんないい人! 産業: 産業 何といっても紅茶が有名☆スリランカにティータイムが一日三回もあるほど、ス リランカは紅茶栽培が盛ん。甘いミルクティーに心癒されます。セイロンティーは 世界的に有名であるし、皆さんも知っているのでは…? 8 食事: 食事 基本はカレー!そして激辛!!主食がお米だったり、お米からできている麺だっ たり、ホッパーというクレープのような皮だったり… でもそれにかかっているも のは全てカレー。食べ方は、右手で米をつかみ、それを丸めるようにして親指で口 の中に押し出す。なかなか難しい。 行き方:スリランカ航空とマレーシア航空がおすすめ。特に長期間旅をする人には、マレ 行き方 ーシア航空は安くて待遇もよくて素晴らしい。9時間の長旅には快適さが重要! 9 7.スケジュール 7.スケジュール メインスケジュール 日 2 宿泊場所 備考 スリランカ航空 午前 UL455 便 19 時 20 分着 会長、佐藤、米澤スリランカ到着 土 午後 3 午前 日 午後 4 午前 月 午後 5 午前 Moratuwa Moratuwa Rest 会長、佐々木、米澤、佐藤 興学社完成式 in Hatton Nuwara Eliya NuwaraEliyadistrict centre 会長、佐々木の日程 Mahiyangana Moratuwa 火 午後 6 午前 米澤、佐藤 Polonnaluwa 泊 Go back to Kandy 泊 Moratuwa Rest 水 午後 7 午前 マレーシア航空 上野、岸本、奥州、左右木スリ MH189 便 0 時 45 分着 ランカ到着 Moratuwa 木 午後 8 午前 会長、佐々木 Go back to Moratuwa Rest Sarvodaya Head Quarter Moratuwa 金 午後 9 午前 土 午後 Shopping Kandy ペラヘラ祭 in Kandy 10 10 午前 Start Homestay in Anuradhapur Anuradhapura Diyamairagasawewa village 日 午後 11 午前 月 午後 12 午前 火 午後 13 午前 水 午後 14 午前 木 午後 15 午前 金 午後 16 午前 土 午後 17 午前 Anuradhapura A dh A dh An Go back to Moratuwa Rest adha Moratuwa Moratuwa マレーシア航空 影山、高市スリランカ到着 MH189 便 0 時 45 分着 左右木、別行動 ボランティア in Head 日 午後 18 午前 a Moratuwa 左右木別行動 Quarter Meeting ボランティア in Head Quarter 月 午後 Moratuwa Home stay in Homagama 11 19 左右木帰国 午前 Go to Ampala Ampala マレーシア航空 MH070 便 11 時 00 分発 火 午後 20 午前 難民キャンプ(再定住村)訪問 ビーチ 水 午後 21 午前 Kaluminai ビーチ 木 午後 22 午前 Go to Kandy Kandy Shramadana(貯水池作り) Kurunegara Koliyapitiya 金 午後 23 午前 文化交流 Moratuwa 土 午後 24 午前 Shopping in Colombo マレーシア航空 MH188 便 2 時 00 分発 上野、岸本、奥州、スリランカ 出発 日 午後 25 午前 Start Home stay in kegale!! Balaboluwa village 月 午後 26 午前 火 午後 27 午前 水 午後 Kegale Kegale Kegale 12 28 午前 木 午後 Moratuwa Go back to Moratuwa 29 Go to Shinharaja national park Shinnharaja 金 30 Shinnharaja Trekking 土 31 Go back to Moratuwa Moratuwa 日 1 米澤スリランカ出発 スリランカ航空 UL121 便チェンナイ行き 影山、高市帰国 マレーシア航空 月 8月7日 午前 1 時半!今回のツアーのメンバー、上野、岸本、奥州、左右木がスリランカに到着 しました。先にスリランカに行っていた米澤、佐藤と合流。久々の再開となりました。 昼頃から、サルボダヤ本部の施設を見学しました。特に施設内にある孤児院はメンバー みんな興味津々でした。 Colombo(コロンボ) 7−1.Colombo (コロンボ) Colombo 7−1. コロンボは、英国植民地時代に発展したスリランカで一番大きな都市です。現在の首都 は国会議事堂の移転に伴って、スリー・ジャヤワルダナプラ・コーテになりましたが、コ ロンボはいまだに実質的な首都です。 コロンボ市内は本当に栄えていました。市場やショッピングモールが沢山あり、交通の 便も充実していました(市バスが充実) 。コロンボにはスリランカの中ではかなり生活水準 が高いです。しかし、貧富の差が大きかったです。高級外車に乗る人がいる一方で、私た ちにお金を要求してくる子供を抱えた女性や、道端に座り込んでいる障害者などを見る機 会は、ほかの地域より多かったように感じました。 13 7−2.孤児院 孤児という言葉の意味を言語化してみたくて辞書を引いてみました。 「両親に死別された など、何らかの理由で頼れる人が射なくなった子供」というのが一般的な意味合いのよう です。ちなみに孤児院とは「孤児を収容し、教育する所」とあります。 孤児の家では、数十人の子供たちの世話で大忙しな感じでした。思っていたよりずっと いい施設だな、というのが着いてすぐ感じた率直な気持ちでした。年齢によって部屋が分 けられ、0∼1 歳児未満の部屋では一人ひとりにベッドがあり、メリーゴーランドやオモチ ャ、外にはブランコといった遊具まで用意されていました。寄付されたものなのだろうか? もう一つ驚いたのは、外国人である我々を何の不信感もなく快く案内してくれたことです。 今までに何人もの人達が訪ねてきているのでしょう。来客の対応もすごく手慣れていまし た。入ってすぐ案内してくれたのが背の高いママズ(ここのスタッフのことなのだが子供 たちにとっては母なのであえてこう呼ばせていただいた。)で、一番年下の部屋に行きまし た。熟睡している子、大泣きしている子、オモチャで遊んでいる子などさまざまな歓迎の 仕方に表情が緩んでしまいました。赤ちゃんを抱かせてもらうと、その子はまっすぐ僕の 目を見てきました。この子の透き通る目の中で、僕はどのように映っているのだろうか。 同時に、色んな事を考えてしまいました。この子はこれからどのような人生を歩んでいく のだろうか。いつか物心付き、自分が孤児であるということを認識し、親の存在に悩む・・・。 仮にこの子に何かすごい才能があったとしても孤児であるということから社会的弱者とい うレッテルを貼られ、その才能を開花させることができないかもしれません。こんなこと を考えながら遊んでいると、ウーピー・ゴールドバーグ似で、とても明るいママズが紅茶 を用意してくれました。Teatime を取りながら、子供たちの写真を見せてもらったのだが、 どの写真も笑顔が絶えていません。本当に楽しそうなのです。誰か客が訪ねてくると時に 喜んで近づいているようです。そういえば昔、ある孤児院を特集したテレビ番組で「援助 してくれるのもうれしいのだが、会いにきてくれた方が子供たちも喜びますし、私たちも うれしい。 」と言っていたのを思い出しました。子供たちは孤児院で生活していることから 世間社会に触れる機会が絶対的に少ないのではないだろうか。そこから学ぶことの多さは 誰もが分かっているはずです。気分だって開放的になります。外に出る機会をもっと増や せたらと思ったし、そうしたくてもそう出来る環境ではないということも感じることが出 来ました。今回の孤児院訪問は、こういった問題点も含め色んな事を肌で感じることが出 来た貴重な体験となりました。 8月8日 この日は 1 日本部の近くにある幼稚園でボランティアをしました。この日はちょうど教 師の教育トレーニングの研修と重なったので、生徒よりも先生の方が多かったです。 14 7−3.サルボダヤの幼稚園…スリランカの教育制度… 7−3.サルボダヤの幼稚園 スリランカの教育制度… サルボダヤでは、幼稚園の先生育成講座も行っています。2000 年 4 月から 2001 年 3 月 までの 1 年間に 1337 人もの研修生が講座を受けました。地方からたくさんの研修生がサル ボダヤの幼稚園に講座を受けに来て、そして自分達の地方に帰り立派な幼稚園の先生とし て働いています。コミュニティーは自分達の幼稚園の先生に立派な先生になって欲しいの で、先生の給料とサルボダヤでの生活費などのために資金を集め、先生をサルボダヤの先 生育成講座に送り出すのです。私たちがサルボダヤの幼稚園を訪れたとき、その研修生の 数の多さに驚きました。幼稚園児よりも、それを取り巻いて見ている研修生の方が多いの ではないかと思ったくらいです。スリランカの幼稚園は、幼稚園児の家庭から先生の給料 や子供達の昼食代を、都市ではお金で、農村で貧しい家庭からは野菜などで集められます。 サルボダヤ幼稚園のあるモラトゥワは首都コロンボの郊外にあり高級住宅街なので、施設 などもしっかりした立派な幼稚園でした。幼稚園で教えられていることも、例えば色の勉 強、クレヨンでの塗り絵、歌などかなりしっかりもので、日本の幼稚園とまったく似たも のでした。子供達もそれをものすごく楽しんでいて、幼稚園内は活気に満ち溢れていまし た。都市では母親の多くが働いているので幼稚園は午後までですが、農村では母親は家に いるので幼稚園は午前で終わります。そのような午前だけの幼稚園は pre school、そして午 後までの幼稚園は day care と呼ばれるそうです。しかし、町中でみた幼稚園で午後までや っていても pre school という看板があったので、実際にははっきりした区別はされてない ように思います。 ここで、スリランカの教育制度についても触れておきたいと思います。10 年間が義務教 育とされ、その内グレード1∼6が日本の小学校、グレード7∼10 が中学校、グレード 11 ∼12 が高等学校に相当するものです。学校の時間は、小学 1,2 年は 12 時までで、その後 高学年になるに従って時間は長くなっていきます。最高学年で 2 時までです。私立学校を 除き、小学校から大学まで無償教育が 1945 年から実施されています。このようにスリラン カの教育制度は優れたもので、発展途上国では珍しくスリランカの識字率は 90%近くまで 達成しています。しかし、実際には学費以外の出費も多く、経済的困難から学校に通えな い子供も多くいるのが現状です。義務教育もその全てを受けることなく、途中で通えなく なる子供がたくさんいます。ですから、子供を大学まで通わすことの出来る家庭はかなり のお金持ちということです。そして、大学まで通うことのできる子供も少ないので、大学 に行けるような人はかなりのエリートになれるのです。 8 月9日 ツアーに出発。最初の訪問地はスリランカ中部の古都キャンディ。この時期キャンディ ではペラヘラというスリランカ最大のお祭りが行われていました。普段はこぢんまりとし て落ち着きのある街も、この日は外国人、スリランカ人でごった返していました。 15 7−4.Kandy Kandy について 7−4. 聖都キャンディは世界遺産で、セイロンティーの郷土でもある丘陵地帯にあります。そ して、コロンボの次に最も発展している都市です。スリランカの中央部一帯は 1,000mを越 す山々が連なっています。熱帯にありながらこの地域の気候は温暖です。また、豊富な水 資源にも恵まれ、イギリス植民地時代には紅茶のプランテーションが作られました。 キャンディはスリランカ王朝の最後の都でもありました。この町の最大の呼び物は 17 世 紀に建立された「仏歯寺」です。当時の歴代の王は、国の宝であるブッタの歯を所有する ことでその正当性を誇示しました。現在ブッタの歯は仏歯寺に大切に保管されています。 このお寺を中心に行われる、「ペラヘラ祭」はとても有名です。町を歩くとかつての植民地 時代を感じさせるヨーロッパ風建築物を多く見ることが出来ます。 *仏歯寺* このお寺はスリランカを代表する仏教寺院で、ここを訪れずにしてスリランカは語れま せん。寺院内に奉納されている仏歯のほかにも多くのブッタの絵(アヌラーダプラのイス ルムニア精舎のようなもの)もありました。仏歯は、紀元前 543 年にインドでブッタを火 葬した際にその中からやっと手に入れたものだといわれています。その後 4 世紀にインド のオリッサ州カリンガの王子が頭髪の中に隠してスリランカに持ち込み、アヌラーダプラ に奉納しました。その後仏歯は遷都するたびに場所を移動させてきました。そして現在は 仏歯寺に奉納されています。 私たちがキャンディを訪れたとき、大きな牙を持った一頭の像と一緒に写真を撮りまし た。(ルピーを払わされましたが。 )境内に入るには、靴を脱ぎ、チェックを受けなければ なりません。また、境内では膝を見せてはいけないそうです。そして、それぞれ花を一輪 ずつ頂き、仏歯の前に供えました。境内には多くのスリランカの仏教徒がいて、みなで一 心に祈りをささげていました。また、境内の奥には像の剥製が置いてある博物館があり、 その像が剥製になるまでの物語が記述してありました。 *キャンディ湖* キャンディ湖は街の中心にある人工の湖です。この湖はシンハラ王朝最後の王となった スリー・ウィクラマ・ラジャシンハによって 12 年の年月をかけて造られました。湖の中央 に浮かぶ小島は、当時は王室のハーレムになっていて、王宮とトンネルでつながっていた といわれています。ペラヘラ祭を見に行くときに乗った、スリーウィラー(三輪タクシー) からの湖の眺めは最高で、みんなで発叫しました。 7−5.ペラヘラ祭 ペラヘラ祭とは、キャンディという場所で7∼8月に毎年行われているお祭りである。 スリランカ一大きいお祭りで、約一週間行われる。キャンディには仏蛇の左の糸切り歯で ある仏歯を祭る仏歯寺があり、毎年ペラヘラ祭では、仏歯を入れた舎利容器を載せた象が 16 市内をねり歩く華麗な行事が行われ、数多くの踊りや見世物などもこれに続いて、最後に は100頭もの象の行列となり、観光客の呼び物となっている。このことから、ペラヘラ 祭を見ると歯が丈夫になるといわれている。踊り子は、子供から大人まで幅広い年齢層で、 みんな炎を上手に操りまるでサーカスを見ているようであった。象は全身を電飾が施され た鮮やかな布で覆われ、青、赤、黄色と夜の街を彩っていた。およそ4時間に及ぶ大行進 である。 ペラヘラで一番驚かされたのは、スリランカのあちこちから訪れてきた人の多さである。 行列が通る通り沿いは隙間なく人で埋め尽くされていて、前へ進むことができなかった。 そして一定時間を過ぎると各入り口が封鎖され、ペラヘラ祭を見ることができなくなって しまうので要注意!!中に入れても人の押し合いで、落ち着いてみることは難しい。値段 は高いが、2000ルピー程払えば席を予約することもできる。通り沿いで見る場合、チ カンには十分な注意が必要である。年に一度のお祭りでお酒を飲んでいる人も多く、特に 日本人女性は危険性が高い。私たちの中にも被害者続出であった。 とにもかくにも、ペラヘラ祭はたいへん素晴らしいものであるので、ある程度の覚悟を もって、一度見に行ってみるとよい。 7−6.スリランカの宗教 スリランカの宗教別人口比は、仏教徒が 69%で約 3 分の 2、ヒンドゥー教徒が 15%で約 6 分の 1 を占め、イスラム教徒が 8%、キリスト教徒が 8%とほぼ同じです。民族構成との 関係は、仏教徒がシンハラ人、ヒンドゥー教徒はタミル人がほとんどで、イスラム教徒は ムーアと呼ばれ、一部はマレー人です。キリスト教徒は西欧人と地元人との混血であるバ ーガーが中心だったが、一部にシンハラ人とタミル人を含んでいます。 スリランカの仏教は上座部(テーラワーダ)に属しています。同じ南伝の上座部仏教を 信仰している東南アジアの仏教国であるタイ(94%) 、ミャンマー(85%)に次いで、スリ ランカは国内における人口比率の高い国です。スリランカの仏教は、出家を前提として自 己の救済を希求するという個人主義的性格を持ち、出家をしない一般の世俗者は出家して 修行を積んだ僧侶に対して功徳を積みます。僧侶はまさにエリート的存在で、それぞれの 地域でかなりの力を持っています。私たちのホームステイしたアヌラダープラの村も、シ ンハラ人で仏教を信仰している村だったので、村の中心には寺があり、そこの僧侶が村で 決められる全てのことの決定権を持っているとのことでした。何かの式典の時にも、例え ば、僧侶の座る椅子にだけはきれいな布が掛けてあり、僧侶は特別な存在でした。月に 4 回あるポヤ(上弦、満月、下弦、新月)の日には 5 戒に 3 つの戒を付け加えて 8 戒を守り、 敬虔に過ごします。特に満月の日が重視され、寺院に参拝し、僧侶の説教を聴いて功徳を 積みます。私たちが村にいるときにちょうどその満月の日があたり、私たちもそれを体験 することが出来ました。 寺の近くに大きな菩提樹が 8 角形に囲まれたものがあるのですが、 僧侶に続いてその菩提樹を「サードゥ、サードゥ・・・」と言いながら回り、寺院を参拝 17 し、そして僧侶の説教を復唱しました。2,3 歳の小さな子供までがその説教を暗唱出来てい ることにとても驚き、人々の信仰深さを実感しました。菩提樹の 8 角形というのは、仏教 上とても重要な意味を持つ 8 正道からきたものですが、8 正道とは、正精進、正念、正見、 正思、正語、正定、正業、正命のことで、つまりは、「譲り合い、分かち合うこと」、 「自分 で考え、自分で実行すること」ということです。これは、サルボダヤの理念にもあたり、 サルボダヤの建物も 8 角形でした。 ヒンドゥー教は、紀元前かたこの地に移住してきたタミル人を中心に信仰されています。 ドラビタ系の南インドのヒンドゥー教に属し、神々は現実に神殿に常在し、現世での願い 事に答えると考えられています。 イスラム教はアラビアの商人によって伝えられました。イスラム教徒は町中で商人とし て多く活躍しています。布店、宝石店などその多くはイスラム教徒の経営する店です。そ のため、人口比は少ないのですが、町中でイスラム教徒をよく見かけました。彼らは教え にとても忠実なので、店でも決して高額で売りつけたり、嘘をついたりはしません。また、 とても勤勉でもあるので、そのためか、金持ちにはイスラム教徒が多いようです。高級デ パートに買い物しに来る人も、その多くはイスラム教徒でした。 キリスト教徒はその 9 割がカトリックです。英語を母語とする人もいるために、社会の エリートとして活躍しています。そのため、都市部に住む傾向があるのか、地方の村より も街中に教会やキリスト像があるところをよく見かけました。 7−7.ホームスティ 8 月 10∼ 10∼15 日 ホームスティしての井戸建設は、今回のツアーのメイン・イベントです。 今回滞在した村は、コロンボから北東に車で 8 時間ほど行ったところにあるアヌラーダ プラというディストリクト(県のようなもの)にあるディヤマイラガッサウェワという村 です。紀元前500年ごろアヌラーダプラはスリランカの最古の王朝があったところです。 このころの王朝はとても高度な文明を持っていたため、灌漑施設や上下水道が造られてい たといわれています。そして今も残っているそうです。この地は南インドからの侵入者と の抗争の繰り返しの末、約1400年間で幕を閉じたといいます。文化三角地帯のひとつ であるアヌラーダプラは遺跡でとても有名なところです。他には、ミヒンタレー・ポロン ナルワ・ハバラナ・シーギリヤなどがあります。スリランカの遺跡の中で、ダーガバはと ても印象深い建築構造をしていて、Water-bubble shape(水泡型)という形と、Bell shape(釣 鐘型)の2種類が主流なようでした。アヌラーダプラで私達は遺跡を見に行き観光地と呼ば れるようなところには行かず、村でホームステイをしていたので、いまいちどんなことが 有名なのかは分からなかったです。しかし、ダーガバのような寺院の形をした建物は移動 中の車内からでも見ることが出来ましたし、とても素晴らしかったです。 18 ホームスティの村「ディヤマイラガッサウェワ」の情報 (アヌラダプラ、カハタガリヒリヤ、ディアマイラガッスウェワ村) 基本情報 戸数・・・150 戸 世帯数・・・200 世帯 人口・・・725 人 職業構成 農業(稲作、小作人)・・230 人 その他(教員、警官、工場等)・・28 人 大学生・・4 人 村の歴史 1920 年に 5 世帯の家族が移住してきたことからこの村の歴史は始まる。彼らは当時 クルネーガラ(コロンボ北東部)のマルポネワ村に住んでいたが、野生生物の被害が 甚大であったため、この村に移住してきたそうです。 ディヤマイラガッサウェワという村の名前は、当時村にはディヤマイラツリーとい うラム科の植物が沢山あり、また、村の真ん中に大きな湖(湖のことをシンハラ語で ウェワと呼ぶ)があるためにつけられました。湖は現在でも農業用水や、シャワー、 洗濯等に使われており、この村にとってなければならないものです。 当時彼らは協力して手付かづだったジャングルを切り開き、農業や蜂蜜収集のほか にも狩などをして生計を立てていたそうです。 その後、1953 年に小学校が建設されました。これにより、今まで教育を受ける機会 がなかった子供たちに、教育を受ける機会が提供されました。その当時、先生たちは 給料をもらわず、また村人たちは子供たちのために食事を提供したそうです。現在、 サルボダヤの幼稚園も建設中であり、状況は良くなりつつあります。 この村に井戸を作った理由 地域の問題 ・アヌラダプラには海外からの大きな援助がない。 貯水池の問題 ・農村地区の村であるため農業用井戸が必要。 ・貯水池の水が乾季になると減ってしまう。 ・貯水池は生活用水(水浴び、洗濯等)に使われ、また、牛の糞害の ために水質が悪化している。実際、貯水池で洗濯すると、服が茶色 になってしまいました。 ・貯水池までの距離が遠い。 ・村の僧侶のリーダーシップが強いので村の組織力も強い。 19 新たな入植者の水資源の確保 ・この村には井戸がたくさんあり、一見すると水資源は足りているよ うに見えます。しかし、5 年ほど前から移住してきた人たちは、ま だ生活基盤が整ってないため、周辺に井戸などの水資源がありませ ん。そのため、彼らは毎日寺の井戸まで 20 分かけて何往復もしな ければならなりません。さらに、この周辺は夜に毒蛇が出るため大 変危険。夜は村人が巡回していました。 その他 ・セメントは一袋 450Rs と高いので、貧しい家は土壁のまま ・ティータイム…朝起きたとき、10 時、3 時の一日 3 回 ・皆きれい好きで、暇さえあればあちこちほうきで掃いていた ・学校に行く子と行かない子がいた ・村の中でも貧富の差が大きい(電気、家のつくりなど) ・公務員の人がいる世帯は金持ち(上流階級) 8 月10日 朝、仏歯寺を見学し、昼過ぎにホームスティする村ディヤマイラガッサウェワ到着。予 定時間をかなり遅れてしまったのに、たくさんの村人達が迎えてくれました。この日、な んと 3 ヶ月ぶりに雨が降りました。何か不思議な因果を感じました。いよいよホームステ ィの始まりです。 8 月11日 午前中は村人たちと一緒に早速井戸作りをしました。今回は村の男性が 5 人ずつ交代で 仕事を休んで、作業に加わることになりました。その後、各家で昼食をとり、湖(シンハ ラ語でウェワ)で水浴びと選択をしました。現在、湖の水は水浴びや洗濯のほかに、農業 用水として利用されています。この湖は、おそらく都があった時代に造られたものだと思 いますが、村人もその詳細については知らないようでした。しかし、この湖が曲者で、洗 剤や牛の糞などでかなり汚い。さらに、子供たちが騒ぐことで底のヘドロも巻き上げられ、 水質はさらに悪化してしまいます。湖で洗った洋服の色が茶色に変色してしまうほどでし た。スリランカでは、学校の制服が白のワイシャツに男の子は白のズボン、女の子は白の スカートなのですが、みんな本当に真っ白で綺麗な制服を着ています。この村でも、子供 たちの着ている制服は真っ白でした。よくこんな汚い水であんなに真っ白になるなあと、 感心しました。日本のクリーニング屋もびっくりです。 この日は、スリランカの仏教徒にとって一年で一番重要な日でした。スリランカでは毎 月満月の日をポヤ・デーといい、この日は各地でお祭りが開かれます(詳しくは、本文「ス 20 リランカの宗教」参照) 。そして、8 月のポヤ・デーはその中でももっとも重要な日なので す。この村でも、お寺にみんなで集まり、菩提樹の周りを「サードュー、サードュー」と 言いながら回った後、お坊さんの講義を聞きました。そのあと、なんとこの地域では珍し いスコールが。みんなで避難し、そこで急遽文化交流をやることになりました。何にも考 えてなかったので、とりあえずマイム・マイムをやったりして、みんなで騒ぎました。村 人との関係が深まったようでとてもうれしかったです。 8月12日 今日も朝から昼過ぎまで井戸作りです。井戸の掘削が終わり、その周りをレンガで囲む 作業をしました。どうにか最終日までには完成しそうなめどが立ってきました。スリラン カのレンガはなぜかとてももろい。落とすとすぐ割れてしまいます。否、時々持ち上げた だけで割れてしまいます。スリランカの建物は大体レンガや土で出来ていて、その上から セメントを塗ったものです。ちなみに屋根はトタンがほとんどです。外壁をセメントで塗 り固めているため、一見すると結構綺麗な家に見えます。しかし、たとえばかぐか何かで 壁を傷つけてしまうと、中からなにやら赤くて目の粗い砂がぼろぼろと出てきます。ビル もこの建て方です。いくらセメントで固めているとはいえ、かなり心配です(セメントも 砂とセメントの割合が7:3といった非常に粗悪なもの)。地震が起きたらスリランカのほ とんどの家が崩れてしまうでしょう(スリランカでは、地震はあまり起きません)。 8月13日 一日中作業をしました。ラストスパートです。周りにはレンガが組まれ、滑車が届き、 湧き水の量もだんだん増えてきました。着実に井戸は完成に近づいています。おととい、 昨日、今日と、村人たちは日が暮れるまで働いていました。ここの村の人はみな勤勉で、 子供たちもすごくよく働きます。 8月14日 午前中に大体井戸が完成!!後はセメントが乾くのを待って、プレートを取り付けるだ けです。午後からは、日本食を作って村人たちと交流会をしました。 日本食メニューランキング:スリランカ人の味覚 第1位:お好み焼き(ソース味)第2位:団子(甘いからね∼) 以下、豚汁、グラタン、そば、五目ちらしの順でした。 そして夜は村人たちがキャンプファイヤーをやってくれました。村人たちはスリランカ の歌や踊りを披露してくれました。私たちは「線路は続くよ」を歌いながら踊ったり、「ア ルプス一万尺」などを披露しました。この日は、キャンプファイヤーの火が完全に灰にな ってしまっても続きました。子供たちも深夜まで元気いっぱいで、スリランカ人は本当に タフだと改めて思いました。 21 8月15日 井戸の完成式の日であると同時に、お別れの日でもあります。朝から何か前日とは違う 空気がみんなを覆っているのがわかります。うれしさと寂しさが私の心の中で交錯してい ました。 朝8時に完成式が始まりました。この日は、サルボダヤスタッフのスミスさんや、OWOPの 鈴木会長、スリランカで長期ボランティアをしている佐々木さんも参加してくれました。 完成式の様式は村によって結構ばらばらで、完成式に参加するたびに新しい経験をします。 この村ではまずはじめに、井戸を支援してくれた人(つまり私たち)が花を井戸の中に撒 きます。次に、ロウソクに火をつけそれを井戸のふちに立てかけます。そして、井戸の水 をくみ上げメモリアルツリーに与えます。このような一連の様式は、宗教とその村の文化 が混ざり合って形成されたもののようです。タミル人村の完成式に参加したときは、シン ハラ人のそれとは様式がかなり異なっていました。 いよいよお別れのときがやってきました。最後に、村人のほとんど全員が集まってくれ て、お別れ会をしてくれました。メンバーそれぞれ今回の経験を発表しました。もう最後 のほうは、自然と涙があふれ出てきて、言葉になりませんでした。ただ、お互い抱き合い 「ボホーマ・イストューティ(シンハ語でありがとうという意味)」をいうことしか出来 ませんでした。最後に、今回の旅のテーマ曲『世界に一つだけの花』を歌いました。長い ようで短かった6日間の思い出が走馬灯のごとく駆け抜けます。全く英語が通じず、また文 化が違うことで時には大きなストレスを感じることもありました。さらに、今回は一人ず つ格家にホームスティしたので、メンバーは肉体的、精神的に相当疲れたと思います。し かし、それ以上に今回の経験がメンバー一人一人に与えた影響は計り知れないと思います。 涙で揺れている皆の瞳はとても綺麗に輝いていました。 22 7−8.井戸が出来るまで 井戸がどのように完成していくかを、図解しながら簡単にまとめて見ました。 作業 1 日目 穴が深くなるにつれて大きな石 も混ざってきて運び出すのが大 変でした。 作業 2 日目 底から 2 メートル位のところに人 が立てる程度の足場を作ります。 石をヒモで縛り付け、上から穴 のほぼ中央に垂らします。 これは穴の中央を定まるため です。 23 足場の高さが同じになるように 掘りながら調節します。 高さが違うところはセメントをの せて高さを同じにします。 ここはそんなに精密にするの ではなく大体と言う感じでした。 足場となる木の棒と板を置き、そ の上に乗って作業を進めます。 石をヒモで縛り付け、上から穴 のほぼ中央に垂らします。 これは穴の中央を定まるため です。 の棒を使って同じ幅になる ように積み上げていきます。 この時使うセメントにはセメント の 6 倍の砂が混ぜられます。 セメントは材料の中では値段が 高いからです。 砂はふるいにかけられたものを 使います。 24 人の胸ぐらいの高さになるまで 積み上げます。 私達もレンガ積みに挑戦しました。 レンガとレンガの隙間にセメントを 詰めていくのがなかなか難しい! 作業 3 日目 レンガの脇を土で埋めていきます。 そしてまた、足場となる木の棒と 板を敷き、その上にレンガを積み 上げていきます。 人の肩の高さぐらいまで積み上げ ていきます。肩の高さぐらいまで 届いたら井戸の内側の表面をセメ ントで塗り固めていきます。 外側はサイドを土で埋めてしまうの で、土から出ているところだけ塗 ります。 25 レンガを人の肩の高さまで積み上 げていきます。内側と、外がわの土 から出ているところの表面をセメン トで塗り固めていきます。 完成間近かです!! 井戸のバケツを吊る棒を支える部 分をレンガで積み上げた後、棒を 固定させます。 井戸の表面が滑らかぬなるように セメントを塗ります。この時、セメン とは砂を混ぜない 100%のセメントを 使いました。 作業 4 日目 石をヒモで縛り付け、上から穴 のほぼ中央に垂らします。 これは穴の中央を定まるため です。 セメントをかぶせます。 一番下の足場となった棒を残し、残り は抜き取りました。抜き取った穴の一 方はセメントを詰め、もう一方には板 差込み、階段を作ります。 26 完成式当日 バケツを吊るし、井戸の完成です!! 井戸の完成式にて 今日、井戸の完成式を無事迎えることが出来て大変嬉しく思います。子供から女性まで、 村人全員で協力してこの井戸は作られました。 この井戸の名前「源(いずみ)」は、‘the seed of give and given’と言う意味です。私た ちは井戸の資金を出しましたが、私たちとあなたたちとの関係は、支援者と被支援者とい う関係ではなく、お互いトナーとしての関係です。なぜなら、あなた達やサルボダヤのサ ポートなしにはこの村で生活できなかったし、井戸を作る事もできないからです。また、 私たちはこの村に滞在してとても大切なことを学びました。それは協力する事の大切さで す。日本では、特に新しい街や都市部では、隣人のことをあまり知りません。名前すら知 らないこともあります。それとは対照的に、この村では皆が協力して一つの井戸を完成さ せる事が出来ました。皆で協力すれば、井戸だけでなくコミュニティー全体を良くするこ とが出来ます。また、不平等な権利から独立する事も出来るのです。 この井戸は、日本とスリランカとの架け橋です。この井戸を使うたびに、私たちのこと を思い出してくれればうれしいです。これからも、コミュニティーのため、スリランカの ため、そして世界のために頑張ってください。私たちは応援しています。ありがとうござ いました。 27 8 月 16 日 この日は休息日。サルボダヤ本部で散歩したり、メディテーションセンターに行ったり と、各自自由に過ごしました。 8 月 17 日 この日は、ツアーの折り返し地点でした。 新たなメンバーが到着!高市脩也君、蔭山智之君です。なんと1時半に到着!迎えに行 った米澤、スミスさんはかなり眠かったです。 二人とは日本でもメール等で連絡は取っていましたが、蔭山君とは日本で一回会っただ けで、高市君とは初対面でした。第一印象は、「二人ともでかくて、無口だなー」という感 じです。ただ、この第一印象はすぐに覆されましたが。 またこの日は、今まで一緒に参加していた左右木さんとのお別れの日でもありました。 左右木さんは日本で知り合ったスリランカ人の友人のところに旅立って行きました。 8 月 18 日 高市、蔭山、米澤でサルボダヤ本部見学。一通り回った後、孤児院へ。二人もやはり孤 児院の虜に。それぞれお気に入りの赤ちゃんの前に付きっ切りで、話しかけたり、顔に触 ったり、一緒に遊んだりしました。 8 月 19 日 朝8時に出発。アンパーラに着いた時には6時を回っていました。しかも、泊まる予定 だったホテルがつぶれていた!急遽ホテルを探すことに。泊まったホテルはトラックの運 転手など、スリランカ人の客でいっぱいでした。意外にも外国人(自分たちもそうですが) も何組か泊まっていました。また UNICEF の人も泊まっていました。 また、今回のツアーで一番のトラブル発生!明日行く予定のアルガム・ベイへ続く唯一 の道路で、LTTE(タミル・イーラム・解放の虎、ゲリラ)がムスリムの車を襲撃する事件 が発生し、道路が封鎖されたという情報が。急遽スミスさんに連絡し、明日の状況で今後 の日程を決めることになりました。不安な夜を過ごしました。 8 月20日 朝 6 時、スミスさんに電話をしたら、大丈夫との事。これで一安心。夜遅くまでスミス さんがサルボダヤのディストリクトセンターをはじめ警察、軍隊にまで連絡してくれまし た。スミスさんには大変お世話になりました。 アンパーラの再定住村に行く前に、サルボダヤと CARE(アメリカに本部を置く NGO。 日本にも事務所を持っています)が協力して行っている村の自立プロジェクトを見学。そ こで一緒に昼食をとりました。メンバーにとっては初めてのタミル料理体験です。日本人 にとってはタミル料理のほうがシンハラ料理よりも受け入れやすかったようです。 28 再定住村訪問後、アルガム・ベイへ。政府と LTTE との緩衝地帯の荒涼とした大地の先 に突然、空と見まがうほどの真っ青な海が姿を現した。緩衝地帯で見る風景に憂鬱になっ ていた気持ちが、少しだけ軽くなりました。この日は浜辺のホテル「TSUNAMI」に泊ま りました。なんと松が植えてあって元気は無かったのですが、何か懐かしい気分になりま した。ホテルはほとんどドイツなどから来たヨーロッパ人でした。彼らは「TSUNAMI」 の意味を知っているのでしょうか? 夜は浜辺で横になって、満天の星空を眺めながらみんなでいろいろなことを語り合いま した。 7−9.アンパーラの再定住村 アンパーラはスリランカの東部にあって、きれいな海を持つディストリクトです。タミ ル人が多く住み、紛争中は政府軍と LTTE との間で激しい戦闘が行われたところです。今 回訪れた再定住村は、ツアーでお世話になったNGOの OWOP がこの村に井戸と幼稚園の 建設支援を行っており、私も去年訪れた村です。 この村は、政府の支援を受けて約10年前に作られた村です。現在約 100 世帯が暮らし ています。政府からは区画化された土地が与えられただけで、他には何も支援を受けてい ないそうで、貧しい生活を送っていました。浜辺のため土地が悪く農業に適さないため、 多くの住人は漁業や、出稼ぎで生計を立てています。開村してから 10 年経つにもかかわら ず、電気は引かれておらず未だにほとんどの家は椰子で出来た粗末な家にすんでいました。 椰子で出来た家は大変もろいため、1 年に一回は張替えが必要なのだそうです。しかし、何 処からの支援かは分かりませんでしたが、各家庭に直径 1 メートルほどの井戸がありまし た。海の近くなのに塩気はなく、とてもおいしい水でした。中で魚を飼っていました。水 質を保護するためでしょうか。 OWOPが支援した幼稚園に通う子供は現在30人ですが、実際にはもっとたくさんの 子供がいました。幼稚園に通う児童が少ないのは、一つに幼稚園に通うには毎月ほんの少 額ですが学費を払わなくてはいけないこと。また、子供が労働力として使われていること が原因だと思います。 しかし、この村にも他のスリランカの村と同様に子供たちの満面の笑顔がありました。 否、他よりもすごく元気でした。私たちは限られた時間の中で彼らと一生懸命遊びました。 私たちは子供のために文房具やミルクを寄付したが、彼らと遊ぶことが唯一今の私たちに 出来ることだと思いました。彼らは貧しいながらも10年という村の歴史の中で彼らなり の文化、社会を築いていました。村長的な人もいましたし、村自体はよく統治されている 感じを受けました。確かに、外からの支援は彼らの新たな文化の形成に大きく貢献しまし た。しかし、あまりにも干渉しすぎることは彼らの文化を破壊してしまう恐れがあると思 いました。実際、私たちは幼稚園に通う子供たちを対象に文房具とミルクを寄付しました が、そこに普段幼稚園に通っていない子供たちの親がやってきて、うちの子にもくれるよ 29 うサルボダヤのスタッフに言い寄る場面がありました。中途半端な支援はかえって村の状 況を悪化させてしまう可能性があります。同じ事は、一般的な村や、また難民キャンプを 支援する場合にもいえることだと思います。 19年間の紛争で 100 万とも150万とも言われる人達が家を失いました。彼らはあた らしい環境の中で、しかも厳しい生活の中で新たにコミュニティーを作り、自立していか なければなりません。今回再定住村を訪れて、このことの難しさを実感したと同時に、あ まりに悲観的に見すぎていた自分に気付きました。 7−10.スリランカと紛争 7−10.スリランカと紛争 かつてマルコポーロはスリランカを「世界で一番美しい国だ」と言いました。 「世界で最 も美しい国」に世界でもっとも汚い「戦争」が存在することは、大変皮肉なことです。「世 界で最も美しい国」にも「戦争」が存在するという現実が、今の世界の状況を端的に表し ているのかもしれません。だから、本章のタイトルを「スリランカの紛争」とはせずに、 「ス リランカと紛争」としたのです。スリランカで起きた紛争は、まさに現代の縮図だといっ ても過言ではありません。スリランカでおきている紛争は、単にスリランカだけの問題で はなく、世界のさまざまな情勢が重なって起きていることを、私たちは認識しなければな りません。 まず初めにスリランカにおける紛争の概要を民族関係(シンハラ人とタミル人だけでは ない)に注目して、年表形式でまとめたいと思います。 スリランカの歴史は主に 3 つの世代に分けられます。植民地以前、植民地時代、そして独 立後です。 第一に植民地時代前の民族関係について。植民地前の歴史や、文化を見てみると、シンハ ラ人とタミル人の関係は非常に多様であったと考えられます。今日でもシンハラ語、タミ ル語との間には共通語や、類義語が多いです。史実をひも解くと、紀元前3世紀にはすで に、南インドや、地中海地域との交易が行われていました。スリランカはヨーロッパとア ジアを結ぶ大変立地に恵まれた土地柄であったため。古くから外国との交流があったと考 えられます。国内では、シンハラ人とタミル人は今のような区別ではなく(ただ、言語の 違う集団としての区別) 、また、宗教間の争いもそれほどなかったようです。実際、当時は タミル仏教徒やシンハラヒンズー教徒もおり、仏教、ヒンズー教、イスラム教の聖地であ るカタラガマが紀元前200年にはあったというところから、その事が読み取れます。最 後の王都キャンディには、異教徒も居住し、また、国内外の輸送業を担ったのはムスリム でした。 第二に植民地時代の民族関係について。スリランカは16世紀のポルトガル、オランダ、 イギリスの植民地でした。1948年に独立を果たすまでの約400年にわたってスリラ ンカは植民地だったのです。特に19世紀のイギリスによる殖民地時代は両者の関係の転 換期になりました。植民地時代、スリランカは投資の対象として注目されました。193 30 0年代には山岳地帯にコーヒープランテーションがひらかれ、その労働力として南インド から多数のタミル人が連れてこられました。このスリランカ第3の民族インド・タミル人 は最近まで市民権がなく、無国籍状態の中厳しい生活を強いられてきました。これらの経 済発展に伴って、キリスト教教育を受けた新興エリートや都市労働者階級が誕生しました。 また、民族を分けて統治する分割統治が民族のアイデンティティの形成を促し、イギリス 支配主義への反抗運動と合間って、ナショナリズムが高まっていきました。 1860年代からは、その動きは都市部のエリートたちによる仏教復興運動というかた ちで進められました。この運動の矛先はイギリスのみならず、タミル人ヒンズー教徒やム スリム、シンハラ人キリスト教徒にまで向けられ、民族紛争の火種になりました。これに 伴い、シンハラ人のみならず、タミル人やムスリムも伝統的宗教の復興運動を行いました。 余談ですが1931年にアジアで最初の普通選挙が行われました。 第三に独立後の民族関係について。1948年には自治領としての独立が認められまし た。しかし、独立に当たりスリランカナショナリズムが形成されたわけではなく、シンハ ラ・ナショナリズム、タミル・ナショナリズムが形成されました。イギリスから国内の他 民族との争いに変わってしまったのです。 1956年、バンダーラナーヤカ政権の、シンハラ語の公用語化などの民族主義政策に より、シンハラ、タミルの対立関係は決定的なものとなりました。タミル人はこの政策に 対抗する形で連邦党を結成し、連邦制の下での北東部の自治を要求しました。 1958 年には、焼き討ちや暗殺が横行しました。激しい抗議の結果、タミル語も公用語と して認める法案が可決されましたが、その結果バンダーラナーヤカは僧侶によって暗殺さ れてしまいます。 1972 年南インドと組織的連絡をとりながら武装闘争によって独立を達成しようとするタ ミル若年層の運動組織、タミルの新しい虎が結成されます。後のタミル・イーラム解放の 虎(LTTE)の誕生です。LTTE はマルクス・レーニン主義をテーゼに民族闘争と階級闘争 とを結合しながら、タミルの独立と社会主義革命の実現を目指している団体です。LTTE は、 シンハラ人のみならず、シンハラに加担するタミル人や LTTE に協力しないタミル人をも 虐殺してきました。この活動は、1978 年にシンハラ人優遇の憲法が成立したことを受けて さらに激しくなり、北部を中心にテロとその報復の間の連鎖が繰り返されました。この一 連の紛争の結果、6 万とも 10 万とも言われる犠牲者が発生し、100 万∼150 万もの国外、 国内難民が発生しました。9.11 のアメリカ同時多発テロで、LTTE の資金源が細った結果、 2002 年にノルウェーの仲介で停戦合意が結ばれ、2004 年現在政府と LTTE との間で和平 交渉が進められています。 スリランカの紛争の歴史を主にシンハラ人、タミル人の関係の変遷に焦点を絞り見てき ましたが、スリランカにおける紛争を考える際、民族問題以外にもいくつかの原因がある と考えます。それは、第一に植民地政策が作り出した低地、都市部のエリートや、インド・ タミルという新しい階級。第二に貧困による閉塞感。第三に宗教がナショナリズムの手段 31 として利用されていることです。これらの原因はそれぞれ独立したものではなく、この3 つは互いに絡み合っているのです。 今回の停戦合意によって今後スリランカに平和が訪れるのかどうかという質問に、スリ ランカ北部でタミル人が多く住んでいるジャフナの人々の60%がそう思う、そうは思わ ないと答えた人は40%いました。この結果について私は将来に希望が持てる結果だと考 えています。平和への期待を裏切らず、平和を構築するには NGO の活動が更に重要になっ てくると思います。 8 月 21 日 この日は、今回のツアーの唯一ともいえる観光日でした。6 時に起床して日の出を見まし た。みんなで約束していたのに、米澤と蔭山しか起きませんでした。ビーチフラッグやバ レーボール、波乗りなどをして遊んだ後、昼過ぎに出発しました。 7−11.Ampara,Arugam 7−11.Ampara,Arugam Bay(アンパーラ、アルガム・ベイ) Bay(アンパーラ、アルガム・ベイ) スリランカ東部にあるこの地域はタミル人が住んでいます。とても綺麗な海があり、ま た、コロンボを始めとする東部海岸とビーチシーズンがずれているため、一大観光地とし てホテルなどの建設が行われる予定でした。しかし、紛争中はこの地も戦場になり、その プロジェクトは止まってしまいました。無期限停戦協定が結ばれた後は、徐々に観光地と して整備が進んできているというところでしょうか。日本ではほとんど紹介されて無い場 所なので、未知の場所でした。ただ、ドイツなどヨーロッパからの観光客は結構いました。 スリランカはヨーロッパでは結構有名なリゾート地です。 8 月 22 日 キャンディを朝8時に出発。お昼過ぎにコィヤピティヤ(クルネーガラ地区)到着。こ の地はサルボダヤの発祥の地として有名です。今年はサルボダヤ創立 45 周と重なり、その 記念行事の一環としてここサルボダヤ発祥の地でシュラマダーナキャンプが行われ、幸運 なことに私たちもそのキャンプに参加することが出来ました。到着が遅れてしまったため、 1 時間しかシュラマダーナに参加できませんでした。その後、みんなで一緒に昼食をとりま した。現地で知り会った獨協大学の城さんや、サルボダヤ本部で普段シュラマダーナに参 加する機会が無いスタッフも参加していました。 また、クルネーガラは一時期王都があったところなので、遺跡見学をしました。そこで、 スミスさんが生年月日を使った占いをやってくれました。 32 7−12.サルボダヤ始まり物語 大河の流れも一滴の水から始まる。1958年、高き理想を胸に秘めた若きひとりの教 師がここカナトルワ村の地に立っていた。当時名門ナーランダ高校の理科教師だった、サ ルボダヤの創始者である Dr A.T.アリヤラトネが、夏休みを利用して仲間の若い教師と学生 を連れ、ここコリヤピティヤで 2 週間のホームステイを行ったのだ。この一教師の行動が アジア最大の NGO サルボダヤの始まりだ。当時スリランカではカーストの影響が色濃く残 っていた。カナトルワ村はカーストの低い人達が住む村だった。そのため、職につけず、 また子供たちも学校に通うことが出来なかった。そのため、当時の村は椰子の葉で出来た 家に住み、また、何年かごとに移動しなければならなかった。そこで、その状況を知った アリヤラトネがそこで井戸を掘ったり、便所の建設などを行った。 当時スリランカでは都市部(特にコロンボ)のエリートと農村部にすむ村人が関わるこ とはほとんどなかった。カーストが低い村と交流をもつことはまったくなかった。194 9年にイギリスから独立したスリランカの高等教育は旧宗主国をモデルにしていた。都会 の高校生にとって休日や休暇の最大の関心事はクリケットの対抗試合だった。そのことか らしてこの行動が当時社会に与えた影響は大きかった。アリヤラトネ氏はコロンボの上流 家庭の子供たちに、地方農村の実態を体験させ、労働奉仕を通してかれらを新生スリラン カの市民として育成することだった。 この当時としては驚きの行動は激しい反対と同時に、彼に協力する声もたくさんあがっ た。当時の首相バンダラナイケの夫人もカナトルワ村を訪れている。その後もアリヤラト ネ氏は自腹で活動を続けた。このような地道な活動が今のサルボダヤの源泉なのだ。 今この村はレンガの家がたち、子供たちの笑顔溢れるごく平均的な農村である。45年 前にこの村はどんな様子だったのか想像することすら出来ない。それほどサルボダヤは長 い歴史を持っていると実感した。 7−13.シュラマダーナについて 「シュラマダーナと」は、その村の人みんなで力を出し合って協力するということ。村 の人みんなで行うことによって、一人ひとりの意識を高めることが出来ます。 今回シュラマダーナをしに行った村では、かなり広い面積の貯水池のようなものを作っ ていました。規模が大きくなればなるほど、みんなが協力しあってやらなければならなり ません。この村でのこのシュラマダーナは、サルボダヤの 45 周年という大規模なイベント ということでした。スリランカの各地からたくさんの人が集まり、人種も違った様々な人々 が力を合わせ一つのことをやり遂げていました。人種の違いで紛争が 20 年間も続いていた このスリランカで、このような光景が見られることは、本当にすごいことだと思います。 日本ではこういった活動は今では私の身の回りに見ることは出来ません。ここに来て、あ 33 る地域に何かを作るということの原点を見ることが出来ました。今回は少ない時間ではあ るが、貯水池の計画に参加することが出来て良かったです。我々が参加することによって、 より一層村人のやる気を引き出せたのではないかと思います。途上国でのこのような計画 に参加できたことは、とても貴重であり、自分にとってプラスになりました。 7−14.スリランカと占星術 スリランカの文化的基盤と言えるものはいくつかあるが、占星術はその最も重要なもの の一つです。国の重要な行事や祝祭日の日時は占星術によって決められることが多く、ま た、個人の生活にも大きく関わっています。その日の運勢などが新聞などで掲載されるこ とは日本でもよくありますが、スリランカの人は何かに付けよく占いをしてもらい、占い 師のアドバイスよく聞きます。 スリランカでは子供が生まれると、たいてい占星術師に依頼し、子供の人生占星表(ハ ンダハナ)を作ってもらいます。占星術師はその子供の生年月日と時間における星の軌道 や位置によって、その子供の性格と将来の運命を占います。これは誕生時の「9惑星」(ナ ワ・グラハ)を用いて作られます。この9惑星のうち、土星の影響下にあるときはもっと も不運な時期にあたり、逆に金星は上昇期をもたらし金銭運も恋愛運も上昇するとされて います。また、日(太陽)は最高の時期とされるが、停滞期でもあるとされています。他 に、月、木星が吉、水星が中性で、そのほかの惑星は凶とされています。 占星表にはさらにその人がどんな人生を送り、いつ頃どういう不運や幸運やさらには、 死期まで書かれています。そしてなんと成長後の肉体的性質(はっきり言うと秘所のサイ ズ)まで記述されています。この占星表は大切に保管され、結婚の際の相性鑑定に使われ ます。 一方、日本でよく知られている占星術は、太陽の運行を用いた「黄道 12 宮(ホロスコー プ)ですが、スリランカでもこれは広く知られています。黄道 12 宮や月の運行を用いた9 惑星占星術はメソポタミヤを起源とし、インド、スリランカに伝えられたものだと考えら れています。占星術は太陽や月の軌道を用いるのと同じように、暦法にも太陽暦と太陰暦 の二つの形態が存在します。太陰暦は生産活動、祭礼、仏教行事などに用いられ、特に満 月の日は「ポヤ・デイ」といわれる仏教の祭日として国家的な休日にされていることから も、広く生活に浸透していることがわかります。 ある人の話で「占いはいいことしか信じない」という人がいました。なるほど、その通 りだと思います。日本人も結構占いを信じる人がいますが、何でもかんでも信じすぎるの は怖いと思います。程ほどにしましょう。 8 月 24 日 昼過ぎに出発、夕方にコロンボ到着。明日の午前 2 時!にメンバー、上野、岸元、奥州 スリランカ出発するので、コロンボで買い物をし、ビーチに面したレストランでお別れパ 34 ーティーをしました。シーフードを食べ(スリランカでは魚介類はほとんど食べない)、酒 を飲み、海に向かってみんなで吠えまくりました。なんか青春しているな∼と思って、本 当にみんなとスリランカに来れてよかったと思いました。この日で今回のツアーはひと段 落です。スリランカで大切なときを一緒に過ごした仲間との別れは、少しつらかったです。 8 月 25∼ 25∼28 日 この日から、高市、蔭山ホームスティ開始。 7−15.ケゴールホームステイ 8 月 25 日、この日からケゴールでのホームステイが始まりました。村に到着したのは夜 になってしまったが、大勢の人が歓迎してくれました。その後、ステイ先の家に行き夕飯 をご馳走になりました。たくさんの人が周りにいて誰がこの家の人か分かりませんでした。 この日は夜遅くまで子供たちと遊んで、たくさんコミュニケーションを取ることが出来ま した。夜が明け、やっと村の姿を見ることが出来ました。とても緑が多く、空気や水がき れいでコロンボとは対照的なところでした。自分が住むならこの村と言えるくらいいい村 でした。 この日からこの村でのシュラマダ―ナが始まりました。村の寺に井戸を作るという計画 でした。狭いところでの作業でなかなか思うようにはいきませんでしたが、みんなが楽し そうにやっていたので疲れませんでした。村の人たちみんなが一つのことに集中して取り 組むということはすごいことだと思います。またそこに加われたことが幸せです。 ケゴールにいる間、いつも子供たちがそばにいました。言葉がなかなか通じないときは 子供たちが何らかのかたちで通訳してくれました。この村で一番子供たちといる時間が多 く、たくさん言葉や遊びを教えてもらいました。ステイ先の家族構成は父、母、息子とそ の嫁さんです。 スリランカの思い出はたくさんありますが、やはりケゴールでのことが印象に強いです。 言葉は通じなかったが子供たちとコミュニケーションを取れたことが自分の中では何より 大きなことです。 35 8.感想文 米澤 克己 私にとって今回のスタディツアーは、去年のスリランカでの体験の再確認とこれからの 活動の指針になったと言う点で、非常に意義深いものとなりました。今回私は、スタディ ツアーの運営側に周り、メンバー集めから、日程作りなどスリランカ訪問前からさまざま な活動を行いました。今回の経験を通して学んだ事を全て書く事は出来ませんが、いくつ か特に印象に残った経験を書いてみたいと思います。 今回のツアーの目玉はなんと言っても、一週間のホームステイでした。サルボダヤも4 5年前の一週間のホームステイが始まりなので、サルボダヤの理念を理解するには格好の 機会だったと思います。村では毎日何人かの村人と一緒に井戸を作り、その後は子供達と 遊んだり、文化交流をしたりしました。この経験を通して、支援する事の自分にとっての 意味が見えてきたように思います。 私にとって支援する事は、ヘルプではなくサポートする事です。私は確かに井戸を作る 資金を提供しましたが、同時に村人達と一緒に生活して、沢山の事を学び助けられました。 例えば、自分のためでなく、サミティのために仕事を休んで働く人が日本に入るでしょう か。子供から大人まで皆で協力することはあるでしょうか。皆が歌える歌はあるでしょう か。村には、私たちが持っていない、否、忘れてしまっている事を沢山見つける事が出来 ました。 開発について考える場合、ともすれば私たちはシステムや目に見える結果ばかりに目を 取られる場合があります。確かに、開発の効率性を高めるためのシステムや、目に見える 結果を出す事は重要な事です。しかし、それでは NGO は営利企業と全く変わらなくなって しまうと思います。一つの井戸が完成するまでに、本当に沢山の人々のドラマが隠されて いるのです。開発を支援する事は実はとても人間臭くて、人間の本質的な部分であると思 うのです。だから、村人達は私たちを心から迎えてくれたし、別れ際には互いに抱き合い 涙を流す事が出来たのです。ただ井戸の資金を出しただけではここまでの経験は出来なか ったでしょう。 私たちが今回作った井戸の名前「源(いずみ)」にはこの思いが込められています。つま り、この井戸は私たちと村人達、それだけでなく、お世話になった人全ての結晶なのです。 そして、この井戸は新たな繋がりの「源(いずみ) 」になるのです。 今回のツアーは、私にとって非常に有意義なものになりました。今は大変満足していま す。来年は更に改善して自分を含めメンバーがもっと満足できるツアーにしたいと考えて います。まだ将来やりたい事は具体的には決まっていませんが、自分のやりたい事、でき 36 る事をどんどんやって行きたいと思います。大きな将来は、小さな将来のつみ重ねの結果 なのだから。 最後に、村で一週間近く滞在し、井戸を無事完成させる事が出来たのは、OWOP の長年 の実績とサルボダヤの組織力、村人達の協力があって初めて達成できたのだと思います。 今回のスタディツアーを企画してみて、OWOP とサルボダヤの大きさを改めて実感しまし た。また、一緒に汗を流してかけがえのない時間を共有したメンバーに心から感謝したい。 皆と考えや感想をシェアする事で、一人だったら見えてこなかった事が沢山ありました。 このメンバーに出会えて本当に良かったと思います。この経験が、今後の人生の道標にな ってくれればこれほど嬉しい事はありません。またいつか立派に成長したメモリアルツリ ーと子供達を見に行きましょう。 出会い 上野 友見 このスリランカで人のつながりというもののすごさ、大切さをとても実感できました。 人との偶然の出会いに始まり、そしてそこからまた多くの人に出会い人のつながりが広が っていきました。今回スリランカに来るチャンスをくれた人、スリランカで出会った人、 お世話になったたくさんの人たち、そしてツアーを共にした仲間。みんなに感謝していま す。この出会いを大切にして、今後ともずっと彼らとつながっていたいと思います。 今回のスリランカスタディーツアーで最も感動したものは、このツアーのメインでもあ る村でのホームステイです。想像以上にとても温かい歓迎、言葉の壁を越えて交流できた ときのうれしさ。子供たちと遊んでいると、そこに子供の頃に戻ったように無邪気に笑っ ている自分がいることに気づきました。スリランカの人たちは本当に歌とダンスが好きで、 とってもフレンドリーで満面の笑顔。それが今でも忘れられません。水道も電気もない生 活の中で、そんな彼らと心の底から笑うことができました。私が泊まった家には電気はな かったのだが、家のすぐ裏に井戸があり水には苦労していませんでした。この家に泊まっ て本当に水の大切さを実感することが出来ました。テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの電家製 品がなくても、生活には何よりもまず水が必要です。水の大切さに気付いてから、スリラ ンカで移動の時にも通り過ぎる村々がどのような水の環境にあるのかが気になりました。 壺を持った女性たちが道路脇を歩いている地域もあれば、既に全家庭にあるのではないか と思うくらい井戸がたくさん見られる地域もありました。スリランカは井戸の多い国だと 思います。スリランカツアーの後、マレーシア、タイ、カンボジアと旅をしたが、どこも スリランカ程井戸がたくさんあるようには見えませんでした。旅ではそこまで村に入れな かったので、そこまで詳しく見ることが出来なかったというのもあるのかもしれません。 あそこまで井戸がたくさん作られ使用されていて、そこ周辺の地下水は枯れないのだろう 37 かとも思ってしまいます。しかし、生活にまずは水ということで井戸をここまでスリラン カ全土に普及させているサルボダヤもすごいと思います。モラトゥワでサルボダヤ本部を みて、国際協力の協力が真に意味するものが分かりました。本当にたくさんの人が関わり 力を合わせているからこのような成果が得られている、反対に言えばこのたくさんの人々 の協力なしには成り立ち得ないということを実感しました。今回このツアーに行ってその ような国際協力の現場を始めて見ることが出来て、改めて開発援助や環境保護など国際協 力の一つの力になって働けたらいいなという気持ちが強くなりました。この夏休みは今ま でのどの長期休暇よりも有意義ですばらしいものだった。本当にありがとう!! 岸本さおり 私がこの旅に参加するきっかけとなったのは、米澤君との出会いでした。スリランカと いう国はあまり知られていないので、私にとって未知の場所でした。そのため、初めてこ の旅に誘われたときも、もっと別の国に行きたいと思っていたので、とても迷いました。 しかし今はこの旅に参加して本当に良かったと思います。この旅を通して本当に多くのこ とを得る事が出来ました。 今回のプログラムの中で一番刺激を受けたのは、アヌラーダプラでのホームステイとそ こでの井戸作りです。ホームステイ先ではシンハラ語でコミュニケーションをとらなけれ ばならず、挨拶程度しか話せなかった私にとっては、最初は辛いものがありました。しか し、この様な環境におかれたからこそ一生懸命シンハラ語を勉強したし、家族との間に強 い絆を築く事が出来たのだと思います。ホームステイの後半は毎日が本当に楽しくて、こ のままここに残ってしまいたいと思うほどでした。 シュラマダーナを通して私は、村人達と一緒に井戸を作り、共に働き協力する事の大切 さとすばらしさを学びました。共同作業を通して村の人たちが井戸を大切に使い続けてく れると思うし、井戸という形で私達との思い出を村に残す事が出来るなんてすばらしいと 思います。また、共同作業を通して多くの友達を作る事が出来ました。心のそこから笑い 合い、共に協力し合った本当の友達です。日本に帰ってもシンハラ語の勉強を続けて、シ ンハラ語で手紙を書きたいと思っています。 この旅で得たものは本当に多くて計り知れません。一方通行にしか考えられなかった私 の頭の中に、沢山の道を作ることが出来たのです。そして何よりも、自分自身が大きく成 長する事ができました。スリランカで何事にも積極的に行動できるようになったし、諦め ずに頑張る根性がついたと思います。 この経験を日本でも生かせるように、有言実行で幅広く活動し、私もいつかヨネさんの ように沢山の人をスリランカに連れてこられるようになりたいと思います。最後に、この 旅で大変お世話になった、鈴木会長、スミスさんを初めとするサルボダヤスタッフ、そし 38 て仲間達 ボホーマ イストゥーテ 誇り高きスリランカ、ありがとう! 奥州未歩子 私は今回のスリランカでの様々な経験を通して、経済的に豊かな状況にいるということ は、時に些細なことに気付かない事があると身を持って感じました。当たり前だと思うこ とはとても怖しいことであるし、傲慢なことでもあると思いました。自分の一番身近なも のがどんなに大切で誇りに思わなければならないのか痛感しました。スリランカ後の東南 アジア 3 カ国を回ったときも何回もこのことを再認識しました。 私たちにとっては蛇口をひねれば簡単に出る水。しかし彼らにとっては、井戸ができる ということが生活を 180 度変えうる出来事になるのです。農作業にも効率があがり、仕事 以外にも時間が費やせたり、子供が学校に行けるようになったりするのです。それなのに 私たちは、食事にも不満なく学校にも行くことが出来るのです。時に精神的な努力を怠る ことも少なくありません。私たちの周囲には、成長できる機会ゴロゴロ転がっているとい うのにそれに手を伸ばすことすら逃しているのではないか。とても損をしていると思いま せんか?あらゆる出会いは宝物です。 「もの」を大切にする気持ちが彼らにはありました。 物理的なものだけでなく、心理的な面でもです。そして彼らは、素直で素敵な笑顔を持っ ていました。ゆとりのある生活をすることで、広い心をもてるようになったと思うし、周 囲にも気を配れるようになったと思います。彼らと触れ合えたことで、日本にいるときよ りも腹の底から笑っていられたし、本音を出すことが出来ました。10歳くらいの無邪気 さに戻っていました。スリランカでは積極的にいろいろなことに取り組めたし、毎日がと ても充実していました。 日本にいると「自分がよければいいや」という気持ちになることもありました。日本人 にはそういう考えをもつ人が多いように感じます。また、人に自分の意見をきちんと伝え るという力が足りない人が多いように感じていました。 「自分がよければ良い」という考え が大切な時も確かにあります。しかし、もっと他の人にできることがあるのではないでし ょうか?もちろん自分を含めて、より多くの人に自分の可能性を信じて頑張って欲しいと 思いました。 私は、人間関係は「Give and take」だと思っています。それを互いができる関係をとて も大切にしたいと思っています。皆で熟慮して決めた井戸の名前「∼源(いずみ)∼The seed of give and given」を本当に気に入ってるし、誇りに思います。私はこれから、人との触れ 合いや、人や地球にやさしい「もの」を大切にするということの大切さを広めるように活 動していきたいと思っています。 今回のツアーで色々なサポートをしてくださったサルボダヤ、鈴木さん、スミスさん、 そして、旅先で出会い言葉を交わした多くの人にとても感謝しています。そして、たくさ んのことを共有し、共に高めあい、語り、笑い、涙した 7 人の仲間との最高の思い出にな りました。本当に良かったです!これからも小さな器に収まることなく視野を広げ、更に 39 多くの人と触れ合っていきたいです。積極性、向上心、気遣い、自分らしさの四つを見据 えて行動したいと思います。そして、自分にできることは惜しまず行動し、毎日がお腹い っぱいでありたいです。 今回の旅の目標であった「We can do as infinity」は達成できたように思います。今回の ツアーに携わって頂いた全ての方々に感謝して、御礼を言います。 ボホーマ・イストューティ!!! 蔭山智之 今回、スリランカでスミスさんをはじめ多くの人にお世話になったので、まずその人た ちに感謝したい。 大学3年の夏休みというこの時期にスリランカに行くことができて本当によかったと思 います。しかし、自分は何をするために行ったのかということに対して答えが出ない。確 かに、向こうでは難民キャンプを訪れ、ホームステイ先での井戸掘りといった貴重な体験 をしたが、今考えると、もっと一つのことに対して集中的に活動をしたかったです。今回、 自分はボランティアをするためにスリランカに行ったのに、それがほとんどできなかった のが残念です。自分自身もっと積極的にならなければいけなかったと思います。 しかし、向こうでの体験は自分にとってプラスになったと思います。また、多くの人と の出会いがあったのでこれは大切にしたいです。次回スリランカに来るときは、シンハラ 語をしっかり覚え、移動中何度も悩まされたぼこぼこの道路を直したいと思います。 スリランカ体験記 高市 脩也 スリランカでさまざまな体験をさせてもらった。コロンボ界隈に始まり、途中アンパー ラやホームステイを経て、シンハラージャ探検で終わった約3週間の旅だったが、今回は 特に印象に残った難民キャンプと孤児院について書きたいと思う。 「難民キャンプ」 ここの人たちは本当に苦しい生活を送っているのだろうか?というのが正直な第一印象 だった。それほどここは明るさ、陽気さに満ちていた。子供たちは環境に合った遊びを創 造することで、一生懸命自分を表現していた。大人たちは自分が貧しいということを自覚 しながらも、毎日の生活を工夫し、なんとか楽しもうと努力しているように見えた。ここ には明らかに「文化」がある。文化は受け継がれることで伝統になる。はたして援助は必 40 要なのだろうか。我々が援助をすることで彼らの生活を壊し、彼らはその度に生活をかえ なければならない。そこに「文化」は存在しない。今回の難民キャンプ訪問は、自分の援 助に対する考えそのものを否定するものとなった。 「孤児院」 実は孤児院を訪れるキッカケになったのは、ホステルから近いということもあり散歩が てら寄ってみようという、至って安易な発 想からだった。そんな軽い気持ちで行ったから、 より大きな影響を受けたのかもしれない。ここにいる子供の多くは経済的理由から育てら れることを拒否されたのだ。しかし、この子たちは本当に純粋だった。ある子は、1枚し かもらえなかったビスケットを半分くれる優しさをもっている。またある子は、オレの足 に必死にしがみついて満面の笑みで語りかけてくる。こいつら「Money」でも「Food」で も なく「Love」に飢えてるんだなって気づいた。日本で何不自由なく育ってきたオレが、子 供たちの気持ちになるってのは(近づくことはできるかもしれないが)おそらく無理であ る。 「寂しい」や「悲しい」なんて単純な言葉では表現できないはず。ここのスタッフだっ て「親役」はできても「親」になることはできない。厳しい言い方かもしれないが、これ が現実。オレもいつか親になる日がくるだろうけど、いっぱいの「Love」で育てていきた いな。 今回スリランカの旅を振り返り、すべての出会いに歓喜し、すべて の出来事に感動することができた。スミスさんを始め、色んな面でサポートしてくれた仲 間、そしてその他出会ったすべての人に感謝したい。これからまた日本でそれぞれの生活 が始まるわけだけど、スリランカでの思い出を忘れちゃうなんてもったいないことはなし ね。思い出はいつでも作れるけど、同じ思い出は作れないのだから。 “The seed of give and given” given” 左右木歩 このスタディーツアーに参加する前、私は支援のあり方について悩んでいました。資金 を出すのはとても簡単なことですが、支援の仕方によっては、その国の人々が支援される ことに慣れてしまって、時にはその国の人々の自立する力を奪ってしまったり、真面目に 働く意欲を奪ってしまうおそれがあります。それでは全くの逆効果になってしまいます。 それでは、私達に一体何ができるのでしょうか。私達は今回、「井戸を作りにいく」という 目的でスリランカに行ったのですが、はたして私達がわざわざ日本からスリランカに一つ の井戸を作りに行くのにどれほどの意味があるのだろうか、とも思っていました。私達に 41 は井戸作りに関する知識も無ければ経験もありません。そんな私達がどれほどの役に立て るのか、不安でした。 しかし、井戸作りを終了して私達が村に残してきたもの、私達が得たもの、それは想像 以上に大きなものでした。 まずはじめ、私達はとにかく村人達に溶け込むのに必死になりました。言葉が全く通じ ないこの村で私達の想いや意思を伝えるのには行動しかありません。積極的に村人達の作 業を手伝いました。私達のような細っこい日本人が大きなかけ声を張り上げて作業してい るうちに、当初作業していたのは村の男性4∼5人でしたが、いつの間にか周りで見てい たたくさんの女性や子供たちが作業に参加してくるようになりました。その井戸を使うの は村にとってはほんの一部の世帯だけですが、村が一丸となって一つの井戸を作りました。 井戸には毎日たくさんの村人達が作業を手伝いに来てくれ、たった一つの井戸作りを通し て村が活気づき、村人同士の交流の場にもなりました。村人達の意識の中に少しでも「協 力し合う大切さ」が残れば私達が井戸作りに行った意味が充分あると思います。 そして私達が村人達から得たものもたくさんありました。私達が行った村には、日本人 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 である私達の生活から比べるとなんにもありませんが、そこにはなんでもありました。日 本には無いものがたくさんありました。その一つは家族間の繋がりの深さです。村で1週 間ホームステイすることにより、自分の家族を振り返り、家族に対する自分の行動を見直 すいいきっかけになりました。そしてこれから先、自分が家族を持った時、家族に対して 自分がどうすべきか、という考えの基礎にもなりました。経済大国日本、一見裕福に見え ますが、家族間の繋がりは戦後の貧しい頃と比べて希薄になってきてはいないでしょうか。 年々増えつづける自殺者の数値を見るとそう思えてなりません。 村にはガスや水道がない家が大半で、中には電気のない家も多くありました。しかし一 歩家の外を出れば大自然に囲まれていて、とてもきれいな所でした。毎日作業が終ったら 子供達と日が暮れるまで走り回り、お腹が空いたら木になっている果物をもぎって食べ、 湖で水浴び、満点の星空を眺める、すべてが贅沢に思えました。 村人達とのお別れの時のスピーチで、感謝したいことがたくさんあったのに何一つ言葉に できず、くやしくて涙が溢れてきました。私のことを“あゆみアッカ―” (シンハラ語でア ッカーとはお姉さんという意味)と呼んでくれました。野イチゴを採ってきてくれました。 私の手を引いてくれました。いっぱい話し掛けてくれました。言葉の分からない私に何度 も繰り返し言って伝えてくれました。私は今までの自分の行動を振り返り、 「どうせ伝わら ないから・・・。 」という理由で話すことをあきらめたり避けたりしてきましたが、 「伝わらな かったのか、伝えなかったのか、どっちだろう。 」と、この時初めて考えました。いくら感 謝してもしきれません。この感謝の気持ちを今後は自分の周りの人に返していくこと、そ れが私にとっての恩返し、 “The seed of give and given”だと思います。 最後に、このスタディツアー実施にあたり、多くの方から援助やご協力を頂きました。ワンワール ド・ワンピープル協会の皆様、サルボダヤの皆様、BAJ の皆様、そしてディヤマイラガッサウェワ村 42 の皆様、本当にありがとうございました。紙面をお借りし厚くお礼申し上げます。 43 ご支援いただいた OWOP、BAJ でそれぞれ会員を募集しています。 OWOP http://www.owop.gr.jp/ 通信費・事務費など、会員相互の連携のための費用をまかなうべく、下記の会費 会費を設定し 会費 ました。 一般会員 入会金 2,000 円 年会費 6,000 円(500 円/月) 特別会員 年会費 30,000 円(2,500 円/月) 賛助会員 一口 10,000 円 入会手続きについて このページを印刷し、入会申込書の各項目をご記入の上、ご提出ください(郵送/FAX でも受 け付けています)。 会費は、会計担当者に渡すか、または下記口座に振り込んでください。 郵便振替 口座番号 0100-0-401070 加入者名 ワンワールド・ワンピープル協会 入金確認後、会員証を作成、郵送します。 会員 No.: 種別:一般・特別・賛助 申込年月日: 年 月 日 お名前: 生年月日: 年 郵便番号: 月 日 − 住所: TEL: ( ) − FAX: ( ) − 携帯/PHS: ( ) − E-Mail: あなたの描く理想の世界とは: One World One People 協会で、あなたが実現したいこと: 趣味: 職種: 特技:(丸をつけてください) 調理 アウトドア活動 グラフィックデザイン 工作 設営/撤収 外国語( ) 事務 作曲 演奏 コンピュータ ) そのほかご自由に( お持ちの免許/資格: お問い合わせ先 TEL:03−3534−5952 音響 E-mail: [email protected] BAJ http://www.jca.apc.org/baj/ BAJ の活動は会員の方々からの会費や寄付によって支えられています。 入会は BAJ の活動に賛同してくださる方であれば、どなたでも、いつでも出来ます。BAJ の活動を支える一人になって下さい。 正会員(個人会員、団体会員)の方は、 ・総会における議決権を有します。 ・ニュースレター「BAJ 通信」でプロジェクトの最新情報をお読みいただけます。 ・報告会や催し物の案内などをお送りします。 ・ 購読会員の方はニュースレター「BAJ 通信」の購読を希望される方で、1 年間 「BAJ 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