▽ サマー・チェンジ 目で数えてみた。 中 村 南 ﹁七つか﹂とシズオはつぶやいた。車が乗り入れするコンクリートの 敷地にできた大小のへこみの数だった。へこみに水がたまっていた。彼 はその数に満足した。俗にラッキーセブンだからということではなかっ た。しいていえば﹁ななつ﹂という響きがよかっただけのことだった。 ﹁ななつ、なな、しち、セブン﹂シズオは少し声を高くして言ってみた。 通りをはさんで建つ塗装の剥げた木造モルタル三階建ての窓に陽が 反射している。 水たまりが七つだとわかって、それがラッキーセブンだとしたら、今 日はなにか期待できるのか。できることならラッキーセブンにちなんだ ことが、現実に起こってほしいものだ。シズオはそれはあるまいと首を ぐるぐるまわし、コリをほぐした。そして、また、ちらっとラッキーセ ブンに期待をよせる気持ちが動いた。 自動洗車用の白いブラシから滴が落ちていた。シズオはコンクリート の壁に背中をむけ、鉄パイプの椅子に腰掛け、休憩中だった。水たまり の数によって決まる運、不運についても、彼はあれこれ思いめぐらした。 同時に視線は事務所の前にいる野木と堺をとらえていた。 ﹁シズオの奴こっちを見てるぞ。さえない顔して。どうかしたのか?﹂ と野木は頭に右手をあげ、堺に声をかけた。 ﹁へへへ、これさ。女よ﹂と堺は笑って小指を立てていた。 ﹁おれと同じ女じゃないだろうな?﹂野木は頭髪をまんなかでわけ、そ のわけめに右手の中指をたて前後に移動させながら急に顔をそむけた。 ﹁べつに野木の女と決まったわけじゃなさそうだって、バーテンの大宮 が笑ってたぜ。おい、わけめに指をやるなよ。皮がすり切れてしまうぞ﹂ と堺はたてた小指を口に入れた。 ﹁とやかく言わないでくれよ。とくに、おまえはな﹂しかし、野木は堺 に言われるままに、わけめから中指を離した。野木は顔の汗を拭き、水 抜き剤を段ボール箱からだし、それをワゴンにピラミットのように積み 始めた。 ﹁野木、誘うのか? シズオのことだ。釣りだよ。二人じゃ、退屈だか らな﹂と堺はしゃがみ、シズオの様子をうかがい、やるきがないのか水 抜き剤を持ったまま話した。 ﹁奴に聞いてみなよ。変だぜ、この頃﹂と野木は堺の手から水抜き剤を 取りあげ、三角の山の一番うえに置いた。 ﹁シズオはいずれスタンドをやめちゃうさ。ほとぼりがさめたら都会に バックだろうな。親父は家出、とうの昔に実家はない。母親もどうなっ たのか。行方不明だってことだ﹂と堺はうんざりしたように、シズオの ほうに目をむけ﹁所長にチャンネル変えろと言えよ。朝からクラシック じゃねえか。ポップスにしないと、仕事のノリが悪いんだ﹂とぶつぶつ 言った。 ﹁自分で変えてこいよ。客のリクエストだと言ってやれ﹂と野木は二個 目の水抜き剤の箱を開けた。 ﹁何回も言ってるさ﹂と堺は段ボールの底を開け、平たく折り畳み、そ れを持ってぶらぶらとオイルの倉庫にむかった。 野木は髪のわけめに中指をたて町の目抜き通りの左右に目を配ると、 事務所に入った。 つなぎトンボは七つの水たまりの水面に尾の先をチョンチョンとつ け、休むことなく飛びまわっている。町のなかでトンボが飛び交う光景 は、のどかで、心がなごみ、ほのぼのとした雰囲気をかもしだす。シズ オは七つの水たまりから、いつのまにかつなぎトンボのほうに目がむい ていた。ふわふわと永遠に飛んでいるようだ。 堺はこれといった仕事もなかったのか、それともやる気がないのか、 スタンド内をぶらぶらしていたが、とうとうシズオに近づき声をかけた。 ﹁シズオ、どうすんだ。釣りさ。このあいだはボウズだぜ。なんだよ、 ふさぎ込んで﹂と鉄パイプの椅子を立てて座ると、ニヤニヤ笑ったあと 我慢しきれなくなって﹁なあ、あの女はやめたほうがいいぜ。十人はく だるまいよ。何がって? ばかやろう、男だ。タミの首はぐるぐるまき だぜ。盛り場一番の、へへへ、男を絶命させるってはなしだ。知ってる だろう?﹂堺はわくわくしながら話した。 ﹁なんだよ、その、ぐるぐるまきって﹂とシズオは両手を頭の後ろにあ てた。 ﹁へへへ、その十人とくだるまい男の札束でぐるぐる巻きなんだよ。だ から、おまえごときが熱をあげても無駄な抵抗だってことさ。野木なん か惨めなものさ。五年後にかなうかどうかだよ。あの馬鹿が﹂堺はせせ ら笑った。 ﹁この田舎にそんな金持ちがいるとはな﹂シズオはため息とともに言っ た。 ﹁まあ、それなりにいるってことさ。それによ、タミの後ろには新田町 の顔役がいるって噂だ。あくまで噂さ。シズオ、気にすんな。女より釣 りのほうが哲学的だぜ﹂堺は事務所から野木と所長が並んで立ち、ガラ ス越しにこちらを見ているのに気がついた。 ﹁おまえは酒を飲むのが楽しみなだけさ﹂シズオは七つの水たまりに目 をむけた。 野木が自動ドアから出てきた。堺はシズオに﹁休憩が終わったぞ﹂と 言って立ちあがった。 ﹁シズオ、電話だ﹂と野木は言って堺の顔を見た。 シズオは今ごろ誰だろうと思った。電話をかけてくるような知り合い はいない。もしかして、タミか、と淡い期待をもったが、そこまで親密 ではない。事務所にむかうとき彼は一番大きい水たまりに右足を入れて しまった。ラッキーセブンを信じているわけでない、とわかっていた。 うかつにもその一つに足を入れ水たまりを壊したことで、運がするりと 逃げ、不運が津波のように押し寄せてくることに疑いをもたなかった。 波紋が消えまたもとの平らな水面に戻るのをシズオは見ていた。野木 は髪のわけめにたてた右手の中指をさっとシズオに指し﹁早くしてくれ よ﹂と呼んだ。 ﹁所長、クラシックやめてくれないかな。スタンドにあわねえぞ﹂と事 務所に入るとシズ オは野木の顔を見ながら言った。 所長は椅子にふんぞりかえりシズオを無視し﹁早く取れよ﹂と机のう えにある受話器をボールペンでコツコツとたたいた。 シズオは受話器をゆっくり持ち耳にあてた。 所長は顔をあげ、鼻で笑うようなしぐさをした。 ﹁もしもし﹂とシズオは答えた。 シズオは大きく息を吐いた。それが所長の耳に入り、自分にむけられ たと勘違いをしたのか、突然立ちあがった。 ﹁仕事中なんだよ。たのんでみる。よくわかったな。ああ、心配ない。 とにかく電話だとなんだから﹂と言ってシズオは送話口を手でおさえ ﹁所長、ちょっと時間くれませんか﹂と聞いた。 ﹁シズオ、私用はだめだとことわったはずだ。仕事が終わってからでい いだろう﹂と所長はとげとげしく答えた。 ﹁おふくろなんですよ﹂ ﹁母親? 本当か? しょうがないな。もう少ししたら洗車の客が来る んだ﹂と所長はボールペンを机のうえに投げた。 ﹁レンタルビデオの大田か。メルセデスの 6s00買ったってほんとう ですか?﹂と所長に聞き返し、受話器の彼方の母親に﹁昔あった角田商 店と酒屋を知ってるな。そのあとにスーパーができた。その隣にハンバ ーガーショップがある。そこにいてくれよ。わかった。すぐ行くって﹂ と受話器を置いた。シズオは途方にくれ呆然と立っていた。 ラッキーセブンなんか信じちゃだめだ、とシズオは思った。あきもせ ず水たまりに尾をつけて飛ぶつなぎトンボを彼はガラス越しに見た。 ﹁所長、おれの昼休みをずらしてくれないか。それならいいだろう。話 が長くなりそうなんだ﹂とシズオは頼んで、外に出ようとすると、つい さっきまで自分が座っていた椅子に野木が座り堺も横にいた。そのとき、 釣りはどうしょうかと初めて考えた。 スタンドの裏にまわったシズオは会社の軽トラックに無断で乗った。 木造モルタルの雑居ビルがマッチ箱を並べたように建つ、真昼の盛り場 の通りを彼はのろのろと車を進めた。何度か飲みに寄った店の前を通る と、ホステスの顔を浮かべ口の端をまげて笑った。そしてタミのことが 気になった。シズオはすぐタミの顔を追い払った。変わりに母親の顔を 浮かべた。六年振りで会うのだ。彼はなるべく遅く着くように軽トラッ クを運転した。そのあいだ彼は六年間の母親の生活のことを想像した。 盛り場の出口にさしかかった。遅く軽トラックを進めたのは、母親に会 いたくなかったからだ。 するとタミの姿が本通りから現われた。白い綿パンツに白いTシャツ と軽装だった。 シズオは一時停止で車を止めた。タミは軽トラックを見つけ手を振っ た。彼女の首は札束でがんじがらめだ、と堺は言った。近づいてくるタ ミの姿を見ているととてもそうは思えない。 ﹁めずらしいじゃないの、外まわりなんか﹂タミは運転席の窓枠に手を おいて言った。 ﹁昼休みをずらしてもらっただけさ。きれいだな﹂シズオはタミの薄く 塗った赤い口紅が明るい陽にはえて新鮮に映った。 おれと野木に堺も一緒 ﹁ありがとう。しばらく店に来ないじゃないの。わたしに飽きたってわ け?﹂ ﹁金の問題さ。なあ、今夜釣りに行かないか? だ﹂ ﹁危ないわ。シズオはまあまあ信用できるけど、ほかの二人はいやね。 あの二人嫌い﹂ ﹁残念だな。釣りもいいもんだぞ﹂ 母親が首を長くして待っているはずだ。会いたくない母親だが、いつ までも待たせるわけにもいかない。タミと突然に出会ったので内心シズ オは面喰らっていた。機会があれば話したいと思っていたことが、目の 前の彼女を見ているとどこかに飛んで、頭のなかは真っ白になった。 ﹁噂だけど、ほんとうなの?﹂とタミは聞いた。 ﹁おれのことか?﹂シズオはあわてて聞き返した。 ﹁渋谷で事件を起こしたって⋮⋮それと、町を出ることも﹂ ﹁それを聞いてどうするつもりだ。悪いけどな、それに答えたくないっ てのが、おれの返事さ。タミ、悪くおもわないでくれ﹂ ﹁思わないわ。当然でしょ。わたしだって聞かれたくないこと、山ほど あるから⋮⋮わたしの噂、耳にしてるでしょ?﹂ シズオは本通りと目の前の通りから前を横切る中通りに進入してく る車に気をとられているふりした。彼はどう返事したらよいのかわから なかった。車のなかは蒸し暑く彼の尻と背中に汗がたまる。陽の熱気は 二人の間に壁を作った。 ﹁噂を信じるわけにいかないさ。おれ、これから母親に会うんだ。飲み に行くよ﹂とシズオは間をおいてから、ギアをローに入れた。 車から少し離れたタミはまだシズオから目をそらさなかった。タミの 口が動いた。彼はそれに気がつかずに方向指示のレバーをあげ、左右を 確認した。タミに手をあげ、左折して軽トラックの速度をあげた。 ▽ ハンバーガーショップに客はいなかった。母親は奥の隅っこの席に隠 れるように座っていた。 シズオはコーヒーとチーズバーガーにフイッシュバーガーを注文し てから、母親のいる席にむかった。 ﹁遅いじゃないの。待ちくたびれたよ﹂と母親はコーヒーを一口飲んで から強く言った。 とにかく六年振りなん ﹁なんだよ、突然。おれと会ってどうしょうというんだ。二度と姿を現 わさないと言ったのは誰だ。それでも母親か? だぞ。男はどうした? おれに会うの知ってるのか?﹂ シズオもつい堰をきって吐き出すようにしゃべった。母親は急にしお らしくなった。バックからハンカチを出し額を押さえ汗を拭いた。 ﹁わかれたよ、あの人とは。つまり、逃げたの。女よ。わたしより若い わ﹂ ﹁おれに関係ない、そんな話。用事はなんだ?﹂ ﹁お金のこと。だらしない母親に徹するわ。九州に行くつもりよ﹂ シズオは無性に怒りがこみあげてきた。そこへ注文の品が運ばれた。 熱いコーヒーをすすり彼は口をきかなかった。勝手すぎると思った。息 子がどんな気持ちで聞いているのか、何もわかっていないのだ。なさけ ない母親だ。 ﹁いくらいるんだ。九州とはね。あきれるな。いっそのことアメリカに 行けよ﹂ ﹁日本も広いわよ。シズオ、笑っていいのよ。かあさんに落ち着きがな いからね。わかっているわ。でも、どうしょうもないことだってあるの よ﹂ ﹁なんだよ、それは﹂ ﹁うまく説明できないわね。自分でも冷静に考えるけど、ずるずると、 九州になってしまったの﹂ ﹁金は振り込むから、口座番号と銀行名を書いてくれないか。金額は?﹂ ﹁三十万﹂と母親は言うと﹁メモ用紙ね。ちょっと待って。もう書いて あるの﹂と黒のビニールバッグをひっかきまわし﹁これでいい?﹂とレ シートを見せた。シズオはなんでもいいというような顔をしてうなずき、 レシートを母親から受け取った。 シズオはため息をついた。三十万は全財産だった。彼はしばらく会わ なかった母親を盗み見た。これでもう会うこともないかもしれない。や はり母親の目尻に皺が走り、首もたるみ老けていた。 ﹁いつごろになる?﹂と母親はすがりつくように体が前に乗り出した。 ﹁明日でいいか?﹂ ﹁助かるわ。ごめんね、もう行くから﹂ シズオはまだ話していたい衝動に駆られた。どうしてそんな気持ちが 起こったのか不思議だった。母親は自分の目的がかなって、きつくなっ た目はおだやかになり、どことなく肩の力も抜け、コーヒーをおかわり し、ハンバーガーをうまそうにほおばって食べた。母親がこんなにあさ ましかったかと思うと彼は淋しくなった。 ハンバーガーショップを出ると、シズオは﹁元気でな﹂と先を急ぐ母 親の背に声をかけた。彼が軽トラックに乗ろうとすると、母親が﹁ちょ っと、待ってよ!﹂とシズオのほうに戻って来た。母親の髪は黒かった。 染めている。老けたとはいえまだ女の匂いが漂い、シズオの目から見て も充分に魅力があった。 ﹁また背がのびたみたい。いや、母さんが縮んだのかなあ。シズオ、い くつになった?﹂ ﹁三十だ、二か月したら三十一さ。あたりまえだけど﹂ ﹁かあさんが、どうしょうもないっていった意味は、うまく説明できな いけど、夢を追いかけているみたいなものなのよ。他の場所に行ったり 男を替えたりするのも、それなのよ、きっと。男を変えたからといって、 だけどそうしないと、よけいだめになるのよ。かあさん、五十六 それで満たされたのかどうかわからない。男が目的じゃないのよ。わか る? になるわ。それから、シズオ、とうさんが亡くなった。かあさんのせい ね。体に気をつけてよ。手紙くらい出すかもね﹂ 母親はシズオの手を強く握った。彼は歩いて行く母親の後ろ姿を見送 った。彼はフンと笑った。母親はたくましく生きていくだろうと思った。 母親の尻を見ているとそう感じるのだ。 シズオは運転席に座ったままじっとしていた。本気でタミを誘ってみ ようかと思った。むろん釣りにではない。野木か堺の車を借りてドライ ブに誘うのだ。しかし、彼は無理なことだと考えなおした。エンジンを かけたがスタンドに戻る気がしなかった。するとハンバーガーショップ の小田が駆けて来た。 五百円? そんなに間違うなよ。少なく渡したらそのま ﹁シズオ、釣銭多く渡したんで戻してくれないか﹂ ﹁いくらだ? まだろう? おやじ、もう少し腹につめていくよ﹂とシズオはエンジン を切った。 ﹁おれは多くても少なくても、つり銭についちゃ正直者で通っている。 しかし、老けたよな。おれ、シズオの母親にあこがれたよ。きれいだっ たからなあ﹂ ﹁だからどうしたっていうんだ﹂シズオは他人に母親のことをとやかく 言われたくなかった。 ﹁悪い話じゃないさ。親父が悪いってことだ。そのころは町の景気も悪 くなったときだ。知っているように町の産業は林業だ。木材は輸入材に おされ、方向転換には時間がかかる。やっとキノコ栽培がなんとかって ところだ。親父もついていなかったな。もう、ほ とんどシズオの母親を 知っている者はいないよ、町には﹂と小田はシズオを哀れむようなまな ざしで見た。 シズオは何も答えず店に入った。父親が交通事故を起こしたあとに何 があったのか、小田に聞いてみようと口に出かかった。真相を知って親 父の名誉を回復できるのか。できたところでどうなるのだ。ああそうで すか、で終りだ。親父を信じてよかったと胸のつかえが取れる、それが せめてもの救いだろう。 カウンターに座った彼はジンジャーエールとピザパイをたのんだ。考 えてみれば母親とはあっけない再会と別れだった。どうにもならない生 き方ってあるものなのだ。母親はそれを知っていながら、九州まで行く。 父親はどこで息をひきとったのか。母親は父親について何も教えてくれ なかった。別れたとはいえ二人は時々会うか連絡を絶やさなかったはず だ。でなければ父親の死など母親は知りようがない。シズオは親のこと を頭から振り払った。が、新たな思い出が現れてきた。 ﹁シズオ、野木さんな、タミに熱をあげてもめているって話だ。聞いて いないか?﹂ ﹁熱をあげたのは知っている﹂ どうなってんのかな、タミって女は﹂シズオは無関心を ﹁つきまとうなと誰かに言われたって噂だ﹂ ﹁噂だろう? よそおった。 ﹁こう言っちゃなんだがホステスだからな。それに流れものだろう。女 も海千山千じゃないのか﹂ シズオはおまえに何がわかるんだ、と背をむける小田を睨んだ。彼は 一時停止のところで会ったタミを思い浮かべた。見た目では噂のような 女と結びつかない。なんとなく自分の母親と重なってくる。彼はピザパ イを食べ終わり、残りのジンジャーエールを飲んだ。電話が鳴った。 ﹁シズオ、所長からだ﹂と小田は言って、頭のうえに人差し指を立てた。 怒っているという合図だった。 ﹁わかってますよ。野木と堺がいるじゃないですか。とにかく戻るから﹂ とシズオは受話器を置いた。 シズオは五百円を超えたぶんを払って外に出た。小学生のころ角田商 店にはよく買い物に来た。この一帯はそのほかに魚屋、食堂、おもちゃ 屋などがあった。それらは跡形もなくきれいさっぱり消え、今はスーパ ーマーケットができ、駐車場が広がっている。 親父が家を出たのは交通事故を起こしてからだった。シズオは中学三 年のときだった。事故だけで家を捨てる理由にはならい。事故の後で夫 婦のあいだに突然なんらかの問題が起こったのだろう。母親はその原因 を教えてくれない。六年振りに今日会ったがそのことは口にしなかった。 運転席に座ったシズオは軽トラックのエンジンをかけた。もう一度タ ミに出会えるかと期待して、同じ通りを走った。陽は昼間の盛り場を容 赦なく照らし、全体的に白っぽく霞んでいた。閉め切った飲食店のドア が不揃いに並ぶ。彼は生まれ育って中学までいた町に戻ったことに疑問 を抱いた。 母親は夢だと言っていたが、はたしてどんな夢を追っていたのだ。九 州まで行けばみつかるのか。シズオはそうは思えなかった。そんなふう に駆り立てる母親に何があったのだ。 スタンドに着いたシズオは軽トラックを裏に止め、すぐメルセデスに 近づき洗車を始めようとした。どこからともなく大田が現われた。シズ オは簡単に頭を下げた。 ﹁母親が来たってな。親父から話は聞いたことがある。おれは気にしな い。母親のことは知らないからな。なあ、タミとよろしくやってるそう じゃないか﹂とねちねちした口調でシズオにまとわりついた。 シズオは運転席のドアを開けてなかに座った。すると大田は﹁汚ねえ ケツで座るなってこのあいだ言ったばかりじゃねえか﹂と怒鳴った。シ ズオは大田の怒りなど無視して、メルセデスをバックした。気にいらな いなら誰かにやってもらえよ、と彼は窓を閉めて車から降りた。 ﹁おれは客だ。くそ、所長を呼んでこい!﹂ ﹁事務所で寝てるよ。ところで大田さん、裏ビデなんとかなるかな。派 手すぎるって飲み屋じゃ評判なんだけどな。つごうしてくれないか﹂シ ズオは皮肉をこめてからかった。 ﹁ふざけるんじゃねえぞ。おれの店は健全このうえないんだ、いいかげ んなこと言うな﹂ 飲み代払えって ﹁郊外にチェーン店が進出して大変だってのに、なんでメルセデスなの って、ホステスさんたちが悩んでいるの知ってる? さ﹂シズオは洗車用の蛇口をひねった。水圧の強い水が噴き出した。 大田は首に金色に光るネックレスをつまみ、おぼえてろ、と一言威嚇 すると水しぶきから逃げるように事務所にむかった。 シズオはメルセデスに水をかけたあと、液体洗剤を車の全面に吹き付 けた。そこへ堺がドライバーを持って﹁何やったんだ、いったい?﹂と 心配した口調とは裏腹にニヤリと笑った。 ﹁裏ビデをわけてくれと注文しただけだ。おれは客だろう﹂とシズオも 笑って答えた。 ﹁相当の在庫があるってはなしだ。宅配、通信販売もやってるらしいな。 危ない奴との関係もあるんだ。所長、大田にくっついて、まるで飼犬だ ぜ。所長の口から聞いたよ。何って、裏ビデの在庫のことだ。半端な数 じゃないらしいな﹂ ﹁おまえも情報通だな。警察の耳にも入っているだろう﹂ ﹁泳がされているってことだな。組の情報がわずかだが大田から流れて るって、バーテンの大宮が教えてくれたよ﹂ ﹁金むくのネックレスにこの車だ。派手すぎるな﹂ ﹁大田は当分大丈夫さ。ゴミみたいな情報をもらしてるだけだ。それよ り献金してもらうほうが得と組もソロバンをはじいたんだ。シズオもほ どほどに大田をからかっておかないと、痛い目にあうぞ。なあ、釣りだ けどよ、どうすんだ。野木とじゃどうにもおもしろくない。あの野郎は 不思議でな、私生活になると人が変わってシナリオを作るのさ。今はタ ミ一色のシナリオだろうな﹂と堺は演説した。 ﹁行くのやめちゃえよ、それなら。おまえもタミが気になるんだろう﹂ ﹁そりゃ、まあ、おれも人並みに女にはうるさいほうだからな。野木を からかうのもおもしろくてな。わりあい、奴と気があうところもある。 野木か? そりゃ行くさ。目標がない現状では、おれたちと釣りさ﹂と 言って堺は笑った。 ﹁もう少し考えさせてくれ﹂とシズオはあらためて言った。 ﹁おい、そんなに頭を悩ますことか。帰りまで決めてくれ。車のつごう もあるんだ。おっと、来たぜ、子分が﹂堺はしゃがんだままメルセデス のまわりを歩き、こっそり姿を消した。 シズオはスポンジで車体の屋根から円を描くように洗い始めた。所長 の気配を感じながら、釣りかタミの店に行くかどうしょうかと悩んだ。 どちらも行きたいのとそうでないのと半々だった。 ﹁苦情だ、シズオ。今はおれの胸でとめておけるが、社長の耳に入った らどうにもならんぞ﹂と所長はボールペンを突き刺すようにシズオにむ けた。 ﹁所長、おれは、ビデオを借りたいと言っただけですよ﹂シズオは平静 に答えた。 ﹁ここで頼まないで大田さんの店に行けばいいだろう﹂ ﹁そうなんですが。所長、ビデオにもいろいろあるじゃないですか﹂と 言ってシズオはニヤっと笑った。 ﹁いろいろ?﹂ ﹁そうです、いろいろ﹂ ﹁いいか、シズオ⋮⋮ああ、もういい。傷をつけるなよ!﹂と所長は怒 った目でスタンドをぐるっと見回した。それから野木はどうした、と鬱 憤をはらすようにわめいた。 ▽ シズオは七時になっても釣りかタミの店か、それとも両方ともやめよ うかと迷っていた。だからといってアパートの部屋でごろごろしている のもいやだった。仕事を終えて彼は二階の更衣室で着替えていると、堺 と野木が声をかけてきた。 ﹁シズオ、話がまとまったぞ﹂と堺はニコニコして言った。 ﹁まだ迷っているんだ﹂とシズオは力なく答えた。 ﹁だろうな。堺が酒も飲みたいとぬかしてな。そんなわけでよ、酒と女 と釣りの夜ってことで、まとめてしまったわけだ。文句あるか?﹂と野 木は髪の真ん中のわけめにそって右手の中指をたて、顔をほころばせた。 ﹁シズオ、酒を飲み女を抱いて、それから釣りさ。なんで、今までこん なアイデアが浮かばなかったのか不思議だぜ。乗るだろう? へへへ﹂ と堺も興奮していた。 ﹁なるほどな、うまい考えだ。おい、おれは乗らねえよ﹂とシズオはは しゃいだ。 ﹁このやろう、もったいぶるんじゃねえよ。野木、蹴ってやれ﹂高い声 をあげて堺は野木をけしかけ、大笑いした。 ﹁おまえたちに乗ったら酒臭く、魚臭くて、どうしょうもない。乗るの は女と決まってる﹂とシズオは二人の頭をはがいじめにして﹁さあ、突 撃するぞ!﹂と怒鳴った。 堺と野木もそれにつづいて奇声をあげ、それぞれ釣り竿とエサは車に 用意してあるとシズオに言った。野木は堺にどんな車か聞いた。カロー ラ・だと彼は答えた。野木はもっとでかい車はなかったのか、と冗談と もつかない口調で詰め寄った。なんでもいいだろう、と横からシズオが 口をはさんだ。すると野木はなさけないなぞ、と堺に言った。堺もむき になって魚釣りだぞ、と言い返した。そうだ、そうだ、とシズオも堺に 加勢した。野木は馬鹿にしたように笑った。おまえらこれから何処に顔 を出すんだ、と得意そうに堺とシズオの顔を覗いた。二人が口をあけな いうちに野木は、まず女を釣りあげて夜のハイキングってことだろう。 カローラ・に女二、三人はむりだ。どうやって女を抱くんだ。シナリオ も考えないで遊ぶなんてどうかしてるぞ、と怒った。 釣る場所は町のはずれの川だった。堺はシズオに奴の仕事と私生活の 使い分けは見事だろう、と小声で言った。野木、二、三人なんて欲って ものだ、とシズオは笑った。野木はなんでも 段 O 階ってものがあるのを 忘れるな、と不機嫌になった。シズオは仕事でもそうあってくれと、言 い返した。堺はけらけら笑った。 陽が少し短くなった。シズオは昼間のつなぎトンボのことを思い出し た。堺と野木を見ていると女を釣るのではなく、釣られてまる裸にされ、 通りに放り出されるのがおちだ。シズオも今日は酒に潰れて、まる裸に され、外に放り出されたいと密かに願った。 問題だったのはどの店に入るかだった。シズオはタミのいる店を望ん でいたが、口が裂けても言えない。堺は女の数が多い店が好みだった。 自然と店選びは野木にまかせるようなかたちになった。もっとも野木は 最初から選ぶつもりでいたのだろうが。 堺はシズオの背中をつっつき、奴はタミの店を選ぶぞ、三人なら堂々 と入れるからな、と笑った。内心、シズオは野木に感謝したくなった。 タミの店を選ぶように祈った。 ﹁野木、早いとこ決めてくれ﹂とシズオは野木の肩に腕を回した。 ﹁ああ、わかってる。シナリオ通りなんだぜ﹂と野木は髪のわけめをひ っかき、緊張した顔で答えた。 つまり、ダシに ﹁へへへ、結末はこうだろう。野木はかくてタミをものにしたのである﹂ と堺は演説した。 ﹁そうかい。堺、おれたちは邪魔になるな。違うか? されたってことだ? 演出、野木タラシ﹂とシズオはおどけた。 堺はげらげら笑って、野木になんとか言ってみろ、と怒鳴った。 ﹁おまえたちは脇役だ。しかし、おれも情けのある男だ。シズオと堺に も女をあてがうようにしてある。二人だぜ。両手に花だ。選ぶ権利はな い。覚悟しな。無神経なおまえたち。脇に滑稽味をださなくてはな﹂と 野木も負けてはいなかった。 ▽ 野木はさんざん迷ったふりをして選んだ店は、堺が予想したようにタ ミのいる店だった。シズオも野木と堺をダシにして来たことになる。し かし、いざ木製の白いドアの前に立つと気後れがした。二カ月振りに入 るのだ。タミは人気ナンバーワンというから、店を動きまわる姿しか見 ることができない。 堺が先にドアを押した。野木、シズオと店内に入った。客の姿はない。 タミもいない。バーテンがビールを冷蔵庫に入れ、空ビンをケースの移 していた。店のホステスも五人だけだった。勢いこんで来たので、閑散 とした店内に違和感を覚えた。それはシズオだけでなく、堺、野木も同 じだったようだ。 ﹁様子が変じゃねえか。野木、選択を間違ったぞ。シナリオを書きなお せよ。早く﹂ ﹁カウンターはやめて、あっちに座るぞ﹂と野木は指差した。 ﹁まだ八時前だ。早すぎたな﹂とシズオは腕時計を覗いて言った。 五人のホステスはよそよそしかった。それとひそひそ話している。U 字型の席に座ったシズオ、堺、野木など目に入らないらしく現われなか った。 ﹁ねえちゃん、ビール持ってこいよ﹂と堺は立ちあがって声をかけた。 ﹁堺、河岸を変えるぞ﹂と野木はたばこに火をつけた。 ﹁来たばかりだろう﹂と堺はシズオの顔を見て言った。 ﹁うん、またシナリオを書き換えたよ﹂ ﹁おれとシズオにつく二人の女はどうなった?﹂と堺は身を乗り出した。 ﹁カット﹂とあっさり答えてから﹁脇はそんなものさ﹂と笑った。 ﹁シズオ、とんだ釣りだせ﹂と堺は憤慨した。 バーテンがビールを運んで来て、めんどくさそうに肴の注文は何にす るか聞いた。 野木がきっちりシナリオを書い ﹁おい、愛想がないな。大宮、閉店時間じゃないよな。おれたち三人は 馬鹿面してここに座っているのか? てきたんだ。筋道を通せよ。だろう、野木?﹂ ﹁書き換えたって言ったろう﹂と野木はバーテンの見上げた。 ﹁もしかしたら、早く閉店するかもね。事件だって話なんですよ。雇わ れママも半泣きで﹂と大宮は他人ごとのように言うと、三人から離れて 行った。 なんとなく互いにビールを注いだり、注がれたりして飲みながら椅子 に座っていた。シズオはどこかホッとした気持ちもあった。タミとはた とえ店でも顔を合わせないほうがいいのだと思った。 ﹁まさかタミじゃないよな﹂と野木は髪のわけめにそって動く中指をぴ たっととめた。 ﹁ありえるな。金と男が心配してくれるさ﹂と堺は言った。 野木はそれを聞いていやな顔をした。 シズオは昼間一時停止のところで会ったタミをまた思い出した。白い ズボンとTシャツが眩しかった。笑った顔の裏に何が潜み渦まいていた のか。彼はタミについて何も知らない。年齢は同じくらいか。それもは っきりしない。 三本のビールを飲むと野木が出る時間だと言った。がらんとしたホー ルを横目に見てシズオは二人の後についた。 ﹁おれたち釣りに行くけど、付き合ってくれよ。酒、飯代持ちなんだけ ど。店にいてもしょうがないだろう。せっかく来たんだ、つれなくする なよ﹂と堺は五人のホステスを口説いた。 シズオは先に店を出て通りを見ていた。盛り場を歩く人の姿はまばら だった。少し後から野木が現われた。 ﹁シズオ、今夜に限って事件だぜ。人生の不意打ちってやつだ。町立病 院に運ばれたらしいな﹂ ﹁野木のせいじゃないだろう。運ばれた? 誰かわかったのか?﹂ ﹁タミじゃないかって話だ。出勤前だったからな。やっぱり行くべきだ った。今日もおれがそばにいるべきだった。シズオ、そうだろう。おれ はそうシナリオに書いたつもりなんだ﹂ ﹁今日もって、部屋まで行ったことあるのか? タミと。野木!﹂シズ オは自分でもあわてていると思いつつ、早口になった。 ﹁いや、ない。あるわけない。あくまでもシナリオだ、おれの夢さ﹂野 木はすっかり力を落とし、しゃがみ込んだ。 シズオは妙に安心して、野木と並んでしゃがんだ。堺は戻って来ない。 裏口から女を連れて消えたのだ。あいつのやりそうなことだった。シズ オは野木の好きなようにさせておいた。病院に運ばれたのはタミでない ことをシズオは祈った。 ﹁野木、そろそろ行くぞ。堺はうまいことやったらしい。立てよ﹂ ﹁おれ、病院に行ってくる﹂と野木は頭を半分だけおさえると言った。 ﹁野木、そう簡単にシナリオを書き換えるなよ。おれと堺はどうなるん だ?﹂ ﹁シズオ、うるさいな。つづきとしておく。いいな、次につづく、だぞ﹂ ▽ 野木は盛り場の通りからタクシーに乗った。シズオは一人で飲みたく なかった。大田のビデオ店をひやかしてみようかと思った。だが何もあ の男の機嫌をとるまねはしたくない。まだアパートに帰りたくない。気 待てよ。おい!﹂ 持ちが足にもうつり、崖っぷちを歩くような進みかたになった。 ﹁シズオ! シズオは振り向くと堺が手をあげて呼んでいた。横に女が一人いた。 堺は女の手をひき急いでシズオのほうに走って来た。 ﹁おれにかまわないで行けよ﹂とシズオは女の顔を見て言った。女は微 笑んだ。膝下まである袋のような黄色いスカートをはいていた。 ﹁メイだ。仲間のシズオだ。シズオは小学校の同期でな。スタンドで仕 事して初めてわかったんだ﹂と堺はシズオとメイにそれぞれ紹介した。 ﹁野木は病院に行った﹂とシズオは堺に言ってから、女にタミのことを 聞いた。 ﹁ぜんぜん、わからない﹂とメイは返事をした。 ﹁それが、まだ、誰だかわからないらしい。そうだろう、メイ?﹂と堺 は女の髪を自分の人差し指にまきつけていた。 ﹁ママは温泉。代理のママはあのざま 。 大 宮 は 妙 に は り き っ ち ゃ っ て 。 堺さん、バーテン、わきまえていなじゃないの。指図なんかしちゃって﹂ とメイは胸をさかんに気にしながら文句をならべた。 ﹁そういうわけだ、シズオ。おれたちで飲むんだ。メイ、シズオもいい だろうな﹂ ﹁あんたよりましね。それに、安全かもね﹂ ﹁馬鹿やろう、二人のほうが危ないんだぞ。おれは、そんな、なんてい うか、卑怯なまねはしない。楽しく、そうよ、楽しく飲むのさ﹂と堺は シズオの様子をうかがいながら、太っ腹な男を演じた。 ﹁とにかく、早くしてよ。シナリオができてるって何?﹂ ﹁もう一人いた男のことだ。シズオ、おまえシナリオ書けよ。奴がいな いんだ﹂ ﹁メイの好きにしな。なんたって、夜は短いからな﹂とシズオはわけの わからないことを言った。 堺はメイの腰に腕を回し、へへへと笑って先に歩いた。野木はどうし ているのかシズオは気になった。堺と一緒にいてもおもしろくない。メ イと楽しくやればいいのに、堺はなぜ呼びとめたのか。 ふと一人で釣りに行こうかとシズオは思った。堺はメイの尻に手をの ばす。そのたびにたたかれている。堺はそれでも笑いながらメイの耳に 顔を近づけ囁く。 シズオは堺とメイのそばに駆け寄った。車の鍵を貸せと彼は堺に言っ た。 ﹁三人で行くんじゃなかったのか?﹂と堺は驚いたような声をあげた。 ﹁釣りはいつでもできるさ。今日は二人で飲めよ﹂ ﹁あんた、キザね。わたしも釣りに行くんだから﹂ ﹁へへへ、シズオ、そういうわけだ。この野郎、ついて来い。メイ、お まえも言ってやれよ。キザは図星だろうな。へへへ﹂と気持ちよさそう に堺は笑った。 堺はメイに飲みに行く店をまかせた。すると彼女は盛り場の本通りか ら狭い小路に方向を変えた。そして突き当たるまで進んだ。そのあいだ に店は一件もない。モルタルの壁と木造の壁がつづくだけ。男と女の口 喧嘩や水が流れる音、演歌や民謡が混じって壁と壁のあいだの小路に押 し寄せてくる。堺はシズオにこの小路を知っているかどうか聞いた。シ ズオも初めて知った。堺はメイにおれたちを売る気か、と冗談のような 本音のようなことを言って力のない笑い声をあげた。彼女はここさ、と 堺の腕に両手をからませた。 木の札が店先に下がっていた。無国籍酒場と書いてある。シズオと堺 は顔を見合わせた。メイの後から店にはいった。床が小路の地面より低 くかった。そのはずだ、床がないのだ。地面がそのまま床だった。音楽 も初めて聞くものだ。堺は場違いな店に来たなとシズオに言った。彼も そうだと答えた。人口が一万人に満たない町に利用する者などいないと 思われた。だいたい、酒と女が目当ての客しかいないだろう、と堺は囁 いた。確かに二人に縁のない店だ。シズオは堺に冬までに潰れてるな、 と言った。堺もそうだそうだとうなずいた。シズオと堺は長い名前の酒 をメイを間にはさみ飲んだ。 ﹁シズオ、なんとかしゃべってくれよ。メイ、がぶ飲みするなって。腰 が抜けちゃ、釣りがだめになるんだからな。シズオ、なんとか言えよ﹂ と堺はメイの腰に腕をまわした。 ﹁ラッキーセブンって信じるか? どうだ?﹂とシズオは聞いた。 ﹁宝くじみたいなもんじゃないの、そんなの﹂とメイは興味がなさそう だった。 ﹁奇蹟の話か。もっと具体的なことだ。考えろよ。たとえば愛情につい て﹂と堺はうきうきしながら言った。 シズオとメイはあんぐりと口をあけた。そして、ゲラゲラと大笑いし た。 ちくしょう話題 ﹁あんた、そんな言葉知ってたの? まさに奇蹟だ。愛情なんかゴミに まいったな。違う話にする? 出したわよ﹂とメイはうんざりしたように言った。 ﹁実りのある話だぜ! を変えるぞ。はずまないな。店がよくないんだよ。メ イ、ここがよかっ たのか?﹂と堺は疑うような口のききかただった。 ﹁目先を変えたくてさ。わたしの気分転換にならないからね﹂とメイは 緑色の酒のを飲んだ。 ▽ シズオは無国籍酒場から出て盛り場の通りに立ったとき、膝がふるえ、 頭はぐるぐるまわった。彼は完全に酔ったと思った。そうなると自分の 意思にかかわらず、どんな顔をして、何をしているのか見当もつかない。 目をつぶり水のなかを泳いでいるようだ。遠くで誰かが呼んでいる。 ﹁メイ、このキザ男の奴、まともに酔ってやがるな﹂と堺はメイの肩に 腕をまわして笑った。 ﹁本当に釣りに行くの? 夜なんて釣れないでしょ。それより、いいこ とするって何さ﹂メイは堺に聞いた。 十時半をまわったばかりか。メイ、お 堺はメイの髪の毛のくちゃくちゃにして、空をあおぎ、へらへらと満 足そうに笑った。 ﹁そう、せかすなよ。何時だ? れは幸福だぜ。充実した夜なんて、めったにないからな。よし、メイ、 腹がへらないように食い物を持って行くぞ。酒も忘れるな﹂と堺は路面 に座ったシズオを起こすのに懸命になった。 メイは堺から一万円札を受け取って、本通りのほうにむかった。 立ちあがったシズオの上体は揺れていた。堺はしかめっつらをして彼 をささえた。 ﹁釣りは中止にするか? 運転は無理だ。シズオ、おまえ一人で帰れよ﹂ ﹁吐いてくる。堺、一度ぶちのめしてやる﹂とシズオは胃のあたりに手 をあてた。 ﹁おれを?﹂堺はシズオをから離れた。 ﹁メルセデスだ﹂ ﹁おれかと思ったぜ。しかし、そうもいかないのが世の中ってもんさ。 吐き出してこいよ。車のなかで店をひらかれちゃ、今夜のデートにケチ がつく﹂と堺は陽気に言った。 シズオはたまりかねたのか、口に手をあてよろよろと走った。彼は小 路の暗闇に姿を消した。女の悲鳴や男の怒鳴る声が演歌の曲とともに小 路を抜けて行く。彼は吐きながら誰か闇に立っていると思った。なぜか 親父のような気がした。顔をあげたが誰もいない。薄闇が広がっていた。 親父もよく吐いていた。それほど酒は強くなかったのだ。今に何もかも が親父に似てくるのではないのか。シズオは口に指を入れ舌の奥を押し た。ウエッとこみあげてくる。胃をからっぽにするつもりだ。涙がでて とまらない。 と女は驚きの声をあげた。そのとき男はもう女を抱き寄せていた。 ギシギシと音がした。シズオは耳をすました。男が何か囁いた。ここ で? 女は抵抗もせず男にしがみついた。シズオは唾を吐き飛ばした。それが もつれあう二人の耳に入ったらしく、相手の男が﹁とっとと消えろ﹂と 怒鳴った。シズオは黙っていた。が、もっとましなところでやれ、と彼 も言い返した。男はそこにいろ、と女が止めるのもきかず、シズオのほ うにゴミを踏む音をたてむかって来た。彼は盛り場を縄張りにしている 組の者でないことを願った。 シズオはまず顔を見られないように両手で覆うと腰を低くした。酒臭 い空気が微かに彼のまわりに漂った。指のあいだから相手の動きを察知 したとき、男の足が彼の左腕を直撃した。もう一回足で蹴られると思っ た。が、狭い小路で自由に蹴ることはできない。勢いこんだ相手は余裕 があるのか、攻撃してこなかった。シズオは上体をのばし体ごとぶつか った。それから鬱憤を晴らすように殴った。女は悲鳴をあげなかった。 こっそり裏口から消えたのか。女が警察に電話をすることを考え、シズ オは相手を蹴って、ゆっくり明るい通りに出た。 堺は廃業した店のまえにいた。メイがいない。シズオは蹴られた左腕 をおさえ堺に急げと言った。メイが戻って来ない、と堺は落ち着かなか った。シズオはこの先にあるラーメン屋のあたりにいるからと早足でそ の場を去った。彼はそっと後ろを振り返った。追ってくるような者はい ない。ひまな店の女たちは通りに出ている。客を引き入れようとしてい た。通りは寝しずまったように人の姿は消えている。 親父がいたとなぜ思ったのか。これまで思い出すことなどなかったの だ。母親と昼間再会したせいか。吐いているときに浮かぶなんて、まの 悪い親父だ。 親父が家を出た本当の理由は何だったのか。シズオはまた考えた。や はり、交通事故を起こしたことで、その後、母親あるいは他のことで何 かあったのだ。いつも、そこで止まってしまう。夫婦のなかを子供にわ かれというのは酷だ。しかし、今になって親父が家を出た理由を知った ところでどうなるのか。彼は母親に会ってから、今日一日肉親につきま とわれ、過去のことが重くのしかかってきた。しかし、親父は亡くなり、 母親は九州に行く。これでわだかまりも、確執もなくなり、母と子は思 い通りに生きていけることになった。 ラーメンのタレの匂いでシズオは胸がむかむかした。彼は早く堺とメ イが現われないかと心待ちにしていた。 ▽ ﹁シズオ﹂と呼ぶ女の声がしたとき彼はドキッとした。母親に呼ばれ たと錯覚を起こしたのだった。誰かとまわりを見回したが、それらしき 者はいない。 ﹁こっちよ﹂ 傘をふる者がいた。シズオは声のするほうに歩いた。メイだった。彼 女は焼き鳥屋から出てきた。 ところかまわずさわってばかりなんだか ﹁いつからこの店にいた? 堺はなかか?﹂とシズオは焼き鳥屋を差し た。 ﹁あいつさ、いったい何? ら﹂ ﹁メイに一生懸命なんだろう。そう悪い奴じゃないから。堺はどうし た?﹂ ﹁ここで待ってろってさ。煙でスカートが臭くなるから出たのよ。あい つ車取りに行ったよ。釣りに行くって﹂ ﹁本当に行く気なのか、あいつ。飲み足りない顔だな。そうだろう? 傘 は?﹂とシズオは聞いた。 ﹁夜露は体に悪いから使えと。でも、これであいつに変なことさせない から。シズオ、あんた、タミと深い仲?﹂ メイがなぜそんなことを聞くのか、シズオは不信に思った。 ﹁店で顔を合わすだけで、深い仲ではないさ。そんなこと聞いてどうす る﹂ ﹁タミからちょっと聞いていたからさ。客の悪口を言っていたら、あん たの話がでたから聞いただけ﹂とメイは買ってきた食料の袋をシズオに 持てと渡した。 クラクションが鳴った。赤いカローラ・が通りに止まった。 ﹁野木が消えて幸いしたぜ。だろう? シズオ。メイ、おれの横に乗れ。 とうぜん、シズオはケツだ﹂と満面に笑みを浮かべ、窓から顔を出して 騒がしく言った。 メイが助手席のドアをあけたとき、堺は﹁待て、待て﹂と言うと車か ら降りた。シズオは﹁どうした?﹂と声をかけると、堺は﹁おれとメイ が後ろだ。シズオ、運転しろ﹂と命令し、さっさと乗り替えた。 シズオはハンドルを握った。盛り場の通りから本通りの商店街にいっ たん出た。商店はシャッターを下ろし静まりかえっている。カローラ・ はバスセンターから左折した。センターの並びにレストランとバーをか ねた店があった。 そこから急にタミが飛び出て来た。シズオは自分の目を疑った。事故 にあったと野木は言っていたのだ。その瞬間彼は急ブレーキをかけた。 堺は怒鳴りメイは悲鳴をあげた。シズオは車をタミの前に止めた。彼女 は逃げようとした。彼は窓を開け﹁おれだ、乗れ﹂と声をかけた。 野木が自分のシナリオ通りに実行するなら、必ず釣り場に現われると シズオは思った。市街地を抜け国道を猛スピードで走った。坂を登り下 った。その間、シズオはむろん堺、メイ、タミは口をきかなかった。無 言のうちに簡易ダム方面の町道に車を乗り入れた。後ろの席で堺とメイ はウイスキーを飲み始めた。ウイスキーの匂いが車内に漂う。シズオも 瓶から直接飲んだ。喉と胃にしみた。彼は黙ってタミに瓶を渡した。彼 女は口をつけなかった。 ﹁タミさん﹂と初めてメイが口を開き﹁事件じゃなかったの? 店の噂 だと事件にあったって。病院に運ばれたって⋮⋮でも無事だから、ねえ、 元気ないじゃないか﹂ ﹁驚いたぜ。とびきりの美人がそろって。野木の奴、ざまあみろって。 タミ、おれたちことは気にすんなよ。仲間なんだからよ。平等といこう や。このことは秘密だ。そうだろう、シズオ?﹂と堺はシズオの頭を後 ろから押した。 ﹁事故なんて知らない。フロリダのアミちゃんがふたつ隣の部屋にいる から、もしかしたら彼女と間違えたのかもね。メイ、ここにいていい の?﹂とタミはやっと話した。 ﹁大宮がいばって指図なんかして、それに客いないしね。日当はこの男 が払ってくれるから平気よ。どこでもさわるんだから﹂とメイは堺の首 に腕をまきつけた。 フ やがて砂利道に出るとあとはどこまでも水銀灯のある場所まで行く。 そこには買い手がつかないログハウスがある。その駐車場に車を止めれ ばよかった。シズオはタミを横に乗せたのはいいが、突然のことで満足 に口もきけなかった。ウイスキーを飲んで気をまぎらわせた。それで完 全に酔っ払い運転になった。堺もメイも悪酔いし、いいだろうとか、や めてよばか、とたわむれ騒いでいた。タミはまっすぐ前を見ている。シ ズオもハンドルを握り事故を起こさないよう注意し運転に集中した。 後ろが静かになった。シズオはミラーをまげて覗くと堺はメイの服 したに手をいれ、まさぐっていた。彼女は傘ことなど忘れぶつぶつ言っ ている。 ﹁おい、メイに男はいないのか﹂とシズオは話しかけた。 ﹁へへへ、シズオ、しらけること言うなよ。メイ、誰か男がいるのか? おれだってよ﹂ ﹁馬鹿が﹂とシズオはミラーをもとに戻した。彼はそのすきにタミの横 顔を見た。 水銀灯の青白い光りは草や木を照らしていた。駐車場に黒焦げになっ た軽自動車が放置してある。シズオは道路寄りに駐車した。タミが最初 に降りた。シズオは外に立ち外気に触れた。やっと堺が降りて来た。メ イは眠っていた。冷たい空気が酔いを薄めてくれる。シズオは後ろのド アを開けた。 ﹁思ったより寒いな。ウグイは釣れないかもな﹂と堺はメイに未練があ るのか、後部席を覗いた。 ﹁釣れるなんて思ってないさ。ここが好きなんだよ。そうだろう?﹂ ﹁まあね。おれ先に行ってるぞ﹂堺は軽く笑うと、気をきかしたのかさ っさと川へ下る坂道を歩きだした。 シズオは後ろのドアを閉めた。 ﹁無理に乗せて悪かったかな?﹂ ﹁気にしないで。でもあのまま店には行かなかったと思う。シズオでよ かったわ。母親に会えた?﹂とタミは答えた。 ﹁たっぷりとね﹂と言ってから、六年振りだとか、その他のことまで口 メイと車に残るか、どうする?﹂ の先に登ったが、シズオは飲み込んだ。いい話ではない。タミも聞きた くないだろう。 ﹁釣りに行くか? ﹁メイは水商売にむいてないのに。馬鹿な女よ。下に行くわ﹂ シズオは頭にヘットライトをつけた。彼が釣り竿とエサ箱、タミにタ マアミを持たせた。彼が水銀灯の明りの輪からはみだそうとしたとき、 タミは﹁考えたことある?﹂と後ろから声をかけた。 ﹁どんなことだ? だいたいのことは人並みに、と思っているけどな﹂ とシズオは答え、タミを正面から見た。 タミは黒っぽいサマーセーターにゆるめのジーパン姿だった。彼女の 背後に荒れ狂って いるのはどんなことなのか、シズオは想像した。男の噂と首をしめつけ る札束。彼はレストランをかねたバーから飛び出て来るタミを目撃した。 彼女の噂の一端をかいま見たことになるのか。 ﹁ラッキーセブンってどう思う?﹂とシズオは聞いた。 それから、彼は七つある水たまりから、ラッキーセブンまでについて 最初から話した。 ﹁母親に会えたんじゃない。ラッキーセブンよ、それが﹂ ﹁おれにはラッキーじゃない。だけど、なんで考えたことあるって聞く んだ?﹂とシズオは気をとりなおして言った。 ﹁生きていると、考えないわけにいかないわ﹂ ﹁考えてばかりもいられないさ﹂とシズオは答えたとき母親の顔が浮か んだ。 シズオは明りの輪から暗いなかに踏み出した。彼はタマアミの柄を持 ち、網のほうをタミに持たせ、はぐれないなように河原のほうに進んだ。 シズオは堺のヘットライトの明りを捜した。彼は堺の名前を呼んだ。 堺はここだと声をあげてからライトをつけた。タミはここにいるから と言って大きな石の陰にしゃがんだ。シズオはヘットライトをタミの頭 につけ、スイッチの位置を教えた。すると彼女は彼の手をつかんでひき よせた。 ﹁おもしろい話してよ﹂タミの声は震えていた。 ﹁そうだな⋮⋮もう、忘れたよ。それより﹂とシズオは答え、タミの手 を強く握りしめた。 堺が早くしろと叫んでいた。シズオはここを動くな、とタミに言って 立ちあがり二、三歩踏み出したとき、彼女が泣くのを耳にした。彼はそ のままその場を去った。 シズオはどうでもよかったが堺に釣れたかと聞いた。ぜんぜんだめだ と返事が返ってきた。彼は堺のそばに立った。ミミズを針に刺し黒い川 に釣り糸を垂らした。 ﹁シズオ、所長ともめるな。奴がいいかげんなのはわかっているけどよ。 ぴんときたよ。シズオ 自分の椅子を取られたくないんだ。誰が所長の椅子がほしいってんだ。 今ごろ大田と飲んでいるな。タミはどうした? に気があるな。うまくやんな﹂ ﹁タミはあのあたりで休んでる。所長も友達がほしいのさ﹂シズオは水 の流れる音を耳にした。 ﹁あいつら友達って関係じゃないな。な、シズオ、ここを出る気でいる のか?﹂ ﹁親に似てきたからな﹂ ﹁よせよ。親は関係ないだろう。親の教訓を生かせよ﹂ ﹁酔ったにしちゃ、冴えてるな。やっぱり、釣りは哲学的なんだな﹂シ ズオは笑った。 ﹁きどったってしょうがないだろう! それによ、いったいお前は何に 耐えてるんだ。そう見えてしょうがないんだよ﹂ ﹁どうにもならないことってあるんだ、黙ってろ!﹂シズオは突然怒鳴 った。 シズオは河原の石につまずき、なんとなく下流のほうへと動いた。そ れは、何気なく口について出た言い草に彼はハッとなったからだ。堺の ヘットライトの明りの輪が揺れ、後ろからついてくる。 シズオはなんということだと腹のなかが煮えくり返った。軽蔑し、顔 など二度と見たくなかった母親だ。その母親が途方にくれたような口調 で言ったことと、同じことが自分の口から出たのだ。 堺はエサ箱を開け、月が雲にかくれなきゃな、と一人言をつぶやいた。 水の音と冷たい空気が酔いを毛穴から吸い取り、高ぶった感情を静めて くれる。堺の釣り糸がライトのなかで光る。ウキは水の流れのなかで揺 れていた。 ﹁釣れるまえに冷えきってしまうな。ウグイもお寝んねだ。車にウイス キーあるのか?﹂とシズオはとりつくろうように堺に声をかけた。 ﹁メイが飲んでなけりゃな﹂とシズオに怒鳴られたことに腹もたてず、 堺はいつもの調子で答えた。 持ってくるか、とシズオは言って河原の石に足を取られながら車をめ ざした。堺が﹁連れて来てくれ! メイだ!﹂と怒鳴った。シズオは、 ああ、と声をあげた。 石の陰にいるタミに車に戻るからと言った。彼女は寒いのか両腕で胸 を覆うようにじっとしている。 ﹁海のほうがよかったな。夜の川はタミに無理か。おい、立てよ﹂とシ ズオは彼女の腕を持った。 ﹁足を洗うわ。ホステスは廃業する﹂とタミはきっぱりと言った。 ﹁おもしろい話、思い出したよ﹂とシズオはタミの手を握り、固い表情 で言った。 ﹁もういいわ﹂とタミは冷たく笑った。 ﹁もういいって! 聞けよ﹂シズオは次の言葉につまった。好きだと告 白するつもりだったのだ。彼は急にタミの手を離した。彼女の気持ちが わかった。タミの手はすでにシズオのぬくもりや言葉を拒否していたの だ。 カローラ・はうっすらと夜露に濡れていた。窓の内側が少し曇ってい る。シズオはドアを開けた。ウイスキーの甘い匂いがした。メイは横に なって眠っている。スカートの裾が太腿までめくれていた。両太腿はぴ ったりと密着している。水銀灯の青白い明りは太腿をろうそく色に染め ていた。彼は運転席に座って、助手席のドアを開けタミを乗せた。タミ と並んで座っていると母親の顔を思い出す。どうにもならないこっとっ てあるのよ。高校を卒業して二カ月たったとき母親が言った。 ﹁もうやっていけるね。どうにもならないのよ。父さんがいなくなって からかな。シズオが一人前になるまでと⋮⋮かあさんはの血のめぐりが 変わったのかね。やっていけるわよね? もう一人前なんだから﹂ 母親のまわりに男の影がちらついたころから、どこか遠くを見つめる ような兆候があった。高校を卒業してからはっきり宣言したとき、母親 の気持ちは遥か彼方に行っていたのだろう。 シズオは室内灯をつけ、ウイスキーの瓶を捜した。メイの足元にころ がっていた。彼はメイの太腿をじっと見つめた。彼は明りを消し、ウイ スキーの瓶を拾うとすぐ口に運び一口飲ん 。セタミは何も言わない。重 苦しい空気が車内にこもった。 ﹁悪かったな、こんなふうな歓迎になって﹂とシズオは謝った。 ﹁わたしのこと忘れてくれない﹂とタミは正面をむいたまま冷静な口調 で言った。 シズオは背もたれに体をあずけ目をつぶり、酔いがまわるのを待った。 タミに好きだと告白しても二人の間は複雑になるばかりではないか。噂 が邪魔しているのか。シズオは自分の気持ちがどこにあるのかわからな くなった。母親の影響だろうか。 メイが起きたのかと思い彼は後ろに首をまわした。彼女の姿勢は変わ らない。 ﹁ねえ、何時?﹂と突然メイが起きた。 ﹁なんだ目が覚めていたのか。二時になるな﹂ ﹁もうそんな時間。あら、タミさんもいたの﹂とメイは目をこすった。 ﹁メイ、堺が下に来ないかと言ってたぞ。釣りを楽しみにしてただろう﹂ ﹁つまんないわよ。釣れるわけないんだから﹂ シズオは車から出た。ふてくされたメイに降りろと言った。彼女は寒 い、眠いとごねて降りなかった。彼はおぶってやるからとなだめた。 ﹁タミ、休んでてくれ﹂ 途中からヘットランプの明りをつけ、シズオはメイをおぶって堺のい る川に向かった。 シズオはメイを降ろし石のうえを歩いた。堺のランプの明りが見当た らない。足を滑らせ川に落ちたのか。シズオは堺を大声で呼んだ。まっ たく応答がない。メイは四つん這いの格好で石のうえを亀のように進み ﹁貧乏な奴と遊ぶとろくなことがない。オーイ、見えないぞ。クソ!﹂ などとさかんに悪態をついた。 シズオはヘットランプを頭からはずし、懐中電灯のように手に持って 河原を照らした。彼はおやっと耳をかたむけた。すすり泣きだった。メ イかと思った。が、彼女は後ろのほうで相変わらず﹁寒い、帰るぞ! 待 てよ!﹂と罵っている。 シズオはすすり泣きのするほうにランプで照らした。泣いていたのは 堺だった。 ﹁どうした?﹂とシズオは駆け寄った。 堺は涙を手の甲で拭き、シズオを見上げた。 ﹁どうしょうかと思ってな。どうにもならないってことだろうよ﹂ 言ってしまえよ。何? ガキみ ﹁あのことか。あのとき、おれがどうかしてただけだ。母親に会ったこ ともあってな。堺、何があったんだ? たいなことだって?﹂ ﹁ガキのころから来ている川を音を聞いてたら、おれはどうなるのか思 ってな。三十歳だぜ!﹂と堺は目を剥いて言った。 シズオは大きくため息をついた。確かにそうだ。堺だけでなく自分や 野木はどうなるのだ。考えたこともないことだった。母親もそう考えい てもたってもいらなかったのか。どうにもならないことってあるものよ、 と母親は言って姿を消したのだ。 ﹁川の流れはいつも川の流れだ﹂とシズオはぽつりと言った。 ﹁なんだよ、それは﹂ ﹁思いつきだ。堺、そろそろ結婚しちゃえ﹂とシズオはメイがいるほう に首をまげた。 ﹁おれに女がいないのわかってるくせに!﹂ シズオはメイの名前を言った。堺は鼻で笑った。何も見えないと暗闇 のなかで騒ぐメイの声が聞こえてくる。 ▽ シズオは運転席、助手席にタミ、堺とメイは後部席で仮眠した。 泣いていた堺とメイは残りのウイスキーを飲んで酔いつぶれた。かす かにカーラジオから軽い音楽が流れていた。彼は眠れなかった。タミと は何も話さなかった。目はつぶっていても彼女も眠っていないようだっ た。朝一番に銀行から母親の口座に金を振り込むのを忘れないことだ。 窓をたたく音でシズオは目が醒めた。後部席に堺とメイは体を寄せあ って眠っていた。動転した彼は窓の外を見た。野木が立っていた。シズ オは思わず﹁野木!﹂と声をあげた。 外に飛び出たシズオは虚脱した野木に驚いた。堺とメイの目が醒めな いように彼は野木を車から離れた場所にひっぱって行った。 野木は一言も話さない。シズオは待った。 ﹁どうした?﹂とシズオはとうとう声をかけた。 ﹁タミがどうしてここにいるんだ?﹂と野木は言った。 タミでないとわかったら、どうしてもっと早く そう聞かれてシズオは車のほうを見た。 ﹁事故はどうなった? 来なかった。何やってたんだ?﹂とシズオは野木の顔を見た。 ﹁タミがここにいるのはおかしい﹂とひきつった顔で野木は髪のわけめ をこする中指を指しながらシズオに迫った。 野木の髪はクシャクシャに盛りあがり、髪のわけめは消えていた。酔 った目がきょろきょろ動き、獲物を狙うように迫った。ずっとタミを捜 し廻っていたのだろう。シズオはこれはまずい、野木は本気だと感じた。 ﹁野木、おまえの予定表、いやシナリオはやめてしまえよ﹂とシズオは 吐き捨てるように言った。 野木は聞く耳をもたない。のろのろとシズオに近づいた。叫ぶと野木 はシズオに殴りかかった。彼は野木から逃げ、体をかわした。泣き叫ぶ 野木に殴られてもシズオは抵抗しなかった。されるままに這いずりまわ った。狂人と化した野木のばか力はシズオの肉体を打ちくだいた。冷た い砂利が顔にあたる。野木は泣いていた。いつのまにか堺が起きてきて、 野木にやめろと怒鳴り後ろから押さえた。シズオはやっと地面から顔を あげた。頭のなかでジーンと音がしている。そのとき車のそばに立った タミと目が合った。確実に遠くに行ってしまった彼女の姿があった。 ﹁この野郎、狂っちまって。シズオに恨みでもあるのか﹂と堺はわけが いいんだ、おれが、痛てえな。おれが悪いんだ﹂とシズオは地 わからんといったふうだった。 ﹁堺! 面に膝をつき、頭を砂利につけた。 堺、野木、タミはうずくまるシズオを黙って見下ろしていた。 シズオが立ちあがるまでの数分間、彼の頭を駆けめぐったのは、父親 と母親の若いときの顔だった。彼はなさけなくなった。涙が少しずつ溢 れた。 野木の高ぶった感情が落ち着いたころ、堺のほうから釣りはおひらき だ、帰るぞと声をあげた。カローラ・に堺、メイ、タミが乗ることにな った。シズオは野木のマーチだった。 ﹁野木、タミはおれが連れて行くからな﹂と堺は命令した。 ﹁シナリオのつづきがあるからな﹂と野木は堺に答えた。 ﹁野木、もうおれたちにシナリオはいらない、そうだろう?﹂と堺は淋 しそうだった。 シズオはマーチのところに立っていた。早くアパートに帰って湿布し て横になりたかった。 ﹁野木、運転たのむぞ。おれはけが人だからな﹂とシズオは痛みをこら え、いつもと変わらないように口をきいた。 野木の運転するマーチは先に出発した。簡易ダムの砂利道から町道へ 出て国道に滑りこみ、市街をめざした。空は明るくなっていた。国道の 坂を登って下ると町が見える。盆地の底にかたまった街並み。山々の裏 に陽の光りが顔を出そうと待ちかまえている。 野木は緊張した面持ちで上体を少し前にかたむけハンドルを握って いた。狭い車内は沈黙に満ち、空気が希薄になり、野木とシズオは息を ひそめていた。 シズオは体中がずきずきするなかで母親のしたたかさを思った。自分 のやることはくだらないと知りつつも、信じているからこそ生きていけ るのではないか。母親はラッキーセブンを予期している。そういう生き かただ。 七つの水たまりのひとつにうかつにも足をいれたことで、ラッキーセ ブンを逃したのだとシズオは悟った。足を入れなかったら、はたして今 夜はどうなっていたのか。 シズオは腫れたまぶたを細く開くと青い空がまぶしかった。今日もう だるような暑さになると思った。 おわり
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