氏名 橋本 ヨミガナ ハシモト 学位の種類 博士(文化財) 学位記番号 博 美 第 488号 学位授与年月日 平 成 27年 3月 25日 学位論文等題目 麻里 マリ 〈論文〉 膠の保存性 論文等審査委員 (主査) 東京藝術大学 教授 (美術学部) 稲葉 政満 (副査) 東京藝術大学 教授 (美術学部) 桐野 文良 (副査) 東京藝術大学 教授 (美術学部) 関 (副査) 東京藝術大学 教授 (美術学部) 木島 隆康 (副査) 東京藝術大学 准教授 (美術学部) 塚田 全彦 出 (論文内容の要旨) 膠の歴史は大変に古いが、科学的に高分子材料としての形式知に置換された歴史はとても浅く、その蓄積 は未だ十分とはいえない。文化財の修復や、新たに作品の材料として使用されるためには、確実な保存性を 証した材料であることが必須である。しかし現在、膠の製造方法が大きな転換を迎えており、今後製造され る 膠 の 保 存 性 の 確 信 を も つ に は 至 っ て い な い 。膠 を 展 色 剤 と し た と き の 塗 膜 の 耐 久 性 に 係 る 塗 布 時 の 方 法 や 、 その塗膜自体の膠に起因する変化を、使用する膠の性質とともに検証することが急務である。本研究では膠 が用いられている文化財の保存性を高めるための基礎的データを得ることを目的とした。 第 1章 で は 膠 の 歴 史 、特 に 近 現 代 に お け る 膠 製 造 の 業 態 と 、膠 の 種 類 に つ い て 概 観 し 、現 在 美 術 工 芸 分 野 に おいて強く懸念されている問題を明らかにすることで、本研究の目的を示した。また、これまでの膠に関す る科学的な既往研究を網羅した。 第 2章 で は 、日 本 画 用 に 用 い る 膠 の 使 用 可 能 な 時 間 を 検 討 し た 。膠 を 溶 解 す る 時 、膠 溶 液 を 沸 騰 処 理 す る こ とで殺菌すると、膠溶液の使用可能な時間を大幅に延長できることを福田喜美子が示唆した。本研究では飛 鳥 膠 を 試 料 と し 、 12.5質 量 %の 膠 溶 液 を 60℃ 10分 、 80℃ 60分 、 沸 騰 60分 お よ び オ ー ト ク レ ー ブ (121℃ )60分 加 熱 処 理 し 、溶 液 の 粘 度 変 化 お よ び 溶 液 中 の 菌 の 活 性 を ATP法 で 測 定 し た 。そ の 結 果 、飛 鳥 膠 溶 液 は オ ー ト ク レ ー ブ (121℃ )で 60分 間 処 理 し な い と 、完 全 滅 菌 は で き ず 、こ の 場 合 、保 管 中 に 菌 が 増 殖 す る こ と な く 、膠 の 粘 度 も 低 下 し な か っ た 。 し か し 、 通 常 (60℃ )の 溶 解 を 行 っ た 場 合 の 飛 鳥 膠 の 膠 溶 液 の 粘 度 は 約 10mPa・ sだ が 、 オ ー ト ク レ ー ブ 処 理 直 後 の 粘 度 は 熱 処 理 に よ り 、 約 8~4mPa・ sに 低 下 し た 。 60℃ 10分 、 80℃ 60分 の 加 熱 で は 2 日 目 か ら 膠 溶 液 の 粘 度 が 急 激 に 低 下 し 、 ATP量 も 2日 目 に そ の ピ ー ク を 示 し た 。 沸 騰 60分 の 加 熱 試 料 で は 、 急 激 な 粘 度 低 下 お よ び ATP量 の ピ ー ク ま で 保 管 時 間 が 60℃ 10分 お よ び 80℃ 60分 の 加 熱 試 料 と 比 べ て 半 日 か ら 1日 遅 く な り 、2日 目 ま で の 物 性 低 下 は 少 な い 。し か し 、沸 騰 処 理 を 継 続 し た 場 合 に は 30分 で 0.5 mPa・s程 度 ず つ 粘度が低下するため、沸騰させ続けることはやはり望ましくない。以上の結果から、どの加熱処理を行った 場合でも膠溶液の粘度は経時的に低下することから、作品の保存性を考えるならば、膠溶液は出来るだけ調 製後直ちに使用するのが良いとの結論に至った。 第 3章 で は 絵 画 用 膠 の 紫 外 線 照 射 に 伴 う 耐 光 性 を 評 価 し た 。プ ル オ フ 法 を 膠 塗 膜 の 評 価 に 応 用 し 、ま た 、試 料 は 伝 統 的 な 木 材 彩 色 の 手 法 を 模 し た 方 法 で 塗 膜 試 料 を 作 製 し た 。 ま た 、 市 販 の 8種 類 (三 千 本 膠 、 京 上 膠 、 軟 靭 鹿 膠 、播 州 粒 膠 、楓 膠 、飛 鳥 膠 、特 殊 鹿 膠 、兎 膠 )を 用 い 、流 通 し て い る 製 品 を 広 く 対 象 試 料 と し た 。カ ー ボ ン フ ェ ー ド メ ー タ ー を 用 い て 紫 外 線 を 各 々 の 塗 膜 試 料 に 900時 間 照 射 し (ブ ラ ッ ク パ ネ ル 温 度 63℃ 、 屋 外 の 紫 外 線 曝 露 量 と し て お お よ そ 2年 弱 相 当 )、 膠 塗 膜 試 料 の 付 着 強 度 (プ ル オ フ 法 お よ び ク ロ ス カ ッ ト 法 )お よ び色の変化を測定した。また、膠試料自体への同条件での紫外線照射による膠溶液の粘度変化を測定した。 そ の 結 果 、膠 そ の も の へ の 900時 間 の 紫 外 線 照 射 で 、特 殊 鹿 膠 以 外 の 各 々 の 膠 の 粘 度 に は 変 化 傾 向 は み ら れ な か っ た 。次 に 各 塗 膜 試 料 へ の 900時 間 内 の 紫 外 線 照 射 で は 、特 殊 鹿 膠 を 除 く 膠 で は ク ロ ス カ ッ ト 法 で 三 千 本 膠 および播州粒膠の付着強度が低下しているようにも見えたが、膠の粘度も含め概ね変化せず、以上から今回 用 い た 紫 外 線 照 射 量 に 対 し て は 十 分 な 耐 光 性 を 示 し た 。し か し 、特 殊 鹿 膠 に つ い て は 225時 間 内 の 紫 外 線 照 射 により水に不溶となり、またプルオフ法によるその膠塗膜の付着強度も上昇したことから、塗膜自体が重合 している可能性がある。さらに、膠塗膜の色変化も他の膠試料よりも大きかった。以上の結果から特殊鹿膠 は化学変化しやすい膠であり、絵画制作において作品の保存を考慮したとき、その使用は望ましくないと結 論した。 第 4章 で は 平 成 の 大 修 理 を 控 え た 平 等 院 南 門 に 新 し く 塗 装 を 施 す に あ た り 、塗 装 法 の 検 討 を 行 っ た 。南 門 部 材には多孔性の下層、化学ペイントと考えられる緻密な上層がそれぞれ剥落しながら残存しており、この部 材に新しく塗装を施す修理が計画された。そこで、旧塗膜層を除去する程度によって膠塗料の再塗布による 塗膜全体の付着強度を評価した。付着強度は従来から行われているクロスカット法に、定量的に測定できる プルオフ法を新たに導入した。その結果、化学ペイント層と考えられる上層は完全に除去する必要性がある が、多孔性の下層は残存していても問題ないことを明らかにした。しかしながら、実際の現場での作業にお いては厳密な除去程度のコントロールは困難なことから、完全に旧塗膜を除去するのがよいということとな り、この結果に基づいて平等院南門と鳳凰堂の再塗装が実施された。 膠の絵画材料としての物性を科学的に定量検証し、普遍的に適用できる研究方法を確立することが急務で ある。本研究では、様々な膠を対象とし、また、様々な要素によって構成される伝統的な彩色法に則って試 料を構成し検証を行った。得られた結果は、作品上での膠の実際の挙動に関して、重要なデータであり、今 後本研究の研究手法により、他の様々な劣化反応に対しても、実際の使用に即した新たな知見を得る可能性 を示した。 (総合審査結果の要旨) 膠は日本画の展色剤としてなど、多くの文化財に使用されている重要な材料である。この膠の保存性に関 して基礎的な検討を加えた研究である。 はじめに、膠溶液を作成した後の微生物による膠の劣化を溶液の加熱処理の程度によってどのように変化 するかを検討している。膠の劣化はその分子の切断を直接反映し、初期の劣化をとらえられる粘度法を用い て お り 、こ れ は 従 来 行 わ れ て い る 接 着 強 度 試 験 よ り も す ぐ れ て い る 。ア デ ノ シ ン 三 リ ン 酸 (ATP)量 に よ り 微 生 物 量 を 測 定 し 、 最 近 提 唱 さ れ て い る 沸 騰 処 理 を 行 つ て も 、 30℃ で 保 管 し た 場 合 に は 2日 程 度 ま で の 使 用 に 留 めるべきであるとの結論を得ている。 ついで、日本画で用いられている各種の膠の耐光性試験を行い、特殊鹿膠に関しては変色が大きく、化学 変化が大きいが、他の膠には耐光性においてあまり差がないことを明かにした。 最後に建造物の再塗装において以前の塗膜層をどこまで削ればよいかを従来用いられている付着性試験で あるクロスカット法にプルオフ法を加えて実施している。前者は塗膜に切り込みを入れて粘着テープで剥離 程度を観察する方法であり、手軽であるが定量性に書けている。一方、プルオフ法では塗膜表面にドリーと いわれる金属を接着してドリーを持ち上げて剥離するときの強さを定量的に測るものである。このプルオフ 法の文化財への応用は知る限りにおいて始めてである。この手法により、平等院鳳風堂での塗装前処理方法 を提案し、今回の平成修理に寄与していることは大きな成果である。 申 請 者 は 最 近 設 立 さ れ た 膠 文 化 研 究 会 の 運 営 に も 積 極 的 に 参 加 し 、膠 製 造 の 体 験 会 な ど へ の 参 加 も 含 め て 、 幅広く膠に関する知識と経験を深めており、この点も評価できる。本研究は膠の劣化現象などに関しての高 度な科学的検討を行ったものではないが、文化財への膠の実際の使用方法に関わる点での疑間を解き、現場 での使用方法に方向性を与える有用性の高い研究と言える。また、得られた成果は文化財保存修復学会誌な ど に 2本 の 論 文 と し て す で に 発 表 し て い る 。よ っ て 、博 士 (文 化 財 )の 学 位 を 授 与 す る に 十 分 な 内 容 の 論 文 で あ る。
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