読書会レジメ (ラッセル『結婚と性道徳』) 第19章 2010.2.27(松下) 性と個人の福祉 ・本章では、性と性道徳が個人の幸福と福祉に及ぼす影響について、前述したことを'要約' ○性道徳は、幼年期、思春期、さらに老年期まで、ありとあらゆる形で、状況に応じて、良く も悪くも影響する。 [時期別影響] (本書は 1929 年に出版されたものであり、第二次世界大戦後、性道徳は激変したことに注意) (1)幼年期(+少年期) 1)因習的な道徳は、幼年期に「タブー」を課すことで、その活動(影響)を開始 ・性器を(過度に)さわってはいけない ・子供の自然な興味から生ずる質問(例:子供はどこからくるの?) → 親の'はぐらかし'あるいは、質問封じ(子供の性的な関心をそらそうとする親) あるいは「嘘」(嘘をついてはいけないと不断いっていることと矛盾する。) ↓ ・性的なことに関し、「親の言うことに反する行為」をしてしまう(例:マスターベーシ ョンをしているところを親にみつかる)と、強く注意される。 ↓ ・注意されてもやめられず、こっそり「罪」を犯すことになる。 ・性的な事柄に結びついた、根深い罪悪感と恐怖感(一生涯続く病的な基礎)が根付い ていき、無意識的なものとなる。(その後、「知的には」「意識的には」克服しても 「意識下では」「無意識の世界では」その人の情緒を支配する。) ・また、子供のころ「嘘をつくことに慣れる(嘘をつく習慣がつく)と、成人しても平 気で嘘をつくようになる。(←ラッセルは「知的」誠実性を非常に重要なものと考える。) (格言)サディズムとマズヒズムのいずれも穏やかなかたちでは正常なものだが、表れ方が有害な場 合は、性的な罪悪感と結びついている。 マゾヒストは、性に関して自分自身の罪を痛切に意識している人である。 サディストは、誘惑者としての女性の罪をいっそう意識している人である。 (もちろん、サディスト一般を言っているのではなく、性的なマゾヒストのこと) ○子供の生活を支配すべきものは、罪悪や、羞恥や、恐怖ではない。子供たちは、幸 福で、ほがらかで、自発的であるべきである。彼らは、自分たちの衝動を恐れるべ きでなく、「自然の事実の探求」からしり込みすべきではない。・・・。子供を知 的に正直で、社会的に恐れを知らず、行動においても活発で、思想において寛容な、 真っ直ぐな男女に成長させたいと思うなら、こういう結果が可能になるように、最 初から(幼児から)、子供の訓練を始めなければならない(幼児教育の重要性)。 2)思春期 (因習的な性の取扱から生じる不幸は、子供時代よりも大きい。) ・思春期は「性衝動」がとても強いので、強迫観念にとらわれやすい。・・・。また、比 較的優れた少年の中には、理想的な愛に対する、極端な理想主義の衝動も同居している。 即ち、思春期における「理想主義的な衝動」と「肉欲的な衝動」との「分離」存在 → 後者の衝動(ラッセルの経験):メイドが衣服をぬぐところを覗き見(『ラッセル自叙伝』) (サモアの例/英国のパブリックスクールの例(男子だけ分離した場合の影響)) ・大半の青年(第二次世界大戦前)は、成人になったばかりの頃、性に関してまったく 不必要な悩みと困難とを経験する。 → もしも、売春婦のもとへ行くなら、思春期に始まっていた「愛の肉体的な面」と 「愛の理想主義的な面」との分離が永続的なものとなり、その結果、彼の対女性関 係は、それ以後プラトニックなものになるか、あるいは、彼が思い込んでいるよう に、品位を下げるものとならざるをえない。(「愛の理想主義的な面」を持っていない 男性は別だろうが・・・。) ・現状では(第二次世界大戦前)、生涯、未婚のままでいなければならない多数の女性 にとって、因習的な道徳は苦痛であり、また、たいていの場合有害である。 ・育ちの良い若い女性は、その性衝動が強ければ、求愛されたとき、男性と真に気性が 合うことと、単なる性的魅力との区別ができない(場合が少なくない)。(芸能界?) 彼女は、自分を初めて性的に目覚めさせた男とあっさりと結婚してしまう。そうして、 自分の性的な飢餓が満たされたとき、もう男と共通するものは何もないことに気づい ても、遅すぎる。(離婚会見:「性格の不一致」「考え方の相違」) ・たぶん、妻が苦しんでいるまさにその時に、夫は妻の冷淡さに腹を立てている。こ ういう不幸はすべて、沈黙と上品というわれわれの方針が招いたものに他ならない。 ○男女の愛は、最上のかたちでは、自由で、ものおじしないものであり、肉体と精神が等 しい割合で合成されたものである。肉体的基礎があるから理想化することを恐れず、肉 体的基礎のために理想化がさまたげられはしないかと心配することもない。 ○「男女の愛」と「親子の愛」は、われわれの情緒生活における2つの中心的な事実であ る。因習的な道徳は、男女の愛を卑しめながら、親子の愛を賛美するふりをしてきたが、 実際は、「親の子供に寄せる愛」は、親同士(夫婦間)の愛を卑しめたために損なわれ ている。(愛に飢えて、ひもじく、あせっている親たちは、無力な子供に手を伸ばし、少しで もいい、自分たちが結婚生活で得られなかった養分を求めようとする。そして、そうすることで、 子供の心をゆがめ、次世代にとって同じ苦労の基礎を作っている。) (格言)愛を恐れることは、生を恐れることであり、生を恐れる人々は、既に死んだも同然 である。(To fear love is to fear life, and those who fear life are already three parts dead.) 第 20 章 人間の価値の中の性の位置 ・性的なテーマを扱う著者は、そういうテーマは口にすべきではないと考えている人々から、 「その問題に不当にとりつかれていると非難される危険」に常にさらされているが、 ・・・。、 こういう見方をされるのは、因習的な道徳の変革を主張する人々の場合に限られてい る。・・・。しかし、たとえば、売春婦をいじめるように盛んに訴える人々などの方が、 ずっと「性的妄想」にとりつかれている。 ↓ ・「峻烈な道徳」は、通例、’好色な感情に対する反動’であり、そういう道徳を口にする 人は、通常、頭の中は下品な思想でいっぱいである。 ・性的な話題にとりつかれているのは罪悪である、と考える点ではまったく教会の意見に 賛成であるが、この罪悪を避ける最善の方法については、教会の意見には反対である。 ・欲望は禁じられるとそれだけ刺激される。(飲食、アルコール、性・・・) ・性は、人間生活における最上の財産のいくつかと結びついている。・・・。最重要と思わ れる3つの財産は、叙情的恋愛、結婚の幸福、及び芸術である。・・・。あらゆる種類の 美的想像への衝動は、「心理的にみれば」求愛と結びついていることは、(直接的あるい は明白なかたちではないにしても)かなりあきらかである。 □ 性的衝動が芸術的表現をとるための条件 1)芸術的才能 ・芸術的才能は、特定の民族の内部でも、ある時代には凡庸であり、ある時代には非 凡であるかのように思われる。→ 生まれつきの才能に対立するものとしての環境 が、芸術的才能の発達に重要な役割を演じている、と思われる。 (「因習的な意味で」道徳的であった社会は、偉大な芸術を生んでいない。) 2)ある種の自由 ・それは芸術家に報酬を与えることを旨とするような自由ではなく、・・・芸術家を 俗物にしてしまうような習慣に陥らせないことを旨とするところの自由である。 (アメリカ人が外国人の芸術家に惜しみなくふるまおうとしている報酬は、否応なしに、彼 らの芸術の死をもたらすにちがいない。) ・因習的な道学者の最も危険な錯誤の1つは、性をなおさら罵ることができるように、 性を性行為に還元してしまうことである。 → 芸術家が必要とする性的な自由は、’愛する’自由であって、見知らぬ女で肉 体的要求を満たすような粗野な自由ではない。 □ 成人の生活の複雑な欲望を生み出している衝動 ・自己保存のために必要なものを除けば、権力、性、親子関係が、概ね、人間のすることの 源であると思われる。 ・小さい子供の「力への憧れ・欲望」、「虚栄心」(ほめられたいという願望と、しかられ たり、のけ者にされたりしないかという恐れ) ・好奇心や知識の探究も、 「権力愛」 (力への愛)の一部として見てよいだろう。知識が力で あるなら、知識愛は権力愛に他ならない。 ・政治全体を通して、よきにつけ悪しきにつけ、主要な2つの力は、経済的な動機と権力愛 である。フロイトの路線に従って政治を解釈する試みは誤りであると思われる。 ○ 世界を理解しようとする欲求と、世界を改革しようとする欲求とは、進歩の二大原動力であ り、これがなければ、人間社会は停滞するか、後退するしかないだろう。
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