3 月 30 日 光の子であるキリスト者 目の不自由な人は、他の五体満足 の人が見える光を見ることができ ません。それゆえ健常者は盲人に情 けをかけることもあるでしょう。目 の不自由な人は生活の様々な場面 で限られた世界を感じることもあ るかもしれません。しかし、もしそ の盲人が神を知る者なら、その人の 心の目は開いており広い視野を持 つ者となります。逆に言うと、心の 目が塞がれている人は、体の目が不 自由な人のこの世の物理的な面でよく例えられるでしょう。心の目が塞がれて いるということは、キリスト教的観点から見て、神を全く知らない人の人生を 意味するからです。この世にいる間その人はどこから来てどこへ行くか分から なくて、歩むべき道を全く知りません。一方でキリスト者の有様はだいぶ違い ます。たとえ体の目が不自由でも心の目が見えるのですから、彼は「光の子」、 神の子、イエスの兄弟となり、 「まことの光で、世に来て全ての人を照らす」イ エスの証し人となります。オリエンスのパンフレットにあるように、 「キリスト はあなたを照らされる」 (エフェソ 5.14) とあるとおりです。典礼の三つの朗読 16.1b, b,16 16, 10‐ (サムエル上 16.1 b, 16 ,6-7,10 ‐ 5.8- 9.1, 13a エフェソ 5.8 -14 ヨハネ 9.1 ,6 13‐ 17, 34‐ 38) ‐9,13 ‐17 ,34 ‐38 )にこだまする主 の光に目を向けましょう。 第 1 の朗読は、イスラエルの王に油注 の朗読 がれるダビデを紹介します。イスラエル の王として神に捨てられたサウルの代 わりに、神はエッサイの一人の息子を選 ばれたのです。神の指示に従って、サム エルはエッサイの家に行きましたが、エ ッサイの 8 人の息子から誰が王に選ばれ るのか全く分かりません。預言者は一歩一歩神によって心を照らされて、まだ 子供に過ぎないダビデに油注ぎます。神の照らしを受けたサムエルは、光の子 光の子 となりましたが、油を注がれたダビデは「その日以来、主(神)の霊が激しく」 となりました 自分の上に降るという恵みに満たされました。 第 2 の朗読は、パウロのエフェソ教会への手紙の一箇所です。エフェソの信者 の朗読 は、信仰に呼びかけられる前、「暗闇でしたが、今は主(イエス)に結ばれて、 光となっています」 。サムエル預言者と同じように心を照らされて、 「何が主に 光となっています 喜ばれるかを吟味し…すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」 。そ れは皆「光となるのです」 。信仰に恵まれることによって光の子となったキリス ト者たちはその光を広げて、 「他の光の子」が生まれて協力するようにと、イエ スに頼まれています。 福音は一般に知られている「生まれつきの盲人」の奇跡です。イエスは先ず 福音 「唾で土をこねてその人の 目にお塗りになった。そし て、 『シロアム…の池に行っ て、洗いなさい』と言われ ました」 。この通りに行った 盲人は視力を取り戻しまし たが、イエスからのお恵み はこれで終わりません。奇 跡に恵まれた人は忍耐強く その証しを繰り返しました が、最終的に「お前は全く 罪の中に 生まれ たの に、 我々に教えようとするのか」と罵られて、外に追い出されたのです。 イエスは、視力を取り戻したこの人を追い出されません。彼に再び出会った 時、 「あなたは人の子 人の子を信じるか」とお聞きになりました。メシアとして描かれ 人の子 る「人の子」 (ダニエル 7.13‐14)について「主よ、その方はどんな人ですか」 と彼が尋ねると、イエスは率直に「あなたは、もうその人を見ている。あなた と話しているのがその人だ」と答えられたのです。彼は「主よ、信じます」と 言い、ひざまずきました。信仰の光に恵まれて、彼も光の子 光の子となったのです。 光の子
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