2015 年 11 月 1 日(日)宝塚市立中央図書館 市民のための現代文学講座 第一回 川上弘美の世界 ―「神様」「神様 2011」と『センセイの鞄』を中心にー Ⅰ 川上弘美について 【年譜】 1958 年 4 月 1 日、東京都文京区に生まれる。 1961 年 アメリカに留学した父についてカリフォルニアへ。3 歳から 3 年間。 1976 年 お茶の水女子大理学部生物学科入学。SF研究会に所属。 1980 年 大学卒業。東京大学医科学研究所の研究生となる(2年間)。 「NW-SF」で編 集の手伝いをし、小説も掲載。 1982 年 田園調布雙葉中学・高校(母校の姉妹校)に勤務(4 年間)。教科は理科・生物。 1986 年 退職、結婚(3月) 。4月から、夫の転勤により名古屋に移住。小説の習作を書き 始める。 1994 年 「神様」で第 1 回パスカル短編文学新人賞受賞。36 歳。 1995 年 「蛇を踏む」で芥川賞受賞。38 歳。 ***** 2009 年 離婚。小澤實と再婚。 【主な小説】 1996 年 短編集『蛇を踏む』 ※「蛇を踏む」で芥川賞(1995) 1998 年 短編集『神様』 ※紫式部文学賞、ドゥマゴ文学賞(1999) 1999 年 短編集『溺レル』 ※伊藤整文学賞、女流文学賞(2000) 2001 年 『センセイの鞄』 2006 年 『真鶴』 ※谷崎潤一郎賞 43 歳 ※芸術選奨文部科学大臣賞(2007) 2011 年 『神様 2011』 2014 年 『水声』 ※読売文学賞(2015) Ⅱ「神様」「神様 2011」について ⑴短編集『神様』 (1998 年出版)には九編の連作短編が収録されている。 『神様』は、《くま、不思議な生き物(梨の精霊?)、死んだ叔父、河童、壺に棲む霊、 雪の間だけの恋人、人魚》など不思議な存在、ちょっと風変わりな人物との交流の物語で ある。民話、伝承の世界と地続きであるかの如き物語。その全体から漂ってくるのは、「異 種交流」の不思議さと「愛情希求」の切実さ。 1 ⑵「神様」という短編小説について ・くまにさそわれて散歩に出る。 マンションに引っ越してきたときの様子。引っ越し蕎麦と葉書を配る、昔気質。名 がない。 「貴方」という言い方が好き。大時代で理屈好き。 ・散歩の時、気を配ってくれる。 ・男二人と子供のふるまい。それに対するくまの対応。 (無礼な連中にも寛容) ・突然川に入り魚をつかむ。・オレンジの皮を食べる。 (野性の発露) ・干物作りのための道具も準備おこたりなく。昼寝のタオルも。子守歌を断るとがっかり。 ・おずおずと別れの抱擁を申し出る。くまの神様のお恵みが、という祈り。 ・悪くない一日だった。 (というわたしの評価) ⑶続編「草上の昼食」について ・くまは、好意を持っているわたしに別れを告げるために、ご馳走を用意し、わたしとく まは草原へハイキングに出かける。 ・二人の会話は、 「神様」の頃よりも親密になり話題もあるが、人の社会で疎外され、馴染 み切れない、合わせきれない、くまの悲しさに、わたしは安易な応答を返せない。 ・ 「赤ピーマンのロースト」/「魚の皮」に象徴される「人の文化」と「くまの習慣」 ・くまは成長し、荒い息をはくようになっている。それをわたしの方に向けないようにし ている。 ・かみなりに、野生が呼びさまされ吠えるくま。 (こわい) ・くまからの手紙、わたしの手紙 「神様」も「草上の昼食」も、二つの異なる世界の混交・融合から出来ている。つまり、 「異類との交流」というファンタジーの世界と「隣人との交流/出会いと別れ/恋愛未満」 というリアリズムの世界。そこにマイノリティーの問題がかぶさっている。 ⑷「神様 2011」について 「神様 2011」は東北大震災、福島第一原子力発電所の事故後に、作者が「神様」を書き 直した作品。 《何処が変化しているか》 ・ 「あのこと」……原発事故を暗示 ・マンションに残っているのは三世帯だけ ・除染作業をしている人々 ・わたしたちを車がよけていくのは、防護服を着ていないからか、 ・被曝許容量とか飛散塵堆積量とか ・川原には防護服を着た二人の男以外いない。(家族連れも子供も姿を消した) ・ 「くまは、ストロンチウムにも。それからプルトニウムにも強い」という謬見。 ・ 「魚の餌になる川底の苔には、ことにセシウムがたまりやすい」 2 ・部屋の前で、 「ガイガーカウンター」で計測する。 ・抱擁を求められて、 「くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量 はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そ んなことを気にするつもりなど最初からない」。 ・日記を書いたあと、 「最後にいつものように総被爆線量を計算した。今日の推定外部被 曝線量・30μ㏜、内部被曝線量・19μ㏜。年頭から今日までの推定累積外部被曝線量・ 2900μ㏜、推定累積内部被曝線量・1780μ㏜。 」 「デビュー作を震災後の物語に――作家川上弘美さん、漂う怖さ「日常」再考」 (日本経済 新聞、2011・10・5)より 《少し言葉を変えただけなのに、作品の印象がこれほど変わってしまうのかと驚いた。 デビュー作「神様」は、くまと「わたし」が散歩に行くだけの、何も起こらない、日常 の話。私にとっては、 マイノリティーの話です。マイノリティーには悲しい話が多いけ れど、彼らだって、どっこい、前を向いて生きてるぜ、ということを描きたいと思って 当時は書きました。 「神様 2011」では、登場人物が、もっとマイノリティーになってしまったように感じた。 もちろん、彼ら登場人物と同じ立場に、自分も含めて誰もがなる可能性がある。私の暮 らす東京などは、もとの日常に戻りつつあるけれど、大震災で日本にマイノリティーと もいえる地域ができてしまったのかもしれない。そのことを忘れないようにしたい。 》 さ えこ 参考*『震災後文学論』 (木村朗子、2013) Ⅲ 『センセイの鞄』について ⑴雑誌連載から単行本へ ・ 「センセイの鞄」は『太陽』に連載された。 (1999・7~2000・12、18 回連載) ・単行本にするにあたり、リミックス(再構成)された。ファンタジーにすることをせず、 現実世界にとどめた。 ⑵谷崎潤一郎賞を受賞…選評を読んでみる ⑶川上弘美を読むための補助線 ①出発点としてのSF ②俳句 パスカル短編賞の頃に誘われて俳句の会に出るようになり、以後、小澤實主宰の『澤』 に投句、長嶋有らと俳句誌『恒信風』を。俳句暦は長い。句集『機嫌のいい犬』 (2010) 。 3 ③内田百閒 新潮文庫の『百鬼園随筆』の解説を彼女は書いている。その中から 《常識的な世界からのごく自然な逸脱。現実から遠く離れてはいないが、必ず背後に漂っ ている幻想性。直截な表現。 》 《…いつの間にか世界が迷宮、それも地べたに子供が棒の先で書いたような迷宮に成り変 わってしまったような印象の、百閒の小説世界…》 百閒を語りながら、ほとんど自分のことを、自分の小説世界を語っている。 ⑷『センセイの鞄』を分析する 一部 物語の展開 A 居酒屋から物語は始まる ①孤独……独身の中年女性、独居老人 ②酒……酔い心地の世界⇒現実(素面)と非現実(眠り・夢)とのあわい・境 ③肴(食べ物)……まぐろ納豆、蓮根のきんぴら、等々。 B センセイとツキコさんは居酒屋の常連として親しくなる(飲み仲間) ①松本春綱、先生、せんせい、でなく「センセイ」 。 ②高校時代に国語を教えてもらった。名前を憶えてない。 ③《肴の趣味の合うご老体》三十と少し離れている、気質、人との間の取り方が似て る。同じ年の友人よりも近く感じる。ツキコさん(大町月子)は三十七。 C センセイに誘われて行動をともに ①センセイの家(汽車土瓶、電池、テスター) ②八の日に立つ市 ③キノコ狩り(居酒屋の主人サトルさんに誘われてセンセイと一緒に) ④別の店(酔っ払いに絡まれる) ⑤花見(高校の前の土手で職員や同窓生で。美術の石野先生、同級生小島孝) ⑥パチンコ(小島孝とのデートの前日美容室に行こうとして) ⑦島へ(小島から旅行に誘われる。ツキコさんはセンセイに二人だけでどこかへと。 ) ⑧干潟 ⑨家(久しく会わなかったが、病気だと聞いて) ⑩デートに(電話で、待ち合わせて美術館へ、前提としたおつきあいを) ⑪水族館 ⑫ディズニーランド(年寄は涙腺がゆるいものです) ⑬センセイの家(携帯、八百屋、電話、今からいらっしゃい) D 異なる時空間へ迷い込む ・キノコ狩…仙界に迷い込んだような雰囲気。浮世離れした話。うりふたつの従兄弟。 「どうしてこんなところを歩いているのか、さっぱりわからない。 」 このまま二度と帰れないんじゃないかという気分に やたらにたくさんの生きものが自分のまわりにいて、みんなぶんぶんいって いる。 4 ・お正月……蛍光灯のガラスで足裏を切る。めまい。外を歩く。子供のように、涙が、心 ぼそくなって、 「センセイ、帰り道がわかりません」 ・花見……小島孝とワインを。不思議な時間、どこにもない時間の中に入りこんでしまっ たようだ。/先ほどの花見は、まぼろしか蜃気楼だったみたいだ。/こんなと ころでいったいわたしは何をしているのだろう/時間がするすると巻き戻るか もしれない。 ・梅雤……時間が進むにつれて、大人でなくなって。すっかり子供じみた人間に。時間と 仲よくできない質かもしれない。センセイ、これ夢ですか。 (雷鳴の中) ・島……ここはどこだろう。いったいわたしは何をしているんだろう ・干潟……ここはどこだろう。中間みたいな場所。境といいましょうか。妙なところ ☆正しい距離、正しい時間からの逸脱……恋愛 E 恋を動かすもの ・小島孝、石野先生(美術) 、センセイの死んだ妻(思い出話) ※小島孝のツキコ評・花見 ・真面目な顔して突拍子もないこと言いだすタイプ/昔からいつも茫洋としてたもんな。 心ここにあらずっていうか/確信に満ちて、逡巡する奴だったよな、大町って。 F たしなめられて、ほめられて 伊良子清白、手酌、うまそうな食べ方・行儀、酒の飲み方、言葉づかい、芭蕉、冬虫 夏草、ご挨拶(正月) 、語彙、多生の縁、おいしそうに食べる、手の甲で頬のしずくを、 だだっ子、ききわけのない、子供は妙なこと考えるんじゃありませんよ、いい胸です ね、いい子だ、ワタクシの服飾生活に文句をつけないでください、携帯電話、など G センセイとツキコさんの関係・距離 ☆河野多恵子との対談で川上弘美はつぎのように語っている。 「恋愛というよりは、のめり込まない、距離のある関係と言うんでしょうか。連載の半 ばまで、あれが恋愛になるかどうか自分でもわからなかったんですよ。」 第二部 文体の特徴 ①花鳥風月あるいは自然(風雅) ……月、星、鳥、樹木、雤、雷。自然が象徴に、意味ありげに(生きて)配されてい る。欅がざわざわ/こんなに多くの生き物にかこまれているのが不思議。/クス ノキがオイデオイデ。 等 ②世相風俗あるいは人間の行事・営み(風俗) ……旧/市、キノコ狩り、正月、花見、潮干狩り 新/汽車土瓶、テスター、豚キムチ弁当、ラジオの野球中継、ワライタケ、 ウィルキンソン社製の炭酸水、耳に三つのピアス、パチンコのラッキーチャ ンス、I♡NYのTシャツ、ディズニ-ランド、携帯電話 5 ③意外なものの取り合わせ、そこから生まれるおかしみ 俳句の要諦の一つに、二つの異質なものの取り合わせの妙がある。 センセイは自分の不安をツキコさんに告げて、こう言う。 《 「その、長年、ご婦人と実際にはいたしませんでしたので」……/「いいですよ、そん なもの。しなくて」わたしはあわてて言った。》 セックスとか性交とかいう言葉が使われず、比喩的(いたすは提喩)に示唆されて真面 目な口調で会話が続くこともおかしいが、さらに 《 「ツキコさん、体のふれあいは大切なことです。それは年齢に関係なく、非常に重要な ことなのです」昔教壇で平家物語を読み上げたときのような、毅然とした口調だ。》 まさかここで「平家物語」が出てくるとは。このイメージの飛躍はおかしい。 そして、川上弘美の文体の特徴の一つは「同じ言葉の集中的な繰り返し」にあるのだが、 ここでもこう続く。 《 「でも、できるかどうか、ワタクシには自信がない。自信がないときに行ってみて、も しできなければ、ワタクシはますます自信を失うことでしょう。それか恐ろしくて、ここ ろみることもできない」平家物語は続いた。/「まことにあいすまないことです」平家物 語をしめくくりながら、ふかぶかとセンセイは頭を下げた。 》 「センセイの人間性」×「ツキコさんの語り口調」から、上質なおかしみが生まれている。 ④繰り返しのリズム、変化を伴う ⑤同じ言葉の集中的な使用……随所に見かける ・ 《なぜ見知らぬ車に朝早くからこんなふうに乗ることになったのだか、判然としなか った。キノコ狩りというものがどういうものなのかも、判然としない。酒を飲んで いる続きのような気分である。判然としないまま、車のスピードはどんどん上がっ ていった。 》キノコ狩1 ・《「お茶、もう一杯いかがですか」わたしはいそいそと言った。/「お願いしましょ うかね」センセイが答え、わたしはいそいそにさらに輪をかけたいそいそぶりで急 須に湯を満たした。 》島へ1 ・ 《しょうがないので、わたしもてきぱきと風呂に入り、てきぱきと夕食を終え、てき ぱきとふたたび風呂に入ると、もうすることがなくなった。てきぱきと眠って、て きぱきと翌日には出立して、それでおしまいだった。》こおろぎ ⑥オノマトペ(擬音語、擬態語) ・ 《…語尾の「ですね」 「だわ」といったたぐいの音ばかりが、ぼうぼうと届いてくる。 》 ・ 《…センセイのことはあわあわと遠かった。 》花見2 ・ 《ほとほとと、扉をたたいた。 》こおろぎ ・ 《……ぽわぽわと喋った。……前提、いいですとも。わたしはぽわぽわと喋り続けた。》 公園 6 ⑦比喩 ・ 《居酒屋でセンセイに会って知らんぷりをしあうのは、帯と本がばらばらに置かれて いるようで、おさまりが悪い。 》二十二個の星 ・ 《 「さほどではないのですが」と言いながら、さほどな様子をしていた。 》キノコ狩1 ・ 《以前小さな蛙をまちがってのみこんでしまった人がそれ以来腹の底からは決して笑 えなくなってしまったような、そんなような妙につっかかった様子の笑いだった。 》 多生 ⑧引用されているもの ・伊良子清白…一章、最終章 ・芭蕉……「梅若菜毬子の宿のとろろ汁」、三章 「海くれて鴨のこゑほのかに白し」 、十三章 ・内田百閒……「素人掏摸」 、七章 ・ 『飛ぶ教室』ケストナー……「期待は厳禁」 ⑨会話の妙、諧謔性の横溢、 ・ (恋人が)二人もいると、たいへんでしょう。/二人が、まあ限度でしょう。 ・豚キムチ弁当:大きさが違う/スペシャルと普通/さしたる違いはない ・母子のサクラ/キヌガサタケはやりすぎでしょう/マイタケくらいに ・島の宿、夜中。悶々としていた。⇒「句の下五がなかなかできません」 ……何がなじょしてこうなった。 憤然として、わたしは句をつくってやった。 ・パジャマ/ワタクシの被服生活に文句をつけないでください ・センセイ、センセイが今すぐ死んじゃっても、わたし、いいんです。我慢します/今 すぐは、死にません/言葉の綾です ・携帯をめぐるやりとり/何かあったときに ⑩会話は、呼びかけ、心の中での会話へと ・ 「 」の使用が、ある瞬間に消滅する。 ・センセイの声がツキコさんの内に棲みつく 川上弘美の世界 ⑴初期作品は、異界譚、怪異譚の趣きを持つ作品が多かった。怪しさは今も健在。 ⑵恋愛を描いた作品が多い。世間的な「常識」を細やかな実感で超えていく。 ⑶ユーモア、滑稽さ、うそばなしの楽しさ。 ⑷文章は平易で、特に難しい言葉は出てこないが、微妙にずらしたような使い方が新鮮 で独特の味わいを生んでいる。 ⑸長編、短編だけでなく掌編も手がける。 7
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