書評 立花健吾・佐々木博康編 カフカ初期作品論集

書評
立花健吾・佐々木博康編
カフカ初期作品論集
中 島 邦 雄
1978年に発足した 「カフカ研究会」 は
おかしいかもしれないが、 トーマス・マ
その研究成果をすでにシンポジウム、 研
ン研究者の端くれであることを生かして、
究誌等の他、
この論集を読みながら感じたマンとカフ
と
カフカと現代日本文学
カフカと二十世紀ドイツ文学
とい
う論集の形で発表してきた。 しかし今回
カの同時代性についていくつか指摘して
みたい。
初めて、 直接カフカの作品を研究対象と
論集
に収められた9名の研究者に
する論集が発刊された。 立花健吾・佐々
よる10論文はそれぞれ個別の作品を時代
木博康編
順に扱っているのではあるが、 それらの
カフカ初期作品論集
(同学
社、 2008年) である。 研究会の活動計画
論文には、 伝記的事実等を出発点とし、
にしたがって、 今回の論集は研究対象の
対象とする作品に内向してゆく論の進め
範囲を特にカフカ文学の初期 (1904年∼
方に重きをおくものと、 逆に他の作品と
1913年) に限定している。 このことは、
の関連づけや比較を通じて外に拡がって
初期のカフカ文学の相互関連と個々の作
いくことで作品の特徴を割り出していく
品の独立した個性という二つの相を、 と
ものとの二つの方法が見られるように思
もに十分に照らし出すことを可能にし、
われる。 これは研究者の恣意によるもの
この特殊な創作期の特徴をあぶり出すこ
ではなく、 むしろ作品自体の性質に則し
とに成功している。
た研究方法であろう。 これから各論を紹
書評するにあたって、 ここで評者がカ
介するにあたってはまずこの違いにした
フカ研究家ではないことを告白しておき
がって二つのタイプに分け、 それぞれに
たい。 個々の論文において暗黙の前提と
ついて論文を取り上げたい。
して踏まえられているドイツ本国や日本
でのカフカ研究の広がりと水準について
の知識はほとんどない。
川氏は
判決
論集
まず、 比較・関連づけの方法をとる論
文について。
中で古
には 「読む者に、 自分の
論集
では6編の作品が取り扱われ
ているが、 主に1912年以降集中的に書か
居場所を見失わせ、 存在の不安を惹き起
れた
こし、 思考と再読へと促す重層的でダイ
な作品であるのに対して、 それ以前の
判決 、
火夫 、
ナミックな構造」 (175頁) があると述べ
ある戦いの記述 、
ているが、 評者は実はこの最初の 「存在
観察
変身
が本格的
田舎の婚礼準備 、
は習作とみなされ、 脱落があっ
の不安」 にかられて、 カフカ文学全般に
たり、 他の作品に取り込まれたり、 複数
ついて再読を避けてきたというのが正直
の稿が存在していたりと、 作品としての
なところである。 その代わりと言っては
完結性が比較的希薄である。 したがって
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その作品論も作品を独立して扱うという
が見られる」 ことを検証している。 また
よりも、 他の作品との関連づけや、 作品
カフカの叙述と 「徹底自然主義」 との共
内の特定の関連の抽出という方法がとら
通点と違い、 当時発明された写真との関
れている。
連について論じている。
尾張充典氏による第1章 「 ある戦い
の記述
葉
寄る辺なき恋愛と、 虚の言
」 では、 「ある戦い」 がなんであ
るかをめぐって、 草稿
の第1部と第3
個人的な感想を述べると、 カフカの作
品でも
田舎の婚礼準備
は最も不可解
な作品に感じられる。 ただただ脈絡のな
い、 目も彩な風景描写に終始していて、
部の関連付けが行われ、 それが女性との
カフカ特有の 「存在の不安」 を感じる暇
キスをめぐる 「独身者と色男の戦い」
すらない一見退屈な作品という点で、 解
(7頁) であること、 それはまた象徴的
釈を寄せ付けないところがある。
には言葉をあやつる芸術家と身体的な生
などにも共通する乾いた写実性について
を実現した者との間の戦いであり、 戦い
のこの章での説明を通して、 謎の一端が
は逆転を重ねた末に、 どちらが勝ったと
ほぐれた気がする。
もいえない 「おとしどころ」 で終わるこ
河中正彦氏の第8章 「 火夫
変身
モティー
とを明らかにしている。 「この二人は、
フと構造
覇権争いの敵同士というよりも、 むしろ、
作以後の本格的な作品 判決 と 変身
共に生の確信を得られず、 生の寄る辺な
取り上げ、 これら三つの作品を関連づけ
さへと逸脱してしまった者たちだ。」 (24
「共時的に構造化する」 (209頁) ことを
頁) この独身者 (芸術家) の、 空想によ
めざしている。 そのためメタファーとし
る色男の撃退の様相にカフカ文学の特異
ての 「火夫」、 およびそれと関連して主
なあり方を検証している。
人公や伯父の正体が明らかにされる。 火
有村隆弘氏による第2章 「 田舎の婚
礼準備
自己発見の旅
」 では、
」 は、
火夫
を中心に習
夫は究極的には芸術家であり、 「書く」
行為を象徴している。 そしてこの場合、
三稿あるこの作品の稿同士の関連づけに
芸術の解放は生の萎縮と裏腹の関係にあ
始まって、 さらに作品外部にある他の初
るとされる。 芸術に専心すればするほど、
期作品群との関連づけを通して作品の独
芸術家の生活内容は貧しくなるのである。
自性を明らかにすることを試みている。
変身
と
火夫
との構造的な関係に
実証的な研究成果をふまえることにより、
ついては、 虫となったグレゴールと 「火
大学卒業して社会人となっていく作者の
夫」 とが深層心理学的に共に 「エス」 と
習作段階において 「作品断片としての三
して捉えられること、 また、
つの作品、 ある戦いの記述
田舎の婚礼準備 、
草稿
、
ある戦いの記述
火夫
判決
と
では、 超自我―自我―エスの布
陣が、 つまり 「作品内部の人物間の同盟
には、 創作年代の経過につれて、
の組み方、 したがってカフカ内部の力動
明らかに作者カフカの心が成長する過程
の結合関係のあり方」 (249頁) が変容し
草稿
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中
島
ており、
邦
雄
火夫
を
判決
の続編とみ
顔を覗かせていたことを跡づけている。
なすことができることを明らかにしてい
本田論文同様この論文でも主人公とロシ
る。
アの友人との同一性が指摘されているが、
以上の関連づけによる、 いわば拡張を
原理とする研究に対して、
と
入される一変数の役割」 (201頁) でしか
については、 もっぱら作品内に
ないとし、 母=婚約者をめぐるエディプ
収斂してゆく、 推理小説的といってよい
ス・コンプレックスの様相を作品に見て
手法がとられている。 作品の一見ささい
いる。
変身
判決
さらに婚約者フリーダが 「母の位置に代
な、 しかしよく見るとつじつまの合わな
判決
同様
変身
も二人の論者に
い個所を取り上げ、 その矛盾を検討しな
よって論じられている。 立花健吾氏の第
がら深層にある真実へと迫ってゆくので
9章 「 変身
ある。
語源にさかのぼって 「変身」 の意味が解
本田和親氏による第6章 「 判決
作品成立の背景とその意味
降格と昇格
」 では、
きあかされ、 神話かメルヘンを思わせる
」 では、
この言葉を題名とする作品のアンチメル
カフカとフェリーチェとの出会いおよび
ヘン性が指摘され、 そもそもなぜ主人公
文通の始まりと
執筆とが同時期
が変身しなければならなかったかが明か
であることを出発点として、 作品におけ
される。 メルヘン同様この作品で生じる
る婚約者が、 カフカにとって 「書く」 こ
変身にも 「降格」 と 「昇格」 が見られる
とと同様、 孤独脱出の希望としての意味
が、 虫へと降格された主人公の昇格は、
をになっていたことを明かしている。 ま
形而上学的な形をとる。 変身した主人公
た、 落ちぶれたロシアの友人が主人公の
はほとんど何も口にしなくなる代わりに、
ドッペルゲンガーであり、 この作品を描
「未知なる糧」 を味わうことができるの
くことでカフカは、 文学に携わる 「自ら
である。 つまり、 妹の弾くヴァイオリン
の本性を具現しているロシアの友人を温
曲の美しさがわかるようになり、 また変
存させ、 やむを得ず世界に順応している
身以後の自分への家族の扱いを通して、
いま一人の分身であるゲオルグ・ベンデ
それまで気がつかなかった真の現実を認
マンの方だけを断罪する手法を手に入れ
識する。 変身はしたがって、 「物語のテー
た」 (171頁) との結論を導いている。
マ」 である 「真のコミュニケーションの
判決
古川昌文氏の第7章 「 判決
一つのストーリー
」 も
判決
もう
欠如や人間としての共同意識の不可能性
を取
と、 家族関係の真の姿」 を 「明示」 する
り上げているが、 主人公が思い込んでい
ために起こったのである (273頁)。
る日常とは異なるもう一つの世界が、 突
佐々木博康氏による第10章 「 変身
然ベッドから立ち上がって息子を怒鳴る
生の権力性
」 では、 主人公の職
父親によって立ち現れる以前に、 それま
業であるセールスマンが 「資本主義的競
でのストーリーのなかにすでに準備され、
争社会の矛盾の最前線にいる存在」 であ
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立花健吾・佐々木博康編 カフカ初期作品論集
り、 資本主義の特徴は依存の体系という
カに影響を与えたことが指摘されている
点にあることがカフカ自身の言葉を引用
が (223頁以下)、 マンとカフカの場合に
して指摘されている。 そして、 「依存の
はさらに個人的な共通性がみられる。 一
体系としての世界とは、 換言すれば、 人
つは、 青年期における性的関心が卑近で
間同士が権力的な階層関係で隙間なくつ
生々しく、 芸術に完全に昇華しきれてい
ながっている世界」 (283頁) であるとい
ないように思われる点である。 しかしそ
う事実を、 主人公の家にやってきた社長
れによって作品からは青年期の赤裸々な
の官僚主義的な物言いや主人公への家族
現実が透けて見える。 尾張論文で紹介さ
の接し方の変化の分析を通じて明らかに
れる 「独身者と色男の戦い」 では、 たか
している。 生活していくためには誰もが
がキスくらいのことで主人公は必死で空
組み込まれざるをえないこの権力的な生
想の世界で相手をやっつけようとする。
への強い嫌悪が 「具体的な形態において
その様子は確かにカフカ的であるが、 し
実現したのが」 (287頁)、 主人公の変身
かし同時に滑稽であり、 また卑俗なまで
する、 現実を拒否する固い殻をもった虫
にリアルである。 なぜなら、 こうした空
の姿である。
想による代償行為は誰にも身に覚えがあ
さて、 このように見てくるならば、 カ
りながら認めたがらないものであるが、
フカの初期作品では、 ものを 「書く」 芸
その空想が具体的に克明に描かれるから
術家と現実あるいは生との葛藤が重要な
である。 一方、 例えばマンの初期短編
テーマとなっていることが分かる。 しか
し、 これは他でもない
ゲル
道化者
の主人公は金持ちの少女から
トニオ・クレー
さげすむようにじろじろ眺められて性的
の悩みではないだろうか。 とする
屈辱を感じ、 自殺においこまれる。 結末
と、 カフカとマンは同じ状況を悩んでい
に至るその非論理性は驚くばかりだが、
たといえよう。 それぞれの根源が父親コ
そこには誰もが秘している性的・私的領
ンプレックスとホモ・エローティクにあ
域に侵入する生々しいエロスがあり、 特
る点で両者の文学の質は自ずと異なって
に思春期の人間にはひと事ではないだろ
はいるが、 しかし資本主義の発達におけ
う。 カフカの場合もマンの場合も、 青年
るほぼ同時代の現実に直面する文学の反
期に特殊ではあっても、 こうした個人的
応として見るならば、 この共通性は当然
現実との文学上の愚直な格闘があってこ
ともいえよう。 むしろ両者は当時の作家
そ、 その後の本格的な作品で時代一般の
たちのなかで産業的な時代状況の核心に
現実に潜む権力性の核心に迫ることが可
迫っている点で際立っているのである。
能となったのではないか。
同時代性に基づく問題意識の共有はも
さらにマンとカフカに共通するのは、
ちろんマン以外にも見られ、 河中論文で
芸術と生との葛藤における下降と上昇と
は、 ホーフマンスタールが芸術家の置か
いう図式である。
れた状況を 「火夫」 に例えた文章がカフ
カの初期の本格的な作品に対応するのは、
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判決
に始まるカフ
中
島
邦
雄
その10年余り前に書かれたマンの長編
ブッデンブローク家の人々
であろう。
周知のようにこの作品でも芸術家と市民、
について考察されてはいるが、 特に文体
的な問題を集中的に論じているのは、
観察
精神と生の対立がテーマとなっているが、
を扱った三つの章である。
野口広明氏による第3章 「 観察
二人の対応関係はさらに深いところにお
無との出会い
よんでいる。 一つは、 立花論文で指摘さ
ぐる、 ムージル等によるカフカ生前の批
れている
評とエムリヒ等による第二次大戦後の解
変身
における主人公の人間
から動物への降格と精神的上昇とが、
ブッデンブローク家の人々
」 では、
観察
をめ
釈が比較され、 「カフカ生前の書評にあっ
では商売
た感動、 新たな散文形式の誕生を告知す
の不振による商会の没落と、 芸術的才能
るような感動は伝わってこない」 (90頁)
の開花としての精神的上昇として描かれ
ことに注意を促している。 また、 疑似論
ている点である。 さらにまた、 佐々木論
理的な構成等、
文が
いくつか挙げた上で、 それに関するグリ
変身
で特徴づけている資本主義
社会における生の権力性も、
観察
の形式的特徴を
ブッデン
ンツの解釈を支持している。 グリンツに
でもカフカほど明示
よればカフカの作品では二つの読解可能
的ではないが描かれている。 「むごいこ
性が意図されており、 その両者のどちら
とをして、 むごいことをされて、 それを
にも決定できない弁証法的な仕掛けが施
むごいことと感じなくて、 当然のように
されている。 こうした特徴を持つ新しい
感じる」 とトーマス・ブッデンブローク
散文形式への賛嘆がカフカと同時代の批
が感想を述べる資本主義化しつつある商
評に反映していると考えられる。
ブローク家の人々
人社会や、 ハンノ・ブッデンブロークが
西嶋義憲氏による第4章 「 木々
学校で苦しむ、 教師間や教師と生徒間の
テクストの多層性」 と第5章 「 国道の
権力的な依存関係にもとづく 「滑稽と悲
子供たち
惨」 の世界である。 佐々木論文の指摘す
中の二つの小品をテクスト言語学的に論
る生の権力性の象徴である 「歯」 (297頁)
じたものである。
もまた、 権力闘争から脱落するトーマス
「雪の中の木の幹」 にはこれまで対立す
やハンノの脆い 「歯」 のライト・モティー
る二つの解釈があった。 木の幹が大地に
フとなって現れている。
根を張って 「立っている」 のか、 それと
対話分析
木々
」 は
観察
で描かれる
以上は同時代性に基づくテーマの共通
も木材として 「横たわっている」 のかの
性について気づいたことを述べたが、 作
違いである。 どちらが妥当であるか判定
品の形式や構造においては、 カフカがマ
するために、 まず語義特定の作業がなさ
ンとは全く異なった個性を見せているこ
れる。
とは言うまでもない。 これまでに紹介し
のもつ水平的な意味にこだわるかどうか
た論文でもカフカに見られる写実性とメ
で 「強いテーゼ」 と 「弱いテーゼ」 に分
タファーとの関係、 深層心理学的構造等
類され、 さらに 「木の幹」 が立木か、 そ
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の動詞部分
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立花健吾・佐々木博康編 カフカ初期作品論集
れとも木材かに応じて計4つの場合につ
いるような言語学的・構造主義的分析が
いて検討される。 結果は 「横たわる」 と
有効性を発揮するドイツの作家というの
いう水平的な意味にこだわる必要はなく、
は、 あまりいない気がする。 それだけカ
根を張って 「立っている」 と解するのが
フカ文学の奥行きが広いということだろ
一番妥当だろうとの見解である。 そして
うか。
この成果を踏まえて、 作品全体を解釈す
観察
についてのカフカ生前の批評
るために必要と考えられる 「作品を構成
と戦後の批評を比較して野口論文で言わ
する言語構造全体」 (119頁) のうちから、
れる 「 観察 出版の時期に、 一定の人々
語義の層に続いてテクストの相互行為レ
に共有されていたある種の感性が、 第二
ベルにおける論弁性が分析され、 結論と
次世界大戦を隔てた世代には、 近づきが
してカフカ作品の文体的特徴が 「テクス
たいものとなった」 (87頁) という感想
トの意味論レベルと相互行為レベルの結
には考えさせられるものがあった。 この
束性の度合いのズレがもたらす
変化はおそらく、 グローバル化する資本
歪み 」
(123頁) にあることを指摘している。
国道の子供たち
主義の発展とそれにともなう権力構造の
についても同じ手
精緻化によって、 未来さえも金融の国際
法が用いられ、 同じ文体論的特徴を見出
化等を通じて現在に取り込まれるなかで、
している。 意味論レベルではテクスト表
いわば存在と所有の領域がどんどん拡大
層上でのテーマの転換、 相互行為レベル
し、 その分余暇と遊びの領域が縮小して
では
に導かれる対
いることと無縁ではないように思われる。
話の反復等が論じられるが、 後者の
現在のわれわれにはホーフマンスタール
による二回の理由提示には因果関
やカフカの時代にはまだあった、 存在か
係において質的な違いがあることが明ら
ら自由な空間がなくなってしまったので
かにされている。
はないか。 否定性を媒介として 「生の権
と
評者はテクスト言語学的解釈になじみ
力性」 を無化してしまうカフカ文学には、
が薄く、 上述した要約に齟齬がないか危
しかしこの閉塞状況を打開する力が秘め
惧しているが、 この二つの章を読むこと
られているかもしれない。
で 「テクスト内言語相互行為」 の意味や
その利用価値と有効性について納得する
ことができた。
作家それぞれによって、 作品を論じる
にはその個性に適した方法があろう。
「まえがき」 にあるようにこの
論集
では 「伝記的、 作品内在的、 精神分析学
的、 言語学的といったさまざまな方法」
が用いられているが、 西嶋論文が行って
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